32642 | プルードンの経済理論 |
(最新見直し2005.12.16日)
斉藤悦則氏の「『新マルクス学事典』の項目執筆」をテキストとした。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、プルードンの経済理論を見ておく。判明することは、1840年の「所有とは何か」、1843年の「人類における秩序の創造」、1946年の「貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系」の三部作、続く遺稿「経済学について」その他数典を通じて、極めて意欲的且つ旺盛な学問的営為をしていることである。後のマルクスの資本論は、プルードンのこれらの労作無しには有り得なかったのではなかろうかと推察されるほどである。この観点を共有したい。斉藤悦則氏の労作のサイトアップによりプルードンを知ることができ感謝申し上げさせていただく。勝手に地文取り込みさせて頂いておりますがご容赦を。以下、検証する。 2005.12.16日 れんだいこ拝 |
【「所有とは何か」】 | |
1840.6月、プルードンは、「所有とは何か」(Qu'est-ce que la
Propriete?
)を出版する。「所有とは盗みである」という衝撃的なフレーズで私有財産制を鋭く批判し、その論証の巧みさと相まって一躍有名になった。 その過激な表現によりブザンソン・アカデミーが出版の認可を取り消し、プルードンは前言撤回を拒否する。初版500部で世に出たこの本はしだいに評判となり版を重ねる。若いマルクスを大いに感動させたのもこの本であった。 プルードンは、本書の中で、 1・搾取のない小所有者の社会を理想とし、2・協同組合や無利子の交換銀行により交換面からの社会改良を指針し、3・近代工業と成長期の資本主義の多面的な矛盾を指摘しながら、4・社会進歩への信頼を失わず、5・寡占的な産業封建制から国家統制的な産業帝制への動きに産業民主制を代替させようとした。 フランス革命の人権宣言においてさえ「神聖にして不可侵の権利」とされた所有権であるが,プルードンは諸説のいうその存立根拠の一つ一つを覆す。所有を成立させた根拠そのものによって所有の存立不能性を証明してみせた。セー、マルサス、リカードウなどを批判して、最新の経済学に通じた社会主義者という、当時としては特異な存在となる。 プルードンは「所有は不可能である」ことを証明したあと、不可能なものがなぜ創設されたのかを考察する。かれによれば、人間の本能であるソシアビリテ(社会をなそうとする性向。感性的存在どうしの内的引力)がまず共同体(共有)を生み出し、そして人間の自由な能動性が共同体の束縛や抑圧からの脱却を求め、自分が自分であることの証を得ようとして所有を生んだ。共有も所有も、ともに善を求めて悪を結果するのは、人間の社会的本能が意識化されず、人間の自主性が正しく社会化されないことによる。 本書のもうひとつの特徴は集合力の理論である。労働者の協業は個人労働の単純な総和を上回る成果をもたらすのに、資本家はその剰余部分を盗み取っているという素朴な主張にとどまらない。集合存在としての人間(=社会)は個人としての人間とはまったく別個の性格をもつという社会学的理論として発展していく。善をめざした営みが全体としては悪を生む、その皮肉なメカニズムをプルードンは追求していくことになる。社会あるいは組織が独特の性質を帯び、自律的な運動を展開するものだと知ること、プルードンにとってこれが社会主義を科学にするポイントであった。 若いマルクスは大いに感動し、「聖家族」のなかで次のように語っている。
プルードンは自らの立場を「科学的社会主義」と名づけており、そういう意味に於いては「科学的社会主義」はプルードンの造語ということになる。 |
【「人類における秩序の創造」】 |
1843年、プルードンは、「人類における秩序の創造」(De
la Creation de l'ordre dans l'humanite, ou principes d'organisation
politique)を書き上げ出版する。 プルードンは、本書で、1840年の「所有とは何か」で展開した方法論を放棄する方向へむかう。即ち、矛盾(たとえば所有と共有)をより高次の第3項で解決するというアイデアを捨て、「矛盾の解消は次の矛盾へとつながり、矛盾は系列的に連鎖する」という系列の法則、系列弁証法を発見する。グリュンはこの本に感動して抄訳し、プルードンを「フランスのフォイエルバッハ」と呼んだ。ゲルツェンは、「純粋のヘーゲリアン」と賞賛した。それらの見なしはいずれも当たっていない。 プルードンは自覚的にも,用語法のうえでも,同郷の先達フーリエの思想を継承し、科学主義で色づけなおして発展させようとしたのである。対立・矛盾がダイナミズムを産み,いったんバランスをとっても、それはやがてくずれ、つぎの運動につながっていくと見た。社会を静止状態においてでなく動態としてとらえようとする強烈な志向がプルードンにはある。社会に内在する法則、系列弁証法を科学的に発見し、積極的にその法則にしたがうことが人類の課題であり、それこそが社会変革の道筋だという。この考えをさらに具体的かつ説得的に展開したのが1846年の著作「貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系」である。 |
【「貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系」】 |
1846.10月、プルードンは、「貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系」(Systeme des contradictions economiques, ou Philosophie de la Misere、Systeme
des contradiction economiques, ou philosophie de la misere)を著す。 分業・機械・競争・独占・租税・貿易・信用・所有・共有・人口という十のカテゴリーのそれぞれにプラス面とマイナス面がある。ひとつのカテゴリーの否定面を否定する形でつぎのカテゴリーがあらわれるが、これもまたあらたな否定面を不可避的に随伴する。善(肯定面)のみを保持し、悪(否定面)のみを除去しようとしてもそれはむなしい。なぜなら、両者はともにそのカテゴリーの本質的な属性であり、ともに必然で等価の存在理由をもっているからである。プルードンはこうした関係をカント風にアンチノミーと名づけ、現実の経済社会をアンチノミーの連鎖(すなわち矛盾の体系)として描き出そうとした。経済事象の内的対立が経済にダイナミズムをもたらし、アンチノミーがあるからこそ社会は前進する。矛盾がない状態とは停滞であり、生気の欠如であり、死のごとき無にひとしい。たとえば私的所有の弊害を見て共有の賞揚にむかうのはありがちな図式だが、こうした共産主義に永遠の楽園を期待するのは愚劣かつ危険である。もちろん私的所有の弊害を無視するのはさらにナンセンスかつ有害である。われわれはどこまでも矛盾とともに生きることを覚悟しなければならない。 プルードンは1846.117日付の私信で、かれの本当の狙いをこう書いている。「あまねき矛盾をとおして,あまねき和解へ」。即ち、完全で永続的なバランスはありえないと観念したうえで、なおわれわれはたえずバランスを求める努力をしなければならない。「貧困の哲学」でプルードンは経済学の礎石として「価値」を考え、価値のアンチノミー(使用価値と交換価値の矛盾)の根拠を生産の観点と消費の観点の差に求めた。経済カテゴリーの最終項「人口」においては、人口増加が生産力の増大にも食物不足(消費の増大)にもつながるというアンチノミーを指摘した。こうして叙述は最初と最後がつながる円環的な形をとり、経済的矛盾の解決を生産と消費の中間(=交換・流通の場面)に求める方向が示唆された。 |
【「プルードンの遺稿」】 | |||||||
斉藤悦則氏は、「プルードンの未発表手編『経済学』について」で次のように記している。 1846年、プルードンは「経済的諸矛盾の体系――貧困の哲学」を刊行したが,この著作は翌年マルクスの『哲学の貧困』によって手厳しく批判される。しかし,プルードン自身がこの批判の書の中に見たものは,ドイツ人青年亡命者の功名心と嫉妬にすぎない。じっさい,二つの書を読み比べると,マルクスの書は批判というよりむしろ悪意にみちた中傷といった性格が強い。そこでプルードンはこれを黙殺する。 47年以後のプルードンの活動は多忙をきわめた。それは『経済的諸矛盾の体系』で一応研究の段階を終り,これからは応用の段階に入ると考えていたからである。こうして彼は新聞を発行し,時局について大いに発言しはじめる。48年革命以後は,国会議員となったり,「人民銀行」の設立を企てたりする、65年に死ぬまで,数多くの著作を発表したが,体系だった経済学理論を展開することはもはやなかった。はたして,彼の経済学研究は46年の著作をもって完了してしまったのであろうか。 じつはプルードンは50年代の初めごろ『経済学』と題する著作を準備していた。1954.10月、友人あての手紙のなかでプルードンはこう書いている。
しかし、この『経済学』は結局公刊されなかった。かなりの量の手編が書きためられながら、ついに未発表のままとなったのである、それはながくプルードンの家族の所蔵する手稿群のなかに埋もれ、わずかにプルードン研究者オプマンのみが博士論文作成のために閲覧・利用している。そのオプマンの博士論文(および補助論文)でも、『経済学』手稿の全体の枠組みは明らかにされていない。
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(私論.私見)