4289112 戦後憲法の制定過程について(二)GHQ案の検証

 (最新見直し2007.3.17日)

 関連サイト戦後政治史検証

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後憲法をして、「法学的素養も無いケーディスが1週間足らずで書き上げたもの」という説は本当だろうか。れんだいこは、ケーディスがマッカーサーになろうとも、そういう通説は受け入れ難い。なぜなら、戦後憲法の構成と各条文を読めば、かなり高度な出来映えを見せているからである。こんなものが一朝一夕にできる訳が無かろう。

 となると、考えられることは、殆ど出来上がっていた草案が在り、それを大急ぎで最終的な詰めの検討し、その期間が「僅か1週間であった」とみなすべきではなかろうか。それを「1週間足らずで書き上げた」と受け取るのは、余りにも推理不足ではなかろうか。且つ、「殆ど出来上がっていた草案」は誰ないしはどういうグループによって作成されていたのだろうか、関心が止まない。そんなこんなを検証してみたい。

 2006.9.22日 れんだいこ拝

戦後憲法「押し付け論」の検証@、前置き れんだいこ 2003/12/06
 れんだいこは、小泉のやること為す事逐一気に食わない。こういう極悪首相が世論調査で高支持率を得ている風潮が情けない。案外と、マスコミの執拗なプロパガンダにより意図的に作りだされているものでしかないのではないのか、国民は既に辟易、反吐感情に陥っていると見るのが真相ではないのか、と思うのだが。一体、新聞社の世論調査の仕組みは本当に適正なのか、その仕組みをきちんと説明してみたまえ、信に足りるものかどうか「説明責任」を果たせ、案外とエエカゲンなものなのでは無かろうか、という疑念が消えない。

 2003年現在、小泉政権の下で「憲法改正」が政治日程化しつつある。彼らの論拠は、概要「戦後憲法は米国を盟主とする占領軍により『押し付けられたもの』であるから」、「日本人自身の手になる『自主憲法』を制定し直さねばならない」、「戦後憲法は、欧米流個人主義的自由主義に道を開くことにより、日本民族固有の統一と団結精神を解体し、アイデンティティを喪失せしめるところに眼目が有る。この非を早急に是正せねばならない」と云うところにあるようである。

 専ら中曽根派がこういう史観を弄び、これを政治使命として今日まで推進係りを務め、今や結実しつつある。本サイトは、この論及びその流れの是非を検証して見たい。れんだいこには、自主憲法派のこの論に近時の政治おぼこ連中が安易に丸め込まれているように見え、それは愚挙であることを論証して見たい。

 一番肝心なところをここに書き付けておく。自主憲法制定派は、「日本民族固有の統一と団結精神を復古させ、アイデンティティを回復せしめる」運動として憲法改正を政治日程化しつつあるが、当の中曽根―小泉系譜の自主憲法制定派が誰よりも、現代史を牛耳る米英「ユ」連合派の提灯太鼓持ちつまりエージェントになり下がっている史実を如何にせん。

 おかしいではないか。愛国者ぶっているが、連中こそ率先した売国派では無いのか。自主憲法制定運動は、この矛盾の中で進行しつつあるということが確認されねばならない。政治おぼこ連中は、ここでハタと考え込まねばならない。

 自主憲法制定派の真実は、イデオロギーを仮装せしめた利権派では無いのか、という観点からの凝視が欲しい。この粉飾を暴き、1・真の愛民族心、愛国とはどういうものか、2・その際日本国憲法はどう評価されるべきか、3・もしこれが改訂されるならどういう方向でのみ許されるのか、4・自主憲法制定派の改訂が如何にこの基準から逸脱しているのか、5・この落差がどこから発生しているのか等々について論及して見たい。

 「戦後憲法の制定過程について(二)GHQ案の検証」
daitoasenso/sengodemocracy_kenpo_ghqann.htm

 2003.12.6日 れんだいこ拝


【日本国憲法の成立過程考その1、国内的対応】
 戦後憲法(日本国憲法)は、GHQにより押し付けられた論が普及している。れんだいこは、これを否定しない。問題を正面から引き受けようとしない半身構えの護憲派の一部は、「そうではない。戦前以来の日本人民大衆の闘争成果が反映している論」を微に入り細に入り針小棒大的に主張しているが、「大枠として、GHQにより押し付けられた論」の方が史実に合っている、と思うから。ここで問われるべきは、「押し付け如何」の問題は従であり、GHQに押し付けられたものであろうが、「中味がどうなのか」の精査こそ憲法論の主たる関心事となるべきでは無かろうか。

 しかも、従的意義しか持たない「押し付け論」も手放しでは認められない。この過程には、押し付けた側のGHQよりも押し付けられた側の日本政府側の方にも随分問題があった、と認められるからである。このことに付きコメントしてみる。戦後憲法は、史実に照らせば、いきなりGHQにより押し付けられたものではない。制定をせかしたのは史実として、その際の順序として、ひとたびは日本国政府の手に委ね、「内からの創出」を催促した経緯がある。マッカーサーが「回顧録」の中で、概要「降伏後、私はまず日本側指導者に告げたことの一つは、明治憲法を改正してほしいということだった。だが、私はアメリカ製の日本憲法を作って押し付けるという方法は採用しなかった」と述べている通りである。つまり、当初から押し付けようとしたのではなく、「日本人自力の草案づくりに配慮していた」ということになる。

 この経過は「戦後憲法の制定過程について(一)経過」に記した。これを概略する。GHQの意向を受けて、松本蒸治国務相を憲法専任大臣とする「憲法問題調査会」が設置された。三ヶ月の作業をかけて作成された松本案は、旧憲法を部分的に焼き直ししたものに過ぎず、天皇の統治権の温存はじめ旧態依然たるものでしか無かった。政府系の御用的動きに対して、民間からも自主的に提言が為されていった。しかし、GHQは満足しなかった。政府案のみならず民間案に対しても物足りなかった。

 民政局(GS)ホイットニー局長は、政府改正案に対し、「極めて保守的な性格のものであり、天皇の地位に対して実質的変更を加えてはいません」と批判した上で、概要「憲法改正案が正式に提出される前に指針を与える方が賢明ではなかろうか。我々の受け容れがたい案を彼らが決定してしまって、それを提出するまで待った後、新規巻き直しに再出発するよりも、戦術として優れている」との意見をマッカーサー総司令官に述べ、GHQ草案作成に着手していくことになった。

(私論.私見) 政府案の頑迷保守性について

 新憲法は世に「押し付け憲法」と云われているが、この経過を見れば、ひとたびは日本政府の手になるものが促され、それがあまりにも頑迷保守的であり役に立たなかった、ということであろう。この観点を確立しておく必要がある。その際の「役に立たなかった」理由は様々な角度から考えられるが。


【日本国憲法の成立過程考その2、GHQ対応】

 マッカーサー元帥は、政府案の愚昧さを確認するや急遽、自前のGHQ草案の着手に乗り出すことになった。とてもではないが使えなかったからであると思われる。

 1946.2.3日、マッカーサー元帥は、民政局ホイットニー局長に指示を与え、急遽民政局メンバー20人の下書き作成により草案が作成され、これが討議されるという経過となった。ケーディス陸軍大佐を委員長とする運営委員会がつくられ、ハッセー中佐、ラウエル中佐を交え、分野ごとの小委員会と合同会議を積み重ねることとした。

 この時マッカーサーは、次のような「三項目の必須条件」を指示していた。

天皇制の取り扱い条項  天皇が国家元首の地位として認められ、皇位の継承は世襲される。但し、天皇の義務と権限は立憲的制約の中に置かれ、国民の意思に応じたものであること。
戦争放棄条項  自衛権も含む戦争の放棄。国家の権利としての戦争行為を放棄する。日本は紛争解決、及び自衛のためでさえも、その手段としての戦争を放棄する。国の安全保障のためには、現在世界に生まれつつある高い理念、理想による。陸・海・空軍は、決して認められない。又、いかなる交戦権も与えられない。
封建制度の廃止  封建制度は廃止される。皇族以外の爵位は現存のものに限り一代以上に及ばない。今日以降、貴族特権は政府もしくは民間機関において何らの権力を持たない。国家予算はイギリスの制度を見習う。

 ゲーンの「ニッポン日記」が次のように記している。

 概要「厳秘のうちに事が進められた。第一ホテルの一室で非公式な会議が開かれ、新憲法の総括的な輪郭が描き出された。その翌日、ホイットニー准将は、部下全部を会議室に召集し、『これはまさに歴史的な機会である。私は今諸君に憲法制定会議の開会を宣言する』と厳かに云った。日本側によって準備された草案の全ては、全く不満足なものでしかなく、総司令官は今や介入する必要があると感じられるに至った。

 かくて我が民政局は、新憲法を起草すべき命を受けることになった。元帥が期待する三原則は、一、日本は戦争を永久に放棄し、軍備を廃し、再軍備しないことを誓う。一、主権は国民に帰属せしめられ、天皇は国家の象徴と叙述されること。一、貴族院制度は廃止され、皇室財産は国家に帰属せしめられることであり、かく指示された」。

(私論.私見) 「マッカーサーの三項目必須条件指示」について

 この「必須条件」の意味は大きい。マッカーサーはこれを、自国米政府にご都合主義的に指示したのか。それも一理有り、この観点からの考察もされねばならない。しかし、れんだいこはそうのみは考えない、歴史的僥倖があったと考える。マッカーサーは当時、トルーマン後の次期大統領の有力候補であった。司令官としての日本における統治の成功を手土産に帰国して、一気に大統領の座に上り詰める腹があった。それを思えば、GHQの占領政策はマッカーサー的日本統治の成功を重視しており、その限りにおいて日本国ないし日本人にとっては誠に有り難い「善政」が敷かれることになった。ここにマッカーサー的統治の本質が有る。

 れんだいこは、「マッカーサー善政」論に立っており、こう捉えない世の諸々の見解と議論する用意がいつでもある。戦後左派運動は、「マッカーサー統治に於ける諸矛盾」を弁証法的に論じていない。それは余りにもおぼこ過ぎる。というか経文批判しており、頭脳が貧困過ぎよう。

 「マッカーサー的善政」はその第一に、第一次世界大戦後にドイツに科した膨大な戦時賠償がナチスの台頭を促したとする教訓から報復的手段に拠らなかったことに認められる。日本国及び人民にとってこれも僥倖であった。第二に、植民地主義的政策に拠らず、日本政府を再建させ、極力日本人自身の手による戦後再建を試みさせたことに認められる。これも、日本国及び人民にとって僥倖であった。第三に、その際の再建の眼目は、歴史的に形成されている日本人勤労大衆の素晴らしい諸能力を認め、その諸能力発揮の基盤形成に資する日本再建計画に着手したことに認められる。

 特に、この第三項が注目に値する。これこそ真に日本国及び人民にとって僥倖であった。マッカーサーは親日的であった。それは単に皇室評価というだけのものでは無い、日本国の歴史を認め愛していた風がある。且つ、直近の第二次世界大戦で日本軍と闘ったが、その戦闘過程で、日本人民大衆の素晴らしい諸能力を見て取り、「ある種の畏敬」さえ覚えさせていた観がある。マッカーサーにとって、日本人は、白色系以外の人種にしてはじめて見る評価に足りる民族であった。国家形成能力としては中学生並みの頭脳しか持ち合わせていないが、指導の仕方一つで大きな潜在能力を持つ国民であることを察知していた観がある。

 この素晴らしき日本人が何ゆえに国政を誤り、その能力が生かされていないのか、その国民的特性を踏まえその阻害要因を除去することこそマッカーサー施政のもう一つの眼目であった。ここを身て取らねばならない。そういう観点に立つマッカーサーが見た日本は、戦前日本の国家体制はあまりにいびつなものであった。1・天皇制絶対的権力、2・財閥支配、3・軍部支配、4・国民生活全般に網の目の如く覆う統制的制度のしがらみ等々の「行き過ぎ」が問題として映った。これらの支配から脱却させ、欧米式民主主義の移入により日本人民の諸能力を開花させる、それは日本国民の利益に叶う、ひいては米国の日本同盟化の利益に叶う。これがマッカーサーの日本再建計画の眼目的観点であった、ように思われる。

 マッカーサー元帥の「三項目の必須条件指示」の背景には、上述のような観点と論理的帰結があったものと思われる。問うべきは、問われるべきは、このマッカーサー的観点の是非であろう。これを思えば、ここのところの是非を問わず、「手続き論的押し付け論」を声高にするのは方手落ちと云うべきであろう。「手続き論的押し付け論」は従の問題でしかないのではないのか、これがれんだいこ史観である。

 しかも、日本政府自身の新憲法策定を促していた経緯を見るならば、「手続き論的押し付け論」は結果的にそうなったものでしかない。良し悪しはともかく、当時の政府の頭脳があまりにもひどい旧態依然とした旧憲法の焼き直ししか提示出来なかったことに規定されて、マッカーサー憲法が登場してきたのであり、そのマッカーサー憲法の意図するところ「日本人勤労大衆の素晴らしき諸能力の引き出し」にあったとするなら、「手続き論的押し付け論」は形式的にはそうであったとしても、為にする批判でしかない、ということになるのでは無かろうか。


 2006.9.22日 れんだいこ拝

(私論.私見) GHQ草案メンバーについて

 田中英道氏は、「日本国憲法は共産革命の第一段階として作られた」(2006.11月号正論所収論文)の中で次のように述べている。
 「日本案に満足できなかったマッカーサーが、2.3日にGHQの民政局長ホイットニーを呼び出し憲法草案の作成を命じた。ケーディス大佐、ハッセー中佐、ラウエル中佐らが集まったが、そこには憲法の専門家はいなかったし、1週間という短い期間しか与えられなかった。ホイットニー民政局長にしても、大学時代に法律を学んだが、フィリピンの戦争まで財政の弁護士をやっていた人物であったに過ぎない。しかしその思想はルーズベルトのニューディール政策を支持する民主党左派の『隠れ共産主義者』といってよい。後に反共主義者のウィロビーと対立しており、民政局次長ケーディス大佐もまた弁護士であった人物であるが、やはりニューディーラーで左翼でウィロビーと対立しており、憲法に左翼的路線を導入させることでは一致していた」。

 この論は、これはこれでよろしい。問題は、「隠れ共産主義者の戦後日本再生青写真」の出来不出来にこそあるのではなかろうか。そこを問わなければ、形式批判に過ぎまい。れんだいこは、世界史上突出して稀有な良性憲法をもたらしたと見立てている。田中英道氏が更に思索すべきは、然りか然りでないのかであろう。この分析まで向かわねば半端な有害的役割しか果たすまい。

【ラウエル中佐の働き】
 田中英道氏は、「日本国憲法は共産革命の第一段階として作られた」(2006.11月号正論所収論文)の中で次のように述べている。
 「その中のラウエル中佐は注目すべき人物であった。憲法研究会の鈴木安蔵を知っていたし、日本のことも研究していた。スタンフォード大学やハーバード大学卒業後、カリフォルニアで弁護士をやっていたが、シカゴ大学で日本の政治制度の研究をしていた。この人物こそ、鈴木安蔵の憲法研究会案を英訳させて回読させ、GHQの憲法草案に取り入れたのであった(小西豊治「憲法『押し付け』論の幻」、講談社現代新書、2006年)。鈴木安蔵が共産主義者であり、ノーマンも共産党員であった。ラウエル中佐もその意向を取り入れたから、当然その憲法草案に影響を与えずにはおかないだろう」。
(私論.私見) 鈴木安蔵について

 田中英道氏は、「鈴木安蔵の果たした役割」について言及している。これは値打ち物の指摘である。

【日本国憲法の成立過程考その3、GHQ対応の背景にあったもの】
 こうして「マッカーサー・ノート」に則って、GHQ民生局がGHQ草案をつくりあげていくことになった。その背景事情には、翌1946.2.26日に開かれる予定の極東委員会発足前にアメリカ主導で事をまとめておきたいという米国側の腹づもりがあった。この時の中心メンバーであったケーディス大佐は次のように回顧している。
 「当時、対日理事会が発足しそうな周囲の情況から、憲法改正は急がねばなりませんでした。しかし日本側の保守的政治家は、なかなか頭の切り替えが出来ず、私たちは終始、改正を急がせるような刺激を与えねばなりませんでした」。

 つまり、新憲法制定には国際事情が絡んでいた。ソ連を含む対日理事会(ACJ)、極東委員会(FEC)がいずれ憲法改正問題にも関与してくることが明らかな状況にあり、これらの委員会が本格的に活動することになれば、法理論上憲法改正もこの委員会で行われることになる可能性があった。それは、アメリカの対日政策上様々な不都合が予想された。

 極東委員会の第一回会合が2.26日に持たれるという情報が入ってきていた。そうなると、ソ連.オーストラリアの意向が天皇を戦争犯罪人として訴追し、日本の天皇制を廃止するよう要求する構えでもあったので、天皇制を温存して活用する意向を固めつつあったアメリカの対日政策上不都合が予想された。結果的に極東委員会を通じてソ連が影響力を行使してくることが懸念された。

 こうした事情から、「アメリカ本国におきましては極東委員会が発足する前に、新憲法という既成事実を作ってしまいたいと決意を固め」、SWNCCは、マッカーサーに早急に日本国憲法作成の指示をした。この本国の意向とマッカーサーの意欲が合体して米国リードで新憲法が大急ぎで作られることになった。こうしてアメリカ側が先手を打って新憲法作成をアメリカ主導で急ごうとすることになった。

 つまり、新憲法制定の背景には、日本取り込みを廻ってソ連との激しい確執があった、ということになる。このことは、日本人民にとってこれまた僥倖であった。なぜなら、作成される新憲法は、ソ連の進出を根底的に牽制する為にもソ連憲法に比しても遜色ない人民的諸権利が擁護されたものでなければ状況に合致しなくなったからである。こうした観点から、「平和的民主的人権保障的新憲法」の作成が急務となった。

【日本国憲法の成立過程考その4、二週間でのGHQ草案作成の本当の意味】
 この仕事は、2.4日から12日まで夜を日についで二週間ですっかりかたづいた。ジョージ.アチソン、ホイットニー、ケーディス、日本側からは内閣法制局長官入江俊郎、佐藤達夫同局部長らが喧喧諤諤しつつ詰めていったと伝えられている。2.12日、マッカーサー司令官の承認を得て確定された。

 この経緯に付き、次のような批判が生まれている。
 「占領軍民政局の21人(憲法の専門家1人もいない)のアメリカ人が、英文でたった1週間でアメリカ、ソ連憲法を適当につぎはぎして作ったものです」。

 中曽根の「憲法改正の歌」は次のように云う。

 1.嗚呼、戦いに打ち敗れ 敵の軍隊進駐す 平和民主の名の下に  占領憲法制定し 祖国の解体図りたり 時は終戦6ヶ月(中略)

 5.この憲法ある限り 無条件降伏続くなり マック憲法守れるは マ元帥の下僕なる・・・・・(略)
(私論.私見) 「夜に昼に次ぐ戦後憲法制定作業」についてその1

 「新憲法の草案作業が、2.4日から12日まで夜を日についで二週間ですっかりかたづいた。ジョージ.アチソン、ホイットニー、ケーディス、日本側からは内閣法制局長官入江俊郎、佐藤達夫同局部長らが喧喧諤諤しつつ詰めていったと伝えられている」が、本当にそうだろうか。出来具合から見て、かなり用意周到に事前に原案作りが為されていたのではなかろうか。これはそう思うというだけで裏づけが無いが、この観点から考究してみたい面もある。

 「占領軍民政局の21人(憲法の専門家1人もいない)のアメリカ人が、英文でたった1週間でアメリカ、ソ連憲法を適当につぎはぎして作ったものです」は、精査されていない雑な見方であろう。事実は、戦後日本のアメリカ側への取り込み策としてよほど用意周到に草案が練られ、ソ連憲法にも増して優位な民主主義憲法を生み出す必要があり、これを受け知日派ないしは日本人を含む複数メンバーが最高の頭脳を駆使して草案化した、と見なすほうが正確なのではなかろうか。

 ゲインもケーディス大佐もマッカーサーも、この肝腎の事を明かしていない。大急ぎで為したのは「草案の詰め」であり、草案そのものを作ったのではないということを。考えられることは、殆ど出来上がっていた草案が在り、それを大急ぎで最終的な詰めの検討し、その期間が「僅か1週間であった」とみなすべきではなかろうか。それを「1週間足らずで書き上げた」と受け取るのは、余りにも推理不足ではなかろうか。れんだいこは、「夜に昼に次ぐ戦後憲法制定作業」の意味を、「それは細部のツメ」と受け取る。この時用意周到に練られたグランド・デザインとしての「原案」があったのではないか、と推定している。

 実際に創り出された戦後憲法の文案、構成、特質等を見るのに、「夜に昼に次ぐ戦後憲法制定作業」から生み出されたようには思えない。むしろ、戦後日本再生に関わる「偉大なる智者の推敲」が働いているように見える。「偉大なる智者の推敲」は陰謀的なそれではなく、日本及び日本人民をこよなく愛し、その歴史を知っていた者の智恵のように思われる。誰がこれを為したのか。恐らく、これは永遠の秘密のヴェールに伏せられるのかも知れない。

 2005.5.4日、2006.9.23日再編集 れんだいこ拝
(私論.私見) 「夜に昼に次ぐ戦後憲法制定作業」についてその1補足

 「阿修羅雑談専用23」の兼好法師(2)氏の2007.3.17日付け投稿「現行の日本国憲法は日本人が草案」に次のような興味深い投稿がなされているので転載しておく。

 今まで、日本の現行憲法は、アメリカのGHQが作成して日本に採用させたものだと思っていた。しかしそれは誤りであることを知った。日本の現行憲法の草稿を作成したのは「鈴木安蔵」という民間の日本人であった。

 映画「日本の青空」という鈴木安蔵の半生を描いた日本国憲法誕生の真相に迫る映画が製作されている。制作費が足らず、まだ完成していない模様だ。北朝鮮拉致被害者の映画や硫黄島の戦いの映画や戦艦大和の映画の製作はできるのに、日本国憲法誕生の真相に迫る映画は制作費が集まらないとは。。。

 アメリカのGHQは日本占領後、日本政府に対して、明治憲法に代わる、アメリカが認めることの出来るような、新しい憲法を作成するように指示した。しかし日本政府が提示した憲法草案は明治憲法の焼き直しでしかなかった。

 詳しいことはフォローしてないが、憲法学を学んでいた民間人の「鈴木安蔵」は、現行の日本国憲法の草案を作成し、それをGHQに渡し、ほとんど手直しされることもなく、認められた、というのが真相らしい。鈴木安蔵の憲法草案に「象徴天皇」「国民主権」「基本的人権」の、現行憲法の基礎となる条文が既に含まれていて、文言もほとんど変わっていないらしい。鈴木安蔵は戦時中、治安維持法違反で、刑務所に服役していたようだ。。。

 安部晋三首相を初めとする右派鷹派の改憲論者がよく口にする、改憲の理由は、「現行の日本国憲法は、戦争に負けてアメリカから押し付けられたものであり、日本人の手によって作られたものでない。これでは自国に誇りが持てないから、日本人の手で作った憲法が必要だ」。

 だが、日本国憲法誕生の真相は、日本人の「鈴木安蔵」が草案を作成し、それをGHQが英訳し、ほとんど手直しすることなく、日本政府に渡したのだから、現行の日本国憲法は決してアメリカから押し付けられたものでなく、日本人の手によって作られたもので、上記の改憲論者の改憲の理由は理由になっていない。国民投票法案の選挙でも、憲法改正法案の選挙でも、私は反対票を投じる。


 これは貴重な話である。れんだいこは、「鈴木安蔵」がそういう役割をしたのかどうか特定できないが、こよなく日本を愛し、良く知る者が日本国憲法作成に関与していたことは疑いないと思っている。この見地からの考証が更に深められねばならない。

 補足すれば、憲法研究会案が「現行の日本国憲法の草案を作成し、それをGHQに渡し、ほとんど手直しされることもなく、認められた」ほどGHQ草案のモデルとなったにせよ、GHQ草案として出てきたときには、憲法第9条の武装放棄条項が詠われていた。これはさすがの憲法研究会も驚いた。憲法第9条にはそういう値打ちがあるということになる。

 更に、憲法研究会案は一体誰が起草したのかが詮索されねばならない。鈴木安蔵グループだとして、彼らが創案したのか下敷きにしたものがあったのか精査せねばならない。「基本的に国産憲法と言っても良い憲法」と断定するのは早かろう。


 2007.3.17日 れんだいこ拝
(私論.私見) 「夜に昼に次ぐ戦後憲法制定作業」についてその2

 
2006.11月号月刊誌「正論」の田中英道・東北大学名誉教授「日本国憲法は共産革命の第一段階としてつくられた」は、れんだいこの見立てを補強している。これを引用する。次のように述べている。
 「大東亜戦争開始から終戦までのルーズベルト大統領によってつくられた『日本計画』が最近のアメリカ国立公文書館の新資料で明らかにされた。戦後の日本の憲法もGHQが作成したというより、それ以前のОSSからの方針の結果である、と見た方がいいということが明らかになった。私たち日本人は、第東亜戦争のアメリカ側の責任者がマッカーサーであると考え、その言動に注目しているが、実を云えば、彼を指名したのはルーズベルトであり、彼が組織したОSSの方が、主要な力を持っていたためである。ただ、この組織は戦後後任のトルーマン大統領によって解散されたから、日本人には余り知られていないが、マッカーサーは、ほとんどこの組織の路線を踏んだと思われる」。
 「ワシントンの国立公文書館でОSSの機密文書が再調査されたことにより、この組織がいかに日本に対日情報や戦略を行ってきたかが分かってきた。これらの文書は、その左翼的な傾向が如実で、戦後この組織を受け継いだ、反響組織と云われた名高いCIAとはまるで正反対の組織であった」。
 「加藤氏はОSSが、憲法に於ける『象徴天皇制』を指示したのが、1942年の早い段階でのОSSの『日本計画』文書によってであることを強調しているが、それが軍部との亀裂を生じせしめる日本への謀略から出ていることを批判していない。それが天皇を象徴とするという新しい憲法にまで影響を及ぼしたと指摘しているものの、ОSSが戦後、GHQにまでつながり、憲法全体にまで影響していたことが考察されていないのである」。

 田中教授の指摘の真意を要約すれば、概要「日本国憲法は、マッカーサー憲法ではなく、ОSS憲法と云うべきである」ということになろう。この観点からの研究が為されておらず、そういう意味で「田中教授の指摘」は値打ちがある。

 2006.10.5日 れんだいこ拝

【日本国憲法の成立過程考その5、「マッカーサー草案開陳時の驚き」について】
 1946.2.13日、「GHQ」によって纏められた新憲法草案が政府当局者に開陳されることになった。日本側は憲法問題調査委員会委員長松本国務大臣、吉田茂外務大臣、終戦連絡事務局参与(次長)白州次郎の3名に通訳長谷川元吉、「GHQ」側は民政局ホイットニー局長、同次長ケーディス、ダウェルら4名が一同に会した。「最大のヤマは、---そう、2.13日---吉田外相が住んでいた外務省の官邸での会合でした」とケーディス大佐に回顧されている秘密会談が持たれた。

 お互いの憲法草案を見せ合い議論する場となっていたが、実際には「GHQ」草案が松本.吉田の目の前に置かれ目を通すよう指示された。「日本政府から提出した憲法改正案は、総司令部にとって、受け容れられない。そこで、総司令部でモデル案をつくった。これを渡すから、その案に基づいた日本案を急いで起草してもらいたい。暫く庭を散歩してくるから、その間に案文を読むように」。草案は今日の憲法にある通りの大変革的な内容になっていた。「天皇象徴制」、「戦争廃止.武力使用の放棄」、「一院制議会」と記されており、松本と吉田の二人は目を見合わせて白黒させたと伝えられている。あまりにも急進的な国情に合わぬ未だかってみたことのない条項案が連ねられていたからであった。

 吉田外相は、第一条の「天皇は国のシムボル(Symbol)とする」との案を見て、「これはとんでもないものを寄こしたものだと思った」(「回想十年」)。

 ホイットニー局長は次のように申し渡した。
 概要「マッカーサー元帥はこの程度以下の案はいかなるものも全然考慮に入れない。この草案の精神に反せぬ限りのささいな修正には応ずるであろう」。
 「現在、連合国内では天皇を戦犯とすべきだという意見が大勢を占めている。もし、天皇を存置しようと考えるならば、一刻も早くこの草案を元にした日本側の改正案を立ち上げるべきだ。この草案の諸規定が受け入れられるならば、天皇は安泰になるだろう」。

【日本国憲法の成立過程考その6、「GHQ」草案の新憲法化の動きについて】
 こうした経過を経て、「GHQ」草案が下敷きの新憲法作成が急がれていくことになった。実際には翻訳であったと思われる。この経過で、「GHQ」による「天皇の身柄を人質に取った強制」があったのか、あくまで「日本側の賛同した自発的意思」が伴っていたものなのか今日でも定かではない。はっきりしていることは、新憲法の理想的精神について、幣原首相とマッカーサー元帥との間で白熱共鳴のやり取りが為されている史実があることは確かである。

 但し、第9条の「武装放棄」については、幣原はマッカーサー元帥に、マッカーサー元帥は幣原の発案としてお互いが譲り合っている。「羽室メモ」は、次のように証言している。
 概要「幣原はさらに、世界の信用をなくした日本にとって、二度と戦争は起こさないということをハッキリと世界に声明することが、ただそれだけが敗戦国日本の信用を勝ち得る唯一の堂々の道ではなかろうかというようなことを話して、二人は大いに共鳴した」。

 幣原首相は次のように述べたと伝えられている。
 「中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思う」。
 「旧軍部がいつの日か再び権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、又日本は再び戦争を起こす意思は絶対無いことを世界に納得させるという、ニ重の目的が達せられる」。

(私論.私観) 新憲法の「押し付け」問題について

 戦後憲法を押し付けられたと見るかどうか議論が分かれているが、明治憲法が日本人自らの判断で取捨選択して作成した経過に比べて、新憲法がほとんど「GHQ草案」を下敷きにして翻訳した歴史的経過を思えば「押し付けられた」と受け止めるほうが正確かと思われる。

 とはいえ、予想以上に評判が良く、地下に水が染み入る如く受け入れられていったという経過をどう見るのかという観点抜きにこれを強調することは片手落ちというべきではなかろうか。思えば、明治憲法制定前に様々の試案が作成されており、このたびの新憲法の各条項はこうした系譜から見直すことも可能であろう。とすれば、外形的押し付け論に拘ることは不毛とも考えることが出来るように思われる。問題は、内在的欲求としてあったものであれ、確かにイギリス−フランス的諸革命の如く人民大衆が血であがなって獲得したものではなく、敗戦という旧支配秩序の崩壊の隙間で外在的にもたらされたということであろう。

 それ故、今日次のような論調が生まれている。中西寛京都大学教授(国際政治)は、2000.9.6日付け読売新聞の「憲法論議へ新提案」で次のように述べている。

 「現行憲法が主権者の意思の発露としては重大な疑念が有ることは否定できない。その内容の多くは、軍事力の放棄も含めて、当時の日本人の多数の意向に従ったものであったと云える部分は確かにある。しかし、憲法典のような根本的な法規についてはその内容のみならず、手続きはやはり重要な意味を持つ。占領という異常な状況下で、自由な議論を経ることなく制定された憲法には出自に疑問があると云わざるを得ない。それ故、より正当な手続きを経た憲法を制定する、ないしは現行憲法を改定するという欲求は自然なものと云えるだろう」。

 その他、右派系論調に次のようなものがある。

 戦後憲法を「占領下の押しつけ憲法」として次のように云う。
 「日本の平和憲法は日本民族骨抜き、二度と立ち上がれぬようにするために占領軍民政局の21人(憲法の専門家1人もいない)のアメリカ人が、英文でたった1週間でアメリカ、ソ連憲法を適当につぎはぎして作ったものです」。
 「占領軍による憲法の押し付けは、当時国際法で厳重に禁じられていましたから、作業は全くの極秘に進められました。そして、『これを受け入れなければ天皇の身体の保障をすることはできない!』と占領下の日本政府に脅迫して押し付けたのです。ですから時の政府は涙をのんで受け入れたのです。その英文憲法の翻訳に当たった白洲氏はその悔しさを『“今ニ見テイロ”ト言ッタ気持チ抑ヘ切レスヒソカニ涙ス』と日記に書き残しています。その後、占領政策の言論統制によりマインドコントロールされた国民は平和憲法と賛美しています」。

 後日、吉田茂がマッカーサー氏と会った時、マッカーサー氏が言った言葉として次のように伝えられている。
 「日本は未だにあの憲法か。あの憲法では15年以内に日本は内部より亡ぶとはアメリカ人の見方である。アメリカに遠慮せず早く改憲したらよろしかろう」。

 この「マッカーサー発言」の真偽は分からない。論の内容以前の問題として史実考証的に見てかなり重要であるから出典を明示すべきだろう。

 この右派調見解の「占領下の押しつけ憲法論」が間違いだと云うのではないが、そういう経緯にせよ与えられた戦後憲法の内実論議をせぬのは為にする批判でしかなかろう。れんだいこはむしろ、マッカーサー憲法の草案の作成者こそ詮索したい。これを独りで為したのか複数で為したのか不明であるが、よほど日本の国情に通じ、日本の未来百年の設計に明るい智者が関与していたのではないか推理している。恐らく、戦前左派運動に関わった者にして国際的視野を持つ者にして、単に外国被れではない愛国愛民族主義者であった稀有な人物が関与しているのではなかろうか。れんだいこには、「占領下の押しつけ憲法論」を云々するよりもはるかに興味深い「歴史の闇の覗き」となっている。

 2006.9.23日再編集 れんだいこ拝




(私論.私見)