仏教教説基礎知識

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 紀元前500年頃、釈迦が、インドの既成思想特にバラモン教的世界観を否定し、新たな真理を会得するべく解脱(涅槃の境地に至ること)し、真如(ありのまま)の新思想を説いた。彼岸思想を排し、現世の現実に立脚し調和する生活を指針させた。輪廻転生の前生後生譚で推論する事を排し、万物流転諸行無常の立場で、真如(ありのまま)には、不変真如(永遠不変の真理=胎蔵界マンダラで表現される)と随縁真如(現実相=金剛界マンダラで表現される)に分かれるとして真理を探究する道を開いた。これを仏教と云う。仏教は通常、宗教の範疇に入れられているが宗教でも有り哲学でも有り思想でもある。

 2008.6.25日 れんだいこ拝


【釈尊の修行考】
 釈迦時代のそれまでの修行法は、禁欲、苦行、無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱できるとして、様々な難行苦行が試みられていた。釈迦は、難行苦行を排し、むしろ瞑想(観=ヴィパッサナー瞑想)により得られる正しき智慧を生むことを重視した。これによって欲望や執着から解放される解脱の道を切り開いた。

【瞑想、瞑観考】
 仏教では、瞑想を「止(サマタ)」、瞑想に拠って得られる観察分析果実を「瞑観」叉は単に「観(ヴィパッサナー)」と呼ぶ。「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当するとされている。

【仏教経典三種考】
 仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」、「律」、「論」に分類される。釈迦の説法を記録したのが「経」であり、自分を律する内面的な道徳規範としての戒律を定めたのが「律」であり、釈迦の教えを解釈し体系化したものが「論」である。

【六波羅蜜考】
 般若波羅蜜多は菩薩の修行徳目である六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の一つの智慧波羅蜜を指すとも、六波羅蜜全てを含むものとしての般若波羅蜜であるとも解されている。これらの修行徳目の実践を通して「智慧」に導かれるとされている。「智慧」の裏付けがないと実践はその場限りのものとなり、良い習慣、更には良い人格に結びつくことがないとされる。この六つを修めると、迷いの此の岸から、さとりの彼の岸へと渡ることができるので、六度ともいう。
 六波羅蜜は次の通り。
波羅蜜 訓読み  内容
布施 ふせ  惜しみ心を退け、貪欲の心と反対のお布施(施与)をする修行で、財物を施す「財施(ざいせ)」、不安を取り除く「無畏施(むいせ)」、法を説く「法施(ほうせ)」がある。
持戒 じかい  行いを正しくし戒律を固く守る修行で、在家の「五戒」(不殺生戒、不偸盗戒、不妄語戒、不邪淫戒、不飲酒戒)を生き方の基準にして自らに課す修行(道徳性)。
忍辱 にんにく  怒りやすい瞋恚の心(怒り)を退治し、迫害や侮辱に耐える修行(忍耐)。
精進 しょうじん  懈怠の心を退治し、日々心身を精進(努力)する修行。
禅定
静慮
ぜんじょう
じょうりょ
 散りやすい心を静め心胆を練り、真理を思惟する修行(瞑想)。
智慧
般若
ちえ
はんにゃ
 智慧(叡智)は愚かな暗い心を明らかにする。一切の諸法に通達し、真理を悟る修行。しずえのように、修行の基となり、忍辱と精進とは、城壁のように外難を防ぎ、禅定と智慧とは、身を守って生死を逃れる武器であり、それは甲冑に身をかためて敵に臨むようなものである。

【最上の施し、無財の七施】
 乞う者を見て与えるのは施しであるが、最上の施しとはいえない。心を開いて、自ら進んで他人に施すのが最上 の施しである。また、ときどき施すのも最上の施しではない。常に施すのが最上の施しである。施した後で悔いたり、施して誇りがましく思うのは最上の施しではない。施して喜び、施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、この三つをともに忘れるのが最上の施しである。正しい施しは、その報いを願わず、清らかな慈悲の心を もって、他人も自分も共に悟りに入るように願うものでなければならない。

 世に「無財の七施」と呼ばれるものがある。財なき者にもなし得る、誰にでもできる、日常生活の中で行える次の七種の布施行のことである。
身施 しんせ  肉体による奉仕であり、その最高なるものが次項に述べる捨身行。
心施 しんせ  他人や他の存在に対する思いやりの心。
眼施 げんせ  やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心が なごやかになる。
和顔施 わげんせ  柔和な笑顔を絶やさないこと。
言施 ごんせ  思いやりのこもったあたたかい言葉をかけること。
牀座施 しょうざせ  自分の席をゆずること。
房舎施 ぼうしゃせ  わが家を一夜の宿に貸すこと。

 他にも「捨身施」がある。これは次の故事に由来する。昔、薩埵(さった)太子という王子がいた。ある日、二人の兄の王子と森に遊んで、七匹の子を産んだ虎が飢えに迫られて、あわやわが子を食べようとするのを見た。 二人の兄の王子は恐れて逃げたが、薩埵太子だけは身を捨てて飢えた虎を救おうと、絶壁によじのぼって、身を投げて虎に与え、その母の虎の飢えを満たし、虎の子の命を救った。薩埵太子の心は、ただ一筋に道を求めることにあった。「この身は砕けやすく変わりやすい。いままでは施すことを知らず、ただわが身を愛することにばかりかかわってきた自分は今こそこの身を施して、悟りを得るために捧げよう」。この決心によって、王子は飢えた虎にその身を施したのである。


【持戒波羅蜜の五戒考】
 持戒波羅蜜の五戒は次の通り。
名称 訓読み  内容
不殺生戒 ふせっしょうかい   妄(みだ)りに生き物を殺してはいけない戒律。
不偸盗戒 ふちゅうとうかい   他人のものを盗んではいけない戒律。
不邪淫戒 ふじゃいんかい   自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない戒律。
不妄語戒 ふもうごかい   うそも方便ならぬうそをついてはいけない戒律。
不飲酒戒 ふいんじゅかい  妄りに酒を飲んではいけない戒律。

【「空」思想考】
 釈迦説法の中核は「空」思想にある。その説法の中でも最も重要なのが「五蘊」の「空」である。玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されているが、サンスクリット原典では「五蘊があり、それが空である」と書かれている。つまり、五蘊説をまず認め、次にそれを実体と見ることを否定している。この方が正確な受け取りではなかろうかと思われる。

【「ダルマ思想」考】
 般若心経が次々と数え上げながら否定しているのは、「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」などで、これが釈迦仏教の中心的な教説となる。これを「法(ダルマ)」と呼ぶ。釈迦は、瞑想-瞑観によって「法」を見極め、真実の智慧を得て煩悩をなくすことで悟りが得られるとした。その際、「空」のを洞察する智慧によってこそ悟りに至ると説いている。

【「五蘊思想」考】
 「五蘊」は、色、受、想、行、識の5つの蘊から成る。蘊(うん)は「集まり」を意味する。これを図示すれば、次のように整理することが出来る。
名称 訓読み  概要
色蘊 しきうん  肉体を含む物質的事象的構成要素。
受蘊 じゅうん  見る、聞く、触るなどの感受作用。
想蘊 そううん  想念、概念などの表象作用。
行蘊 ぎょううん  意志や能動作用。
識蘊 しきうん  分別、判断などの識別作用。

【「四大思想」考】
 仏教には「四大(しだい)」の考え方があり、地、水、火、風の4つの要素が合わさり世界や身体が形成されていると了解する。この四大に「空」を加えたものを「五大」と呼び、五大が万物の構成要素と考えられている。

【縁起の法】
 釈尊が菩提種の下で悟ったものは「縁起の法」と云われる。これは、「これあるゆえにかれあり、これ起こるゆえにかれ起こる。これなきゆえにかれなく、これ滅するゆえにかれ滅す」(雑阿含経)と教えられるように、 「 あらゆるものが相互にあい縁り、あいまって存在する理 」 を云う。
 
 釈尊は、「わたくしが世にでるとでないとにかかわらず、この縁起の法は常住である。総てのものは縁によって生じ、縁によって滅びる」と述べている。釈尊思想は、この「縁起の法」が核として構成されている。これによれば、当面した問題を解明するのには、必ず筋道をたててその因果をあきらかにしていくことになる。これにより奇蹟信仰は退けられることになる。

【「十二縁起思想」考】
 「無明」は、原始仏教の根本の教えである「十二縁起」(「十二因縁」ともいう)の最初の項目である。「十二縁起」は次の通り。1・ 無明(むみょう、無知)、2・ 行(ぎょう、潜在的形成力)、3・識(しき、認識作用)、4・名色(みょうしき、精神と肉体、名称と形態)、5・六入(ろくにゅう、六つの感覚器官=眼、耳、鼻、舌、身、意)、6・触(そく、心が対象と接触すること)、7・ 受( じゅ、感受作用)、8・愛(あい、愛欲、妄執)、9・取( しゅ、執着)、10・有(う、生存)、11・生(しょう、生きること)、12・老死(ろうし、老いゆくこと、死ぬこと)。   

 このうち眼、耳、鼻、舌、身、意を「六根」という。根は、根茎や根本といった意味。「六根」にに基いて生まれるものを「六境」とする。「六根」器官によって「六境」を認識するという関係に在る。「六境」は、色、声、香、味、触、法を認識する。

 眼根は、眼で、「色」を見る。耳根は、耳で、「声」を聞く。鼻根は、鼻で、「香」を嗅ぐ。舌根は、舌で、「味」を味わう。身根は、身で、「触」に触れる。意根は、意識で、「法」を考え廻らす。六根と六鏡はこういう関係に有り、これを総合して「六識」と云う。 

 十二縁起は、人の精神的発展過程について分析したもので、釈迦が悟ったのがこの「縁起の理法」とされる。これらを順に並べ、無明に縁りて行あり(無明があるから行があり)、行に縁りて識ありと続け、生に縁りて老死あると説く観方を「順観」、その縁起を「流転(るてん)の縁起」と云う。逆に、無明から初めてその根本原因を克服滅失させ老死に辿り着くまで十二縁起を反証的に見ることを「逆観」と呼び、その縁起を「還滅(げんめつ)の縁起」と云う。

【「十八界思想」考】
 「六根」と「六境」を合わせて「十二処」、これに「六識」を加えて「十八界」となる。「界」とは、「人間存在の構成要素」といった意味である。「十八界」とは次の通り。眼界、耳界、鼻界、舌界、身界、意界、色界、声界、香界、味界、触界、法界、眼識界、耳識界、鼻識界、舌識界、身識界、意識界。「眼界」が「十八界」の初めとなる。

 「六根」、「六境」、「六識」の関係を図示すれば、次のように整理することが出来る。

十八界 十二処 六根:意識する器官
六境:認識する対象
   六識:認識作用の果実 眼識 耳識 鼻識 舌識 身識 意識

【「四聖諦思想」考】
 「苦集滅道」は、原始仏教の根本の教えである「四諦(したい)」を指す。「四聖諦」とも云われる。「四諦」は「十二縁起」とともに、原始仏教の根本の教えである。「諦」は梵語(サンスクリット)の「サティア」で、真理、真実を見極めるを意味している。四諦は次の通り。釈尊は、この四諦を病気の源因とした。
名称 訓読み  概要
苦諦 くたい  人生、社会の苦を観る。仏教では、人間存在そのもの、あるいは社会的な営みに伴う普遍的な苦として「四苦八苦」を挙げている。中阿含経(ちゅうあごんぎょう)は次のように記している。
 「実の如く苦の本を知るとは、いわく現在の愛着の心は、未来の身と欲とをうけ、その身と欲とのために、更に種々の苦果を求むるなりと知る」。
集諦 じったい  苦悩の原因は人間の欲望や愛着、捉われ、財物執着の心にあるという集合を観る。これを煩悩と観、百八あるといわれる。その代表は「三毒の煩悩」(「貪欲」(むさぼり)、「瞋恚(しんに)」(いかり)、「愚痴」(おろかさ))とされる。
滅諦 めったい  苦悩の原因である煩悩を滅する状態を観る。仏教の目指す理想境は涅槃にあるとして解脱を目指す。「涅槃(ねはん)」の梵語(ぼんご)は、ニイルヴァーナで、「吹き消す」という意味。「雑阿含経(ぞうあごんぎょう)」は次のように記している。
  「貪欲(どんよく)永(なが)く尽き、瞋恚(しんに)永く尽き、愚痴永く尽き、一切の諸(もろもろ)の煩悩(ぼんのう)永く尽くるを、涅槃という」。
道諦 どうたい  理想境である涅槃に到達するための実践方法を説いたもの。具体的には八正道(はっしょうどう)を指す。

【「四苦八苦思想」考】
 「四苦八苦」とは、人間が生きていくうえで背負う苦しみを云う。「四苦」は、生老病死を云う。「八苦」とは、生老病死の四苦に「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五陰盛苦」の四苦を加えた八苦を云う。これを図示すると次のように整理できる。
名称 訓読み  概要
愛別離苦 あいべつりく  愛する人といつかは離別する苦しみ。
怨憎会苦 おんぞうえく  怨み憎む人、嫌いな人と出会い交わる苦しみ。
求不得苦 ぐふとくく  求めるもの、欲しいものが得られない苦しみ。
五陰盛苦 ごおんじょうく  食欲や性欲のように、人間が生活するうえで心身機能が欲求することから起こる苦しみ。

【「八正道思想」考】
 「八正道」(八聖道ともいう)は仏教での修行の基本となる、次の八つの実践徳目である。これを「中道の教え」と云う。
名称 訓読み
正見  偏らない見立てで正しく見る。
正思惟  認識を正しくする。
正語  正しく誓いを立てる。
正業  正しく生活し生業を立てる。
正命  正しく生きる。
正精進  偏らない努力で正しく精進する。
正念  正しく思念する。
正定  正しく実践し心を安定する。

【「中道論」考】
 「中道」とは、偏らずの道であり、「非苦非楽の中道」、「非有非空の中道」とに分かれる。「中道」の智慧を得ることこそが精進の道であり、これにより心眼が開かれ、悟りへ至るとされている。

【「仏性論」考】
 「仏性」とは、人は皆、仏性を備えているとする釈尊教義を云う。

【「十界論」考】
 「十界論」(十法界論)の教えもある。十界とは、生命、処世の在りようステージ(境涯)に於ける態様を云うもので、下から順に1・地獄界、2・餓鬼界、3・畜生界、4・修羅界、5・人界、6・天界、7・声聞界、8・縁覚界、9・菩薩界、10・佛界から成る。法華経は、それまでの教説が十界をそれぞれ別のステージとして捉えていたのを、それぞれの生命の中に宿るステージとして捉えている。これを「十界互具」と云う。これを図示すると次のように整理できる。
名称 訓読み  界の様態
地獄界 じごくかい  この世の最も悲惨恐怖不自由に慄(おのの)く最低のステージ(境涯)を云う。地獄は閻浮提の地の下、一千由旬にあるといわれる 。「等活地獄」、「無間地獄」、「八熱地獄」、「八寒地獄」などで表現される。「瞋るは地獄なり」と云われる。
 人の不幸せを喜ぶ心のステージ
餓鬼界 がきかい  飽くことなき欲望を抱き貪りつつなお満たされず苦しむ欲望奴隷のステージを云う。正法念経に三十六種が明かされている。「貪るは餓鬼なり」、「貪りは因、飢えは果、これ餓鬼の因果である」と云われる。
畜生界 ちくしょう  魚、鳥、獣など畜生類の生物本能のままに生きる弱肉強食社会のステージを云う。目先の利害に捉われ理性が働かない。「癡は畜生なり」、「畜生の心は弱気をおどし、強きをおそる」と云われる。
修羅界 しゅらかい  阿修羅とも云う。我さえ良ければとして勝ち上がり、力づくでも他者を落とし込め競争していくステージを云う。「諂曲は修羅」と云われる。
 人の幸せを喜べない心のステージ
人界 じんかい  この段階から人間らしくなり、平常心が備わり、理性が働き、善悪の基準を持ち自己コントロールできるステージを云う。これより学問に関心を持つステージに入る。「平かなるは人なり」と云われる。
天界 てんかい  神々の住む世界のステージで、諸々の聖なる喜びを感じる状態にある。「喜ぶは天」と云われる。
 人を助ける心が芽生えるステージ
声聞界 しょうもんかい  仏の声を聞き、聞き分けることのできるステージを云う。
縁覚界 えんかくかい  仏道に縁し、宇宙や生命の法則の一部を会得したステージを云う。ここまでが自己修行のステージとなる。
菩薩界 ぼさつかい  自己修行の段階を終え仏の使いとして行動し、自他共栄を願い人々を導くステージを云う。「六道の凡夫の中に於て、自身を軽んじ他人を重んじ、悪を以て己れに向け善を以て他に与えんと念う者有り」(十法界明因果抄)、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(諸法実相抄)との言葉がある。
 人を助けたいから助ける、それ自体が喜びの心のステージ
10 佛界 ぶっかい  宇宙と生命を貫く根本原理の法を悟っており、生命、処世の在りようの中で最高のステージを云う。

【「四悪趣(しあくしゅ)論」考】
 どこまでが釈迦の教えか不明であるが、仏教通説では、1・地獄、2・餓鬼、3・畜生の世界を苦悩の境涯として「三悪道」(「三悪道」)と云う。これに4・修羅を加えて「四悪趣(しあくしゅ)」と云う。これらに5・人、6・天界を加えて「六道輪廻」と云う。六道の境涯までは環境に左右されている。三悪道に対し、修羅界、人間界、天上界の三種を「三善道」とも云う。人間界の上位に位置する天界は、具舎論によれば、下から六欲天、色界、無色界に別れる。仏道修行によって得られる声聞、縁覚、菩薩、仏を「四聖(ししょう)」と云う。大乗仏教では、このうち声聞、縁覚を二乗とも云い、小乗で得られる境涯としている。日蓮大聖人は次のように宣べている。
 「天下萬民諸乗一仏乗と成りて妙法一人繁昌せん時、萬民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代は羲農の世となりて、今生には  不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各々御覧ぜよ、 現世安穏の證文疑い有る可からざる者なり」(如説修行抄)。

【「四転倒論」考】

 仏教では、次の4つの「顛到」があると説く。

名称 訓読み  概要
常顛到  この世は無常であるのに、寿命を弁えず自身の命や身体がいつまでも元気でいられるという錯覚。
楽顛到  この世は苦に満ちているのに、人生を安逸楽に生きようとする錯覚。
我顛到  人は助け合いで生きるべきところ、我さえ良ければとする錯覚。
浄顛到  生きる事の内には汚れもある身なのに、清浄なりとする錯覚。

【「人生四段階論」考】
 釈尊の教え以前に、インド哲学では人生を四段階に分ける説があり、興味深いので採録しておく。
段階 名称 名称2  意味
第一段階 学生期 青年期  勉学と教育に勤しむ期間。この時期は「愛欲」、「美」に捉われ、判断は感覚的。
第二段階 家長期 壮年期  結婚生活を通して一家の主人として働く期間。「利」に関心を注ぎ、他方で「真」の価値を求める傾向の者も現われる。
第三段階 林住期 自律期  隠遁者的生活に親しむ期間。子供も成長した頃であり出家する者も現われるので林住期と呼ばれる。自己を客観視し、「戒法(ダルマ)」に目覚め、「善」を追及し始める。判断は道徳的。
第四段階 遊行期 遍歴期  神と親しみ合一を目指す期間。道徳的であることに満足できず「完全なる自己解放(解脱げだつ)を求め遍歴する。相対有限の次元を越えた永遠なるなるもの、絶対的世界に触れること(これを「聖」の価値とする捉え方がある)に価値を見出そうとする。判断は宗教的。 

 以上が「古代インドの人生観」であり、人生を四期に分ける処世法、人生観を持っていたことが分かる。生き方の根底を為す価値観探求の軌跡を、「美→利→善→聖」というサイクルパターンにしていた事が興味深い。

【「釈尊教義の経典」考】
 釈尊教義と経典の関係は次のように整理できるようである。
 名称  経典  この経典を重視する日本仏教宗派
 華厳時  大方広仏華厳経  華厳宗
 阿含時  阿含経(増阿含、長阿含、中阿含、雑阿含)  倶舎宗、成実宗、律宗
 方等時  唯摩経、楞厳三昧経、金光明経、勝鬘経、楞伽経、解深密経、阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経、大日経、金剛頂経、蘇悉地経等  法相宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗、真言宗
 般若時  摩訶般若経、光讃般若経、金剛般若経、大品般若経等  三論宗
 法華時  法華経二十八品(開経たる無量義経、結経たる観普賢菩薩行法経を含む)  天台宗、法華宗

【「釈尊教義の特徴」考】
 1、釈尊教義は天啓による啓示的宗教ではない。釈尊は預言者とも天啓者とも位置づけていない。
 2、創世記を持たない。釈尊は、宇宙は創造者により創造されたのではなく、展開してきたと看做していた。
 2、釈尊教義は、ユダヤ-キリスト教的救済論を述べていない。求道者、人類の教師として位置づけた。
 3、釈尊教義は、救済理論ではなく涅槃論を唱えた。涅槃の境地に達するには、空の思想に目覚め、執着と怒りと無知から脱却することが必要であるとした。その上で般若心経を説いた。
 4、釈尊教義は、既成の神信心信仰体制を否定した。礼拝や祈祷を通じて司祭僧を権威付け、却って正しい信仰に導かないとした。
 5、釈尊教義は、バラモン教的霊魂思想、輪廻転生思想を批判した。





(私論.私見)