釈尊名言、法話

 (最新見直し2015.3.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、釈尊の名言、法話を採り上げる。倫理道徳律的なものは割愛し、釈尊ならではの言い回し、辛らつな言葉集を採録することにする。

 2008.5.31日、2008.6.2日再編集 れんだいこ拝



【説法傾聴の呼びかけ】
 「今、我、甘露の門をひらく。耳あるものは聞け。ふるき信を去れ」。

【人物論】
 釈尊は、「人物論」について次のように述べている。
 「愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることがない。匙が汁の味を知ることができないように。聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。舌が汁の味をただちに知るように」(「法句経」)。
 「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。彼の肉は増えるが、彼の知恵は増えない」(「法句経」)。
 「得生人道難 生寿亦難得 世間有仏難 仏教難得聞」
 「人の道を正しく生きることは難しい。寿命を正しく得るのもこれ叉難しい。世間に仏が存在するのも難しい。仏の教えが世間に流布されるのも難しい」(「法句経」)。
 「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」。
 「諸々の悪を為さず、人々に善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである」。
 「多く説くからとて、その故に彼が賢者なのではない。心穏やかに怨むことなく怖れることのない人、彼こそ賢者と呼ばれる。誠あり、徳あり、慈しみがあって、損なわず、慎みあり、みずから調え、汚れを除き、気をつけている人こそ長老と呼ばれる」(「法句経」)。

【遊行の戒め】
 釈尊は、「遊行の要諦、戒め」について次のように述べている。
 「旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者にであわなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ」(「法句経」)。
 「もろもろの聖者に会うのは善いことである。彼らと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心は常に楽しいであろう。愚人と共に歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、常につらいことである。仇敵とともに住むように。 心ある人と共に住むのは楽しい。親族に出会うように」。
 「思慮深く、ともに行じ、行い正しく住する賢者を同行者として得たなら、あらゆる危難を乗り越え、こころ喜び、正しい念いを保ちつつ、共に行じゆくがいい」。

【バラモン僧との労働対話】
 釈尊とバラモン僧との興味深い労働対話が為されている。これを確認する。れんだいこ風に意訳する。
 「釈尊は、弟子を連れ、思うままに請われるままに各地を移動し説法して回っていた。或る時、その昔バラモン僧であった農夫が釈尊一行に出くわし、説法論議を仕掛けた。農夫は、釈尊を次のように批判した。『釈尊よ、人はいかに生きるべきか、世の中はどうあるべきかを問うならば、まず昼間は仕事をしてそれからのことにせよ。人は生産的労働に従事してこそ社会的役割を果たせるのであり、昼の日中からぞろぞろ立ち歩いて仕事をし無いのが、一番人の道から外れているのではないかな。私はそう考えてバラモンを辞め、現にこうやって仕事に精出しているのだよ。どう思うかね』。

 これに釈尊はどう答えたか。『元バラモンの農夫よ。あなたが労働の意義を認め、仕事に精出していることは分かる。その通りだ。農業に勤しめば、田を耕し、畔を繕い、田に水をやり、種を植え、雑草や虫を取り除き、稲の成長を見ては間引きも必要であろう。忙しいことではある。やがて収穫が有り、分かち合い、次の種籾も用意せねばなるまい。それは立派な仕事であり、誰かがせねばならない。

 しかし農夫よ、労働とは何も農業に限るものでも無い。山へ行けば山の労働が有り、川へ行けば川の、海へ行けば海の労働が有る。それぞれ立派な仕事であり、誰かがせねばならない。ところで農夫よ。仕事はその人ならではの適所適役で為されるのが望ましい。それぞれが分を尽す事により、お互いが繫がり助け合っているのだよ。

 そういう意味で、私には私の適役がある。世は苦悩、煩悩に満ちており、正しい思念に導かれないことにより生まれる諸病、災厄というものもある。私は、長年この問題を問い、世に真に有益な思想を得た。それを世に広め、悩める民を救済するのが私の仕事なっている。世は考え違いによる災難に満ちている。

 私もそなたがしているように頭脳の田を耕している。畔を繕い、田に水をやり、種を植え、雑草や虫を取り除き、稲の成長を見ては間引きもし、やがて収穫が有り、分かち合い、次の種籾も用意している。そなたの収穫物が人様に役立つように、私の収穫物も叉人様の無明から来る悩み、迷いを助けている。これが私の労働なのだよ。私もこうして社会的な仕事をしているのだよ。いわば種類の違う仕事と考えたら良かろう。立場の違いなのだよ。そう理解してくれぬか。

 何事も批判は容易い。しかし、批判だけでは物事は解決しない。ましてや暴力沙汰などは御法度だ。それぞれの足らざるところを補い合い、相手の能力を引き出し、互いが縁の下の力持ちとなって役立ち合う、こういう関係に立たなければ本当の智恵とは云えないのだよ。私はこのことを教えに請われるままに出向いているのだよ』。

 バラモンは目が覚めた。生産物を伴うような仕事に精出す生き方こそ人としての本当の生き方だと気がつき、バラモン僧の身分まで捨て農に勤しむ己を自負してきたが、初めて釈尊の叡智の前に完敗したことを悟った。これまで釈尊のように説法した者が居らず、釈尊の教えほどに染み入る教えは無かった。農夫は釈尊に帰依することを誓った」。
Re:れんだいこのカンテラ時評417 れんだいこ 2008/07/04
 【れんだいこ一番お気に入りの釈尊の法話考】

 ここで、れんだいこが一番お気に入りの釈尊の説法、法話を披瀝し、世に問おうと思う。なるほどと思うか、むしろ農夫の意見に拍手するか、それは銘々の勝手であるが、興味深いやり取りであることだけは確かだろう。

 数ある釈尊逸話の中で、系統の違う珍しい説法法話がある。それは、釈尊がバラモン僧上がりの農夫と闘わした労働の意義を廻るやり取りである。れんだいこは、釈尊法話の中でこの種のやり取りを他には知らない。これを確認する。れんだいこ風に意訳する。

「釈尊は、弟子を連れ、思うままに請われるままに各地を移動し説法して回っていた。或る時、その昔バラモン僧であった農夫が釈尊一行に出くわし、釈尊に説法論議(理論闘争)を仕掛けた。農夫は、釈尊を次のように批判した。

 『釈尊よ、人はいかに生きるべきか、世の中はどうあるべきかを問うならば、まず昼間は仕事をしてそれからのことにせよ。人はまず何より生産的労働に従事せねばならない。それが人としての勤めだ。こうしてこそ社会的役割を果たせるのであり、昼の日中からぞろぞろ立ち歩いて仕事をし無いのが、一番良くない。むしろ人の道に外れているのではないかな。私はそう考えてバラモンを辞め、現にこうやって仕事に精出しているのだよ。そうは思わないかね』。

 これに釈尊がどう答えたか。『農夫よ。あなたが労働の意義を認め、仕事に精出していることは分かる。その通りだ。理屈は合っている。農業に勤しめば、田を耕し、畔を繕い、田に水をやり、種を植え、雑草や虫を取り除き、稲の成長を見ては間引きも必要であろう。忙しい大変な事ではある。やがて収穫が有り、分かち合い、次の種籾も用意せねばなるまい。それは立派な仕事であり、誰かがせねばならない。

 しかし農夫よ、労働とは何も農業に限るものでも無い。山へ行けば山の労働が有り、川へ行けば川の、海へ行けば海の労働が有る。それぞれ立派な仕事であり、誰かがせねばならない。こうしてみんな繋がって助け合っているのだよ。

 同じ労働でも一人でするものでみなかろう。音頭をとる者も必要で、ひた向きに働く者も必要で、食事を用意する者もいるだろう。力仕事に向いている者も居ればがまん仕事に向いている者も居るだろう。これを一人でこなすものでもあるまい。ところで農夫よ。仕事はその人ならではの適所適役で為されるのが望ましい。それぞれが分を尽す事により、お互いが繫がり助け合っているのだよ。

 そういう意味で、私には私の適役がある。世は苦悩、煩悩に満ちており、正しい思念に導かれないことにより生まれる諸病、災厄というものもある。世は考え違いと不心得による災難に満ちている。私は、長年この問題を問い、煩悶し、遂に世に真に有益な思想を得た。それを世に広め、悩める民を救済するのが私の仕事となっている。

 私もそなたがしているように頭脳の田を耕している。畔を繕い、水をやり、種を植え、雑草や虫を取り除き、成長を見ては間引きもし、やがて収穫が有り、分かち合い、次の種籾も用意している。そなたの収穫物が人様に役立つように、私の頭脳から紡ぎだされる収穫物も叉人様の無明から来る悩み、迷いを助けている。これが私の労働なのだよ。私もこうして社会的な仕事をしているのだよ。いわば種類の違う仕事と考えたら良かろう。立場の違いなのだよ。そう理解してくれぬか。

 何事も批判は容易い。しかし、批判だけでは物事は解決しない。人をけなし、人が分裂するように批判するのは詰まらない。ましてや力づくの暴力沙汰などは御法度だ。皆がそれぞれの足らざるところを補い合い、相手の能力を引き出し、互いが縁の下の力持ちとなって役立ち合う、こういう関係に立たなければ、望まれている良い仕事にはならないのだよ。これに気づかないと本当の智恵とは云えないのだよ。私はこのことを教える為に請われるままに出向いているのだよ』。

 バラモンは目が覚めた。徒な思弁に耽らず具体的有為の労働に精出す生き方こそ人としての真っ当な生き方だと気がつき、バラモン僧の身分まで捨て農に勤しむ己をこれまで自負してきたが、釈尊の叡智の前に初めて完敗したことを悟った。これまで釈尊のように説法した者が居らず、釈尊の教えほどに染み入る教えは無かった。農夫は釈尊に帰依することを誓った」。

 別章【世界の宗教考】
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/religionco.htm)
 仏教
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/indiakei/bukkyo/bukkyo.htm)
 釈尊名言、法話
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/indiakei/bukkyo/meigenco.htm)

 2008.7.4日 れんだいこ拝

【子を亡くして悲しむ若い母親に対する法話】

 「或る若い母親が、赤ん坊を死なせた事で半狂乱のていであった。母親は、なんとか赤ん坊を生き返らせて欲しいと釈尊のところへやってき訴えた。

 釈尊は次のように述べた。『それはいかにもお気の毒である。村へ帰って、家族に死人が出ていない家を探し当て、芥子(けし)の実を二、三粒もらってきなさい。そしたら赤ん坊を生き返らせてあげよう』。

 若い母親は喜んで村里へ帰り、一軒一軒を尋ねて回った。しかし、死人の出ていない家は無かった。家から家へかけめぐるうちに、若き母親の狂乱は消え去り、気持ちが落ち着いてきた。赤ん坊はついに生き返りはしなかったのだが」。
(長尾雅人、「仏教の思想と歴史」『大乗仏典』、中央公論社、22~23頁参照)


【「毒矢の法話」】
 「或る時、 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとかについて、釈尊に質すものが現われた。釈尊は次のように答えている。

 『人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。人間は死後も存在するとしても、人間は死後存在しないとしても、そう云う事には関係なく生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。私は、現実のそれらの苦悩に対する受け止め方を教えている。私が説かないことは説かないと了解せよ。私が説くことは説くと了解せよ」。(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473~478頁参照)
 「ある人が毒矢に射られたとする。すぐに治療しなければならないだろう。ところが医者にかかる前に一体この毒矢を射た人は誰か、どんな名前の人か、身長は、どんな顔の人で、どこに住んでいた人か、どんな弓で射たもので、どんな矢じりがついていたのかと言ったような理論を追求していたら、結局死んでしまうだろう。

 それとおなじで世の中は有限か無限か、霊魂と身体は同一かそうでないか、人間は死後も存在しているのか、そのような問題に答えたところで私達の苦なる人生の解決にはならない。そのようなことがはっきりしたら修行すると言うのは正しくない。

 世の中が常住か 常住でないかについて見解を持ったところで、私たちの老死、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えは依然としてここにある。私はいま 現実のこれらの老死、苦を超えることを説くのだ。悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう」(中部経典第63経参照)。 

【「形而上学的な問いに対する法話」】

 釈尊は、ドグマへの執着を排した。同様に、輪廻転生その他の形而上学的質問に対しては沈黙した。それは、釈尊の宗教や哲学の形而上学的論議そのものに対する批判でもあった。

 「ヴァッチャよ、世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問いに対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない」。(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240~242頁参照)

 釈尊は、形而上学的な問いに対して、これに回答したり拒否したのではない。もっと根本的な批判として、そのような問答の無意味性を指摘し語らなかった。ここに仏教の顕著な特徴がある。釈尊は次のように述べている。

 「私が説かないことは説かないと了解せよ。私が説くことは説くと了解せよ」。

【「釈尊の指導者論法話」】
 「人間は暗闇を盲人に手を引かれていく盲人のようなものだ」。
 「牛の群れが歩いている時、リーダー役の年取った牡牛が道を外れたら、他の牛もそれに付いていくように、長たる者が道を過てば他の者もそれに習う。それと同じで、王たる者が間違った事をすれば、臣下総てが苦しむ事になる」。
 「戦争の勝者は、敗者に対して厳しい制裁で卑屈な態度で跪かせてはならない」。

【「釈尊の方便説話」】
 釈尊は数多くの方便説話を開陳している。ここではその代表的なものを確認する。

 火宅の譬喩

 或るところに長者が居た。その屋敷は広く、立派な門があったが、この家にはここしか出入り口がなかった。或る時、近くで火事が発生し、長老の家に襲い掛からんばかりとなっていた。家の中には子供たちがいた。長老は逸早く火事に気づいた。子供たちを見れば、事態に気づかず遊びに夢中になっている。長者は、早く逃げ出すよう促したが、遊びに夢中になっている子供たちには通じなかった。父は言葉を尽して諭したけれども、子らは家から出て行こうとしなかった。その時長者はこう思った。『私は今、方便を説いて、子らをこの危難から免れさせねばならぬ』。長者は、子らが珍しい玩具に飛びついて喜ぶ癖がある事を知っていたので、こう告げた。『世にも珍しい、手に入れることも難しい玩具がある。この家から出て行くなら、それを与えてあげよう』。
子らは、先を争って燃え始めた家から走り出た。舎利弗よ、これを方便と云う。

(私論.私見) (れんだいこ評)
 してみれば、方便とは、説かれる相手の執着を取る為の上策として為され、且つ相手が自由、自主、自律的に応ずるように巧みに編み出された説法と云う事になろうか。この要件を満たさないものは釈尊方便ではないということにもなろうか。「火宅の譬喩」は「タイタニックの宴」にも通じそうな話ではある。

 2008.7.4日 れんだいこ拝

【釈尊教義】
 「自帰依自灯明 法帰依法灯明」。
 (自らに帰し、自らに依り、灯りを灯せ。法に帰し、法に依り、灯りを灯せ)

【法句経】
 聖徳太子がその昔、大王としての宮城で「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」と述べ釈尊の教えによってこの国を治めると宣言した。聖徳太子が編纂した三経義疏が現代日本語に訳されて仏教伝道教会によって刊行された仏教聖典である。聖徳太子が大王としてこの国を仏の教えに従って治めると宣言して以来、日本人の情操教育の根本となった釈尊の言葉法句経が聖武天皇が全国に建てた寺院で読経され親から子へ伝えられた。仏教聖典の冒頭の法句経から転載する。
 「怨みは怨みによって果たされず、忍を行じてのみ、よく怨みを解くことを得る。これ不変の真理なり」(5) 。
 「我が愚かさを悲しむ人あり。この人既に愚者にあらず。自らを知らずして賢しと称するは愚中の愚なり」(63) 。
 「戦場において、数千の敵に勝つよりも、自己に勝つものこそ最上の戦士なり 」(103)。
 「たとい百歳の寿命を得るも、無上の教えに会うことなくば、この教えに会いし人の一日の生にも及ばず」(115) 。
 「人に生まるるは難く、今、生命あるはあり難く、世に仏あるは難く、仏の教えを聞くは有り難し」(182) 。
 「諸々の悪をなさず、諸々の善を行ない、己の心を浄くす。これ諸仏の教えなり」(183) 。
 「子たりとも、父たりとも、縁者たりとも、死に迫られし我を救うことを能わず」(288)。
 「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも自己は愛しい。故に自己を愛するものは他人を害してはならない」。
 「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。又、他の人々が殺害するのを容認してはならない」。
 「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない」。
 「世界はどこも止(とど)まってはいない。全ての方角も揺れ動いている。私は安住の地を求め探したが、どこにもなかった。すべて死や苦しみにとりつかれている所ばかりだった。殺そうとしている人々を見よ。武器をとって打とうとしたことから恐怖が起こった。全てのものは燃えている。欲望と怒りと愚かさによって」。
 「怨みは怨みをもって止まず。怨みを捨ててこそ止む」。
 「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」。

【「法華三部経」考】
 「法華三部経」その他を参照する。法華三部経(ほっけさんぶきょう)は大乗仏教の経典群である。法華経十巻、妙法蓮華経並開結(みょうほうれんげきょうならびにかいけつ)とも称される。 なお、ここでいう三部とは、無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経の三経を指す。漢訳の妙法蓮華経は鳩摩羅什によって訳されたものだが、智顗によれば一経だけで完結した内容とはなっておらず、妙法蓮華経八巻二十八品を根幹部分とし、無量義経一巻を開経・仏説観普賢菩薩行法経一巻を結経という三部で構成・完結すると説いた。これによって、釈迦が最終的に開示した最高の教えである法華経の主題部が成り立つと智顗は考えている(三経一体説)。

 法華経序品は次のように記している。
 「諸の菩薩の為に、大乗経の無量義、教菩薩法、仏所護念と名くるを説きたもう。仏此の経を説き已って、結加趺坐し、無量義処三昧に於て入り、身心動ぜず」。

 上記の説を教義として、日本の天台宗(山門派・寺門派)ならびに日蓮宗・日蓮正宗等の法華宗各派は、この三経を所依の経典としている。また、これら三経を一つとして看做すことから一部経という呼称も用いられ、殊に霊友会やその分派にあたる立正佼成会、仏所護念会などで呼び習わされている。

【仏教聖典p229第三節「もろ人のために」考】
  「投稿: 通りがけ | 2015年3月17日 (火)」の仏教聖典p229第三節「もろ人のために」から八項目を転載する。
 一、ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。一つには、国民はしばしば会合して政治を語り、国防を厳にして自ら守り、二つには、上下心を一つにして相和し、ともに国事を議し、三つには、国風を尊んでみだりにあらためず、礼を重んじ義を尊び、四つには、男女の別を正し、長幼の序を守って、よく社会と家庭の純潔を保ち、五つには、父母に孝し、師長に仕え、六つには、祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、七つには、道を尊び徳をあがめ、徳の高い師について教えを仰ぎ、厚く供養することである。どんな国でも、この七つの教えをよく守って破ることがないならば、その国の栄えることは疑いがなく、外国の侮りを受けることはないであろう。

 二、昔、大光王は、自分の王道を次のように説いた。「自分の国家を治める道は、まず自分を修めることである。自ら慈の心を養って、この心をもって国民に臨み、人々を教え導いて心の垢を除き去り、身と心を和らげて、世の中の楽しみにまさる正しい教えの喜びを得させる。また、貧しい者が来たときには、蔵を開いて心のままに取らせる。そしてこれを手がかりとして、すべての悪から遠ざかるように戒める。人々は各々その心を本として、見るところを異にする。この城中の民にしても、この都を美しいと見るものもあれば、また汚いと見るものもある。これは各々、その心、その環境がそうさせるのである。教えを尊び、心の正しい素直な人は、木石にも瑠璃の光を見るのであるが、欲が深くて自分を修めることを知らない者は、どんな立派な御殿でもなお美しいと見ることはできない。国民の生活は、万事皆なこの通り心が本になっているから、私は国を治める大本を民にその心を修めさせることに置いている」。

 三、大光王の言葉通り、政道の大本は民にその心を修めさせることにある。この心を修めることは悟りの道に進むことであるから、政治の上に立つ人は、まず仏の教えを信じなければならない。もし政治を行う人が、仏を信じ、教えを信じて、慈悲深く徳のある人を敬い、これに供養するならば、敵もなく、恨みもなく、国家は必ず栄えるに違いない。そして、国が富み栄えるならば、他の国を貪り攻めることもなく、また他を攻める武器の必要もなくなるであろう。したがって国民も満足して楽しみを受け、上下和らいで睦みあい、善を増し徳を積んで互いに敬愛し喜び合うから、いよいよ人は栄え、寒さ暑さもととのい、日も月も星も常の程度を失わず、風雨が時に従うようになり、こうしていろいろの災いも遠ざかるようになるであろう。

 四、王たるものの勤めは民を守ることにある。王は民の父母であり、教えによって民を守るからである。民を養うことは、父母が赤子を養うようなもので、父母が赤子の言葉を待たず、湿ったものを取り替えて新しい布を当てがうように、いつも民に幸いを与えて悩みを去るよう慈しみ養うのである。まことに王は民をもって国の宝とする。これは、民が安らかでなければ政道が立たないからである。だから、王たるものは民を憂えてしばらくも心を離さない。民の苦楽を察し、民の繁栄をはかり、そのためには常に水を知り、風、雨を知り、実りの善悪を知り、日照りを知り、民の憂いと喜びを知り、罪の有無と軽重、功績の有無などをよく知って、賞罰の道を明らかにする。このように民の心を知って、与えなければならないものは時をはかって与え、取るべきものはよく量って取り、民の利を奪わないよう、よく税を軽くして民を安らかにする。王は力と権威によって民を守り、このようにして民の心になって民をよく見守るものが王と呼ばれる。

 五、この世の中の王を転輪王というが、転輪王とはその家系が正しく、身分が尊くてよく四辺を統御し、また教えを守るところの王である。この王のゆくところには、戦いもなく恨みもなく、よく教えによって徳をしき、民を安らかにして邪と悪を下す。また転輪王は、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、偽り、悪口、二枚舌、むだ口を言わず、貪らず、瞋らず、愚かでない。この十善を行って民の十悪を去らせる。また、教えによって政治を正すから、天下において思いのままになすことができ、そのゆくところには戦いがなく、恨みもなく、互いに相犯すこともない。したがって、民は和らぎ、国は安らいで、民にいよいよその生を楽しませることができる。だから教えを守る王といわれるのである。また転輪王は、王の中の王であるから、諸々の王は皆なその徳を喜び、その教えに従って各々その国を治める。このように転輪王は、諸々の王をして各々その国に安んじさせ、正しい教えのもとに王の任を果たさせる。

 六、また王は罪を裁決するにも、慈悲の心をもととしなければならない。明らかな智慧をもってよく観察し,五つの原則をもってよく処置しなければならない。 五つの原則というのは、一つには実によって不実によらない。これは、事実を調べて、その事実によって処断することである。二つには時(じ)によって非時(ひじ)によらない。これは、王に力のあるときが時(じ)であり、力のないときが非時(ひじ)である。力のあるときは罰しても効果があるが、力のないときには罰しても混乱があるだけであるから、時を待たなければならない。三つには動機によって結果によらない。これは、罪を犯すものの心に立ち入って、それが故意であるか故意でないかを見きわめ、故意のことでなければ許すのをいう。四つには親切な言葉によって荒い言葉によらない。これは、罪が規則のどれに当たるかを明らかにして罪以上の罰を与えないようにし、また柔らかい優しい言葉で諭してその罪を覚(さと)らせるのをいう。五つには慈悲の心によって瞋(いか)りの心によらない。罪を憎んで人を憎まず、慈悲の心を本として、罪を犯したものにその罪を悔い改めさせるように仕向けるのである。

 七、もし王の重臣であって国家の大計を思わず、ただ自分の利ばかりを求め、賄賂を取って政道を曲げ、人民の気風を頽廃させるならば、人民は互いに相欺くようになり、強い者は弱い者をしいたげ、貴い者は卑しい者を軽んじ、富んだ者は貧しい者を欺き、曲がった道理をもって正しいものを曲げることになるから、災いがいよいよ増長するようになる。すると忠実な重臣は隠れ退き、心あるものも危害を怖れて沈黙し、ただへつらう者だけが政権をとって、みだりに公権を用いて私腹を肥やし、民の貧しさは少しも救われないようになる。このようになると、政令は行われなくなり、政道はまったくゆるんでしまう。このような悪人こそ民の幸福を奪う盗賊であるから、国家のもっとも大きな悪賊といわなければならない。なぜなら、上を欺き下を乱して一国の災いの源となるからである。王はこのような者を、もっとも厳しく処罰しなければならない。また教えによって政治をしく王の国において、父母の生育の恩を思わず、妻子にだけ心を傾けて父母を養わず、あるいはまた父母の所有を奪ってその教えに従わないものは、これをもっとも大きな悪の中に数えなければならない。なぜなら、父母の恩はまことに重くて、一生心を尽くして孝養しても、し尽くせないものだからである。主君に対して忠でなく、親に対して孝でない者は、もっとも重い罪人として処罰しなければならない。また教えによって政治をしく王の国の中においては、仏と教えと教団(仏法僧)の三宝に対して信ずる心がなく、寺を壊し経を焼き、僧侶を捕らえて駆使するなど仏の教えを破る行いをする者は、もっとも重い罪の者である。なぜなら、これらはすべての善行のもとである民の信念を覆すものだからである。これらの者は、みなすべての善根を焼き尽くして自ら自分の穴を掘るものである。この三種の罪がもっとも重く、したがってもっとも厳しく処罰しなければならない。その他の罪は、これらに比べると、なお軽いといわなければならない」。


 八、正しい教えを守る王に対して逆らう賊が起こるか、あるいは外国から攻め侵すものがあるときは、正しい教えの王は三種の思いを持たなければならない。それは、第一には、逆賊または外敵は、ただ人を損い人民を虐げることばかりを考えている。自分は武力をもって民の苦しみを救おう。第二には、もし方法があるなら、刃(やいば)を動かさないで、逆賊や外敵を平らげよう。第三には、敵をできるだけ生け捕りにして、殺さないようにし、そしてその武力をそごう。王はこの三つの心を起こして、それから後に部署を定め訓令を与えて戦いにつかせる。このようにするとき、兵はおのずから王の威徳をおそれ敬ってよくその恩になずき、また戦いの性質をさとって王を助け、そして王の慈悲が後顧の憂いをなくすことを喜びながら、王の恩に報いるために戦いに従うから、その戦いはついに勝利を得るだけでなく、戦いもかえって功徳となるであろう。(了)


【仏教聖典p229第三節「もろ人のために」考】
  「投稿: 通りがけ | 2015年3月23日 (月) 08時49分の仏教聖典おしえ第一章因縁第三節第三項」を転載する。
 この世の中には、三つの誤った見方がある。もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。 一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。二つには、ある人は、それはすべて神の御業(みわざ)であるという。三つには、またあるひとは、すべて因も縁もないものであるという。

 もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものもそんざいしないことになる。したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。次に、神の御業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難が浴びせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。


【「仏教聖典おしえ第四章煩悩第一節、心の穢れ第七項(p85)」考】
  「投稿: 通りがけ | 2015年3月23日  仏教聖典おしえ第四章煩悩第一節、心の穢れ第七項(p85)」を転載する。
 「外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。心に貪りと瞋りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。人の貪りも、愛欲も恐れも瞋りも、愚かさからくるし、人の難儀も不幸も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない」。

【仏教聖典p229第三節「もろ人のために」考】
  「仏教聖典」(財団法人 仏教伝道教会 1981年刊)
 http://www.bdk.or.jp/buddhism/book01.html

 (なわ・ふみひと)

 心の構造

  迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。 人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。 絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。

  ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。 迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。 このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現われる。

  すべてのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。 しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。

 心のけがれ

  仏性を覆いつつむ煩悩に2種類ある。1つは道理に迷う理性の煩悩である。2つには実際に当たって迷う感情の煩悩である。この2つの煩悩は、無明(むみょう)と愛欲となる。無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、死を願うような欲望ともなる。この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見、恨み、嫉み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。

  この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の3つの火といわれる。貪りの火は、欲にふけって真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害する人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。
  まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、――さまざまな火によって炎々と燃え上がっている。これらの煩悩の人はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身・口・意の3つの悪い行為に導くことになる。

  貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りの罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。

  人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。人は欲のために争い、欲のために戦う。また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺をはたらき、姦淫する。また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、4つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。

  心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。意の3つ、口の4つ、身の3つ――これらを十悪という。人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくる。人の不幸も難儀もまた、愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。

  人は煩悩によって業を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの3つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。しかも、人はこの輪廻から逃れるすべを知らない。永劫に回転する輪廻に従って、人はこの現在の生から次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

  迷いのすがた

  この世の人びとは、身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。 富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。

  人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。この世の争いは、互いに害し合ってもすぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生を変え、死を変えて、互いに傷つけ合うようになる。人は愛欲の世界にひとり生まれ、ひとり死ぬ。未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。

  善と悪とはそれぞれの報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらすことが、動かすことのできない道理によって定まっている。しかも、それぞれがおのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つない。この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りと言わなければならない。

  このような有様がこの世の姿である。人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。

  栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。この世の快楽も何一つ永続するものはない。だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。

  ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。善悪にかかわるすべてのことを信じない。  ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。

  どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。ただ、これについて苦しみ悲しむことだけ知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。

  人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。しかも今日に至ってもなお、迷いは絶えることがない。いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。 だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。また仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。

 投稿: 通りがけ1/2 | 2015年3月20日 (金) 09時57分

  心を清める

 一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。

  第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。見方を誤るから、我という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。

  第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。

  第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためであると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。

  第四には何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶ。この忍びを受けることによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。

  第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。

  二、世には五つの欲がある。眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。

  三、その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその往みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。

  またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。

  四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。

  五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。

  六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。

  七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。損なうことを思えば損なう心が多くなる。牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。

  牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。

  八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。そのときアーナンダは釈尊にこう言った。 「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」。 「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」。 「世尊よ、また他の町へ移ります」。「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」。

 善い行ない

  一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。

  心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。

  二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。
  あるとき、その女中がこう考えた。
  「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」

  そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。

  「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。

  女中はさらに次の日も遅く起きた。主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。

  三、だれでもこの女主人と同じである。環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。

  自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。

  だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。

  四、すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗いことば、有益なことばと有害なことば、慈しみのあることばと憎しみのあることば、この五対がある。

  この五対のいずれによって話しかけられても、

  「わたしの心は変わらない。粗いことばはわたしの口から漏れない。同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」と努めなければならない。

  八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かってちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。

 投稿: 通りがけ2/2 | 2015年3月20日


【「釈尊の霊鷲山説法、七不衰法」考】
  「投稿: 通りがけ | 2015年3月23日 仏教聖典おしえ第四章煩悩第一節、心の穢れ第七項(p85)」を転載する。
 (人天の師ゴータマ・ブッダ(釈尊)が入滅前霊鷲山でヴリッヂ族の都市国家ヴァイシャリー(維摩居士の国)を武力征服しようと企てるマガダ国アジャータシャトル王の重臣ヴァルシャカーラ大臣(バラモン)の訪問を受けたときに説いた「七不衰法」にこうあります。「大般涅槃経」(だいはつねはんぎょう)の一節)(渡辺照宏著「新釈尊伝」、昭和41年、大法輪閣発行)

 「『アーナンダよ。第一、ヴリッジの人たちはしばしば会合し、よく集まっているか。第二、ヴリッジの人たちは一致和合して会合し、決議し、事を処理しているか。第三、彼らは新しい制度を設けたり、前の制度を捨てたりせず、旧来の風習を守っているか。第四、彼らは年長者を尊敬し、その言うことを聞くか。第五、彼らは婦女や少女を強制して言うことをきかせようとはしないか。第六、彼らは内外の社(やしろ)を尊敬し、昔からしきたりの供物を怠らないか。第七、彼らは宗教家たちを尊敬し、よそから喜んで宗教家がそこを訪れ、そこにいる宗教家は喜んでそこに留まっているか。これらを守っているあいだは、ヴリッジの人たちは繁栄こそするが、衰えることは決してない』。『バラモン(ヴァルシャカーラ大臣)よ。かつて私はヴァイシャリーのヴリッジの人たちに、これらの七不衰の法を教えた。彼らがこれらの法を守っているあいだは繁栄こそするが、衰えることは決してない』。『釈尊(ゴータマ・ブッダ)よ。(ヴリッジの人たちが)これらの七不衰法のうちのただひとつでも守っているあいだは繁栄こそするが、衰えることは決してありますまい。七つの法がぜんぶ揃っていれば申すまでもありません。マガダ国のアジャータシャトル王は武力で彼らをくだすことはできません。もっとも、陰謀か内部分裂でも起これば別でしょう』。

 ・・・内外の社とさまざまの宗教家とを尊敬すべしという教えは注目に値します。ここで「内外の社」と訳しておきましたが漢訳には「宗廟」とあります。内は氏神、外は氏神以外の社をさすものでしょう。佛陀が既存の民族宗教の信仰を廃するどころか、むしろその信仰を奨励した証拠がこれであります。のちに仏教は中国でも日本でも土地固有の信仰を採用しました。神仏の融和を日本における仏教の堕落だと考える学者もいますが、そういう人はインド仏教を知らないからそういえるのです。あらゆる宗教に対する寛容もこの七ヵ条の中にあります。南無釈迦牟尼仏
」。





(私論.私見)