無通知無承諾「地文取り込み」は泥棒、盗用か考 |
(最新見直し2006.5.4日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
引用・転載問題の本質を最も露にするのは、「他人文の無通知無承諾地文取り込み」についてである。本サイトではこの問題を採りあげる。「他人文の無通知無承諾地文取り込み」は、1・厳禁なのか。2・基本的に認められるのか。認められるとしたらどういう条件下でなのか。3・無条件で認められるのか、という考察をせねばならない。次に、ブック著作権とネット著作権で扱いが変わるのか変らないのかという考察をせねばならない。これらの問題を解決すれば、引用・転載問題はほぼ解決するであろう。 れんだいこは既に「無通知無承諾リンクは著作権違反」、「無通知無承諾引用、転載は著作権法違反」、「無通知無承諾引用、転載は泥棒、盗用である」なる論法の鉄条網を取り外した。次の作業は、「他人文の無通知無承諾地文取り込みは泥棒、盗用である」鉄条網をペンチで断ち切る作業に入る。これはかなり難しい。 以下、れんだいこの考えを述べる。結論から申せば、或る場合には可であり或る場合には不可であるとのスタンスを確立したいと思う。その手引きはこれから創造せねばなるまい。なぜ可とするのか。それは、人の頭脳が共認に向うよう形成されているからである。よくできた文章はそのまま取り入れたくなるという習性に従うべきだと考えるからである。良い文章ほどそうなり易いということである。あるいはガイド文の場合もそうなり易い。どちらも地文の方が似合うように思える。この問題をどう考えるかが問われている。 れんだいこは既にウェブ著作権につき「黒板おさらい著作権」なる新概念を考案した。ここでは「聖者著作権」なる概念を創出してみたい。「聖者著作権」とは、聖者なら自身の言説が「無通知無承諾で引用元不明記のまま」地文に取り込まれても、趣意が正確な引用である限り自身の言葉が歴史の中に生きているそのことに悦びを覚え、著作権を妄(みだ)りに振り回さないであろうと推測する著作権論である。 この概念に照らせば、その昔に著作権がなかったのは未開故でも何でもない「聖者著作権」という概念に支えられて、近時のような野暮な著作権論を抑制していたという賢明な時代であったことを証している。著作権論を通して窺うべきは、昔より現代の方が却って知育上の野蛮時代に入りつつあるという見立てであろう。これについは今後もう少し自問自答してみたい。 2005.12.23日、2006.1.8日再編集 れんだいこ拝 |
【れんだいこの引用・転載マニュアル方程式】 | ||||||||||||||||
以下、「れんだいこの引用・転載マニュアル方程式」を記す。
|
【「自由、自主、自律基準」考】 | |
「自由、自主、自律基準」について愚考する。例えば、マラソン(駅伝も同じ)実況中継の例を挙げよう。大会当日、走路該当区域は道路規制される。警官パトカー隊が先導する。選手がストリートを走る。沿道には近くの住民が並んで声援し、中には小旗を振る者も居る。いつもの風景であるが、気難し屋が議論に加わると、当地域ではマラソン大会を実施してはいけないという結論になる。 気難し屋は云う。一体、マラソンの為に何故に道路規制されねばならないのか。反対側車線の交通まで止められるべきか。警官パトカー隊の先導は適正か。沿道での住民の声援は、選手に危険ではないか。誰かが選手に体当たりしたらどうなるのか、誰が責任とるのか。どうしても実施したいなら適切な防護を施せ、それを為さずして大会を実施するのは当局の責任である。沿道の住民が選手を勝手に撮影しても良いのか、肖像権上許可を要するのではないのか云々ということになる。 そういう訳で、この論法を押し進めれば、伝統の箱根駅伝も、各地のマラソンも従来の形式では今後は中止されるべしということになる。気難し屋が議論に加わるとこういうことになる。この気難し屋がなぜ気難しいかというと、次のように述べるからである。これを仮に「腹黒の美名文句」と命名することにする。
れんだいこがなぜこの論法を採りあげるのか。そう、これは著作権議論にも関わってくる話だからである。この議論にどこが問題あるのか。これが解けたら著作権問題も解ける。これが解けないと解けない。さて、あなたはどう解くか、ということになる。 2005.12.23日 れんだいこ拝 |
【「言葉、文章は互いが自由に交差させられるべきものである」考】 |
諺とか有名な文句とかは人口に膾炙(かいしゃ)している。今後、諺とか有名な文句に匹敵する文章が出てきたとき、著作権法に従い逐一出典を明示せねばならないものであろうか。れんだいこにはそういう疑問がある。どうしても逐一出典を明示せよという連中は、そういうクラブでも作って仲間内同士そういう決まりに従って遣り取りすればよいだけなのではないのか。そういう狭い集団の決まりごとを社会一般に強制しようといるところに問題が発生しているのではないのか。 考えてみればよい。そもそも文字からして誰かが創造して無料提供しているものである。それも長い年月の間に練られたものである。そこには、今日的な著作権のチョの字もない。インターネットに於けるワールド・ワイド・ウェブ(WWW)の発案者として知られる英国のティム・バーナーズ・リー(Timothy John Berners-Lee )氏は明確に、無特許で世界に公開し人々に使用を任せたことを明らかにしている。 これを思えば、無料文字と無料WWWの上に成り立ちながら全域全方位著作権を目指すべしとする論者の著作権論は端から胡散臭いものがあると云うべきではなかろうか。どうしてもそう主張したい者は、自前の文字を考案し、自前のWWWのようなものを考案し、その使用料を取れば良いのではなかろうか。それができずに、手前は無料で頂いたものを操りながら有料のものを生み出すにはよほどの根拠がなければならない、とれんだいこは考える。 考えてみればよい。思想とか観点とか云うものは本来著作権壁に囲うのは馴染まないのではないのか。なぜなら、思想や観点そのものが本性からして共有共認を求めるからである。その共有共認活動を妨げるような著作権運動は、その槍を持って藪を突く手前等こそ野蛮ではないのか。いかに連中が、著作権の確立されて居ない社会を野蛮とみなそうとも、断じてそうではない逆であろう。連中の頭脳はそこに思い至らないほど粗雑である。粗雑故に賢(かし)こぶろうとする習性を持つ。 実に、「他人文の無通知無承諾地文取り込みは泥棒、盗用か」を廻る態度こそ、社会主義性を持つか持たぬかのリトマス試験紙である。口先で如何に左派ぶっていても、著作権問題に現われる強権感覚こそ連中の本性を炙り出すものはない。連中のサイトを見よ。共通して、あらゆるところに著作権壁を廻らし、世のため人のためと云いながら小難しい柵を設けるものだから次第に人足が遠のき、いつのまにか閉鎖されたり、世のため人のため逆さ現象を生み出しつつある。 この連中に貴重文書を渡してはならない。彼らはその資料の人民大衆的公開に背を向けようとする。秘匿し、秘匿できない場合は制限を設け、我らの利用を妨げようとする。よって、貴重資料は、社会主義精神を持つものに渡し、広く世に伝わる方式で公開させねばならない。これを誤るととんでもないことになる。 2005.12.23日 れんだいこ拝 |
【「ほとんど病気の無断転載禁止論者の痴態」考】 |
れんだいこは面白いことに気づいた。無断転載禁止論者ほど脳の形成が悪いのだろう、お前の論を述べよとけしかけると七転八倒し始める現象がある。無断転載禁止中毒が自家撞着するとこうなるという見本ではなかろうか。持論がもてぬ空っぽの脳の腹いせに、れんだいこが云ってもいないことを云っていると勝手に叩きやすいように改竄して、それを叩いて悦にいっている。通常の能力があれば簡単に見破られるのに、そういう手口を使う。それは、己が脳粗鬆なのに人をもっと低脳視して、事情を知らぬものを誑かす手法でしかない。処置なしと思われるほど幼稚な罵詈雑言に耽り、ネット文章は永久に晒されるのも忘れて恥の上塗りし続けている。 こういう現象を治癒する方法は一つしかない。自前の論を述べられるように日頃からあちこちの論を練り合わせして鍛えておく以外にない。無断転載禁止などと云わずにどんどん取り寄せ咀嚼していく以外にない。それなのに自分の首を絞める方にばかり、ない知恵を使うから出不精になる。これはその人の癖だから致し方ないと云えばそれまでだが、馬鹿げたことではある。 2005.12.23日 れんだいこ拝 |
【「文壇無料自由市場構想」考】 |
文章というものは、書き手が、あちこちからお気に入りの文字や資料を取り寄せて、キャンパスに書く絵とも考えられる。その時に、その素材一つ一つの持込みに断りするのは何とも手間である。文壇無料自由市場を設け、そこから任意に持ち出せば良いのではなかろうか。れんだいこはそう思う。取られたとか盗用であるとかに一々目くじらするのではなく、取り込まれ率が高いほど取られた人の値打ちが上がる訳で、その人は怒ることではなく誉れに思うべきことではなかろうか。 そういう「取られ率」が高い人には余得がある。なぜなら、本を出版すれば好評となり、講演すれば満席となる。その他その他。そういう帳尻になっているのではなかろうか。だから、盗られた盗られたと騒ぐには及ばない。これは歌手でもそうだ。れんだいこが仮にどこぞの店でその歌手の歌を歌ったからといって音楽著作権違反と云われるには及ばない。むしろ感謝されるべきだ。その歌手のCDが出れば買う気にもなり、コンサートがあれば出向くことにもなる。れんだいこが歌うことで、それを聞いた者が同じように行動する契機にもなる。逆も然り。そういう風に帳尻が合わされているのだから、何も難しく云う必要がないということだ。 れんだいこはかく考えている。このスタンスを前提として、不適切な場合を確認したら、その際のルールとマナーを考えたほうが実践的と考えている。 2005.12.24日 れんだいこ拝 |
【「れんだいこの文章作成手法からくるところの他人文の無通知無承諾地文取り込み必要考」】 |
れんだいこは、次のような文章作成手法を確立している。まず、調べたいテーマのサイトを開設する。次に、調べたいものを検索にかけ、これと思うものを次から次へ転載する。この時、リンク掛けする。そうして一段落した後で読み進め、一定の理解になった時、れんだいこ文の作成に入る。この道中は、転載文の抜き取りと切り捨てで整理していく。文章の構図が決まると更に転載文を摂取していく。こうして何度も書き直し練り直してれんだいこ文ができあがる。しかし、この文章はまだ未熟であり、何度も推敲を要し、必要に応じて適宜書き換えられる。適当な時にサイトアップする。その後も同様に書き換えられていく。そういう意味で、れんだいこ文はあたかも黒板上の文字に等しい。「黒板おさらい著作権」を考案した所以である。 問題は次のところにある。この書き換え道中に於いて、基本的には引用文は引用文としてルールとマナーに従い、識別できるように取り込むようにしている。ところが、その手間も相当なもので、中には出所元不明記のまま地文に取り込むこともある。これがお叱りを受けるケースに当るが、何度も読み直していきれんだいこ文にするのに値する値打ちものの場合に多く発生する。これをどう対応するのか、今もれんだいこの関心事になっている。 思うに、他人文の地文取り込みは本当に許されないのだろうか。認識の精度を高め共認させていく場合に同一文染みていくのも仕方ないのではなかろうかと思っている。それが名文の宿命であり、名文になればなるほど世への広まりを衝動しているのではなかろうかと思っている。名文はそれ自体「無償の愛」に似た伝達性を持っているのではなかろうか。これを逆から云えば、著作権に固執する者の文ほど拙いのも道理であるように思える。 これを仮に「文の生命力」として考えると、生命力のある文は著作権界壁に馴染まないのではなかろうか、ということになる。むしろ、普及すること、学んで貰うこと、咀嚼して貰うことのみ志向しているのではなかろうか。そう思えば、著作権の胡散臭い由来にこそ目を向けるべきではなかろうか。 とはいいながら、地文取り込みのルールとマナーとして節度と必要に応じて許されるとすべきだろう。特に、そうやって取り込んだものを営業的に利用するとなると、もう一つの嗜みをせねばならないようにも思う。しかし、このことは、地文取り込みができないというものではないとも思う。 具体実践的には、新聞によってしか知りえない情報もある。この場合、新聞各社が記事著作権を煩くすると、一々各社に問い合わせせねばなるまい。果たしてそういう必要があるのだろうか。れんだいこは、各社の新聞情報をアンサンブルしてれんだいこ文を作成することを得意としている。今日もそのようにして一文作った。「補足・若狭得治考」所収の「若狭得治逝去考」がそうである。その種の研究家が居れば、ここはあそこの、次はあそこの記事の張り合わせだということに気づくであろう。果たして、新聞各社に連絡承諾受けぬままのれんだいこ文の創出は著作権法違反なのだろうか。 新聞各社の記事著作権論によればそう明記している。特に、読売は、記事という記事に無断転載厳禁を貼り付けている。最近少し減ったようにも思うが、スタイルを黙って変えるのは卑怯であろう。それはともかく、新聞各社が著作権壁を高くすればするほど我々は情報閉塞にあわされるのは間違いなかろう。新聞各社のジャーナル精神とはそれほど見識が低いものであるべきだろうか。 20005.12.28日 れんだいこ拝 |
【思想に於ける共同、協働、共認による他人観点の地文取り込み考】 |
地文への他人文の取り込みは、常識的に批判されて当たり前と思われやすい。れんだいこも一応はその説を認めよう。但しだ、次のことを考慮に入れる度量をも持ちたい。一般に観点が問われる思想ともなると、あまたの観点の中から任意の観点を取り込むことは、取り込まれた側から見てある種の栄誉であって俗に批判されたり盗用呼ばわりされることに当らない面もあるのではなかろうか。 これにつき取り込まれた当人が義憤すれば抗議すれば良い。それから対処が始まるべしとしても差し支えない局面があるのではなかろうか。その理由は、観点とか思想というものはそれ自身が共同、協働、共認を求めていくからである。これに忠実になる限り、「これは俺の説の盗用だ」と怒り心頭に達するのは程度ものだと云うことになりはすまいか。 卑近な例を挙げる。れんだいこは、「あれほど誰彼掴まえてはスパイ呼ばわりしてきた経歴を持つ日共の宮顕ー不破グループこそ生粋のスパイ系列である」という観点を披瀝している。今のところ、れんだいこのこの説は希少である。ひょっとして初見の創見かも知れない。誰かが任意のテーマでこの観点から考察したとして、れんだいこは盗用呼ばわりする気は更々ない。むしろ、同じような見解に達した士がいることに悦びを得る。文章には一々誰の説とか冠する必要はない。観点の共同、協働、共認が生まれたこと自体が、れんだいこの創見に対する評価であろう。れんだいこはそう受け取る。 著作権論にしても然りである。れんだいこは今数々の創見的著作権論をものしつつある。同じような観点からの著作権論が流布されていくことはそれ自体が悦びであり、それ以上の喜びはない。こう考えるのはいかにもれんだいこ的なのだろうか。この辺りは分からない。このことも書き加えておく。 2006.1.12日 れんだいこ拝 |
【他人文の取り込みにイチャモンつけるよりも本当に留意せねばならないもの考】 |
「他人文の取り込みにイチャモンつける」ことに執心する者は多いが、文章作法上最も留意すべきは、他人言説の歪曲的紹介に関してルールとマナー、マニュアルを形成することだろう。「無通知、無承諾引用、転載」されようが、文章そのものが横滑りで紹介されるのなら、本来は問題ではない。問題となるのは、他人文の紹介を恣意的に歪曲して引用する場合である。この悪作法と作用はつとに知られている。 「他人文の紹介を恣意的に歪曲」には、1・原文の書き手の文章が曖昧で多義的であることにより起る場合、2・読み手の読解能力不足で起る場合、3・悪意による歪曲の三ケースが考えられる。1の場合は原文書き手が留意すればほぼ解決される。2の場合は、人民大衆的読解能力の向上に待つ以外にない。問題は3の例である。 3の「悪意による歪曲」は案外多い。歪曲も、1.要旨のすり替え、2・逆結論の二例がある。いずれも、原文書き手の識見を毀損することになり、悪作用大となる。これを防ぐには、読解能力の向上と論理学的論法に習熟する以外にない。この事例は案外と巷に溢れすぎており、癖のある政治党派にあっては常習犯になっている。あらかじめ前提をすり替え、叩きやすいように改竄して論を紹介し、それを叩くという遣り方である。これは、人民大衆的に糾弾していく以外に防げないのではなかろうか。 もう一つ、「他人文の取り込みにイチャモンつける」ことに執心する者は多いが、ハンドルネーム、ペンネームの偽称ないし盗用により、原ハンドルネーム、原ペンネーム者の信用を毀損するケースもまま見られる。れんだいこも「騙りれんだいこ」により迷惑を蒙っている。その内容も悪意のないものから明らかに悪意でもってれんだいこの悪評狙いのものまで幅広く行われている。これを防ぐ手はないが、やはり人民大衆的に能力を高め、真贋見分けることができるようにするのが早道と思う。 れんだいこはなぜこういうことを書きつけるのか。それは、「作法さえ守れば他人文の自由往来可」にすることにより、れんだいこも含む人民大衆的能力向上に資せんが為である。あぁそれを逆に「他人文の自由往来不可」にすることにより悪をはびこらせているのではなかろうか。それを正義の美名で主張するものだから堪ったものではない。サヨの口調は大抵こういうところで化けの皮がはがれるとしたもんだ。 2006.5.4日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)