相撲史その3、明治維新以降


 更新日2017(平成29).11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「相撲史その3、明治維新以降」をものしておく。「日本相撲史概略」、「相撲の歴史」、「相撲界のこれまでの主な不祥事、事件、トラブルなど」その他を参照する。

 2015.1200.01日 れんだいこ拝


明治維新以降

【明治天皇が京都力士を天覧】
 1868年(慶応4、明治元).4.17日、大阪・坐摩(いかすり)神社にて第122代天皇睦仁親王(むつひとしんおう、後の明治天皇)が京都力士を天覧された。

【大阪相撲が江戸風縦一枚番付発行】
 1869(明治2).3月、大阪相撲は江戸時代より続いていた横型東西二枚番付を江戸風縦一枚番付に改めて発行した。

【版籍奉還により大名の抱え力士が抱えを解かれる】
 1869(明治2).6月、版籍奉還(明治2年6月17日:旧暦)による廃藩により各大名の抱え力士がその抱えを解かれた。

【版籍奉還により大名の抱え力士が抱えを解かれる】
 1870(明治3).明治天皇の閲兵式で上位力士が「御旗(錦旗)」を捧げ持つ役割を果たした。相撲界は積極的に明治政府に協力した。

【東京府の「裸体禁止令」】
 1871(明治4)年、明治維新に伴い、東京府の「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「相撲禁止論」も浮上。
 明治維新のあと、文明開化によって日本の伝統芸能が大きく規制された。相撲もまた例外ではなかった。江戸時代までは、当時の浮世絵や幕末の写真を見れば分かるように、飛脚や大工等が褌一丁に鉢巻だけといったほぼ半裸の状態で街中を平然と歩いていた様子が確認できる。明治新政府は非文明的という批判をかわすため「裸体禁止令」を発布し西欧列強基準に合わせた。

【大阪府が「坂」を「阪」に改称】
 1871(明治4)年、現在の大阪府は「坂」を「阪」に改称した。

【京都で初の京都・東京・大阪の三都合併相撲興行】
 1871(明治4).3月、京都において初の京都・東京・大阪の三都合併相撲が興行された。

【断髪令布告、力士の「まげ」不問】
 1871(明治4).8月、維新政府によって断髪令が布告されたが、力士のみ「まげ」が不問に付された。

【太陽暦(グレゴリ暦)導入】
 1872(明治5).12.3日、太陽暦(グレゴリ暦)の導入により、この日を明治六年一月一日とした。

【会所(東京)が角觝営業内規則を制定】
 1873(明治6).5月、会所(東京)が角觝営業内規則を制定。高砂の改正相撲組を復帰して合併し別に小番付を発行。

【高砂改正組事件】
 1873(明治6).11月、高砂派が待遇改善を求め会所を離脱した。角界の風雲児で知られる初代・高砂浦五郎は、幕下時代の1868(慶応4)年にも、会所を牛耳っていた年寄玉垣・伊勢ノ海の横暴ぶりに抗議し、待遇改善を求め250名の連判状組織を率いて会所に直訴した過去がある。この時は結局、有耶無耶になってしまい不満が燻る中で、この年に不満がついに爆発した。美濃(現在の岐阜県の大部分)での巡業中に決意し、名古屋に場所を移して本陣とし、会所(現在の日本相撲協会)に対抗した。高砂一派であり高砂と旧知の仲である大関・綾瀬川が東京に出向いて会所側と交渉。これが不調に終わった上に綾瀬川は説得されてしまい一派から離脱した。さらに会所は11月場所の番付で名古屋に留まる高砂一派の名前を墨で黒塗りした。ここに至って高砂は独立を決意し愛知県の許可を取り、高砂改正組を組織し会所から独立した。改正組は20名にも満たなかったとされる。18755年から東京に進出し興行していたが1878年以降は規制により東京で自由に興行ができなくなってしまった。地方で活動を続けたものの宿代の問題が噴出し、仲裁もあって会所に復帰することになった。高砂改正組は10-20名ほどで宿代の問題等で興行が不能な状態になっていたが東京会所と高砂改正組による対等合併だった。年寄として会所入りした高砂は独裁体制を築いていった。この独裁が中村楼事件を引き起こす。(「高砂改正組事件」)

【警察庁が角觝並行司取締規則発布】
 1878(明治11).2.5日、警察庁より角觝並行司取締規則が発布され、力士・行司・年寄は営業鑑札を受けるようになる。相撲界は明治9年から11年にかけて消防に協力し消火活動に励み社会奉仕に取り組んだ。この甲斐あって、無事警視庁から相撲興行の営業鑑札を得た。

【天覧相撲実現】
 1884(明治17)年、明治天皇と伊藤博文らの尽力で、旧浜離宮庭園で天覧相撲が実現し、これにより大相撲が社会的に公認され危機を乗り越えた。当時の大相撲は社会的地位が低く、衰退しかけていたのが、天覧相撲でステータスが大きく向上し、今日の大相撲の位置付けにつながっている。
 相撲は「天覧相撲」でお墨付きを得た。明治天皇の治世には実に9度も開催されている。これにより相撲人気が高まつた。

 1886(明治19).1月、角觝営業内規則を角觝仲間申合規則と改正。

 1887(明治20).5月、角觝仲間申合規則を角觝組中申合規則と改正。江戸時代よりの“相撲会所”を「東京大角觝協会」と改称(二十一年、二十二年説もある)。

 1888(明治21)年.1月、番付表で十両が少し太く書かれた。

 1889(明治22)年.1月、東京では江戸時代以来の相撲会所の名称を改称し東京大角觝協会とし、年寄名義88名の限定等が行われた。

 1890(明治23)年.1月、初代西ノ海(第16代東横綱:高砂部屋)が、初めて番付に横綱の文字が記載される。

 1896(明治29)年.1月、高砂の独裁についに怒りが爆発。

 各界の風雲児で知られる初代・高砂浦五郎。高砂改正組事件では一時会所(現在の日本相撲協会)から離脱した時期もあったが、年寄として復帰した。現代の感覚だと復帰後も肩身が狭そうなものだが、高砂は伊勢ノ海らが退くと権力を強め、次々に改革を実施。ついには独裁体制を築いていった。具体的な改革をいくつか列挙しよう。

☆番付を実力本位で決める(1882年6月より)。
☆土俵溜まりに記者席を設置し、広く大相撲を報道してもらえるようにした。
☆筆頭→取締、筆脇→副取締と名称変更。
☆取締は話し合いで決定方式から選挙方式に変更。
☆相撲会所から東京大角力協会に名称変更。
☆大衆化を図った(入場料金の明示化、接客の質の向上)
☆力士への収益配分の改善
☆横綱の名を初めて番付に掲載

 こうした改革は支持も多かった一方で、独裁的な手法が問題にもなった。1891年にはついに「永久取締」を宣言。これは他の年寄の反発で取り消された。1895年6月場所6日目の鳳凰-西ノ海の一番では西ノ海の踵が出ていたが、高砂が西ノ海の踵が出ていた場所の土を掘り始め、「土の下は俵」という主張を展開し西方力士が激怒し、最終的に預りになった。これが引き金となり、1896年1月場所初日、西方力士は会場に来なかった。協会は強風を理由に休場(初日そのものを)し、中村楼に立て篭った33名の西方力士は高砂排斥を要求。年寄も高砂の独裁には頭を痛めていた為、雷らが中心になり改革を約束。高砂独裁体制は崩壊した。(「中村楼事件」)
 中村楼事件:一昨年の六月場所の東横綱西ノ海と西前頭筆頭鳳凰戦において物言いがついたが、高砂親方(西ノ海の師匠)が足跡を手で払い消したことが発端となり、西方力士が反発し事態は混乱していた。西片力士大関大戸平はじめ三十三名が、協会(高砂)に対し激告文を送り改革を迫った。この件を機に高砂は取締の座を追われ権力を失う。

【常陸山が門弟三名を連れ欧米漫遊】
 1907(明治40)年.8月、常陸山が門弟三名を連れ欧米漫遊、翌41年3月帰朝。

【梅ヶ谷と常陸山のライバル時代を迎える】
 明治時代の相撲界は「梅常陸時代」と呼ばれる梅ヶ谷と常陸山のライバル時代を迎えた。梅ヶ谷は小兵で、168センチ、158キロしかなかった。穏やかな笑顔がチャームポイントの技能派。一方の常陸山は174センチ、147キロ。バランスのとれた体格に猛進型の激しい相撲を得意としていた。両者は、正反対のキャラクターでライバルとして大人気になる。驚異的な強さを誇った常陸山が、なぜか梅ヶ谷だけには勝てないという状況が続き、これが好カードとして観客を熱狂させた。相撲の醍醐味は鎬を削るライバル同士の攻防にあり、江戸時代も明治時代もそのあとも観客はその対決に熱狂した。

 1908(明治41)年.5月、大角力組合新規約十八カ条を定め、興行収入の合理化をはかる。

 1909(明治42)年.1月、東京で大角力協会規約が追加され、横綱の称号は最高級力士ではなく最高位力士である地位として明文化された。横綱が位となった制度は明治42年からということになる。その時の19代横綱常陸山を初めての横綱という人もいる。相撲の歴史が正式に編纂されて、過去の記録をたどりながら横綱系図ができたのは大正になってからである。歴史は遡ってつくられることがある。

 1909(明治42)年.6月、両国の回向院境内に初代「国技館」が開館した。これにより晴雨にかかわらず興行が可能となり10日制興行と定められた。個人優勝制度と優勝額の掲額を定める。東西対抗の優勝制度となり、優勝旗をつくる。投げ纏頭(てんとう)を禁止とした。
 和洋折衷の建物は1万6千人収容可。それまでの露天興業では3千人ほどだったが5倍以上増加させた。現在の国技館は1万1千人ほどの収容人数で、それよりも多かった計算になる。ほれぼれとするような荘厳さで、相撲が実質的国技としての座にあることを確かなものとした(日本には国技の法的整備がない)。国技館の完成は神事という色彩を弱めて、より近代的なスポーツとした一面もあった。

【横綱・太刀山の怪力】
 完成して間もない国技館をわかせたのは、突っ張りの名手である横綱・太刀山。怪力の一突き半で相手を吹っ飛ばすことから、ついた名前が「45日の鉄砲」。一ヶ月半=45日という洒落。

 1910(明治43)年.1月、大阪力士・大木戸の横綱問題で東京と大阪の大角力協会が絶交した。

 1910(明治43)年.7月、朝鮮・満州へ初の相撲巡業。

【新橋倶楽部事件】
 1911(明治44)年.1月、待遇改善を要求した力士によるストライキで東京相撲の騒擾事件である。

 1911.1月、本場所を前に関脇以下の関取らが回向院に集結、歩方金増額など待遇改善を要求する決議を行い、浪ノ音ら11名が力士代表として横綱大関全員に協会への交渉を願い出た。力士側の要求に対し、協会側は両国国技館の建設費の借入金の返済が先ということで利益が少ないと説明した。協会側の説明に対し力士側はこれまで九日出場から十日出場に増えたため増額は当然と返答し、平行線となった。横綱大関は本場所の日数を十日から十五日に延長すれば要求に応じられると妥協案を示したが、力士側は拒否した。玉椿を除く十両以上の54名が新橋倶楽部へ立て籠もり、独立興行をやると強気の姿勢を示した。力士側から緑島や両国ら脱落者が出たり、双方の仲介に立つ者が出たりと、歩み寄りの姿勢が見られ、本場所の収入の10分の1の中から3分の2を慰労金として各関取に支給することや、残りの3分の1を養老金として積み立てることで決着を見た。1月23日に協会側と力士側の双方が妥結合意し、国技館で手打ち式が行われた。翌2月4日に1ヶ月遅れで本場所が開幕した。(「新橋倶楽部事件」)


 明治末期、新弟子検査について体格基準が制定された。

 大正時代

【東京・大阪両協会が和解】
 1912(大正元).11月、大木戸の横綱問題で絶交していた東京・大阪両協会が和解した。

 1915(大正3).6月、梅ヶ谷・西ノ海一行のアメリカ巡業。

【太刀山が破れ大熱狂す】
 1917(大正6)年.7月、国技館の観衆が最も熱狂した日。

 明治末期から大正時代にかけて、横綱として7年間君臨しながら2敗しかしていなかった超強豪力士、まさに無敵だった横綱・太刀山が負け、観客は熱狂した。1月場所千秋楽の結びは全勝の太刀山と同じく全勝の大関・大錦の楽日全勝相星決戦となった。5回の仕切り直しの後、猛然と立った大錦がもろ差しで横綱を土俵際まで追い詰めた。太刀山も左の巻き替えを狙うが、叶わないと見るや小手投げを打った。これが決まらず大錦が腰を落として寄り立て遂に東に寄り切った。大衆席から上流階級が座る正面桟敷まで観客は総立ちになり、帯、羽織、座布団が舞った。灰皿、火鉢、蜜柑も飛び交った。さらに興奮の余り土俵に上って逆立ちをする者や、大錦に泣きながら飛びつく者まで現れ、国技館は崩れんばかりの大騒ぎとなった。双葉山70連勝ならずの一番なぞ比較にならない古今未曾有の大騒動だったとされる。(「大錦全勝優勝大騒動」) 

 1918(大正7)年.1月、靖国神社境内にて春場所興行(以後三場所)。

 1921(大正9).4.17日、興行系ヤクザの全国組織の誠友会が結成された。日本だけでなく、台北(岡今吉、小川清州)、台中の(中西清)、打狗(東本定輔)、ハルビン(西角新三郎)、仁川(岩田嘉七)、京城(杉本安吉)など台湾、朝鮮、満州、中国からも興行系の親分が結集したという。

 大正時代に朝鮮の京城で大きな勢力を誇り、京城劇場などを経営していたという大日本国粋会の朝鮮本部幹事長を務めた分島周次郎が結成した組織が分島組。

 日本一有名な組系興行社である神戸芸能社は 昭和三十二年四月山口組興行部が名称変更したもので株式会社として登記された。関西から中国・四国地方一帯を完全支配していた。

 下関を本部とする籠寅組の籠寅興行部は 不二洋子や大江美智子をはじめとする女剣劇などを傘下におさめ 前川一家六代目・荻島峯五郎が昭和三十三年に設立したチュリー社はプロボクシング興行を目的としたものであった。

 伊勢高木組四代目玉井芳雄実子分・小川吉之輔が設立した小川芸能社は 小人国
プロレスリング大会などを手がけた。

 松葉会の木津政雄副会長が設立した興行社自由芸能社は東北六県の興行を押さえ、松葉会総務会長などを務めた久野益義の系列の東京興業は昭和34年に石原裕次郎と美空ひばりの歌謡ショーを企画し両国国技館で興行を行っている。このほかに大寅興行部、松本興行部、図子興行部、京都の都志興行部、日立の小政興行部などが興行関係として挙げられている。

 こうした興行収益であるが 山口組系神戸芸能社の昭和39年度興行収益が132,790,369円に達したというが、翌年頃から美空ひばりによって一般的に知られるように ヤクザ系興行は「公共施設から完全締め出し」となり、山口組系興行では菅谷組系浅野組が大阪・中之島公会堂で行った「北原謙二ショー」や神戸の小西一家主催の「高田浩吉ショー」が最後の興行であったという。

 1921(大正10).5月、国技館が資本金六十万円の株式会社組織となる。

 1921(大正10).6月、大錦・栃木山一行のハワイ・アメリカ巡業。

 1922(大正11).1月、株式組織を解散。制度を旧に戻す。

【竜神事件】
 1922(大正11)年、大阪相撲で竜神事件と呼ばれる紛争が起こる。力士他多くが廃業し、大阪相撲が衰退する。

【協会幹部総辞職事件その1】
 1922(大正11).6月、「角聖」と尊称された元横綱常陸山の出羽海〔筆頭〕取締が急逝した。或る種、「権力の一極集中」だったのが崩潰したのである。それが要因で「三河島紛擾事件」が勃発。入間川改め出羽海(元小結両國)・雷(いかづち=元横綱Ⅱ梅ヶ谷)両取締以下が総辞職するに至った。新取締に高砂(元大関Ⅱ朝潮)、井筒(元横綱Ⅱ西ノ海)と雷が再選、10人の勝負検査役のうち立浪(元小結緑嶋=双葉山の師匠)ら7名が初当選。出羽海系からは全然選出されない珍現象を呈す。当時すでに出羽海部屋は角界の一大勢力であり、出羽海は大正十四年夏に「相談役」として“復権”した。別の要因として、出羽海親方は、元行司木村宗四郎の入間川とともに角界の“改革”をすすめていたため、その“手腕”を誰も無視できない事情があった。

【三河島事件】
 1923(大正12).1月、東京相撲で、力士待遇の改善の養老金倍増を求めた力士によるストライキが発生し、それにより横綱大錦卯一郎が廃業するという三河島事件が起こる。 (「三河島事件」)。

 国技館開館以降相撲人気は幾らか持ち直していたが、第一次世界大戦後の不況は相撲界にも押し寄せ1920年代に入るとやや下火になる。1923年1月8日、回向院大広間で開催された力士会で司天竜から養老金倍増の動議が出される。これを柱に力士会は以下の3点を協会側に要求として突きつけた。
①養老金の倍増
②本場所収入の利益から力士に分配する金額を10%から15%にアップさせる。
③十両になった者が幕下に落ちてもそれ相当の処置を取る事。

 協会側は12日から本場所が始まる事を踏まえて、「目下のところ財政状態からみて無理であるから、好転の見込みがつき次第、要求を満足させたい。春場所が12日から始まるのだから、この問題の解決は、場所打ち上げ後の 5日までに」と回答。回答に力士側は態度を硬化。上野駅前の上野館に籠城する作戦をとる。新橋倶楽部事件同様に横綱、大関は別格でありこの時代は協会と力士の橋渡し役というポジションであった。横綱の大錦、栃木山、大関の常ノ花、千葉ヶ崎、源氏山、立行司の木村庄之助、式守伊之助の7名は上野に赴き説得にあたる。両者の間に入った7名だったが、協会側も市中に触れ太鼓を出していることを理由に本場所開催を強行に主張し交渉を拒否。そればかりか7名から本場所出場の確約を取り付けることに成功する。これには力士側も激怒し、7名は力士側の信頼を失い調停役として役目を果たせなくなる。力士側は上野館から退去し、本拠地を三河島の電解工場に移して独立興行開始の準備に入る。協会内部の力では解決不能となり、所轄の相生警察署が仲介に名乗り出る。これに続き警視庁も調停に入り、力士達を回向院に呼び出して主張を聞いた上で、協会とも話し合い双方から一任を取り付けた。

 赤池警視総監は以下の仲裁案を提示。
①養老金は五割増。
②財源確保の為、10日間興行を11日間興行にする。
③千秋楽には10日目までの引分、預りとなった取組を再び組む。

 これを双方ともあっさり受け入れ、1月18日0時に警視庁で手打ち式が行われて解決。横綱、大関の面目は丸潰れとなった。手打ち式の後に総監主催の日比谷平野家での和解の宴が行われる。ここで横綱・大錦が宴席を中座し、一人会場を後にする。再び、大錦が戻ってきた時、会場は凍り付いた。最初に驚いたのは雷であったとされる。マゲを自らの手で切り落としていたのだ。「横綱として調停に乗り出しながら閣下(ここでは赤池総監を指す)の手に委ねたことは不徳不明の致すところ、横綱の面目を潰した以上、土俵での自信も喪った。横綱としての責任上、相撲界には止まることができない」と引退を表明。この後、大錦は自宅に戻り駆け付けた記者たちを前に、「師匠(ここでは常陸山を指す)の墳墓のまだ乾かぬうちに、出羽ノ海部屋の力士までがこの運動に加わって、かかる紛擾を起こしたことは、部屋頭の自分として誠に申し訳なく思った。相撲道の最高権威たる横綱の栄位を辱めた責任を感じた」と語った。問題は1週間の稽古期間を設け、1月26日返り初日を行い場所後の3月6日に正式に妥結する。無事に解決はしたが、人気、実力ともに栃木山と二分する強豪横綱・大錦を角界は思わぬ形で失う結果となった。これ以降角界は栃木山の1強時代に突入する。

【関東大震災で国技館が全焼す】
 1923(大正12).9月、関東大震災で国技館が炎上、全焼した。

 1924(大正13).1月、春場所を名古屋にて十日間興行。

【】
 1925(大正14).4月、東京赤坂・東宮御所において、前年久邇宮良子女王様とご結婚した摂政宮殿下(昭和天皇)の誕生日祝賀の為の台覧相撲が行われ、その際の御下賜金(かしきん)をもとに摂政宮賜杯(優勝賜杯)が作成された。

【東京・大阪両大角力協会解散による大日本相撲協会結成の調印なる】
 1925(大正14).7月、それまで何かと張り合っていた東京・大阪両大角力協会は解散して大日本相撲協会を結成する為の調印がなされた。東京側が大阪側に東京だけではなく双方一緒に摂政宮賜杯を争奪する優勝制度の誕生させる事を大義とすると持ちかけた為、大阪方の面目が保たれ交渉が順調に進んだ。

 9.30日、東京大角力協会より財団法人設立を申請。12.28日、東京大角力協会より申請されていた財団法人大日本相撲協会が文部大臣より認可された。国技館以来の快挙となった。銀色の賜杯は、やや遅れて昭和2年(1927年)から登場する。

 大正14年以前は取り組みの勝敗が決まらないこともあり、勝負を「預かり」とした。これを「取り直し」制にした。

 1926(大正15).1月、1月場所で優勝した31代横綱・常ノ花が一番最初に賜杯を授与された。

 1926(大正15).大阪角力協会最後の本場所を台北で興行する。

 1926(大正15).7月、従来の東京・大阪両協会は解散し、大日本相撲協会結成の調印が、大阪市の大阪角力協会取締小野川宅にて行われた。

 1926(大正15).10月、東西連盟相撲(第二回)(第一回は、大正14年11月および大正15年3月の二回に分けて開催された)を大阪で開催。

 ルール改正:
  • 休場力士は不戦敗、出場相手力士は不戦勝とする。従来は相手力士休場の際は両力士とも休みとなっていた。

 1926(大正15).10.23日、明治神宮の土俵開き。


 昭和の時代

 1927(昭和2).1月、東西両角力協会が正式に合併し財団法人大日本相撲協会を組織の名称とした。年四回本場所を興行し、春夏の東京場所のほか三月・十月は地方本場所(関西本場所)を設ける。年寄定員八十八名に大阪方十七名(うち二名は一代年寄)を加え定員百五名に増員する。

 1927(昭和2).3月、大阪で晴天十一日間の本場所興行。

 1927(昭和2).10月、京都で晴天十一日間の本場所興行。

 1928(昭和3).1月、ラジオの実況中継放送開始。土俵の仕切り線を設けた(60センチの間隔をおいて2本の白線を引く)。仕切りの時間を設定した(幕内10分、十両7分、幕下5分) 。全員が十一日連続出場となる。

【取り組み前の制限時間を設ける】
 昭和3年(1928年)、取り組み前の制限時間を設けた。それまでは力士の呼吸が整うまで自由であったためなんと30分かかることもあったとか。観客からの要望と、ラジオ中継開始の影響を受けて、制限時間が制定された。現在、取り組み前「さあ、制限時間いっぱいです」とアナウンサーが言うことがある。

 1928(昭和3).3月、名古屋で晴天十一日間の本場所興行。この場所から、不戦勝者も土俵で勝ち名乗りを受けることになった。

 1928(昭和3).10月、広島で晴天十一日間興行。これ以降、地方本場所は番付を発表せず、直前の東京場所番付をもってする。

 1929(昭和4).3月、大阪本場所、晴天十一日間興行。

 1929(昭和4).9月、名古屋仮設国技館で十一日間本場所興行。

 1930(昭和5).3月、大阪本場所晴天十一日間興行。

 1930(昭和5).10月、福岡仮設国技館で十一日間本場所興行。

 1931(昭和6).3月、京都仮設国技館で十一日間本場所興行。

 1931(昭和6).4月、天覧相撲を機に、二重土俵を一重に改め、土俵を大きくし、土俵屋根を神明造(しんめいづくり)にする。

 1931(昭和6).5月、横綱・宮城山の引退で、明治二十三年五月以来初めて番付面から横綱の名が消える(以後、昭和七年十月まで続く)。

 1931(昭和6).5月、土俵の直径を15尺(径4.55メートル)に改定した。

 1931(昭和6).10月、大阪本場所晴天十一日間興行。

 ●1931〜2年(昭和5〜6年)、大関玉錦が三連覇するも横綱になれず。(新興の小部屋だったからとも、喧嘩っ早い性格のためとも言われる)

【横綱不在場所】
 昭和6年5月に横綱・宮城山が引退して以来、7年10月場所までの6場所、昭和8年1月に新横綱・玉錦が登場するまでの間、横綱が不在だった。

【春秋園事件】
 1932(昭和7).1.6日、1月場所の番付が発表された翌日、西方出羽ノ海一門の力士が新興力士団と称し、参加していた力士は1名を除いて全員が出羽海部屋の力士。当時の幕内西方は1名を除いて全員が出羽海部屋所属力士、残りの1名の小野川部屋の錦華山も参加していた。つまり幕内西方は全員終結していた。三河島事件までと異なり大関も参加していた(もっとも反乱の決起会と知らずに来た力士も多くいたが)。事件を主導したのは当時、関脇だった天竜三郎。主謀者の名前から「天竜事件」、「天竜・大ノ里事件」とも呼ばれている。力士の待遇改善、力士の地位向上、大日本相撲協会の体質を改善など相撲道の改革を10項目にまとめた要求書を協会に提出、改革を迫った。東京府荏原郡大井町(現:東京都品川区大井)大井町中華料理店「春秋園」で決起集会を行い、そのまま籠城する事件が勃発した。これに呼応した東方力士の一部も革新力士団を結成し協会から脱退した為、この年の1月場所の興行が不可能となった。天竜の同志だった大関大ノ里をはじめ、関取48人、幕下数人が一度に協会を脱退したことで、協会は1月場所の延期を余儀なくされた(2月場所として翌月開催)。これを「春秋園事件」と云う。(詳細は「春秋園事件」参照のこと)
 今でこそ関取は100万円を超える月給が支給され、余程のことがなければ安定した生活が送ることができる。しかし、昭和初期は違っていた。関取の生活は困窮を極め、後援者に金を工面してもらったり、師匠から借金をしたりして凌いでいた。借金はどうやって返すかというと養老金、つまり退職金で返済するというカラクリになっている。そうなると当然、力士はお金を貸してくれる師匠はいくら収入があるのかと考えるが、それが協会によって公開されていない状況。不満を募らせていた力士の一人が関脇・天竜三郎。天竜は後援会や一部の出羽海部屋力士に反乱を起こす事を1931年6月頃には伝えていたとされる。

 1932年1月6日、天竜は出羽海一門の全関取に「俺がおごるから」と大井にある中華料理店・春秋園に来るように要請。店内2Fの勤王の間に集まった力士や関係者を前に天竜は懐から紙を取り出して読み上げた。以下の10ヶ条からなる協会への改革要求書であった。

①相撲協会の会計制度の確立とその収支を明らかにすること
②興行時間の改正、夏場所は夜間興行にすること
③入場料の値下げ、角技の大衆化、枡席を少なくし、大衆席を多くすること
④相撲茶屋の撤廃
⑤年寄の制度の漸次廃止
⑥養老金制度の確立
⑦地方巡業制度の根本的改革
⑧力士の収入増による生活の安定
⑨冗員の整理
⑩力士協会の設立と力士の共済制度の確立

 協会はこのまま籠城に入った天竜一派の説得を試みる。春日野(元横綱・栃木山)らが説得に当たるが、物別れに終わる。協会側は力士側の要求に対してほとんど満足な回答が出来ず、9日に一派は脱退届を提出し、協会側も籠城力士を破門した。脱退した天竜一派は自らを新興力士団(のちに「大日本相撲連盟」に改称)と名乗った。一方の東方力士も9日晩に単独では興行を行わないことを確認。協会も12日、14日から始まる本場所初日の延期を決定。ここで力士団側から離脱者が出る。新大関として1月を迎えるはずだった武藏山が脱走。さらに14日には天竜が外出中の隙をつく形で右翼団体・国粋会が仲裁に入るが、力士団の団結は固くこれを拒否する。さらには東方力士からも協会から離脱し革新力士団の結成を表明するなど騒乱は東方にも飛び火した。協会は警視庁にも調停を依頼したが、上手くいかず、22日協会は初日を2月3日に開催することを表明する。さらに25日には武蔵山の復帰も発表された。新興力士団も大日本相撲協会とは別に2月3日から6日間の東京は根岸で旗揚げ独自の興行を敢行。天竜は飛行機から宣伝ビラを撒き、四本柱を撤去し、行司は主審、呼出しはアナウンサーとなんとも斬新な興行を行った。31人の力士はA、B、Cと3つのクラスに分けられ総当たり戦を行い斬新さから興行は成功に終わった。さらに7回戦、10回戦という形式の取組も導入。当時ブームになっていたボクシングの影響を受けたようで、1分のインターバルをおいて、同じ相手と10回戦なら1日10回対戦するハードなもの。協会側も延期していた初日を2月22日から開催。関取62人中47名が離脱する中、十両や幕下から大量に昇進させ番付を埋めたが、興行は不調に終わる。3月には新興力士団と革新力士団が合併し大日本相撲連盟が成立。ところが、5月にまた一人離脱者を出す。206㎝の出羽ヶ嶽である。「文ちゃん」の相性で親しまれていた出羽ヶ嶽の離脱は人気面で影を落とすと、12月には20名の離脱者を出してしまい形勢逆転。養老金問題で一定の進展が見られたからである。なお、帰参力士も加わった1933年1月場所は離脱していた男女ノ川が全勝で優勝した。善戦したのは沖ツ海くらいで、玉錦も清水川も力の差を見せつけられた。前述のように同じ相手と1日10回対戦することもあったので相当鍛えられていたのかもしれない。天竜一派は関西を拠点に33年1月、関西角力相撲協会を設立するが、限界は見えていた。一方の東京側は双葉山の活躍で息を吹き返し、1937年12月についに関西角力相撲協会は全面降伏。関西側の力士のうち17名は復帰したが、天竜は責任を取る形で廃業した。また天竜の他にも11名が廃業している。この事件は相撲界の体質改善を鋭く指摘したものとして評価され、天竜への評価は決して低くない。そればかりか、1941年に相撲協会顧問に就任し満州巡業をバックアップ、戦後は解説者として活躍。出羽海一門友愛会の会長にも就任するなど、協会は天竜に相撲と二度と関わらせないなどの処置は取らなかった。相撲界の在り方を問うたとして逆に高い評価をする関係者も少なくない。その後、先細りする関西角力協会に対し、東の大日本相撲協会は横綱玉錦、双葉山らの活躍もあり、人気が回復。関西角力協会は分裂から5年後の1937年に解散となり、多くの所属力士は引退、あるいは大日本相撲協会に帰参した。
 1932年に巻き起こった大相撲「春秋園事件」 革命の裏にいた“意外な人たち” マゲを切って料亭に立てこもる力士32人……90年前の大相撲を騒がせた「春秋園事件」とは? から続く

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「春秋園事件」の主導者・天龍三郎は現静岡県浜松市出身。16歳で出羽ノ海部屋に入ったが、きっかけは、当時出羽ノ海親方となっていた明治の大横綱常陸山が直々足を延ばして勧誘に来たことだった。
「こんな事態では相撲そのものがやがて衰微する」

「相撲風雲録」によれば、親方からは「常に力士は一個のサムライであるという毅然たる誇りを持って、まず技と共に精神を鍛えあげねばならぬ」と教えられた。

 そのためもあって、以前から強い問題意識を持っていたようだ。同書にこう書いている。「関脇となってみて、相撲の内部生活の不合理さがいよいよ身にしみるばかりであった。力士がどうしても一個の職能人として当たり前の暮らし方ができないように、相撲社会そのものができあがっているのである」「何とかいまのうちにせねばならぬ。こんな事態では相撲そのものがやがて衰微する」「私一個の存意はようやく固まってきた。後は同志の獲得である」。

 1931年3月、京都巡業の際に、「力士会の長老」大関大ノ里に話をした。「たしか10分か、いや15分間ぐらい考え込んでいたかと思う。やがて『やろう』と答えた」(同書)

新興力士団に影響を及ぼしていたある組織

 一方、新興力士団には親方らを使った協会の懐柔工作以外にも手が伸びてきた。「関東国粋会」という右翼団体。以前から相撲界と関連があり、今回も仲介を買って出たとみられる。

 公安調査庁が1964年にまとめた「戦前における右翼団体の状況 中巻」によれば、頻発した労資紛争に刺激されて関東、関西の土建業者や顔役たちが結成した「大日本国粋会」から分離、独立。1930年に関東国粋会を名乗った。「もっぱら皇室中心主義を持し、国体に背馳する思想の撲滅に主力を注ぐ」が綱領。

 荒原朴水「大右翼史」は「事実上、関八州の関東侠客陣の流れを汲む純然たる任侠団体の集合であった」と書いている。1927~28年の野田醤油争議に介入。春秋園事件にも登場する梅津勘兵衛はのちに理事長になるが、クリスチャンで「最後の侠客」と呼ばれた。そうした“圧力”が力士団にも影響を及ぼし始める。

1932年に巻き起こった大相撲「春秋園事件」 革命の裏にいた“意外な人たち” 「悲劇の横綱」武蔵山の脱走

 「武蔵山脱走す 脱退組から除名さる」。1月13日付東京朝日朝刊はこう報じた。「風邪で医師の手当を受けていた武蔵山が12日夕6時ごろ、病院に行くと突然言い出し」、監視役を振り切ってタクシーで姿を消した。力士団の1人が本人を探し当てたが、武蔵山は「何とも申し訳ない。自分はそもそもこの運動の最初から、病気と称して避けようと思っていたが、諸君の熱情に引きずられて、自分を偽りながら、今日まで行動を共にしていたが……」と語ったという。

 武蔵山は決起前日の番付発表で兄弟子の天龍を追い越して新大関に昇進したが、1月7日付東京朝日夕刊の記事にあったように、以前から拳闘(ボクシング)界への転向が噂されていた。そこには右翼団体「大行社」の清水行之助と、北一輝の腹心の右翼活動家・岩田富美夫が介在していたとされる。

 しかし、結局その道もとらず、協会に復帰する。「裏切り者」という罵声を浴びながら、のちに横綱に昇進するが、ケガで不振のまま引退。「悲劇の横綱」と呼ばれる。

「協会へは戻らない」意思表示として“まげを切る”

 関東国粋会の仲介で“手打ち”直前までいったが、天龍の強い抵抗で破談に。以後、関東国粋会の襲撃を恐れるようになる。そこで、天龍は驚くべき行動を起こす。

「天龍以下卅名の力士 今朝遂にまげを切る 悲痛な決意を表現」(1月17日付東京朝日夕刊見出し)。記事にはこうある。「(1月)16日午前5時、早くも力士団31名は本部楼上に全員集合。緊張した協議会を開き、その席上、突如天龍は隣室に退いたので、大ノ里、山錦の両名が後を追って入ると、天龍はやにわに隠し持ったはさみで自らのまげを切らんとしたので、驚いてさえぎりなだめたが、天龍は声涙共に『諸君の復帰を要望する自分だ』と一言血を吐くように言うばかり」。

 結局31人中30人が一斉にまげを切ることに決定。午前8時、紋服姿に着替えて集まり、「かねて用意の四寸ぐらいのはさみを各自に配り、一同白紙を懐中から出し、膝の前に置き、一斉に断髪。直ちに白紙に包み、署名を行った」。まげを切るのは「協会へは戻らない」意思表示。調停を拒絶する文書とともに関東国粋会に届けた。

 ここで「30名」とあるのは、人気の巨漢力士・出羽ヶ嶽が「肉体その他の条件から、まげを切らすに忍びない」(東京朝日)ということになり、1人だけまげを残したからだ。「『おれはまげ切ったら何にもできねえ。これだけは勘弁してくれ』と6尺8寸(206センチ)の巨体を震わせてワアワア泣いたという」(「昭和大相撲騒動記」)。

 新興力士団の旗揚げ興行「大成功と言っても過言でない」

 そして紆余曲折の末、新興力士団の旗揚げ興行が同年2月4日、東京・根岸の邸宅跡地に突貫工事で造られたテント張りの相撲場で開催された。大相撲の東西制や横綱、大関などの名称を廃し、6日間の個人競技に。31人をABCの3クラスに分け、総当たりでそれぞれ優勝と順位を決める方式。

「何もかも新味横溢 華々しい旗揚げ 楽隊、観衆の声援も賑はしく ザンギリ頭の大熱戦」。2月5日付東京朝日夕刊は好意的に報じている。東京日日も「人気上々、新興力士団の旗揚げ興行」の見出し。「新興力士の意気まさに衝天、相撲場付近の町は紅白の幕を張ってお祭りのような騒ぎ」と伝えた。

 相撲ファンの“判官びいき”もあってか、「昭和大相撲騒動記」によれば、初日だけで入場者は4700人超。「天龍は『大成功と言っても過言でない』と評価した」(同書)。

天龍の方針に対する反発が強まった

 しかしこのころ、別な動きも起きていた。大相撲で残った東側力士のうち14人が伊勢神宮参拝に行き、そこで「革新力士団」を結成。名古屋の支援者宅に籠城して協会に反旗を翻した。

 これに対し、大日本相撲協会は幹部の体制を一新して、延期していた春場所を2月22日から8日間開催。番付から幕内、十両が計22人いなくなったため、十両から3人、幕下から5人を幕内待遇に引き上げた。西十両6枚目から引き上げられたのが、のちに69連勝を記録する名横綱・双葉山だった。

 新興力士団は革新力士団との提携に成功。3月19日から大阪で新興・革新合同大阪場所を開催し、好評だった。東京・蔵前でも両団体合同場所を開き、両力士団は新たに「大日本相撲連盟」を結成。帯同して全国巡業に出た。しかし、その前に出羽ヶ嶽が、義兄弟の歌人・斎藤茂吉らの協力で協会に復帰。さらに巡業中に革新力士団の間に天龍の方針に対する反発が強まった。結局、革新力士団の力士の多くは協会に復帰。新興力士団からも復帰する力士が出た。

 それでも天龍たち残った力士32人は大日本相撲連盟を解散して、大阪を拠点に「関西角力協会」を設立。1933年に独自興行を大阪、次いで東京でも実施した。そして、「満州・朝鮮慰問巡業」に出る。「昭和相撲騒動記」は「国内での興行が頭打ちになり、大陸に目を向けざるを得ない状態になったのだろう」と想像する。

大ノ里の死と、革新的な相撲興行の限界

 大陸での巡業は兵隊たちには好評だったが、その中で大ノ里が発病。大連の病院に入院し、長い闘病の末、1938年1月、肋膜炎で死亡する。それに先立つ1937年1月、関西角力協会は大阪で7日間の興行を打ち、それを最後に同年12月、解散する。

「関西角力突如解散 天龍、山錦は引退 新進力士は東京方に復帰」。12月5日付東京朝日の見出し。「苦節五年土俵を割る」が物悲しい。「革命」は成就しないまま終わった。17人が協会に復帰。10人が廃業した。

「力士の生活権を確立しようとして動いた天龍一派の行動には明らかに時代的な合理性があった」と尾崎士郎「時代を見る眼」は述べる。

「昭和大相撲騒動記」は、天龍らの革新的な相撲興行について「新鮮味の追求は同時に『常に新しいものを開発しなくてはならない』という泥沼にはまり続けることを意味した」と分析。存続が危ぶまれた大日本相撲協会が、復帰組を迎えて曲がりなりにも興行を続けているのと対比して「本家の相撲協会で行われている『伝統の相撲』に勝てるのはほんの一瞬でしかなかったのだ」と述べている。

「日本の相撲界が続いてきたのは、保守性の中にある種の納得性が存在していたからだと思う。いわゆる『偉大なるマンネリ化』を観衆が認めてくれているのだ」とも。

天龍には強力なブレーンがいた

 これに対し、天龍は「相撲風雲録」で地方巡業でのトーナメントなどの方式を「最良・至上のもの」と強調する一方、挫折の最大の原因として「協会の目に見えぬ圧力」を挙げている。

 しかし、この事件の新聞記事や資料を読んでいると、もう少し裏があったような気がしてならない。

 天龍には強力なブレーンがいた。後援会「天龍会」会長で、前・東京市会議員の茂木久平。早稲田大在学中、のちに有名作家となる尾崎士郎とともに学内の勢力争いに絡んだ「早稲田騒動」に加わり、大学を中退。尾崎とともに社会主義者堺利彦が経営していた出版社「売文社」に入った後、市会議員選挙に出馬し、当選した。尾崎の人気小説「人生劇場」に登場する高見剛平のモデルとされる。

 この名前を見たとき、筆者は思い出した。「昭和の35大事件」の「 東京都大疑獄事件 」で、京成電鉄の都心乗り入れに絡んで、同社の実情を革新倶楽部の志村清右衛門衆院議員に伝え、京成から志村を通じて現金を受け取ったとされた市会議員。相次ぐ汚職事件で市会議員が大量逮捕されて市会が解散命令を受け、失職。有罪判決を受けた。

 茂木には逸話が多い。ロシア革命直後に現地に行き、レーニンから活動資金300万円をもらう約束をしたことを自分で書いている。佐野眞一氏は「畸人巡礼怪人礼讃」で茂木を一種独特の魅力を持つ人物として取り上げている。

1932年に巻き起こった大相撲「春秋園事件」 革命の裏にいた“意外な人たち”事件をめぐって動いた人たちの意外な共通点

 またこれより前、社会改革に関する意見交換の場として1918年に生まれた「老壮会」という組織があった。「戦前における右翼団体の状況 上巻」などによれば、アジア主義の思想家・大川周明と満川亀太郎が発起人で、毎月1回程度集まって時局を語り、講演会を開くなどしたが、1921年ごろには自然消滅状態になったとされる。

 参加者は国家主義者から社会主義者まで雑多で、国家主義者系では北一輝、権藤成卿、笠木良明、社会主義者系は堺利彦、下中弥三郎、その他として大井憲太郎、草間八十雄ら。実はそこに茂木久平も社会主義者系の1人として加わっている。

 そして、春秋園事件で武蔵山復帰をめぐって登場する岩田富美夫、清水行之助も国家主義者系として参加。さらに、参加者の1人で「純正国家主義」などの著者・角田清彦も天龍側の人物として事件に絡んでいる。つまり、事件をめぐって動いた人間たちはお互いに知り合いだったわけだ。

 そこから筆者は、彼らが暗黙の了解のうちに“手分け”して協会側と天龍側に立ち、調停を図ったのではないか、という疑いを持つ。その場合、目的は相撲への愛に加えて、やはり金だったのではないか。

戦後の国会でも改革の必要性を訴え続けた天龍

 茂木は、アナーキスト・大杉栄を殺したとされる元憲兵大尉・甘粕正彦と偶然知り合って親しくなり、敗戦まで、甘粕が理事長を務めた「満州映画協会」の東京支社長の役職にあった。のちに首相となる岸信介(当時「満州国」総務庁次長)とも知り合いだったことが「岸信介の回想」に書かれている。

 天龍は引退後、「満州」に渡り、満州国政府の体育事業に関わる。それには満州国総務長官だった星野直樹の力が大きかったと「相撲風雲録」に書いているが、茂木と甘粕のつながりも背後にあったのではないか。

 大日本相撲協会はその後、双葉山の快進撃や、騒動後に登場した新鋭力士の活躍で息を吹き返す。戦争を挟んで現在の日本相撲協会に変わり、繁栄と沈滞を繰り返すが、天龍らの訴えのうち、茶屋制度と親方問題、そして組織の体質はいまも本質的には変わらないままのように思える。メディアもその点に深くは踏み込まない。

 天龍は戦後、協会と関係を修復しつつ、国会でも改革の必要性を訴えた。1989年8月、85歳で死去。朝日の訃報は社会面ベタ(1段)だったが、見出しは「『春秋園』事件 反骨の元関脇」だった。

#1  マゲを切って料亭に立てこもる力士32人……90年前の大相撲を騒がせた「春秋園事件」とは?  

【参考文献】
▽和久田三郎「相撲風雲録」 池田書店 1955年
▽尾崎士郎「相撲を見る眼」 東京創元社 1957年
▽大山眞人「昭和大相撲騒動記」 平凡社新書 2006年
▽日本相撲協会博物館運営委員「近世日本相撲史第一巻」 ベースボール・マガジン社 1975年
▽「戦前における右翼団体の状況 中・上巻」 公安調査庁 1964年
▽荒原朴水「大右翼史」 大日本国民党 1900年
▽佐野眞一「畸人巡礼怪人礼讃」 毎日新聞社 2010年
▽岸信介・矢次一夫・伊藤隆「岸信介の回想」 文藝春秋 1981年


 1932(昭和7).2月、残留力士による改正番付を作成し、東西制を廃止し、一門系統別部屋総当り制で八日間興行する。

 1932(昭和7).3月、名古屋で晴天十日間本場所興行。

 1932.3月、「宝川襲撃事件」。大関・玉錦の依頼で山口組が平幕・宝川を襲撃。

 力士の手本となるべき大関が暴力団に反目していた力士を襲撃させたという現在ではちょっと考えられない事件が起きたのは1932年3月の大阪巡業。玉錦は後に横綱にも昇進するが、後援会長が山口組二代組長・山口登が後援会長で義兄弟の盃を交わす仲。玉錦自身も激昂しやすい性格でケンカばかりしているのでケンカ玉というあだ名が付いていた。事件のきっかけは玉錦が大阪巡業で春秋園事件以来協会側から離脱していた宝川の後援者からのご祝儀を断ったという些細なもの。両者は口論となり、宝川自身も「山口(組)でも何でも呼んでこい。宝川は逃げも隠れもせん。山口に宝川がそういってるといえ!」と発言。これを聞いた玉錦は山口組に宝川襲撃を依頼した。山口組は西田幸一、山田久一、田岡一雄らが菊水館という旅館に宿泊中の宝川を襲撃する。寝ていた宝川を叩き起こすが、宝川もなかなか謝ろうとせず、ついに田岡は殺意を持って短刀を宝川の頭上から振りおろすが、さすがにまずいと思った玉錦が制止したことで手元が狂い宝川は右手小指と薬指の半分を切り落としされただけで済み、土下座をすることで許されている。玉錦も「殺さんでもええやないか」と田岡に懇願した。ちなみに玉錦と宝川は同じ高知県出身で宝川の方が3歳年上で実はもともと仲良しだった。宝川は1933年1月に天竜一派を離脱し協会に戻ってくるが、当時は協会から離脱中だったこともあり玉錦は不問とされた。現在なら除名どころでは済まされない。暴力団との交際が分かった時点でアウトだ。時代はなんとも大らかな時代であった。ちなみに宝川は協会復帰後の1933年5月場所で10勝1敗で優勝同点の成績を残しており、襲撃が原因で土俵を去ったという話は誤りである。

 1932(昭和7).10月、京都で晴天十一日間本場所興行。。

 1933(昭和8).1月、脱退力士の大半が帰参したため、別途番付を作成し、二枚番付として発表。

 1933(昭和8).2月、脱退組は大阪に「関西相撲協会」を結成。大日本相撲協会はこれを機に地方本場所を廃止し、春夏二回の東京本場所に戻る。

 1933(昭和8).9月、期待の若手関脇を失った悲劇。

 1932年に発生した春秋園事件で多くの関取を失った相撲協会は32年12月に半数近くが復帰したものの、かつての活気は戻っていなかった。そんな中で関脇として活躍し大関目前と言われた期待の若手が沖ッ海。33年1月場所では横綱・玉錦と対戦し立合いガンと当たり合って差し手争いから沖ッ海が叩いて崩し左を差し勝った。しかし玉錦は立ち合いに鼻ッ柱を強打してひどい出血し痛み分け。このため勝者がおらず弓取りが中止になった。上位相手でも臆することなく当たっていき人気もあった。中でも左からの下手投げは角界随一の威力であった。悲劇が若き才能を襲ったのは1933年9月30日。巡業先の山口県萩はフグの名産地として知られている。ここで沖ッ海はフグを自ら調理して越ノ海と食べた。この時の毒があたってしまい、中毒に苦しんで亡くなった。23歳だった。既に師匠の娘と結婚し、部屋の後継者に決まっていただけに関係者も多いに悲しんだ。協会としても23歳にして大関目前の存在であった沖ッ海を失ったダメージは大きく、双葉山の台頭まで興行面で苦しむことになる。「沖ッ海フグ中毒死事件」。

【双葉山の69連勝が始まる】
 1936(昭和11).1月、初場所、平幕の双葉山の69連勝が始まった。1場所11日制の時代で、7日目以後5連勝し、9勝2敗。5月場所は西関脇で11戦全勝、1場所で大関昇進。37年1月も11戦全勝。13日制となった5月場所は13戦全勝で横綱(第35代)に昇進。翌1938年は堂々の2場所連続13戦全勝、5場所連続全勝優勝。この時点で連勝記録は66。日中戦争が泥沼化し、暗い世相が続く時代に、双葉山の連勝はいわば唯一の明るい話題となった。同時に、誰が連勝にストップをかけるかに世間の関心が集まっていた。当時最大の相撲部屋だった出羽海一門は、「打倒双葉」を合言葉に、部屋ぐるみで「右足を狙う」作戦を考え、まだ双葉山と対戦したことのない若手に期待をかけていた。

 1937(昭和12).5月、大阪市城東区関目町に大阪大国技館が完成し6月12日から大阪準本場所が開かれた。十三日興行となる。

 1937(昭和12).12月、「関西相撲協会」解散。

【双葉山の69連勝が止まる】
 1939(昭和14).1月、1月場所4日目、双葉山が安藝ノ海(あきのうみ)に敗れ連勝が69でストップした。双葉山は前年の満州巡業でアメーバ赤痢に感染し、体調が回復しないまま1月場所に出場していた。4日目の1.15日、前頭3枚目で双葉山とは初顔合わせだった出羽海部屋の「秘密兵器」安芸ノ海に敗れ、連勝記録は69でついにストップした。双葉山の69連勝は足掛け4年にわたる大事業だった。連勝スタート時は平幕力士だった。双葉山は連勝ストップ後3連敗した。次の5月場所(以後15日制)では15戦全勝、その後42年5月~44年1月にも36連勝するなど69連勝の後に計7回も優勝し、通算12回優勝を果たした。(「双葉山の69連勝」)

 1939(昭和14).5月、15日間興行開始。

 1940(昭和15).1月、東西制復活、優勝旗旗手は関脇以下の最優秀成績力士があたる。ちなみに、最後の優勝旗旗手は昭和22年(1947年)6月夏場所での東前8枚目でその場所から始まった優勝決定戦に勝ち残った力道山である。

 1940(昭和15).2.11日、奉祝紀元2600年建国祭神前奉納大相撲開催(両国国技館)。

 1940(昭和15).4月、金村信洛(力道山)が二所ノ関部屋へ入門。力道山の相撲時代の略史は力道山‐相撲時代を参照のこと。

 1940(昭和15).5月、夏場所(4日番付発表・初日9日~千秋楽23日)東京・両国国技館にて開催。

 1940(昭和15).6月、第七回大阪大場所(初日15日~千秋楽27日)大阪大国技館にて開催。

 1940(昭和15).7月、満州巡業。満州場所(15日間)鞍山、撫順、奉天、ハルビン、新京で興行。

 1940(昭和15).8月、中国・北満州皇軍慰問巡業。

 1940(昭和15).10月、中国慰問巡業。

 1941(昭和16).一月場所前に制定した横綱一代年寄制を改正。

 1941(昭和16).2.5日、帝国在郷軍人会大日本相撲協会分会結成。

 1941(昭和16).6.1日、深川八幡境内歴代横綱碑の修築除幕式。

 1941(昭和16).6月、全組合による朝鮮巡業。

 1941(昭和16).6月、満州場所大相撲。

 1941(昭和16).7月、満州巡業。

 1941(昭和16).10.25日、吉田司家で羽黒山(不知火型)の横綱授与式。

 (日米開戦以降
 1941(昭和16).12.8日、真珠湾攻撃により日米開戦。戦時下においても相撲興行は行われた。
昭和/場所名 優勝力士名/地位 成績 所属部屋
16年春場所 双葉山 定次/横綱 14勝1敗 立浪
16年夏場所 羽黒山 政司/大関 14勝1敗 立浪
17年春場所 双葉山 定次/横綱 14勝1敗 双葉山 
17年夏場所 双葉山 定次/横綱 13勝2敗 双葉山 
18年春場所 双葉山 定次/横綱 15勝0敗 双葉山 
18年夏場所 双葉山 定次/横綱 15勝0敗 双葉山 
19年春場所 佐賀ノ花 勝巳/小結 13勝2敗 二所ノ関
19年夏場所 羽黒山 政司/横綱 10勝0敗 立浪
19年秋場所 前田山 英五郎/大関 9勝1敗 高砂
20年夏場所 備州山 大八郎/前頭1 7勝0敗 伊勢ヶ濱
20年秋場所 羽黒山 政司/横綱 10勝0敗 立浪

 1942(昭和16).6月、朝鮮巡業。

 1942(昭和16).12.287日、東京・回向院で戦死した三段目力士橋詰正次、行司木村良雄の協会葬。

 1943(昭和18).2.13日、相撲協会勤労報国隊結成。

 1943(昭和18).6月、朝鮮巡業。

 1943(昭和18).6月、満州場所大相撲。

 1943(昭和18).7.13日、満州国皇帝陛下御前相撲(関東軍司令官邸)。

 1943(昭和18).7月、中国・満州皇軍慰問巡業。

 1943(昭和18).11.5日、学習院で皇太子殿下台覧相撲。

 1944(昭和19).2月、国技館が軍部に接収され、風船爆弾工場となる。関取衆も軍事教練に駆り出された。

 1944(昭和19).4.12-14日、力士団が輸送戦線の荷役奉仕。

 1944(昭和19).5月、夏場所(初日7日~千秋楽23日)東京・後楽園球場。後楽園球場で晴天10日間の興行が行われた。史上空前、8万人の大観衆が集結。アジア太平洋戦争も戦局が悪化するにつれ人々の生活は苦しくなっていった。大相撲界もこの戦争で本当に多くのものを失った。苦しい生活の中で人々にとって大相撲はどういう存在だったのか、それを窺い知れるのが後楽園球場で行われた1944年5月場所の晴天興行である。この年の2月に相撲の殿堂・両国国技館も軍部に接収されてしまい後楽園球場で開催した。グラウンドに桟敷席を設け、スタンドをイス席として使用した。ハイライトは7日目。快晴の日曜日となったこの日。後楽園球場には人、人、人が詰めかけた。グラウンドは満員、スタンド席もほとんどが埋まり協会発表では63000人とされたが、実際には80000人以上が集結したとされる。80000人も観客が入ったことなど大相撲の歴史長くとも前例はなく、空前の入りである。2015年2月15日現在もこの記録は破られていない。生活が苦しくなる一方だった当時の人々にとって大相撲がどれだけ心の支えになっているのかが分かる。

 1944(昭和19).11月、再び後楽園球場で晴天10日間の興行が行われた。これは1945年1月場所を繰り上げて行われたもので、1月に屋外で行うのは寒くて開催が難しいという理由からだ。この時は戦況の悪化が進み、多くの力士や観客が鉄兜を持参し集結した。この時も最高で60000人を超える観衆が集まったと伝えられている。「後楽園球場晴天興行」。

 1945(昭和20).3.10日、東京大空襲により国技館被災。各相撲部屋も焼失する。幕内力士含む多くの関係者を失う。この日、東京・下町の住宅街や町工場をターゲットとした大規模な空襲が行われた。日付が変わってほんの数分後、深川地区の爆撃を皮切りに2時間半に渡り焼夷弾の雨が降り注いだ。一夜にして10万人以上が亡くなり、40㌔平方メートルが焼け野原となった。軍部に接収されていた東京・両国にあった国技館は焼失。相撲の殿堂は辛うじて原型をとどめたが使用不能に陥った。現役力士、協会員、ファンなど相撲に関わる本当に多くの命が奪われた。幕内・松浦潟、同じく幕内・豊嶌も空襲で落命した。豊嶌は関脇まで昇進した経験のある力士で、取り口は突き押し一辺倒だったが、ちょうどそれが時代に好まれ、人気も高く、双葉山から2つの金星を獲得した事もある。幕内通算成績は61勝49敗、勝率は.555と大関候補であった。遺体は隅田川にかかる東武線鉄橋下で発見されている。享年は24歳。松浦潟も三役経験者でこちらも人気者であったが、どちらかと言うと女性ファンが多かった。松浦潟の方は遺体は発見されていないが、3月10日を境に行方不明になっていて空襲当日に亡くなったと見なされている。享年は29歳。

 1945(昭和20).6月、夏場所(初日7日~千秋楽13日)を被災した東京・両国国技館で7日間の非公開開催。

 1945(昭和20).8.15日、終戦。






(私論.私見)