引用転載に絡むれんだいこの事件史考その3、「晒し刑」考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).4.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「引用転載に絡むれんだいこの事件史考」と題して「晒し刑事件」を取り上げるのは、正邪を糾す為ではない。元々れんだいこの引用、転載行為に対するクレームであり、通説的理解ではれんだいこに非がある。そういう意味では、れんだいこの恥を晒すだけである。その恥晒しを敢えて引き受けるのは、これらの遣り取りを通じて著作権法の正確な理解を得たいが為である。

 れんだいこの理解の方が変調なのかも知れない。そういう不安もあるが、著作権法を読む限り、れんだいこ理解の方が正確なのではないのか。現代著作権法を推進する著作権万能適用論者のそれは、あたかも日本国憲法9条の規定をなし崩し的に改憲解釈し、野放図に展開している軍備、派兵の様と似ていないか。そういう意味で、ここら辺りでもう一度原点に戻る必要があるのではないのか。著作権万能適用論者の多くは日本国憲法9条の拡大解釈に反対姿勢を示しているが、滑稽なことにこと著作権法理解に於いては同様の拡大解釈で如意棒をふるっているのではないのか、それはオカシな現象ではないのかという関心と通底している。そういう意味で、当事者の実際例を通じてこれを叩き台にして著作権法理解にアプローチしてみたい。本サイトの意義はここにある。

 2004.8.23日、2006.3.20日再編集 れんだいこ拝
 2012.8.17日、本稿で取り上げたサイトの殆どが閉鎖されている。こういうことになるからリンクだけではいけない、きちっと転載して証拠にしておかねばならない、ということが云えるのではないかと改めて思う。リンク派の面々は、転載させないようにしておいて好き放題に述べ、いつの間にか姿を消す。そりゃぁあんまり虫が良過ぎるのではないかな。

 2012.8.17日 れんだいこ拝


【「晒し刑事件」考】
 2004.7.23日、グーグル検索していると、れんだいこの論考文における無断引用、転載箇所を廻って、坂東千年王国氏(HON)より「びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第」で新たに叱責されていることが分かった。そこで、本サイトを設け、総合的に考究してみることにする。

 これは、れんだいこの「明治維新の研究」の「明治維新の史的過程考(2―1)(伊藤体制から憲法発布まで)」サイトで、北村透谷の自由民権運動家としての側面につき貴重な論及をしていた「幻境の碑」を引用元不明示、リンク掛けなしのまま全文転載していたところ、「びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第」で叱責されたものである。

 本件は、それまでの諸事件と趣が異なり、「引用元不記載、リンク掛けなしのままの全文転載」であったところに特徴が認められる。れんだいこの重度過失であるが、これが「泥棒呼ばわり」されたところにこの事件の特質がある。

【ステップ1】
 「坂東千年王国掲示板過去ログ-9」の 「びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第」に次のように書かれている。
203びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第 HON- 2004/07/11 17:47
インターネットの普及で何か調べるのにホームページを検索するのは常識に なってますが、その反面、著作権等も厳しくいわれています。

それにも関わらず、びっくり ぎょうてん ! するような事もあります。検索していたら、あるサイトに自分の書いたものと似た文章が出てきた。 どこまで読んでも同じだ。最期の行までソックリさん !

【北村透谷の苦悩】 というページで、冒頭をコピペするとこうなる。

北村透谷(本名門太郎)は明治元年十一月十六日、小田原藩士族の家に生まれた。明治十四年一家の転居により有楽町の泰明小学校へ転校する。この学校は現在もあり、玄関前に多大な影響を与えた四歳下の島崎藤村の名と並べて「幼き日ここに学ぶ」と刻んだ碑がある。透谷の名も学校の隣にあった数寄屋橋の「すきや」をもじって号した。

□ 最初のロマン主義詩人・評論家として知られる北村透谷は、多摩に足を踏み入れることによって生まれたといえる。明治十六年神奈川県会の臨時書記となったころ、神奈川自由党の組織者石坂昌孝の子公歴や八王子の教員大矢正夫と親交を結び、自由民権運動に参加していった。

わたしの「多摩川流域」の「幻境の碑」のページはこうなっています。

 北村透谷(本名門太郎)は明治元年十一月十六日、小田原藩士族の家に生まれた。明治十四年一家の転居により有楽町の泰明小学校へ転校する。この学校は現在もあり、玄関前に多大な影響を与えた四歳下の島崎藤村の名と並べて「幼き日ここに学ぶ」と刻んだ碑がある。透谷の名も学校の隣にあった数寄屋橋の「すきや」をもじって号した。

 最初のロマン主義詩人・評論家として知られる北村透谷は、多摩に足を踏み入れることによって生まれたといえる。明治十六年神奈川県会の臨時書記となったころ、神奈川自由党の組織者石坂昌孝の子公歴や八王子の教員大矢正夫と親交を結び、自由民権運動に参加していった。

明らかに「パクリ」である。その証拠は文章が同じであるばかりでなく、ニ段落目の「□ 最初のロマン主義詩人」の頭に「□」が入っている。コピペするとこれが尽くように埋めてあることまで気づくめー、というところです。

何処のどいつかトップページを開いてみると

  『左往来人生学院』編集部・主宰れんだいこ同人
  (E-mail: rendaico@marino.ne.jp)http://www.marino.ne.jp/~rendaico

とあって、ご丁寧に

 リンク、引用むしろ歓迎フリーサイト。 同志求む。れんだいこ地文につき転載歓迎むしろ頼むのこころ。

 「引用むしろ歓迎フリーサイト」をうたうの手前の勝手だが、引用どころか全文パクッた上に転載元の承諾もアドレスも入れないとは、あきれ果てた。よって、ここに晒し刑に処する次第。
(私論.私見) 「坂東千年王国氏の叱責」について
 れんだいこは、これに対し「リンク不掛け失念」を詫びた。その概要は、「れんだいこの無断引用、転載、出典元不記載、リンク不掛けに伴う叱責考」に記した。

【ステップ2】
 その後もインターネット検索していると、「びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第」に続いて、「坂東千年王国掲示板過去ログ-10」で、穂国幻史考管理人より「盗人にも○分の魂?」と題して次のように嘲笑されていることが判明した。ここに至って、著作権法の理解を廻ってれんだいこ見解を再披瀝する必要を感じ、これを転載掲載しておく。
204盗人にも○分の魂? 穂国幻史考管理人- 2004/07/13 20:06
もないですね。
 自分で生産したもの(創作した著作物)、あるいは、仕入れたもの(著作権の譲渡を受けたもの)を店に並べてご自由にお持ちくださいならともかく、 これでは、盗んだ品物を店に並べて、ご自由にお持ちください出すね。

 れんだいこ氏、見たところ、いろんなルートから盗んできているように思えます。著作権をはじめとする無体財産権は、その名の通り、形がないだけに占有ができないことから、盗んだものをご自由にお持ちくださいは、困りますね。

 れんだいこ氏の場合、「故意」が認められますから著作権法119条に基づき告訴をすれば、懲役三年以下または百万円以下の罰金に処せられます。

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/
 なお、上記の投稿を受けて、坂東千年王国氏(HON)が、次のようなレスを付けている。
205Re;盗人にも○分の魂? HON- 2004/07/14 10:55
クソ熱い梅雨のない梅雨明けだというのに、車載クーラーが壊れた ! ガスが全部漏れて、分解しないと何処が故障か不明とはデーラーの弁。とっくに走行十万キロ突破のポンコツ軽でも、エンジンは快調だからしょうがないとしても、設備から傷むのはビルとおんなじだ。新築はボチボチ、やたらリニュアール工事の多い都内を走り廻るにはポンコツが似合いか。ま、リコール隠しに会わないだけでもマシだ。

ポンコツ車の盗人はいないけど、チャリンコの新車を盗むヤツもいる。二年前の盗人にコリて、軽にも載る折りたたみのチャリンコを手に入れた。これで銀座通りやお台場をスイスイ走るのはカイテキだぞ。でも、六段ギヤー付きだがワッパが小さいから、ママチャリに追い抜かれるのだ。

盗人市は昔噺かと思っていたら、百鬼夜行のサイトにはやはり盗人市もありますね。

「厚顔無恥」を『広辞苑』で引いてみた。
 こう‐がん【厚顔】
 面(ツラ)の皮のあついこと。あつかましいこと。鉄面皮。「厚顔無恥」
 む‐ち【無恥】
 恥を恥とも思わないこと。恥しらず。「厚顔無恥」

今度、多摩川流域に「盗人」のページを用意しよかな。また厚顔無恥な盗人に「盗人」も盗まれたりして。
(私論.私見) 「坂東千年王国氏と穂国幻史考管理人両名による嘲笑」について
 こうなるとさすがにれんだいこは猛然と抗議せざるを得ない。次のように返歌してみたい。

 穂国幻史考管理人はご丁寧にも「著作権法について」なるサイトを設け、著作権法について考察している。これを読んでみて、れんだいこ理解による著作権法と穂国幻史考管理人のそれがあまりにもかけ離れていることに気づいた。以下、穂国幻史考管理人の著作権法理解に対する疑義を述べてみることにする。

 れんだいこは、これを「著作権法での主要な論争点」で反論を試みている。ここでは、両名による「盗人呼ばわり」について考察する。

 始めに云っておきたいことは、一体、ご両名のサイトはどこから知識を取り寄せたのであろうか。この原点から問いかけてみたい。一般に、知識は、先人の労作から学ぶ以外にない。近時の著作権法の拡大解釈に則り、「哲学、思想、宗教、政治、歴史」を論述するとすれば、かなりややこしい技が要求されることになる。著作権法適用以前の時代の対象を考察する場合には幸いであるが、著作権法適用以降の時代のそれらを考究するとなると厄介なことこの上なかろう。この場合、両名の関心が専ら著作権以前の時代の研究だから当方には関係ないというのでは勝手が過ぎよう。

 仮に歴史関係に対象を絞って見る。史上の知識から自己流の創意表現に書き上げ直すことはできる。しかし、それも非著作権時代の知識の恩恵あってこそであろう。自らはそういう恩恵に預かりながら、自己の著作物に対しては著作権壁を廻らし関所を設ける。この作法こそ「盗人の論理」ではなかろうか。例えて云えばこうだ。親の世話で成長した子供が成人になって、俺は誰の世話にもなっていない、俺は自分で生きて大きくなってきた、恩返し精神など持ち合わせていない、親の面倒見るに及ばず、我が人生のパフォーマンスこそ最大目的と云っているに等しい。しかし、誰しも寿命があるのに、明日は白骨のみぞ残れる哀れな存在であるかも知れぬというのに滑稽なことだ。それはともかく、

 仮に、イエス・キリスト、カール・マルクス、大塩平八論の例を取り上げる。これら三者の思想、行動、それら営為を見れば、人民大衆への限りない啓蒙、凡そ自身の利害得失からかけ離れたところの人民的財産として資するよう願って歴史にその生を刻印していることが分かる。その研究者も又彼らの意思に応え、その法理を灯し続けてきた。それが最近になってどういう訳か著作権全方位適用論者によりあちこちに関所が設けられ始めている。

 ならば問おう。著作権全方位適用論者の権利は何処より発生しているのか。史上の当人が望まずのものを否むしろ最も否定してきたその種のものを勝手に権利化する精神は何によってか。それは当人に申し訳ない越権行為ではないのか。だいたい貴公らの論理ではどうやって承諾を取るのか。この件では実際に、聖書のサイト化を廻って論争されている。

 著作権法を得手勝手に解釈し、「書き物全体が即著作権発生」なる自己都合主義的便宜的に読み替え、学的発展、普及に資する見地を喪失している者こそ文明に対する盗人そのものではないのか。よって、盗人が「盗人呼ばわり」している愚を見せているのは貴公らの方ではないのか。

 こたびのれんだいこの所為に対してはリンク不掛けをなじるべきであるところ、「盗人呼ばわり」して共鳴する両名の痴態こそ恥じよ。れんだいこはその当初、リンク不掛けについては詫びを入れた。しかし、「厚顔無恥」、「盗人呼ばわり」の合唱にまで至っているとなると、原点における吟味から説き起こし反論したくなるのも道理であろう。お望みなら、穂国幻史考管理人の「著作権法について」の珍妙解釈につき逐条反論を為してみたい。どちらが恥を晒すか競ってみようか。

 2004.8.23日 れんだいこ拝

【ステップ3】
 2008.9.25日確認したところ、穂国幻史考管理人の「著作権法について」が削除されている。代わりに「現代社会と知的財産権法」と題して次のような文言がサイトアップされている。
 「現代社会と知的財産権法」、私自身の「知財法」の整理としてblogで書いた記事をベースに書き下ろしたものでしたが、改めて「知財法」の整理をし、理解が深まると、特に「著作権法」については条文に即していない表現が散見していることに気付きました。このままUPしておくのは、「自己の確信に適合しなく」(著八四条三項)なったことから削除しました。

 現在「逐条解説」として「現代社会と知的財産権法」を書き直していますが、上梓しても国立国会図書館に納本するのみでインターネット上で公開するつもりはありません。納本した後は、この頁で「全国書誌番号」を通知します。今まで利用されていた方にはお手数と思いますが、国立国会図書館経由でご利用願います(ただし住所など連絡があれば「逐条解説」実費負担なら郵送します)。また弊サイトの他のコンテンツについても随時削除していく予定です。この削除は、上記理由とは異なるものです。

 数年間インターネットという世界に接してきましたが、年々商業的傾向が強まり、学術的な情報はインターネットで発信しても、その呼びかけに対するレスポンスは少ないとわかったからです。「逐条解説」をインターネット上で公開しないのもこれが理由です。今後弊サイトでは「書籍の購入方法」など商業的な情報のみを発信したいと思っております」。

(私論.私見) 穂国幻史考管理人の二枚舌について
 穂国幻史考管理人の「著作権法について」削除理由が、冒頭の「改めて『知財法』の整理をし、理解が深まると、特に『著作権法』については条文に即していない表現が散見していることに気付きました」のか、末尾の「学術的な情報はインターネットで発信しても、その呼びかけに対するレスポンスは少ないとわかったからです。『逐条解説』をインターネット上で公開しないのもこれが理由です」なのか分からない。つまり二枚舌になっている。

 それにしても煮え切らない御仁である。「れんだいこ氏の場合、『故意』が認められますから著作権法119条に基づき告訴をすれば、懲役三年以下または百万円以下の罰金に処せられます」とまで煽っている以上、ダンマリを決め込むのは許されまい。「著作権法について」削除理由が、従前の解釈が間違っていたことによるのか、レスポンスが少ないからなのかはっきりさせるのが自負するところのインテリの嗜みだろう。不都合にダンマリするインテリつうのはインテリを自負する以上はいただけまい。

 2008.9.25日 れんだいこ拝
 2012.8.17日確認したところ、穂国幻史考管理人の該当箇所は次のように表記替えされている。
 「著作権法逐条解説」は、電子出版物として国立国会図書館に納本してあります。日本全国書誌番号=JP: 21456310 参考 CD-ROM収録PDF版(A5判559P)、実費でお分けします。シューキーパーの頁の末尾にメールアドレスが記載してあります。
(私論.私見) 穂国幻史考管理人の二枚舌について
 「著作権法逐条解説」が電子出版物として国立国会図書館に納本されるのは結構なことだが、かってサイトアップしておいたものを取り下げる必要はどこにあるのだろうか。れんだいこは、「お望みなら、穂国幻史考管理人の「著作権法について」の珍妙解釈につき逐条反論を為してみたい。どちらが恥を晒すか競ってみようか」とタンカを切った以上、宙を泳いでいることになる。構やしないが再び繰り返す、どこまでも煮え切らない御仁ではある。穂国幻史考管理人よ、坂東千年王国氏の助っ人役にしては尻すぼみが過ぎようぞ。

 2012.8.17日 れんだいこ拝

【ステップ4】
 2007.9.26日、れんだいこの主宰する掲示板「左往来人生学院2」に次のような投稿があった。
235  坂東千年王国氏 平家蟹 2007/09/26 17:36
 れんだいこ様、突然の割り込み、失礼します。
 坂東千年王国で検索していたら、この掲示板を探し当てることが出来ました。坂東千年王国の「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」を興味深く読んでいましたが、同時に、花田清輝氏の「小説平家」の中の、海野小太郎幸長について書かれたことと、「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」が内容的に酷似しているという印象を受けました。れんだいこ様も暇があれば読んでみてはいかがでしょうか。しかも、坂東千年王国氏が挙げた参考文献の中に、「小説平家」は含まれていないのです。
(私論.私見) 坂東千年王国氏の盗用について
 平家蟹氏のこの指摘が正しいとすると、何と坂東千年王国氏は、れんだいこのリンク掛け失念による全部転載を泥棒呼ばわりした挙句、「あきれ果てた。よって、ここに晒し刑に処する次第」とまでのたまう当人が、花田清輝氏の「小説平家」の中の海野小太郎幸長記述の件を、平然と地文取り込みしていたことになる。リンクどころの騒ぎではない。オイオイそんなのありかよと云いたくなるのはれんだいこだけだろうか。こうなると穂国幻史考管理人と云い坂東千年王国氏と云いケッタイな面の皮ではある。似た者が寄る倣いだろうか。

 2008.9.25日 れんだいこ拝

【ステップ5】
 れんだいこは早速、坂東千年王国氏のサイトの該当箇所「一向一揆戦線」の「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」を確認してみた。小文なので転載しておく。
 1
 
海野小太郎は平安朝末から鎌倉時代の人で、海野家は嫡流が小太郎を世襲した。

 その名を初めは海野小太郎幸長といった。海野一族は信濃国の大豪族であった。一族が確実に信濃国へ根を下ろすのは、天暦年間(947-57)左馬権助滋野幸俊が望月の牧監として下向、その子の信濃介幸経が海野庄の下司となってからである。

 そして、幸経の嫡男小太郎幸明が海野家、次男小次郎直家が根津家、三男重俊が望月家と、それぞれ興した。海野幸明四世の幸親のころには、海野一族は信濃屈指の豪族であり、幸親の嫡男小太郎幸長は海野白取庄角間郷に生まれた。

 吉田兼好が『徒然草』の第弐百廿六段に、信濃前司行長「平家物語を作りて、生佛と言ひける盲目に教へて語らせけり」とさらりと書いた「行長」こそ、海野小太郎幸長である。一族の祖、滋野幸俊以来、嫡流は「幸」が代々通字であった。

 小太郎幸長が青雲の志を立てて都へ登り、五位以上の者の子弟なら志願して許可される大学寮へ入ったのは、何歳のときか判らない。いづれにしても文章博士として藤原一門の勧学院教授になり、その名も進士蔵人通広と称した。 自著『仏法伝来次第』跋の略歴によると、その後、勧学院を辞職して叡山黒谷で出家して最乗房信救と号し、北国へ修行の後、南都に移ったという。南都興福寺で得業の僧位をとってからは、得業信救と称した。

 時代は平氏の絶頂期、正に以仁王挙兵の時であった。以仁王を迎えた三井寺から興福寺へ援軍の依頼がくると、その返事には「そもそも清盛入道は、平氏の糟糠(酒粕と米糠)、武家の塵芥(ちりとあく)なり」と扱き下ろした上、同心と援軍派兵を約した。

 この返事を書いたのが元文章博士の得業信救で、噂を聞き付けた清盛入道は、暗殺者を放って信救を付け狙ったというのは『源平盛衰記』の話である。強烈な風刺で清盛の怒りを買った信救のとった手段は、事も有ろうか、自ら漆を身に浴びて顔を癩病人にごとく変形させ、ふらふらと東国へ落ちのびたという。

 
 
得業信救は漆を浴びて癩病人にごとく膨張した顔を持て余しながら、一年がかりの海道下りの末、三河の国府で新宮十郎蔵人行家と出会った。

 行家は以仁王の平家追討令旨を諸国の源氏へ回状した後、自らも都へ攻め上ったが、墨俣川の戦いで平氏に打ち落とされ、三河国へ落ち延びてきたところだった。沢蟹をすりづぶして信救の身体に塗り、以前の健康に戻ると、二人は語らって信濃国に挙兵した木曽義仲を頼った。

 そのころ義仲と頼朝は源氏の棟梁をめぐって、一触即発の危機にあった。とりわけ、頼朝と仲違いした行家が義仲の元へ転がり込んだことが、頼朝の癇に障ったらしい。頼朝軍は信濃善光寺まで十万余騎の大軍をもって乗り込んだが、義仲は上田の城を出て、越後境まで退いて相手にしない。

 そればかりか、義仲は頼朝に対して異心はないと使者を送り、その証しとして十一歳の嫡子、清水冠者義高を人質に差し出したことだった。そのとき義高に付き従った者に、海野・望月・諏訪などの兵がいた。

 木曽義仲が信濃国に蜂起したとき、真っ先に応じた一人が海野行親(幸親)であったいうのは『平家物語』である。海野幸親とは小太郎幸長すなわち得業信救の父親であった。頼朝の人質として鎌倉へ行った清水冠者義高に従った海野の兵とは、幸長の嫡男小太郎幸氏であったから、海野一族がこぞって義仲軍に投じたことになる。

 僧得業信救は義仲軍にあって大夫房覚明と改名、祐筆として仕えた。そのいでたち「濃紺の直垂に黒革威の鎧着て、漆黒の太刀をはき、くろぼろの矢負ひ、塗籠藤の弓脇にはさみ」小硯と懐紙取り出し、義仲の御前にて願書をものする「あっぱれ文武ニ道の達者かな」と自画自賛する『平家物語』である。

 実際、覚明は陣中にあって有名な「木曽殿願書」を書いた。義仲が信州で挙兵後、越後から越中へ出て、加賀へ攻め込む倶利伽羅峠の戦いのとき、勝ったら所領を寄進するからと、白山へ願書を出した。

 しかし、義仲は都へ上って頼朝よりも先に征夷大将軍に成ったものの、義経軍に攻めたてられ、薄氷の張った泥田の中で、額を射抜かれて斃れてしまった。そのとき祐筆大夫房覚明も戦死したと思いきや、諸国を流浪の果て、密かに坂東へ潜入、名も信救に戻し、ちゃっかり箱根権現社におさまっていたことだった。

 
 
箱根権現社の成り立ちは複雑である。その『箱根山縁起』を別当行実が述作、僧得業信救が誌した。縁起の末尾には二人の名と建久二年七月の日付がある。

 縁起は非常に荒唐無稽な仙人の話だから、その全体まで信用されない向きもあるが、仙人が出てくること自体、仏教以前の姿を映していると見なすことができる。

 箱根連山の主峰といえば駒ケ岳で、ここに聖占仙人が駒形神仙宮をつくったのが最初という。次いで、神功三韓征伐の後、武内宿禰が異朝の大神を勧請して天下泰平ならんことを祈願すべしと奉上して、百済明神を日向国へ、新羅明神を近江国へ、高麗大神和光を相模国大磯の高麗山に奉斎した。そして高麗山と箱根山は異名同跡であるという。

 高麗(こま)と駒形に掛けていることは明白だが、要は箱根権現社は大磯の高麗神社から勧請された同神であるという。さらに、近江国の新羅明神とは三井寺 (園城寺)の旧新羅善神堂こと新羅神社に他ならず、この縁起を作った別当行実と僧得業信救は、箱根を舞台に鎌倉殿頼朝と隠微な抗争を展開した結果なのか、その前哨戦なのか、と見ると興味深いものになる。

 因みに、頼朝の流人時代から従っていた加藤次景廉の兄弟ともいわれる伊豆の走湯権現社、現在の伊豆山神社の文陽房覚淵に頼朝は師事し、伊東祐親の娘に手をつけて追われた時、北条政子が山木兼隆との婚礼を放棄した時など、いづれもここへ逃げ込んだ。

 そんな関係から鶴岡八幡宮の当初の別当は、走湯権現社の専光房が務め、後に頼朝の曾祖父義家の外孫にあたる円暁を近江国の園城寺(三井寺)から呼ばれ、以後代々同寺から鶴岡の別当になった。園城寺新羅善神堂前で元服したのが義家の同母弟新羅三郎という因縁もあった。そればかりでなく、走湯権現社の縁起もまた、箱根権現社と同様、大磯の高麗神社から勧請されたと独自に主張しているのである。

 
 
それはともかく、箱根権現社の別当行実は為義・義朝と源氏累代の親派ではあったが、何故か頼朝には冷たい仕打ちをしている。頼朝が挙兵して石橋山の敗戦後、追っ手を受けなから、命からがら箱根山へ逃げ込んで来ると、行実は弟が敵に味方しているから、ここに居ては危険だと称して、頼朝を体よく追っ払ってしまったのである。

 信救はそんな行実の元にいて、箱根権現社の名僧に化け、大旦那である鎌倉殿頼朝夫妻のために、縁者供養などの導師を神妙に務めていたものだ。

 それより前の事だが、木曽義仲が越前で敗死してから数ヶ月後、頼朝の人質になっていた義仲の嫡男、清水冠者義高は鎌倉から脱出した。そのとき義高の身代わりとなって、双六に興じる振りをして周囲を誤魔化したのは、同じ歳で義高に従って来た海野小太郎幸氏、つまり信救の嫡男であった。

 この主人思いの若者、その後、頼朝の近侍に加えられて本領安堵され、後に曽我兄弟が巻狩の場へ討ち入った際、兄弟十番斬りの八番目に渡り合い、膝を割られたと『曽我物語』にある。幼い五郎を出家させるべく預けられたのも、仇討ちに先立って祈願したのが、僧得業信救の居た箱根権現社で、神仏分離後の現在の箱根神社に曽我神社も祭られている。

 そして、兄十郎の想い女は大磯の虎といい、兄弟が討ち死にした後、箱根権現社へ詣でて兄弟を供養し、出家を遂げた。その後、諸国行脚して晩年は大磯へ戻って、高麗寺の山奥に庵を結んだといわれる。『曽我物語』は箱根・駒ケ岳で創られたとされるが、ここにも僧得業信救が関わっていたのではないかと、あらぬ妄想も湧いてこようというものだ。

 義高脱出には、幼妻の大姫はじめ女房たちが共謀して、女装した義高を取り囲んで連れ出し、他所に蹄を綿で包んで隠した馬で郭内から逃したと、『清水物語』を踏まえた『吾妻鏡』は記している。

 こんな大胆な脱出計画と実行を、女房たちや若侍たちだけで為しえたのか、という疑問は、もしかして箱根権現社の信救が手引きしたのではないかと思わざるを得ない。何しろ相手は頼朝の手にかかって滅ぼされた、木曽殿の若殿である。かつて清盛入道でさえ敵に回した信救のこと、そのくらい大胆な事は考えかねないであろう。

 だが、清水冠者義高が入間河原で討ち果たされたと、幼妻の大姫に伝えられたのは、脱走から六日後であった。しかし、不思議なことに、義高を討って功績があったはずの堀藤次親家の郎従は、それから二ヶ月後に梟首されているのだ。義高が殺されたというのは、嘆き悲しんで食って掛かる大姫に手こずり、頼朝をして「哀れ持つまじき者は、女子なり」と嘆息さけたそれを、納得させる為だったのではないか。そして、義高はまんまと逃げおおせたのかもしれない。

 妻政子の妹の追善供養の帰途、頼朝は落馬して半月後に没した。しかし、その前後三年間の記録は『吾妻鏡』から脱落している。それ故、木曽殿の残党達が清水冠者義高を旗印に頼朝に復習したのではないなどと、誰がいえようか。

 もっともその頃、僧得業信救は元木曽殿祐筆大夫房覚明と幕府に見破られて、さっさと京都へ舞い戻っていた。

 5
 
僧得業信救が京都に舞い戻って現われた先は、兼好が「慈鎮和尚、一藝ある者をば、下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり」と書いた様に、比叡山天台座主慈円の元であった。そこで今度は法然の弟子となって円通院浄寛と号した。

 叡山の教学から出た法然のそれは、難しいことは抜きにして、ただ念仏を称えれば極楽往生できると説いた専修念仏であった。弟子に公家や御所の女官も有り、鎌倉御家人も多く出入りしたものだから、幕府は頼朝の妻政子を通じて、専修念仏の何たるか、法然に問いただしたほどだった。そして法然弾圧がはじまり、結局、法然は朝廷から讃岐へ、弟子の親鸞などは越後国府へ配流された。

 そのとき浄寛はどうしていたのか。実は、数多ある法然や親鸞の消息や研究には、浄寛の名は出てこないのである。例えば、親鸞生存中の弟子の名簿とされる『親鸞聖人門侶交名牒』に乗る四十八人の中には、信濃国の弟子は皆無である。無論、小太郎七変化のどの名も無い。ただ、在所不明が一人、西願という名があるのみである。

 浄寛は親鸞の弟子となって、坂東各地へ布教の後、故郷の信濃国海野庄へ戻り、今度は西仏坊を名乗り一庵を建立したというのは、この一庵の後身と伝えるところの康楽寺関係の文書である。西仏房は、親鸞の事跡をつぶさに記録し、子の浄賀に譲ったとされ、本願寺から覚如が訪れた時、画才にとんだ浄賀は、西仏房の残した記録をもとに親鸞の一生を絵で表すことを願い出たという。

 この康楽寺が世に知られるのは、親鸞の曾孫で本願寺第三世覚如が塩崎に移った康楽寺の画僧浄賀に描かせた、親鸞の生涯をつづる『親鸞伝絵』によってであった。伝絵上巻の第八段に「御弟子入西房・聖人、親鸞の、真影をうつしたてまつらんと、おもおこころざしあって云々」と、確かに西房の名も出てくる。また別に『康楽寺略縁起』なるものがあって、開基は「木曽大夫坊覚明円通院浄寛西仏坊」などと仰々しくも長ったらしい名をつらねた、実は木曽大夫坊覚明・円通院浄寛・西仏坊」をつなげただけのものだが、上に述べてきたものの概略が伝えられている。

 縁起はともかく、問題は『親鸞伝絵』が成った経緯というよりも、その背景である。伝絵の文章を書いた本願寺三世覚如の頃、所謂「本願寺教団」なるものは無きに等しかったのである。本願寺教団が世に知られ、一世を風靡するには、本願寺八世蓮如の出現を待たなければならない。親鸞の正しき血統に連なる覚如の一家といえども、当時は親鸞の遺骨を祀る大谷廟堂の留守職、有態にいえば墓守でしかなかった。しかも、廟堂の持ち主たるや、親鸞から面授によって直弟子と認められて、正しき血脈を伝える関東門人たちである。

 そんな中で本願寺創建をめぐる骨肉の争いと、関東門人から親鸞正統を奪い返すべく企図されたものが、皇室や摂関家との関係、親鸞の神秘的な伝説で、祖父の生涯を聖人に飾り立てた伝記、それが『親鸞伝絵』であった。

 最早それは西仏房の関わり知らぬことであった。波乱万丈、流転の長い生涯、如何なる権威にも屈しなかった海野小太郎の名においてこそ記憶されるべきなのだ。 (海野小太郎七変化/終)

 付記  本論はHP「一向一揆戦線」開設に先立って掲示板に連載したものの再録です。
 平家蟹さんの指摘を確認するためには、この文章と花田清輝氏の「小説平家」の中の海野小太郎幸長について書かれた文章との一致度を判別せねばならない。残念ながら、「花田清輝氏の「小説平家」の中の海野小太郎幸長について書かれた文章」が分からない。いずれ分かる日があろうから、ここに記帳しておく。

 2007.9.26日 れんだいこ拝
 今グーグル検索「海野小太郎幸長」で次の箇所が出てきた。これを転載しておく。
 花田清輝/昭和42・5
 さてもさてもこの世のかわりの継ぎ目に生れあいて、世の中の眼前にかわりぬる事をかくけざけざと見侍る事こそ、世にあわれにもあさましくおぼゆれ。――『愚管抄』――

 第一章 冠者伝
 一

 かねがね、わたしは海野小太郎幸長の伝記をかいてみたいとおもっていた。ことわっておくが、「幸長」であって、「行長」ではない。信濃の国海野白取の庄に住んでいた海野一族の先祖は幸明といった。信濃守と号していた幸明四世のかれの父親が、幸親といい、かれの息子が幸氏と名のっていたことをおもうと、かれが「行長」ではなく「幸長」だったことはあきらかである。家々の系図は、元来、口から耳へ語りつたえられてきた。したがって、いちがいに、「幸長」が正しく、「行長」がまちがっているとはいえないと考えるようなひともあるかもしれない。なるほど、それは、一見、どちらでもいいようにみえる。当時の武士たちが、弓矢とる身は名こそ惜しけれと信じていたからといって、べつだん、わたしまでが、かれらにつきあって、辺境のちっぽけな領主の名にこだわることはないといえばいえよう。しかし、わたしには、ひとりの半可通が、「幸長」を「行長」とかきあやまったところから、まぎれもない傑作である波瀾万丈の物語が、作者不明のまま、後世にのこされるにいたったのが残念でたまらないのだ。それは、作者にとっては、むしろ、望むところだったでもあろう。かれが、かれのかいた物語に、大して重きをおいていなかったことだけはたしかである。そのころは、いまとちがって――いや、いまでもそんな傾向がまったく地をはらってしまったとはいえないかもしれないが、物語をかくといったような行為は罪悪であるとおもわれていた。(続きは書店または図書館にて...)
 「4代目高知BBS : 生活情報交換」の「【情報】質問すれば誰かが答えるスレ part2 【共有】」の次のような一文。
 258: 名前:bleacherism投稿日:2005/09/04(日) 11:52
>257
簡単に言うと、内容としてこれは、花田の「小説平家」の海野小太郎幸長について書かれた部分を、まとめただけのものであって、記述や言い回しもそっくり、使われている部分もある。本人に知らせれば、すぐに削除すると思うが、世の中の怖さを教えるためには、そうしないで、段々、知れ渡っていく方が良いと思うのだが。ちなみに、読んで比較したい人のためには、花田清輝全集は、県立図書館の書庫にあることを知らせておく。
(私論.私見) れんだいこをなじる者たちの共通した作風について
 以上、「れんだいこをなじる者たちの共通した作風」に気づく者は、れんだいこ独りだけではなかろう。ここまで、適宜に貴重なご指摘をくださった方々に御礼申し上げます。貴重なオアシスとなりました。世の中まんざらでもないなと改めて思いました。

【ステップ6】
 「北村透谷の苦悩」と題して全文転載していた文章が、泥棒呼ばわりされた挙句「さらし首にする次第」として面罵される事件となっているが、この一文が「北村透谷と時代性」の文と酷似していることが判明したので確認しておく。
【北村透谷の苦悩】
□ 北村透谷(本名門太郎)は明治元年十一月十六日、小田原藩士族の家に生まれた。明治十四年一家の転居により有楽町の泰明小学校へ転校する。この学校は現在もあり、玄関前に多大な影響を与えた四歳下の島崎藤村の名と並べて「幼き日ここに学ぶ」と刻んだ碑がある。透谷の名も学校の隣にあった数寄屋橋の「すきや」をもじって号した。

□ 最初のロマン主義詩人・評論家として知られる北村透谷は、多摩に足を踏み入れることによって生まれたといえる。明治十六年神奈川県会の臨時書記となったころ、神奈川自由党の組織者石坂昌孝の子公歴や八王子の教員大矢正夫と親交を結び、自由民権運動に参加していった。翌年の冬から十八年の春まで、八王子川口村の豪農秋山国三郎家に大矢と数ヶ月寄宿した。

□ 二人は連れ立って網代鉱泉や五日市の秋川辺を歩いている。五日市では深沢権八などに逢っていたかもしれない。川口村の困民党が壊滅したのは、この直前であり、武相困民党も続いて解散させられたのを目撃している。
□ 当時、秋山は壊滅した困民党の後始末に奔走しており、透谷の思想形成に大きな影響を与えた。わずか半年間滞在した川口村(八王子市上川町)を、透谷は「幻境」といい、多摩を「希望の故郷」と呼んだ。

□ 石坂公歴とは諸国回遊を企図して、この年の六月旅に出たが、何故か小田原で別れている。その直後、透谷は大矢正夫から大阪事件の武力闘争の資金集めに強盗の同行を誘われ、思い悩んだ末、頭を剃って詫びを入れ、政治活動から脱落した。大矢は高座郡栗原村(神奈川県座間市)の出身であったが、茨城に武装蜂起した加波山事件の指導者富松正安と行動を共にすることを誓いあった民権家であった。しかし、病のため加波山事件に行き遅れ、大阪事件に加わった。強盗によって資金を集め、朝鮮へ渡航するメンバーの一人であったが、その直前に長崎で逮捕された。

□ 大阪事件が発覚して関係者と疑われて拘引された石坂昌孝を父にもつ公歴は、事件から一年後、米国へ渡った。目的は傾いてきた実家の建て直しのため、実業の勉学が目的であったが、その後、在米日本人愛国有志同盟会の主要メンバーの一人となり、機関紙を発行、日本政府を批判したり、宮内省を通して天皇に有司先制と言論抑圧の政治批判を奏上した。日米戦争がはじまると、昭和十七年(1942) に日系人強制収容所に入れられ、敗戦の丁度一年前に死んだ。

□ 政治活動から脱落した透谷は、公歴と諸国回遊を企図したころから野津田の石坂家に出入りし、そのころ公歴の姉美那と出会い、紆余曲折があって三年後の明治二十一年(1888)十一月にキリスト教式で結婚した。この間、キリスト教を受容、三月に数寄屋橋教会で洗礼も受けていた。

□ 結婚する一年前、美那・公歴姉弟の父石坂昌孝に同道して、浅草で開かれた民権家有志が大同団結を目指した連合懇親会に出席、はじめて徳富蘇峰と出会った。因みに、この会合に後に足尾銅山事件で知られる田中正造も出席していた。

□ 機を見るに敏なジャーナリストの典型徳富蘇峰の創立した民友社の山路愛山と北村透谷が論争して、儒教道徳や封建的な形式・価値に対し、内部の経験や生命を主張した。それは透谷が若い晩年に「エマソン論」を著しており、米国の南北戦争が欧州の過去の価値観を断ち切ったエマソン主義のように、徳川封建制を支えた価値観や美学は否定されるねばならなかった。政治活動からの脱落、言い換えれば現実行動の喪失は、その後の透谷の文学活動において自己の内面を発見させたのである。

□ それは直接にはキリスト教から教えられた内部の「生命」であったが、民権運動の経験が伝統的な形式や価値を否定する契機になっている。そして、キリスト教の受容は、透谷もまた士族の出自であったことからきていた。最早、士族たりえない士族、しかも敗北した旧幕臣に連なる者が武士道を棄てたとき、寄るべき道としてキリスト教が選ばれた。武士道の「主人」がキリスト教の「神」に代ったのである。

□ ここから透谷につづいた「自然主義」や「ロマン主義」は一歩の距離でしかない。有り余る難問を抱えたまま、明治二十七年(1894)五月、結婚数年の妻子を残し、後に東京タワーの建つ芝公園の自宅で縊死した。享年二十五歳。この二ヶ月半後、日清戦争がはじまった。
 2022.4.1日、「フェイスブック****」(もし障りがあったら本意ではないので****にしておきます)の「北村透谷と時代性」文に出くわした。「幻境の碑」の「多摩川流域」の文との絡みがありそうなので転載しておく。「幻境の碑」の「多摩川流域」の文と「北村透谷と時代性」のどちらが元なのか興味が湧く。仮に「北村透谷と時代性」の方が元と云うか前だったとすると、「幻境の碑」の「多摩川流域」文はどういうことになるのか、という関心がある。
 北村透谷は明治元年(一八六八年)十二月二十九日に神奈川県小田原町、旧唐人町に生まれた。長男で名は門太郎。当時父快蔵は二十七歳、母ユキ二十歳。祖父玄快は医師大内家からの夫婦養子で五十四歳。継祖母ミチ四十三歳であった。実祖母ちかは北村家から抹消されている。この出生環境だけでも注目されるが、本来小田原藩の大久保家は小田原の陣で、その功で家康から小田原城をもらっているが、藩主不在時代に唐津の家来達が入ることで、小田原に南国の文化をもたらしている。祖母ミチの実家や母ユキの実家も唐津家の家筋という説がある。透谷の詩人気質は、この母の影響が強いというのが主要な解釈だ。ところで幕末維新期は日本史の中でも希有な動乱期として、誰しもが取りあげるはずだ。 特に、外圧により徳川武家社会という封建制社会とその全政治機構を一気に内部改革し、近代化を推し進める必要に迫られていたのである。当然、封建的遺制と近代化の波の両極が、真っ向から激突し、その中で各個人は自らの方向性の選択を迫られ、その思想の選択は生死をかけざるを得ない重要な選択ともなった。かくして幕末維新の死闘が国内のいたるところで繰り広げられていった。

 では透谷が誕生した明治元年(慶応四年)とは、どんな年だったのか。彼が生育していく社会環境を確認しておく必要がある。大づかみな社会の動きを見てみる。すでに前年慶応三年に徳川慶喜は王政復古を迫られ、西郷隆盛、後藤象二郎、中岡慎太郎、坂本龍馬等は薩長倒幕同盟を組織し、その年六月に龍馬は「船中八策」を提唱している。 後に、明治維新政府はこの内容を具体化している。王政復古の裏側には、倒幕が理念として張り付いている。しかも、尊皇倒幕と尊皇攘夷が枝分かれする。公武合体も沸き立ち、諸外国との不平等に和親条約が次々と取り交わされていく。こうした中で、にわかに新しい動きが活発化。後藤象二郎等は「大政奉還建白書」を幕府に提出。 十月に徳川慶善は朝廷に大政奉還し、征夷大将軍の辞表を提出してた。家康以来二百七十年の徳川幕府の幕が降ろされたわけだ。しかし龍馬は十一月に近江屋の二階で殺害されている。なお、慶善の大政奉還に幕臣等は騒然とし、薩摩屋敷焼き討ちや徳川復命の挙兵が始まった。そして翌一八六六年(明治元年)に入り、当然の時代の流れで、ついに鳥羽伏見の戦いが一月三日に始まり、戊辰戦争の幕が切って落とされた。江戸幕府によるおよそ三世紀近い鎖国状態も、その摩擦の大きな原因であった。

 鎖国の間、世界は産業革命、植民地政策、近代国民国家の樹立、資本主義制への移行を遂げ、まさに欧米諸国の目はアジアへと向けられていた。彼らの近代兵器や高い軍事力、総合的な文明力の水準の差は、単純に埋めようがなかった。 安閑と世界に閉ざされた状態で惰眠をむさぼってきていた日本は、国内の富国強兵、殖産興業を断行し、まさに瞬時にすべての面で大改革を行い、近代文明国家への脱皮が迫られていた。それが達成できなければ、欧米列強に占領され、植民地化の道を歩むしかない。

 そこで一月に明治天皇は元服し、王政復古の大号令があった。勝海舟と西郷隆盛が駿府城で会見し、明治天皇は五箇条のご誓文を下しているこの年に福沢諭吉が英学塾から慶應義塾に改称。根回しが行われ、江戸城の無血開城が行われた。しかしこの事態を受け入れられない幕府軍は各地で抵抗。勝海舟も一目置き、伊能忠敬の弟子でジョン万次郎にも学んだ榎本武揚等は、軍艦八隻(木造艦)で、かつての蝦夷地函館の五稜郭へ向かった。各地の官軍と旧幕府軍との攻防は、官軍の勝利で着々と北進し、会津城は白虎隊も含めついに陥落。戊辰戦争は終結した。

 諸外国の思惑は、日本を寄港地としようという意図があったという説もある。特にアメリカ船への食糧・燃料補給、乗組員の救助・休養などだ。大黒屋光太夫がロシア船で函館に開国の交渉に訪れて以後、何度となく諸外国の打診が繰り返され、大政奉還以後の明治政府は立て続けに通商条約を締結。鎖国から開国へと動き出した。 しかし、まだやっとよちよち歩きをし始めた政府は、実は国会も、議会も存在していない。幕藩体制を解体し廃藩置県として中央集権体制を構築していくことになる。 また、耶蘇教禁止は明治六年に解禁となり、特にプロテスタントが知識人の語学力習得や異文化の積極的な吸収と、一方ではキリスト布教拡大の政策から一気に広まっていく。透谷も石坂ミナと出会うことでキリスト教の洗礼を受けることになる。

 明治維新の変革期は没落士族が身の処し方を問われ、小田原藩は尊皇と佐幕の曖昧中間派で、祖父玄快は藩医(外科医)でもあったため、明治維新政府へは中間的立場として順応的であった。藩医として身分は上位であったが、維新変革期に没落士族階級であり、島村火事で生家が全焼し、以後小さな藁葺きの家に移り住んでいた。 祖父の進言で、透谷の父快蔵は透谷誕生後、彼を厳格な祖父母の元に預けて単身上京。快蔵は一家の将来を切り開くために、当時唯一の官立大学昌平学校に入学している。残された透谷の母ユキは、遊女屋の針仕事などで、中風で臥しがちであった祖父の療養費や一家の家計収入を賄うこととなった。快蔵は大学卒業後足柄県の庶務課員となり、やがて大蔵省記録局員となっている。 ただ、この乳幼児期の生活苦と同時に、透谷の養子祖父母夫婦の情に薄い特異な生育環境は、後に躁鬱病となって彼を生涯精神的に苦しめる原因となっている。明治六年、小田原に新制度の小学校が設立され、寺子屋規模ではあっても明治新政府の啓蒙小学校、透谷は早くから本源寺小学校、緑小学校等で学んでいる。 なお、彼が十四歳の時、両親に連れられて東京銀座の数寄屋橋に上京し、泰明小学校に入学している。この数寄屋(透き谷)からその透谷の名前を付けているといわれている。

 この年、社会に目を移せば板垣退助を総理とする自由党が結成され、翌年は自由民権運土最高潮期である。十五歳の時、泰明小学校で演説の稽古をしたり、政治グループ青年党に所属したようだ。 さらに二年後には自由党青年グループとの交友関係を築き、民権運動への疑問が生じたときに、色川大吉が「透谷空白の期間」と称した時期に、横浜、八王子や南多摩郡川口村などの自由党シンパの知友の家々を訪れていたことになる。 この頃に公家出身で神奈川県では自由党の有力者石阪昌孝、その息子公歴、そして将来の伴侶美那子(ミナ)と出会うことになる。公歴は当時アメリカに洋行し、独自の民権運動を継続。「新日本」、「革命」などを出版し、日本政府を悩ましている。
(私論.私見)
 この件につき、その後、「引用転載に絡むれんだいこの事件史考」末尾の「晒し刑事件/考」で検証している。平家蟹氏の指摘を勘案すると、れんだいこのリンク掛け失念による全部転載を泥棒呼ばわりした挙句、「あきれ果てた。よって、ここに晒し刑に処する次第」とまでのたまう坂東千年王国氏自身が、花田清輝氏の「小説平家」の中の海野小太郎幸長記述を平然と地文取り込みしていることになる。何と本件の「北村透谷の苦悩」も「北村透谷と時代性」と相当の下敷き性が窺える。「後は言うまい」としていたが云わせてもらう。となると、手前は人様文を地文に取り込みながら、他者の「リンク掛け失念による全部転載」については泥棒呼ばわりして「晒し刑」にするとのたまっていることになる。この感覚を無痛で理解できる者は居るまい。

 2022.4.1日 れんだいこ拝
 なお、坂東千年王国氏(HON)氏のサイトのリンクを開けたところ、「申し訳ございません。このページに到達できません」となっている。要するにサイトが消えている、消していることになる。手前は攻め一方で終始し、守りの番になるとトンズラしていることになる。何か後味が悪いことだわ。

 2022.11.5日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)