32643 マルクスのプルードン批判考

 斉藤悦則氏の「マルクスの『哲学の貧困』を読む」、「『新マルクス学事典』の項目執筆」をテキストとする。
【「貧困の哲学」考】

 1847.7月、マルクスは、「哲学の貧困」(Misere de la philosophie)を著し、1946.10月のプルードンの「貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系」を批判した。マルクスの本書は、プルードンの著作のタイトルをひっくり返したものであり、題名からして挑発的なものになっている。これを「パロディの才を示す」と観る向きもある。叙述の全体に公正を欠いたプルードンへの悪罵をちりばめており、マルクスの「らしさ」を窺わせるものとなっている。

 プルードンの『貧困の哲学』(副題=『経済的諸矛盾の体系』)は分厚い本だが、マルクスは二日で読了。そして、ただちに批判にとりかかる。当時、マルクスは28才、パリ、ブリュッセルと移り住む無名のドイツ人亡命者であった。一方、9歳年上のプルードンが労働者階級の出身でありながら1840年の「所有とは何か」で名をあげ、ヨーロッパ思想界のスターとして存在していた。マルクス自身もかってはプルードンを大いに賛美していた。

 25才の頃、マルクスはパリでプルードンと交わり、独仏交流の評論誌への参加をよびかけている。しかし、プルードンはこの若者がほかのドイツ人亡命者を非難するその言葉の激しさや心根の狭さにいささかあきれる。プルードンは社会変革の活動のなかでも「あらゆる異議の歓迎、すべての排他性の払拭が大事」と諭すのだが、マルクスにはそうした発想こそがプロレタリアートの運動にとって有害と思われた。寛容やバランス感覚を重んじるのはプチ・ブル(小ブルジョア)的な感傷にすぎない。そこで、マルクスはそれまでの友好的な態度を改め、相手を理論的に打ちのめして、プルードンが革命家たちに与えている影響力を失わせようと企てる。

 したがって,相手の頭の悪さを言いつのる本書は、知性を誇る著者の嫉妬心と功名心の産物と受けとめられることはあっても、フランス語で書かれたものでありながらフランスの知識人・労働者にはほとんど何のインパクトも与えなかった。

 プルードンも著者からこの本を寄贈され、読んでいるが、 プルードンは黙殺する。「批判」には何ら痛痒を感じず、むしろ著者を憐れむ。寄贈された本の欄外にプルードンはこう書き込む。

 「マルクスの著作の真意は、かれの考えそうなことはどれも私がとっくに考え、かれより先に発表しているので悔しいという気持ちだ。マルクスは私の本を読んで、これは自分の考えだと歯がみしている。それが見え見え。何というやつだ!」。

 たしかに、マルクスは批判をしているつもりだが、それは相手が到達した高みの、その本質的な部分で対決して、議論の次元を高めていくたぐいの批判ではない。相手の主張を勝手にゆがめたうえで、そのゆがみを攻撃する。たとえば、「経済的カテゴリーの良い面を保持して、悪い面を除去せよ」というのがプルードンの形而上学だと嘲笑する。この箇所へのプルードンの書き込みはこうだ。「ぬけぬけとした中傷!」。

 しかし,マルクス個人の思想的成長にとっては,この著作はきわめて重要な位置を占める。マルクス自身,のちに『経済学批判』「序言」でこう述懐している。

 「われわれの見解の決定的な諸点は,1847年に刊行された『哲学の貧困』のなかで,たんに論争のかたちではあったが,はじめて科学的に示された」。

 すなわち,パリ滞在中に「市民社会の解剖学は経済学のうちに求めねばならない」と悟得して開始した経済学研究の最初の学問的成果が『哲学の貧困』であった。その「科学的」方法が『資本論』の方法の原型となっていくという意味でも,マルクス経済学形成史上「決定的な」作品である。プルードン批判としては当たっていないにせよ,マルクスはこの著作によってかれ自身の「以前の哲学的意識を精算する」ことに成功した。唯物史観がここで確立されてゆく。

 斉藤悦則氏は、「プルードン」の冒頭で次のように記している。

 「若いマルクスはプルードンをフランス社会主義の最も良質の部分と見なし,「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」であると言ったが,1846年を境に評価は一変する。「彼は資本と労働のあいだを……たえずうろつくプチ・ブルジョアであるにすぎない」とされた。たしかにプルードンは職人的な労働者であったし,ある時期には経営者でもあった。しかし,そうした経験の裏打ちがプルードンの思想に独自のふくらみと説得力を与えているのである」。

 マルクスの批判の書「哲学の貧困」は二つの章からなる。第一章はプルードンの経済学を批判し、第二章は哲学を批判する。

 経済学を批判するといっても、それはプルードンの価値論がリカードの労働価値説より劣っていると主張しているだけのものである。その眼目は、プルードンを平等主義者に見立てる点にある。相手を素朴で幼稚な社会主義者のように描き出し、最高水準の経済学者(マルクスにとってのリカード)と見比べて、「平等主義的な結論」のお粗末さを笑う。フェアなやり方ではない。

 
プルードンはその著作(全一四章)の第二章で価値論をあつかうが、その前の第一章では経済の科学について論じ、現状に添い寝する「経済学」と夢見心地のままの「社会主義」の不毛な対立を浮き彫りにした。そして、経済学の礎石である「価値」の概念にも矛盾があるとし、以下すべての経済カテゴリーにおける矛盾の系列的な連鎖へと叙述をつなげてゆく。

 マルクスによる批判は、相手の積極的な部分とわたりあって議論を高次化するたぐいの批判ではない。相手の弱点をさぐり、そこを集中的にたたく。引用文を並べて客観性を装いつつ、相手の言い分を巧みにゆがめる。

 哲学批判の部分はさらにその傾向が強い。マルクスはいう。「彼にとって、解決すべき問題は、悪い面を除去して良い面を保存することである」。そうではない、とプルードン自身が言っているにもかかわらず、マルクスはこのフレーズをくりかえす。さらに、「悪い面こそ歴史をつくる運動を生みだすのである」というが、これはもともとプルードンの発想。

 マルクスがこうした荒っぽい手口を用いるのは、彼がそこで理論闘争ではなく政治闘争を展開していると意識していることによる。プロレタリアートとブルジョアジーの階級闘争、その全面的な対決の前夜にあっては、プルードンのような客観主義的な態度は許されない。プロレタリアートの革命的気概の盛り上がりにとって、小ブルジョア的な感傷やためらいは有害である。革命運動からプルードンの影を一掃しよう。マルクスにとって、これはどんな手を使ってでもやりとげなければならないことであった。

 最後にマルクスは「労働者のストライキは非合法である」というプルードンの言葉を引用し、その反革命性を印象づけようとする。プルードンのレトリックを無視した引用で、もとの文意を逆にしてみせた。なにしろここは戦の場なのだから、何でもありなのである。

 すべてを戦争になぞらえるマルクスのしめくくりの言葉は一段と勇ましい。「戦いか、死か。血まみれの戦いか、無か。問題は厳として、こう提起されている」というジョルジュ・サンドを引用し、「社会科学の最後の言葉」はこの一句につきるとする。すなわち、戦闘性をそなえない社会科学は無意味だと結論した。
 

 この本から何を学ぶか

 この本はプルードン批判としては問題があり、じっさい発刊当時はほとんど売れず、社会的インパクトはゼロに近かった。しかし、いったんマルクスが偉くなると様子が変わる。青年マルクスの口汚い罵りの言葉までもが神々しく、ありがたく読まれるようになる。本書は、偉大な思想が卑小な思想を木っ端みじんにうち砕く痛快な読み物として、また白と黒をはっきりさせてわれわれがどちらの側に立つべきかを教えてくれる階級闘争の教科書として、マルクス主義の必読文献の一つとされた。

 それはついこのあいだまでの風潮。いまでは、もっと別の読み方が大きな顔をしてできるようになった。たとえば、ここで青年マルクスを等身大のまま見ようとすれば、自分の新しいアイデンティティを獲得するために父親殺しを試みる若者の姿が浮かんでくる。口調の激しさは自己否定の苦悶とその断固たる意志をあらわす。また、初期と後期のマルクスの落差を知るための資料として読むのもよい。これはごくマニアックだが、同時にきわめてオーソドックスな読みのスタイルである。マルクスについて、こじゃれたことを言って悦に入りたいなら、本書をはずすわけにはいくまい。


 
マルクスの思想形成の過程において、この著作が一つの大きな節目をなしていることはたしかである。マルクス自身が後年(『経済学批判』の序言で)述べているように、彼はここにおいて「科学的」方法を確立し、それまでの哲学的意識を精算できた。すなわち、経済学の面では自分のうちにあった「平等主義」的な感傷から脱却し、哲学の面ではいわゆる史的唯物論の骨格をここでつくりあげることができた。

 したがって、マルクスの著作のあれこれを読んだ後ならば、この本はマルクス理解のために大いに役立つ。では、初心者はこの本を敬遠すべきなのだろうか。単独のテキストとして読んではいけない本なのだろうか。いや、そうではない。この本は単独でも十分楽しめるし、十分タメになる。そこで、初心者向けに読みのコツを一言。

 まず、第一章は飛ばし読みをお勧めしたい。価値論の部分は話がこまかいばかりでなく、ここでのマルクスはリカードの価値論の枠内にとどまっているので、読者はとりあえず悪口の言い方やマルクスの小物っぽさを楽しめばそれでよい。

 その点、第二章は読ませる。読んでいるうちに自分まで頭が良くなったような気分になる。プルードンに対する批判の当否を棚上げにし、一種の文学作品として批評の芸を味わえば、また一段と楽しい。歴史が好きな人にはさらに御利益がある。第二章の話の大筋は歴史のとらえ方にかかわっており、読めばなるほどとうなずかされる巧みな叙述が続く。これが歴史の法則性についてのすぐれた教科書とされてきたことも納得できる。

 もちろん、その結論部分は重要だ。すなわち、階級対階級の闘争を語った部分から、階級概念の新しい可能性についてヒントを得られるかもしれない。いまからこの本を読もうとするぐらいの人なら、あるいはとんでもない読み方ができて、新しい道を開くかもしれない。そして、とんでもない読み方こそが、この本には一番ふさわしい。
Back to Home Page






(私論.私見)