4289112 | 戦後憲法の制定過程について(二)GHQ案の検証 |
(最新見直し2007.3.17日)
関連サイト「戦後政治史検証」
(れんだいこのショートメッセージ) |
戦後憲法をして、「法学的素養も無いケーディスが1週間足らずで書き上げたもの」という説は本当だろうか。れんだいこは、ケーディスがマッカーサーになろうとも、そういう通説は受け入れ難い。なぜなら、戦後憲法の構成と各条文を読めば、かなり高度な出来映えを見せているからである。こんなものが一朝一夕にできる訳が無かろう。 となると、考えられることは、殆ど出来上がっていた草案が在り、それを大急ぎで最終的な詰めの検討し、その期間が「僅か1週間であった」とみなすべきではなかろうか。それを「1週間足らずで書き上げた」と受け取るのは、余りにも推理不足ではなかろうか。且つ、「殆ど出来上がっていた草案」は誰ないしはどういうグループによって作成されていたのだろうか、関心が止まない。そんなこんなを検証してみたい。 2006.9.22日 れんだいこ拝 |
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【日本国憲法の成立過程考その1、国内的対応】 |
戦後憲法(日本国憲法)は、GHQにより押し付けられた論が普及している。れんだいこは、これを否定しない。問題を正面から引き受けようとしない半身構えの護憲派の一部は、「そうではない。戦前以来の日本人民大衆の闘争成果が反映している論」を微に入り細に入り針小棒大的に主張しているが、「大枠として、GHQにより押し付けられた論」の方が史実に合っている、と思うから。ここで問われるべきは、「押し付け如何」の問題は従であり、GHQに押し付けられたものであろうが、「中味がどうなのか」の精査こそ憲法論の主たる関心事となるべきでは無かろうか。 しかも、従的意義しか持たない「押し付け論」も手放しでは認められない。この過程には、押し付けた側のGHQよりも押し付けられた側の日本政府側の方にも随分問題があった、と認められるからである。このことに付きコメントしてみる。戦後憲法は、史実に照らせば、いきなりGHQにより押し付けられたものではない。制定をせかしたのは史実として、その際の順序として、ひとたびは日本国政府の手に委ね、「内からの創出」を催促した経緯がある。マッカーサーが「回顧録」の中で、概要「降伏後、私はまず日本側指導者に告げたことの一つは、明治憲法を改正してほしいということだった。だが、私はアメリカ製の日本憲法を作って押し付けるという方法は採用しなかった」と述べている通りである。つまり、当初から押し付けようとしたのではなく、「日本人自力の草案づくりに配慮していた」ということになる。 この経過は「戦後憲法の制定過程について(一)経過」に記した。これを概略する。GHQの意向を受けて、松本蒸治国務相を憲法専任大臣とする「憲法問題調査会」が設置された。三ヶ月の作業をかけて作成された松本案は、旧憲法を部分的に焼き直ししたものに過ぎず、天皇の統治権の温存はじめ旧態依然たるものでしか無かった。政府系の御用的動きに対して、民間からも自主的に提言が為されていった。しかし、GHQは満足しなかった。政府案のみならず民間案に対しても物足りなかった。 民政局(GS)ホイットニー局長は、政府改正案に対し、「極めて保守的な性格のものであり、天皇の地位に対して実質的変更を加えてはいません」と批判した上で、概要「憲法改正案が正式に提出される前に指針を与える方が賢明ではなかろうか。我々の受け容れがたい案を彼らが決定してしまって、それを提出するまで待った後、新規巻き直しに再出発するよりも、戦術として優れている」との意見をマッカーサー総司令官に述べ、GHQ草案作成に着手していくことになった。 |
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【日本国憲法の成立過程考その2、GHQ対応】 | ||||||||||
マッカーサー元帥は、政府案の愚昧さを確認するや急遽、自前のGHQ草案の着手に乗り出すことになった。とてもではないが使えなかったからであると思われる。
ゲーンの「ニッポン日記」が次のように記している。
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![]() 田中英道氏は、「日本国憲法は共産革命の第一段階として作られた」(2006.11月号正論所収論文)の中で次のように述べている。
この論は、これはこれでよろしい。問題は、「隠れ共産主義者の戦後日本再生青写真」の出来不出来にこそあるのではなかろうか。そこを問わなければ、形式批判に過ぎまい。れんだいこは、世界史上突出して稀有な良性憲法をもたらしたと見立てている。田中英道氏が更に思索すべきは、然りか然りでないのかであろう。この分析まで向かわねば半端な有害的役割しか果たすまい。 |
【ラウエル中佐の働き】 | ||
田中英道氏は、「日本国憲法は共産革命の第一段階として作られた」(2006.11月号正論所収論文)の中で次のように述べている。
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【日本国憲法の成立過程考その3、GHQ対応の背景にあったもの】 | |
こうして「マッカーサー・ノート」に則って、GHQ民生局がGHQ草案をつくりあげていくことになった。その背景事情には、翌1946.2.26日に開かれる予定の極東委員会発足前にアメリカ主導で事をまとめておきたいという米国側の腹づもりがあった。この時の中心メンバーであったケーディス大佐は次のように回顧している。
つまり、新憲法制定には国際事情が絡んでいた。ソ連を含む対日理事会(ACJ)、極東委員会(FEC)がいずれ憲法改正問題にも関与してくることが明らかな状況にあり、これらの委員会が本格的に活動することになれば、法理論上憲法改正もこの委員会で行われることになる可能性があった。それは、アメリカの対日政策上様々な不都合が予想された。 極東委員会の第一回会合が2.26日に持たれるという情報が入ってきていた。そうなると、ソ連.オーストラリアの意向が天皇を戦争犯罪人として訴追し、日本の天皇制を廃止するよう要求する構えでもあったので、天皇制を温存して活用する意向を固めつつあったアメリカの対日政策上不都合が予想された。結果的に極東委員会を通じてソ連が影響力を行使してくることが懸念された。 こうした事情から、「アメリカ本国におきましては極東委員会が発足する前に、新憲法という既成事実を作ってしまいたいと決意を固め」、SWNCCは、マッカーサーに早急に日本国憲法作成の指示をした。この本国の意向とマッカーサーの意欲が合体して米国リードで新憲法が大急ぎで作られることになった。こうしてアメリカ側が先手を打って新憲法作成をアメリカ主導で急ごうとすることになった。 つまり、新憲法制定の背景には、日本取り込みを廻ってソ連との激しい確執があった、ということになる。このことは、日本人民にとってこれまた僥倖であった。なぜなら、作成される新憲法は、ソ連の進出を根底的に牽制する為にもソ連憲法に比しても遜色ない人民的諸権利が擁護されたものでなければ状況に合致しなくなったからである。こうした観点から、「平和的民主的人権保障的新憲法」の作成が急務となった。 |
【日本国憲法の成立過程考その4、二週間でのGHQ草案作成の本当の意味】 | |||
この仕事は、2.4日から12日まで夜を日についで二週間ですっかりかたづいた。ジョージ.アチソン、ホイットニー、ケーディス、日本側からは内閣法制局長官入江俊郎、佐藤達夫同局部長らが喧喧諤諤しつつ詰めていったと伝えられている。2.12日、マッカーサー司令官の承認を得て確定された。 この経緯に付き、次のような批判が生まれている。
中曽根の「憲法改正の歌」は次のように云う。
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![]() 「新憲法の草案作業が、2.4日から12日まで夜を日についで二週間ですっかりかたづいた。ジョージ.アチソン、ホイットニー、ケーディス、日本側からは内閣法制局長官入江俊郎、佐藤達夫同局部長らが喧喧諤諤しつつ詰めていったと伝えられている」が、本当にそうだろうか。出来具合から見て、かなり用意周到に事前に原案作りが為されていたのではなかろうか。これはそう思うというだけで裏づけが無いが、この観点から考究してみたい面もある。 「占領軍民政局の21人(憲法の専門家1人もいない)のアメリカ人が、英文でたった1週間でアメリカ、ソ連憲法を適当につぎはぎして作ったものです」は、精査されていない雑な見方であろう。事実は、戦後日本のアメリカ側への取り込み策としてよほど用意周到に草案が練られ、ソ連憲法にも増して優位な民主主義憲法を生み出す必要があり、これを受け知日派ないしは日本人を含む複数メンバーが最高の頭脳を駆使して草案化した、と見なすほうが正確なのではなかろうか。 ゲインもケーディス大佐もマッカーサーも、この肝腎の事を明かしていない。大急ぎで為したのは「草案の詰め」であり、草案そのものを作ったのではないということを。考えられることは、殆ど出来上がっていた草案が在り、それを大急ぎで最終的な詰めの検討し、その期間が「僅か1週間であった」とみなすべきではなかろうか。それを「1週間足らずで書き上げた」と受け取るのは、余りにも推理不足ではなかろうか。れんだいこは、「夜に昼に次ぐ戦後憲法制定作業」の意味を、「それは細部のツメ」と受け取る。この時用意周到に練られたグランド・デザインとしての「原案」があったのではないか、と推定している。 実際に創り出された戦後憲法の文案、構成、特質等を見るのに、「夜に昼に次ぐ戦後憲法制定作業」から生み出されたようには思えない。むしろ、戦後日本再生に関わる「偉大なる智者の推敲」が働いているように見える。「偉大なる智者の推敲」は陰謀的なそれではなく、日本及び日本人民をこよなく愛し、その歴史を知っていた者の智恵のように思われる。誰がこれを為したのか。恐らく、これは永遠の秘密のヴェールに伏せられるのかも知れない。 2005.5.4日、2006.9.23日再編集 れんだいこ拝 |
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![]() 「阿修羅雑談専用23」の兼好法師(2)氏の2007.3.17日付け投稿「現行の日本国憲法は日本人が草案」に次のような興味深い投稿がなされているので転載しておく。
これは貴重な話である。れんだいこは、「鈴木安蔵」がそういう役割をしたのかどうか特定できないが、こよなく日本を愛し、良く知る者が日本国憲法作成に関与していたことは疑いないと思っている。この見地からの考証が更に深められねばならない。 補足すれば、憲法研究会案が「現行の日本国憲法の草案を作成し、それをGHQに渡し、ほとんど手直しされることもなく、認められた」ほどGHQ草案のモデルとなったにせよ、GHQ草案として出てきたときには、憲法第9条の武装放棄条項が詠われていた。これはさすがの憲法研究会も驚いた。憲法第9条にはそういう値打ちがあるということになる。 更に、憲法研究会案は一体誰が起草したのかが詮索されねばならない。鈴木安蔵グループだとして、彼らが創案したのか下敷きにしたものがあったのか精査せねばならない。「基本的に国産憲法と言っても良い憲法」と断定するのは早かろう。 2007.3.17日 れんだいこ拝 |
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![]() 2006.11月号月刊誌「正論」の田中英道・東北大学名誉教授「日本国憲法は共産革命の第一段階としてつくられた」は、れんだいこの見立てを補強している。これを引用する。次のように述べている。
田中教授の指摘の真意を要約すれば、概要「日本国憲法は、マッカーサー憲法ではなく、ОSS憲法と云うべきである」ということになろう。この観点からの研究が為されておらず、そういう意味で「田中教授の指摘」は値打ちがある。 2006.10.5日 れんだいこ拝 |
【日本国憲法の成立過程考その5、「マッカーサー草案開陳時の驚き」について】 | ||
1946.2.13日、「GHQ」によって纏められた新憲法草案が政府当局者に開陳されることになった。日本側は憲法問題調査委員会委員長松本国務大臣、吉田茂外務大臣、終戦連絡事務局参与(次長)白州次郎の3名に通訳長谷川元吉、「GHQ」側は民政局ホイットニー局長、同次長ケーディス、ダウェルら4名が一同に会した。「最大のヤマは、---そう、2.13日---吉田外相が住んでいた外務省の官邸での会合でした」とケーディス大佐に回顧されている秘密会談が持たれた。 お互いの憲法草案を見せ合い議論する場となっていたが、実際には「GHQ」草案が松本.吉田の目の前に置かれ目を通すよう指示された。「日本政府から提出した憲法改正案は、総司令部にとって、受け容れられない。そこで、総司令部でモデル案をつくった。これを渡すから、その案に基づいた日本案を急いで起草してもらいたい。暫く庭を散歩してくるから、その間に案文を読むように」。草案は今日の憲法にある通りの大変革的な内容になっていた。「天皇象徴制」、「戦争廃止.武力使用の放棄」、「一院制議会」と記されており、松本と吉田の二人は目を見合わせて白黒させたと伝えられている。あまりにも急進的な国情に合わぬ未だかってみたことのない条項案が連ねられていたからであった。 吉田外相は、第一条の「天皇は国のシムボル(Symbol)とする」との案を見て、「これはとんでもないものを寄こしたものだと思った」(「回想十年」)。 ホイットニー局長は次のように申し渡した。
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【日本国憲法の成立過程考その6、「GHQ」草案の新憲法化の動きについて】 | ||||
こうした経過を経て、「GHQ」草案が下敷きの新憲法作成が急がれていくことになった。実際には翻訳であったと思われる。この経過で、「GHQ」による「天皇の身柄を人質に取った強制」があったのか、あくまで「日本側の賛同した自発的意思」が伴っていたものなのか今日でも定かではない。はっきりしていることは、新憲法の理想的精神について、幣原首相とマッカーサー元帥との間で白熱共鳴のやり取りが為されている史実があることは確かである。 但し、第9条の「武装放棄」については、幣原はマッカーサー元帥に、マッカーサー元帥は幣原の発案としてお互いが譲り合っている。「羽室メモ」は、次のように証言している。
幣原首相は次のように述べたと伝えられている。
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それ故、今日次のような論調が生まれている。中西寛京都大学教授(国際政治)は、2000.9.6日付け読売新聞の「憲法論議へ新提案」で次のように述べている。
その他、右派系論調に次のようなものがある。 戦後憲法を「占領下の押しつけ憲法」として次のように云う。
後日、吉田茂がマッカーサー氏と会った時、マッカーサー氏が言った言葉として次のように伝えられている。
この「マッカーサー発言」の真偽は分からない。論の内容以前の問題として史実考証的に見てかなり重要であるから出典を明示すべきだろう。 この右派調見解の「占領下の押しつけ憲法論」が間違いだと云うのではないが、そういう経緯にせよ与えられた戦後憲法の内実論議をせぬのは為にする批判でしかなかろう。れんだいこはむしろ、マッカーサー憲法の草案の作成者こそ詮索したい。これを独りで為したのか複数で為したのか不明であるが、よほど日本の国情に通じ、日本の未来百年の設計に明るい智者が関与していたのではないか推理している。恐らく、戦前左派運動に関わった者にして国際的視野を持つ者にして、単に外国被れではない愛国愛民族主義者であった稀有な人物が関与しているのではなかろうか。れんだいこには、「占領下の押しつけ憲法論」を云々するよりもはるかに興味深い「歴史の闇の覗き」となっている。 2006.9.23日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)