著作権法での主要な論争点 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).6.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
こんなに思想が萎えた時代に、もっと互いが知を練磨し議論を尽くさねばならない時代に、それ故であろうかしたり顔して著作権棒を振り回し、あれも駄目これも駄目なる作法を押し付けようとする動きがある。馬鹿も休み休み云いたまえ、れんだいこはそう思う。 2004.9.18日 れんだいこ拝 |
【著作権法に纏わる思想性考】 |
著作権法を学びその歴史を踏まえると、次に現代的課題を明確にさせねばならない。それに対してどのような態度を執るべきか、これが理論となり実践へと繋がる。本サイトはここが生命線であるが、残念ながられんだいこの理解はまだ入り口程度なので、以下関連文をここに掲載しておく。他日要点整理することにする。 問題は次のことにあるように思われる。著作権法は勝れて思想性が問われる問題であり、技術的な法解釈論ではどうにもならないということである。あまたのガイドブック及びサイトがあるが、この思想性に正面から立ち向かったものが見当たらない。例えばの話、大枠で、法律は多ければ多いほど先進社会なのか、箸の上げ下ろしにまでマニュアル形成して行くのが今後の社会像となるべきか、という思想性が問われている。あるいはこうも言える。人の平均寿命を仮に百歳として、その間の実働人生を仮に50年とした場合、この期間に何事かを成し遂げるには人生は短すぎる。その短い人生期間に於ける著作権的情報閉塞がどの程度の縛りなら許されるのか適正なのか、これが考究されねばならない、という思想性が問われている。以下、中枠、小枠のそれぞれでも必ず思想性が問われている。 こういうグランドデザインの検証抜きの単に必要だ論から為されるあれもこれもの規制推進は、その思想貧困性ゆえにいずれ自縄自縛に陥り、アノミー社会を準備して行くことになるだろう。極と極は釣り合うという法理があるからそういうことになるのが予見できる。してみれば、今はやりの著作権法とは、「現代版鬼門筋方違え、方位よけ論」なのかも知れない。通りで熱中し始めたら更に奥へ奥へと必要になり止まらない訳だ。そのうち著作権鑑定士なるものが登場し始め、文言・文章の飛び交うところにやって来て何やらこ難しげな裁定をし始めるだろう。その複雑さは現代税法並のことになるだろう。このまま行くと人はもう係りつけの著作権鑑定士を持たずには何も書けない、しゃべられない。人は皆なマスクを着用してしか街頭を歩けない。こういう世の中がやって来るのではなかろうかとご託宣しておこう。 2003.4.20日 れんだいこ拝 |
【著作権法硬派の野蛮性考】 |
そもそも考えてみればよい。言語、音符の創始者こそ著作権第一号に値しよう。その創始者が無著作権で我々に使用を許可している。創始者は一人ではないかもしれない。その時代の碩学が何世代にもわたって心血注いで生み出したものであるようにも思われる。まさに文明そのものなのである。その頃には著作権思想などというユダ邪商法的な感覚はカケラほどもツユほどもなかった訳であるが。聞くところによると、コンピューターを使ってのインターネット空間も意図的に無特許、無著作権で社会に供されたと云う。文明、文化の継承、享受に対してはこれが正道なのではなかろうか。 我々はその上に暗渠して諸活動を行っている。近時歴史的必然性において著作権が生み出されたのであるから、ひとまずはそれを認めるのは良かろう。但しだ、それが相互のコミュニケーション活動に有益であることの確認精査を経ての話だろう。あれもこれもの著作権を認めることが却って阻害するとならば、あれもこれものそれぞれに対してブレーキをかける叡智を検討せねばなるまい。これが著作権法の正しい態度であるべきであろう。 それを何だ、あれもこれもを規定していない著作権法水準をあたかも未開国視して、考えられる限りの規制に向かうのを先進国と理解する粗雑な頭脳の輩が跋扈している。サヨ族の手合いにこの傾向が強い。手前達のほうこそ野蛮人であることを知れ。著作権槍を持って森を突ついて獲物を狙う姿は到底文明国人ではない。君達には要するに嗜みの精神がないのだ。なるほど嗜むには洗練した頭脳が要るから。 話を戻す。新言語、音符形態を創造し、その創造者が著作権主張するのなら分かる。例えばハングル文字のように何か奇抜な新言語、音符を創造して、使用権を主張するのなら分からないでもない。歴史的に獲得された無著作権言語、音符を使って、著作権棒振り回し、あらゆる領域に適用させようとして正義面するのはやめてけれ。JASRACのように音楽の流れる店舗という店舗には、カラオケであれBGMであれ、生演奏であれ、花見酒の歌唱であれ、ハイいくら頂戴なんてみっともない手を出すのはやめてくれ。それとよく似たことをしようというのが全方位著作権者の理論であるゆえ、あえてJASRACを槍玉に挙げる。 JASRACよ、他の多くの業団体がある中で、なぜお前のところだけが利用対価権なるものを持ち出して何でもゼニにしようとするのだ。業団体というのは業界と業そのものの発展を並行的に取り仕切るのが務めの筈であるが、業の発展という視点を全く欠落させてゼニゼニしていくことは犯罪的ではないのか。よほど貧困な頭脳と精神が宿っているとしか考えられぬ。そういえば、ゼニゼニ言い出してから何か演歌の灯が消えてきたな。演歌の精神と合わないからだろうな恐らく。 2004.9.1日、2007.8.10日再編集 れんだいこ拝 |
【講演ないし集会レポートの著作権について】 | |||||||||||||||||||||
最新のこととして次のような例に出くわした。これを格好の例題としたい。 ある人の講演を聞いた者が、その講演内容をタイムリーにレポートし、インターネット空間に流し、逸早く著作権を主張したとする。この場合、次のような問題が発生する。
さて、この問題はどのように解かれるべきだろうか。何分近頃の著作権については理解不能なことが多すぎますので、どなたか解説頼みます。 2004.9.16日再編集 れんだいこ拝 |
【著作権法の目的について】 | |
著作権法第1条は次のように記している。
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著作権法第1条をどう解するべきか。当然、著作権法の総枠を記している。それによると、1・著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、2・著作者等の権利の保護を図ることを企図して発布された法律であることが分かる。但し、この権利は、3・これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ適用されねばならない、と制限を被せ、4・「もつて文化の発展に寄与することを目的とする」という総枠に従うことが条件とされている。 4の「もつて文化の発展に寄与することを目的とする」は単なる建前的美辞であろうか。れんだいこはそうは思わない。「もつて」とあることの言語的意味からすれば、これこそが最終目的最大目標であり、そういう観点から「文化の発展に寄与することを目的とする」との大枠を遵守せねばならない規定と受け止める。 かく理解すべきではなかろうか。これを逆から云えば、文化の発展に寄与しない、それを阻害する方向の規制は、著作権法の目的に反するということになる。更に云えば、著作権法は、著作権者の著作権をフリーハンド的に擁護せんとして制定されている訳ではなく、「文化の発展に寄与する」限りという大綱枠の内において認めよう、認める範囲は以下の通り、という構図で制定されていることを窺うべきではなかろうか。これを弁えておくことが肝要ではなかろうか。 してみれば、現代サヨ派の全域全方面著作権拡大論は、著作権法第1条違反であろう。それは、現代ネオシオニズム系タカ派の憲法9条違反の論法と酷似している。案外、両者は繋がっているのではなかろうか。 2006.11.25日再編集 れんだいこ拝 |
【「著作物とは何か」の定義について】 |
著作権法第1条は、著作物の定義をせぬままいきなり「この法律は、著作物並びに云々」と書き出したところに不備があるように思われる。この不備ゆえに「著作物の定義」を廻って端から混乱する仕掛けになっている。こうして、著作権問題の厄介さは冒頭から発生している。このことが知られねばならない。 近時の全方位著作権者はこういうところをラフに通り過ぎているような気がしてならない。これに気づかず「著作権法で万事解決済み」なる論法で、第何条曰く云々の知識をひけらかす者がいる。この手合いは、どんなに巧みに文言とか文章を構成しても、その表現能力には限界がある、ということについて思いを寄せる能力を持たないようである。実に愚かなことよと云わねばなるまい。 れんだいこの観るところ、著作権法上最初に解明しておかねばならないことは、「著作物」の定義である。「著作物」は、字句解釈する場合と法律解釈する場合で意味が異なることが知られねばならない。この差が分からない者が多い。実に愚かなことよと云わねばなるまい。 ここでは、字句解釈し、法律解釈は次の章に譲る。「字句解釈上の著作物」とは、読んでそのまま「著作された物」ということになる。「著作された物」という意味では、従来式の活字媒体一式がそうであり、実演も含まれ、最近ではこれに音符、音響、映像、放送類、インターネットのような公衆送信まで入る。例えて云えば、「字句解釈的著作物」は物理学における素粒子のようなもので世の中に充満している。そう考えるべきだろう。 2006.11.25日再編集 れんだいこ拝 |
【著作権上保護される「著作権付き著作物」とは何か】 | ||||||||||||||
「字句解釈的著作物」は上記の通りであるが、「法律解釈的著作物」となるとそれは全く別物になる。そして、著作権法上保護せんとされている著作物とは後者の「法律解釈的著作物」である。このことが弁えられねばならない。この識別が為されず混同されがちなところから混乱が生まれている。 現行著作権法は、「字句解釈的著作物とは何か」の検討をしていない。いきなり「著作権上保護される著作権付き著作物とは何か」という「法律解釈的著作物」に入っている。このことを踏まえず、「字句解釈的著作物」的理解のままに著作権法を理解しようとする者が居る為に混乱している。それはともかくひとまず措いて、日本の著作権法上に立ち現れた「著作権付き著作物保護規定」を吟味してみる。 著作権法上保護される著作権付き著作物は次のように定義されている。著作権関する国際的基本条約である「ベルヌ条約」(「文学的及び美術的著作物の保護に関する条約(Convention internationale pour la protection des oeuvres litteraires et artistiques) 」)は次のように規定している。
日本の著作権法もこの見解を踏襲し、著作権法2条1項1号は、著作物を次のような三段階で定義している。
つまり、日本の著作権法も又「字句解釈的著作物全般」即ち「活字媒体全般」即ち「書き物全て」を保護している訳ではない。法文に従う限りかく理解すべきなのである。 なぜかく理解されないのだろうか、解せないことである。もし、赤子の落書きまで含めて「書き物全て」を法的保護しようとするのなら、端から別の著作権法に書き改めなければならない。それをせず、現行著作権法をなし崩し解釈して全域全方位的著作物著作権に道を開こうとするのは、憲法9条の解釈改憲論によるなし崩し的解釈拡大論法に類似している。 蛇足ながら、著作権法上のなし崩し解釈派と憲法9条のなし崩し解釈派は、政治的に一見対立しているように見えるとしても、その頭脳構造は同じであるからして本質的に同朋であり、実に奥の院では繋がっていると看做すべきだろう。 もとへ。日本の著作権法の「法的保護される著作権の三段階規定」を別の角度から観ると、書き物全体のうち次の要件が満たされたもののみが法的に保護される権利であるとして、次のように規定していることになる。
この三段階方式を経て個別具体的に著作権が認定される。こういう構図で了解するのが素直な読み取りであろう。 ということは、これを逆に読めば、「『非』創作的表現物は著作権法の保護対象にならない」ということである。そういう非適用例として、著作権法10条2項で、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」を例示して、「著作権法上の著作物に該当しない」としている。かく解すべきではなかろうか。 著作権法39条は、「時事問題に関する論説の転載等」と題して次のように記している。
他にも、著作権法13条で「著作権法上の著作権が認められない著作物」として、行政機関的著作物を列挙している。1・憲法やその他の法令、2・行政が発する告示、訓令、通達その他これらに類するもの、3・裁判所の判決、決定、命令その他、4・「3」に関わる行政機関作成の翻訳物及び編集物を挙げている。 ここで要点を再確認しておく。著作権法は、最上級規定・「文化の発展に寄与することを目的」として制定されたものであり、著作権法上の著作物として法的保護されるのは、上規定・「思想又は感情を創作的に表現」したものであって、中規定・「文芸、学術、美術又は音楽」の範囲に属するものを云い、下規定・「小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物」を対象としている。この順序は上から次第に対象へと狭められていっており、いわば抽象的規定から具体的規定へ移行しているのであり、これを逆に下から次第に拡散して遂には書き物全般を法的保護しようという構造にはなっていない。なぜなら、あくまで最上級規定の「文化の発展に寄与することを目的」という公理に縛られているから、この原理に違背することは端から拒否されている。れんだいこはかく解するのを正当と考えている。 以上を踏まえつつ次のように問うことができる。元に戻って、「創作的表現」を強く狭く認めるべきか、弱く広く認めるべきかの解釈論が生まれる。その分岐点を模索することが望まれている。「ベルヌ条約」における「作品」(原文はフランス語で "oeuvres" 、日本語訳では「著作物」)の解釈も必ずしも統一されていない、とのことである。つまり、「芸術的にまで高められた高尚なものを作品とするというニュアンス」と「単に人の手によってできたもの」とする見解とに分かれている、とのことである。ということは、「ベルヌ条約」においても見解が分かれているということになるのであろうか。 しかし、れんだいこが思うに、「ベルヌ条約」規定であれ、日本の著作権法規定であれ、問題は、法的に保護される著作権要件をあまりに弱く広く認めていくならば、著作権法上の「文学的・美術的作品」、「創作的表現」規定を骨抜きにしていくことになるから、これが骨抜きにならないような分水嶺を模索すべし、というのが本来望まれていることになろう。 この観点の差の背景にある思想的対立が理解されぬままに「字句解釈的著作物」観でもって著作権法上の条文を眺めるなら、ホント箸の上げ下ろしにまで関与してくる著作権法なるものが生まれてくることになるだろう。 2006.11.25日再編集 れんだいこ拝 |
【米国著作権法に於ける「フェア・ユース論」考】 | ||
これに関して、アメリカの著作権法107条は、「Limitations on exclusive rights: Fair use」と題して「フェア ユース(Fair Use、公正的使用は著作権の侵害に非ず)」の概念を取り入れて次のように記している
2006.11.25日再編集 れんだいこ拝 |
【哲学、思想、宗教、政治、歴史、評論、伝記、新聞、政党の機関紙・誌等の活字著作物はどう処遇されるべきなのか】 | ||||||
次のような問題も生まれる。「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」以外の例えば「哲学、思想、宗教、政治、歴史、評論、伝記、新聞、政党の機関紙・誌等の活字著作物」はどう処遇されるべきなのか。この考察が為されていないように思われる。以下、これを仮に「共認化訴求的著作物」と命名する。「共認化訴求的著作物」とは変な命名であるが、「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」を敢えて「創作芸術品的著作物」と捉え、質の違いを際立たせるために使用することとする。 れんだいこが思うに、「共認化訴求的著作物」については直接的規定がない。その為、谷間に陥っている観がある。その認識ができない者が、「創作芸術品的著作物」の規定の中に挿入されている「学術」の範疇に織り込んで、「創作芸術品的著作物」と同等の著作権法を無理やり生硬に適用する動きが生まれている。 しかし、法治主義に順ずるならば、そのような幅広解釈適用は逸脱であり、著作権法が本来保護しようとしていた権利ではない、というべきではなかろうか。それでは、なぜ「共認化訴求的著作物は著作権法上の著作物とみなされない」とすべきなのか。それは、著作権法第1条の「もつて文化の発展に寄与することを目的とする」の大綱規定に反するからだと思われる。 もう一つ、「共認化訴求的著作物」は、既に完結作品的に成っている「創作芸術品的著作物」に比べて、それ自体が完結しておらず、いわば稽古事のように反復議論されむしろ認識の共有へ向うべく常に未完成的に提起されている、という性質の違いにも起因しているのではなかろうか。つまり、この範疇の著作物が「俺の俺が的主張」に馴染まないが故に生硬な著作権適用が控えられている、と考えるべきではなかろうか。 通説の理解とは異なる理解のように思えるだろうが、本来の著作権法はこの弁えをしており、「共認化訴求的著作物」にまで法的保護対象著作物とするのは好ましくない、「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものにして創作的表現物に限り保護されるべき」としていたのではなかろうか。つまり、非常に狭めて理解していたことになる。 もしこの狭義規定を緩め、「共認化訴求的著作物」まで法的保護著作物せんとするならば、それが「文化の発展に寄与する」方向であることを証さねばならない。なお、著作物規定を「書き物全般」に規定し直さなければならない。この問いかけのないままの全域全方位的著作権理解は邪道と云うべきであり、「文明の悪しき病」に陥っているように思われる。 ならば、「共認化訴求的著作物」はどのように待遇されるべきなのか。れんだいこは、著作権法とは又違う「著作物引用、転載、リンクの際のルールとマナー」なる手引きにより指導されるべきであると考える。つまり、「共認化訴求的著作物」への著作権法適用は馴染まない故に、自律的なルールとマナー形成で対応すべしということになる。今のところこの峻別と対応が為されておらず、為に旧著作権法に新規挿入式に継ぎ接ぎ規定していきつつあり、その結果単にだらだらと繋がり煩雑さを増しているように思える。分かりやすく云えば、税法の如く複雑怪奇さを増しつつある。 付言すれば、政党、新聞、マスコミ、図書館、団体等に最近見られる野放図な著作権主張による規制は百害あって一利無しと考えている。彼らは得手勝手な法理論を振り回しており、現行の著作権法に従おうとする精神を持っておらず、そういう意味で法治主義者ではない。したり顔して著作権適用の正義を説く彼らこそ文明に対する与太者、ならず者、アウトローではなかろうか。 2004.8.22日、2006.11.25日再編集 れんだいこ拝 |
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【著作権法上の「著作物」の定義問答】 | ||
少々分かりづらいが、次のような「著作物問答」が為されている。有益と思われるのでこれを紹介する。どこで見つけたのか今となっては分からない)
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上記の見解に以下のようなレス問答が為されている。
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【著作権法上の「学術」の定義について】 |
著作権法2条1項1号の「(著作物とは)思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」における「学術」とはどのようなものを云うのであろうか。この理解が混乱を生んでいるのではなかろうか。著作権法制定者がどのような意味を込めて「学術」なる用語を入れていたのか、国際的著作権法においてどのように取り扱われているのか、これを吟味せねばならない。 れんだいこの推定では、「文芸、学術、美術、音楽」という風にそれぞれの範疇を横並びさせていることからして、「文芸、美術、音楽」に匹敵するようなジャンルとしての「学術」として理解するのが至当のように思う。では、「文芸、美術、音楽」に匹敵する「学術」とは何か、ということになる。 この「学術」を極大に拡大解釈すれば、「書き物全般」ということになろうし、中程度に拡大解釈すれば「学問全般」ということになろうから、敢えて「学術」とした趣旨を探らねばならない。れんだいこ理解に拠れば、その趣旨からすれば「書き物全般」ではない、「学問全般」でもなくもっと狭められた範疇としての「学術」という分野を想定していたと思われる。という訳で、著作権法上に明記されている「学術」を定義せねばならない。 思うに、「学術」とは、「市井で遣り取りされる著作物一般」という意味ではなく、「学問的著作物一般」でもなく、「公認された学会での講演あるいは同じく学会誌等で発表された主として理工系の特殊個別的な発明考案発表的著作物」という意味ではなかろうか。 なぜそのように狭く解すべきか。著作権法の大目的「もつて文化の発展に寄与することを目的とする」に合致させんが為である。賢くも著作権法制定者はこの辺りの機微を用意周到に弁えていたのではなかろうか。これを逆から見れば、その内容の学問的内容に拘わらず「非学会発表、非発明考案発表」的な即ち新聞、雑誌、インターネット・サイト、政党機関紙・誌で発表された論文については、これを「学術」とはみなさず、法的保護の対象とはしていない、とみなすべきではなかろうか。 れんだいこが思うに、新聞、雑誌、インターネット・サイト、政党機関紙・誌で発表された論文については、あるいは発明考案的なものではない文化系非学会発表著作物については、著作権法上の著作物保護するよりも、「引用、転載のルールとマナー」の遵守指導で指導されていくべきものであって、そういう自律的規則において社会的に解決されるべきものであって、それ以上の法的保護は馴染まない。なぜなら、それ以上を求めると「もつて文化の発展に寄与することを目的とする」に違背することになるから。 かく考えて、「学術」を狭めて解釈すべきではなかろうか。というか、本来は、「文芸、学術、美術、音楽」と併記するのではなく、「文芸、美術、音楽」のそれ、「学術」についてはもう少し精緻に別途規定しておくべきではなかったか。いずれにせよ、「学術」の項目でもって「書き物全般」とみなしたり、「学問全般」とみなすのは失当、ということが主張したい訳である。 以上は、れんだいこ解釈であるが如何であろうか。いずれにせよ、法文の解釈をめぐって議論の余地が大いにあり、法文を指し示せばそれで解決というような単純なことではなかろう。サヨ系の頭脳はこの辺りを全く理解しない。よほど粗雑にできているとしか言いようが無い。 2004.8.23日、2006.11.25日再編集 れんだいこ拝 |
【著作権法上の「著作者の法益」について】 |
著作権法上、著作者の権利(法益)はどのように保護されているのかを考察する。著作者とは、著作権法2条1項2号で、「著作者とは、著作物を創作する者をいう」と規定されており、その法益は著作者人格権と著作者財産権に大別されている。 著作者人格権は、公表自在権(18条)、氏名表示自在権、その氏名踏襲要請権(19条)、内容の同一性保持要請権(20条)の三つの権利から構成されている。最近では、「複製権」、「翻案権」、インターネット上での「公衆送信権・公衆送信可能化権」も含まれる。 |
次のような言及もある。出典元が分からなくなったが、なにやら貴重な指摘がされている気がするので削除するに惜しく転載させて頂く。
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【第123条の著作権法違反は親告罪の性質をもつことについて】 | |||||
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(私論.私見)