著作権法での主要な論争点

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).6.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 こんなに思想が萎えた時代に、もっと互いが知を練磨し議論を尽くさねばならない時代に、それ故であろうかしたり顔して著作権棒を振り回し、あれも駄目これも駄目なる作法を押し付けようとする動きがある。馬鹿も休み休み云いたまえ、れんだいこはそう思う。

 2004.9.18日 れんだいこ拝


【著作権法に纏わる思想性考】
 著作権法を学びその歴史を踏まえると、次に現代的課題を明確にさせねばならない。それに対してどのような態度を執るべきか、これが理論となり実践へと繋がる。本サイトはここが生命線であるが、残念ながられんだいこの理解はまだ入り口程度なので、以下関連文をここに掲載しておく。他日要点整理することにする。

 問題は次のことにあるように思われる。著作権法は勝れて思想性が問われる問題であり、技術的な法解釈論ではどうにもならないということである。あまたのガイドブック及びサイトがあるが、この思想性に正面から立ち向かったものが見当たらない。例えばの話、大枠で、法律は多ければ多いほど先進社会なのか、箸の上げ下ろしにまでマニュアル形成して行くのが今後の社会像となるべきか、という思想性が問われている。あるいはこうも言える。人の平均寿命を仮に百歳として、その間の実働人生を仮に50年とした場合、この期間に何事かを成し遂げるには人生は短すぎる。その短い人生期間に於ける著作権的情報閉塞がどの程度の縛りなら許されるのか適正なのか、これが考究されねばならない、という思想性が問われている。以下、中枠、小枠のそれぞれでも必ず思想性が問われている。

 こういうグランドデザインの検証抜きの単に必要だ論から為されるあれもこれもの規制推進は、その思想貧困性ゆえにいずれ自縄自縛に陥り、アノミー社会を準備して行くことになるだろう。極と極は釣り合うという法理があるからそういうことになるのが予見できる。してみれば、今はやりの著作権法とは、「現代版鬼門筋方違え、方位よけ論」なのかも知れない。通りで熱中し始めたら更に奥へ奥へと必要になり止まらない訳だ。そのうち著作権鑑定士なるものが登場し始め、文言・文章の飛び交うところにやって来て何やらこ難しげな裁定をし始めるだろう。その複雑さは現代税法並のことになるだろう。このまま行くと人はもう係りつけの著作権鑑定士を持たずには何も書けない、しゃべられない。人は皆なマスクを着用してしか街頭を歩けない。こういう世の中がやって来るのではなかろうかとご託宣しておこう。

 2003.4.20日 れんだいこ拝

【著作権法硬派の野蛮性考】
 そもそも考えてみればよい。言語、音符の創始者こそ著作権第一号に値しよう。その創始者が無著作権で我々に使用を許可している。創始者は一人ではないかもしれない。その時代の碩学が何世代にもわたって心血注いで生み出したものであるようにも思われる。まさに文明そのものなのである。その頃には著作権思想などというユダ邪商法的な感覚はカケラほどもツユほどもなかった訳であるが。聞くところによると、コンピューターを使ってのインターネット空間も意図的に無特許、無著作権で社会に供されたと云う。文明、文化の継承、享受に対してはこれが正道なのではなかろうか。

 我々はその上に暗渠して諸活動を行っている。近時歴史的必然性において著作権が生み出されたのであるから、ひとまずはそれを認めるのは良かろう。但しだ、それが相互のコミュニケーション活動に有益であることの確認精査を経ての話だろう。あれもこれもの著作権を認めることが却って阻害するとならば、あれもこれものそれぞれに対してブレーキをかける叡智を検討せねばなるまい。これが著作権法の正しい態度であるべきであろう。

 それを何だ、あれもこれもを規定していない著作権法水準をあたかも未開国視して、考えられる限りの規制に向かうのを先進国と理解する粗雑な頭脳の輩が跋扈している。サヨ族の手合いにこの傾向が強い。手前達のほうこそ野蛮人であることを知れ。著作権槍を持って森を突ついて獲物を狙う姿は到底文明国人ではない。君達には要するに嗜みの精神がないのだ。なるほど嗜むには洗練した頭脳が要るから。

 話を戻す。新言語、音符形態を創造し、その創造者が著作権主張するのなら分かる。例えばハングル文字のように何か奇抜な新言語、音符を創造して、使用権を主張するのなら分からないでもない。歴史的に獲得された無著作権言語、音符を使って、著作権棒振り回し、あらゆる領域に適用させようとして正義面するのはやめてけれ。JASRACのように音楽の流れる店舗という店舗には、カラオケであれBGMであれ、生演奏であれ、花見酒の歌唱であれ、ハイいくら頂戴なんてみっともない手を出すのはやめてくれ。それとよく似たことをしようというのが全方位著作権者の理論であるゆえ、あえてJASRACを槍玉に挙げる。

 JASRACよ、他の多くの業団体がある中で、なぜお前のところだけが利用対価権なるものを持ち出して何でもゼニにしようとするのだ。業団体というのは業界と業そのものの発展を並行的に取り仕切るのが務めの筈であるが、業の発展という視点を全く欠落させてゼニゼニしていくことは犯罪的ではないのか。よほど貧困な頭脳と精神が宿っているとしか考えられぬ。そういえば、ゼニゼニ言い出してから何か演歌の灯が消えてきたな。演歌の精神と合わないからだろうな恐らく。

 2004.9.1日、2007.8.10日再編集 れんだいこ拝

【講演ないし集会レポートの著作権について】
 最新のこととして次のような例に出くわした。これを格好の例題としたい。

 ある人の講演を聞いた者が、その講演内容をタイムリーにレポートし、インターネット空間に流し、逸早く著作権を主張したとする。この場合、次のような問題が発生する。
 まず講演者の著作権はどうなるのか。当然活字ではなく口語であるが、口語的講演内容に著作権が認められるのかどうか。セミナー前にその旨の注意(確認)が為された場合と為されなかった場合で違いが生ずるのだろうか。
 その講演レポーターはレポートする前に講演者の了解がいるのだろうか。もしこれが要件となるならば、新聞・テレビ報道の場合はどうなるのか。マスコミは常に別格なのか。
 講演レポーターは、講演者の承諾なしにレポートした著作物に著作権を被せられるのか。この場合、講演者はどういう地位に立つのか。
 第三者が、インターネット空間にアップされたそのレポートを無断でリンク・転載・引用した場合に、レポーターは著作権を主張して削除請求できるのか。あるいは著作権でどのような対応ができるのか。この場合、講演者はどういう地位に立つのか。
 レポートが、ホームページ・サイトで流される場合と掲示板で流される場合で著作権内容の意味が変わるのか変わらないのか。
 そもそもの講演者が、レポーターないしそのレポートの利用者に対し、無断利用お断り云々を主張し得るのか否か。
 同じく集会のレポートについてはどうなのか。

 さて、この問題はどのように解かれるべきだろうか
何分近頃の著作権については理解不能なことが多すぎますので、どなたか解説頼みます。

 2004.9.16日再編集 れんだいこ拝

【著作権法の目的について】
 著作権法第1条は次のように記している。
 「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする(昭六一法六四・一部改正)」。
(私論.私見) れんだいこの著作権1条考
 著作権法第1条をどう解するべきか。当然、著作権法の総枠を記している。それによると、1・著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、2・著作者等の権利の保護を図ることを企図して発布された法律であることが分かる。但し、この権利は、3・これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ適用されねばならない、と制限を被せ、4・「もつて文化の発展に寄与することを目的とする」という総枠に従うことが条件とされている。

 4の「もつて文化の発展に寄与することを目的とする」は単なる建前的美辞であろうか。れんだいこはそうは思わない。「もつて」とあることの言語的意味からすれば、これこそが最終目的最大目標であり、そういう観点から「文化の発展に寄与することを目的とする」との大枠を遵守せねばならない規定と受け止める。

 かく理解すべきではなかろうか。これを逆から云えば、文化の発展に寄与しない、それを阻害する方向の規制は、著作権法の目的に反するということになる。更に云えば、著作権法は、著作権者の著作権をフリーハンド的に擁護せんとして制定されている訳ではなく、「文化の発展に寄与する」限りという大綱枠の内において認めよう、認める範囲は以下の通り、という構図で制定されていることを窺うべきではなかろうか。これを弁えておくことが肝要ではなかろうか。

 してみれば、現代サヨ派の全域全方面著作権拡大論は、著作権法第1条違反であろう。それは、現代ネオシオニズム系タカ派の憲法9条違反の論法と酷似している。案外、両者は繋がっているのではなかろうか。

 2006.11.25日再編集 れんだいこ拝 

【「著作物とは何か」の定義について】
 著作権法第1条は、著作物の定義をせぬままいきなり「この法律は、著作物並びに云々」と書き出したところに不備があるように思われる。この不備ゆえに「著作物の定義」を廻って端から混乱する仕掛けになっている。こうして、著作権問題の厄介さは冒頭から発生している。このことが知られねばならない。

 近時の全方位著作権者はこういうところをラフに通り過ぎているような気がしてならない。これに気づかず「著作権法で万事解決済み」なる論法で、第何条曰く云々の知識をひけらかす者がいる。この手合いは、どんなに巧みに文言とか文章を構成しても、その表現能力には限界がある、ということについて思いを寄せる能力を持たないようである。実に愚かなことよと云わねばなるまい。

 れんだいこの観るところ、著作権法上最初に解明しておかねばならないことは、「著作物」の定義である。「著作物」は、字句解釈する場合と法律解釈する場合で意味が異なることが知られねばならない。この差が分からない者が多い。実に愚かなことよと云わねばなるまい。

 ここでは、字句解釈し、法律解釈は次の章に譲る。「字句解釈上の著作物」とは、読んでそのまま「著作された物」ということになる。「著作された物」という意味では、従来式の活字媒体一式がそうであり、実演も含まれ、最近ではこれに音符、音響、映像、放送類、インターネットのような公衆送信まで入る。例えて云えば、「字句解釈的著作物」は物理学における素粒子のようなもので世の中に充満している。そう考えるべきだろう。

 2006.11.25日再編集 れんだいこ拝

【著作権上保護される「著作権付き著作物」とは何か】
 「字句解釈的著作物」は上記の通りであるが、「法律解釈的著作物」となるとそれは全く別物になる。そして、著作権法上保護せんとされている著作物とは後者の「法律解釈的著作物」である。このことが弁えられねばならない。この識別が為されず混同されがちなところから混乱が生まれている。

 現行著作権法は、「字句解釈的著作物とは何か」の検討をしていない。いきなり「著作権上保護される著作権付き著作物とは何か」という「法律解釈的著作物」に入っている。このことを踏まえず、「字句解釈的著作物」的理解のままに著作権法を理解しようとする者が居る為に混乱している。それはともかくひとまず措いて、日本の著作権法上に立ち現れた「著作権付き著作物保護規定」を吟味してみる。

 著作権法上保護される著作権付き著作物は次のように定義されている。著作権関する国際的基本条約である「ベルヌ条約」(「文学的及び美術的著作物の保護に関する条約(Convention internationale pour la protection des oeuvres litteraires et artistiques) 」)は次のように規定している。
 概要「法的保護される著作物とは、文学的・美術的作品である」。

 日本の著作権法もこの見解を踏襲し、著作権法2条1項1号は、著作物を次のような三段階で定義している。
上規定  「(著作物とは)思想又は感情を創作的に表現したもの」であって、
中規定  「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」をいう。
下規定  更に、著作権法10条1項1号で、・「小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物」を例示している。

 つまり、日本の著作権法も又「字句解釈的著作物全般」即ち「活字媒体全般」即ち「書き物全て」を保護している訳ではない。法文に従う限りかく理解すべきなのである。

 なぜかく理解されないのだろうか、解せないことである。もし、赤子の落書きまで含めて「書き物全て」を法的保護しようとするのなら、端から別の著作権法に書き改めなければならない。それをせず、現行著作権法をなし崩し解釈して全域全方位的著作物著作権に道を開こうとするのは、憲法9条の解釈改憲論によるなし崩し的解釈拡大論法に類似している。

 蛇足ながら、著作権法上のなし崩し解釈派と憲法9条のなし崩し解釈派は、政治的に一見対立しているように見えるとしても、その頭脳構造は同じであるからして本質的に同朋であり、実に奥の院では繋がっていると看做すべきだろう。

 もとへ。日本の著作権法の「法的保護される著作権の三段階規定」を別の角度から観ると、書き物全体のうち次の要件が満たされたもののみが法的に保護される権利であるとして、次のように規定していることになる。
 著作権法上保護される著作物とは、「上規定」の「創作的表現物要件」が、数学上の必要条件に値する。
 「規定」の「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの要件」が、同じく数学上の十分条件に値する。
 「下規定」の「小説、脚本、論文、講演要件」が要素認定に値する。

 この三段階方式を経て個別具体的に著作権が認定される。こういう構図で了解するのが素直な読み取りであろう。

 ということは、これを逆に読めば、「『非』創作的表現物は著作権法の保護対象にならない」ということである。そういう非適用例として、著作権法10条2項で、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」を例示して、「著作権法上の著作物に該当しない」としている。かく解すべきではなかろうか。

 著作権法39条は、「時事問題に関する論説の転載等」と題して次のように記している。
 新聞紙又は雑誌に掲載して発行された政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説(学術的な性質を有するものを除く。)は、他の新聞紙若しくは雑誌に転載し、又は放送し、若しくは有線放送することができる。ただし、これらの利用を禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない。
2  前項の規定により放送され、又は有線放送される論説は、受信装置を用いて公に伝達することができる。

 他にも、著作権法13条で「著作権法上の著作権が認められない著作物」として、行政機関的著作物を列挙している。1・憲法やその他の法令、2・行政が発する告示、訓令、通達その他これらに類するもの、3・裁判所の判決、決定、命令その他、4・「3」に関わる行政機関作成の翻訳物及び編集物を挙げている。

 ここで要点を再確認しておく。著作権法は、最上級規定・「文化の発展に寄与することを目的」として制定されたものであり、著作権法上の著作物として法的保護されるのは、上規定・「思想又は感情を創作的に表現」したものであって、中規定・「文芸、学術、美術又は音楽」の範囲に属するものを云い、下規定・「小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物」を対象としている。この順序は上から次第に対象へと狭められていっており、いわば抽象的規定から具体的規定へ移行しているのであり、これを逆に下から次第に拡散して遂には書き物全般を法的保護しようという構造にはなっていない。なぜなら、あくまで最上級規定の「文化の発展に寄与することを目的」という公理に縛られているから、この原理に違背することは端から拒否されている。れんだいこはかく解するのを正当と考えている。

 以上を踏まえつつ次のように問うことができる。元に戻って、「創作的表現」を強く狭く認めるべきか、弱く広く認めるべきかの解釈論が生まれる。その分岐点を模索することが望まれている。「ベルヌ条約」における「作品」(原文はフランス語で "oeuvres" 、日本語訳では「著作物」)の解釈も必ずしも統一されていない、とのことである。つまり、「芸術的にまで高められた高尚なものを作品とするというニュアンス」と「単に人の手によってできたもの」とする見解とに分かれている、とのことである。ということは、「ベルヌ条約」においても見解が分かれているということになるのであろうか。

 しかし、れんだいこが思うに、「ベルヌ条約」規定であれ、日本の著作権法規定であれ、問題は、法的に保護される著作権要件をあまりに弱く広く認めていくならば、著作権法上の「文学的・美術的作品」、「創作的表現」規定を骨抜きにしていくことになるから、これが骨抜きにならないような分水嶺を模索すべし、というのが本来望まれていることになろう。

 この観点の差の背景にある思想的対立が理解されぬままに「字句解釈的著作物」観でもって著作権法上の条文を眺めるなら、ホント箸の上げ下ろしにまで関与してくる著作権法なるものが生まれてくることになるだろう。

 2006.11.25日再編集 れんだいこ拝

【米国著作権法に於ける「フェア・ユース論」考】

 これに関して、アメリカの著作権法107条は、「Limitations on exclusive rights: Fair use」と題して「フェア ユース(Fair Use、公正的使用は著作権の侵害に非ず)」の概念を取り入れて次のように記している
 (http://www.law.cornell.edu/uscode/html/uscode17/
  usc_sec_17_00000107----000-.html
)。

 批評、コメント、ニュース報告、教育、奨学金、または研究などの目的のための著作物の公正的使用は著作権の侵害ではない。そのためには下記のようなことが判断材料とされる。

 (1)  使用が商業的目的であるのか、または非営利の教育目的のためのものであるか
 (2)  著作物の性質
 (3)  全体にしめるその著作物の分量
 (4)  著作物が及ぼす潜在的市場への価値と効果。

 Notwithstanding the provisions of sections 106 and 106A, the fair use of a copyrighted work, including such use by reproduction in copies or phonorecords or by any other means specified by that section, for purposes such as criticism, comment, news reporting, teaching (including multiple copies for classroom use), scholarship, or research, is not an infringement of copyright. In determining whether the use made of a work in any particular case is a fair use the factors to be considered shall include—

 (1)  the purpose and character of the use, including whether such use is of a commercial nature or is for nonprofit educational purposes;
 (2)  the nature of the copyrighted work;
 (3)  the amount and substantiality of the portion used in relation to the copyrighted work as a whole; and
 (4)  the effect of the use upon the potential market for or value of the copyrighted work.

 The fact that a work is unpublished shall not itself bar a finding of fair use if such finding is made upon consideration of all the above factors.


 2006.11.25日再編集 れんだいこ拝


哲学、思想、宗教、政治、歴史、評論、伝記、新聞、政党の機関紙・誌等の活字著作物はどう処遇されるべきなのか
 次のような問題も生まれる。「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」以外の例えば「哲学、思想、宗教、政治、歴史、評論、伝記、新聞、政党の機関紙・誌等の活字著作物」はどう処遇されるべきなのか。この考察が為されていないように思われる。以下、これを仮に「共認化訴求的著作物」と命名する。「共認化訴求的著作物」とは変な命名であるが、「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」を敢えて「創作芸術品的著作物」と捉え、質の違いを際立たせるために使用することとする。

 れんだいこが思うに、「共認化訴求的著作物」については直接的規定がない。その為、谷間に陥っている観がある。その認識ができない者が、「創作芸術品的著作物」の規定の中に挿入されている「学術」の範疇に織り込んで、「創作芸術品的著作物」と同等の著作権法を無理やり生硬に適用する動きが生まれている。

 しかし、法治主義に順ずるならば、そのような幅広解釈適用は逸脱であり、著作権法が本来保護しようとしていた権利ではない、というべきではなかろうか。それでは、なぜ「共認化訴求的著作物は著作権法上の著作物とみなされない」とすべきなのか。それは、著作権法第1条の「もつて文化の発展に寄与することを目的とする」の大綱規定に反するからだと思われる。

 もう一つ、「共認化訴求的著作物」は、既に完結作品的に成っている「創作芸術品的著作物」に比べて、それ自体が完結しておらず、いわば稽古事のように反復議論されむしろ認識の共有へ向うべく常に未完成的に提起されている、という性質の違いにも起因しているのではなかろうか。つまり、この範疇の著作物が「俺の俺が的主張」に馴染まないが故に生硬な著作権適用が控えられている、と考えるべきではなかろうか。

 通説の理解とは異なる理解のように思えるだろうが、本来の著作権法はこの弁えをしており、「共認化訴求的著作物」にまで法的保護対象著作物とするのは好ましくない、「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものにして創作的表現物に限り保護されるべき」としていたのではなかろうか。つまり、非常に狭めて理解していたことになる。

 もしこの狭義規定を緩め、「共認化訴求的著作物」まで法的保護著作物せんとするならば、それが「文化の発展に寄与する」方向であることを証さねばならない。なお、著作物規定を「書き物全般」に規定し直さなければならない。この問いかけのないままの全域全方位的著作権理解は邪道と云うべきであり、「文明の悪しき病」に陥っているように思われる。

 ならば、「共認化訴求的著作物」はどのように待遇されるべきなのか。れんだいこは、著作権法とは又違う「著作物引用、転載、リンクの際のルールとマナー」なる手引きにより指導されるべきであると考える。つまり、「共認化訴求的著作物」への著作権法適用は馴染まない故に、自律的なルールとマナー形成で対応すべしということになる。今のところこの峻別と対応が為されておらず、為に旧著作権法に新規挿入式に継ぎ接ぎ規定していきつつあり、その結果単にだらだらと繋がり煩雑さを増しているように思える。分かりやすく云えば、税法の如く複雑怪奇さを増しつつある。

 付言すれば、政党、新聞、マスコミ、図書館、団体等に最近見られる野放図な著作権主張による規制は百害あって一利無しと考えている。彼らは得手勝手な法理論を振り回しており、現行の著作権法に従おうとする精神を持っておらず、そういう意味で法治主義者ではない。したり顔して著作権適用の正義を説く彼らこそ文明に対する与太者、ならず者、アウトローではなかろうか。

 2004.8.22日、2006.11.25日再編集 れんだいこ拝
Re:れんだいこのカンテラ時評その128 れんだいこ 2005/12/08
 zhmさん心温まるご教示ありがとうございます。一般に、著作権法は非常にややこしく難しい。しかし、これを確認していくと、一群の自称著作権法士が勝手に難しくしているようなところがあります。これを社会的正義という美名でやりますので面食らっているだけではないでせうか。

 れんだいこは相手せずの構えをとっておりますが、本気で相手するとコテンパンにのしてしまい、その結果逆恨みを買うことになるでせう。それは望むところではないので、こたびの事件についての考証及び見解表明サイトは当分格納庫にいれておくつもりです。

 ただ感謝していることもあり、お陰で著作権法に対する勉強をさせていただいております。こたびは次のような一文を書き上げてみました。

 著作権法での主要な論争点
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_ronsoten.htm)

 ここで、歴史考証文を代表例として考察してみる。歴史の記述に於いて、何時、何が起こったかを記述することに著作権法を適用するのは邪道であろう。なぜなら、「何時」が判明している場合には「何時」の記述は誰が書いても一定するであろうし、「何が起こったか」も事実関係に就いては「ほぼ同様記述」にならざるを得ないであろう。著作権法に規制され、銘々が多少書き方を代えることに意味があるとは思えない。つまり、事跡考証の史実部分の解析に於いては著作権法の適用は馴染まないと心得るべきではなかろうか。

 問題は、歴史的事跡の評し方に於ける独自的見解性にどう対処すべきかであろう。これは、「創造性」の認められる分野である。故に、著作権法が適用されても良さそうだが、現にこの観点から主張している者も居るようだが、一考を要する。

 れんだいこが愚考するのに、「歴史的事跡をどう評するか」も、本来共認を求めて打ち出されている見解であり、であるなら共認化促進に向けて智恵を絞るべきであろう。事の本質上共認を求めているものを著作権法で垣根を作り、共認化阻害していくのは事の本質に於いて有り得てはならないのではなかろうか。つまり、事跡考証の評論面に於いても著作権法の適用は馴染まないと心得るべきではなかろうか。

 こうなると、歴史系論文に於いては、史実考証及び史実評価のどちらの側からも著作権には馴染まないことがお分かりいただけるだろうか。踏まえるべきは、「著作物利用に纏わるルールとマナー」であり、権利としての著作権法適用ではあるまい。このことが分からずないしは混同する自称著作権法士がたむろしている。彼らは、「著作物利用に纏わるルールとマナー」で対処すべきことに対して著作権法適用をがなりたてる法匪である。彼らは、それを社会的正義だとぬかしつつ説教し続けている。この痴愚ぶりを如何せん、ここが問われている。

 以上は、歴史考証文を素材に論じたが、同様論法で「哲学、思想、宗教、政治、評論、新聞、政党の機関紙・誌等の活字著作物」分野にも当てはまることである。

 蛇足ながら、官公庁公報、特に裁判所の判決文は著作権法ですら公認の天下往来物である。これらの「利用し合い」に於いて、少し手を加えたからという理由で著作権を主張する手合いは、せめてネット界へ出没するのは控えたほうが賢明であろう。それを弁えぬそもそもマナーとルールが悪い者が、任意な誰それを掴まえてマナーとルールで非難し罵詈雑言するなどとは正気ではなかろう。

 しかし、自称著作権法士界隈では、れんだいこのこの指摘が通用しない。どこでそういう学士が取得できるのか分からないがインチキ塾が発行しているのであろう。れんだいこはこれを囲碁に例えてみる。れんだいこの腕前が仮にアマチュア5段だとして、これを6段ないしはプロ辺りから、「ここはこう打つべきだよ」と指摘されたことに耳を傾けるのは吝(やぶさ)かではない。逆に、初段程度の者から「ここはこう打つべきだよ」と講釈されたり、囲碁論を聞かされることは耐え難い。それだけならまだしも、「ここはこう打たないと許されない」などと着手制限されつつ囲碁の相手をさせられるのは苦痛を通り越している。結論としては、お付き合いを避けたい、これに尽きる。

 2005.12.8日 れんだいこ拝

【著作権法上の「著作物」の定義問答】
 少々分かりづらいが、次のような「著作物問答」が為されている。有益と思われるのでこれを紹介する。どこで見つけたのか今となっては分からない)
題名:「著作権」と copyright は同じものではない
 (増田聡 masuda.satoshi@nifty.ne.jp <01/30 02:44> http://member.nifty.ne.jp/MASUDA/より)
 著作権システムの日本への移入は概念単独の流入じゃなくて、幕末の不平等条約の改正のために欧米諸国からベルヌ条約に参加を強要されたつうコンテクストがあんのね(故に旧著作権法は明治32年制定にもかかわらず世界的にも先端的なものだった)。やから文化的テクストの保護つう理念は向こうからもってきはしたけどその保護されるべき対象についての確定的概念つうのは存在しなかった(当時「作品」つう概念は日本になかったから)。だから「著作物」つーのはそこで言説的にでっちあげた法的概念でしかないとおもうわけよ。ある種の物象化だよね。

 現に旧著作権法の文言の上で保護の対象になってたのは「文学と美術」なんだけど、レコードが入ってきてそこに録音された音楽が著作物であるか否かが問題になったりして、「美術(音楽も含む)」とかって法律が改正されたりしてる。当時の日本語での芸術諸概念の変容・移入が法的なパラダイムと齟齬を起こしてたのね。

 「著作物」概念はドイツ語の schrifttum だよね。英語だと writings かな? で、それは作品 werkと対立してるんじゃなくて、価値的な語としての文芸 dichtungとの対比で用いられてる(言語芸術作品 sprachkunstwerkつう価値的な語も出てくるんだけど)。つまり「著作物schrifttum」ってのは森谷先生的には「書かれたもの」一般なんだよね。そのなか(+口承文芸)で価値を持つものが dichtung となって文芸学の対象になると。そこはいいんだけど、書かれたもの schrifttum/writings をそのまま日本語の「著作物」とするのは、文芸学としてはいいんだけど法的な用語の対応としては正確じゃないのよね。

 まず、法的な著作物は日本(やドイツやフランス)では「書かれたもの=固定されたもの」である必要はない(その意味で森谷先生のいう「口承文芸」も著作物のカテゴリーに入る)。アメリカやイギリスといった英米法的な著作権概念の元だと、著作物は「固定されたもの」である必要があるんだけど(それは経済的なものとして著作物を扱う原則があるから)、そこで言われる「著作物」の原語も writings じゃなくて、work なんだよね。ドイツ語の法的な「著作物」つう語も werk みたいだし。

 少なくとも「書かれたもの/書かれないもの」「価値あるもの/価値の「ない」もの」という二つの独立した対立軸が「著作物」「作品」「書かれたもの」とかいった日本語の諸概念の間に複雑に交差してると思う。しかもいろんな外国語を背後に経由してるからさらに複雑になってるんだよね。

 だから法的な原語に基づいて「著作物」を用いれば、そこには work=oeuvre=werkつう概念が反映するし、さらにそれが日本語の「作品」に持ち込まれるとこんどは価値的なコノテーションを帯びる(特に日本の美学的言説では)。今日の英語の work ってのはオレはかなり価値的に脱色されたコトバになってると思うんだけど(kunst に対する art がそうであるように)、それを例えば work/text という(バルト的=著作権思想的な)対立で議論したとしても、日本の美学的な言説場のなかでは「芸術的な価値があるもの/ないもの」という対立軸で捉えられてしまう(注釈。textは読者が意味生産を執り行う方法論的な場なのであって、著作権法の対象になる「作品」ではない、ということはバルトの議論から十分演繹可能だと思う)。

 そんなところやと思います。で、法的な用語として日本で「著作物」が「発明」されたのであれば(それはちょっと検証しようと思って文献探してみたんだけど阪大には全くない(笑)。くそお)、日本語の「著作物」という概念はかなり多義的な要素を持つことになるんじゃないかと思う。work + "werk" + writings + object of "Urheberrecht" の範囲のうちどれか、みたいな。

 workとwerk(oeuvre)の対立(価値自由/価値を持つ)はそのまま、それぞれの国の著作権法の体系に影を落としてる。日本はその辺が輸入した法体系や美学思想によって発明された概念だけに、「作品」と「著作物」との区別が厳然とあるようなないような混乱した雰囲気になってるんじゃないかなあ、つうのがいまんとこの仮説です。


 上記の見解に以下のようなレス問答が為されている。
 題名:西洋語の二重性(1999.3.12、KURAMOTO Noriyuki <krmt@osk3.3web.ne.jp>)

 森谷先生の引用していた Schrifttum は「著作物」と考えるよりも、辞書的に「文献」と考えたほうがいいと思う。「書かれたもの」とまったく同じ意味で。言うまでもなく、あの論文は法的なことは念頭に置いていないから、Schrifttum はたまたま「著作物」と訳されたんだと思う。

> 書かれたもの schrifttum/writings をそのまま日本語の「著作物」とするのは、文芸学としてはいいんだけど法的な用語の対応としては正確じゃないのよね。

 うん、そうだと思う。日本語の「著作(著作物)」は法律用語の「著作権」から切り離しては考えられないような気に、ぼくもなってきました。調べたわけではないが。

> しかもいろんな外国語を背後に経由してるからさらに複雑になってるんだよね。だから法的な原語に基づいて「著作物」を用いれば、そこにはwork=oeuvre=werkつう概念が反映するし、さらにそれが日本語の「作品」に持ち込まれるとこんどは価値的なコノテーションを帯びる(特に日本の美学的言説では)。

 問題はこの辺やと思う。芸術学の立場からすれば、「作品」/「著作物」は芸術/非芸術として価値論的に区別されることになりますな。でも(門外漢だけど)法律上の立場からすれば、当然ながら「作品」を問題にする必要がないから、「著作物」にのみ焦点が絞られるということになりましょうか。ややこしいのは「作品」も「著作物」も西洋語では区別されないということですね。これについて考え始めると、芸術/非芸術という大問題にぶつかることになるんじゃないかしら。

> 今日の英語の work ってのはオレはかなり価値的に脱色されたコトバになってると思うんだけど

 文脈によって異なると思いますよ。これは例の神戸女学院の先生がいつも言ってることだけど、西洋の学問を日本人がやるときには西洋語の二重性を常に意識しないといかんそうです。「お仕事」の意味で work を使うこともあるけど、まさに「作品」を意味するために work を使うことだってあります。たとえばぼくなんか、literary work なんてのを見ると、ちょっとビクッとしますね。大抵は literature とか literary text で済まされる場合が多いから。

 英語以外でも同様(じゃないかな)。だから

> workと werk(oeuvre)の対立(価値自由/価値を持つ)

 と言われてもピンとこない感じです。しかしこれはぼくの外国語能力の欠如のせいかなという気もするので、きょうはこれぐらいにしておきます。ではまた。

 KURAMOTO Noriyuki krmt@osk3.3web.ne.jp
 Date: 99-02-02 Comment to 0 AuthorID:INET:KURAMOTO Noriyuki <krmt@osk3.3web.ne.jp>
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 TO:INET:KURAMOTO Noriyuki <krmt@osk3.3web.ne.jp>
 FROM:MASUDA Satoshi
 SUBJ:RE:西洋語の二重性

>森谷先生の引用していた Schrifttum は「著作物」と考えるよりも、辞書的に「文献」と考えたほうがいいと思う。

 うん。それはそうだと思う。いくら博識の森谷先生といえども(笑)著作権法まで考慮には入れてないだろうし。

>日本語の「著作(著作物)」は法律用語の「著作権」から切り離しては考えられないような気に、ぼくもなってきました。

 そうやね。問題は「著作」あるいは「著作物」つう日本語の起源と語義変化。なんとかして調べられないものか。OEDみたいなのがあればいいんだけど。

>芸術学の立場からすれば、「作品」/「著作物」は芸術/非芸術として価値論的に区別されることになりますな。でも(門外漢だけど)法律上の立場からすれば、当然ながら「作品」を問題にする必要がないから、「著作物」にのみ焦点が絞られるということになりましょうか。ややこしいのは「作品」も「著作物」も西洋語では区別されないということですね。これについて考え始めると、芸術/非芸術という大問題にぶつかることになるんじゃないかしら。

 そうなのよ。基本的に日本の芸術学の言説はドイツ観念論~現象学の大陸的な系譜が主流だから、あるコトバがどういった対象を(特定の文脈で)指すのか、あるいはどういった意味を持つのか(外延と内包の区別)についての感度が鈍感やないかと思うことはしばしばある。「著作物」が西洋語起源の work(あるいはoeuvre,werk)の訳語であっても、それが日本の法的なシステム(使用)のなかで別のものを指す(別の外延を持つ)ようになってしまうと、芸術学的な日本語の「作品」の意味とかけ離れてしまうように思ってしまうんだけど、そもそもは異なる使用(後期ウィトゲンシュタイン的な意味で)を経てきている同じ(内包の)コトバなんだよね(まあ後期ウィトゲンシュタインになったら「語の使用=意味(内包)」だから外延と内包の区別が曖昧になってしまうんだけど)。「外国語/日本語」「法的/芸術学的」つう異なる次元の対立がそこには絡んでる。「芸術/非芸術」つう価値的な対立がそのまま(コトバとしての)「作品/著作物」に対応するというのはやはりナイーヴすぎるのではないかな。

>西洋の学問を日本人がやるときには西洋語の二重性を常に意識しないといかんそうです。「お仕事」の意味で work を使うこともあるけど、まさに「作品」を意味するために work を使うことだってあります。たとえばぼくなんか、literary work なんてのを見ると、ちょっとビクッとしますね。大抵は literature とかliterary text で済まされる場合が多いから。

 西洋語の二重性つうか、言語体系の翻訳不可能性だよね。日本語のある語の外延と、例えば英語の対応するとされている語の外延は一対一対応することはない(後期ウィトゲンシュタイン的には内包も同様)、つうか。あの「水」と "water" の違いつう話よ(笑)。「作品」と work は同一の対象を指すわけではない(異なる外延)し、内包も異なる(「作品」にはなんらかの「確定した芸術的価値」という意味=内包を感じる)。werk は work より内包は「作品」に類似してるのかもしれないけど(自信なし。ドイツ語やってないから(笑))。literary work とかにしても同様だと思うよ。日本語を母語とする人はそのコトバを「文学作品」と翻訳(移し換え)して内包をずらすことになる。literature とか literary text との対立で内包を理解するんじゃなくて、「文学」と「文学テクスト」と「文学作品」のなかで内包を理解することになるんじゃないか。あああ内包とか外延とかアタマ痛くなって来た。オレもこんがらがってきました(笑)。

 要するに、英work は 独werk より日本語「作品」(われわれが理解するところの)と関わらない度合いが相対的に強いんじゃないか、ということ。それは日本の美学言説において支配的なものとしてある「作品」概念が、ドイツの芸術思想の影響下にあることの帰結ではあるまいか。で、英work のニュアンスをもった、芸術上の価値的な含意を持たない「作品」概念もまた、日本語に流入してて(それは修論で素朴ながら取り扱った)、それが「芸術/非芸術」という「作品」概念の分裂になってるんじゃないか、つうことです。で蔵本は「非芸術的な作品」(これってドイツ流の言説では語義矛盾でしょ?)を「著作物」概念に包合して合理化を図ろうとした、というとこかなと。

 あまだなんか考えまとまらないなあ。またなんか気がついたら指摘してよ。では。

::;:;: 増田 聡 masuda.satoshi@nifty.ne.jp <02/02 01:39> :;::;;::;::; http://member.nifty.ne.jp/MASUDA/ :;;;::
 11 INET GATE INQ00104 99/02/02 04:11
 題名:もうすぐ卒業やないか!!!

 Date: Tue, 2 Feb 1999 04:10:31 +0900
 From: KURAMOTO Noriyuki <krmt@osk3.3web.ne.jp>
 To: HQI06147@nifty.ne.jp

 細かい議論はまたあらためて。実はぼくもドイツ語知らんねん。

 さて、森谷先生はまさに「博識」であるという点で、そして「複製芸術」と「芸術複製」とを区別した点で、充分に尊敬に値するんだけど、だからといって森谷先生の価値観をぼくがそのまま受け継いでいるわけではないので、「芸術/非芸術」というような対立概念にガチガチに縛られてるわけではないということをつけ加えたいし、かといって、「芸術/非芸術」といった大問題がまるで存在しないかのように振る舞う一部の「カルスタ」の人たちにも違和感を感じるのです(うーむ、長い文だ)。

 KURAMOTO Noriyuki krmt@osk3.3web.ne.jp

【著作権法上の「学術」の定義について】
 著作権法2条1項1号の「(著作物とは)思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」における「学術」とはどのようなものを云うのであろうか。この理解が混乱を生んでいるのではなかろうか。著作権法制定者がどのような意味を込めて「学術」なる用語を入れていたのか、国際的著作権法においてどのように取り扱われているのか、これを吟味せねばならない。

 れんだいこの推定では、「文芸、学術、美術、音楽」という風にそれぞれの範疇を横並びさせていることからして、「文芸、美術、音楽」に匹敵するようなジャンルとしての「学術」として理解するのが至当のように思う。では、「文芸、美術、音楽」に匹敵する「学術」とは何か、ということになる。

 この「学術」を極大に拡大解釈すれば、「書き物全般」ということになろうし、中程度に拡大解釈すれば「学問全般」ということになろうから、敢えて「学術」とした趣旨を探らねばならない。れんだいこ理解に拠れば、その趣旨からすれば「書き物全般」ではない、「学問全般」でもなくもっと狭められた範疇としての「学術」という分野を想定していたと思われる。という訳で、著作権法上に明記されている「学術」を定義せねばならない。

 思うに、「学術」とは、「市井で遣り取りされる著作物一般」という意味ではなく、「学問的著作物一般」でもなく、「公認された学会での講演あるいは同じく学会誌等で発表された主として理工系の特殊個別的な発明考案発表的著作物」という意味ではなかろうか。

 なぜそのように狭く解すべきか。著作権法の大目的「もつて文化の発展に寄与することを目的とする」に合致させんが為である。賢くも著作権法制定者はこの辺りの機微を用意周到に弁えていたのではなかろうか。これを逆から見れば、その内容の学問的内容に拘わらず「非学会発表、非発明考案発表」的な即ち新聞、雑誌、インターネット・サイト、政党機関紙・誌で発表された論文については、これを「学術」とはみなさず、法的保護の対象とはしていない、とみなすべきではなかろうか。

 れんだいこが思うに、新聞、雑誌、インターネット・サイト、政党機関紙・誌で発表された論文については、あるいは発明考案的なものではない文化系非学会発表著作物については、著作権法上の著作物保護するよりも、「引用、転載のルールとマナー」の遵守指導で指導されていくべきものであって、そういう自律的規則において社会的に解決されるべきものであって、それ以上の法的保護は馴染まない。なぜなら、それ以上を求めると「もつて文化の発展に寄与することを目的とする」に違背することになるから。

 かく考えて、「学術」を狭めて解釈すべきではなかろうか。というか、本来は、「文芸、学術、美術、音楽」と併記するのではなく、「文芸、美術、音楽」のそれ、「学術」についてはもう少し精緻に別途規定しておくべきではなかったか。いずれにせよ、「学術」の項目でもって「書き物全般」とみなしたり、「学問全般」とみなすのは失当、ということが主張したい訳である。

 以上は、れんだいこ解釈であるが如何であろうか。いずれにせよ、法文の解釈をめぐって議論の余地が大いにあり、法文を指し示せばそれで解決というような単純なことではなかろう。サヨ系の頭脳はこの辺りを全く理解しない。よほど粗雑にできているとしか言いようが無い。

 2004.8.23日、2006.11.25日再編集 れんだいこ拝

【著作権法上の「著作者の法益」について】

 著作権法上、著作者の権利(法益)はどのように保護されているのかを考察する。著作者とは、著作権法2条1項2号で、「著作者とは、著作物を創作する者をいう」と規定されており、その法益は著作者人格権と著作者財産権に大別されている。

 更に、著作権法17条2項は、「著作者人格権及び著作権の享有には、いかなる方式の履行をも要しない」と規定しており、創作物を創作した時点で自動的に権利が発生し、権利確保の為の特段の方式を要しないつまり無方式主義を採っている。この権利は授受、売買などで譲渡可能と認められている。従って、著作権は移転することができることから著作者と著作権者は必ずしも一致するとは限らない。

 著作者人格権は、公表自在権(18条)、氏名表示自在権、その氏名踏襲要請権(19条)、内容の同一性保持要請権(20条)の三つの権利から構成されている。最近では、「複製権」、「翻案権」、インターネット上での「公衆送信権・公衆送信可能化権」も含まれる。

 そのほか、著作権法113条5項に規定する著作者人格権の間接侵害についての規定、同60条に規定する著作者の死後における著作者人格権の保護についての規定によっても著作者人格権は保護されている。してみれば、著作者人格権は上記の侵害を受けたときの抗弁権のようなものとして認められていることになる。

 れんだいこに云わせれば、同一性保持要請権の内容(自分の著作物の内容、またはタイトル、著作者の氏名を自分の意に反して勝手に改変されない権利)は、著作権法としてよりも別途の法律で例えば「著作物引用、転載、リンクの際のルールとマナー」として把握され、もっと精緻に多面的に指導要領的に考察されるべきものであろうが、現行著作権法の中で概略規定されていることにより過剰権利化されており、為に却って混乱が生まれているように思われる。

 著作者財産権については考察を割愛する。概要のみ記せば、1・複製権、2・上演権と演奏権、3・上映権、4・公衆送信権、5・口述権、6・展示権、7・頒布権、8・譲渡権、9・貸与権、10・翻訳権、翻案権、11・二次使用権等々の権利を派生させ、これを包摂している。要するに、法的保護対象著作物を元手に何らかの財を産むものに対して著作権者の権利を認めようというものである。

 本来であれば、著作権法の目的に照らして1・抑制的に認める。2・認める権利の内容を抑制的する、の二面から検討されていくべきであろうが、近時の全域全方位著作権者の理論に拠れば、1・野放図に認める。2・許されるぎりぎりの対価要求する方向へ舵取りが進みつつある。為に、諸権利が錯綜し、紛争が絶えない。

 要するに、著作権法をあやす思想と弁えが欠如している。れんだいこはそう思う。


 2004.8.22日 れんだいこ拝


 次のような言及もある。出典元が分からなくなったが、なにやら貴重な指摘がされている気がするので削除するに惜しく転載させて頂く。

 日本(原著作者の許諾の有無を問わない)

 第二章 著作者の権利
 第一節 著作物
 第十一条 二次的著作物に対するこの法律による保護は、その原著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない。

 アメリカ(違法な二次著作物は保護しない)

 第103条 著作権の対象:編集著作物および二次的著作物
(a) 第102条に列挙する著作権の対象は、編集著作物および二次的著作物を含むが、著作権が及ぶ既存の素材を使用した著作物に対する保護は、かかる素材が当該著作物に不法に使用されている場合には、当該著作物のその部分には及ばない。

 フランス(おそらく日本と同じと思われる)

 第112の3条 精神の著作物の翻訳、 翻案、 変形又は編曲の著作者は、 原著作物の著作者の権利を害することなく、 この法典に定める保護を享有する。 素材の選択又は配列によって知的創作物を構成する詩文集又はデータベースのような各種の著作物若しくはデータの編集物の著作者についても、 同様とする。

 参考サイト 社団法人 著作権情報センター 

 これはどういうことかといいますと、「アメリカの人間が日本のファンアートを無断転載した場合、メーカーのみが原著作者としてその使用に文句を言える。ファンアートの作者はアメリカの法で保護を受ける立場にない」ということです。実際英語で書かれたファンアートサイトの中には、「オリジナルイラストは無断転載禁止。ファンアートは転載自由」と明言しているサイトもありました。

 逆に日本人がアメリカのファンアートを無断転載した場合、それは相手に対する権利侵害です。日本の法は違法な二次著作物でも保護されるべきであると定めていますから。

 ベルヌ条約の基本は「内国民待遇」で、締結国は他の条約締結国の著作物を自国の著作物と同様に保護すべしと定めています。なので違法な二次著作物が他国で保護されるかは、その国の著作権法を読まないとわかりません。

(参考資料とした「全訂・著作権法」-学陽書房-は1978年4月15日に初版が発行され、1998年9月25日の改訂を最後にしています)

 2000年の全世界のソフトウェアの違法コピー率は37%被害総額は118億米ドル

 アジア各国の著作権意識を測る、ひとつの資料です。これによると、日本を含め、アジアでは違法コピーが全体的に増えています。日本は37%、中国は94%、韓国は56%、台湾は53%となっています。ちなみにアジア太平洋地域ではニュージーランドの28%が最低です。彼らを尊敬しましょう。なお、アメリカは違法コピー率は24%でさすが先進国ですが、損害額は世界一位です。

 あと、注意して欲しいことは、これは違法コピーソフトの数字だということです。画像の無断転載はたいてい個人の他の個人や企業に対する犯罪ですが、違法コピーソフトは企業内の犯罪であることも多いということです。アメリカでは金銭的な事に関しては、企業がしっかりしているのでしょう。(もっとも、この資料に関しては違法コピーの割合をどうやって調べたのか? という疑問もあがっています。)


【第123条の著作権法違反は親告罪の性質をもつことについて】

 「著作権法の基礎知識└基本中の基本└★ 親告罪について」を参照する。

 著作権法の第八章「罰則」の章の第123条は次のように定めている。
 第119条、第120条の2第3号及び第121条の2の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
 無名又は変名の著作物の発行者は、その著作物に係る前項の罪について告訴をすることができる。ただし、第118条第1項ただし書に規定する場合及び当該告訴が著作者の明示した意思に反する場合は、この限りでない。

 ちなみに、第119条、第120条の2第3号は「著作者人格権、著作権、出版権又は著作隣接権の侵害に関する罪」、第121条の2は「商業用レコードに関連する複製罪」を指す。

 この第123条の規定によって、著作権法違反が「親告罪」の性質を持つことが判明する。つまり、違法行為による被害者である著作権者自身の告訴があってはじめて「犯罪かどうか」が問われることを意味している。「著作者人格権、著作権、出版権又は著作隣接権の侵害、商業用レコードに関連する複製罪に関する罪」は著作権法により取締られるが、自動的に「違法=犯罪」とされる訳ではないということになる。(第119条、第120条の2第3号、第121条の2以外の場合はその限りではない)

 問題は次のことにある。これらの著作権法違反は、他者が「それは犯罪だ」と決めつけてしまう構造にはなっていないということである。あくまで、被害者である著作権者自身の告訴による「親告罪」となっているということである。何故、「親告罪」となっているのか、その理由と意義は大きい。

 「親告罪」の例としてし強姦罪がある。強姦罪がなぜ親告罪になっているのかにつき、「.被害者の意思に反してその犯罪を起訴して公にするとかえって被害者の不利益になる」という配慮が働いているからだと考えられる。著作権法違反における親告罪の場合には、「被害が軽い場合に被害者の意思を無視してまで訴追する必要がない」という配慮が働いているからだと考えられる。

 れんだいこは、著作権法違反が「親告罪」の性質を持っていることにつき、もう一つの理由を考える。それは、著作権法違反を親告罪にせず警察及び検察の日常的な事前捜査に委ねてしまうと、著作権法第一条の(目的)に於ける「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする」の後段の「もつて文化の発展に寄与する」に抵触し始める惧れに配慮したからではなかろうか、と理解する。

 著作権法はそれほどに近代及び現代的な規制法案であり、初期の制定段階に於いては充分に取扱いに慎重を期していたと読むべきではなかろうか。今日、その慎重性が取り払われ何でもかでも規制せよの動きが強まっているが、初期の著作権法の精神からは逸脱していることは確かであろう。

 2006.1.20日 れんだいこ拝



 



(私論.私見)