岩瀬達哉の社保庁との著作権訴訟

 (最新見直し2008.3.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 役所官庁が、とある文筆家の文章を電子掲示板に掲載し職員その他の閲覧に供していたところ、当該文筆家が著作権侵害と訴える訴訟が提訴され、第一審判決が出された。多くの者は、文筆家の著作権主張を是とし、官庁の認識不足を批判している気配である。果たしてそうだろうか。これにつき、この種の著作権問題で泣かされているれんだいこが異論を唱えておく。

 2008.2.29日 れんだいこ拝


【事件の概要】

 ジャーナリストの岩瀬達哉氏の社保庁問題に対する造詣は深く、2004年に「年金大崩壊完全版」(講談社文庫)、「年金の悲劇--老後の安心はなぜ消えたか」(講談社文庫)を出版し、2004年の講談社ノンフィクション賞を受賞している。岩瀬氏はその後、年金ジャーナリストとして注目され、テレビ、新聞、雑誌で活躍し、2007年、総務省所管の年金業務・社会保険庁監視等委員会の委員に任命されるとともに、内閣官房の年金業務・組織再生会議の委員にも任命されている。

 2004年、社保庁は、庁内部局や各地の社会保険事務所などを結ぶLAN(構内情報通信網)に「新聞報道等掲示板」と題した電子掲示板を設け、新聞や雑誌の関連記事をそのまま掲載して職員ら約8000人が閲覧、印刷できるようにしていた。岩瀬氏の年金問題取材記事「まやかしの社保庁改革を撃つ」が週刊現代に4回連載(2007.3.31日号から4.28日号まで)された。2007.3〜6月、社保庁は、岩瀬氏の「まやかしの社保庁改革を撃つ」記事4本を庁内LANに掲載した

 岩瀬氏(52歳)は、これが不服らしく、「社会保険庁の庁内LANに自著の雑誌記事を勝手に掲載され著作権を侵害された」として、国に374万円の損害賠償などを求める訴訟を提訴した。これを仮に「岩瀬氏の著作権訴訟」と命名する。提訴を受けた社保庁は、2007.6月からこの掲示板自体を閉鎖している。

 著作権法には、行政目的に内部資料と認められる場合は著作物のコピーを認める規定がある。庁内LANに掲載することが、この規定に当てはまるかが争点となった。国側は、「著作物は、行政目的のため、内部資料として必要と認められる場合は複製できる」との著作権法42条規定を根拠に著作権侵害を否定し、電子掲示板に掲載できると主張して争った。

 2008.2.26日、「岩瀬氏の著作権訴訟」の第一審判決が東京地裁であった。設楽隆一裁判長は、「著作権法42条の規定は、必要な限度で複製行為を制限的に許容したもの」と指摘し、社保庁が庁内LANに掲載して、庁内部局や社会保険事務所で誰でも閲覧可能にすることは、この規定に当てはまらず、「同条が適用される余地はない」と判断した。社会保険庁の著作権侵害を認め、「記事の掲載を中止しているものの、掲載を再開するおそれがないともいえない」として、国に対して問題の記事を差し止めするよう判決した。同時に約42万円の支払いを命じた。

 判決を受け岩瀬氏は、概要「社保庁のコンプライアンス意識の低さが明らかになった。社会保険庁に限らず、雑誌の記事がホームページやLANなどに無断で掲載されることへの警告にもなる判決だと思います」とコメントした。社会保険庁は、「主張が認められず遺憾。今後のことは、関係機関と協議して決定する」とコメントした。


【事件に対するれんだいこ見解】
 岩瀬氏は、コンプライアンス(法令遵守)意識を云々し、強権著作権論の立場から立ち働いて居る。多くの自称インテリが、「法を執行する行政庁の方が、意外と著作権にルーズなことに驚きを感じます」と追従し支援している。果たしてそうだろうか。れんだいこは、由々しき話であり見逃せないとして反論する。

 この問題においては、れんだいこは、社保庁を良しとする。社保庁にとって、提灯記事ばかりを掲載する通例に反して、同庁に対する批判記事を掲載している事はむしろ見上げた態度であり、評価されるべきである。他の官庁もこれに倣えと云いたいほどである。

 市民運動には、何でもお上批判、政府批判をして正義ぶる習性があるが、このところ正義にならないことを正義ぶる変調さが目に付く。或る時には、官庁見解の方が正しい場合がある。れんだいこは、このことを指摘しておきたい。昨今の道路財源の一般予算化要請も然りで、日共と民主党が声高にしているが反動的対応であろう。道路財源の特定財源制は進歩的なものであり、制度疲労は制度疲労として構造改革されるのが正しい解決である。その為の処方箋は幾らでもあるのに、一般予算化で解決するかの如く主張しているが、それはペテンであろう。

 与野党が対立しているが、この場合も然りで、特定財源制を維持しようとする与党の方が正しい。れんだいこはそう思う。最近この種の攻める方が認識不足な変調批判が目に付いて仕方ない。より悪い方向へ政府批判する野党の存在は無い方がましで、一体、この国はどうなっているのだろうか。みんなで悪い方向へばかり誘っているように見えて仕方ない。

 岩瀬氏らの強権著作権論も然りである。彼らの批判は本当に正しいのだろうか、ここを問わなければならない。一体全体、役所官庁が、岩瀬氏の文章を引用、論文を転載したとして、それを著作権侵害などとして批判すべきことだろうか。れんだいこは断じてそう考えない。普通の感性で、それは誉れであり、自著の説が役所官庁に採り上げられ、その主張が活かされることは光栄であっても冥利に尽きることであって決して逆ではない。

 岩瀬氏らはそ受取らず、何やら気難しいコンプライアンス論を唱え、独りよがりの悦に入っている気がしてならない。問題は、この種の正義派が最近やたら多過ぎることにある。れんだいこは、強権著作権派の説は真っ当でなく、彼らの志操、思想の貧困を感じてならない。ここで持説を再度述べておく。

 岩瀬氏が、仮に或る出版社が、岩瀬氏に黙ってその著書を、題名のままであろうが改名してであろうが出版したとしたら、岩瀬氏が、その出版社に著作権訴訟を打つことは自由であり権利である。それは認めよう。しかし、市民的な一般大衆的読者がその一文を引用、転載するのに、著者ないしは版元に対して要通知要承諾とすべきだろうか。れんだいこは、そう考えない。引用元、出典元、著者名を記し、内容の同一性を保持しているなら、認められるべきと考える。こたびは、それを役所官庁がした場合にどうなるかという問題となっている。当然、無条件で認められるべきであり、著者は誉れとすべきである。

 最近、そう考えない風潮がはびこっている。れんだいこは、狂っていると考えている。どちらが狂っているのか決着つけねばならないと考えている。なぜなら、こういう論調が制度化されると社会全体が息苦しくなってしまうからである。我々は、開放系の社会を目指すべきであり、閉鎖系の社会へ向かうべきでない。ひところ、規制緩和が叫ばれたが、これは新たな規制であり、見過ごす事はできないと考える。規制緩和論者が強権地著作権論を振り回すのは本末転倒、倒錯と考えている。最近こういう倒錯野郎が多い。

 れんだいこの認定するところ、強権著作権論の論拠は要通知要承諾制にある。彼らはコンプライアンス(法令遵守)を頻りに云うが、れんだいこが調べたところそういうコンプライアンス(法令遵守)は無い。彼らが勝手に云っているだけである。何なら、著作権法で逐一確認しようか。れんだいこは受けて立つ。

 強権著作権論者の要通知要承諾制論は、二つの方向で機能している。一つは、情報統制であり、人民大衆の自由な情報交差を制限する事に役立っている。もう一つは、要通知要承諾の代わりに発生する対価請求権である。国家は主として前者を機能させ、民間的権利団体は後者を機能させる。こうして、共々で息苦しい社会へ誘おうとしている。自称知識人がこれを後押ししており、漬ける薬が無い。

 著作権問題の根本はその志操、思想性にある。強権著作権論者の要通知要承諾制論は、一見もっともらしく装っているが、そういう主張を互いが互いにしたら一体世の中はどうなるのだろうかについての考察を回避したまま、次第に小難しい理論へと袋小路化しつつある。連中はこれを正義論でやるので、れんだいこは馬鹿も休み休み云い給えと云い返している。

 言語とは、音楽も然りだが、そもそもコミュニケーション(意思疎通)の道具であり、コミュニケーションされること自体を願っている。これを思想の共同性と云う。従って、極力関所を設けぬのが良い。例えば、諺やら詩吟やら民謡やら唱歌に著作権を適用しないように。それは良い事であって逆ではない。

 それをこのところの自称知識人は、互いに世間を狭くすればするだけ正義だと勘違いしているようで、俺の著作物の無断利用はけしからんと息巻く。さほどでもない文章に垣根を巡らし、誰に断って人様に紹介しているんだと薀蓄をひけらかす。ジャスラックのように歌声の聞こえる溜まり場に出向いてはハウマッチと汚い手を出して恥じない。これって頭狂っている仕業ではないのか。

 れんだいこがいつも云う事だが、強権著作権論者が著作権をさほどに広域全方位的に主張するのなら、いっそのこと新言語、新音符そのものを創造してから云えば良い。言語にせよ、音符にせよ、一体全体、今日の如くに鍛えられるまでに如何ほど多くの頭脳が費やされてきた事か。それらは全部無著作権である。そういうものを使って、ここから先は俺の権利だと云うのなら、極力控え目に主張するのが良い。

 近代なって著作権が認められるようになったが、著作権法の本来の趣旨はいわば業者規制であり、業者及び販社の流通に於ける川上段階での要通知要承諾制であり、それ以降の川下段階での庶民大衆の利用規制までは踏み込んでいない。むしろ、人民大衆的な利用については認められるべきとしている感がある。玉虫色なので見解は分かれようが。

 そう解するべきであるところ、最近になって、というのもここ30年来とみに強まっているに過ぎないが、勝手に著作権法の垣根を取り外し、全域全方位著作権論を主張し、正義ぶったり対価請求に勤しんでいる姿は醜悪であり、精神の貧困をぶざまに晒しているとしか云いようが無い。彼らは得手勝手な知的所有権論を論っているに過ぎない。勝手に文明人取りしているが、れんだいこには野蛮人に思えて仕方ない。

 無論、これは志操、思想性の問題が介在している。初手に於いて、個人主義的権利意識を強めていくのか、共同性に与するのかのレールの敷き方で随分景色が変わってくる。そういう違いがあるので、議論がなかなか難しい。云える事は、人の社会の根本的共同性に思い及ばない知性を弄ぶ者の行き着く先が強権著作権論となり、これをこのまま定向進化させ続けると、地球環境破壊と同じで、やがて文語にとどまらず口語にまで規制が及び始め、空恐ろしい身振り手振り社会へ誘われるに違いないということである。

 「岩瀬氏の著作権訴訟」は、これを水先案内しているに等しい。岩瀬派の追従士はその協賛野郎である。そういう人も居るのが人間社会の常ではあるが、どうぞこの先、彼らは社会の前面に躍り出ず、一隅での偏屈人士として留まって欲しい。れんだいこそう思う。

 しかし、最近この種の手合いが、岩瀬氏のように政府の諮問委員に登用される傾向にある。似た者が寄るのでそうなるのであろうが、ろくなことにはなるまい。

 2008.2.29日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評372 れんだいこ 2008/02/29
 【「岩瀬氏の著作権訴訟」考】

 (れんだいこのショートメッセージ)

 役所官庁が、とある文筆家の文章を電子掲示板に掲載し職員その他の閲覧に供していたところ、当該文筆家が著作権侵害と訴える訴訟が提訴され、第一審判決が出された。多くの者は、文筆家の著作権主張を是とし、官庁の認識不足を批判している気配である。果たしてそうだろうか。これにつき、この種の著作権問題で泣かされているれんだいこが異論を唱えておく。

 2008.2.29日 れんだいこ拝

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 【事件の概要】

 2004年、ジャーナリストの岩瀬達哉氏の年金問題取材記事「まやかしの社保庁改革を撃つ」が週刊現代に4回連載され、同記事はその後「年金大崩壊完全版」(講談社文庫)と題して出版された。著書は、2004年の講談社ノンフィクション賞を受賞した。その後、年金ジャーナリストとして注目され、テレビ、新聞、雑誌で活躍し、2007年、総務省所管の年金業務・社会保険庁監視等委員会の委員に任命されるとともに、内閣官房の年金業務・組織再生会議の委員にも任命された。

 2004年、社保庁は、庁内部局や各地の社会保険事務所などを結ぶLAN(構内情報通信網)に「新聞報道等掲示板」と題した電子掲示板を設け、新聞や雑誌の関連記事をそのまま掲載して職員ら約8000人が閲覧、印刷できるようにしていた。2007.3〜6月、同庁は、岩瀬氏の「まやかしの社保庁改革を撃つ」記事4本を庁内LANに掲載した。

 岩瀬氏(52歳)は、これが不服らしく、「社会保険庁の庁内LANに自著の雑誌記事を勝手に掲載され著作権を侵害された」として、国に374万円の損害賠償などを求める訴訟を提訴した。これを仮に「岩瀬氏の著作権訴訟」と命名する。提訴を受けた社保庁は、2007.6月からこの掲示板自体を閉鎖している。

 著作権法には、行政目的に内部資料と認められる場合は著作物のコピーを認める規定がある。庁内LANに掲載することが、この規定に当てはまるかが争点となった。国側は、「著作物は、行政目的のため、内部資料として必要と認められる場合は複製できる」との著作権法42条規定を根拠に著作権侵害を否定し、電子掲示板に掲載できると主張して争った。

 2008.2.26日、「岩瀬氏の著作権訴訟」の第一審判決が東京地裁であった。設楽隆一裁判長は、「著作権法42条の規定は、必要な限度で複製行為を制限的に許容したもの」と指摘し、社保庁が庁内LANに掲載して、庁内部局や社会保険事務所で誰でも閲覧可能にすることは、この規定に当てはまらず、「同条が適用される余地はない」と判断した。社会保険庁の著作権侵害を認め、「記事の掲載を中止しているものの、掲載を再開するおそれがないともいえない」として、国に対して問題の記事を差し止めするよう判決した。同時に約42万円の支払いを命じた。

 判決を受け岩瀬氏は、概要「社保庁のコンプライアンス意識の低さが明らかになった。社会保険庁に限らず、雑誌の記事がホームページやLANなどに無断で掲載されることへの警告にもなる判決だと思います」とコメントした。社会保険庁は、「主張が認められず遺憾。今後のことは、関係機関と協議して決定する」とコメントした。


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 【事件に対するれんだいこ見解】

 岩瀬氏は、コンプライアンス(法令遵守)意識を云々し、強権著作権論の立場から立ち働いて居る。多くの自称インテリが、「法を執行する行政庁の方が、意外と著作権にルーズなことに驚きを感じます」と追従し支援している。果たしてそうだろうか。れんだいこは、由々しき話であり見逃せないとして反論する。

 この問題においては、れんだいこは、社保庁を良しとする。社保庁にとって、提灯記事ばかりを掲載する通例に反して、同庁に対する批判記事を掲載している事はむしろ見上げた態度であり、評価されるべきである。他の官庁もこれに倣えと云いたいほどである。ついでに、これを契機に、国の機関であろうがなかろうが昔のように有益情報の自由交差社会へと向かえと云いたい。

 市民運動には、何でもお上批判、政府批判をして正義ぶる習性があるが、このところ正義にならないことを正義ぶる変調さが目に付く。或る時には、官庁見解の方が正しい場合がある。れんだいこは、このことを指摘しておきたい。昨今の道路財源の一般予算化要請も然りで、日共と民主党が声高にしているが反動的対応であろう。道路財源の特定財源制は、その昔に田中角栄が叡智を傾けて大蔵省から分捕った英明政策であり、その後の制度疲労は制度疲労として構造改革されるのが正しい解決である。

 その為の処方箋は幾らでもあるのに、一般予算化で万事解決するかの如く主張しているが、それは小泉流ペテンであろう。これを後押ししている民主党が情けない。批判が悉く上滑りしている。連中の識見不足は夥しい。イージス艦事故でもそうだが、衝突直後の人命救助に向かってイージス艦側が為した対応の実態を精査するのが当然のところ、肝腎なこの事に不言及なまま煙巻き批判を続けている。これもまた口裏合わせではなかろうか。

 もとへ。道路財源制を廻って与野党が対立しているが、特定財源制を維持しようとする与党の方が正しい。れんだいこはそう思う。最近この種の攻める方が認識不足な変調批判が目に付いて仕方ない。より悪い方向へ政府批判する野党の存在は無い方がましで、一体、この国はどうなっているのだろうか。みんなで悪い方向へばかり誘っているように見えて仕方ない。

 岩瀬氏らの強権著作権論も然りである。彼らの論旨は本当に正しいのだろうか、ここを問わなければならない。一体全体、役所官庁が、岩瀬氏の文章を引用、論文を転載したとして、それを著作権侵害などとして批判すべきことだろうか。れんだいこは断じてそう考えない。普通の感性で、それは誉れであり、自著の説が役所官庁に採り上げられ、その主張が活かされることは光栄であっても冥利に尽きることであって決して逆ではない。

 岩瀬氏らはそう受取らず、何やら気難しいコンプライアンス論を唱え、独りよがりの悦に入っている気がしてならない。問題は、この種の正義派が最近やたら多過ぎることにある。れんだいこは、強権著作権派の説は真っ当でなく、彼らの志操、思想の貧困を感じてならない。ここで持説を再度述べておく。

 岩瀬氏が、仮に或る出版社が、岩瀬氏に黙ってその著書を、題名のままであろうが改名してであろうが出版したとしたら、岩瀬氏が、その出版社に著作権訴訟を打つことは自由であり権利である。それは認めよう。しかし、市民的な一般大衆的読者がその一文を引用、転載するのに、著者ないしは版元に対して要通知要承諾とすべきだろうか。れんだいこは、そう考えない。引用元、出典元、著者名を記し、内容の同一性を保持しているなら、認められるべきと考える。こたびは、それを役所官庁がした場合にどうなるかという問題となっている。当然、無条件で認められるべきであり、著者は誉れ本懐とすべきである。

 最近、そう考えない風潮がはびこっている。れんだいこは、狂っていると考えている。そろそろどちらが狂っているのか決着つけねばならないと考えている。なぜなら、こういう論調が制度化されると社会全体が息苦しくなってしまうからである。我々は、開放系の社会を目指すべきであり、閉鎖系の社会へ向かうべきでない。ひところ、規制緩和が叫ばれたが、これは新たな規制であり、見過ごす事はできないと考える。規制緩和論者が強権地著作権論を振り回すのは本末転倒、倒錯と考えている。最近こういう倒錯野郎が多い。

 れんだいこの認定するところ、強権著作権論の論拠は要通知要承諾制にある。彼らはコンプライアンス(法令遵守)を頻りに云うが、れんだいこが調べたところ、著作権法にはそういうコンプライアンス(法令遵守)は無い。彼らが勝手に云っているだけである。何なら、著作権法で逐一確認しようか。れんだいこは受けて立つ。

 強権著作権論者の要通知要承諾制論は、二つの方向で機能している。一つは、情報統制であり、人民大衆の自由な情報交差を制限する事に役立っている。もう一つは、要通知要承諾の代わりに発生する対価請求権である。悪辣国家は主として前者を機能させ、商売ベースの民間的権利団体は後者を機能させる。こうして、共々で息苦しい社会へ誘おうとしている。自称知識人がこれを後押ししており、漬ける薬が無い。

 著作権問題の根本はその志操、思想性にある。強権著作権論者の要通知要承諾制論は、一見もっともらしく装っているが、そういう主張を互いが互いにしたら一体世の中はどうなるのだろうかについての考察を回避したまま、次第に小難しい理論へと袋小路化しつつある。連中はこれを正義論でやるので、れんだいこは馬鹿も休み休み云い給えと云い返している。

 言語とは、音楽も然りだが、そもそもコミュニケーション(意思疎通)の道具であり、コミュニケーションされること自体を願っている。これを思想の共同性と云う。従って、極力関所を設けぬのが良い。例えば、諺やら詩吟やら民謡やら唱歌に著作権を適用しないように。それは良い事であって逆ではない。

 それをこのところの自称知識人は、互いに世間を狭くすればするだけ正義だと勘違いしているようで、俺の著作物の無断利用はけしからんと息巻く。さほどでもない文章に垣根を巡らし、誰に断って人様に紹介しているんだと薀蓄をひけらかす。ジャスラックのように歌声の聞こえる溜まり場に出向いてはハウマッチと汚い手を出して恥じない。これって頭狂っている仕業ではないのか。

 れんだいこがいつも云う事だが、強権著作権論者が著作権をさほどに広域全方位的に主張するのなら、いっそのこと新言語、新音符そのものを創造してから云えば良い。言語にせよ、音符にせよ、一体全体、今日の如くに鍛えられるまでに如何ほど多くの頭脳が費やされてきた事か。それらは全部無著作権である。そういうものを使って、ここから先は俺の権利だと云うのなら、極力控え目に主張するのが良い。

 近代なって著作権が認められるようになったが、著作権法の本来の趣旨はいわば業者規制であり、業者及び販社の流通に於ける川上段階での要通知要承諾制であり、それ以降の川下段階での庶民大衆の利用規制までは踏み込んでいない。むしろ、人民大衆的な利用については認められるべきとしている節がある。玉虫色なので見解は分かれようが。

 そう解するべきであるところ、最近になって、というのもここ30年来とみに強まっているに過ぎないが、勝手に著作権法の垣根を取り外し、全域全方位著作権論を主張し、正義ぶったり対価請求に勤しんでいる姿は醜悪であり、精神の貧困をぶざまに晒しているとしか云いようが無い。彼らは知的所有権を云々するが、それはどの対象のものを認めるかであって、利用制限論に堕すものではない。彼らは勝手に文明人取りしているが、れんだいこには野蛮人に思えて仕方ない。

 無論、これには志操、思想性の問題が介在している。初手に於いて、個人主義的権利意識を強めていくのか、共同性に与するのかのレールの敷き方で随分景色が変わってくる。そういう違いがあるので、議論がなかなか難しい。云える事は、人の社会の根本的共同性に思い及ばない知性を弄ぶ者の行き着く先が強権著作権論となり、これをこのまま定向進化させ続けると、地球環境破壊と同じで、やがて文語にとどまらず口語にまで規制が及び始め、空恐ろしい身振り手振り社会へ誘われるに違いないということである。

 「岩瀬氏の著作権訴訟」は、これを水先案内しているに等しい。岩瀬派の追従士はその協賛野郎である。そういう人も居るのが人間社会の常ではあるが、どうぞこの先、彼らが社会の前面に躍り出ず、一隅での偏屈人士としての正義論をぶっているに過ぎないと云う健全な社会に留まって欲しい。れんだいこそう思う。

 しかし、最近この種の手合いが、岩瀬氏のように政府の諮問委員に登用される傾向にある。似た者が寄るのでそうなるのであろうが、ろくなことにはなるまい。回天運動あるのみ。

 2008.2.29日 れんだいこ拝
 第四十二条(裁判手続等における複製) 

 著作物は、裁判手続のために必要と認められる場合及び立法又は行政の目的のために内部資料として必要と認められる場合には、その必要と認められる限度において、複製することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。
 第四十二条の二(情報公開法等による開示のための利用) 

 行政機関の長又は地方公共団体の機関は、情報公開法又は情報公開条例の規定により著作物を公衆に提供し、又は提示することを目的とする場合には、情報公開法第十四条第一項(同項の規定に基づく政令の規定を含む。以下この条において同じ。)に規定する方法又は情報公開条例で定める方法(情報公開法第十四条第一項に規定する方法以外のものを除く。)により開示するために必要と認められる限度において、当該著作物を利用することができる。(平十一法四三・追加)

Re:れんだいこのカンテラ時評373 れんだいこ 2008/03/07
 【「週刊現代の岩瀬訴訟関連記事」考】

 週刊現代(講談社)と云えば週間ポスト(小学館)と並び、週刊新潮、週刊文春と並ぶ四大週刊誌であり、れんだいこはそれらが置いてある喫茶店を気まぐれの行きつけにしている。そういう訳で週に一度詣でるのだが、最近流行の著作権論によれば、あの喫茶店はひょっとして著作権違反しているのかも知れない。ならば、音楽著作権管理団体ジャスラックと同じようにメディア業界は、あらゆる雑誌置き店舗に対して著作権違反だとして対価請求すればよいのに。それもジャスラックに倣えば店舗面積に応じて。そうしないのはなぜだろう。これはからかって云っているのでありマジではない念のため。

 週刊現代2008.3.15日号167Pは、「岩瀬氏の社保庁訴訟」に関する「社会保険庁著作権侵害敗訴はネットの無断掲載への警告」と題して、「本誌記事をLANに転載し、損害賠償命じる判決が」を副題として1ページ記事を組み次のように主張している。

 「(社保庁のラン掲載は)明らかに著作権法に違反する」、「役人の世界でさえ著作権に対する意識はこの程度なのだから、インターネットの世界は事実上、著作権の無法地帯と化している」、「一般の人が、新聞や雑誌の記事全文をネット上に流すのも、当然のことながら著作権法に抵触します」云々。

 多くの者はソウダソウダと相槌を打つらしい。自称インテリを認ずればずるほどしたり顔をするのが相場となっている。それでいて、著作権法読んだことがあるのかと問えば無いと云う。それはそうだろう、著作権法は無思想のまま必要という声に迫られ税法並みの接木接木の迷路法になっている。大抵の者は辟易するしかなかろう。

 もとへ。週間現代編集部が強権著作権論派であること、その編集部は昨年の松岡農相変死事件に対して何とも異例のダンマリを決め込んだこと。この二つを合わせて考え込む。このことに相関関係が有るや無しやと。れんだいこは有るとみなしているが、ここではこれに言及しないことにする。

 ここで、れんだいこが問題にするのは、週刊現代編集部の著作権見識である。彼らは、記事掲載に於ける事前通知、要承諾制を当然視し、これを理解しない役人の見識の低さを嘲笑し、ネットの無法地帯振りを批判している。果たして正論だろうか。

 「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」(ttp://www.pressnet.or.jp/info/kenk19971100.htm)なるものがある。これを読むと、週刊現代編集部の著作権見識が特異なものではなく現代マスコミ界の総意常識となっていることが分かる。しかし、この常識が正論なるかどうか疑う事が必要なのに鵜呑みにする手合いばかりのように見受ける。ここに思想の貧困がある。

 依拠すべきはコンプライアンス(法令遵守)であるとしたら、著作権法こそが基本なるべきであろう。その著作権法に、「日本新聞協会の著作権見解」的解釈を認めるような条文が本当に有るのだろうか。れんだいこは、オーバーラン解釈であり、それこそコンプライアンス違反だとみなしている。新聞協会見解が、丁度ナベツネがマスコミ界に君臨し始めた頃に歩調を合わせて打ち出されたことを訝っている。週刊現代編集部は、この流れに悪乗りして先鋒ぶりを示しているに過ぎない。

 れんだいこは問う。新聞、テレビ、雑誌のマスコミ界がそのように記事著作権を振り回すのなら、まずもって情報収集時の公平さを担保させねばならない。何しろ今では見出しにさえ著作権を主張する時代になっている。ならば1面の良く見えるところにその旨記せばよいのに。しかしこうなると、我々は、著作権を振り回さないメディアを創出し、これを記者会見時に送り込み、我々が自由に使える記事を発信させねばならない。でなければ、記者会見時の一切の情報が強権著作権論者の管理下に置かれて要通知要承諾制のくびきに置かれてしまう。そういう意味で、記者クラブの閉鎖的情報囲い込み体質を改めさせ中小零細通信社にも開放させねばならない。

 マスコミ諸君は建設界の談合を指弾する。しかし、考えてみれば、記者会見時に於ける閉鎖的会員制も同種同根ではないのか。ゆえに、我々が入り込めるよう入札制にせよ。そうしないのは不公正ではないのか。君達は、よその事には批判を逞しゅうするが、手前達の情報独占実態も似たりよったりではないのか。天下りシステムもそうだが手前達はなぜ免責なんだ。足下を恥じよ。

 君達の手前勝手な著作権論は、情報独占と一元管理による閉塞を生むだけのことではないのか。その君達が常習的にお上に対して阿諛追従していることを思えば、君達の説く強権著作権論は情報統制に資しているだけのことではないのか。蛇足すれば、ここで云うお上とは日本政府の事ではない。もう一つ先の現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義を指している。君達は、この巨大資本網に対しては何一つ批判記事を書けない仕掛けの中に置かれているのではないのか。

 こたびの「岩瀬氏の社保庁訴訟」は、社保庁が自身に対する批判記事を社内LAN掲載した事から始まる。その記事を社内の者達だけが読めるのか社外の人たちも読めるのかはどうでも良い。お上が不都合記事を自ら掲載した事に意義がある。よほど偏屈な者で無い限り、社保庁の行為は是認されるべきというか称賛されるべきであろう。それをケシカランと云って著作権棒振りかざしながら訴訟に持ち込み、LAN掲示板を廃止させ、その言い分が判決で認められると全面勝利だと浮かれている者たちはよほどオツムが小難しく小賢しくできているに違いない。

 れんだいこは云う。お役人の不見識をなじる手前達こそ度し難い不見識では無いのか。最近こういう手合いが大過ぎて困る。れんだいこは、この風潮に闘う。彼らがコンプライアンスを云う以上、こちらもコンプライアンスで闘う。著作権法をどう読めば、無断転載禁止、事前要通知要承諾制を記していると云うのか。条文で示して貰いたい。それができない以上コンプライアンスを云うのはナンセンスではないのか。

 れんだいこにはこういう燻りがある。これは音楽著作権法にも同じ事が言える。我々が溜まり場で歌を歌って、何が著作権侵犯なのだ。そういう法理こそうそ臭いと思うべきだ。著作権者にとって歌手にとって我々が歌うのは喜ばしい事であり誉れではないのか。売れない時、自分の歌を街角で聞いた時の喜びについては数多くの証言が有る。これが真っ当なのではないのか。

 それを逆に受け取り、俺に黙って歌のはケシカラン、歌うなら銭を出せなどと云うのはヤクザのショバ代請求よりも質の悪い強欲低劣発想では無いのか。ネクタイ締めた紳士が最近こういうことを云い始めているが正気の沙汰ではない。思想的には、互いに首絞め合って恍惚せんとする狭量マゾヒストに過ぎない。

 週刊現代編集部にとって、自誌の記事が社保庁のLANに掲載されたことは箔がついたのであり良しとすべきではないのか。提灯記事であろうが批判記事であろうが、お上に届く記事を次々とひっとさせれば良い。それをあろうことか、社保庁を相手どって著作権違反訴訟に持ち込み全面勝利に法悦するとは狂っているとしか云いようが無い。最近こういう狂人がやたら多い。

 インターネットで、手前達の記事が広まる事は誉れではあっても、認知が広がり将来の販促機会を広げることではあっても逆ではない。それを逆に了解する現代経営学とは、これを学べば学ぶほど失敗必至であろう。そう云えば、その昔、カネボウがペンタゴン経営などと云って真似たらオカシナ結果になったことを思い出した。好んで閉塞に向かう手合いにはつける薬が無いとはこのことだ。

 「岩瀬達哉の社保庁との著作権訴訟」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/webtyosakukenco/iwasesosyoco.htm)

 「岩瀬氏の著作権訴訟」考の「事件の概要」の項目記述の一部を訂正した。

 2008.3.7日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)