釈尊の生涯履歴

 (最新見直し2008.7.4日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、仏教の開祖として知られる釈尊の履歴を確認しておく。詳細に記せば煩雑になり、要点が分からなくなるので、必須事項中心に確認する事にする。

 水野弘元「釈尊の生涯」(春秋社 ISBN 4-393-13701-9)、中村元「釈尊の生涯」(平凡社)、中村元「原始仏教-その思想と生活」(日本放送出版協会、1970年)、増谷文雄「この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯 ブッダ・ゴータマの弟子たち」(佼成出版社)、「ブッダとそのダンマ」(B・R・アンベードカル、山際素男、光文社新書、2004.8.20日初版)等々を参照する。


 2008.6.26日 れんだいこ拝


【釈尊の生涯履歴その1、誕生から結婚するまで】
 釈迦(釋迦)の正式名は釈迦牟尼(しゃかむに、シャーキャ・ムニ शाक्यमुनि[zaakya-muni])で、釈迦は彼の部族名もしくは国名を表わす。牟尼は聖者・修行者の意味である。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。 釈迦牟尼は、称号を加えて釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来ともいう。略して釈迦尊、釈尊(しゃくそん)、釈迦仏、釈迦如来ともいう。称号だけを残し、世尊、仏陀、ブッダ、如来とも略す。

 釈尊の梵名は「シャーキャ」 (शाक्य [zaakya])。本名(俗名)は、パーリ語で「ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)」、サンスクリット語で「ガウタマ・シッダールタ(ガウタマ・シッダルダ)(गौतम सिद्धार्थ [gautama siddhaartha])、漢訳で瞿曇 悉達多(くどん しっだった)、幼名を悉達多(しったるた)と記す。ここでは、大覚の悟りを得るまでをシッダールタ、大覚後を「釈尊」と記すことにする。

 生没年は前560年-前480年と前463年- 前383年、の二説が有る。中村元・氏は後者説を唱えている。

 これを年代的に見れば、中国の春秋時代後期の呉・越の時代に相当し、孔子(BC551~BC479)、老子(生没不明)、荘子(BC369~BC286?)とほぼ同時代、さらに古代ギリシャのソクラテス(BC469~BC399)、その弟子プラトン(BC427~BC322)、アリストテレス(BC384~BC322)の時代と重なる。
 シッダールタ(悉達多)は紀元前5世紀頃、ヒマラヤ山脈の麓、現在のネパール南部のルンビニで誕生している。父は釈迦族の王の浄飯王(じょうぼんのう、シュッドーダナ)、母は隣国の同じ釈迦族のコーリヤの執政の娘で摩耶夫人(まやぶにん、マーヤー)。釈迦族は、ローヒニ-河のほとりにあるカピラ城(カピラバッツ)を中心に小さな国をつくっていた。

 経典の伝えるところによれば、浄飯王と摩耶夫人は長らく子に恵まれなかったが、二十幾年の歳月の後、摩耶夫人は或る夜、白象が右脇から胎内に入る夢を見て懐妊した、と伝えられている。当時の習慣に従って出産のため生家へ帰る途中、4.8日、摩耶夫人がルンビニーの花園で、麗しく咲き誇る無憂華の一枝を手にしようとした時、シッダールタを出産した。これにより、仏教では、釈尊誕生日の4.8日を花まつりとして祝うことになる。

 御子はシッダールタと名付けられた。シッダールタは、産まれた時、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊。三界は皆苦なり、われまさにこれを安んずべし」と語った。この時、天は感動して甘露の雨を降らしたと伝えられている。いわゆる開祖修辞としてありがちな奇瑞譚であろうが興味深い逸話である。

 シッダールタの母・摩耶夫人はシッダールタを産み落とした後、生後一週間で逝去した。シッダールタはその後を母の妹の摩訶波闍波提(まかはじゃはだい、マハープラジャパティー)によって育てられた。
 シッダールタは王位継承者であり、王子として裕福な生活を送りつつ、7歳の頃よりクシャトリヤとして相応しい文武両道の教育を身につけ、且つ多感にして聡明な青年として育った。王や釈迦族の輿望を一身に引き受け、その期待に応えるシッダールタとして成長した。

 但し、シッダールタには尋常ならざる慈悲の性情が認められた。少年の頃、父王に従って田園に出た際、農夫の耕す先から掘り出された虫が小鳥についばまれ、もがき苦しむさまを見、さらにその小鳥が鷹に襲われて餌になるのを見て、動物界の捕食輪廻に悲哀を感じ、深いもの思いに沈まれたと伝えられている。

 この頃のシッダールタについて、後に釈尊自身が次のように回顧している。
 わたくしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、次のような思いが起こった。--愚かな凡夫ぼんぶは、自分が老いてゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた老いてゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さの驕り)はまったく消え失せてしまった。

 愚かな凡夫は自分が病むものであって、また病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた病むものであって、病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、健康時における健康の意気(健康の驕り)はまったく消え失せてしまった。

 愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた死ぬものであって、、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、生存時における生存の意気(生きているという驕り)はまったく消え失せてしまった。(アングッタラ・ニカーヤ、III,38、中村元訳)
 「わたしは、衣食住については極めて快適であった。しかし、一般の無知な人々はみずからも老い、病み、死ぬさだめにあるのに、他の人が老い、病み、死ぬのを見て、悩み、恥じ、嫌悪すらしている。このように考えたとき、わたしは自分が若くて健康に生きていることもすっかりむなしくなってしまった」。

 シッダールタが心満たされず悶々としていた事を物語っていよう。誕生直後生母と死別したということもあってか早くより命のはかなさ、世の無常観に通じており、少年期より思索にふけることが多かった。

【釈尊の生涯履歴補足、当時の歴史情況】
 古代インドでは紀元前3000年頃から前2000年頃に、インダス河流域を中心にインダス文明が発達していた。原住民はドラビダ人、インダス人、ムンダ人等であったが、紀元前1500年頃、中央アジアからアーリア人が侵入して先住民を征服した。これにより、自由人(アーリア人)と隷属民(先住民)の二大階級が生まれた。

 アーリア人は、ガンジス河流域を中心とした地域に独自の社会を形成し、次第にバラモン(司祭者)、クシャトリア(王侯・武士)、ヴァイシャ(庶民)の三つの階級を定め、さらにその下に先住民をシュードラ(隷属民)として置き、これを使役(しえき)する社会構造体制を敷いていた。この四姓(ヴァルナ)制度はカースト(血統・家柄)といわれ、時代が進むにつれてさらに細分化されて現在に至っている。

 この当時既に原始インド宗教として、自然現象を神として崇拝し、その賛歌や祭祀、呪詩が四種(リグ・ヤジュル・サーマ・アタルヴァ)のヴェーダ聖典としてまとめられていた。そして、これらの四ヴェーダに対してさまざまな注釈書が作られ、祭式の細かい規定が定められていた。これを仕切る司祭者(バラモン)の力が強くなりバラモン教が支配していた。バラモンは人の誕生、結婚、死に関する儀式一切、社会や国家に関する儀式一切を司っていた。さらにヴェーダに述べられている賛歌や祭祀の意義をもととして、輪廻からの解脱を追求したウパニシャッド哲学が生まれていた。

 この当時のインドでは思想革命が進行していた。伝統的ウパニシャッド哲学を基盤としながらもヴェーダ経典の権威を絶対視せず、当時の権威宗教であったバラモン教を否定し、新思想を発酵させていた「六師外道(ろくしげどう)」と称される六人の思想家を筆頭とする沙門(しゃもん)が生み出されていた。

 「六師外道(ろくしげどう)」とは、アジタの唯物論、プーラナの道徳否定論、パクダの七要素説、マッカリの決定(けつじょう)論(宿命論)、サンジャヤの懐疑論、ニガンタの苦行論(くぎょうろん)等で、このうちニガンタは自らジナ(勝者)と称し、ジャイナ教の祖となっている。この時期は社会的にも16の大国、多くの小国が争いを繰り広げ、混乱の度を増すさなかにあった。


【釈尊の生涯履歴その2、結婚から出家するまで】
 青年期に入って太子が思索に耽り、時にもの憂いな様子を示すのを心配した両親は、結婚させて落ち着かせようとした。16歳で母方の従妹の耶輸陀羅(やしゅだら、ヤショーダラー)に選ばれ結婚した。  

 シッダールタは家庭を持つ幸せを得、歌舞管弦の生活を楽しんだが、ひとときの宴の後で決まって虚しさを覚えた。結婚後も相変わらず世俗への関心が向かわず、王位継承者としての自覚より、むしろ時代のニューマに惹かれ感染した。シッダールタの気質が「六師外道時代」の新思想に感応した。

 そうした気分の或る時、「四門出遊の故事」に遭遇した。「四門出遊の故事」とは、シッダールタが宮城の東門から出る時に腰の曲がった老人に会い、南門より出る時に痩せ衰えた病人に会い、西門を出る時に葬送される死者に会い、北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、出家の意志を持つようになったと云う故事である。この逸話は、人の世の生老病死の無常とシッダールタのその後の出家の動機をうまく例えている。

 その頃、シッダールタは王家待望の一子をもうけた。子供は羅ゴ羅(らごら。ラーフラ)と名付けられた。妃の名前として他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にスナカッタやウパヴァーナを生んだという説もある。

 子供をもうけ後継ぎを得たことで、ありていの世間の人々は逆にシッダールタの求道心は募るばかりとなった。生きていく苦悩、世の悩み、社会の乱れに思いを馳せつつ、諸問題の根本解決の道を思索していった。いつしか、「世俗的な権力と富と快楽の生活」を捨て、真理を求める信仰一条の出家生活を憧憬し始め、衝動を強めていった。

【釈尊の生涯履歴その3、出家、その後の修行】
 12.8日夜半、29歳の時、釈尊は愛馬カンタカにまたがって御者のチャンダカを伴いカピラヴァストゥ城の王宮を出、念願の出家を果たした。釈尊入寂の際に、弟子スバドラ(パーリ:スバッダ)に対して、「スバッダよ、わたくしは29才で善を求めて出家した」(ディーガ・ニカーヤ、II、中村元訳)とあるのがこれを裏付けている。これを「大いなる放棄」とも云う。

 髪を剃り落とし一介の修行者となったシッダールタは、、一路南にくだって、当時高名な修行者が多く集まっていたマガダ王国の都である王舎城(ラージャガハ)の森ガヤに向かった。シッダールタはボーディーサッタ(悟りを求める人)となり、各地の名声の士を次々と訪れ、教えを請い、対話弁証法による智を磨いた。この間、呼吸法、ヨガ、座禅も修得した。

 出家より6年目、シッダールタはウルヴェーラ村の林へ入り、苦行修行に打ち込んだ。 時には一粒の米で一日を過ごし、あるいはまったく食を断つ断食修行の末に死の淵を彷徨うような難行の果てにシッダールタは奇跡的に命を取りとめた。

 シッダールタは、難業苦行は身も心も衰えさせるばかりで、悟りに達することはできないと知り、山を下って尼連禅河(ネーランジャラー河)でその身を清め、村長の娘スジャーターの供養した乳がゆで体力を回復した。この経験が結果的に難行苦行を捨てさせることなった。
 「わたくしは、もはや苦行から解放された。わたくしが、あの<ためにならぬ苦行>から解放されたのは、よいことだ。わたくしが安住し、心を落ち着けて、さとりを達成したのは、よいことだ」(サンユッタ・ニカーヤ、I.4.1、中村元訳)。
 「健康の勝る恩恵は無く、満ち足りた心に勝る宝は無い」。

 シッダールタは以来、独自の修行法として身体の苦行では無く、より良い精神状態の下で思索を苦行する瞑想の道へ歩み始めた。それは、シッダールタが編み出した修行の一大転換であった。シッダールタは、自身のそれまでの体験を内省し、苦行では覚りは開けず、むしろ心身健康にして煩悩納消の智を磨き、この世の真実の法理とも云うべきダンマに目覚める事こそが肝要であることを指針させていた。

 しかし、こ
の間修行を共にしてきた5名の修行者仲間は理解できず、「シッダールタは修行の厳しさから遁走し堕落した。修行者たる資格を失った」と批判し、彼の元を去っていった。

【釈尊の生涯履歴その4、大悟】
 35歳の時、シッダールタは、ガヤー村のアシュヴァッタ樹の下で、49日間の沈思黙想(観想)に入った。シッダッタが成道の悟りに近づくと魔王があらわれ、空中から炎をあげた剣をもって脅迫した。あるいはなまめかしい美女となって誘惑し、成道を妨げようとした。次に知的な悪魔の論理が襲って来た。シッダールタは、これらを皆退けた。

 遂に12.8日の未明の丑寅の刻、明星を観じて大悟した。この時の言葉が次のように表記されている。
 「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず」。

 シッダールタは外からのの脅威にも内からの煩悩にも迷わされず無明をうち破り、真実の智恵である正覚(覚り)を悟り仏陀(覚者)となった。これを「成道」といい、古来この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修することになる。ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味で「仏陀伽耶(ぶっだがや、ブッダガヤー)」、その時の樹は「菩提樹(ぼだいじゅ)」と云われるようになった。

 「さとり」(bodhi)とは、文字通には「目覚め、目覚めること」、そこからさらに「知ること」を意味する。シッダールタは、事象の本質的諸行無常性と中道中庸の在り方を覚悟して真理に目覚めた。インドでは、悟りを開いた人のことを「ブッダ」(buddha、仏陀ぶっだ、仏ほとけ)と云う。シッダールタはこうしてブッダとなった。

 ここでは、シッダールタを他の仏陀と識別する為にこれより釈尊と記すことにする。

【釈尊の生涯履歴その5、「初転法輪(しょてんぽうりん)」と釈尊教義】
 釈尊は、梵天(ぼんてん、ブラーフマン)の導きにより悟りを世の衆生に説くよう勧められた。これを「梵天勧請」と云う。

 梵天という神は、バラモン教、ウパニシャッドの伝統の中では、「最高神」、「最高我」、「最高ブラフマン」、「世界を創造した創造神」、「宇宙の主宰神」、「究極的絶対者」として位置づけられており、人々の救いは、梵天(ブラーフマン)と一体となることであって、人間の救いの究極的根拠となっている。が、仏典の中ではまったく異なるものとして登場する。釈尊が悟りを開いた直後、その悟った内容(縁起の法・涅槃の法)を他人に説くことを躊躇する釈尊に対し、登場する梵天は次のように諭している。
 「ああ、世は滅びる。ああ、世は滅びる。いまや如来・阿羅漢・正覚者(ブッダ)の心は、進んで説法するほうにではなく、退いて、静観するほうに傾いている・・・」(長尾雅人編『バラモン経典・原始仏典』、中央公論社、432頁)。

 梵天が釈尊の前に現れて、「膝を地に着けて、世尊の方に向かって合掌して」、次のように懇願(勧請)する。
 「世尊、法をお説きください。善き人よ、法をお説きください。世にはその眼があまり塵に汚れていない人々もおります。いまは彼らも法を聞いていないので心も衰退していますが、世尊が法をお説きになったら、やがて法を了解する者となりましょう」(同上)。

 釈尊は、しばらくしてから梵天の要請を受け入れることを決意する。次のように梵天に告げる。
 概要「門は開かれた。耳を持つものは、聞いておのれの盲信を捨てよ。ブラーフマ神よ、わたしがこのすぐれた卓越した法を人々に説こうとしなかったのは、混乱を招き、それが人々を害するであろうことを案じてであった。説くべきか、説かざるべきか。私は今、あなたの勧請を受け入れ、甘露の法雨を降らせる事にしよう」。

 こうして釈尊の説法が始まった。釈尊は以来、積極果敢に布教に向かう身になった。まず、かって共に修行した5人の修行仲間が居る鹿野苑(ろくやおん、サルナート)に向かい、この5比丘(びく)に対し説法を試みた。釈尊は、現実のありのままの姿(実相)を観じる「如来(tathaagata、タターガタ)」思想により十二因縁、苦楽中道、四諦、八正道を説いて回った。

 この5名とは、きょうじんにょ、ばつだい、ばしゃば、まかなま、あせつじで、かって釈尊を批判し釈尊から去った5名とも釈尊の教えに帰依した。この5名が最初の弟子となった。これを「初転法輪(しょてんぽうりん)」と云う。

 この時の釈尊教義は「仏教教説基礎知識」、「般若心経」で検証する。法話は「釈尊名言、法話」で確認する。

【釈尊の生涯履歴その6、布教伝道の旅と十大弟子】
 当時のインドの宗教的指導者は積極的に布教せず、ごく少数の弟子に伝えるか、まったく弟子をとらないのが通例であったが、釈尊は多くの弟子を抱えていった。やがて千人以上の弟子が生まれるようになり、教団が生まれていった。舎利弗をはじめとする優れた10人の弟子が「釈尊十大弟子」となった。

 十大弟子とは次の通り。舎利弗(しゃりほつ、仏説をよく理解したことから智慧第一と云われる。摩伽迦葉(まかかしょう、衣食住に関して少欲知足にてっしたことから頭陀第一と云われる。阿難(あなん、常に仏に給仕して説法を聞いたことから多聞第一と云われる)。須菩提(しゅぼだい、よく空を悟ったことから解空第一と云われる)。富楼那(ふるな、説法に長けていたことから説法第一と云われる)。目連(もくれん、通力に長けていたことから神通第一と云われる)。伽旋延(かせんねん、よく外道を論破したことから論議第一と云われる。阿那律(あなりつ、あらゆるものを見とおす能力を得たことから天眼第一と云われる)。優波離(うばり、戒律を厳守することに優れていたことから持律第一と云われる。羅ゴ羅(らごら、戒を微細に守り保つことに努めたことから蜜行第一と云われる)。 

 釈尊の尊い教えにふれた人々が次々に弟子となり、外護者となっていった。釈尊の説法、説話は、医者が病人に応じて薬を与える「応病与薬」(おうびょうよやく)のように、苦悩する人々に応じて法を説いた。これを「対機説法〈たいきせっぽう〉」、「応病与薬の説法」と云う。

【釈尊の生涯履歴その7、教団形成】
 僧院として竹林精舎が寄進され、「サンガ(僧伽)」と云われる集団修行の場となった。教団の構成員は更に増加し、秩序を保つために種々の戒律が設けられるようになった。但し、釈尊の作風を受けあくまで自治的集団であった。

 釈尊の思想に加わる者は、釈尊の説くダンマに帰依した者に限られ、これを専門の業とする者はビク(比丘)になりサンガの集団に入った。女性信者はビクニ(比丘尼)になり男性信者とは別のサンガを形成した。他にシュラーマネーラ(沙弥)が居た。この人たちはいつでもサンガを離れ還俗(げんぞく)することができた。これとは別にウパーサカと云われる在家信者も認められた。

 ウパーサカには儀式が不要であったが、ビクはウパサンダー(受戒)の儀式を受けねばならなかった。儀式は、推薦者に推挙され、剃髪後、頭に聖水をかけられ、「帰依三宝」(仏陀に帰依、ダンマに帰依、サンガに帰依)を唱え、十戒(殺さず、盗まず、行いを清くし、嘘をつかず、飲酒に耽らず、決められたとき以外食事せず、非道徳的なことをせず、着飾らず、贅沢せず、金銀財宝に溺れず)を誓約する事で認められた。

【釈尊の生涯履歴その8、教団乗っ取りの反逆現われる】

 釈尊を開祖とする教団が生まれつつあったこの頃、。「九横(くおう)の大難」と云われる様々な迫害が生まれた。なかでも最大の事件は、釈尊の従弟にあたる提婆達多(デーバダッタ)が、釈尊にかわって教団の主導権を握ろうとして反逆した事件であった。提婆は、マガダ国の阿闍世太子(アジャータサッツ)をそそのかし、その父頻婆娑羅王(ビンビサーラ)を殺させ、母の韋提希夫人(ベーデーヒー)を幽閉し、国の実権をにぎらせて、その力をかりて精神界の王者となろうとした。

 しかしその企みは失敗し、かえってそれが機縁となって釈尊は「観無量寿経」を説くことになった。これが、念仏の教えが世に現れる元となった。


【釈尊の生涯履歴その9、晩年の釈尊】
 釈尊は、成道後14年目、安居としてコーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎に住んだ。祇園精舎は、日本の平家物語の一節「祇園精舎の鐘の音・・」で知られる精舎であり、コーサラ国の舎衛城にあった。マガダ国の竹林精舎(仏教史における寺院第一号)、ビシャリ国の大林精舎とともに三大精舎と称されている。

 この間、釈尊は北インドのガンジス中流地域の各地を布教に回っている。これを「遊行」(ゆぎょう)と云う。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathura)、コーサラ (kosalaa)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。

 釈尊は成道してより約40年間にわたり教えを説いて回った。最初に説いたのが「華厳経(けごんきょう)」と云われ、これをはじめとして「阿含経(あごんきょう)」、「方等経(ほうどうきょう)」、「般若経(はんにゃきょう)」が生み出されている。72歳の時から、8年間にわたり摩竭陀国(まかだこく)の霊鷲山(りょうじゅせん)において「法華経(ほけきょう)」を説いた。これを第一究極の教えとするのが日蓮宗である。


【釈尊の生涯履歴その10、釈尊入滅】

 釈尊は、多くの弟子を従え王舎城から最後の旅に出た。この時説かれたのが「涅槃経(ねはんぎょう)」と云われる。雨期を過ごした時、大病にかかった。その後気力を回復し、雨期もおわって最後となる托鉢に出かけた。チャパラの霊場で法を説き供養を受けた時、激しい腹痛を訴えるようになる。

 紀元前386.2.15日、沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の間に頭を北に向け、右脇を下にして臥(ふ)し、心安らかに入滅のときを待った。「弟子達よ、諸行は無常である。命も何もあらゆるものが滅びゆく。これを思い日々怠ることなく精進努力して、修行を完成せよ」、これが釈尊の最後の言葉となった。享年80歳。これを仏滅(ぶつめつ)という。

 この入滅のときには、大地は震動し、天鼓(てんく)が鳴り、沙羅双樹は白色に変じたと云う。これも修辞であろう。この時、十大弟子の阿難(あなん)、阿那律(あなりつ)等の比丘(びく)たちは入滅をいたむ詩偈(しげ)を唱え、さらに阿難と阿那律の法話をもってその夜を過ごしたと云う。


【その後の釈尊仏教】

 入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これを「第1次結集」と云う。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきている。

 釈迦の入滅後、ヒンドゥー教からの攻撃と弾圧に遭い、仏教はインドでは定着する事はできなかった。仏教は仏滅後100年、上座部と大衆部に分かれる。これを根本分裂という。その後AD100年頃には20部前後の部派仏教が成立した。これを枝末分裂という。

 この間、大乗仏教が生まれ部派仏教と対立する。両者では釈迦に対する評価自体も違っており、部派仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。一方、大乗仏教では、釈迦は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏であるとしている。





(私論.私見)