【その1、戦後政治の大枠、タガ嵌めの俯瞰図について】 |
(最新見直し2006.9.22日)
この前は、【れんだいこの戦後民主主義賛辞考】
れんだいこは、「第二次世界大戦直後の世界新秩序『戦後冷戦体制』考」で次のように記している。
このようにして戦後日本の政治が始まった。敗戦でひとたびは戦前的権力がご破算にされた。米帝を主とする連合国軍(以下、GHQと云う)の占領下での抗争という限定付きであったが、この間隙を縫うようにして左右両翼による政権取り抗争が始まった。この「左右両翼による政権取り抗争」が戦後日本の政治構造の第一の特質である。付言すれば、この勝敗は左派が敗北した。その原因は今も突き詰められていない。仮に頭脳が良くても軍略家がいないということであろう。 GHQは、第二次世界大戦がファシズムと民主主義の闘いとして喧伝され、民主主義を標榜する連合国軍が勝利したこともあって、戦後日本の政策を「米欧的民主主義」を模範として押し進めていくことになった。いわゆるマッカーサー政治が施行され、これがいわゆる「戦後民主主義」の原基となる。この民主主義は、今日的なネオコン強権主義と比較するときはるかに善政であったように思われる。 ところで、GHQ政治の奥の院は当時では不分明であったが、今日では「国際金融資本に操られた米英ユ連合権力体」(仮に、これを「ネオ・シオニズム権力」と命名する)を本質としていたことが判明しつつある。この時のGHQ政策つまり「ネオ・シオニズム権力」の政策の指標は、次のことにあった。第一に、戦前の天皇制軍国主義的要素を解体させ、戦後の国際的支配階級として立ちあらわれるに至った「ネオ・シオニズム権力」に対して二度と歯向かわないよう政治、経済、教育文化の一切を統制する。むしろ、「ネオ・シオニズム権力」に迎合的な政治、経済、教育文化の一切を積極的に育成する。このようにして「戦後民主主義行政」が施策されていった。そういう系譜としての「戦後民主主義行政の推進」が戦後日本の政治構造の第二の特質である。 第三に、戦後世界は米ソ二大国を極とする冷戦構造的対立抗争時代に入った。これにより戦後日本は、両体制から「魔の手」が差し伸べられ、いずれかの陣営に付かざるを得なくなった。結局、「ネオ・シオニズム権力」が戦後日本を掌握することになるが、この過程は平坦ではなかった。国内で、「ネオ・シオニズム権力」に誼を持つ勢力とソ連、後に新中国が誕生することによるソ・中との誼を持つ勢力とが激しく闘った。しかし所詮、GHQ最高司令官として米太平洋方面陸軍総司令官・ダグラス.マッカーサー元帥が乗り込んできていたことからして明らかなように、当初より「ネオ・シオニズム権力」のイニシアチブにより担われたこともあって、最終的に日米同盟化で決着していくことになる。この「日米同盟化の流れ」が戦後日本の政治構造の第三の特質である。 付言すれば、「ネオ・シオニズム権力」とソ連、新中国の関係は、喧伝されるているほど対立関係にあるのではない。実態は、ソ連、新中国も又「ネオ・シオニズム権力」に取り込まれており、特にソ連の場合はロシア革命の当初より「協調と反発」というある種の矛盾関係に在り、その関係の中で資本主義陣営対社会主義陣営の対立を演じていた、と捉えねばならない。 もとへ。見落としてならないことは、この過程で戦後憲法が発布施行されたことである。戦後憲法は、GHQ民生局の開明派いわゆるニューディーラー達が草案を起草することにより、史上例の無い大衆民主主義的な諸規定を網羅していた。特に、天皇制の戦前的な君主制から象徴制への転換、再軍備禁止、国際平和協調主義、議会制民主主義、国民の民主主義的諸権利の徹底保証、地方分権制等々においていわばフランス革命以降の諸成果を生硬に取り入れていた。 この時制定された戦後憲法は、プレ社会主義的なものであり、であるが故に当時の日本人民大衆はこれを歓呼で喜び迎えた。今日憲法改正の流れが見えてくるが、現下の政治権力にとってこのプレ社会主義性が容認できないということであろう。 GHQの「戦後憲法の導入及び戦後民主主義行政の推進」的貢献が大きく左右したと思われるが、戦後日本はそれらの産みの親たる米国を極とする資本主義体制への陣営入りを選択することになる。但し、「戦後憲法の導入及び戦後民主主義行政の推進」は戦後の数年間機能しただけでまもなく転換を迫られる。米ソ超大国による体制間抗争が激化し始め、日本は「東亜の反共の砦」的位置づけで再編成され始めたからである。戦前的権力の解体に伴う軍国主義者の追放が解除され、逆にレッドパージが始まる。戦後憲法の国際平和協調主義が崩れ再軍備が促される。このドラスティックな転換に象徴される「国内的戦後憲法秩序と国際的日米同盟秩序の二元主義」が戦後日本の政治構造の第四の特質である。 もう一つ見えてくるものがある。それは、戦前の国家機構が日清、日露、第一次、第二次世界大戦に向かう過程で戦略的にかなり高度な政治体制秩序を有機的に構築していたことである。見方によれば国家社会主義的でさえある。聖戦遂行の為に否応なく進められたシンクタンクとしての発達した官僚機構と基幹産業の国営化に象徴されるが、これが戦後日本再建の礎石となる。これはプレ社会主義的原資となるものである。このことは中曽根政権以来の逆行的民営化の流れでみえてきたことである。この高度に発達したプレ社会主義的官僚機構及び基幹産業の国営化が戦後日本の政治構造の第五の特質である。 もう一つ見えてくるものがある。それは、大東亜戦争で認知されたことであるが、「発達した官僚機構」を支える日本人民大衆の識字率の高さ、組織性、規律性、戦闘性つまりこれを労働能力とみなせば驚嘆すべき有能性を示していたことである。その成果である産業技術の高さもあいまって注目されることになった。日本経済の強さの秘密がここにある。マッカーサー元帥の言に拠れば、概要「上層部の俗物性に比して日本人民大衆の優秀さは驚嘆すべきもの」であった。この「日本人民大衆の労働能力の高さ、民間企業の経営能力の高さ」が戦後日本の政治構造の第六の特質である。 以上の6特質が戦後日本を規定する大枠としてのタガ嵌めである。さて、戦後日本権力が、この大枠の中で、如何に国政を切り盛りしていったのかが次の考察となる。 2004.7.8日 れんだいこ拝 |
この後は、【その2、「ハト派元祖吉田ドクトリン」の形成】に続く。
(私論.私見)