別章【道教】 |
(最新見直し2012.05.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
道教について調べようと思い検索してみたところ、日本系サイトが驚くほど少なかった。そこで、れんだいこが書き付けておこうと思う。道教思想と日本の古神道との類似性の探索、道教思想の異議と限界の考察等々を課題に据えてみて行くことにする。 2003.4.12日れんだいこ拝 |
目次 | ||
コード | 中項目 | 備考 |
生涯の概略履歴 | ||
道教考、その思想上の功績、儒教批判の構図 | ||
老子の名言 | ||
インターネットサイト |
タオ=道思想
「無為自然」の思想。大自然の摂理の根元を為しているもの、天地自然を動かしている宇宙的原理との即応生活を良しとする思想。
老子の知足の哲学
「足ることを知れば、辱(はずか)められず、止まることを知れば、あやうからず」。
りる
「兵は不祥の器にして君子の器にあらず」
「戦いに勝つも、喪礼を以って之に処(お)る」(例え戦に勝っても、深い悲しみを込めた服装の礼でもってこれに対処すべきが、嗜みである)
仏教以外の中国系の宗教は、マレイシアではほとんどが道教です。道教は、中国に古くから根をおろしている神々の信仰と呪術を集大成した宗教です。道教の最高神は元始天尊です。(後に玉皇大帝)下には無数の神々がいます。農業に関係する土地神、神農、竜王、伝説上や歴史上の王、孔子や武将の関羽を神格化した関帝、仏教の釈迦、観音等がまつられました。これらの神に中国の民衆は子孫の繁栄(福)、財宝(祿)、長寿(寿)を願いました。
道教の教えでは、悪事をはたらいたものや過ちをおかしたものの行動は、天の神々に報告され、寿命を縮められてしまいます。そのため、人々は、善を積まなければ長寿がえられないとされました。
老子、荘子 道教は、儒教や仏教の思想の練りを経て磨かれた中国古代思想の精華であるが、一般にはそのようには認められていない。
道教は、古代中国の自然科学思想であった陰陽五行説(日本では、陰陽道)を学び、天文(暦)の知識。
中国古来の自然宗教、シャーマニズム的呪術信仰、不老不死の神仙(仙人)と化す「神仙思想」、陰陽説・五行説、易学や医学、占星術を基盤とする民間宗教、武道や気功の源流となった体術・医術などを取込み、時代にしたがって人気のある神やいろいろな思想を受け入れてきたところに特色がある。
自然科学(あるいは自然哲学)、
仏教理論・教義などを摂取。儒教と同様、周辺諸国に多大なる影響を与えた。道教そのままの形で根付いた地域もあれば、
仏教や神道などの地域の宗教と習合する形で広まった地域もある。
その結果、道教は多彩で、さらに加えてその道教の影響を受けた民俗や信仰が広く浸透しているため、結局どの範囲をもって道教とするかは難しい。宗教としてのはじまりは隋・唐の時代。発生はもっと昔(約1800年前)で、当初は「神道」と呼ばれていた。日本の神道と成り立ちも似ている。ちなみに成立以前には「道教」という語は一般的に使われていて、「先王の教え」(墨子)であったり、仏教を意味(無量寿経)したりしていた。
道家思想は、日本では、あまり広まりを見なかった。 唐朝(AD618〜AD907)では、官吏登用試験で儒教を受験科目とする通常の「科挙」のほか、 老荘思想を受験科目とするものもあったが、 平安時代の日本では、「陰陽道」は栄えても、老荘思想は栄えなかった。老荘思想は、詩作や書画といった芸術に影響をあたえ。このため、江戸時代においては、 老荘思想の影響のある中国の絵画の流行なども手伝って、老荘思想が広まった。 (同時期に儒教も大いに広まりました)。また、日本の仏教は、老荘思想の影響をうけて成立した中国仏教を母胎としたものでした。 (更に言えば、中国仏教は儒教も取り込んで成立していきました)。
こうして、儒教も日本では空気のように広がっていったのですが、 老荘思想も意識しないところで広まっていきました。
(以下は主に「道教の神々」窪徳忠著によっています)
「孟子」の革命思想(天命を受けたものが平和裏に王者・君主になる)、 「荀子」の覇道(天命をうけた有徳者が、武器を取って革命を起こす)
道教の歴史は、中国の歴史と密接な関係を持っています。それは当然のことです。なぜなら、道教とは中国の人々の思想・信仰のすべてを包容した非常に多面的な宗教だからです。ここでは、中国と共に道教がどう発展していったかを見ていこうと思います。
殷〜西周:中国文明のあけぼのといえる殷王朝から、初の封建社会を築いた周王朝前期まで。自然神、祖先神への信仰が見られる。
春秋戦国時代:周の支配力が衰え、諸侯が覇権を争う時代。諸子百家における道教的な思想を探る。
秦:始皇帝による中国全土の支配が完成した頃の道教の状況を見る。
秦帝国(BC247〜BC202)は法家思想をもって国を治め、思想弾圧を行う。
漢帝国(BC202〜AD220):中国に安定期をもたらし、儒学も盛んになった時代。この頃、道教ばかりでなく仏教も現れつつあった。
漢の初代皇帝・劉邦は、「老子の『無為自然』」にて国家をおさめ、 法律は『盗むな、殺すな、嘘つくな』だけとする」。儒者・叔孫通の接近によって、やがて儒教が浸透していくことになる。漢の初期には、老子の思想と伝説の聖王である黄帝信仰とが一体化した 「黄老道」が隆盛。第7代皇帝・武帝(BC159〜BC87)の時代に、儒者・董仲舒が、 黄老道や、陰陽五行説を取り込んで、 儒教に改変を加え、武帝に国教化を訴えて成功。このため、黄老道は振るわなくなる。
五胡十六国(AD304〜AD439):中国に異民族が侵入してきた混乱期。儒教、道教、仏教が混ざり合う時代となる。仏教の禅宗は道教の影響が強く認められる。禅宗は老荘思想の精華を受け継いだ、とまでいわれている。
隋:日本でも有名な煬帝の時代。道教はあまり振るわなかった。
唐:日本でも最も有名な時代であろう。道教はこの頃、唐王朝に保護されていた。
宋:混乱期を経て再び安定した中国。全真教など道教における革新派を見る。
明〜清:最後の王朝を経て時代は近代へと近付いていく。道教はその勢力を失っていった。
中華民国〜中華人民共和国:そして現代。道教の崩壊と復興の軌跡をたどっていく。
ご利益の中心は長生き(不老長生)です。他のご利益として大変な種類の現世利益が説かれますが、究極の成果として徹底的に長生きを追求する点がとても特徴的です。道教ではさまざまな呪術を駆使し、倫理や道徳の実践を通じて徳を積むことで福禄と長生きを獲得します。そしてさらに修行して、不死で超能力を持つ神仙になることを目指します。
仙(天)・人・鬼からなる三部世界の概念は仏教の因果応報観と似たもので、ひとは上帝鬼神の裁定する「功過」によってどこに行くかが決められ、三部の間を往来することになります。こうして仏教風の仕組みを使って儒教風の倫理の実践を説くわけです。これによれば神仙思想も、本当の目的は徳を積んで仙へ昇格することであり、不老長生とか超能力はいわば余禄のようなものということになるでしょう。倫理性重視の考え方です。
太平道 | 2世紀前半頃、医術、五行思想や予言能力にすぐれていた于吉が、神から授かったという「太平清領書」を根本教典として発生した。のちに張角が華北一帯で数十万の信徒を軍隊的に組織化し、黄巾の乱を起こした。張角ら3兄弟が死ぬとともに衰退。多くの信徒が魏の曹操軍に入ったとされる。 |
五斗米道 | 天師道の源流。もともと儒学を学んでいた張陵(張道陵)が、天降ってきた柱下の史(老子)から授かったという「新出正一盟威の道」で数万の信徒を得て、息子の張魯が教義や組織を完成させた。「三官手書」(天地水の3神に捧げる懺悔文のようなもの:病気は罪の報いと考えられていた)を使った治病のまじないや、「義舎」と呼ぶ無料宿泊所の開設などを行い、巨大な勢力を持ったが、215年曹操に降服した。 |
天師道 | いったん五斗米道教団は分裂したが、再興して勢力を伸ばし天師道と呼ばれるようになる。6世紀頃には各地に天師堂が建ち、11世紀には北宋と結びついて江南地方一帯に勢力を持った。14世紀ごろには正一教と呼ばれ全真教と勢力を2分したが、その後衰えている。 |
上清派(茅山派) | はじまりははっきりしないが、6世紀ごろに第9代教主の陶弘景が「真誥」などを著し、道教思想・信仰の体系化を進めた。唐の時代に王室の祖先を老子であるなどとして結びつき、全盛期となる。その後はあまり振るわない。 |
新天師道 | もともと天師道の修行をしていた寇謙之が、天降ってきた太上老君(老子)から授かったという天師の位に就き、房中術や信徒からの寄進を止め、神仙説の養生術を中心に儒教の礼を加えた教えを説くようになった。5世紀中頃、新天師道は北魏の太武帝の信仰を得て国教化し、太武帝は「三武一宗の法難」の最初となる仏教弾圧を引き起こしたりしている。道教はこの時期に大成されたと考えられている。しかしその後新天師道がどうなったかはよく分からない。 |
太一教 | 12世紀前半に成立、金王朝からモンゴル朝にかけて隆盛したが、13世紀末には絶えてしまった。開祖の蕭抱珍の伝記や説かれた内容についても詳しいことはよく分かっていない。儒教の中庸を尊重したこと、飲酒や五辛を禁じたことなどが知られているらしい。 |
真大道教 | 「道徳教」に基づき、儒仏道3教の特色をあわせたような性格を持つ。12世紀に始まり、モンゴル朝公認のもとで勢力をのばしたが、14世紀の初め頃教主の位置をめぐる争いで絶えてしまった。 |
全真教 | 儒仏道3教の同源論に基づき、禅の要素を多く取り入れた性格を持つ。開祖は王重陽で12世紀に始まり、高弟のひとり丘長春がチンギス=ハンに招かれ信任を得るなど勢力をのばした。仏教との論争に敗れて教勢が衰えたりもしたが、すぐに持ち直して元朝末期まで強い勢力を持った。 |
浄明忠孝道 | 儒仏道3教をあわせた性格ながら、特に忠孝を教学の根本とする。13世紀ごろの成立。 |
武当道 | 玄天上帝のいるところとして知られた武当山を本拠とする。10世紀始めには成立しており、かなりの数の道観が山中にたてられたが、元朝末期の争乱で破壊され、それに伴って武当道も衰えた。 |
道教は、日本では独立した宗教としては定着しなかったようですが、その一部である呪術信仰は古代すでに日本に伝っていて鬼道と呼ばれていました。また神仙思想なども、雑密や修験道の主要な担い手となった山林修行者に受容されていました。特に陰陽道は道教と同根であると言われるほど、基本的な部分で深く結びついています。
文化大革命以前から道教は迷信として攻撃され、戦争中には仏教の寺院に相当する道観の多くが兵舎など別の施設に転用されました。また、中華人民共和国の成立後は道観の所有地が最小限に縮小され、道士や女冠は布教を禁止されて自活を要求されていたため、存続も危ぶまれる状況だったようです。しかしその後、主要な道観については国が修復し、運営に必要な費用も国費でまかなわれるようになってきたそうです。
現存の宗派は全真教と正一教(天師道)のふたつだけで、浄明忠孝道や上清派(茅山派)、武当派などは正一教に合併されたそうです。
(私論.私見)