32641 生涯の概略履歴

 (最新見直し2006.1.3日)

 斉藤悦則氏の「プルードン関係の仕事」をテキストとし、目下これを下敷きにする。

プルードン・ピエール・ジョゼフ(Pierre Joseph Proudhon 1809-1865)
 「フランスの社会思想家で、1840年、「所有とは何か」で、一躍フランス思想界の寵児になる。生産者の自由連合による社会革命と改良を説いた社会主義者」としての史的地位を獲得している。1846年の「貧困の哲学」は、マルクスの「哲学の貧困」によって批判されたが、今日マルクスの批判の仕方に疑問が呈されている。1848年には国会議員となるが、ルイ・ボナパルトの政策を批判し、投獄される。晩年は不遇であったが、膨大な量の手記を残した。

 エンゲルスの《空想より科学へ》では〈批判的社会主義〉として扱われている。空想的社会主義者分類されることが多いが、プルードン自身は自分を〈科学的社会主義〉と呼んでおり、また職業生活以外の社会生活の多くの領域で自治 self-goverment と自主管理 self-management を勧め、国や政党、経営者による上からの制御に反対した彼の思想は、マルクスやレーニンの思想を掲げる国家群の悲喜劇を前に近年再評価されている。

 プルードンは1809.1.15日、フランス東部の都市ブザンソンに生まれた。マルクスより9歳年長である。当時の多くの社会思想家と異なり貧しい半農的職工の家庭に生まれる。

 田園のなかで育ち、家は貧しかったが17才まで学業を続けることができた。公共図書館の常連となるほど本好きで、コレージュ中退後は市内の印刷所に就職し、サン・シモンやヘーゲル、アダム・スミス、聖書などの本を製造する印刷植字工や校正係の職に付いた。同郷の社会主義者フーリエともそこで出会い、本人の述懐によれば一時期「この奇妙な天才のとりこ」となる。この間社会主義思想を独学した。この時期、教会用のラテン語訳聖書の校正をしているうちに広汎な神学の知識を身につけヘブライ語を覚えてしまったという。

 印刷職人としても着実なステップアップを重ね、植字工から校正工となり、職人の伝統にのっとってヨーロッパ大陸を修行して回る熟練工として育つ。仕事をつうじて学者・知識人と知り合い、文章の術を学びとり、学問研究のスタイルを会得する。印刷職人時代、プルードンは言語学に興味を覚え、1837年、28才の時最初の著作「一般文法論」を自費出版している。
多能工化を労働者の人間的成長と重ねて見、労働者に自立的な創意工夫の努力と自己責任の倫理を求めるプルードンの観点は、彼の職人的な出自に由来する。

 友人と共同出資してブザンソンで印刷所を開き27才にして「親方」となる。しかし、印刷所は経営難で2年後に破産する。友人は自殺し、プルードンに多額の借金を残した。プルードンは晩年の著『労働者階級の政治的能力』の末尾で、「労働者たちは自分自身の苦しさしか視野にない。ブルジョアの難儀苦悩には想いが及ばない」と書いているが、これも彼の経験にもとづく独白である。

 印刷所経営破綻をきっかけに学問研究志向をますます強める。プルードンの頭脳の優秀さを知る地元知識人たちの後押しで応募した奨学金(年額1500フラン)に当選し、1838.11月から3年間パリで勉学に専念できるようになった(「フランス巡礼」)。
彼は個性的に自立した生産者の機能的な分業が富の基礎であるにもかかわらず、その〈集合力〉が資本家によって不当に利用されていると考えるようになった。

 1839年、「日曜礼拝論」を著作したが、財産平等の理想に基づく社会改革という思想を記していたため、聖職者会議に忌避され、本の販売は禁止された。

 1940.6月、著作「所有とは何か」(Qu'est-ce que la Propriete? )を出版する。「所有とは盗みである」という衝撃的なフレーズで、私有財産制を鋭く批判した。その過激な表現によりブザンソン・アカデミーが出版の認可を取り消し、プルードンは前言撤回を拒否する。初版500部で世に出たこの本はしだいに評判となり版を重ねる。若いマルクスを大いに感動させたのもこの本であった。概要は、「プルードンの経済理論」に記す。

 プルードンは、40年のパリ滞在中はマルクスを含むさまざまの亡命知識人と交流している。

 プルードンは所有に関する著作を1841.4月に2冊目、42.1月に3冊目とたてつづけに出版し、新しいタイプの社会主義者,経済哲学者として有名になっていった。 この間経済学者のブランキや社会主義者のピエール・ルルー、コンシデランと知り合っている。第三論文がブザンソン警視庁に押収され、起訴される。

 1843.3月、印刷所の仕事を辞め、生活はなおも苦しく、43年同郷の知人がリヨンで経営する水運会社に会計係として雇われる。じっさいにはきわめて恵まれたポジションで、月給200フランをもらいながらほとんど自由に研究ができたし,数度にわたり長期のパリ滞在も許されていた。この立場を利用してプルードンは43年に『人類における秩序の創造』(De la Creation de l'ordre dans l'humanite, ou principes d'organisation politique)を書き上げ出版する。概要は、「プルードンの経済理論」に記す。1847.10月までリヨンのゴーチエ兄弟商会の事務員・法律顧問となる。

 「1845.7月、バクーニンはその革命的思想のためにドイツやスイスから追われて、はじめてパリへ行った。そこで彼は、当時のもっとも進歩したあらゆる民主主義者と知り合いになって、プルードンやマルクスともはじめて相知った」とある。そういう交遊関係があったことが興味深い。

 とくにドイツ人たちはそれぞれの思惑から有名人プルードンとの結びつきを深めようと競い合った。44.9月から45.2月にかけての滞在中、プルードンはマルクスとも数度にわたって会っているが、むしろグリュンと親しくする。グリュンはドイツ哲学をわかりやすく解説してくれる人物として、また生活苦のなかにあってもがんばる姿を示して、パリの知識人・労働者のあいだで受け入れられていた。

 1846.5.5日、マルクスやエンゲルスは、グリュンへの警戒をよびかける手紙をプルードンに送っている。同5.17日、プルードンはこの手紙の前段にある独仏同盟結成の企てに原則賛成を表明しながら、グリュン攻撃についてはたしなめる返事を書いている。これを境にプルードンとマルクス・エンゲルスは決別し始める。

 1946.10月、プルードンが「貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系」を著す。概要は、「プルードンの経済理論」に記す。

 1847.7月、マルクスは、「哲学の貧困」(Misere de la philosophie)を著し、プルードンの「貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系」を批判した。タイトルをひっくりかえしパロディの才を示すとともに、叙述の全体にプルードンへの悪罵をちりばめて、科学的社会主義の先達を言葉の勢いで乗り越えることを企てた。概要は、「マルクスのプルードン批判考」に記す。

 このころ、ロシアのバクーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論している。

 1848年、二月革命のさい、チュイルリー宮の無血占領に参加し、2.7日からロシアの社会主義者ゲルツェンの協力も得て「人民の代表」、「人民」、「人民の声」などの新聞を発刊し、人民銀行と相互主義的交換組織を試みる。

 1848年の2月革命直後から、プルードンの活動は社会的実践へと大きくシフトする。「貧困の哲学」でえた相互主義のアイデアにそって経済問題解決の糸口を金融の場面に求め、「人民銀行」という名の相互信用金庫の創設を企てた。新聞『人民の代表』を発刊し、社会変革についての論陣をはった。小経営の維持、分配における平等、人民銀行の創設等を主張したが、生産手段の社会化は意識しておらず、極端な私有財産も分割相続、累進課税によって解決可能であるとし、社会問題の解決を相互扶助に求めていた。政治思想としては、政治権力に期待せずアナーキズムの傾向が強く、フランス・サンディカリズムに影響を与えた。今日でも大陸の労働運動には反インテリ的なプルードン主義の傾向が強い。また〈アナーキズム〉の名付け親ともいわれる。その思想は客観的社会主義とみなされた。ちなみに、サンディカリズムとは、サンディカ(組合)によるアナルコ(既成の権威の否定)運動のことを云う。新聞の発行部数は平均4万部,1日平均250フランの利益をあげるほどであった。

 1848.6月パリの熟練工の支持で国会議員補欠選挙で当選し国民議会議員となる。プルードンの人望と名声のほどをうかがわせる。6月蜂起後の反動議会のなかでは孤軍奮闘し、マルクスもプルードンの没後にその勇敢さを賞賛している。

 1849.3月、大統領ルイ・ボナパルト・ナポレオンの政策を批判し、これが中傷したとされる罪で禁固3年と罰金3千フランを課せられ、人民銀行計画もこのとき潰え去った。投獄と亡命生活を送る。獄中生活の中で裁縫師と結婚して子供をもうけ、1850年、「一革命家の告白」(山本光久訳)、1851年、獄中で「十九世紀における革命の一般理念」などの代表作を書く。

 1852.4.26日、プルードンは獄中から友人宛に手紙を書き次のように述べている。

 「運動は疑いもなく不規則であり曲がりくねっているが、常に変わらぬ傾向というものがある。革命の利益になるように、各政府が代わる代わるした事は、決して後退することはない。革命に反対して行われたことは雲のように過ぎさって行く。私はこの光景を深い悦びをもって眺め、その中に一枚一枚の絵を理解する。私は天からその説明を受け取るかのように、世界の生命の様々な変化に立ち会っている。他の人々の勇気を挫くものは私を更に一層高め、私を鼓舞し、私を力づけるのだ。こうした時に、どうして諸君は私が運命を罵り、人々の事を嘆き悲しみ、呪詛することを望むのか? 運命、私はそれを嘲笑う!人々に関する事に就いては、私が彼らに傷つけられたと感じるには、余りに無智で余りに下品過ぎるのだ」(トロロッキーの「我が生涯2」の最後の章句)。

 1853年、生活の資をえるため書いた「株式投資マニュアル」は予想外の売れ行きを示す。プルードンは労働者の中産階級への育ち上がりを期待したが、それは人民の自己統治能力への信頼と一体のものである。

 1855年頃、プルードンは「経済学」と題する大著の執筆にとりくみ、集合存在としての社会の動態を大きくつかみとる新しい社会科学の構築を企てているが、これは未刊のままに終わった。その手稿にはかつてのマルクスの論難に応えようとする意図もうかがえる。

 1858年、出獄後、「革命の正義と教会の正義」を著す。6千部売れるが、公共道徳・宗教・国家を攻撃したとして警察に押収され、公序良俗壊乱をとがめられ、再び懲役3年と罰金刑を宣告され、家族とともにベルギーのブリュッセルに亡命した。亡命中も、また62年に帰国した後も数々の著作を出し、思想界にインパクトを与え続けた。

 1862年、特赦を利用して帰国し、1863年、「連合主義原理」を執筆する。遺著「労働者階級の政治的能力」を口述した。

 1865.1.19日、所有を個人の自由・自立・自己責任の根拠と見なす「所有の理論」を遺して心臓病で病没。パリ・コミューンの5年前であった。


【プルードン主義[proudhonisme] 】
 斉藤悦則氏の「プルードン主義[proudhonisme]」より転載する。
 「プルードンの死後,その思想的影響力の大きさはまず国際労働者協会の成立の場面であらわれる。アンリ・トランをはじめとするフランスの代議員たちは,ロンドンの中央委員会に対抗し,全体の議論をリードしていく。1866年のジュネーブ大会はほとんどプルードン主義の色で染まった。労働者階級の解放は労働者自身による事業であり,そのオートノミーを発展させるうえではアソシアシオン(労働者を一束ねにしようとするもの)は有害だと主張。しかし,1867年のローザンヌ大会では,個々の労働者の自立の根拠として小所有を容認するトランたちの主張は保守的と見なされるようになる。そして,1868年のブリュッセル大会では,プルードン主義者は敗退してしまったが脱退せず,1869年のバーゼル大会ではマルクスとバクーニンの論争に反権威主義の立場でわけ入って,マルクスをずっと悩ませ続けたのである。1871年のパリ・コミューンは国家の廃絶をめざしたプルードンの思想を体現しようとする大きな歴史的試みであった。コミュナールと呼ばれる活動家の多くはプルードン主義者であり,トランの妥協的態度を乗り越えて急進化する。結果は悲惨な敗北に終わったが,プルードン主義は誰のための思想であるかを広く知らしめ,後にアナルコ・サンディカリズムとして蘇生・発展していく素地となる」。

 文献=J.-H. Puech, Le Proudhonisme dans l'Association Internationale des Travailleurs, Paris, 1907


【プルードンのサタニズム観 】

マルクシズムの起源5」を参照する。バクーニンは、「プルードンもサタン崇拝者である」と述べたとのことである。(Hans Enzensberger, Gesprache mit Marx und Engels (Frankfurt-am-Main: Insel Verlag, 1973), p. 17; cited in ibid., p. 407.)。 ウァームブランドによれば、「プルードンは、マルクスと同様、悪魔教の一派ジョアンナ・サウスコットの典型的な髪型をしていた」(Op.,cit., p. 27.)とのことである。

 プルードンは、著書The Philosophy of Miseryの中で、「神こそ不義の典型である」と述べている。

 「神がいなくても、我々は知識を得られるし、社会を建設できる。一歩前進するたびに、我々はそれだけ神に勝利しているのである」(Pierre-Joseph Proudhon, Philosophie de la Misere (Paris: Union Generale d’Editions, 1964), pp. 199, 200; cited in ibid., p. 28.)
 「来い、サタン。小さい者や王たちに中傷されている者よ。神は愚かで臆病。神は偽善者で嘘つき。神は独裁者で貧困。神は悪。祭壇の前で跪く時、王や司祭の奴隷なる人類は非難にさらされる。…私は手を天に伸ばし、誓って言う。神よ、おまえは、私の理性の処刑人…でしかない。…神は、本質的に文明と自由と人間の敵である」(Ibid., pp. 200, 201; cited in ibid., p. 28.)

マルクシズムの起源5」氏は次のように述べている。

 「プルードンは、人間が悪なので、その創造者である神も悪だ、と宣言する。このような考えは、彼の独創ではない。サタン崇拝において、このような教えは普通に講壇から語られるからである。マルクスは、後にプルードンと喧嘩別れし、この著書を批判する本を出版するが、経済理論における小さな違いを批判しただけで、その本質部分(つまり、反キリスト教)に反対していない」。




(私論.私見)