428911 戦後憲法の制定過程について(一)経過

 (最新見直し2006.9.23日)

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 (れんだいこのショートメッセージ)
 2002年、小泉政権の下で、軍事、メディア規制、民間総動員を策する諸法案が目白押しに上程された。万一これが立法されると実質的な改憲になるであろう。既に戦後憲法の形骸化は甚だしいが、今や換骨奪胎によって「自主憲法」が制定される勢いだ。これに手をこまねいて良い訳が無い。しかし、何をどう闘うのかに正確を期す為にも、まずもって「戦後憲法」が何たるものかを本章で検証しておこくことにする。

 2003.10.10日、小泉政権下初の衆院解散が行われ、「10月28日公示、11月9日投票」の第43回総選挙が行われることになった。「憲法改正、自衛隊の軍事的海外派兵」が堂々と公約にされる時代になった。隔世の感があるがこれも良し、逆手にとって憲法原理を称賛する一助にしたいと思う。

 2003.10.12日再編集 れんだいこ拝


【帝国憲法改正の動き1、GHQの要請】
 戦後憲法の制定過程は、以上概括したGHQ権力の要請から始まる。この要請は、ポツダム宣言及び降伏文書に掲げられた条項の履行による日本改造計画の指示に合致していた。まずは日本人自身により憲法が生み出されるよう指示され、政府草案、民間草案、政党草案が急遽作成されていった。GHQ権力については、「1945年終戦直後の動き」で考察する。

(私論.私見) 「戦後憲法の制定始動はGHQ」について

 「戦後憲法の制定始動はGHQ」は疑いないところのように思われる。問題は、日本人民大衆の側からの「戦後憲法の制定始動」が為されなかったかである。れんだいこが推測するのに、当時の有識者の頭脳には、帝国憲法の部分的改良の必要程度は映じていたが、帝国憲法に代わる新憲法制定に動くなどという発想そりものが欠損していたのではなかろうか。しかしてこれは、法には平伏(ひれふ)すもので、これを創るなどという見識には思い至らない伝統的情緒性に拠っていたのではなかろうか。

 2005.5.4日 れんだいこ拝


【帝国憲法改正の動き2、東久邇宮内閣の逡巡対応】
 1945.8.14日、鈴木貫太郎内閣が辞職し、8.17日、皇族の東久邇宮稔彦内閣が組閣された。GHQは当初より民主憲法の制定に早急に着手するようにとの指示を為していたが、東久邇内閣は、憲法の改正の必要は夢思わず、明治憲法と五箇条のご誓文の運営を民主化していけば、ポツダム宣言の履行には何ら支障をきたさないとの見通しに立っていた。当時の常識として明治憲法は欽定憲法であり「不磨の大典」であると思い込んでいたので改正は思いつきもしなかったようである。

【帝国憲法改正の動き3、マッカーサー元帥が近衛国務大臣へ改憲指令】
 10.4日、東久邇内閣瓦解の前日、マッカーサー元帥は近衛国務大臣を呼びつけ、日本国憲法の民主主義化、開明的な憲法草案作成を要請している。元帥は、サザランド参謀長を随えて会見に応じ、次のように述べた。
 概要「今日は決定的なことを近衛公に申し上げる。憲法は改正を要する。改正して自由主義的要素を十分取り入れなければならない。あなたが自由主義者を集めて帝国憲法を改正すべきである。この改正は、できる限り急速に成し遂げられなければならない。世界を知り、コスモポリタン(世界主義者)な近衛公の国家に対する唯一のサービスである。その案を近衛公は新聞に発表しなさい」。

 近衛公は、マ元帥の政治顧問アチソンにも面会して、元帥発言の確認と憲法改正のアドバイスを求めている。近衛公は元帥の指示を受けると、自ら内大臣府御用係りとなり、幣原内閣に入閣せぬまま、箱根の山荘にこもって憲法改正草案の起草に没頭した。

【東久邇内閣瓦解し、幣原内閣誕生】
 結局、東久邇宮内閣のこの限界がGHQの指示と衝突することになり、50余日で総辞職となった。その後を受け、10.9日、幣原喜重郎内閣(45.10.9〜46.4)が成立した。この当時はまだ選挙の洗礼を受けない「超然内閣」であった。この首相交代劇について、マッカーサーは、「天皇は、東久邇首相と叔父・甥の親族関係は占領軍が行ういろいろな改革に有害だと感ぜられ、首相は日本で最も尊敬され、且つ経験豊かな外交官の一人である幣原男爵と交代した」と述べ、天皇の気持ちを利用する形で歓迎している。

【帝国憲法改正の動き4、幣原内閣の前向き対応】
 マッカーサーは就任早々の幣原首相に対して憲法改正に着手するよう示唆している。10.11日、幣原首相が就任挨拶で元帥を訪問した際に憲法改正の必要を指摘され、幣原内閣はこれを受けて、政府作成の新憲法草案づくりを急ぐことになった。

 マッカーサーは、この経過について、「回顧録」の中で次のように述べている。
 概要「降伏後、私はまず日本側指導者に告げたことの一つは、明治憲法を改正してほしいということだった。だが、私はアメリカ製の日本憲法を作って押し付けるという方法は採用しなかった」
 
 つまり、押し付けるのではなく、自力の草案づくりに配慮していたということであろう。

 幣原内閣時に「五大改革要求」が掲げられた。「五大改革」とは、1.参政権の賦与による婦人の解放、2.労働組合の組織奨励労働者の団結権の保障、3.圧制的司法制度の廃止、4.教育の自由主義化、5.経済の民主化、独占産業支配の是正であった。当然新憲法に反映されることが期待されていた。

【帝国憲法改正の動き5ー1、政府の新憲法草案づくり始まる】
 1945.10.13日、政府は、松本蒸治国務相を憲法専任大臣として、憲法改正に関する研究を開始することを決定した。この時点で、近衛公らによる憲法草案起草も為されていたので遣り取りが為された結果、10.24日、近衛公は松本国務大臣と会見後、「内府案を政府に押し付けるの考えは全くない」と声明している。松本蒸治氏の履歴は次の通り。当時68歳前後、明治33年、東大法科卒業後、農商務省の参事官を経て、東大助教授、教授となる。教授を退官後、満鉄副社長、法制局長官、商工大臣を歴任。商法の大家であり、わが国法曹界の元老であるが、平素は、洒脱な人柄で知られていた。(「日本の戦後.上」63P)。

 10.25日、松本を委員長とする「憲法問題調査会」が設置された。顧問として東京大学名誉教授・野村惇治、同美濃部達吉、貴族院書記官長・小林次郎、法制局長官・楢橋渡。審議委員は、東京大学教授・宮沢俊義、九州大学教授・河村又介、慶応大学医学部名誉教授.松本氏秘書官三辺謙由らが名を列ねている。

 
 10.27日、初めての会議が開かれ、その後翌46年2.2日まで7回の総会、15回の調査会の都合22回にわたって頻繁に討議が重ねられた。但し、この作業はGHQにも国民にも明らかにせぬまま進められた。
 

 三ヶ月の作業をかけて作成された松本案は、天皇の統治権を温存しようとした旧態依然たるもので、起草委員の考え方は、美濃部博士の次のような考えに象徴されていた。10.22-24日、美濃部博士は朝日新聞紙上で改憲不要論を発表した。「不磨の大典」観による改憲不要論が表明され、明治憲法を最大限民主主義的に解釈すれば足りるとしていた。
 概要「日本の憲法は明治憲法で充分であり、何の変更も必要ない。ただ軍部と右翼政治家がその運用を誤っただけであるから、正しく運用すれば、日本の発展に役立つ『不磨の大典』である」。

 こういう連中の手になる政府系憲法草案が碌なものにしかならないのは自明であろう。GHQは満足しなかった。その理由を探るのも一興であるがここではこれ以上触れない。

【帝国憲法改正の動き5ー2、学者、政党による民間側の新憲法草案論議】
 政府系の御用的動きに対して、民間からも自主的に提言が為されていった。大内兵衛、鈴木安蔵、高野岩三郎、杉森孝次郎、森戸辰男、室伏高信、岩淵辰雄、鈴木安蔵、鈴木義男.今中次麿.有竹修二.木村ネ喜八郎ら当時の錚々たるメンバーが共和制論議も含めて論を開陳し合っている。共産党も「新憲法の骨子」を発表し、続いて自由党案、進歩党案、社会党案も出されている。この動きを見ておく。

 10.16−18日、鈴木安蔵が東京新聞紙上で憲法改正について言及していた。但し、憲法の部分的修正を説くにとどまっていた。


 11.1日、GHQは、談話を発表して「近衛公の憲法改正に関する行動は単に天皇と近衛公の個人的関係であって、司令部の関知するところではない」と近衛公の公的役割を完全否定した。その結果、近衛内府の憲法草案は遂に発表されぬまま葬り去られた。近衛は、同年末、悲劇的な死を遂げる。

 11.4日から読売放置新聞紙上で、「民主主義への途」と題する座談会が開かれ、席上徳川義親が概要「8.15日で古いものは滅びた。今更憲法改正でもなかろう。新しい憲法が制定されねばならないのぢゃないか」と述べていることが注目される。憲法研究会では、その後共和制論議が展開されていくことになった。

 11.5日、民間のうごきとして第一回憲法研究会開催。高野岩三郎、杉森孝次郎、森戸辰男、室伏高信、岩淵辰雄、鈴木安蔵。鈴木安蔵を事務局長格とした。順次鈴木義男.今中次麿.有竹修二.木村ネ喜八郎らが参加してくることになった。大内兵衛の影響が認められた。

【帝国憲法改正の動き5ー3、日共の試案「新憲法の骨子」が発表される
 1945.11.10日、共産党は、「新憲法の骨子」を発表した。1・主権在民(「主権は人民にある」)、2・18歳以上の普通選挙権、3・責任内閣制(「民主議会は政府を構成する人々を選挙する民主議会は主権を管理する」)、4・人民の政府、5・議会に対する人民の監視.批判権、6・人民の権益保証、7・階級的並びに民族的差別廃止が主張されていたが、骨子に過ぎなかった。どうやら、新憲法制定は人民共和政府の樹立後に本格的に着手すれば良いと考えていた風がみられた。

【帝国憲法改正への動き6ー1、国会での新憲法草案論議始まる】
 1945.11.26日、第89帝国議会が開かれ、本会議及び各種委員会において憲法論議が戦わされた。調査会答申が出されていない手探りの段階の議論であったが、大枠をめぐって活発に議論された。

 12.8日、衆議院予算委員会質疑で、憲法改正の進捗状況を尋ねられた松本委員長は、「自分一個の大体の構想だが」の前置きで大枠明治憲法の改良版的な「松本四原則」を答弁している。憲法改正4原則とは、1・天皇の統治権総覧の大原則は不変、2・議会権限の拡大、3・国務大臣の国政全般及び議会に対する連帯責任、4・臣民の権利、自由の確立を指し示した。

【帝国憲法改正への動き6ー2、憲法研究会が憲法草案要綱を発表、高野案がこれに続く】
 1945.12.27日、鈴木安蔵らの憲法研究会が「憲法草案要綱」を発表。署名者は第一回参加者(鈴木安蔵、高野岩三郎、森戸辰男、室伏高信ら)に馬場恒吾が加わり7名になった。要項には、根本原則の冒頭で「日本国の統治権は日本国民より発す」とするなどリベラルな内容が盛り込まれていた。代表を通じて、首相及びGHQに提出された。要点として、1・天皇は国政を親らせず、国政の一切の最高責任者は内閣とす。2・天皇は国民の委任により、専ら国家的儀礼を司る。3・国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す。

 12.27日、イギリスの「タイムス」が社説で次のように述べている。
 概要「日本における教会と国家は、日本人は天皇制を永久に破壊するに足るだけにラディカルな革命無しに、彼らの危険なイデオロギーから解放される ことは出来ないであろう」
 
 12.28日、高野岩三郎が改正憲法私案要綱を発表。高野案は共和制を目指していた。こうして私案も含め憲法論議が活発化していくことになった。最大の懸案は天皇制 をどうするかであった。

【帝国憲法改正の動き7ー1、各政党の構想案が出尽くし、新憲法論議活発化する 】
 翌1946.1月以降、各政党の構想案が出尽くし憲法学者の私案も含め憲法論議が活発化していくことになった。漸く松本憲法改正草案が定まり、2.4日、幣原内閣はこれを閣議了承、2.7日、松本国務相が天皇に奏上した。

 1.21日、自由党草案「憲法改正要綱」が発表された。要点として、1・統治権ノ主体ハ日本国家ナリ、2・天皇ハ統治権ノ総攬者(そうらんしゃ)ナリ、3・天皇ハ万世一系ナリを骨子としており、明治憲法と大筋変わらない内容となっていた。

 2.14日、進歩党草案
「憲法改正案要綱」を発表。要点として、1・天皇ハ臣民ノ捕翼ニ依リ憲法の条規ニ従ヒ統治権ヲ行フ、2・立法ハ帝国議会ノ協賛ニ由リ、行政ハ内閣ノ補弼ヲ要シ、司法ハ裁判所ニ之ヲ託スを骨子としていた。天皇主権を前提としていた。

 2.23日、社会党草案「新憲法要綱」が発表された。
要点として、1・主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り、2・統治権は之を分割し、主要部を議会に、一部を天皇に帰属(天皇大権大幅制限)せしめ、天皇を存置すを骨子としていた。天皇と議会による主権ニ分割案となっていた。

【帝国憲法改正の動き7ー2、政府試案を毎日新聞がスクープする 】
 松本試案は秘密裏的に作成されていたが、2.1日、毎日新聞(西川柳造記者)がこれをスクープした。これによって政府の試案「憲法問題調査委員会案」は骨格が「天皇の統治権には一指も触れさせぬという」旧憲法的であり、替わり映えのしないものであることが判明した。「国務相や楢橋書記官長は、スクープされた内容は、『多くの参考資料の中の一案に過ぎない』などと釈明に努めたが、天皇の地位と権力を帝国憲法のままに残そうという政府の意図は隠すべくもなかった」とある。

 各政党は次のように批判している。社会党・水谷長三郎「従来と同原則を持って天皇の地位を示している。根本的にこの試案に反対する」。共産党・志賀義雄「天皇は依然として主権の一切を掌握している。かくの如きは民主主義的再建を妨害するもの」。自由党・北れい吉「一向に進歩的なところがない」。

 「この毎日新聞のスクープは、松本委員会の作業をジリジリする気持ちで注視していた総司令部に、自ら改正作業に乗り出させるはずみをつけることになった」(毎日新聞)とある。
(私論.私見) 「毎日新聞西川記者スクープ」について

 「毎日新聞西川記者スクープ」は、新聞記者のスクープが大いなる影響を与えた事例である。この意味はもっと議論されても良いように思われる。戦後の一時期において、こういう社会的ルネサンスの気風が有ったということではなかろうか。今日は全く逆に、新聞社の方から情報規制を求めたり、官邸広報のプロパガンダ機関に堕しており、隔世の感がある。
 2005.5.4日 れんだいこ拝

帝国憲法改正の動き7ー3、GHQが政府原案に失望する
 GHQは、政府草案を見て大きく失望した。民政局(GS)ホイットニー局長は、この改正案に対し、「極めて保守的な性格のものであり、天皇の地位に対して実質的変更を加えてはいません」と批判した上で、概要「憲法改正案が正式に提出される前に指針を与える方が賢明ではなかろうか。我々の受け容れがたい案を彼らが決定してしまって、それを提出するまで待った後、新規巻き直しに再出発するよりも、戦術として優れている」との意見をマッカーサー総司令官に述べた。こうして松本試案はデッド.ロックに乗り上げることになり、GHQ自身の手で草案作成に着手していくことになった。

 GHQは、政府案のみならず民間案に対しても物足りなかった。何故に歓心を得なかったのか、ここがポイントとなる。政府案は著しく保守的であり過ぎ論外であったとしても、民間の数々の草案も又政府案よりはましだというものの似たり寄ったりの域を出ていなかった。ここを踏まえる必要がある。では、どこが不十分であったのか、このことが追って見えてくる。

【帝国憲法改正の動き8ー1、GHQがマッカーサー元帥指示に基づき新憲法草案作成に向う
 1946.2.3日、マッカーサー元帥は、民政局ホイットニー局長に指示を与え、急遽民政局メンバー20人の下書き作成により草案が作成されこれが討議されるという経過となった。ケーディス陸軍大佐を委員長とする運営委員会がつくられ、分野ごとの小委員会と合同会議を積み重ねることとした。以下、詳細は「戦後憲法の制定過程について(ニ)GHQ案の検証」に記し、ここでは概括する。

 この時マッカーサーは、「三項目の必須条件」を指示していた。「三項目の必須条件」とは、1.天皇が国家元首であること、但し立憲的制約の中に置くこと、2.自衛権も含む戦争の放棄、3.封建制度の廃止であった。この「マッカーサー・ノート」を受け、2.4日から12日まで夜を日についで二週間で草案化に漕ぎ着けた。ジョージ.アチソン、ホイットニー、ケーディス、日本側からは内閣法制局長官入江俊郎、佐藤達夫同局部長らが喧喧諤諤しつつ詰めていったと伝えられている。2.12日、マッカーサー司令官の承認を得て確定された。

 この新憲法作成に関与したケーディス大佐は、後日次のように述懐している。
 「アメリカになくて日本だけが持っているもの、それはあのすぐれた世界に冠たる平和憲法です。私は自由で民主主義の全ての機能を包含している日本の憲法の作成に関与したことを、生涯の誇りにしています」。

 つまり、本国アメリカの憲法よりも、恐らくソ連のそれよりももっと最新の「平和的民主的人権保障的新憲法」として誇りを持って作成されたということであろう。

【帝国憲法改正の動き9ー1、GHQ草案開陳される】
 1946.2.13日、「GHQ」によって纏められた新憲法草案が政府当局者に開陳されることになった。日本側は憲法問題調査委員会委員長松本国務大臣、吉田茂外務大臣、終戦連絡事務局の次長白州次郎の3名に通訳長谷川元吉、「GHQ」側は民政局ホイットニー局長、同次長ケーディス、ダウェルら4名が一同に会した。「最大のヤマは、---そう、2.13日---吉田外相が住んでいた外務省の官邸での会合でした」とケーディス大佐に回顧されている秘密会談が持たれた。

 お互いの憲法草案を見せ合い議論する場となっていたが、実際には「GHQ」草案が松本.吉田の目の前に置かれ目を通すよう指示された。「総司令部でモデル案をつくった。これを渡すから、その案に基づいた日本案を急いで起草してもらいたい。暫く庭を散歩してくるから、その間に案文を読むように」。草案は今日の憲法にある通りの大変革的な内容になっていた。「天皇象徴制」、「戦争廃止.武力使用の放棄」、「一院制議会」と記されており、松本と吉田の二人は目を見合わせて白黒させたと伝えられている。あまりにも急進的な国情に合わぬ未だかってみたことのない条項案が連ねられていたからであった。


 ホイットニー局長は次のように申し渡した。
 「マッカーサー元帥はこの程度以下の案はいかなるものも全然考慮に入れない。この草案の精神に反せぬ限りのささいな修正には応ずるであろう」。
 「この草案の諸規定が受け入れられるならば、天皇は安泰になるだろう」。

【帝国憲法改正の動き9ー2、GHQ草案の新憲法化】
 こうした経過を経て、「GHQ」草案が下敷きの新憲法作成が急がれていくことになった。実際には翻訳であったと思われる。この経過で、「GHQ」による「天皇の身柄を人質に取った強制」があったのか、あくまで「日本側の賛同した自発的意思」が伴っていたものなのか今日でも定かではない。はっきりしていることは、新憲法の理想的精神について、幣原首相とマッカーサー元帥との間で白熱共鳴のやり取りが為されている史実があることは確かである。

 但し、第9条の「武装放棄」については、幣原はマッカーサー元帥に、マッカーサー元帥は幣原の発案としてお互いが譲り合っている。「羽室メモ」は、次のように証言している。
 概要「幣原はさらに、世界の信用をなくした日本にとって、二度と戦争は起こさないということをハッキリと世界に声明することが、ただそれだけが敗戦国日本の信用を勝ち得る唯一の堂々の道ではなかろうかというようなことを話して、二人は大いに共鳴した」。

 幣原首相は次のように述べたと伝えられている。
 「中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思う」。
 「旧軍部がいつの日か再び権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、又日本は再び戦争を起こす意思は絶対無いことを世界に納得させるという、ニ重の目的が達せられる」。

 新憲法の「押し付け」問題については、「戦後憲法の制定過程について(ニ)GHQ案の検証」でコメントする。
(私論.私見) 「新憲法の理想主義」について

 憲法前文及び第9条の「武装放棄」について現実乖離の理想主義が刻印されていることは事実であり、こうした理想主義条項が憲法条項に馴染むものかどうか議論の余地がある。とはいえ、新憲法は、白昼夢として現にこれを成分化するという前例のない栄誉を担った。背景にあったのは史上未曾有規模の第二次世界大戦のもたらした荒廃であり、原子爆弾が保有され人類絶滅の危機が現実となったという歴史の歩みである。こうなると、これを非現実的理想主義とみなすか現実的理想主義として受け止めるのかは受け止め側の姿勢かも知れない。

 2005.5.4日再編集 れんだいこ拝

(私論.私見) 新憲法の「特定価値観の成文条項化」について

 今日、新憲法9条の「自衛戦争も兵力保持も禁じた絶対平和主義条項」の成文化について、長谷部恭男東大教授により「立憲主義と矛盾する」との指摘が為されている。「立憲主義」は、多様な価値観を持つ人が共存できる社会作りのルールであるべきだが、絶対平和主義がこれに抵触しているのではないかとの見方が喧伝されつつある。絶対平和主義が、有効性を無視して、攻められても戦わないという生き方の価値観を押し付けるものとすれば、「公共空間を特定の価値観で占拠」するものではないかとの疑義が為されている。

 (れんだいこコメント)

 これをどうみなすべきだろうか。れんだいこが思うに、こうした論を徹底すれば、多様な価値観の折衷こそが相応しい条項であるということになるであろう。しかし、多様な価値観の折衷とは一体如何なる面貌になるのだろう。私には机上の形而上的空論としか思えない。むしろ、歴史のセンテンスで有効な内容が逐一的に条項化されるのが常の世であり、新憲法制定化当時「9条規定」は有効な生きた条項であったのであり、現在護持されるべきか修正されるべきかが問われているのは事実では有るが、いささかも形而上学的な形式論理には馴染まないと応戦したい。

 2005.5.4日再編集 れんだいこ拝 

(私論.私観) 新憲法の原案が有りやなしやについて

 「新憲法の草案作業が、2.4日から12日まで夜を日についで二週間ですっかりかたづいた。ジョージ.アチソン、ホイットニー、ケーディス、日本側からは内閣法制局長官入江俊郎、佐藤達夫同局部長らが喧喧諤諤しつつ詰めていったと伝えられている」が、本当にそうだろうか。出来具合から見て、かなり用意周到に事前に原案作りが為されていたのではなかろうか。これはそう思うというだけで裏づけが無いが、この観点から考究してみたい面もある。


 付言すれば、『占領軍民政局の21人(憲法の専門家1人もいない)のアメリカ人が、英文でたった1週間でアメリカ、ソ連憲法を適当につぎはぎして作ったものです』は、精査されていない雑な見方であろう。事実は、戦後日本のアメリカ側への取り込み策としてよほど用意周到に草案が練られ、ソ連憲法にも増して優位な民主主義憲法を生み出す必要があった、と見なすほうが正確なのではなかろうか。
(私論.私観)新憲法を貫く理念の系譜について

 日本国憲法の下敷きとして、@・アメリカ合衆国憲法、A・フランス人権宣言、B・ドイツ・ワイマール憲法、C・不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)、D・ソ連国憲法等々が参考にされている。してみれば、歴史的「民主憲法」の精華が結実したのが日本国憲法であるということになる。

【帝国憲法改正の動き10、政府草案が閣議決定、発表される 】
 1946.2.26日、「GHQ草案」を基礎として憲法改正を行うことを閣議で決め、3.4日、日本側修正案を示して折衝に入り、3.6日、成案を得て閣議決定後、天皇の勅語及び首相談話と共に「憲法改正草案要綱」として発表された。

 新聞各紙の論調を見ておく。好評価組は次の通リ。
3.7日付け朝日新聞 「画期的な平和憲法」
3.8日付け毎日新聞 「憲法草案と世界平和」
3.8日付け日本経済新聞 「民主主義平和国家の構想」

 これに対し、3.8日付け東京新聞は、「政府の憲法改正草案要綱なる」)の客観記述に終始しており、読売報知新聞は、「人民憲法の制定」として危惧する立場から報道している。内閣書記官長の樽橋渡は、「自由党、社会党双方の度肝を抜く草案だ。共産党より右で社会党より左だよ」というコメントを残している。

 この時、後に社会党初の首相となる片山哲の受け止め方はこうであった。

 「この草案は勿論、ポツダム宣言に基づいているものだが、これを受け取った幣原内閣としては、非常に進歩的な憲法草案を押し付けられたので、すっかりびっくりしてしまった。国民は、ちっとも押し付けられていないのみならず、願ったりかなったりの事項がたくさん盛り込まれているので、これこそ求めつつある天の声なり、福音なりと喜んだのである」(回顧と展望)。片山氏の受け止め方の方が素直ではなかろうか。

 片山氏の受け止め方の方が素直ではなかろうか。

 他方、守旧派は、この時の気持ちを次のように記している。
 「(3.3日)かくのごとくしてこの敗戦最露出の憲法草案は生まる。『今に見ていろ』という気持ち押さえきれず。ひそかに涙す」(白州次郎) 

【帝国憲法改正の動き11ー1、新憲法法文化される 】

 憲法制定の流れは第一次吉田内閣に引き継がれた。首相となった吉田は、マッカーサーと緊密に連絡をとりながら憲法改正案(新憲法)の起草を急いだ。この時吉田首相は、国体護持を最優先の選択基準として、予想されるソ連の参入の煩わしさを思えば、「アメリカの保護」の下に制定を急ぐべきだとする政治的判断を働かせていたようにも思われる。

 3.6日、憲法改正草案要綱が公表された。天皇の承認の下、日本政府が作成した草案の形式を取るよう念押しされていた。

 但し、この時点では明治憲法流の文語体であったので、山本有三(作家、当時貴族院議員)、横田喜三郎(当時東大教授)など「国民の口語運動連盟」の代表が建白書を提出し、松本国務相が閣議にはかって口語化のスタートを切った。法制局長官入江俊郎文書には、「余は4.2日の夜遅くまで自分だけの口語をつくった」とある。この「入江私案」がほぼそのまま素案となり、あとは細かい字句の修正で戦後憲法となった。

 5.13日、極東委員会は、議会の審議に先立って「日本の新憲法の採択についての原則」を満場一致で決定した。

 この時の後の社会党初の首相片山哲の受け止め方はこうであった。

 「この草案は勿論、ポツダム宣言に基づいているものだが、これを受け取った幣原内閣としては、非常に進歩的な憲法草案を押し付けられたので、すっかりびっくりしてしまった。国民は、ちっとも押し付けられていないのみならず、願ったりかなったりの事項がたくさん盛り込まれているので、これこそ求めつつある天の声なり、福音なりと喜んだのである」(回顧と展望)。

 片山氏の受け止め方の方が素直ではなかろうか。


【帝国憲法改正への動き11ー2、国会質疑の模様 】

 6.20日、政府(金森徳次郎国務相)より第90回帝国議会に対し憲法改正(新憲法)草案が上程され、24日から5日間衆院本会議で審議が行われた。この時、吉田首相は衆院本会議において次のように演説している。

 「昨年我が国が受諾したポツダム宣言及びこれに関連し連合国より発せられる文書には『日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する、一切の障害を排除し、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重を確立すべきこと』並びに『日本国の政治の最終の形態は、日本国国民の自由に表明する意思に依り決定されるべきこと』の条項がある。この方針は正に平和新日本の向かうべき大道を明らかにしたものであり、これが為には何としても国家の基本法たる憲法の改正が要諦と考える」。

 「GHQ」民政局草案をそのまま書き写した感のある政府草案の評判は上々であった。驚くべきことは、進歩.自由.社会各党から出されていた草案のどれよりも民主的な内容を持っていた。特に、1・主権在民規定、2・象徴天皇制規定、3・戦争放棄規定、4・議院内閣制と文民規定、5・基本的人権規定、6・地方自治の章等々に特徴が見られ、各党が用意した憲法草案の臣民的秩序観とは大きく隔絶していた。特に、3・戦争放棄規定と6・地方自治の章は従来の各草案の発想に無いもので、異質といえば異質であった。


 6.24日から5日間衆院本会議で審議が行われた。「GHQ」民政局草案をそのまま書き写した感のある政府草案の評判は上々であった。驚くべきことは、進歩.自由.社会各党から出されていた草案のどれよりも民主的な内容を持っていた。特に、@・主権在民規定、A・象徴天皇制規定、B・戦争放棄規定、C・議院内閣制と文民規定、D・基本的人権規定、E・地方自治の章等々に特徴が見られ、各党が用意した憲法草案の臣民的秩序観とは大きく隔絶していた。特に、B・戦争放棄規定とE・地方自治の章は従来の各草案の発想に無いもので、異質といえば異質であった。

 但し、日共は今日、「『国民主権』の規定がなく、前文でも、『ここに国民の総意が至高なものであることを宣言し』とあるだけだった」と批判している。 

 この時の国会質疑は、@.天皇の象徴制について、A.主権在民規定について、B.戦争放棄規定について論議が集中した。中でも第9条に関する議論が伯仲し、国家固有の自衛権まで放棄しているのか、自衛のための武力まで禁止しようとしているのかの質疑が白熱した。

 6.26日の進歩党の原夫次郎の質問に対して、吉田首相は、次のように答弁している。
 「自衛権について直接規定してはいないが、従来多くの戦争は自衛権の名において戦われた。今日の日本に対する誤解を解くことが必要である。故に日本はいかなる名目においても交戦権を放棄する決意をこの憲法で表明したいと思う」。

 木村愛二氏のサイト「日本共産党犯罪記録 」に貴重な衆議院本会議における代表質問、吉田茂9条説明審議録がアップされている。これによると、興味深いことに日本国憲法採択当時の国会での遣り取りにおいて、時の吉田内閣は、この条文通りに応答していることが判明する。

 吉田首相は、「憲法は自衛権を放棄していないが、自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄している」との立場を示し、次のように述べている。
 日本が再軍備して世界の平和を攪乱する危険は、連合国の「もっとも懸念したところ」である。これは「誤解」だが、「この5ケ年の間の戦いの悲惨なる結果から見まして(略)、日本に対する疑惑、懸念はもっともと考えざるを得ない」。
 「日本がいかにして国体を維持し、国家を維持するかという事態に際会して考えて見ますると、(略)国家の基本法たる憲法を、まず平和主義、民主主義に徹底せしめて、日本憲法が毫も世界の平和を脅かすがごとき危険のある国柄ではないということを表明する必要」を政府として「深く感得したのであります」。
 「ここに至ったゆえんは、そういう国際事情を考慮に入れてのことであります。この点は、各位におかれて深く国際情勢についてご研究下さることを切望いたします」。[中略]
 戦争放棄条項は、「直接には自衛権を否定はしておりません」が、第2項でいっさいの軍備と国の交戦権を認めない結果、「自衛権の発動としての戦争」も放棄している。「近年の戦争は、多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変しかり大東亜戦争またしかりであります」。
 日本は「いかなる名義をもってしても交戦権」は放棄する。それによって「全世界の平和愛好国の先頭に立って、世界の平和確立に貢献する決意」を表明した。またこれによって、日本に対する「正当なる了解」が得られるのだ。[中略]

【帝国憲法改正への動き11ー3、共産党草案発表される 】
  共産党も草案づくりを急ぎ6.29日、アカハタに、「人民共和国憲法草案」と「新憲法草案の発表に際して」を発表した。党の草案は、「第一条 日本国は人民共和国制国家である」、「第二条 日本人民共和国の主権は人民にある。主権は憲法に則って行使される」としており、主権在民と徹底した民主主義的諸権利の確保という点において他の草案のどれよりも最も徹底していた。

 党の声明で注目される点は、「ブルジョア民主主義革命の端緒にたつ当面日本」、「現実にブルジョア民主主義革命の課題が達成された後には、現実の具体的条件と到達した民主主義的諸成果を基礎として、さらによりよき完成を期待しうるであろう」という文句である。当時の党が野坂理論の影響を濃くし始めていたことと民主主義革命を貫徹して後社会主義革命に向かうという革命的展望を維持していたことが知れる。

 「日本共産党の65年」では、「これはアジ.プロ部長であった宮本顕治が、同部員岡正芳、豊田四郎らの協力の下に原案をつくり、政治局で討議、決定されたものであった」と記している。手柄話のつもりであろうが真偽は不明である。というより史実歪曲偽造の可能性が強い。 

【帝国憲法改正への動き11ー4、共産党野坂議員の妙な質疑 】
 (「『自衛・防衛・戦争放棄』その対価としての『国際協調・平和主義』について」でも論述)
 この時、共産党の野坂衆議院議員が活躍している。野坂は、憲法草案に対する質問演説で、主権在民の原則の明確化等徹底した民主的憲法を主張し、この主張は憲法の前文に反映された。7.25日、日本共産党、議会の憲法改正委員小委員会に、憲法改正案にたいする「修正案」を提出。その中で、前文に「主権在民」を明記すること、第一章の「天皇」条項を全文削除することを提案した。

 新憲法の国会審議の末期、野坂は、「天皇制はどう変わったか」(アカハタ9.29日、 10.2日)論文を執筆し発表した。概要「天皇の大権は大幅に削減され、天皇制諸機構や諸勢力は重大な打撃をこうむったが、今だに相当に重要な特権的地位を保持してお り、依然として神秘化され、また、国民の上に君臨している。新憲法は『主権在民 』の美名の下に『主権在君』たらしめようとするものである」と、批判した。民政局のケーディス次長はこの頃金森国務相、入江俊郎法制局長官等に対して、再三「主権在民」の明確化を要求している。


 この時、野坂は、「戦争放棄」条項に食いついて、6.28日の本会議で、概要「自衛戦争は正義の戦いだ。自衛権まで放棄しているのは行き過ぎではないか」、「戦争一般放棄という形でなしに、我々はこれを侵略戦争の放棄、こうするのがもっとも的確ではないか」と質問している。

 これに答えた吉田の答弁がふるっている。
 概要「そんな考え方は有害だ。近年の戦争の多くは国家自衛権の名のもとに行われている。故に正当防衛権を認めることは戦争誘発の原因となる」。
 「自衛権による交戦権、侵略を目的とする交戦権、この二つを分けることが、多くの場合において、戦争を誘起するものであるが故に、かく分ける事が有害なりと、申したつもりです」
 「日本が戦争放棄を宣言して漸く世界の信を得ようとしているとき、自衛権についてとやかく論議することは再び世界の疑惑を招くことで有害無益な論だ。なぜなら従来の侵略戦争はいずれも自衛権発動の名目で為されたからだ」。

 今日から見て立場が逆転しているこの滑稽なお互いの質疑は、歴史の皮肉とは言えよう。
(私論.私観) 「野坂質問の自衛権放棄は行き過ぎ論」について

 この時の「野坂質問の自衛権放棄は行き過ぎ論」は日共の恥部となっている。故に、日共は「野坂質問」の史実隠蔽を企み、これに対する見解表明していない。というか、野坂理論と親疎する不破理論は次第にこの時の野坂見解に近づいている気がしないでもない。何しろマルチ舌故にいろいろ述べることで本音を現さないが、近頃の自衛隊当面合憲論の如く廻りまわって「野坂質問の自衛権放棄は行き過ぎ論」に近づきつつある気がする。

 2005.5.4日再編集 れんだいこ拝
(私論.私観) 「野坂質問に対する吉田首相の答弁に見える法治主義精神」について

 今日から思えば隔世の感ある奇妙な質疑と答弁になっている。それはともかく、ここで窺うべきは、時の吉田首相の法治主義の精神ではなかろうか。政府は、いわゆる法文・法規に対してこれを遵奉する精神に満ち満ちていないか。これが真っ当な在り方であり、それを思えは2003年現在の小泉政府による首相自ら憲法を足蹴りにするあるいは公然ととんでも解釈で居直る手法はアウト・ロー的であり、憲法裁判所というものがあるとすれば最高責任者自ら犯す違法として訴追されねばならないだろう。

 2003.12.15日 れんだいこ拝

【新憲法の公布 】
 帝国憲法改正案は6月から10月にかけて真剣な審議が為された。この間7.1日、憲法改正案は芦田均委員長以下72名の「帝国憲法改正特別委員会」に付託され、7.23日からいわゆる芦田小委員会と呼ばれる14名の秘密会議で審議された。7.25日〜8.20日まで13回にわたって国会内で秘密会を開き、各党派から出された修正案を調整して共同修正案をまとめた。この経過は非公開とされており詳細は分からない。

 芦田氏の「十年の歩み」は次のように記している。
 「第一項の冒頭は条文を明確にして侵略戦争を放棄する心持をはっきりさせるのがいいという意味で修正したのだが、第二項の冒頭に『前項の目的を達するため』と挿入したのは武力を保持しないという決心に条件をつけて『自衛戦争のためには』武力を行使することを妨げないと解釈する余地を残したいと考えたからであった。もちろんこの修正の字句はさほど明確でない。しかし明確に書けば修正が拒否されるとは、分かりきっていた」。

 こうして出来上がった共同修正案が8.24日、衆院本会議に提出された。芦田は涙ぐみつつ熱弁をふるい、共産党を除く賛成多数で可決。貴族院に送付され、ここでGHQの要請で「全ての閣僚は文民で無ければならない」との文民規定が第66条に加えられ、同日新憲法草案を修正可決した。 

 日本国憲法案が衆議院を通過した8.24日憲政の神様と言われていた尾崎行雄氏(当時87歳)が衆院本会議で、無所属議員として壇上に立ち、憲法案が「国会は国権の最高機関」としていることを評価し、「従来は主客転倒。行政府が国の政治の主体で、立法府は極めて柔弱微力なる補助機関の如く扱われ、国民もそれに満足していたようだが、今日この憲法が制定せらるる以上は、立法府が主体で、行政府がその補助機関とならなければならぬ」と語っている。

 10.6日、貴族院が、新憲法草案を修正可決し、衆議院へ回付した。10.7日、衆議院が、一連の修正をくわえたうえで、新憲法草案を可決した。前文に、「ここに主権が国民に存することを宣言し」と、「国民主権」の規定を明記したことは、もっとも重大な修正点をなした。枢密院本会議を通過して11.3日、新憲法が「日本国憲法」として公布、47.5.3日より施行されることになった。


 この改憲手続きは次のように為された。天皇が「枢密顧問の諮じゅん及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」と述べて、吉田首相以下改憲担当の金森徳次郎ら全閣僚の名を連ねている。 

【新憲法施行される 】
 47.5.3日より施行された。


【GHQが機密費を認めず】
 戦前派、陸軍や内務省など各省に機密費が認められていた。ところが、GHQは、機密費の予算計上を認めなかった。これは、「議会や国民の意思に関係なく税金が使われることは許されないとの考え」によった。「内閣は機密費を計上する権限を持っていない。国会はこれを認めようと思えば、計上して議決することができる。だが、司令部の方針としてはこれを許さない」(5.29日付時事新報)

 こうして拒否されていたが、やがて報償費との名目で復活することになった(復活の時期は不明)。憲法第90条は、「国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない」とある。にもかかわらず、報償費は会計検査で事実上ノーチェックとなって今日まで経過している。国民の税金である以上、その使い道を明らかにするのは憲法の国民主権的観点から第90条に定めているところである。機密費が必要なのか、適正はどこまでか等々論議を要するところである。




(私論.私見)