老子の名言

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.13日


2003.4.1
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[1]
21世紀初頭の新たな混乱期の中で日本が生き抜くためには古い固定観念からの脱皮が必要だ
「道の道とすべきは常の道にあらず」(老子)


 上記の老子の言葉は、「万物は流転する。その中で人間が生きる真の道に、永久不変の道というものがあるわけではない。変化の時代の中で人間は独自の道を開かなければならない」という意味(『中国の思想』第6巻「老子・列氏」参照)。老子の教えは、「自由な発想をもって独創的な道を見出し、切り開け」という点にあるというのが私の解釈である。

 まず世界情勢の捉え方。世界は大変化を始めた。唯一の超大国米国が国連の枠からはみ出てイラク戦争を始めた。第二次大戦後の国連中心の世界政治の枠組みは崩れた。平和的強力の時代は終わった。世界的紛争の時代が始まった。
 発想の大転換をしなければ日本は生きていけない。この時にわれわれ日本人が学ぶべきは『老子』である。老子哲学を知れば道は開ける。
 米国一辺倒の今の日本の生き方についてを考え直さなければならない。
 世界中の近代兵器の50%以上を一国で所有するほどの軍事超大国・米国が国連の決議なしにイラクへの軍事行動を起こしたことは、歴史の大転換に直結する大事件である。いかなる結果になろうとも、世界は新たな動乱期に入ったと見なければなるまい。歴史は暗い方向に向かって大きな第一歩を踏み出したのである。
 唯一の超大国である米国が、国際的に孤立しながら、その巨大な力を振り回して暴走するという事態になれば、世界は中長期的に混乱期に入る。この中で、各国はそれぞれの生き方を追求しなければならなくなっている。

 小泉内閣は米国に追従する道に踏み出したが、これは誤った道である。従米路線にさらに深入りすれば、日本は政治的にも経済的にも米国の支配下に置かれることになる。日本は主権国ではなく米国の植民地に化してしまう。しかし、こんなことで日本が生きていけるはずはない。独自の文化をもち、1億3000万人近い人口をもつ大国日本が米国の一部になるなどということはあり得ないことである。
 繰り返すが、日本にとって今必要なのは発想の大転換である。従米路線が日本にとっての唯一の生き方だという固定観念を捨てて、より自立的な異なる生き方を追求しなければならない。
 新たな進路の模索にあたって前提とすべきことは、経済大国意識を捨てなければならないということである。
 当面われわれがなすべきは、日米関係を中曽根内閣以前、1960年代、70年代の中立的な関係に戻すことだ。1982年に登場した中曽根内閣以後、日米関係に節度が失われた。とりわけ小泉内閣は過度の従米主義である。何事も「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」。行き過ぎは是正しなければならない。
 中国・韓国などのアジア諸国との関係改善は急務である。とくに小泉首相の靖国神社参拝でこじれた中韓両国との関係修復は緊急の課題だ。これなしに極東の安全保障は困難である。今のままでは日本はアジアの孤児になる。
 新たなアジアとの関係の確立が求められている。アジアも大転換期に突入している。

 日本国民自身、大転換に向けて新たな発想が必要である。
 日本再生の方策を考えるにあたって必要なことは、歴史をきちんと総括し、過ちを正すことだ。日本の政治はこの20年間大きな過ちを繰り返してきた。日本政治の過ちは1982年の中曽根内閣から始まる。中曽根首相は対米関係における“節度”を捨て、“過度の接近”という過ちを犯した。中曽根首相は過剰な政治的野心をもち、レーガン、サッチャーとともに世界の大指導者たらんと夢見たのではないか。政治指導者の過剰な野心は国を滅ぼす最大の原因になる。節度なき日米関係の結果、日本の国益は大きく傷ついた。1985年9月22日のプラザ合意は日本政府による日本の国益の放棄だった。これにより米国経済は復活、逆に日本は沈没することになった。
 プラザ合意から17年半が経つ。日米経済関係は逆転し、米国は世界の王者になった。日本は不況のどん底であえぎつづけ、破滅の一歩手前まで追い詰められている。このままいけば、日本は米国の植民地と化してしまうだろう。弱者日本は強者米国の肉にされ食べられてしまう。いや、もはや半分食べられてしまっている。
 80年代につづいて90年代も日本は過ちをつづけた。90年代から今日までの間に三つの「改革内閣」が誕生した。政治改革の細川内閣、行政改革・財政改革など五大改革を掲げた橋本内閣、構造改革の小泉内閣である。いずれの内閣の挑戦も大失敗に終わった。
 この原因は、第一に、日本の風土・文化を無視して無理矢理アングロサクソンと同じ道を進もうとしたこと、第二に新しい低成長の時代に適応しようとせず、自らの力を過信して、80年代までの経済的成功の夢を追いつづけたこと、第三に国際情勢の変化とくに米国と中国の変化を見誤ったこと、にあった。

 日本再生のためには、まず、上記の三つの過ちに気づかなければならない。過ちを率直に認め、その原因を分析し、改革・改善の方向を見つけ出すための努力を始める必要がある。
このためには、すべての指導的政治家が自由で創造的な精神をもつことが大前提となる。ここにおいて役立つのが老子哲学だと思う。(つづく)
【今後、老子哲学の現代日本政治への適応について私見を述べることにします】


2003.4.2
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[2]
アメリカ的価値尊重の風潮は一時的なものにすぎない。アメリカ的絶対善などあるわけはない。
「有無相通ず」(老子)


 「有」と「無」は相通ずる。「有」と「無」は相互に関連し合い、限定し合い、転化し合って、ひとつの統一をなしている(『中国の思想 Y』「老子・列子」、徳間書店刊、奥平拓・大村益夫訳)
 「天下みな美の美たるを知る。これ悪なり。みな善の善たるを知る。これ不善なり」(人はみな「美」はつねに美であると考える。美は同時に「醜」である。だれしも「善」はつねに善であると考える。善は同時に「悪」である)のすぐあとに「故に有無相生じ……」がつづく。
 すべてこの世のことは相対的であり、相互に転化し合うものである。物事に固執してはならないのだ、と老子は説いている。

 米国は今、自らの民主主義と自由経済主義があたかも絶対価値のように信奉し、これを世界中に押しつけようとしている。米英両国は自らの政治体制を武力を使ってイラク国民に強制しようと試みている。イラクの政治体制の善悪を判断するのはイラク国民自身である。ブッシュ米大統領が決めるべき事柄ではない。
 米国政府はまた日本に対して米国的グローバリズムを押しつけようとしている。米国が信奉する自由貿易主義、自由競争主義を強制しようとしている。これも同様に正しくない。どのような経済システムを採用するかは日本国民自身が決定すべき事柄である。
 米国的な絶対善を信奉し、これを他国に強制的に押しつけようとすることは「悪」なのである。
 愚かで軽薄なアメリカかぶれの学者、エリート官僚と一部政治家、一部ジャーナリストが日本のアメリカ化という大愚行を強引に推し進めている。日本の経済社会と政治の混乱の原因はここにある。

 米国政府は、自らが1945年6月26日、サンフランシスコで国際連合憲章に署名したときに誓ったことを忘れてしまったのだろうか(以下「国際連合憲章」前文)。
 「われら連合国人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層の大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びにこのために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国債の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することを決意した。 
 よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける」
 この国連憲章が発効したのは1945年10月24日である。
第二次大戦の敗戦国である日本は、1952年3月12日に国連への加盟を閣議で決定、1956年12月18日の国連総会において国連加盟が承認された。

 米英両国政府はこの平和の誓いを忘れ、国連憲章を踏みにじって、国連決議のないままイラク攻撃を始めた。ともに重大な国連憲章違反を犯している。
 米国はいまや唯一の超大国である。この米国が力ずくで世界を押さえつけようとしている。だが、こんなことが長くつづくはずはない。
 『古文真宝』(中国・宋の時代の詩文集)にあるとおり「剛強なるは必ず死し、仁義なるは王たり」(自らの剛強を頼み、力をもって世を制する者は必ず亡びる。これに対し仁義をもって立つ者は王者となる)のである。
日本国内の米国信奉者は米国のために日本の国益を犠牲にして平然としている。日本の国民とともに生きるのであれば、反省すべきである。


2003.4.3
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[3]
アメリカ絶対善を信奉する政治家・学者・ジャーナリスト・エリート官僚が、日本の諸悪の根源である
「無為をなせば、治まらざるなし」(老子)


 無為とは人為を用いない政治のこと。人民が自由に生きることができるようにすれば天下はよく治まる。政府は人民に対して「こうしろ」「ああしろ」といちいち指示したり、人民の生活に干渉しない方がいい――という意味である。
 この言葉の前に次の文章がある。
 「賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗をなさざらしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば、民の心をして乱れざらしむ。ここをもって聖人の治は、その心を虚しくし、その腹を実たし、その志を弱くし、その骨を弱くす。常に民をして無知無欲ならしめ、かの知者をしてあえてなさざらしむ」(人の賢愚は相対的なもの。賢を重視しなければ民の争いはなくなる。手に入れにくい金貨財宝を貴ぶことをしなければ盗みはなくなる。欲望を無理に刺激するようなことをしなければ人の心は乱れない。真の聖人の政治は、人の心を虚しくし欲望は抑制するが、健康に生活できるようにすることだ。人民が余計な知識も余分な欲望を持たなければ、こざかしいエリート官僚も余計なことをすることができない)

 最近の日本の政治は、日本固有の習慣や文化まで変えるような行き過ぎた国民生活への干渉を行う傾向が強まっている。行き過ぎた改革を叫んで実行し、結果として大失敗を繰り返している。
 「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[1]で、私は、90年代以降今日に至るまでの人気の高かった三つの改革内閣(細川内閣、橋本内閣、小泉内閣)の失敗に言及した。

 最初の改革内閣・細川政権の三大功績といわれてきたものは、(1)自民党単独政権を終わらせたこと、(2)ガット・ウルグアイラウンド合意を受け入れて米の自由化に踏み切ったこと、(3)衆議院議員選挙に小選挙区比例代表制を導入したこと、である。
 しかし、10年間を経て、いずれも成功したとは言い難い。むしろすべて失敗と評価しなければならないと思う。たしかに自民党一党政権は終わったが、「自社さ」「自自公」「自公保」という連立政権の形をとって自民党政権は復活した。これらの連立政権は自民党単独政権よりもはるかに低級な政権である。自民党単独政権よりもはるかに非民主主義的であり、強権的である。
 細川内閣による政治改革は、結果的により悪い政治体制を生み出すことになった。政権は国民の投票結果ではなく、政党指導者の政権欲にもとづく駆け引きによって決まるようになり、理念なき政治が横行するようになった。
 第二の米の自由化は、結果的には日本の国益の推進に役立ったとは言い難い。日本農業の衰退を食い止めることはできていない。それだけではない。その後の展開は日本の米作そのものの危機につながっている。日本の食糧の生産と供給は米国の手に移ろうとしている。
 第三の政治改革についても、これによって政権交代可能な二大政党制が生まれたとは言い難い。小選挙区比例代表制と重複立候補制により政治家の誇りと品位は極端に低下した。
 細川改革政権はすべての面で失敗したと断ぜざるを得ない。失敗の原因は何か。結論から言おう。日本の風土、文化、習慣を無視して欧米流のやり方を直輸入しようとしたことにある。長い歴史のなかで定着した習慣、文化、風土を、政治権力の手で変えようとするのは大間違いである。政治権力の乱用である。

 次の改革内閣は、行政改革、財政改革、金融改革、社会福祉改革、経済構造改革の五大改革(のちに教育改革を加えて六大改革)を掲げた橋本内閣だった。だが、これもことごとく失敗に終わった。失敗の度合いは細川内閣をはるかに越えた。日本経済を駄目にした。
 行政改革は省庁の数を減らしただけだった。行政改革の本来の目的――国家公務員の削減、中央省庁の権限の縮小、財政の削減はほとんど手が着けられなかった。まさに名ばかりの行政改革だった。それどころか、結果から見ると、中央省庁の力が強くなった。中央省庁の権力は強化された。目的と結果が逆になった。
 財政改革は消費税引き上げ、医療費引き上げなど国民負担を増大させただけである。実質は重税路線だった。
 「金融ビッグバン」などと大騒ぎした金融改革の本質が、日本の金融機関をつぶし、米国ファンドに投げ売りすることに過ぎなかったことはすでに明白である。日本政府による国民の富の米国への強制的贈与である。これは今もつづいている。
 社会福祉改革とは単なる国民負担増であり、抜本的改革は先送りされた。国民のための福祉の理念は捨て去られた。
 経済構造改革は強者を保護し弱者をいじめるだけの規制緩和に過ぎなかった。
 教育改革については、着手されないうちに橋本内閣は退陣した。
 橋本六大改革は無惨な大失敗に終わった。橋本改革が生み出したものは日本経済の深刻な不況だった。橋本改革は日本経済を「流動性のワナ」に陥れた。日本経済はいまも不況の泥沼から抜け出ることができていない。同時に日本を米国の植民地化する方向へ一歩踏み出した。これは小泉政権に受け継がれている。

 第三の改革内閣がいまの小泉内閣である。小泉首相が最重要課題として掲げた不良債権処理も財政再建も失敗した。だが不思議なことに小泉首相だけはマスコミの支持を受け続けている。細川政権と橋本政権は政権初期にはマスコミの熱烈な応援を受けたが、潮流が変わり落ち目になるや、マスコミは手のひらを返したように政府批判を始めた。
 しかし小泉政権の場合は違っている。失業率が上昇しても、倒産が増えても、マスコミは小泉政権を支えつづけている。この裏側にあるのは、小泉内閣、官庁エリート、マスコミの癒着である。平成版大政翼賛会の成立である。このバックにブッシュ米政権がいる。日本は権力の分散という民主政治の基本を踏み外しつつある。

 橋本、小泉両内閣に共通するのは、両内閣が米国政府が推進する米国流グローバリズムを支持し、これに日本経済を合わせるための改革をしようとしたことである。細川内閣がめざしたのは米国的政治の日本への導入だった。橋本・小泉両内閣は日本の社会経済システムを米国モデルへ改造することを目標にした。そして3内閣とも失敗した。繰り返すが、日本の実態を無視し、日本の風土、文化、習慣を短期間に強引に変えようとしたことが失敗の原因である。
 言い換えれば、90年代から今日に至る改革の失敗の原因は、「米国流を導入すれば日本はよくなる」という固定観念である。日本の政治家、官界エリート、学者、マスコミがこの固定観念の虜(とりこ)になっていた。米国で高等教育を受けた政治家、エリート官僚、学者、ジャーナリストなど日本の指導層の狙いは、日本を米国化することにあった。
 彼らは犯罪的なことばかりやった。余計なことをしなければよかった。彼らは何もすべきではなかったのである。そうすれば、日本はこれほどひどい状態にはならなかった。


2003.4.4
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[4]
アメリカ絶対主義の拡大と固定化が世界と日本を滅ぼす
「道は、万物の鋭さを挫き、万物の紛(もつ)れを解きほぐし、万物の輝きを和らげ、万物の塵(よご)れに己れを同じくする」(老子)〈『老子』上、朝日新聞社刊〉


 福永光司氏はこの言葉の意味を次のように表現している(中国古典選10『老子』上、p.65)――「己れの気おいを捨て去り、他人と争うことを好まず、才知の輝きを深く包んで凡俗のなかに凡俗として生きる強靱な雑草の精神、重心を大地に落として崩れることなく挫かれることのない鈍角的な人生の在り方を己れのものとすることができるのである」

 2003年3月20日、米英両国はイラク攻撃に踏み切った。小泉首相は直ちに「米英支持」を表明した。これは、日本の政治犯罪史上に記録されるべき大犯罪だと思う。小泉内閣は日本が第二次大戦後守りつづけてきた平和主義・国連中心主義を投げ捨てた。
 同日の記者会見において小泉首相は、これも歴史に記録されるほどの愚かにして罪深い発言をした。3月29日付け毎日新聞朝刊13面「検証・小泉政権とイラク戦争」からこの発言を引用する。
「米国は『日本への攻撃は自国への攻撃とみなす』と明言しているただ一つの国だ。日本を攻撃しようと思ういかなる国に対しても(日米同盟が)大きな抑止力になっていることを日本国民は忘れてはならない」
 私は、この小泉発言を記者会見の場だけでなく国会における答弁でも聞いた。この発言はテレビでも繰り返し放送された。この発言を、国民の皆さんはどのような気持ちで聞いたのだろうか。私は日本の政治をここまで堕落したのか、政治家の誇りはどこに行ったのか――と、暗澹たる気持ちで聞いた。
 われわれ日本人は米国民と米国政府を信じ、友好関係を維持することが大切である。しかし「信頼」と「従属」は異なるものだ。自分の国の防衛は第一義的にその国の政府の責任である。同盟国が存在するからといって、政府の責任放棄は許されることではない。こんな発言を首相はすべきではなかった。

 イラク戦争勃発直前まで小泉内閣支持率は低下傾向にあった。国民の主な関心が日本経済の深刻な不況に向いており、不況の原因が小泉政権の経済失政にあると多くの国民が感じていたからである。そのうえ日本経済の3月危機が進行していた。小泉政権に対して政策転換の要求が強まり、政界における小泉包囲網は狭まっていた。
 ところがイラク戦争勃発と北朝鮮核ミサイル危機発生により、国民の関心はイラク戦争と北朝鮮脅威に移った。テレビ報道はイラク・北朝鮮だけに集中し、国内経済問題は取り扱おうとすらしなくなった。国民は経済危機に無関心になった。
 この間、政府・自民党と米国政府は、日本国民に向かって北朝鮮核ミサイル脅威を叫びつづけた。マスコミも同調した。日本国民の多くは、いまにも北朝鮮から核弾頭をつけたミサイルが日本に向かって飛んでくると感ずるようになった。

 小泉発言はこういう状況のなかで行われた。日本国民のなかに、小泉発言を「日本が攻撃を受ければ米国が助けてくれる。日本の安全保障は米国がやってくれる。この大事な米国に反対するようなことをすれば、日本は米国に守ってもらえなくなる」という意味に理解した人々がいた。それも少数ではない。
 さらに――ここが大事なところだが――〃日本には自国を防衛する能力がない。米国に頼るしか道がない〃と小泉首相が言っているように多くの国民から受け取られた。
 日米安保条約第5条にはこうある――「各締結国(日本と米国のこと−筆者注)は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」
 たしかに「共通の危機に対処する」ことになっているが、しかしこれも条件付きである。その条件とは「自国の憲法上の規定及び手続に従って……」である。米国が日本を無条件に守ってくれるわけではない。日本国の側に「共通の危機に対処する」べき事態になったとき、米国が100%日本防衛を行うという保証があるわけではない。日本の防衛は第一義的には日本政府の責任なのである。

 だが、私がここで指摘したいのは、より本源的な事柄である。日米安保条約よりもより根源的な国の基本があることを忘れてはならないということである。それは、自分の国は自分自身で守らなければならないということである。十分な軍事力を持っているかどうかにかかわらず、自国は自力で守らなければならない。精神の問題である。政府は国民の先頭に立たなければならない。
 政府が自国民を自力で守ることが基本である。米国との間の安保条約がどれほどの重みを持っていようとも、自力防衛主義の基本を否定してはならないのである。この基本原則を放棄すれば、国民と政府は自国は自分で守るとの強い責任感と誇りを捨てることになる。自国の防衛という日本の政治の最重要課題を米国に頼り切ろうとする政治姿勢は政治の退廃である。日米同盟への依存を繰り返し強調する小泉首相の姿は「虎の威を借る狐」に等しい。
 小泉首相の政治は息の詰まるようなこせこせした政治である。こういう政治の下では国民は幸せを得ることはできない。われわれはもっと大きな「道」を進むべきである。大切なのは国民一人一人の自由であり、おおらかに生きることである。

 福永光司氏は次のような解説している(中国古典選10『老子』上、p.65)。
 「万物の世界は、人間の社会がそれを典型的に代表するように差別と対立の世界であり、そこには人間の鋭角的な自己主張や人間同士の複雑な反目と闘争、才知の輝きのあくどい誇示やこの世的な一切の醜悪さがひしめいている。しかし人間が無為自然の根源的な真理に目ざめをもつとき、その差別や対立の相(すがた)はもはや道の絶対性の前にことごとく相対的なものとなり、一面的な価値観やそれを固執する尖鋭な自己主張、利害の反目や才知の衒(てら)いや独り善がりな聖者意識などは人間のさかしらとして空しく崩れ落ちる」
 米英両国のイラクへの武力攻撃とこれを支持する小泉首相の行為は、老子哲学という鏡の前では、愚かで醜悪なものに過ぎないことは明白である。


2003.4.5
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[5]
ブッシュ米政権の世界支配の野望は必ず失敗する
「天地は不仁、万物を以て芻狗(すうく)と為す」(老子)


 天地に仁はなく、無慈悲だ。万物を藁を束ねて作った犬のように扱う。祭壇に供えられるが、祭りがすめば捨てられて顧みられない。天地は、人間のような意志や感情、目的意識や価値観をもたない冷酷な存在である――という意味。

 以下は、福永光司『老子』(朝日新聞社刊、『中国古典選10』)の「解説」からの孫引きで申し訳ないが、トルストイはこう言ったという。
 「人類を悩ますあらゆる災禍は、人間が必要なことを為すのを怠るところから生ずるのではない。かえってさまざまな不必要なことを為すところから生ずる。人がもし老子のいわゆる〃無為〃を行うならば、ただにその個人的な災禍をのがれるのみならず、同時にあらゆる形式の政治に固有する災禍ををも免れるであろう」
 福永光司氏は言う。
 「人類の文明の歪みと危険性を警告し、人間の不必要ないとなみの徹底的な切り捨てを教えて、無為の安らかな社会に人類の至福を説いたのも、老子がその最初の哲人である」

 トルストイと福永氏の指摘はともに正しいと私は考える。私の思想と一致する。政治家は、おのれの野心のために、人類にとって不必要なことをやりすぎる。W.H.オーデンは「政治史というのは、あまりにも犯罪的かつ病的であり、若者の学問としてはふさわしくない」と言ったが、これも同感である。政治史は、一面から見れば、人類にとって不必要なことばかり行う政治権力者の行状の集積なのである。

 現代世界で起きていることは何か。ブッシュ米大統領を中心とする米国政府の指導者たちが、イラク戦争という人類にとって不必要であるだけでなく、犯罪的なことを始めた――ということである。サダム・フセインは好戦的な独裁者である。だが、フセイン政権を除去するために米国が戦争を仕掛けるのは愚行である。定独裁政治の克服は違う方法をもって行うべきである。
 イラク戦争では軍事的に圧倒的優勢な米国が勝つだろう。だが、この勝利は新たな「文明の衝突」をもたらすだろう。ブッシュ米政権にブレア英国首相やわが国の小泉首相が追随している。
 小泉首相は国内政策においても、米国政府の指示に従い、構造改革という日本人にとっては不必要なだけでなく病的で犯罪的な政策を行っている。小泉構造改革は貧富の差を拡大し、国民を勝者と敗者、強者と弱者に二分し、平和で穏健な調和のとれた日本社会を、対立と過剰な競争と混乱の社会に変えようとする犯罪的な試みである。
 小泉首相と竹中平蔵金融相は、日本の金融機関の弱みにつけ込んで、銀行を国有化し、日本政府の手で不良債権を処理した上で、米国金融資本に安すぎる価格で売り渡そうとしている。
 日本の銀行は基本的には健全である。政府がもう少し温かい目で銀行の自立再生を見守る姿勢をとっていれば、銀行は立ち直ることができたであろう。また、多くの中小零細企業が倒産・廃業に追い込まれずに生き延びることができたであろう。いや、今からでも遅くない。竹中金融行政を除去すればまだ再生は可能だ。

 ブッシュ米政権は、巨大な軍事力と経済力にものをいわせて、他民族に米国流政治システムを押しつけ、他国の経済を支配し、石油を手に入れ、そして世界を支配しようとしている。米軍は悪くすると900年前の十字軍のようになるおそれがある。米国の利益と政治家の野心のために米国流の生き方を武力で他民族に強制しようとするのは異常であり、病的であり、犯罪的である。このような強圧的なやり方が長期的に成功することはあり得ない。ブッシュ的な強引な軍事行動は世界中の人々から反発されるだろう。人類の意思に反する行為は永続しない。滅亡の日はそう遠くはないと思う。

 世界の政治が今学ぶべきは「無為」の老子哲学である。日本も同じである。政治が「無為」に徹することにより、人類は自由に生きることができる。自ら創造性を発揮することが可能となる。このとき、人類は政治の人為的被害から自由になるのである。


2003.4.6
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[6]
地方と農村の興隆こそ、日本の長期的な再生の道である
「谷神(こくしん)は死なず。これを玄牝(げんびん)と謂(い)う。玄牝の門、これを天地の根と謂う」(老子)


【谷間の神霊は永遠不滅である。これを玄妙不可思議な雌という。谷は「母なるもの」。母なるものの門、それが天地の根元である。】
 ここには自然の強靱な生命力を賛美する老子の思想の神髄が示されている。

 2003年4月――4年に一回行われる統一地方選の月である。4月13日には都道府県と政令指定都市の首長と議員の選挙が行われる。後半の4月27日には市町村の首長と議員および国会議員の補欠選挙が行われる。
 前半の選挙で注目されているのが、東京、北海道、神奈川、三重、佐賀の知事選だ。
 このうち東京は中央の政局動向との関連で注目されている。石原知事の再選は確実と見られているが、批判票の数によっては石原氏の国政への道に影響が出る。圧勝すれば「石原首相待望論」は高まる。逆もあり得る。石原氏の得票率が意外なほど低かった場合はとくに影響が大きい。「石原首相」の可能性がきわめて低いということになれば、都政における石原氏の求心力は低下する。マスコミの石原礼賛のトーンが下火になるかもしれない。いままでは石原都政への都民の不満は、石原氏に過剰な好意を抱くマスコミによって無視されてきた。しかし石原氏の求心力が衰えれば、いままでマスコミによって軽視されてきた都民の不満が表哩サしてくる。これとともに日本唯一の繁栄の極である東京のもつ矛盾が明らかになる。この方向へ動く可能性がある。東京バブルは終焉に近づく。
 北海道、神奈川、三重、佐賀の4知事選には、現職知事引退、乱立といえるほどの多数の立候補者による激戦、という特徴がある。この原因は、旧来の地方政治の基盤の崩壊によって、自民党が知事候補者を調整する力を失ったことにある。
 小泉構造改革の「優勝劣敗」「東京重視・地方軽視」政策により、地方の衰退は著しい。経済状況は悪化の一途だ。地方財政は逼迫し、自治体の力は衰えており、前任者が後継者を指名する力はない。そのうえ地方の有権者の政治不信は深刻である。
 地方再生は日暮れて道遠しだ。
 他の知事選――岩手、福井、鳥取、島根、福岡、大分――は無風選挙の傾向が強い。鳥取県の場合は現職知事が無投票当選することになった。他の県では有力対立候補が見えない。これらの県では投票率の低下が心配されるほど政治が無気力である。有権者の政治的無関心が蔓延している。
 もう一つの大きな選挙は44道府県の議員選挙だが、過去の選挙に比べて無投票当選者が急増している。挑戦者が激減しているからだ。政治家をめざす人間が少なくなっているのである。選挙が行われる場合も、真の激戦区というのはほとんどない。
 4月27日投票の市町村レベルの選挙にも同様の傾向が見られる。この背景にあるのは地方・地域の衰退である。これは、政府の今日までの官僚的な中央重視政策の結奄ナある。小泉内閣の構造改革は地方破壊を急激に進めている。
 地方・地域には、自然がある。農業がある。自然と農業は人間社会の活力の源泉である。
 日本の再生のためには、自然環境の保全、地方・地域の経済の活性化、農業の再興が必要である。
 小泉政治は米国への忠誠第一主義をとっている。国内では東京圏繁栄第一主義である。「勝ち組」優先である。
 このような貧しい小泉政治をやめさせて、自然のもつ本来の活力を旺盛にする政策をとらなければならない。
 政策転換の時が近づいている。いまこそ、母なる自然と農業を蘇らせるために、小泉政治を終わらせなければならないと思う。



2003.4.7
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[7]

 「天は長く地は久し。天地のよく長くかつ久しきゆえんは、その自ら生きざるをもってなり。故によく長生す。ここをもって聖人は、その身を後にして身先んじ、その身を外にして身存す。その私なきをもってにあらずや。故によくその私を成す」(老子)


【天地は永遠だ。なぜ永遠か。天地が生きよう生きようと努めないからだ。聖人も、人に先んじようとしないために、かえって人の先になる。わが身を忘れる結果、かえってわが身を全うする。自己を没却するからこそ自己を確立できる】

 以上の老子の言葉を、社会における人間の処世術として解釈する向きもあるが、私は処世術を超越した思想として捉えている。
 日本にも古くから使われてきた言葉として「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」がある。出典は、空也上人(903~972)の作といわれる「山川の末に流るる橡穀(ともがら)も身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」である。この「浮かむ瀬」とは、仏の悟りを得る機縁、成仏の機会の意味だが、処世術として使われる場合は窮地脱出の際の心の持ち方を意味している。

 現在の政治を見ると、指導的な政治家のなかには、自分だけの生き残りを優先させ、常に人に先んじようとするタイプが目立つ。この種の出しゃばり型でなければ指導的な地位につくことが困難になっている。マスコミは出しゃばり型政治家にのみ注目する。謙虚な人柄の政治家はマスコミに好かれず無視される。ゲーテは「謙虚であることをわきまえている人は、最高のことを企てることができる」と言ったが、日本の政界では謙虚さと無縁なタイプの政治家ばかりが目立っている。こうなるのはマスコミが異常だからだ。
 ブッシュ大統領から「悪の枢軸」と指名されたイラクと北朝鮮の二人の独裁者――サダム・フセイン大統領と金正日北朝鮮国防委員長―― だけでなく、民主主義の国の指導者にも出しゃばり型が多い。ブッシュ米大統領、ブレア英首相、小泉首相らも「自己を没する」タイプではない。いまや「オレがオレが」タイプの政治家ばかりが国際政治の舞台で主役の座を占めている。
 人に先んじようとする指導者が衝突して国と国との争いが生じ、拡大して、やがて戦争に至る。指導者は戦いに勝って英雄になろうとする。戦争はごく少数の勝利の英雄と多数の惨めな敗者を生み出す。一人の英雄が誕生する裏側で、数多くの人民大衆が不幸になる。多数の死者が出る。負傷者が出る。国民の富が失われる。それでも出しゃばり型政治家は戦争に突進する。そしていったん戦争を始めたら、決して途中でやめようとしない。戦争は勝者と敗者が決定するまでつづく。その間多くの人命が失われる。

 日本は、第二次世界大戦の敗北以後、「控え目主義」的生き方をとることになった。最近まで日本政府はこの生き方を通してきた。
 しかし、イラク戦争が始まると、小泉政権は米国支持を表明した。小泉政権は日本の国としての生き方を大きく転換しようとしている。
 だが、日本は第二次大戦後の「控え目主義」を捨てるべきではない。「人に先んじようとしない生き方」を貫くことが、日本が世界のなかで平和に生きる道である。



2003.4.8
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[8]

貧富の差の拡大をめざす小泉構造改革は反国民的政策である

「上善は水のごとし」(老子)


 【最高の善は水のごときものである】
 この言葉の後に次の意味の文がつづく――水は万物に偉大な恵みを与えるが、万物と争うことはしない。争わぬからこそ、過失もなく、咎めだてされることもない。

 小泉内閣発足以来2年間繰り返し指摘してきたことだが、小泉構造改革とは、第一に不良債権処理である。これは、日本の銀行をいじめ尽くして、やがて国有化し、国の手で不良債権処理をはかって健全化した後、米国の金融資本に安く譲り渡すことを狙ったブッシュ政権奉仕のための「改革」である。小泉構造改革は日本の国民のためでなく、米国巨大ファンドの利益のための改革である。国民に利益をもたらす施策とは正反対のものだ。
 このような反国民的な改革を、こぞって支持し応援したマスコミの罪は重い。マスコミの大犯罪と言っても過言ではない。
 とくに罪深いのは、小泉首相と竹中金融相と金融庁の官僚だ。ポスト小泉の内閣ができたら、反国民的政策の実行責任者を政治犯罪者として追及しなければならないと思う。

 小泉構造改革の第二は、財政再建だ。小泉首相と財務省は、最優先すべき景気回復よりも財政再建の方を重視した。これは大きな過ちである。この結果、景気は下落し、税収は減った。失業率は急上昇。結果は財政再建どころか財政の一層の悪化をもたらすことになった。小泉首相は大過失を犯したのである。
 小泉首相は、景気回復策を一切講じようとせずに、不況促進効果の強い構造改革を進めた。これでは景気が浮揚することは不可能だ。小泉首相はこの矛盾を「米百俵」の論理と「痛みに耐えて頑張ろう」の軽薄な感情論で乗り切ろうとした。  小泉首相の国民を犠牲にする政策を可能にしたのは、マスコミの小泉政権支持だった。マスコミは「米百俵」論と「痛みに耐えよう」論を積極的に応援した。マスコミはこの点についても大きな過ちを犯した。小泉政治を支持したことについてマスコミの責任が問われるべきである。

 小泉構造改革がスタートしてから2年の間に平均株価は約半分になった。失業率は上昇し、犯罪は急増した。貧富の差は大幅に拡大した。少数の富者が生まれた反面で、多数の貧者が生み出された。少数の幸福な人々とともに多数の不幸な人々が生まれた。
 上善は水のごとし――政治の根本を示した言葉である。おそらく、小泉首相や竹中金融相らの構造改革派には、このような高貴な思想は理解できないかもしれない。
 政策転換が急務である。小泉首相が政策転換を拒絶するなら、小泉内閣そのものを倒さなければならない。それも急がなければならない。早急に景気対策を講じて、国民生活、中小零細企業、農家を潤す経済政策を実行すべきである。
 大切なのは、政府がつねに国民生活を潤す施策をとりつづけることである。国民に「痛みに耐えて……」と求めるような冷酷な経済政策はとってはならないのである。


2003.4.9
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[9]

政治指導層の穏やかな世代交代が日本を救う

「功遂げ身を退くは、天の道なり」(老子)


 この言葉の前に次の意の文章がある――「酒を満たした杯はいつまでも持ちこたえることができない。鋭利な刃物は折れやすい。財宝を蓄えればかならず狙われる。富貴になって慢心するのは災厄を招くもとだ」(『中国の思想Y/老子・列士』、徳間書店刊)

巨大な政治権力を手にした指導者にとって最もむずかしいのは「引退時期」の選択である。老子の教えを実行する指導者はきわめて少数だ。大多数の指導者は権力を手放そうとせず、頑張る。権力に執着するのである。しかし、世代交代がなければ政治は硬直化する。若ければよいというものではない。着実な世代交代が政治を活性化させる。

 4月6日(日)朝、フジテレビ「報道2001」に中曽根康弘元首相(84歳)が出演しているのを見た。いつまでも元気で活躍されているのはめでたいことである。これは一見よさそうに見える。だが、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の感は否めない。中曽根元首相がいつまでも張り切りつづけることによって、次の世代(とくに昭和1ケタ世代)の活躍の場が抑えられている。この世代の政治家は地味で控え目であるため、中曽根氏ほどには目立たないが、優れた人材が少なくない。これらの人材が十分に活躍できる場がない状況がつづくのは、日本にとって大きな損失である。
 中曽根氏と宮沢喜一氏の二人の元首相だけが、いつまでも突出して日本の指南役的立場を維持している。これはマスコミの不見識にも原因がある。中曽根、宮沢両元首相をいつまでも日本の指南役におこうとするのは大きな過ちである。

 今日の日本が直面している諸困難の根は、第二次大戦後の経済成長の成功そのものにある。日本は、敗戦直後の無の状況から立ち上がり、戦後復興と60年代の高度成長を達成し、70年代の二度の石油危機を克服し、80年代初期に経済大国化を実現した。しかし、この成功をもたらしたシステムがその後有効性を失った。それなのに日本は過去のシステムの維持にこだわった。これが90年代から今日に至る大失敗のもとである。
 80年代半ばまでの成功のあと、80年代後半のバブル経済、90年代からの長期不況――この失敗の原因は、成功体験の意識を新たな時代になっても変えることができなかった政治の硬直性にある。

 この成功と失敗の50年間を、国民とともに生きてきたのが昭和1ケタ前後の世代の政治家である。この世代は戦後ある時期までは国民の一人として国民とともに苦労を味わってきた。この世代は戦後日本をよく知っている。次の時代には何をどう改めなければならないかを知っている。だが、この世代の政治家が第一線で活動する機会はない。いつまでも引退しようとしないその前の世代の政治家がいるからである。
 中曽根氏が国会議員に初当選したのは昭和22年、宮沢氏がエリート官僚から国会議員になったのは昭和28年のことだった。中曽根、宮沢両氏は指導層の一員として戦後58年を生きてきた。言い換えれば一般の国民としての生活体験がない。意識の面で国民と遊離していた。80歳台の政治家は、いま日本で何が起きているのか、本当のことは分かっていない。
 ところが昭和1ケタ世代の政治家は、戦争を1兵卒としてまた学徒として体験し、敗戦直後はどん底のなかで働きつづけ、その後政治家の道を志した人たちである。この世代が高度経済成長時代を担った。

 昭和1ケタ世代は衆院に60名、参院に38名、合計98名が国会にいる。国会議員(727名)に占める比率は13%だ。このなかには数々の逸材がいる。ただし、この世代には控え目、地味、謙虚を尊ぶ傾向が強く、中曽根氏のように派手なパフォーマンスが得意でない。このためにマスコミにはあまり好かれない。
 マスコミとくにテレビは演技力のあるタレント型政治家を好む。マックスウェーバーの説く政治家の資質――情熱、洞察力、責任感――を基準にして政治家を評価するような気のきいたテレビマンはほとんどいない。テレビ局は視聴率至上主義である。国民はテレビに出演しない政治家のことはほとんど知らない。知名度が最大の価値となった高度情報化社会において、テレビは知名度と演技力を重視して出演者を決める。知名度が低い政治家は、いかに優れた政治能力を持っていても国民的リーダーになるのはむずかしい。テレビマンの不見識が謙虚で有能な指導者の登場を妨げている。

 引退の哲学――かつての日本人にはこれがあった。先人たちは次の世代に十分に働く場を与えるために、引退の時期を間違えないよう気を配った。明治世代の政治指導者は「引き際」をわきまえていた。
 だが大正世代になって「引退の哲学」を持たぬ指導者が増えた。中曽根氏が首相になってからもう30年以上が経つ。首相を辞めてから25年以上だ。この間、中曽根氏が指導力を維持しつづけてきた代償として、多くの優秀な後継者たちが十分な働き場所を得ることなく政治生命をすり減らした。宮沢氏の場合も同様だ。両氏は次の総選挙においても元首相の特権を行使して、比例区で衆議院議員の地位を維持しつづけようとしているように見える。両氏が老子の言う「天の道」に従って、潔く後輩に道を譲ることを望みたい。

 古い高度成長型の政治経済システムを終わらせ、新たな21世紀型システムを築くための大手術の仕事は、戦後58年間の歴史を体験した昭和1ケタ前後世代にやらせるのがよい。この世代こそ、古い時代に引導を渡し、終わらせ、次の時代の枠組みを創造する役割を担うべきである。この役割を果たしたら、直ちに「天の道」に従って引退しなければならない。
 より若い世代50代、40代、30代の政治家には、この大事業を達成する知恵も馬力もない。この世代の政治家は幼稚である。知識はあるが知恵がない。本当の苦労を知らない。まだ未熟である。もうしばらくは知恵と馬力のある70代、60代の政治家に働いてもらわなければならない。

 ついでに言えば、日本の首相の在任期間は2年で十分だ。事実上米国の従属国である日本の首相が長期政権を維持しようとするのは、日本にとって危険である。米国政府の支持を得るために日本の国益を犠牲にした中曽根内閣以後、日本の国富がどれだけ米国に移転したか――これを見れば、長期従米政権の危険性は明らかであろう。小泉内閣の2年間に、日本の国益がどれほど犠牲になったか。巨額の日本国民の富が米国のものになった。
 小泉首相は「天の道」に従って引退するのが日本国民のためである。小泉構造改革は日本国民にとっては百害あって一利なしである。 


2003.4.10
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[10]

平和を願うことを罪悪視する最近の異常な風潮を憂う


「人民を愛し国を治めるについて、無為を守っているだろうか。……事物の理を究めるにあたって、知の限界をわきまえているだろうか。『道』は万物を生み、万物を養う。万物を現象させながらもその現象を固定させず、存在させながらも功を誇らず、完成させながらも支配しない。これが『道』の底知れぬ徳である」(老子)[『中国の思想W/老子・列子』(奥平拓・大林益夫訳)、徳間書店刊、より引用]

 老子哲学の根本にある「無為」とは、「何物とも対立せず、何物に対しても争わない、己れを固執せず、みずからの功を誇らず、ひっそりとして静かに、ゆったりとしてただあるがまま」(福永光司『老子』、朝日新聞社刊)という意味である。

 最近、政界とマスコミのなかに、平和を願うことがあたかも罪悪であるかのように扱う異常な空気が生まれている。非常に危険である。
 4月8日、新聞1面トップには「米軍、大統領宮殿を占拠」(朝日、毎日)、「バグダッド中心部制圧」(読売)、「米英、首都中枢を制圧」(日経)、「米軍、宮殿占拠」(産経)、「バグダッド中枢制圧」(東京)の大見出しが躍った。前日の4月7日のテレビは、米軍がイラク大統領の宮殿を制圧した模様を繰り返し放映した。
 最近、テレビは朝から晩までどころか、終日24時間、イラクにおける米軍の軍事行動ばかり報道しつづけている。世界にとって大変重大な事柄なので報道するのは当然だが、この報道の中身が問題である。報道する人に人間としての深みが感じられないのである。このため、国民の意識の面で戦争を罪悪と見られない傾向が強まっている。戦争が当たり前の現実になってきているのだ。戦争が人間にとってどんなに苦しく、辛く、悲しいものか、という意識を持たないまま、人々は戦争を受け入れ馴れていく。

 「文明のおかげで人間の残虐さは醜悪になった」――ドストエフスキーが1864年に書いた『地下室の手記』のなかの一節だ。米英軍の最新技術兵器が容赦なくイラク国民の上に浴びせられ、罪なきイラクの老若男女の生命が奪われている。ラムズフェルド米国防長官の冷たいおごった態度だけが目立つ。
 イラク戦争が始まった頃は米英軍の非人道的軍事行動を咎める人もテレビに出ていたが、最近は米英軍の批判者はマスコミからほとんど排除されてしまった。人道主義の主張者はテレビから姿を消した。ブッシュ米大統領の従順なサーバントと化した小泉首相の支持率が上昇するような異常現象が起きている。

 「人間は従順な動物である。どんなことにも馴れてしまう存在である」――これもドストエフスキーの言葉。政治とマスコミが、戦争を肯定する風潮を広げ、国民の常識を非常識に変えようとしている。まことに恐ろしいことである。
 戦後、日本、米国、英国に数々の政治指導者が登場した。米国の大統領、英国の首相のことはニュースで知るだけだが、日本の首相のなかには直接会った人が何人かいる。直接見ただけの人もいる。これらの過去の政治指導者と比べて、現在の小泉首相、ブッシュ大統領、ブレア首相には際立った特色がある。一言で言えば「冷たさ」である。この3人ほど「温かさ」に欠けた政治指導者は過去にはいなかったように思う。政治トップの「冷たさ」がマスコミに伝染し、各界の指導層に広がっている。東京の指導層の間には恐ろしいほど歪んだ冷酷な意識が拡大している。
 3月初めのことだった。3月末までコメンテイターを努めていた某テレビ局のニュース番組(今はない)で、イラクへの軍事攻撃を急ぐ米国政府の姿勢を批判するため、「兵力に訴える前に、まず百種の和解策を試みよ」という米国の法学者ケント(1763〜1847)の言葉をボードに書いたところ、スタッフから「森田さん、この言葉を使う時に〃サダム・フセイン支持で言うのではない〃と言ってください」と言われ、大変驚いた。
 私は即座に拒否したが、上司から私の発言に注意するように言われていた節が感じられた。「平和を叫ぶ者はサダム・フセインの支持者」という米国防総省の指導者と同じ歪んだ意識が日本のテレビ局の上層部に伝播している。ケントの言葉は高潔なものである。すべての政治指導者が心すべき理念である。
 私はただ当たり前の常識を言おうとしたが、これを素直に理解しない歪んだ空気がテレビ局内にあることを思い知らされた。政府の側からなんらかの働きかけがあったのかもしれない――そんな感じを受けた。

 小泉首相は「人民を愛し国を治めるについて、無為を守っているだろうか」――否である。人民を愛さず、日本の国益を顧みることなく、政権の延命のためにブッシュ政権に追従しつづけているのが小泉政権である。このような政権を嬉々として支えているエリート官僚、エリートテレビマン、そして首相の周辺でゴマをすりつづける御用学者――彼らこそ国を滅ぼす悪徳の士である。『老子』の「無為」哲学を学んで反省してもらいたいと思う。小泉首相は余計なことをすべきではない。
 老子は「玄徳」を説く。「玄徳」とは、「玄(いみ)じき聖人(ひじりびと)の徳」(福永光司訳)、「もっとも深遠な『徳』」(坂出祥伸・武田英男訳)である。  


2003.4.11
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[11]

やたらに法律ばかりつくっていては社会はダメになる


 「すべて形あるものが役立つのは、形無きものがそれを支える役割を果たしているからだ」(老子)[福永光司訳『中国古典選10/老子』、朝日新聞社刊、より引用]

 「『無』のはたらきがあるからこそ、『有』が役立つ」(『中国の思想Y/老子』、徳間書店刊)、「『有』が人に与える便利さは、まったく『無』が決定的働きをするからだ」(『老子訳注』、東方書店刊)という言い方もある。

 老子は「無」の方を決定的なものと見る。
 福永訳『老子』が例に挙げているのは、車の空洞、陶器のなかの空間、住宅の空間の三つの「空」である。室町時代の能芸の巨匠・世阿弥は「するわざ」に対する「せぬひま」が面白いと言った(福永訳『老子』)。
 老子はここで哲学的意味を論じているのだが、「無」と「有」の関係は、人間の行為についても言い得ることである。福永訳『老子』には次の明の董其昌(とうきしょう)の絵画論が引用されている――「山水を画くには虚実を明らめなければならぬ」

 芸術の面だけでなく、人間の社会的活動にも同様のことが言えると思う。国民と政治の関係は、単に形あるものだけの関係ではない。形ある関係以上に形なき関係の方が大切だと言って過言ではない。国民と指導者の間の空間にこそ意味がある。この空間を埋めるのが指導者の崇高な徳である。指導者に徳がなければ、国民と政治との関係は廃れる。
 米国で教育を受けた最近の若い政治家は、老子的な「無」の世界が理解できないだけでなく、関心すらない。若い政治家は、国民と政府との間の「空」を理解できないため、やたらに法律をつくりたがる。何か事が起こると、すぐに「法律をつくろう」である。その結果、法律は次々につくられるが、しかし、それは社会を自縄自縛の状況に追い込むだけである。社会がよくなることはない。不自由のみが拡大し、社会からおおらかさが失われる。
 サミュエル・ジョンソン(英国の詩人・批評家、1709〜84)は言う――「腐敗した社会には多くの法律がある」。腐敗した社会では法律ばかりつくられる。しかし、それによって社会がよくなることはない。社会の活力は低下し、住みにくさと不自由が拡大再生産される。大切なのは強制よりもおおらかさである。


2003.4.12
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[12]

ブッシュ大統領ら米政府指導者に、戦争への“欲望”を抑え、世界平和を志向する健全な精神があるか?!

 「聖人は、もっぱら内面を充実させて、外界の刺激を求めない。つまり、欲望を捨てて、『道』にのっとるのである」(老子)[『中国の思想Y/老子・列子』、徳間書店刊、より引用]


 この言葉の前に次の文がある――「多彩ないろどりは、人の視覚をそこなう。刺激的な音楽は、人の聴覚を傷つける。手のこんだ料理は人の味覚を狂わせる。狩りを好んで獲物を追うことに熱中すれば、人の心は平衡を失う。宝物を手に入れようと夢中になれば、人は行いをあやまる」。

 現在の民主主義社会の指導者に「聖人」的生き方を求めるのは、あたかも日常品のリサイクルショップで超高級品を探すようなものである。このことを前提にして以下のことを書く。

 日本の知識層(「日本に知識人はいない」という説は無視できないが、ここでは日本にも知識層がいるとの建前を尊重することにする)は米国が好きだ。米国が立派な国だと信じている。しかし、ごく一部とはいえ、ブッシュ政権に対しては強い警戒感がある。「イラク戦争で大勝したら、ブッシュは次にどの国を攻めるのか。ブッシュは世界制覇に出てくるのではないか」との疑念がある。
 唯一の超大国・米国の指導者たちは、巨大な軍事力をもって世界支配への道を進み始めるのではないかという心配が、私にはある。ブッシュ大統領の姿が、過去の征服者とダブって見える。アレクサンダー大王(BC356-323)、十字軍のウルバヌス2世(1042−1099)、モンゴル帝国のジンギスカン(1162−1227)、ナポレオン(1769−1821)……。
 私が心配するのは、イラク戦争において完全な勝利を得たあと、ブッシュ大統領、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官らが強大な武力をもって世界中を服従させようという征服者の心境になることである。強大な権力者は傲慢病に罹りやすい。そうなれば、恐ろしいことが起こる。世界中を巻き込む第三次世界大戦のおそれが強い。
 米大統領とその側近たちが気にくわないと考える指導者のいる国に対して、容赦のない武力攻撃を加えるおそれがあるのだ。不幸にも、米大統領から睨まれるような政府指導者をもった国民は、米国の爆弾を浴びせられる。生きる自由を奪われることになる。

繰り返すが、米国はいまや唯一の超大国である。軍事的にも経済的にも世界中を敵にしても勝つ力をもつ超大国である。いまの米国なら、どんなにひどいことをしても、それを押し通す力をもっている。世界中を敵に回しても、米国がいますぐ潰れることはない。少なくとも米国の指導者はそう考えているに違いない。もはやブッシュ政権の暴走を阻止できるのは米国民しかないが、悪いことに、米国民の意識が政府の情報操作によってコントロールされている。むしろ「やれ!やれ!」の空気が強い。マスメディアも政府のコントロール下にある。少しでも反抗するメディアがあれば、すぐに潰される。

 マックス・ウェーバーは『社会学の根本概念』のなかで「『支配』とは、ある内容の命令を下した場合、特定の人々の服従が得られる可能性をさす」と述べたが、ブッシュ大統領が世界中を服従させようという誘惑に身をゆだねたとしたらどうなるか。残念ながら、それは不可能なことではない。
 オルテガ・イ・ガセーは『大衆の反逆』のなかでこう述べた――「タレイランはナポレオンに向かって次のように言ったのだ。『陛下、銃剣をもってすれば何事もできますが、ただ一つ、できないことがあります。それは銃剣の上に安坐することです』」、と。
 強大な軍事力をもってすれば何でもできる。しかし敵を皆殺しにするか無条件降伏させたとき、軍事力は役に立たなくなる。次々に敵を求めて武力を行使しても限度がある。戦いはいつかは終わる。問題はそのあとの支配にある。安定した支配を可能にするのは、究極的には世論である。世論の支持が得られなければ、支配は安定しない。世界中の人々がいつまでも米国の軍事力を背景にした横暴におびえつづけることはない。抵抗闘争に立ち上がる者が必ず登場する。

 いまのブッシュ大統領はじめ米国のリーダーたちの精神状態はどういうものだろうか。
 老子のいう「獲物を追うことに熱中すれば、人は心の平衡を失う」ような状態であれば、大変である。また、イラクの石油という「宝物を手に入れようと夢中になれば、人は行いをあやまる」ような状態であれば、これまた大変なことである。 

 エラスムスはいう――「戦争は国家の疫病であり正義の墓場である。武器にとりかこまれた法は沈黙する。大部分の民衆はこれを呪い、平和を希求しているのだ。そして常に民衆の不幸の上に呪われるべき繁栄を温存する少数者のみが、戦乱を望むのである。彼らの非人間性が、かくも多くの善良な人々の意志にまさるべきであろうか?……戦争は新たな戦争を招き、報復を呼び、不寛容は不寛容を生むのである」(「平和神の嘆き」)。
 米政府指導者にとって、このエラスムスの言葉は「馬の耳に念仏」のようなものかもしれないが、米国に理性が戻ることを望みたい。
 *参考文献:『ちくま哲学の森』別巻「定義集」、筑摩書房刊。 


2003.4.15
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[13]

政治家の生き方について

「愛するに身を以てして為(おさ)むれば、若(すなわ)ち天下を托すべし」(老子)


【真の意味で我が身を大切にし、己れの生命を愛惜する人間であってこそ他人の生命を大切にし、他人の生き方にいとおしみを持ちうる。… …従って、そのような人間であってこそ初めて安心して天下の政治をまかせられる(福永光司『老子』朝日新聞社刊より引用)】

 国民が安心して政治をまかせたいと思うような指導者は稀である。現在の日本の政界に国民から信頼される政治指導者がほとんど見当たらないというのは、本当に残念なことだ。この原因の一つは、政治家が深い意味で自分自身を大切にしていないからである。

 最近、旧知の国会議員から次のような話を聞いた――「去る2月に行われた関東地方のある県の知事選で、最有力と見られていた元国会議員の候補が負けた。最大の敗因は、昔の新聞記事のコピーがその県下にばらまかれたこと。この行為は選挙違反にはならない。誰がやったかはわからない。ばらまかれたコピーは鈴木宗男衆議院議員の政治献金に関するもの。その中に鈴木氏から献金(いわゆるムネオマネー)をもらった国会議員のリストがあり、この候補の名があった。彼は鈴木氏から献金を受けただけで知事への道を失った。この元国会議員は真面目な人物だったのに気の毒だった」
 この国会議員は鈴木氏と同じ派閥に属していた。しかも全盛期の鈴木氏は派閥を牛耳っていた。献金を断ることは大変むずかしいことだったことは同情に値する。しかし、断ることができなかったために政治生命を失った。自らを大切にする強い心をもっていたら、いい知事になることができたかもしれない。
 以上の見方は、あくまで私に話をした国会議員の主観的な見方である。

 最近、もう一人の旧知の国会議員から聞いた話を紹介する――「大島理森前農水相は善人。あんなこと(農水相辞任)になって気の毒だ。辞職の時期を間違ったためにボロボロになってしまった。早く辞めていればよかった。……おそらく、小泉総理に引き留められたために、辞めることができなかったのだろう。小泉さんは農水相が辞職すれば抵抗勢力から内閣改造要求が出るのをおそれたのだろう。大島氏は小泉さんに『ノー』と言えなかったために、ひどいことになった」
 これも、この国会議員の主観的な見方である。
 大島氏は自分自身を大切にする精神が不足していたのかもしれない。このために、将来大きなリーダーになる可能性を失った。
 自分自身を大切にする心を持ち、この心で国を治めることができるような人物こそが、国の政治をまかせられる政治家になり得るのである。

 政治家のスキャンダルがあとを絶たない。金銭スキャンダルだけでなく、セックススキャンダルも絶えない。このような不道徳に入り込むのは、「真の意味で己を大切にし、家族を大事にする心」を失っているからである。
 自らの政治理念を国民社会の上に実現しようと決意した政治家は、低級な欲望やエゴイズムで行動してはならない。広い心で自分を大切にし、同じ心で国民を愛する政治家が、いま求められているのだ。
 高潔な精神を持って清潔な人生を歩んでいる政治家こそ、国民が安心して政権をまかせられることのできる未来の政治リーダーである。


2003.4.21
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[14]

政治の傲慢が人類の未来を危うくする

「道の法則性は古今を一貫している。この法則を見きわめることによって、根元としての『道』が認識できるのである」(老子)[奥平卓・大村益夫訳『中国の思想Y/老子・列子』、徳間書店、より]


 古い翻訳は次のとおり――「古(いにしえ)の道を執(と)りて以て今の有(ゆう)を御(おさ)む。古始(こし)を知る、これを道紀(どうき)と謂う]。
 福永光司氏はこれを次のように訳している(『中国古典選10/老子』、朝日新聞社)――「太古からの真理を握りしめて、今も万象を主宰している。歴史と時間の始源を知ることのできるもの、それを道の本質とよぶのだ」。
 坂出祥伸・武田秀夫訳(任継癒訳注『老子訳注』、東方書店)では、「いにしえからの『道』にもとづいて目の前の具体的な事物(有)を支配し、いにしえからの始まりを認識することができる、これを『道』の法則とよぶ」と訳されている。
 訳者により『老子』の理解に差があるが、私は奥平・大村訳がよいと思う。『老子』は、「道」を、見えないもの、聞こえないもの、形がないもの、感覚ではつきとめられぬもの、すなわち色、音、形、感覚を越えた一般性をもったものと捉える。

 ひるがえって現代は科学万能の時代である。科学技術万能主義のもとでは、感覚でつきとめることができないものは無価値である。見えるもの、聞こえるもの、形のあるもののみが、価値がある、とされる。人間が知覚できないものの存在を認めようとしない傾向が強い。ここから人間の知覚に対する過信が発生する。科学技術への過信が傲慢を生む。科学技術万能主義時代とは、人類の高慢が異常に高まった時代なのである。
 科学技術は人類に多大の利益とともに多大の損害をもたらしてきた。しかし、現代社会は科学技術のメリットとデメリットを公平に評価していない。科学技術の成果を過大に評価し、損害を過小に評価してきた。

 政治は、人類社会に対して小さな幸せと大きな不幸をもたらしてきた。政治権力者が謙虚に生きたときは、政治は人間の不幸を減らす役割を果たしてきた。だが政治権力者が傲慢になったとき、政治は人間にはかりしれないほど多大の不幸をつくり出した。最大の不幸が戦争である。20世紀の二度の世界大戦であった。
 21世紀初頭の世界は、唯一の超大国である米国のブッシュ政権の傲慢によって、重大な危機に直面している。日本の小泉政権はブッシュ政権への追随路線をとっている。小泉政権は日本の独自性を放棄し、日本の進路をブッシュ政権に事実上預けてしまっている。
 日米両国の政治は大きな過ちを犯している。日本政府は、米国政府が傲慢を反省し、無茶な武力行使を止める方向へ進むよう、働きかけるべきであった。傲慢なブッシュ政権の尻馬に乗ってはならない。


2003.4.22
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[15]

老子的政治家像と二人の日本の政治家

「古(いにしえ)の善く士たる者は、微妙玄通、深くして識(し)るべからず」(老子)


 「善く士たる者」の「士」は、徳間書店本(『中国の思想Y/老子・列子』)では「君主を補佐する政治家、知識階級」、東方書店本(『老子訳注』)では「『道』がわかった人」の意。
 冒頭の言葉は、徳間書店本によると、次のようになる――「昔の真にすぐれた人物は、微妙深遠で、測り知れない器量をそなえていた」。ここに老子的理想の政治家像が示されている。より具体的に言えば次のようになる(徳間書店本より要点を摘出する)。
 「まず万事に慎重である。次に、消極的である。しかも、重厚である。物事に執着せぬ。飾り気がないこと。無心なこと。そして捉え所のないこと。これは実に底知れぬ深さを持つ人物である。『道』を体得した人は、完全になろうと努めずに、おのずと完全になる」。
 老子の政治家像と儒教の政治家像が対比されることが多い。この点について福永光司氏(朝日新聞社本)は次のように解説している。
 「仁義・礼儀という倫理的な規範を至上の価値としてそれに固く身を鎧(よろ)おうとするのは儒家であるが、仁義を大道の廃れたものとし、仁を断ち義を棄つる自然の道を強調するのは老荘(老子と荘子)であり、患難には相い死し、身を殺して仁を成し、義を見てせざるを勇無しとするのは儒家であるが、愛するに身を以てし、己れの生命をあらゆる価値規範に優先させるのは老荘である」。
 福永氏の解釈は伝統的な見方を代表している。私の解釈は上記の福永氏の見方と似ているが、厳密に言えば少し違う。老子は儒教的「人為主義」を嫌い、「自然主義的な生き方」すなわち「自由で自然流、無理しない生き方」を主張した。儒教が規律とスピードを重視する都市型社会の政治家像を求めるのに対して、老子は自然と同化する農村社会の政治家像をより優れたものと考える。

 ひるがえって最近の日本。二人の政治家が再評価されている。
 一人は1960年の日米安保条約締結時の首相だった岸信介氏。たとえば2003年4月20日付け産経新聞(2面)は「『岸政治』再評価の動き/強引さ批判も『あるべき政治家の姿』」との見出しの記事を掲載した。
 この記事のなかで岸氏の孫である安倍晋三氏(現・内閣官房副長官)はこう語っている――「今まで安保条約の否定的側面ばかりが強調されてきた。基地があって沖縄では若い兵隊がとんでもないことをする、と。ところが今、北朝鮮に対する抑止力は米軍の存在抜きにはない、ミサイル基地に対するのは三沢の米軍基地であり、若い米兵なんだと。これが安保条約の本質なんです。これで日本が守られるということに国民が目を開いたんです。かつて(岸政治には)ネガティブな評価だけがあったわけですが、そんなふうに評価していただける時代になったのかなって思っています」。
 首相時代の岸信介氏の政治手法は強引で強権的だった。この生き方が、今の小泉純一郎氏に引き継がれているように私には見える。ちなみに、小泉氏は岸信介−福田赳夫−安倍晋太郎−三塚博−森喜朗の系譜に属している。

 もう一人が1978〜1980年に首相を務めた大平正芳氏。熟慮に熟慮を重ねる哲人的な生き方、謙虚な性格とともに、長期的な視野を持っていたことが再評価のポイントになっている。大平首相が1980年6月に急死したために日の目を見なかったが、大平内閣は『文化の時代』『田園都市構想』『産業基盤の充実』『環太平洋構想』など将来日本の生き方についていくつかの優れた提言を残した。最近、これらのレポートを再評価する動きがある。
 その一つ『田園都市構想』は、地方・地域社会を重視し、家庭を大切にする思想を基礎にしたもの。21世紀日本の生き方として、大平氏がめざしながら果たすことができなかったこの構想を生かそうという動きが、元大平派の地方議員の間に広がり始めている。

 ポスト小泉の政治方向は「岸型」と「大平型」の選択になる可能性がある。対米依存主義と強権政治の岸流政治をとるか、それとも、米国とともにアジア諸国との関係を重視したバランスある国際関係のなかで地域と家庭を大切にする穏やかな中庸的な大平流政治を選ぶのか、が問われることになるだろう。私は大平流を支持する。



2003.4.23
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[16]

政治家の生き方――理想と現実


「自意識を捨て去って『静』そのものになり切ることが大切である。……万物はひとしく生々発展しているが、その運動は循環して、もとの現象以前の状態に返る。草木は茂り栄えるが、やがてはみなその根に返る。この根元に返った状態を『静』という。……それは、宇宙を貫く『法則』である。……この『法則』は普遍性を持つから、すべてを『包容』する。すべてを包容するものは『公平無私』である。公平無私は『王者』の徳だ」(老子)[徳間書店『中国の思想Y/老子・列子』より引用]


 「政治家に徳を求めるのは、八百屋に行って魚を買おうとするようなものだ」と言ったのは故・秦野章氏(参議院議員・法相)だった。現在の社会では、政治家の人間としての信用は低い。多くの国民は政界を「いかがわしい人間の世界」と思い込んでいる。
 だが、この見方には行き過ぎがある。政界には真面目な人物は少なくない。ただ、指導的幹部の水準が低いことは、残念ながら認めざるを得ない。

 21世紀初期の世界――きわめて暗い。人類の生存自体が危うくなっている、と私は本気で心配している。危機は深刻だ。世界は容易ならざる事態に直面している。
 最大の問題は、唯一の超大国である米国政府が先制攻撃権を振りかざし、実際に行使し始めたことにある。第二次世界大戦後、世界の指導者は、各国政府の先制攻撃を禁止した。国連憲章は各国政府の先制攻撃権を否定することを前提としている。第二次世界大戦後の世界平和は、この誓いの上に成り立ってきたのである。
 だが、唯一の超大国の米国がこれを捨て去り、実際に行使し始めた。これにより、第二次大戦後の平和な時代は終わった。世界は第三次大戦の時代に入ったと言って過言ではない。
 この原因の一つは、米国の政治指導層が自意識過剰に陥り、寛容さと「公平無私」の精神を失ったことにある。ブッシュ大統領をはじめとする米国政府の指導者は、米国政府を絶対善の立場に置き、米国政府に反対したり批判する国の政治指導者を「悪」と名指しし、勝手気ままに武力攻撃をしようとしている。
 米国政府の指導者は謙虚さを失い、高慢になっている。傲慢そのものである。米国政府は世界を絶滅させるほどの強大な軍事力を振り回し始めている。「9.11事件」への報復意識を持つ米国民は、軍事力行使に走るブッシュ政権を支持している。大変危ない。
 米国の軍隊は、アフガニスタン、イラクを攻撃し、短時間で両国を制圧した。次にシリア、リビア、イラン、北朝鮮を狙っていると見られている。米国が攻撃しようと狙っている国の指導者にも大いに問題はあるが、唯一の超大国の指導者が平和的解決の意思を棄て、ただただ強大な軍事力を背景に相手を脅し、脅しに屈しないときは容赦のない軍事攻撃を仕掛けるという現実は、あまりにも異常である。
 世界中が暴走するブッシュ政権を容認したとき、人類の歴史は終末を迎えるかも知れないとすら思う。


2003.5.1
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[17]
「無理のない政治」こそ大切。小泉政治は「無理過剰の政治」。小泉政治をこのままはびこらせたら日本は滅びる。
「太上は、下これをあるを知るのみ」(老子)


 最上の君主は、人民がその存在を知っているだけ。その次の第二ランクの君主は、人民が親しみを感じたり褒めたりする。さらにその下の君主は人民がおそれる。人民が侮る君主は最低だ。君主に誠実さがなければ、人民から信用されない。よい政治というのは、悠々として政令など出さない。成功した政治というのは、人民が、ただ、自分たちは自然に、あるがままに生きているだけだと思うような状態のことだ。

 現実の政治はどうか。最近の政治家は国民に対して「ああしろ、こうしろ」とやたらに命令したがる。国民に対して、重税を課し、社会福祉費用の負担を引き上げる。しかし、公共サービスは切り捨てる。やたらに国民の自由を拘束するような法律をつくりたがる。個人情報保護とか有事立法を口実にして国民の基本的人権や言論の自由を縛ろうとする。
 とくにひどいのが小泉政権の経済政策だ。政府は金融機関をいじめ尽くし、それを通じて中小零細企業を次々と倒産させている。このため失業者は急増。日本を大失業・自殺・犯罪社会にしてしまった。
 政府がいま第一にやるべきことは不況克服である。長期不況が国民生活を圧迫している。こんなときに政府がなすべきは景気対策でなければならないのに、小泉内閣は反対のことばかりやっている。不況期に不況を促進するようなことをしている。「聖域なき構造改革」との美名でごまかしているが、やっていることは不況促進策そのものだ。
 金融を緩和すべきときに実際にやっているのは逆のこと。金融引き締めだ。金がなくて困っている国民経済社会から金を吸い上げている。
 財政政策も逆さまだ。財政支出をできるかぎり増やすべきときに、逆に引き締めている。これでは国民経済は衰えるばかりだ。

 不思議なのは、日本経済を破壊している小泉内閣の支持率が依然高いことだ。
 この原因の一つは、日本社会が変質したことにある。昔の日本社会は今よりも人情豊かな連帯感の強い社会だった。苦しんでいる人がいれば自分自身のことのように心配し同情する人が多かった。だが今は隣人のことすらほとんど気にしない社会になってしまった。「自分さえよければいい」という考えが強くなっている。苦しんでいる人が隣にいてもあまり気にとめないような社会に変わってしまっている。
 それに小泉首相が冷たい。青木建設という中堅ゼネコンが倒産したとき、「構造改革が進んでいる結果だ」と語ったという話が伝えられているが、本当だとすればとんでもない話だ。経営者がどんなに苦悩しているか、職を失う従業員とその家族がどんなに苦しんでいるか――これに配慮するのが政治家の義務である。
 小泉首相は冷酷な政治家だ。こういう冷たい政治家が政治のトップに長く座っていると、その冷たさが国民社会全体に浸透する。日本社会全体が冷たい社会になってしまう。

 5月1日付け朝日新聞の「小泉政局(下)」(4面記事)は、「公明、米国も首相寄り」の見出しもある。このなかに次のような記述がある――「かつては公明党は自民党橋本派の『別働隊』とされた。……だが、今は違う。地方選前に橋本派を中心に反発が噴出したサラリーマン医療費3割負担問題でも『与党3党で不退転の覚悟でやろうと決めたことだ』(冬柴鉄三幹事長)と首相支持を選んだ」。
 公明党は小泉首相に急接近しているというのである。強大な宗教政党がバックにいる宗教政党がしゃにむに政権の中枢に立とうとしている。気味の悪い話だが、この記事の見方は正しい。
 つづけて同記事はこう書いている――「もう一つの存在が米国だ。……現在の米政権は『小泉、ブッシュ、ブレアは真の世界のリーダーだ』(ベーカー駐日大使)と首相擁護の立場を堅持し……ている」。
 この見方も正しい。最近、永田町で密かに囁かれていることがある――「某実力者が非公式の場で米国のイラク攻撃を批判したところ、この情報がすぐに米国側に伝わり、米国大使館筋から注意を受けておとなしくなった」「日本の政治に対する米国側の干渉は敗戦直後の占領下に似てきた」「小泉首相が強気になった背景には、このような米国の〃内政干渉〃がある」等々。事実とすれば由々しいことだ。
 国内では公明党、国際舞台では米国――これが小泉首相を支えている。それを国民が認めている。これほど不愉快なことはない。国民が目を覚まさなければ、日本は外国大使館と宗教政党の操り人形にされてしまう。

 『週刊朝日』5月16日号記事の「小泉首相再選確実の不思議」にも似たことが書かれている。見出しは「イラク戦争支持で赤丸急上昇、ベーカー米駐日大使もベタボメ」。
 このなかに次のような記述がある――「イラク戦争の開戦直後のことだ。古賀誠前幹事長や中曽根康弘元首相、森喜朗前首相ら自民党実力者が東京・赤坂の米国大使館に足を運んだ。招いたのは、ハワード・ベーカー駐日大使」「大の小泉シンパの大物大使による〃ご説明〃が首相の追い風にならないはずがない」「首相を支える米国の影、それで自信を深める首相の心理は、首相に批判的な政治家も感じている」。
 占領下にあった当時の日本の政治の悲惨が頭に浮かぶ。われわれは日本が独立国であることを忘れてはならない。



2003.5.2
「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[18]
政治の基本は「国民のため」にある
「大道廃れて仁義あり」(老子)


 世の中が乱れると、政治家は法律をつくり、政令をつくり、国民に向かってお説教するようになる。しかし、それでは問題は解決しない。大切なことは世の中が乱れないようにすることだ。

 冒頭の老子の言葉を直訳すれば、「国民社会から大いなる道が見失われて乱れてくると、仁義の道徳が強調されるようになる」ということ。意訳すれば、「仁義の道が強調されるのは大道が廃れた結果である」ということになる。
 この言葉につづいてつづいて老子は次のように述べる(意訳)――「人為すなわち偽(いつわり)が生まれたのは知恵が出てきたからだ。孝や慈の徳が説かれるようになったのは自然な肉親の情愛が失われたからだ。忠臣の存在が騒がれるようになったのは国の秩序が乱れたからだ」。
 この論述は、仁義を説いた孔子を中心とする儒教への痛烈な批判である。老子は、仁義、知恵、考慮、忠臣などは社会が病気に蝕まれた結果生まれたもので、老子のいう「無為の大道」が確立していないことが根本の問題だ、というのである。

 人類の文明は知恵の発展によって形成されたものである。知恵は、それなしには人類が破滅するような危機的状況のなかで生み出されたものと見ることができよう。しかし、知恵の発達は、同時に「偽」を生み出す。
 文明社会は一面から見れば虚偽がまかり通る世界である。近代文明社会は荒々しい競争社会でもある。紛争が絶えない社会である。
 過剰な競争社会においては虚偽がまかり通る。政治の舞台においては権謀術数が日常化する。その結果、正直者を騙した者が勝者になる社会になってしまっている。
 近代以後の競争社会においては、道義が廃れ、その分だけ、道義がやかましく叫ばれて法律がつくられる。
 19世紀ロシアの作家ドストエフスキーは『地下室の手記』(1864年)になかで次のように書いた――「文明のおかげで人間の残虐さは醜悪になった」

 人類社会が近代文明社会に入ってから数百年が過ぎた。人々は嘘と紛争が横行する社会に慣れてしまっている。文明社会は自然社会と離れすぎたのである。
 自然と人間社会の乖離が極端に進行した結果、自然も人間社会も危険な状態になっている。人間社会がこれ以上「反自然」の方向に走るのはもはや限界ではないかと思う。
 人間社会の側から自然に近づく方向へ方向転換すべき時がきたのである。この方向への大転換にあたって、老子の教えはよき指針となる。
 もう一つ、小泉首相に一言。景気回復なくして構造改革なし」「景気回復なくして産業再生なし」「景気回復なくして失業問題解決なし」「景気回復なくして社会秩序の安定なし」――小泉内閣はこの道に政策を大転換すべきである。





(私論.私見)