32437 フォイエルバッハ



目次  

コード 中項目 備考
32641 生涯の概略履歴
32642 哲学上の功績
32643 宗教批判の構図
32644 人間論、社会論、歴史論
32645 マルクス・エンゲルスの「フォイエルバッハ論」考
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「自然は実存から区別されていない本質であり、人間は自己自身を実存から区別する本質である。区別しない本質は区別する本質の土台である。-自然は人間の土台である」(哲学の変革への提言テーゼ)





孤立を求めて連帯を恐れず(T)・柄谷行人のエッセイ(2)   柄谷行人

 
 私が「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉に嫌な気がしたのは、シュティルナーの『唯一者とその所有』を60年代の初めに熱心に読んだことがあったからだ。アナーキストは、シュティルナーとプルードンを始祖として並べているが、本当は、シュティルナーのこの本は、たんにフォイエルバッハの批判ではなく、むしろプルードンの批判なのだ。シュティルナーは、フォイエルバッハは神や精神を否定したけれども、彼がいう「人間」(類的本質)そのものが神や精神の変形にすぎないという。同様に、プルードンは、神を斥けているが、結局、キリスト教的な自己犠牲的道徳にもとづいている、とシュティルナーはいう。

かくて、フォイエルバッハはわれわれに説いていう。「人は、思弁的哲学を要するに転倒させるならば、つまりは客語を主語とし、主語を目的語とし、原則とするならば、あらわな、純粋・無垢なる真理をもつ」[原注・「アネクドータ」U、六四頁]と。それによって、われわれはたしかに、限定された宗教的立場の別の側面、道義的立場を手にするだけなのだ。われわれはたとえばもはや「神は愛なり」と言わぬかわりに「愛は神的なり」というのだ。(片岡啓治訳『唯一者とその所有 上』現代思潮社 p64)
 敬神は、一世紀このかた、多くの打撃をうけ、その超人的本質を「非人間的」とそしられるのを耳にしなければならなかったため、人は改めてそれに対して身構えてみようという気にはとてもなれない。さてそうなると、一つの――別の最高存在のために、この最高存在に闘いをいどむべく闘技場にあらわれるのは、ほとんどつねに道義的な敵対者だけであった。かくて、プルードンは臆面もなくいい放つ〔原注・秩序の創造〕他、三六頁〕。「人間は宗教なく生きる定めにある、しかし、道義の掟〔la loi morale〕は永遠・絶対である。今日道徳を攻撃することを、誰があえてしようか」。(『唯一者とその所有 上』 p63)
 シュティルナーの考えでは、プルードンにおいて、国家は否定されているが、結局、「社会」あるいは「共同体」がそれにとって代わっただけである。そこでは、社会の一員としての個人だけが認められ、「この私」は無視されている。シュティルナーは、それを「私の所有」として語っている。しかし、それはむしろ、プルードンの『所有とは何か』に対していわれた言葉である。実際は、それは所有と関係がない。《「自由」とは、一つの憧れ、一つのロマン的嘆きの声、彼岸と未来に託するキリスト教的希望であり、そうでありつづける。「自己性」は一つの現実、まさに諸君自身の道を阻み妨げるかぎりの不自由を自ずから排除した現実であるのだ。(中略)自己所有者〔der Eigene〕は生まれながらの自由人であり、本来的自由人であるのだ。それに反して、自由人とは要するに自由を求める者、夢想者、空想者にすぎないのだ》(『唯一者とその所有 下』p19〜20)。
 つまり、シュティルナーにとって、自由は所有すべき何かではない。だから、彼は別の所で、それを「無」と呼んでいる。『唯一者とその所有』という本は、「私の事柄を、無の上に、私は据えた」という言葉で終っている。これは、先行者アーノルド・ルーゲの「私は一切を歴史の上におく」という言葉をもじったものである。それは歴史的な諸関係によって規定される「私」ではなく、それらを括弧に入れた、無であるところの「私」の実存から出発するということである。したがって、「私の所有」とは、各人がたんに各人であることであり、またユニーク(唯一性)ということは特殊な才能などを指すものではない。
 彼は端的に、エゴイストであると主張する。そして、プルードンの構想するアソシエーションに、教会の臭いをかぎとった。つまり、他人のためにエゴイズムを否定する道徳性によって成り立っている。そういう連帯はくそくらえ、私は徹底的にエゴイストだ、と彼はいうのである。しかし、同時に、彼は通常エゴイストと見なされる者はエゴイストではない、という。たとえば、人が利益あるいは欲望の追求に「憑かれて」(所有されてpossessed)いるのであれば、それはまさに「私の所有」を失うことであり、エゴイストではありえないからである。
だから、彼がエゴイズムをいいながら、連帯(アソシエーション)を志向することは少しも矛盾しない。むしろ、彼はエゴイストのみがアソシエーションを形成しうるし、また、アソシエーションはそのようなものであるべきだといったのである。孤立を求めない者が、どうして連帯できよう。連帯を軽蔑するような奴らは、本当は、孤立を恐れているだけなのだ。その証拠に、連帯しない代わりに、彼らは群れたがるのだ。NAMは、「自由を求める人」の共同体ではない、「自己所有者」のアソシエーションである。

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