相撲史その4、大正時代


 更新日2017(平成29).11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「相撲史その4、大正時代」をものしておく。「日本相撲史概略」、「相撲の歴史」、「相撲界のこれまでの主な不祥事、事件、トラブルなど」その他を参照する。

 2015.1200.01日 れんだいこ拝



【東京・大阪両協会が和解】
 1912(大正元).11月、大木戸の横綱問題で絶交していた東京・大阪両協会が和解した。

 1915(大正3).6月、梅ヶ谷・西ノ海一行のアメリカ巡業。

【太刀山が破れ大熱狂す】
 1917(大正6)年.7月、国技館の観衆が最も熱狂した日。

 明治末期から大正時代にかけて、横綱として7年間君臨しながら2敗しかしていなかった超強豪力士、まさに無敵だった横綱・太刀山が負け、観客は熱狂した。1月場所千秋楽の結びは全勝の太刀山と同じく全勝の大関・大錦の楽日全勝相星決戦となった。5回の仕切り直しの後、猛然と立った大錦がもろ差しで横綱を土俵際まで追い詰めた。太刀山も左の巻き替えを狙うが、叶わないと見るや小手投げを打った。これが決まらず大錦が腰を落として寄り立て遂に東に寄り切った。大衆席から上流階級が座る正面桟敷まで観客は総立ちになり、帯、羽織、座布団が舞った。灰皿、火鉢、蜜柑も飛び交った。さらに興奮の余り土俵に上って逆立ちをする者や、大錦に泣きながら飛びつく者まで現れ、国技館は崩れんばかりの大騒ぎとなった。双葉山70連勝ならずの一番なぞ比較にならない古今未曾有の大騒動だったとされる。(「大錦全勝優勝大騒動」) 

 1918(大正7)年.1月、靖国神社境内にて春場所興行(以後三場所)。

 1921(大正9).4.17日、興行系ヤクザの全国組織の誠友会が結成された。日本だけでなく、台北(岡今吉、小川清州)、台中の(中西清)、打狗(東本定輔)、ハルビン(西角新三郎)、仁川(岩田嘉七)、京城(杉本安吉)など台湾、朝鮮、満州、中国からも興行系の親分が結集したという。

 大正時代に朝鮮の京城で大きな勢力を誇り、京城劇場などを経営していたという大日本国粋会の朝鮮本部幹事長を務めた分島周次郎が結成した組織が分島組。

 日本一有名な組系興行社である神戸芸能社は 昭和三十二年四月山口組興行部が名称変更したもので株式会社として登記された。関西から中国・四国地方一帯を完全支配していた。

 下関を本部とする籠寅組の籠寅興行部は 不二洋子や大江美智子をはじめとする女剣劇などを傘下におさめ 前川一家六代目・荻島峯五郎が昭和三十三年に設立したチュリー社はプロボクシング興行を目的としたものであった。

 伊勢高木組四代目玉井芳雄実子分・小川吉之輔が設立した小川芸能社は 小人国
プロレスリング大会などを手がけた。

 松葉会の木津政雄副会長が設立した興行社自由芸能社は東北六県の興行を押さえ、松葉会総務会長などを務めた久野益義の系列の東京興業は昭和34年に石原裕次郎と美空ひばりの歌謡ショーを企画し両国国技館で興行を行っている。このほかに大寅興行部、松本興行部、図子興行部、京都の都志興行部、日立の小政興行部などが興行関係として挙げられている。

 こうした興行収益であるが 山口組系神戸芸能社の昭和39年度興行収益が132,790,369円に達したというが、翌年頃から美空ひばりによって一般的に知られるように ヤクザ系興行は「公共施設から完全締め出し」となり、山口組系興行では菅谷組系浅野組が大阪・中之島公会堂で行った「北原謙二ショー」や神戸の小西一家主催の「高田浩吉ショー」が最後の興行であったという。

 1921(大正10).5月、国技館が資本金六十万円の株式会社組織となる。

 1921(大正10).6月、大錦・栃木山一行のハワイ・アメリカ巡業。

 1922(大正11).1月、株式組織を解散。制度を旧に戻す。

【竜神事件】
 1922(大正11)年、大阪相撲で竜神事件と呼ばれる紛争が起こる。力士他多くが廃業し、大阪相撲が衰退する。

【協会幹部総辞職事件その1】
 1922(大正11).6月、「角聖」と尊称された元横綱常陸山の出羽海〔筆頭〕取締が急逝した。或る種、「権力の一極集中」だったのが崩潰したのである。それが要因で「三河島紛擾事件」が勃発。入間川改め出羽海(元小結両國)・雷(いかづち=元横綱Ⅱ梅ヶ谷)両取締以下が総辞職するに至った。新取締に高砂(元大関Ⅱ朝潮)、井筒(元横綱Ⅱ西ノ海)と雷が再選、10人の勝負検査役のうち立浪(元小結緑嶋=双葉山の師匠)ら7名が初当選。出羽海系からは全然選出されない珍現象を呈す。当時すでに出羽海部屋は角界の一大勢力であり、出羽海は大正十四年夏に「相談役」として“復権”した。別の要因として、出羽海親方は、元行司木村宗四郎の入間川とともに角界の“改革”をすすめていたため、その“手腕”を誰も無視できない事情があった。

【三河島事件】
 1923(大正12).1月、東京相撲で、力士待遇の改善の養老金倍増を求めた力士によるストライキが発生し、それにより横綱大錦卯一郎が廃業するという三河島事件が起こる。 (「三河島事件」)。

 国技館開館以降相撲人気は幾らか持ち直していたが、第一次世界大戦後の不況は相撲界にも押し寄せ1920年代に入るとやや下火になる。1923年1月8日、回向院大広間で開催された力士会で司天竜から養老金倍増の動議が出される。これを柱に力士会は以下の3点を協会側に要求として突きつけた。
①養老金の倍増
②本場所収入の利益から力士に分配する金額を10%から15%にアップさせる。
③十両になった者が幕下に落ちてもそれ相当の処置を取る事。

 協会側は12日から本場所が始まる事を踏まえて、「目下のところ財政状態からみて無理であるから、好転の見込みがつき次第、要求を満足させたい。春場所が12日から始まるのだから、この問題の解決は、場所打ち上げ後の 5日までに」と回答。回答に力士側は態度を硬化。上野駅前の上野館に籠城する作戦をとる。新橋倶楽部事件同様に横綱、大関は別格でありこの時代は協会と力士の橋渡し役というポジションであった。横綱の大錦、栃木山、大関の常ノ花、千葉ヶ崎、源氏山、立行司の木村庄之助、式守伊之助の7名は上野に赴き説得にあたる。両者の間に入った7名だったが、協会側も市中に触れ太鼓を出していることを理由に本場所開催を強行に主張し交渉を拒否。そればかりか7名から本場所出場の確約を取り付けることに成功する。これには力士側も激怒し、7名は力士側の信頼を失い調停役として役目を果たせなくなる。力士側は上野館から退去し、本拠地を三河島の電解工場に移して独立興行開始の準備に入る。協会内部の力では解決不能となり、所轄の相生警察署が仲介に名乗り出る。これに続き警視庁も調停に入り、力士達を回向院に呼び出して主張を聞いた上で、協会とも話し合い双方から一任を取り付けた。

 赤池警視総監は以下の仲裁案を提示。
①養老金は五割増。
②財源確保の為、10日間興行を11日間興行にする。
③千秋楽には10日目までの引分、預りとなった取組を再び組む。

 これを双方ともあっさり受け入れ、1月18日0時に警視庁で手打ち式が行われて解決。横綱、大関の面目は丸潰れとなった。手打ち式の後に総監主催の日比谷平野家での和解の宴が行われる。ここで横綱・大錦が宴席を中座し、一人会場を後にする。再び、大錦が戻ってきた時、会場は凍り付いた。最初に驚いたのは雷であったとされる。マゲを自らの手で切り落としていたのだ。「横綱として調停に乗り出しながら閣下(ここでは赤池総監を指す)の手に委ねたことは不徳不明の致すところ、横綱の面目を潰した以上、土俵での自信も喪った。横綱としての責任上、相撲界には止まることができない」と引退を表明。この後、大錦は自宅に戻り駆け付けた記者たちを前に、「師匠(ここでは常陸山を指す)の墳墓のまだ乾かぬうちに、出羽ノ海部屋の力士までがこの運動に加わって、かかる紛擾を起こしたことは、部屋頭の自分として誠に申し訳なく思った。相撲道の最高権威たる横綱の栄位を辱めた責任を感じた」と語った。問題は1週間の稽古期間を設け、1月26日返り初日を行い場所後の3月6日に正式に妥結する。無事に解決はしたが、人気、実力ともに栃木山と二分する強豪横綱・大錦を角界は思わぬ形で失う結果となった。これ以降角界は栃木山の1強時代に突入する。

【関東大震災で国技館が全焼す】
 1923(大正12).9月、関東大震災で国技館が炎上、全焼した。

 1924(大正13).1月、春場所を名古屋にて十日間興行。

【】
 1925(大正14).4月、東京赤坂・東宮御所において、前年久邇宮良子女王様とご結婚した摂政宮殿下(昭和天皇)の誕生日祝賀の為の台覧相撲が行われ、その際の御下賜金(かしきん)をもとに摂政宮賜杯(優勝賜杯)が作成された。

【東京・大阪両大角力協会解散による大日本相撲協会結成の調印なる】
 1925(大正14).7月、それまで何かと張り合っていた東京・大阪両大角力協会は解散して大日本相撲協会を結成する為の調印がなされた。東京側が大阪側に東京だけではなく双方一緒に摂政宮賜杯を争奪する優勝制度の誕生させる事を大義とすると持ちかけた為、大阪方の面目が保たれ交渉が順調に進んだ。

 9.30日、東京大角力協会より財団法人設立を申請。12.28日、東京大角力協会より申請されていた財団法人大日本相撲協会が文部大臣より認可された。国技館以来の快挙となった。銀色の賜杯は、やや遅れて昭和2年(1927年)から登場する。

 大正14年以前は取り組みの勝敗が決まらないこともあり、勝負を「預かり」とした。これを「取り直し」制にした。

 1926(大正15).1月、1月場所で優勝した31代横綱・常ノ花が一番最初に賜杯を授与された。

 1926(大正15).大阪角力協会最後の本場所を台北で興行する。

 1926(大正15).7月、従来の東京・大阪両協会は解散し、大日本相撲協会結成の調印が、大阪市の大阪角力協会取締小野川宅にて行われた。

 1926(大正15).10月、東西連盟相撲(第二回)(第一回は、大正14年11月および大正15年3月の二回に分けて開催された)を大阪で開催。

 ルール改正:
  • 休場力士は不戦敗、出場相手力士は不戦勝とする。従来は相手力士休場の際は両力士とも休みとなっていた。

 1926(大正15).10.23日、明治神宮の土俵開き。






(私論.私見)