貴乃花2、現役力士時代



 更新日/2017(平成29).11.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「貴乃花光司」を確認しておく。「」、「」、「貴乃花光司■花田家の遺伝子を継ぐ平成の大横綱」その他を参照する。「相撲史その3」、「相撲史その4」。

 2015.11.30日 れんだいこ拝


 貴乃花光司(たかのはな こうじ)
 本名/花田光司、四股名/貴乃花光司、生年月日/1972.8.12日、出身/東京都杉並区、身長/185cm、体重/161kg(現役時)。体重/73kg (2016年)、 血液型/O型、所属部屋/藤島部屋→二子山部屋、最高位/横綱。得意技:突っ張り、右四つ、左四つ、寄り、上手投げ。
  貴乃花光司は、優勝22回などをした平成の大横綱です。貴乃花光司は、大関・貴ノ花の次男で、伯父に若乃花幹士(初代)がおり、兄に若乃花勝がいます。一代年寄です。数々の年少記録を作り、大鵬(当時1位)の優勝回数に迫ると思われましたが、晩年に失速した。兄・若乃花勝とともに「若貴ブーム」を作りました。

【横綱になる前までの履歴】

 1988(昭和63)年、兄・勝とともに藤島部屋に入門。

 3月、しこ名・貴花田光司として3月場所で初土俵を踏む。前相撲で3連勝 一番出世。同期に曙、兄の若乃花らがいる。以降、数々の年少記録を作り、大きな注目を集める。
 同年、5月場所、「貴花田」で東序ノ口11枚目。
 1989(平成元).5月場所、最年少幕下優勝(16歳9ヶ月)。
 同年10.30日、最年少十両になる(17歳2ヶ月)。

 1990(平成2).5.1日に17歳8ヶ月で最年少新入幕。この場所は4勝11敗で、十両へ陥落する。同年11月に幕内復帰。その後、勢いは減速した。
 1991(平成3).3.24日、11連勝を含む12勝3敗で敢闘賞、技能賞。最年少三賞受賞(18歳7ヶ月)。

 同年5.12日、前頭筆頭だった夏場所初日に大横綱・千代の富士と当たり、千代の富士相手に史上最年少金星(18歳9ヶ月)を獲得。これを機に千代の富士は引退する。兄・若乃花(当時は若花田、ちなみに貴乃花も当時は貴花田)とともに「若貴ブーム」(「若貴フィーバー」)を引き起こす。この頃、666日満員御礼という記録が打ち立てられている。

 同年6.24日、最年少小結(18歳10ヶ月)になる。  

 同年7月、貴花田が、an・an1991年7月26日号の表紙を飾り、グラビアも掲載された。
 同年8.26日、最年少関脇(19歳0ヶ月)になる。

【貴乃花が、東前頭2枚目で初優勝。最年少幕内優勝(19歳5ヶ月)
 1992(平成4).1.26日、東前頭2枚目で14勝1敗を挙げ初優勝。最年少幕内優勝(19歳5ヶ月)この場所は三賞を独占する。

 同年9月、2回目の優勝。

【貴乃花が、当時国民的人気を誇っていた宮沢りえと婚約会見】
 1992(平成4).10月.26日、九州場所前、貴乃花(20歳)が、当時国民的人気を誇っていたタレントの宮沢りえ(19歳)と婚約し、10.27日、都内のホテルで二人揃ってピンクの衣装で会見場に姿を見せラブラブ婚約会見を行っている。当時、二人とも 国民的な人気を誇っていたことから“世紀の結婚”と大きな話題になった。1993.5.28日に挙式することも発表された。

【関脇貴花田が唾を土俵に吐き捨てる愚行で非難される】
 1992(平成4)年の九州場所、貴花田は初日から4連敗スタート。久島海に放り投げられると、唾を土俵に吐き捨てる愚行に出た。宮沢りえとの婚約破談と云う不遇を同情する面もあったが非難が集中した。5日目から10連勝をマークし一気に白星を二桁に伸ばしている。この事件を機に益々そのストイックさに磨きが掛かり、相撲道へ邁進。不祥事とも無縁の、アッパレ国技が誇る華となった。一部、マスコミが過熱化した結果、物議を醸したものの協会からは不問に付されている。

【最年少で年間最多勝を受賞】
 この年は60勝30敗で最年少20歳3ヶ月で年間最多勝を受賞する。

【関脇貴花田の高校生平手打ち事件】
 1992.12月、長崎県五島市の巡業の際、関脇貴花田が花道を歩いているとき、高校生が「貴乃花」と呼びながら背中をバチバチ叩いた。貴花田は無視して歩いて行ったが花道を戻って来て、その高校生に対して「お前なんてことするんだ!痛いじゃないか謝れ」と言って頭をぽかりと叩く事件を起こしている。これを仮に「高校生平手打ち事件」と命名する。怪我がなかったため問題にならなかったが、みんなの見ている前だったので大人げないとの批判が寄せられた。

【最年少で大関昇進】
 1993(平成5).1月、11勝4敗を挙げ大関昇進。最年少20歳5ヶ月で大関昇進。しこ名を貴ノ花に改名。伝達式では「不撓不屈」(ふとうふくつ)の言葉を用いる。同時にライバル・曙は横綱昇進。

【貴乃花が、婚約会見から2ヶ月後、突然に婚約破棄を発表】
 1993.1.25日、婚約会見から2ヶ月後、突然に婚約破棄を発表する。史上最年少大関を決めた貴花田が「連絡もとってないし、会ってない。彼女への愛情がなくなりました」と突然の破局会見をして大騒動になつた。同27日、りえが破局会見を行い、「残念です」と破談を認めた。

【貴乃花と宮沢りえの婚約破局】
 2017.11.5日、破局から22年の時が経った頃、演歌歌手の美川憲一が、読売テレビのバラエティー番組「上沼・高田のクギズケ!」に出演し、二人の破局理由を暴露した!その破局理由のキッカケとなったのは、 9.23日に死去した女優・宮沢りえの母で所属事務所「エム・ツー企画」の代表取締役・宮沢光子さんに「結婚を辞めさせるよう説得してほしい」と依頼されたことによる。りえママと「仲がよかった」美川は、「婚約したときにりえママから電話があった。『やっぱり、嫁ぐところが相撲の世界だから、りえがおかみさんになれる(おかみさんとしてやっていける)ということはありえないと思うのよ』って。それで頼まれてぶっ壊したのよ」と衝撃告白した。美川は当時、滞在先のロサンゼルスからりえに電話をかけ、1時間ほど話し込み、貴花田(現貴乃花親方)との婚約を解消するよう電話で説得した。 「本当にお嫁に行きたいの?」と聞くと、りえは「行きたい」ときっぱり答えたという。しかし、美川は「あんたは背負ってるものが重すぎる。あんたも母一人子一人。私も2人の母(生みの母と育ての母)を背負ってきた。そういう家庭に生まれたらしょうがない、運命だから。おかみさんになったら、お母さんどうするの?ずっと面倒みていかないといけないのよ」と語りかけた。りえは、電話の向こうで「泣いていた」という。それでも、美川は「あんたもここで、好きだから、って一緒になるんじゃなくて。もう一回考え直して。女優として大成するんだから」と説得したことを明かした。美川はりえを妹のようにかわいがっており、破局会見当夜、りえママ、相談相手だった故木原光知子さんと共に自宅でりえと深夜まで過ごし、励ましていた。(「美川、宮沢りえの婚約「ぶっ壊した」」) その後、 宮沢りえは 日本を代表する女優になった。貴乃花は元フジテレビアナウンサーの河野景子さんと結婚した。

【四股名を「貴花田」から「貴ノ花」に改名】
 1993(平成5).3月、四股名を「貴花田」から「貴ノ花」に改名する。その後、大関で横綱昇進のチャンスを何度か逃す。

【若花田も幕内優勝し若貴兄弟が同時に大関へ昇進】
 1993(平成5)年、若花田も幕内優勝を果たして、兄弟同時に大関へと昇進。

【土俵内に力水を吐く】
 1994(平成6)年、「横綱が懸かる地方場所で崩れ、7月には序盤に崩れ土俵内に力水を吐き、負けたのに水つけにいってさらに土俵を蹴る有様」となった。この出来事が影響したのか、この年の9月の横審で横綱昇進を見送られている。

【9月場所で、最年少22歳1ヶ月で全勝優勝】
 1994(平成6).9月場所で、最年少22歳1ヶ月で全勝優勝。

【四股名を「貴ノ花」改め「貴乃花」に改名】
 1994(平成6).11月、四股名を「貴ノ花」改め「貴乃花」に改名する。

【65代横綱・貴乃花光司誕生】
 1994(平成6).11月場所を連続全勝優勝で横綱に推挙される(22歳3ヶ月)。65代横綱・貴乃花光司誕生。北の湖の横綱最年少昇進記録の更新はならなかった。伝達式で「不惜身命」との口上を使った。

【兄の若乃花勝が結婚】
 1994年、兄の若乃花が、元Olivモデルで当時日本航空の客室乗務員(CA)だった(栗尾)美恵子さんと結婚した。4人の子供(1男3女)をもうけ、2002年に別居、2007年に離婚。美恵子さんは「夫の度重なる浮気が主原因」と週刊誌上で告白していたが、美恵子さんも別居時に11才年下の若手俳優・青木堅治(あおきけんじ 33才)さんと不倫の関係にあったと報じられた。親権は美恵子さんが持ち、現在はハワイに移住している。花田さんは美恵子さんと離婚後の2008年、9才年下の元幼稚園の先生だった女性と再婚している。

【横綱時代の履歴】

【65代横綱・貴乃花が東横綱で13勝2敗で優勝】
 1995(平成7)年1月、65代横綱・貴乃花光司が東横綱で13勝2敗で優勝。優勝 (8回目)。

【フジテレビアナウンサー/河野景子さんと結婚】
 1995(平成7).5.29日、22歳の時、8歳年上のフジテレビアナウンサー/河野景子さん(元ミス上智大学)と妊娠6ヶ月でデキチャッタ結婚し披露宴。阪神大震災やオウム・サリン事件の直後でもあり、平和的な話題を求めてマスコミが殺到した。出席者は異例の1000人規模。総費用は4億円といわれ、テレビも民放3社が特番を組むという異例の扱いとなった。披露宴には、笑福亭鶴瓶、沢田研二、藤田朋子、陣内孝則、CHAGE&ASKA、山田邦子らの姿が。三浦カズ夫人の三浦りさ子、小谷実可子などスポーツ系の美女も目立った。当時の人気番組『進め!電波少年』(日本テレビ系)から、松村邦洋が大イチョウのカツラで、アポなしで登場し、会場手前で説教され退場するハプニングが起こっている。

 横綱と人気女子アナのカップルは大いに話題になった。新婦の河野景子さんは、「教えを受けて横綱についていきます」と語っている。貴乃花と花田景子の間には9月、長男優一。その後二人の子どもが誕生し、1男2女の計3人の子供を設けるが相撲界には入っていない。

貴乃花光司(たかのはな こうじ)履歴/現役まで】 
 1995年、九州場所で兄弟での優勝決定戦。大相撲史上初めてのこと。結果は兄の意地を見せて若乃花が見事勝った。注目すべきは若乃花が初代若乃花の粘り腰、貴乃花が輪島の黄金の左を髣髴とさせる取り組みを演じていることである。遺伝子(血)は争えないと云うことになる。

 やくみつるが、「若貴確執の原点は、95年九州場所の若貴対決に求めるのは間違いですか?力が入ってないように見えましたが・・・。」と問いかけたら、貴乃花は「はい、そうです」といとも簡単に認めている。‘無気力相撲でわざと負けた’と言ったのと同じである。週刊ポスト等で「大相撲界にはびこる八百長問題」が指摘されて20年以上が経つが、二子山部屋だけはガチンコ(真剣勝負)と信じられてきていたのを、貴乃花が自ら否定したことになる。
 1995年が3連覇を含む4回の優勝、1996年が4連覇で4回の優勝、1997年が2連覇を含む3回の優勝で、優勝回数を積み重ねる。1998年は2連覇するものの、2回の優勝にとどまる。  

【貴ノ花申告漏れ事件】
 1996(平成8).7月、元大関・貴ノ花の二子山の申告漏れが発覚 。元大関・貴ノ花の二子山親方が前年までの3年間で約3億円の申告漏れ。若乃花も申告漏れが発覚し、それぞれ理事長が口頭注意をうける。

 1996.9月、元大関・貴ノ花の二子山が二子山の年寄株取得の際に後援会から贈与された3億円を申告しなかった一件が発覚した。年寄株が高額で売買されており、この取引には税金がかかるはずが大きな問題になってこなかった。二子山株の元の所有者は元横綱・若乃花(初代)である。若乃花は貴ノ花の実兄である。実の兄弟間での3億円のやりとりで相撲界の年寄株売買の実態の一例が明るみに出ることになった。そもそも貴ノ花は年寄・藤島として活動していた。二子山の停年に伴い、部屋を吸収合併をすることになり二子山の名跡を買い取ったことになる。二子山(貴ノ花)は元横綱・若乃花も3億円の所得の申告漏れを指摘されたことにより、巡業部長解任、相撲博物館館長辞任となり角界を去った。当時の理事長である元横綱・佐田の山の境川が「売買禁止」を柱とした改革に乗り出そうとしたところ親方衆から猛反発。結局、売買は実効性を持った形で禁止されることはなかった。境川の理事長任期終了後、元大関・豊山の時津風の理事長時代に辛うじて年寄株の貸借が禁止されることになった。しかし、名義を変更せず貸すという新たな手法がすぐに出来上がりすぐに有名無実化したことにより2002年9月には貸借OKとなった。(「貴ノ花申告漏れ事件」)。

【66代横綱/若乃花勝誕生。若貴時代到来】
 1998(平成10).5月、66代横綱に若乃花勝が誕生。若貴時代と云われる若貴フィーバーが完結した。
 但し、平成10年夏場所終盤での若乃花に八百長疑惑が浮上している。当時大関だった若乃花は、夏場所で綱とりに挑んでいた。13日目までで10勝3敗、残る二日の二番は絶対に落とせなかった。対戦するのは横綱・曙と大関・武蔵丸。次のコメントが遺されている。
 「この時、若乃花は横綱昇進を果たすため八百長を打った。その一部始終を知っていた弟の貴乃花が激怒。若乃花横綱昇進後、貴乃花はマスコミに『稽古をしない若乃花がどうやって横綱の地位を守るのか』と痛烈に批判している」。

整体師による洗脳騒動
 1998(平成10).9.1日、秋場所直前、スポーツ紙に衝撃的な記事が掲載された。貴乃花が「若乃花の相撲には基本がない。どうやって横綱の地位を守れるのか、私には不思議です。もう若乃花と話す必要はない」などと発言、絶縁宣言したと報じられた。当時、若貴兄弟、実父であり師匠でもある元大関・貴ノ花の双子山やその妻である憲子さんまで含めて世間はこの一家を「理想の一家」として見ていた。若貴が幼い頃から家族でイヴェントがあればTV局が密着レポートと称して放送していた。それだけに社会に与えた衝撃は大きかった。

 9.9日、父・二子山親方がTV番組で、「貴乃花は懇意にしている整体師に洗脳されている。本人にスキがあった」、「洗脳している人物は東京は四谷で開業している整体師。整体師は父親である二子山親方自身が紹介した」と証言した。同時に「親子であり師匠と弟子なのにもう2年以上会話がないこと」、「65代横綱・貴乃花と66代横綱・若乃花は、兄弟であるにも拘わらず口もきかないくらい仲が悪い」と述べ、 「親子不仲」、「兄弟横綱不仲」が明るみに出た。かくて「貴乃花洗脳騒動」が勃発し、当時のTV、新聞がこぞって取り上げ世間は大騒ぎになった。(洗脳騒動
 9月場所6日目、新横綱・若乃花は出島に敗れ横綱初黒星を喫する。この時、貴乃花が「相撲はそんなに甘くない。やることをやらなければ負ける」と嫌味発言。新聞各紙に掲載された。こうなると相撲フィーバーの主役・貴乃花は悪者扱いに。従来は考えられなかった「貴乃花負けろ!」ヤジが9月場所で飛び交った。ワイドショーは連日報道合戦、ファンは貴乃花の変貌ぶりに心配を募らせた。
 元々は、若貴兄弟は一緒に整体師の指導を受けていた。兄の若乃花は途中で止めた。貴乃花は指導を受け続け、「引退を考えていたときにある先生に相談した」と話したくらい整体師を信頼し心酔していた。騒動の渦中でも整体師のもとに通い、メディアなど報道陣の取材には一切応じなかった。

 「若貴不和騒動の張本人」、「貴乃花を洗脳した謎の整体師」などと云われている。「貴乃花洗脳騒動」の主役の整体師とは、鍼灸治療院「筋骨堂」の院長の富田多四郎氏を指す。整体師としての腕は凄いようで予約を取ることが難しい。冨田氏は、慣れてくるにつれて相撲の内容などにまで口をだすようになった。独自の理論があって「脳内思考」と呼んでいた。脳や宇宙の話にまで話が発展していく。その理論に関係ある言葉を紙に書いて貴乃花親方に渡していた。その数は全部で数百枚にもなった。貴乃花親方の兄の若乃花が富田治療院に行かなくなったきっかけは、親父である二子山親方を侮辱したことだったと云われている。富田「大関にしか上がれなかった人間が横綱をつくれるはずがない」、若乃花「もう来ません。光司(貴乃花)は僕が守ります」、富田「お前は心が悪い。だから横綱になれないんだ」。これを聞いた二子山親方は、「あんなことを言って、光司が体を診てもらえなくなったらどうするんだ」。貴乃花は、「そんなことを言って、冨田先生から離れると、マーちゃんはどんどん弱くなるよ」。

 貴乃花親方が激やせした時期があり、このことがきっかけで、病気なのではないかとの話が広まった。現役時代は、整体師の富田多四郎さんの助言もあったようで、たくさん食べて身体を大きくしたが、引退後は激やせともいえるくらい痩せた。

 フジテレビ系「バイキング」に藤田紀子(70)が出演し、1998年秋から世間を騒がせた貴乃花親方の横綱時代の“洗脳騒動”について語った。その中で、次のように証言している。

 「もっともっと細かく色々見ていた。整体師の先生が2人の体に何百本と針を打つ。治療だけでなく精神的にも『自分の体は大丈夫なんだ』と思って土俵に上がるものですから私も信頼していました。治療の間は(私は)ずっとついている。するとカーテンの奥から聞こえてくる。相撲の取り口まで指導を始めてしまった。だから困った。そこまでは先生にお願いしていないんだけれど。親方と『先生、困ったね。相撲の指導はあなたでいいのにね』と話はしていました。確かに親方が悩んでいた。その時に…。私、(洗脳を肯定した)親方に怒りましたけれどね」。

 当時のフジ系「ナイスデイ」での親方のインタビュー要旨は次の通り。

 「光司は本当に優しかったんですけど。なぜこんなに変わってしまったのか。4年くらい前からおかしい。整体師には長い年月、治療してもらっているのと、相撲に一生懸命になっている反動で、ウソを平気で聞いているんですね。一時(整体師と)離れたが、整体師の話しか聞かない。しっかりと洗脳されている。相撲に苦しいのは分かる。その苦しい中でも人を見下してはいけない。人に迷惑をかけて自分だけノホホンと生きるのはダメ。気付いてほしい。景子さんはじっとしているしかない。家庭が心配。子供のためにもキチッとしてほしい」。

【貴乃花の兄は叔父の子、自身は輪島の子疑惑】
 10人兄弟の長男である初代若ノ花と末っ子の初代貴ノ花の年齢差は22歳だった。貴乃花の母親の花田憲子の最初の旦那は花田勝治(初代若ノ花)だった。花田勝治と結婚し、長男若乃花を産んだあと駆け落ちしたのが勝治の実の弟で弟子でもあった10人兄弟の末っ子の花田満(後の初代貴ノ花)。二人は駆け落ちした。この事態に初代若ノ花は仕方無く弟の席に自分の子供(若乃花)を入れる事も許して結婚させた。貴乃花の本当の父親は輪島と云われている。初代若ノ花を蹴って弟の初代貴ノ花に乗り換えた花田憲子は、貴ノ花の親友でもあった輪島と通じていた。

【貴乃花が「花田家への絶縁宣言」を発表】
 1998年、貴乃花がいよいよ冨田多四郎氏に傾倒し、遂に「花田家への絶縁宣言」を発表する。

【貴乃花兄弟和解の握手とコメント演出】
 1999年、当時かなり話題になった評判の良い缶コーヒーのCMに出演し、ファンを少し安心させた。さらに関係者の努力も実り関係は修復される。兄弟和解の握手をがっちりと交わして全国の相撲ファンを一安心をさせた。その後も兄弟同士で相手を尊敬するコメントを出し合うなど、解決したかに思えた。

【貴乃花が土俵で失速する】
 1999年、2000年と優勝がなく大きく失速。

【憲子さんに不倫疑惑浮上】
 1999.7月、週刊誌記事で、貴乃花の母親の藤田紀子(当時は憲子)の18歳年下のM医師との不倫疑惑が報道される。

【若乃花引退】
 2000.3.16日、春場所5日目、黒星を喫した三代目若乃花が29才で引退した。年寄藤島を襲名し、当初は後進の育成に専念するような発言をしていたが、引退相撲を終えて間もない同年12.18日、突如日本相撲協会を退職。その後はタレントに転身した。芸能界入りしマルチタレントとして、バラエティ番組を中心に出演するも、2007年には妻であった花田美恵子さんと協議離婚。2011年4月9日より、風水建築デザイナー直居由美里のアドバイスで芸名を「花田虎上」(はなだまさる)に改名する。

【貴乃花が満身創痍の優勝】
 2001年、5月場所の千秋楽。前日の武双山との取り組みで右ひざに大けがを負った貴乃花だが、周囲の勧めを振り払い、優勝を賭けて武蔵丸と相対する。しかし、あっけなく負けてしまい、再度武蔵丸との優勝決定戦が行われることになる。実はこの優勝決定戦の土俵上、通常の所作の流れでしゃがみこんだとき、膝が外れてしまったという。しかし、塩を取りに行き膝を回しているうちにうまいことはまり、執念の一番で武蔵丸を下し、満身創痍の優勝を飾った。これが貴乃花最後の22回目の優勝となった。この時の“鬼の形相”は今も語り継がれる。当時の小泉首相の「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」の表彰式でのよく知られるフレーズを生んだ。但し、激闘の代償は大きくり、次の場所から当時史上ワーストとなる7場所連続休場を強いられることになる。貴乃花は年少記録を次々と更新し、大鵬の優勝回数(当時史上1位)の更新も期待されたが晩年に大きく失速した。

【貴乃花の両親が離婚】
 2001(平成13).8.1日、貴乃花の母親の藤田紀子(当時は憲子)の18歳年下のM医師との不倫疑惑が報道される中で(1999.7月、週刊誌記事で憲子さんに初めて不倫疑惑浮上)貴ノ花夫婦が別居。この日、離婚した。

【貴乃花の母親が藤田憲子に戻り芸能界に復帰】
 2001(平成13)、貴乃花の両親が藤田憲子に戻り芸能界に復帰した。2008(平成20).12月、芸名を本名の藤田憲子から藤田紀子に改名する。

【貴乃花が7場所連続全休】
 貴乃花が、2001(平成13)年7月場所、9月場所、11月場所、2002(平成14)年1月場所、3月場所、5月場所、7月場所の7場所を連続全休し、大相撲史上ワースト1位という不名誉な記録を作った。横綱は休場しても降格はしないので、この休場はどうなのかと批判が巻き起こった。休場明けの9月場所は12勝3敗とそれなりの成績を出したが、さらに怪我をし、11月場所全休に追い込まれた。

【貴乃花の借金騒動】
 現役時代の終盤、貴乃花の株取引による借金騒動が一部マスコミで報道されている。「貴乃花光司が現役時代にIT関連企業に投資して10億円を超える借金を作ったと云う」。但し、その後の報道がない幻スクープとなっている。これについて次のように寸評されている。
 「貴乃花光司ですが、株取引による借金があったという事が一部マスコミが数年前に報道しています。現役時代の終盤の事であり、自身の実力低下や故障、家庭の不幸、所属している相撲部屋の問題等の様々なトラブルが噴出していた時期でもあります。これらのすべては、自身の責任ではありませんが、かなり苦しい状況に追い込まれていた事が予測されます。順風満帆と見られていた20代前半以降は、数々の波乱を経験する事になります。借金がどれだけの悪影響を及ぼしたのかは明確ではありませんが、巨額という事で返済は困難であったと考えられます。どれだけの地位と名誉を得ている場合でも、金額が大きい場合は受けるダメージも大きくなるからです。借金の真偽は定かではありませんが、現在は全く報道される事がなくなっているので、仮に事実であったとしても完済したと推測されます」(「貴乃花光司の借金」)。
(私論.私見)
 この寸評は、現役時代の終盤期の貴乃花に多額の借金があったことを認めているところが秀逸である。結論を「完済したと推測されます」としているが、誰かに肩代わりして貰い、それ以来、その勢力にリモコンされている事情下にあると推測することもできよう。れんだいこはこちらの見解を採る。
 別のブログは次のように解説している。
 大横綱である、貴乃花は現役時代にITで10億円を超える借金を作ってしまったのです。何となく誘われるままにやった投資で大きな借金を作ることになってしまったのです。ITバブル時代に株の取引の失敗し、7億8億円の借金ができたが断髪式の祝儀などで2年前に返済を終え、「残るは豪邸代金の5億円だけになっている」とも。(「借金・負債の原因・背景」)
(私論.私見)
 このブログは、こちらの方がやや詳しく述べているところに値打ちがある。借金返済につき、「残るは豪邸代金の5億円だけになっている、とも」と推測しているだけで、良からぬ勢力に捉まり、以来リモコンされている可能性を推理するべきだろう。
 別のブログは次のように解説している。
 「貴乃花親方を長く取材する相撲担当記者が語る。『現役時代の収入は桁違いでしたが、2000年にIT株に大金をつぎ込んだ結果、数十億円ともいわれる借金を抱えたという報道がありました。引退時の断髪式の放映権、ご祝儀などで約5億円の収入があったが、借金をすべては返せなかったと。そこで太いタニマチの経営者を頼り、借金のほとんどを肩代わりしてもらったんです』」。

【貴乃花の再起】
 2002(平成14)年、8場所ぶりに秋場所に出場し、進退を懸けて土俵に上がり12勝3敗。

【貴乃花が現役引退】
 2003(平成15).1.19日、20日、初場所8日目の安美錦戦で負け連敗を喫した。 初場所9日目、平成の大横綱・貴乃花光司(貴花田→貴ノ花→貴乃花)が初場所限りで現役引退を発表した(30歳5カ月)。相撲界への功績から協会から一代年寄・貴乃花を許され、一代年寄部屋付き親方として「貴乃花」を襲名した(30歳)。功労金1億3000万円が支給される。

 「貴乃花光司は歴代6位の22回の優勝回数を誇る第65代横綱。1990年代には、兄と共に若貴ブームを巻き起こした人気力士。父が大関、叔父が横綱という名門一家であり、人気と実力を兼ね備えた歴史に残る名力士の一人」。
■幕内通算成績(平成4年1月の備考の三は殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三賞独占)
場所 番付 成績 星取表 優勝 備考
平成2(1990)年5月  東前14 4勝11敗 ○●●○●●●○●○●●●●●    
           
平成2(1990)年11月 西前12 8勝7敗 ●○○●○○○●○○●●○●●  
平成3(1991)年1月 西前9 6勝9敗 ●○●○●●●●●●○○○○●    
平成3(1991)年3月 東前12 12勝3敗 ○○○○○○○○○○○●●●○   敢技
平成3(1991)年5月 西前1 9勝6敗 ○○●●●○●○●●○○○○○  
平成3(1991)年7月 西小結 11勝4敗 ○●●○●○○○○○●○○○○   殊技
平成3(1991)年9月 西関脇 7勝8敗 ○○○●●●●●○○○●●●□     
平成3(1991)年11月 東前1 7勝8敗 ●○●●●○○○●●○○●○●    
平成4(1992)年1月 東前2 14勝1敗 ○○●○○○○○○○○○○○○
平成4(1992)年3月 西関脇 5勝10敗 ●●●○○○●●○○●●●●●    
平成4(1992)年5月 西前2 9勝6敗 ●○●○●○○○○○●○●●○    
平成4(1992)年7月 東張小 8勝7敗 ○●●●○●●○○●○○●○○    
平成4(1992)年9月 西小結 14勝1敗 ○○□○●○○○○○○○○○○
平成4(1992)年11月 西関脇 10勝5敗 ●●●●○○○○○○○○○●○    
平成5(1993)年1月 東関脇 11勝4敗 ○○○○○○○●○●●○○○●    
平成5(1993)年3月 東大関 11勝4敗 ○○○○●○●○○○○○○●●    
平成5(1993)年5月 東大関 14勝1敗 ○●○○○○○○○○○○○○○  
平成5(1993)年7月 東大関 13勝2敗 ○○●○○○○○○○●○○○○  
平成5(1993)年9月 東大関 12勝3敗 ○●○○○○○●○○○○○●○    
平成5(1993)年11月 東大関 7勝8敗 ○●○●●●○○○○●○●●●    
平成6(1994)年1月 西大関 14勝1敗 ○○○○○○○○○○○○○●○  
平成6(1994)年3月 東大関 11勝4敗 ○○○○●○○●○○○○●○●    
平成6(1994)年5月 西大関 14勝1敗 ○○○○○○●○○○○○○○○  
平成6(1994)年7月 東大関 11勝4敗 ○●○○○●○●○○○○○○●    
平成6(1994)年9月 西大関 15勝 ○○○○○○○○○○○○○○○  
平成6(1994)年11月 東大関 15勝 ○○○○○○○○○○○○○○○  
平成7(1995)年1月 東横綱 13勝2敗 ●○○○○○○●○○○○○○○
平成7(1995)年3月 東横綱 13勝2敗 ○○○○○○●○○○○○○○●    
平成7(1995)年5月 西横綱 14勝1敗 ○○○○○○○○○○○○●○○  
平成7(1995)年7月 東横綱 13勝2敗 ○○○○○○○●○○○○○○● 10  
平成7(1995)年9月 東横綱 15勝 ○○○○○○○○○○○○○○○ 11  
平成7(1995)年11月 東横綱 12勝3敗 ●○○○○○●○○○○○○○○  
平成8(1996)年1月 東横綱 14勝1敗 ○○○○○○○○○○○○○●○  
平成8(1996)年3月 東横綱 14勝1敗 ○○●○○○○○○○○○○○○ 12  
平成8(1996)年5月 東横綱 14勝1敗 ○○○○○●○○○○○○○○○ 13  
平成8(1996)年7月 東横綱 13勝2敗 ○○●○○○○○○○○○●○○ 14  
平成8(1996)年9月 東横綱 15勝 ○○○○○○○○○○○○○○○ 15  
平成8(1996)年11月 東横綱 15休 休休休休休休休休休休休休休休休    
平成9(1997)年1月 西横綱 13勝2敗 ○○○●●○○○○○○○○○○    
平成9(1997)年3月 東横綱 12勝3敗 ○○○●○○●○○○○○○●○ 16
平成9(1997)年5月 東横綱 13勝2敗 ○●○○○○○○○○○○○○●  
平成9(1997)年7月 東横綱 13勝2敗 ○○●○○○○○○○○○○●○ 17  
平成9(1997)年9月 東横綱 13勝2敗 ○○●○○○○○○○○○○●○ 18
平成9(1997)年11月 東横綱 14勝1敗 ○○○○●○○○○○○○○○○  
平成10(1998)年1月 東横綱 8勝5敗2休 ●○○○○○○○○●●●■休休    
平成10(1998)年3月 西横綱 1勝4敗10休 ●●○●■休休休休休休休休休休    
平成10(1998)年5月 西横綱 10勝5敗 ○○○○○●○○●●○○●○●    
平成10(1998)年7月 西横綱 14勝1敗 ○○○○○○○○○○○○○○● 19  
平成10(1998)年9月 東横綱 13勝2敗 ○○●○○○○○○○○○○●○ 20  
平成10(1998)年11月 東横綱 12勝3敗 ○○●●○○○○○○○○●○○    
平成11(1999)年1月 東横綱 8勝7敗 ●●○●○○○○○●○●○●●    
平成11(1999)年3月 西横綱 8勝3敗4休 ○○○●○○○○●○■休休休休    
平成11(1999)年5月 東横綱 15休 休休休休休休休休休休休休休休休    
平成11(1999)年7月 西横2 9勝6敗 ○●○○○○○○●○○●●●●    
平成11(1999)年9月 東横2 3敗12休 ●●■休休休休休休休休休休休休    
平成11(1999)年11月 西横2 11勝4敗 ●○○○○●○○●○○○○○●    
平成12(2000)年1月 西横綱 12勝3敗 ○○●○○○○●●○○○○○○    
平成12(2000)年3月 東横綱 11勝4敗 ●○○○○○○●○○○○●○●    
平成12(2000)年5月 西横綱 13勝2敗 ○○○○○●○○○○○○●○○    
平成12(2000)年7月 西横綱 5勝3敗7休 ○○●○○○●■休休休休休休    
平成12(2000)年9月 東横2 15休 休休休休休休休休休休休休休休休    
平成12(2000)年11月 東横2 11勝4敗 ○○○○○○○○●●○○●●○    
平成13(2001)年1月 東横綱 14勝1敗 ○○○○○○○○○○○○○○● 21
平成13(2001)年3月 東横綱 12勝3敗 ○○●○○○○○○○○○●○●    
平成13(2001)年5月 東横綱 13勝2敗 ○○○○○○○□○○○○○●● 22
平成13(2001)年7月 東横綱 15休 休休休休休休休休休休休休休休休    
平成13(2001)年9月 西横綱 15休 休休休休休休休休休休休休休休休    
平成13(2001)年11月 西横綱 15休 休休休休休休休休休休休休休休休    
平成14(2002)年1月 西横綱 15休  休休休休休休休休休休休休休休休    
平成14(2002)年3月 西横綱  15休 休休休休休休休休休休休休休休休    
平成14(2002)年5月 西横綱 15休 休休休休休休休休休休休休休休休    
平成14(2002)年7月 西横綱 15休 休休休休休休休休休休休休休休休    
平成14(2002)年9月 西横綱 12勝3敗 ○●○○●○○○○○○○○○●    
平成14(2002)年11月 西横綱 15休 休休休休休休休休休休休休休休休    
平成15(2003)年1月 西横綱 4勝4敗1休 ○○■休○○●●■    
 幕内通算成績 75場所 701勝217敗201休 勝率7割6分4厘 優勝22回
 殊勲賞4回、敢闘賞2回、技能賞3回、金星1個

【平成の大横綱貴乃花について】
 貴乃花は優勝22回で「平成の大横綱」と云われている。貴乃花の体形の変化につき、肥満児が一度痩せ、体を作り直し、大きくなった(太った)のは「相撲の理想形」とされる。但し、ドーピング疑惑もとり立たされ、太りすぎによる前へのバッタリ倒れる脆さも指摘された。四股が美しく、せり上がりなどを好評された。ライバル・曙とは対戦成績が21勝21敗と五分。優勝回数が貴乃花22回に対し曙11回で、この点では貴乃花が圧倒した。しかし、千秋楽まで優勝がもつれた時や優勝決定戦での敗戦の多さが「ここ一番での勝負弱さ」を指摘されることもある。曙などに比べ豪快さに欠けるといわれ、本人も豪快な決まり手の「呼び戻し」を試みるなど指摘を克服しようとはしていたが、晩年はケガなどもあり、本人の目指す「相撲の理想」の完成には至らなかった。「若貴ブーム」などマスコミとも常に大きく関わり、本人も試行錯誤、悪戦苦闘していた。

 ▼ライバル/貴乃花のライバルといえば同期入門」で横綱でもしのぎをけずった曙太郎。(対戦成績は貴乃花から見たものです)

 曙太郎
 アメリカ・ハワイ出身、身長203cm、体重230kg。幕内通算成績 63場所 566勝198敗181休 勝率7割4分1厘 優勝11回 殊勲賞4回、敢闘賞2回 金星4個
最高位・横綱。外国出身力士初の横綱。貴乃花の前を行き、先に横綱となった時は「曙時代」を感じさせた。総合格闘家転向はあまり成功しなかつたがプロレス転向で活躍している。

対戦成績21勝21敗
●●○○○●●●●●○●●●○○○●●●○○●○●○○○○○○●○○●●○●○●○●
(上の対戦成績は本場所の本割でのもの、他に優勝決定戦が貴乃花の1勝2敗)

【貴乃花の断髪式】(「貴乃花断髪式」)
 2003.6.1日、東京・両国国技館で、貴乃花の断髪式。断髪式を仕切ったのは景子夫人の古巣のフジテレビだった。フジTVは独占放映権として貴乃花サイドに2億円ほど払ったと報道されている。断髪式や襲名披露パーティを完全生中継。引退記念DVDを発売するなど、全面的にバックアップした。その他入場券グッズ販売含め約10億の費用をかけた一大イベントとなった。しかし、前売り券は予約段階で即日完売といわれていたが、ふたを開けてみれば2階、3階席は半分の入りという状態だった。

 断髪式参加者は次の通り。森喜朗(前首相)、福田康夫(官房長官)、ベルナール・モンフェラン(駐日フランス大使)、石橋義夫(横綱審委員長)、海老沢勝二(NHK会長)、緒形拳(俳優)、みのもんた、布袋寅泰(ギタリスト)、武蔵丸、魁皇、大鵬親方、北の湖理事長、花田勝(実兄)、花田勝司(伯父)、花田優一(長男)、辻本公俊ら。父で師匠の二子山親方が元横綱貴乃花が最後のさみを入れた。貴乃花の希望もあって相撲協会関係者、息子の花田優一、実兄で横綱だった花田勝ら親戚、同期生である魁皇ら50人に留まった。ちなみに兄の若乃花のときは378人、貴闘力も377人、寺尾が318人だった。 「テレビ中継の関係で髪を切る人数を約50人に絞ったため後援者に対し非常に失礼な結果になり非難がでた」。貴乃花の息子にして長男の優一(7歳)が涙声で痛々しい読みっぷりで作文を読んだ。
 その後、帝国ホテルの孔雀の間で年寄襲名披露パーティーを行った。

【2代目若乃花(現・間垣親方)】
 第56代横綱若乃花幹士(2代目若乃花、現・間垣親方)の現役時代の四股名は若三杉)。青森県南津軽郡大鰐町出身。身長187cm、体重133kg。血液型はA型。師匠(初代 若乃花)の娘と入籍。出世前から将来を誓い合っていたクラブホステスと再婚。苦難の末に連れ添われた夫人が平成17年に急逝。平成19年には若乃花本人が脳出血で倒れ手術を余儀なくされている。その後も弟子に対する暴力疑惑をはじめ出世頭の若ノ鵬の解雇など精神的にも辛酸を嘗める辛い状況が続きました。
 元横綱・初代若乃花の二子山親方に見出され、浪岡町出身の高谷(のちの第59代横綱・隆の里)と同じ夜行列車で上京、二子山部屋に入門した。1968.7月場所初土俵。「朝ノ花」と名乗っていた幕下時代から北の湖とならぶホープとして期待されたが、当時は土俵際で無理に残すことが多いためしばしばケガをしてやや出世が遅れた。とはいえ若三杉と改めて半年後の1973.7月場所に20歳で新十両、十両は2場所で突破して同年11月場所に新入幕、翌1974.11月場所には新小結で11勝4敗という好成績を挙げ、一気に大関候補と呼ばれるまでになる。幕内昇進後の二子山部屋座談会では遅食いではあるが丼飯を6杯から7杯食べることを若獅子や貴ノ花から暴露されており健啖家であったことも力士として成功した要因の1つと言える。一時期肝炎を患って伸び悩んだものの、1977.1月場所には関脇で3場所連続の11勝4敗の成績を挙げ、場所後に大関に昇進した。大関時代は柔らかい足腰、切れ味鋭い投げ技で、北の湖・輪島全盛期のなかで活躍。実力と共に人気も急上昇してCMにも多数出演し、テイチクレコードからはドクター南雲(南雲修治)による応援歌「ソウル若三杉」がリリースされ、また若三杉自身もローオンレコードから「泣きぼくろ」で歌手デビューもした。大関2場所目となる1977.5月場所には13勝2敗で初優勝し、以後横綱昇進を期待される。2場所連続で優勝同点(優勝決定戦の相手はいずれも北の湖)を記録した1978.5月場所後に横綱に昇進した。綱取り直前3場所通算の成績は40勝5敗であり、これは大乃国がタイ記録に並ぶまで単独の最高記録であった(現在は貴乃花の41勝が最高記録であり、若乃花は大乃国と共に2位タイ)。横綱推挙伝達式での口上は、「心技体の充実に務め、立派な横綱になるよう精進いたします」というものだった。明治神宮での新横綱奉納土俵入りで、兄弟子の大関・貴ノ花が太刀持ちを務めたのは有名。貴ノ花ファンからは「かわいそうだからやらせないで!」という声が上がったが、師匠の二子山は貴ノ花に奮起を促すのと同時に、ファンサービスのために、あえて弟弟子の太刀持ちを命じたと言われる。前述通り横綱昇進とともに師匠の現役名である若乃花幹士を襲名、親方は部屋創設当時から自分の弟子で最初の横綱に名前を継がせると公言していたが、当の若三杉本人は全く知らず、決定後に聞いて「えっ、若乃花だって!?」と驚いていた。一説によれば本人は若三杉の四股名を大変気に入っており改名したくなかったとも言われる。

 甘いマスクで人気があり蔵間と女性ファンの人気を二分しており、ことに水商売の女性の受けが良かった。NHK相撲解説者の玉ノ海梅吉も大関昇進を狙っていた時期の若乃花を見て「かわいい顔しているじゃないですか」とその容姿を気に入っているかのような発言を度々行っていた。しかし横綱昇進後は北の湖全盛期と重なってどうしても二番手という印象が拭えず(優勝次点は輪島と並ぶ14回で史上1位、他に優勝決定戦での敗退が2回ある)、優勝回数は4回と少なく、初代若乃花ほどの活躍はできなかった。また、富士櫻を大の苦手としていた(横綱として最初の一番に敗れている)。それでも成績と相撲内容は安定しており、当時北の湖に次いで歴代2位の記録にあたる、通算(幕内)28場所連続勝ち越しの成績を挙げ(現在は武蔵丸・白鵬・北の湖に次ぎ、旭富士と並ぶ歴代4位タイ)。また幕内連続2桁勝利も23場所を記録している(当時歴代3位、現在白鵬・北の湖・大鵬に次ぎ歴代4位)、横綱として16場所連続2桁勝利の記録も残している。1978年には6場所合計78勝12敗の成績を挙げながらも北の湖が82勝8敗の成績を残した(当時の年間勝利数新記録)ため年間最多勝を逃すなど不運な面があった。北の湖との対戦成績は横綱昇進前は11勝11敗と五分だったが、昇進後は7勝14敗と差がついてしまった。一方輪島は逆で、昇進前は6勝14敗と大きく負け越していたが、昇進後は8勝5敗と勝ち越している。北の湖との優勝決定戦が行われた1978.5月場所千秋楽のNHK大相撲中継の視聴率は37.3%であり、夏場所のものとしては2017.3月場所終了時点で2位である(ビデオリサーチ調べ)。全勝優勝を決めた同年11月場所千秋楽の北の湖戦などはNHK大相撲中継の視聴率が実に42.1%を記録しており、これは九州場所のものとしては2017.9月場所終了時点で1位である(ビデオリサーチ調べ)

 輪島、北の湖に代表される、左四つを得意とする力士が全盛を極めた時代の一翼を担った。腕力はそれほどでもなかったが、廻しを掴んでからの安定感があり、体の柔らかさを生かした投げが得意だった。武器の右上手投げは左下手からの捻りとの合わせ技で、その切れ味も評論家から評価されていた。懐が深く波離間投げの奇手を見せたこともあった。一方で廻しを取れないと何もできない場面も多く、押し相撲の力士をやや苦手とした。横綱時代も度々立合いで変化する事があったため、神風正一ら、うるさ型の評論家から酷評された事もあった。また、勝負にこだわり過ぎる傾向があり、負けたときの悔しさを表情に出しすぎると批判されたこともある。締め込みが固い力士としても知られ、特に1978.5月場所14日目の北の湖戦で廻しをきつく締めて右上手を許さず勝利した。なお、あまりの廻しの固さに自身もその取組後に肋骨を骨折した。秋場所とは極端に相性が良く、1973年に初めて秋場所で15番勝負(つまり十両以上)を経験してから最後の秋場所である1982年まで10場所中9場所を2桁白星で終え、1975年は9勝6敗に終わったものの金星を獲得した。

 1981.3月場所限りで輪島が土俵を去り、千代の富士が台頭してきた頃から肝臓病や頸椎捻挫・直腸周囲膿瘍などで休場が重なり、この年皆勤したのは1月場所と9月場所のわずか2場所だけだった。肝臓病は大の酒好きであったことに由来しており、1978.11月場所に肝炎を患ったが二子山に叱責されることを恐れて強行出場した結果、15戦全勝での優勝を果たしたという逸話がある。翌1982年に再起を目指し、5月場所には12勝3敗と久々に復調し、千秋楽まで千代の富士や朝汐との優勝争いに絡んだ。しかし、それ以外の場所は11月場所を除き皆勤するも、二桁勝つのがやっとの状態で、更に11月場所は持病の痔が悪化し手術のためにまたもや全休。翌1983.1月場所に進退を掛けて出場したものの満足な相撲が取れず、5日目の朝潮(朝汐から改名)に敗れ2勝3敗となった相撲を最後に、成績不振の理由により29歳9か月の若さで現役引退した。

 1980.6.2日、故郷青森県大鰐町で古川武治作の木彫り像が完成、除幕式が行われた。

 引退後

 まだ30歳前であったが、師匠の娘と結婚後に別離し、年上のホステスと情交関係を結び後に再婚する等の問題が影響したのか、協会内に引き止める者は少なかったと言われている。ただ、同期の隆の里は「あれだけの素質を持つ男がこのまま引退とは惜しい。あと一ヶ月もすれば次の場所が来るから、そこで賭けるべきだ」と最後まで引き止めた。

 1983.12月に二子山部屋から分家独立して間垣部屋を興し、若闘将に始まり、若ノ城五城楼大和若ノ鵬幕内力士を育てた。若闘将が十両に昇進したときは、『親方(初代若乃花の二子山親方)の停年までに関取を育てることができて良かった』と心の底から安堵した様子だった。しかし部屋からは三役(小結以上)力士は出ることは遂になかった。また、中学生横綱のタイトルを獲得し、中学卒業を間近に控えていた加藤精彦を勧誘したこともあるが本人が「偶然勝っただけ、高校は卒業しておきたかった」という理由で断り入門には至らなかった

 1998.1月には境川理事長(横綱・佐田の山)の年寄名跡改革私案に反対し日本相撲協会理事選挙に立候補、1968年の機構改革以来で初となる理事選挙となり、自身の属する二所ノ関一門の勢力を背景に初当選した。理事としては、地方場所部長(大阪場所担当)を約10年間務めた。

 2005年末に夫人に先立たれるという不幸に見舞われる。それを乗り越えた矢先の2007.3.13日昼頃、3月場所開催中の大阪府立体育会館内で、突然頭痛を訴えて倒れ、脳出血の疑いで大阪市内の病院に緊急入院し、手術を受けた。一命は取り留めたが、その後車椅子生活を余儀なくされる。又脳出血の影響により体重は30Kgも落ちていた。脳出血の原因は夫人の死後、失意の中で毎日2升の酒を飲んだことにあるとされている。同年11月場所に若ノ鵬が新入幕を果たし、番付発表後の記者会見で久々に公の場に姿を見せ、涙を流し愛弟子の昇進を喜んだ。2008.2月、役員改選に立候補して6選を果たした。

 2008.5月場所の4日目(5月14日)の部屋での朝稽古中に序二段力士の弟子を竹刀で叩くと言う暴行事件を起こし、太ももなどに全治一週間の打撲と擦過傷を負わせた。この事件について当人の間垣親方は事件が発覚した7日目の夜は「悪いことをしたら叩くのは当たり前。弟子がかわいいからやっている」などと話し、この叩かれた弟子の奈良にも問題があったと主張した。しかし8日目に一転して北の湖理事長に謝罪した。また、弟子も反省し、現在、両者の間にわだかまりはないという。この件で相撲協会の再発防止検討委員会から5.23日に厳重注意を受けたほか、5.29日の理事会において、3か月間30%の減俸の処分が決められた

 同年8.21日、18日に大相撲力士大麻問題で逮捕された弟子の若ノ鵬の監督責任問題により、理事職並びに大阪場所担当部長を辞任した。1968年に理事が公選制になってから不祥事で辞任するのは、初めての事である。なお、若ノ鵬は同日付で解雇処分となった。若ノ鵬解雇の際「若ノ鵬が部屋の外にマンションを借りていたのは、知らなかったでは済まないと思うが知らなかった」と発言していた。なおこの大麻事件については、冤罪だと語ったという。「では、親方であるあなたが訴訟を起こすなりして、彼の無罪をはらすべきだ」と指摘されると、「知らねぇよ、関係ねぇよ」と答えていた。

 2010.1月の相撲協会理事選挙においては、二所ノ関一門の意向に反して貴乃花親方の立候補を支持した。11代二子山親方(元大関貴ノ花)、12代佐渡ヶ嶽親方(元横綱琴櫻)亡き後、一門を取りまとめる重鎮だった間垣親方の行動は波紋を呼び、1.19日の一門会合では、同じく貴乃花親方を支持する5親方とともに退席を求められた。この時マスコミの質問に「破門という言葉は出なかったが、そんな形だ」 と答え、事実上の破門処分であるとの見解を述べた。

 2011.11.7日、故郷の青森から夜行列車で二人して上京、二子山部屋に同期入門・初土俵も一緒で、そして共に横綱昇進を果たした元・隆の里の鳴戸親方が、急性呼吸不全により59歳で急逝。当日夕方に行われたお別れの会では、亡骸に向かいながら「お前何しているんだ、寝てる場合じゃないだろう。早く起きろ」と声を掛けたという。その後の記者会見では「自分が一歩早く(上位に)上がっても、必ず追い掛けてきた。とにかく根性があった。良い弟子に恵まれ、これからという時だったのに…」と語りながら悔し涙を浮かべていた

 師匠としては2007年以降、脳出血の後遺症もあって十分に指導が出来ない状態が続いていた。二所ノ関一門を離れる以前は、一門の他の部屋から手の空いた親方が派遣されて稽古を見ていた様子である。しかし、やはり体調不良で部屋の経営が困難となり、2013.3月場所限りで部屋の閉鎖、ならびに18代間垣や所属力士らが一門外の伊勢ヶ濱部屋(伊勢ヶ濱一門)へ移籍することがついに決定し、同年3.25日付で間垣部屋は閉鎖となった。2017年に発行された相撲関連ムックには「なぜか伊勢ヶ濱部屋に預けられた」と一門移籍を不可解と捉える記述があった。同年4.3日に満60歳の還暦を迎えたが、還暦土俵入りは実現出来なかった(還暦土俵入りをしなくても赤い綱だけを記念に作り受け取る例もあるが、作成の有無は公表されず不明である)。

 2013.12.19日、年寄名跡の一括管理を進めている相撲協会はこの日までに年寄名跡証書の提出を求めていたが、現役の関取に証書を渡してあり、両者の名跡を巡るやり取りの調整が付かなかったために提出期限前日に証書の提出を断念し、相撲協会に退職を届け出て、協会を去った

 協会退職後の消息については、現在の処詳細に報じられることは殆ど無い。但し、2015.11.20日、北の湖の急逝の際には、日刊スポーツの取材に対して「びっくりした。大腸癌だとは聞いていたが…現役時代はライバルというより目標だった。上手を取ると強かったが、突っ張っても何でも強い万能力士で、負けず嫌いだった。理事長としては最近、近い世代が周りにいなくて可哀想で、私が側で支えてあげたらと思う事もあった」等とコメントしている






(私論.私見)