著作権壺考、ますます入り込む日本、抜け出す世界 |
(最新見直し2010.02.04日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「★阿修羅♪ > マスコミ・電通批評10」で、ネットサイト「株式日記と経済展望」の管理人・TORA氏が、2010.5.4日付け投稿「紙の本が電子書籍化することで、有名作家と無名のアマチュア作家との差別化は無くなり、単行本が100円から500円で売られる」で、著作権問題に言及している。これを、 夏水仙氏が、2010.5.8日付け投稿「Re:盗人の論理で著作権を語られてもねぇ。長文注意w」で、TORA氏の著作権論を批判している。興味を覚えたので、れんだいこがコメントしておく。これが「批評の批評の批評」になる。論とは、こうやって接続して行くものだろう。 TORA氏は、佐々木俊尚氏の4.14日付けブログ「電子書籍の開放を阻むべきではない」を転載した後、コメントをつけている。次に同様に角川歴彦氏の「コンテンツ産業が衰退する電子化時代なんておかしい」を転載した後、、コメントをつけている。夏水仙氏が、TORA氏のコメントに逐一当てこすりしている。これをこ解析しておく。 夏水仙氏は、のっけから「変な例」を引き合いに出して煙に巻こうとしている。それによれば、「コンビニで本を万引きされた」として、それは「本を売る店と本を書いた著作権者が『困る』」、「 さらには万引きされた本の中身がコピーされてばら撒かれたら、著作権者に著作権料は入ってこないし、店も本の売り上げは入ってこない」として、「このような人たちの痛みというものを普通の社会人なら理解しているはずだと思うがね」と述べている。 れんだいこが代わりに答えておく。夏水仙氏は基本的に著作権問題を理解していないことを自己暴露している。そもそも「万引き」事例で著作権法を説く姿勢そのものがナンセンスだと云うことが分かっていない。針を棒にして説けば分かり易いと考えているのだろうが、例えと云うものは考察対象と卑近な例で説かなければ意味がない。 著作権問題でコンビニを例に出すなら、「立ち読み」の著作権違反性を問うような話が卑近であろう。「立ち読み」ではなく「万引き」で説くこと自体が臭い。夏水仙氏よ、コンビニでよく見かける「立ち読みの著作権違反性」を説いて聞かせてくれないか。君の頭脳ではケシカランと云うことになるのだろうから、それが如何に著作権違反で厳罰に処せられねばならないものなのか蘊蓄をひけらかせて欲しい。れんだいこは、「立ち読みの著作権違反性」に目クジラするには及ばないと云うスタンスである。これのどこがオカシイのか説教してくれないか。付言しておけば、「立ち読み問題」は著作権論の本質に関わっており意味深である。例を出すなら、こういう例を出して欲しい。 夏水仙氏は次に、「(TORA氏の)『株式日記』も多くの本を紹介しているのですが、著作者はもとより出版社から感謝される事は無く、PHP社の様に著作権の侵害だと削除を要求してくるところもあるくらいだ」コメントに対し、「裁判所の判例に従って、出版社側は著作権の侵害だと言っているだけの話なんだがね」と批判している。 夏水仙氏は何気なく述べているが、ここに夏水仙式著作権論の癖があることに気づいていない。「裁判所の判例」を金科玉条にしているようだが、著作権論の絶対基準はあくまで著作権法に求めるべきであろう。夏水仙氏は、引用転載基準を著作権法に求めるのではなく裁判所に求めている。それは、裁判所が最も正しく著作権法を理解している場合に限られる。実際は、裁判所はマスコミ同様にかなり政治主義的に立ち回る癖があるところであり、判例そのものが常に厳しくチェックされねばならないところ、夏水仙氏はそういう風には露ほども考えていないことが分かる。あたかも真理の審判官的位置づけで遇していることが分かる。 夏水仙氏に云っておこう。裁判所は本来、法に基づいて審査する機関であるべきであり、法に基づかず政治主義的な判例を積み重ねている今日的状態は告発されねばならぬ。憲法9条問題のように高度に政治的な場合にのみ判断忌避が許されるが、著作権問題では許されない。れんだいこの見るところ、裁判所は、著作権法に依拠せぬ判例を積み重ね続けている。夏水仙氏には、それを是認するしか能のない「お上の云うことはその通り」式の権威主義被れのお粗末さが透けて見えてくる。 同じ例として、「引用した文章の量と、それに対する批評等のレスの文章とが五分五分であれば、著作者に対する引用転載の許可は必要ないというのが裁判所の判例。これは実際の活字であろうが、ネット上の文章であろうが同様。ネットだけ特別扱いということはない」コメントがある。「五分五分基準」で引用転載可論を唱えているだけ、ゴリゴリの強権著作権論者のそれよりましだが、「裁判所の判例」を基準にしているところが、裁判所被れであることを自己暴露している。 れんだいこがコメントしておけば、裁判所判例の分量規制論は本来、盗用問題との絡みで云われているものであり、この仕切りを外して引用転載全般規制論まで高めるのは問題がある。目下の裁判所は、この辺りの考察をネグレクトしているのであって、本来は糺さねばならぬところだ。この違いがお分かりいただけるだろうか。著作権論はまだまだ未踏の分野であるというこを指摘したいのだが、恐らくお分かりいただけないだろうな。 夏水仙氏の次のコメントも問題だ。「ところがお前の『引用』あるいは『転載』というのは、裁判所の判例に従ったルールに則っていない。ただだらだらと全文無断引用転載した挙句、どの部分に対する批評なのかも分からない『私のコメント』とやらを最後に金魚の糞のようにくっつけているだけ。それ故に出版社から著作権侵害と言われるんだが。もしPHPに対して、自分は著作権侵害していないと裁判起こしても、ほぼ100%おまいが負けるのは明白」。 このコメントは、夏水仙氏が、引用転載問題につき「分量規制を引用転載全般規制にまで高める論」即ち「分量規制全般適用論」に依拠して、TORA氏の引用転載作法を批判していることを証左している。これに、れんだいこがコメントしておく。夏水仙氏よ、繰り返しになるが、著作権法では承知のように「分量規制全般適用論」を示す条文はない。そこで判例に拠ることになるのだが、こういう場合には控えめに取り扱うのが筋と云うものだろう。何せ条文にないことなのだから。こういう場合には、「分量規制全般適用論」を積み重ねる裁判所の判例そのものの是非が問われねばならないのだよ。 TORA氏の引用転載の作法について云えば、れんだいこは調法にしている。れんだいこの知らない啓発をしてくれており役だっている。夏水仙氏の批判とは逆に、コメントが少なく、原文をつまみ食いではなく全文開示していることを好感している。下手なコメントより有り難い。貴重情報紹介の労に感謝している。夏水仙氏よ、君が批判している作法を是認しているのだよ。こういう受け取りようもあるのだよ。 れんだいこは、TORA氏の引用転載の作法を「よりマシ」と思っている。何に較べて「よりマシ」なのかと云うと、下手な読解あるいは「つまみ食い」による歪曲型引用転載に較べてという意味だ。世の中には引用転載の悪用例が満ち満ちている。中には原文結論を逆にしているような事例さえある。それを思えば、原文の全文転載はむしろ害がないのだ。こういう考え方も成り立つと云うことを知ってほしい。 以下逐一言及しても良いが、夏水仙氏の著作権論がかなりガラパゴス化していることが分かるだけである。次のように述べている。「批評のための『引用』『転載』というのは私が今レスしているように、該当部分のみを抜き出して書くことが最低条件。該当雑誌の名前やリンクを張っただけでは成立しない」。夏水仙式著作権論がかなり危険水域に入っていることが分かる。れんだいこ見解によれば、「該当部分のみを抜き出して書くことが最低条件」などとしたら、文意が正しく伝わらない恐れの方が強い。そういう悪用例は五万と満ち溢れている。「該当部分のみを抜き出して書くが最低条件」を良しとする作法の方が臭い。それはかなり高度な技であり、「最低条件」どころか「最高条件」になる。ここが分からないオツムがいただけない。 「例えば現在発売中の漫画の内容をコピーして、自分のホームページに掲載しても、著作権侵害には当たらないと思っているのか?漫画をコピーしてネットでばら撒いたやつが以前タイーホされたよな?」とも述べているが、盗用問題との絡みに於いてのみそういう言は成り立つ。しかし、批評、議論界にそういう規制を設けるのは、本来の著作権法の趣意ではない。このことが分からないのだろうな。この石頭には。 こうも云う。「他人の文章をだらだらと無断転載しておいて、最後に金魚の糞のように『私のコメント』とやらを書く内容はとてもとても『言論』とは言えないw 『言論』というからには、最低でも自分のオリジナルの文章が存在して初めて言えることであって、自分のオリジナルではなく他人の文章を『盗んで』構成された文章は『言論』活動以前の話。よっておまいに関しては言論活動の妨害には当たらない。なぜならばオリジナルが存在しないから」。夏水仙氏が、かなり石頭であることが分かる。 繰り返しになるが、「TORA氏的引用転載の仕方」は有り得て良い。僅かな引用転載で下手な解釈聞かされるより、原文の芳醇な味わいをさせていただける方が良いと云う場合の方が多い。そういう意味では、分量規制はあんまり意味のない規制なんだよ。言論界に於いては。且つ、引用転載されることを名誉と思わず「盗った論」で規制しようとする方に問題がある場合の方が多い。或る詩人が、大学入試センター試験問題で自作の詩が無断で使われたとして損害賠償請求で訴訟に及んだ例があるが、これが詩人だと思うと情けないことこの上ない。「世の為人の為」と云う発想のない詩人であることを自己暴露しているが、こういう詩人てホンマかいなぁと思う。 「 2chでおなじみの三橋貴明さんは自分のオリジナルの文章を書いていたからこそ出版社から認められて本を書き、さらにはチャンネル桜から声が掛かってネット討論に参加をし、さらには自民党の参議院選挙に出馬するまでに至った。これもすべてはオリジナルの文章を書いていたからこそ。ネット黎明期から書いているとされるおまいにはどうして出版社から声が掛からないのか、自分で考えたことはないのか?」とも云う。 これもどうかな。「オリジナルの文章」をやけに引き立てているが、音楽も文学評論も思想も何もかも「オリジナルの文章」なんてものは滅多にないのだよ。みな先人の労作から学び加工している。どこまでが真似でどこからがオリジナルか仕切りは曖昧だ。著者独自の着想はとても大事であるが、それに拘り過ぎるのもどうかな。いろんな情報の中から何を選択し、どう論を構成するのか、これ自体が個性的である。「オリジナルの文章」に特に拘る必要はなかろう。 もう一つ、重要な対立点がある。「TORA氏的引用転載の仕方」を「盗用」だと看做す説がある。他方、れんだいこも同調するように「誉れ」であり「無料広告宣伝隊」であるとする説もある。後者の方が少ないが、今後はますます同調者を得るだろう。なぜなら、世の中の実際の仕組みがそうなっているのだから。盗用説は机上の空論に過ぎないから。 結論として云えば要するに、強権著作論、夏水仙氏的著作権論発想で今、日本はどんどん著作権タコ壺に入りつつあるが、この道は広いようで先は細い。これに対し、世界は広い。既に著作権タコ壺から抜け出そうとしている。こう俯瞰する必要があると云うことである。れんだいこには、強権著作論、夏水仙氏的著作権論は、トラック競技で一周も二周も遅れているように思える。たまたま競りあっているように見えても実際には周遅れのランナーでしかない。だからお返ししておく。「しかしなんでこんな単純なことを理解しようとしないんだろうか?」。これは、夏水仙氏の結びの言葉であるが、そっくりそのままお返ししておく。 れんだいこが著作権論に拘るのは、極めて政治色の強い案件だからである。著作者の権利を守ろう的美名の下で何が進行しているのか、それを疑惑せねばならないと考えているからである。拝金主義と情報統制、規制強化、この三種の狂器が大手を振ると社会が逼塞化する、それは例の人種の弄ぶ政治術の可能性が強い、強権式著作権論は尖兵的役割を果たしている、と云うことを指摘して覚醒を促したい為である。 2010.5.10日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)