【その8、タカ派主流派時代の幕開け考】 |
(最新見直し2006.9.22日)
この前は、【その7、ハト派対タカ派の死闘時代考】
【史上極悪中曽根政権の登場】 |
1982.10.12日、鈴木首相が突然辞意表明する。後継総裁のイスをめぐって、中曽根康弘.河本敏夫.安部晋太郎.中川一郎の4名が立候補し、自民党総裁公選予備選スタートする。11.24日、予備選が行われ、中曽根・河本・安倍・中川の順となり、河本以下三候補の本選挙辞退により、臨時党大会で中曽根康弘総裁を満場一致で承認。中曽根が第11代自民党総裁に指名される。 11.27日、第1次中曾根内閣が発足する。この時、幹事長・二階堂進、官房長官・後藤田正晴、大蔵大臣・竹下登、法務大臣・秦野章らの面々で判明するように中曽根内閣の主要閣僚は田中派で押さえられていた。総裁派閥以外から官房長官が起用されたのは第2次佐藤内閣以来となった。これを見て、商業新聞は、「ロッキード潰し内閣」・「田中曽根内閣」、「角影」、「角拡散」、「角噴射」等々あらゆるレッテルを貼って批判した。しかし、この批判が如何に的外れだったか。ないしは如何にも素人的なそれであることか。 れんだいこの観るところ、田中派の閣内取り込みは政権取りの為の手法に過ぎず便宜的なものでしかなかった。中曽根政権誕生に際して、読売新聞の当時の論説委員長・ナベツネが「私が中曽根首相を作った」と公言している。これにつき「顰蹙をかった」と評する向きがあるが、そうではない。中曽根政権作りは、1956年、総裁選の最中に読売新聞社主兼代議士でもあった正力松太郎を介して中曽根とナベツネが出会って以来の苦節30年にわたる悲願であった。このベクトルの方こそ真性のものである。「この四半世紀、渡辺と二人三脚で政界の荒波を潜り抜けてきた盟友が遂に権力の頂点を極めたのである。もう怖いものは何も無い、そんな心境に渡辺はなったのだろう。この頃から傍若無人と言われても仕方ない行動が目立ちはじめる」(「渡辺恒雄 メディアと権力」)とある。 中曽根政権は次第に露骨な売国的タカ派政治化していくことになる。中曽根首相は、首相就任初の施政演説で、「戦後政治の総決算」を謳い、「戦後政治を総合的に見直し、21世紀に向かっての基本的路線を策定する」と強く表明した。その意味するところは次のようなものであった。「一本の柱は、吉田政治からの脱却でした。私に云わせれば、エセ一国平和主義ですよ。憲法改正・防衛軍創設などを求める鳩山一郎や三木武吉、河野一郎などに対抗するためでもあり、日本弱体化を狙っていたアメリカの政策にともかく迎合するのが得策と考えたこともあるでしょう。国家像の構築や安全保障は棚上げして経済重点主義に走った。それが結果として国民精神を歪めて、国民の中に国家意識が無くなってしまった。池田さん、佐藤さん、角さんと、いずれも吉田路線を踏襲した。私はその路線から脱却して、新しい国家像を構築し、歴代首相が逃げ腰だった防衛問題に真っ向から取り組むことにしたのです」、「はっきり云えば、マッカーサーの占領政策がそのまままかり通ってきて、国際的には常識である防衛問題を論じることがタブーになっていた。私はそれを叩き壊そうとしたのです」(田原総一郎「『法王(れんだいこ注-田原氏は角栄のことを指している)』の恐怖政治」月刊諸君2002.5月号)。 中曽根政治の本質は、戦後政治史上例を見ない米英ユ連合に露骨に迎合するタカ派「仕事師内閣」であったことにある。これを仮に「中曽根ドクトリン」と云う。中曽根内閣は5年間続き、佐藤栄作の7年8ヶ月、吉田茂の通算7年に次ぐ戦後3番目の長期政権となる。80年代初頭に敷かれた「中曽根ドクトリン」路線がその後の日本政治の質を規定していくことになる。 以下、中曽根政治の何たるかは語るより何を為したかで判明させていくことにする。 83年度予算案で、一般歳出がマイナスの超緊縮財政中、防衛費だけは6.5%の突出している。これが「福祉国家よさようなら、安全保障国家よこんにちは」の出初めになった。ODA(政府開発援助)は8.9%増で、韓国訪問の手土産に使われた。聖域化を強めた。国債発行額は、13兆3450億円(建設国債が6兆3650億円、赤字国債は6兆9800億円)で、前年度当初より2兆9050億円多く、国債依存度は26.5%に上がった。 1983.1.17日、中曽根首相が、アメリカに対して武器技術の供与を決定している。それまで、武器輸出三原則により、日本はどの国に対しても武器輸出はもちろん、技術供与も禁じられていた。前政権鈴木首相時代に、アメリカは日本に、同盟国として武器技術の供与を強く求めていたが、応じていなかった。中曽根は今日、「アメリカから武器そのもの、そして軍事技術もたくさん供与してもらっているのに、こちらからは一切供与しないというのは不合理極まりない。内閣法制局の解釈を変えさせるのに苦労しました」と述懐している。 1月、中曽根首相初訪米。「日米は太平洋をはさんでの『運命共同体』であり、同盟関係にある」と中曽根は述べている。「ロン」・「ヤス」と日米首脳がファースト・ネームで呼び合うなど親密さを演出することに成功した。この時、中曽根首相は、ワシントン・ポスト紙のグラハム社主等との朝食会で、「わが国の防衛に関しては、私なりの見解を持っている。それは、日本列島を不沈空母のように(ソ連の)バックファイアー爆撃機の浸入に対する巨大な防衛の砦を備えなければならないということだ」と発言し、物議を醸している。 |
【ロッキード裁判の政治的利用】 |
ロッキード事件との関わりを見ておく。10.12日、東京地裁のロッキード事件丸紅ルート第一審で、田中元首相に有罪実刑判決が下された。検察側の主張どおりに受託収賄罪などで懲役4年、追徴金5億円、榎本も有罪とされた。贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役2年6ヶ月、伊藤宏専務が懲役2年、大久保利春専務が懲役2年・執行猶予4年。田中は直ちに保釈の手続きをとった。
当夜、中曽根首相の田中宛親書が上和田義彦秘書官を通じて佐藤昭子まで届けられている。議員辞職を要望する内容であった。これに対して、佐藤は、「この手紙は田中に見せません。だって田中は、ありもしない事件、不当な裁判と命がけで戦って無実を勝ち取ろうとしています。不当な裁判で無茶苦茶な判決が出たからといって、はいそうですかと引き下がる必要は全くないではないですか」と答えている。 10.28日、ホテルオークラの902号室で、田中角栄、中曾根首相会談が行われ、中曽根は何とかして角栄の議員辞職を引き出そうと試みた。だが角栄は「私は無罪だ。この屈辱を何とか晴らしたい」と司法と戦う決意を示し、結局「自戒自重」の談話を発表することになった。11.1日、中曽根は自民党総務懇談会で、「10.28会談」を報告し、「進退は自分で決めることだ。返事は聞く必要ない。『よく考えてくれよ』と善処を要望した」と報告している。 |
【最初の総選挙で惨敗】 |
11.28日、野党からの内閣不信任案を受けて、総選挙に突入する。この時点での政界勢力分布は、自民286名(田中派64、鈴木派62、福田派47、中曽根派44、河本派31、中川派11、中間.無派閥28)であった。選挙の結果、250に激減し半数割れで惨敗。保守系無所属の当選者8名を追加公認し、新自由クラブ8名と連立することで、辛うじて安定多数を確保した。 奇妙なことは、福田派が6名、鈴木派が12名、中曽根派が6名減らしていたが、最も打撃を受けることが予想された田中派は2名減にとどったことである。しかも、新潟3区での田中の得票数は22万761票。新潟3区の総投票数の得票率46.6%を獲得していた。ほぼ二人に一人が田中と書いたことになる。現職の総理であった72.12月の総選挙での18万2681票をも上回った。この時作家の野坂昭如が立候補していたが、2万8045票で落選している。せっきょのそのは】 この現象は、マスコミを尖兵とする政界の角栄放逐運動にも関わらず、有権者の多くがそれに乗せられなかったということになる。しかし、このことの冷厳な事実を確認することも無く、選挙後の角栄放逐運動は一層ヒートしていくことになる。それは、以降の我が国の政界変調の兆しであった。 |
【「中曽根ドクトリン」の満展開と衆参同日選挙での大勝】 |
中曽根内閣の84年度政府予算案は、一般歳出が前年比マイナス0.1%の緊縮財政の中で、引き続き防衛費だけ6.55%増で又もや突出、「福祉国家よさようなら、安全保障国家よこんにちは」傾向が一層強められた。国債発行額は、12兆6800億円(建設国債が6兆2250億円、赤字国債は6兆4550億円)で、前年度当初より6650億円減、国債依存度は25%になった。国債費が9兆円を超えて、歳出の18.1%を占め、1位の社会保障費に続き2位となり地方交付税を抜いた。
2月、共産党が、田中角栄に対する議員辞職決議案を衆院に提出。 11.1日、第2次中曽根改造内閣発足。(新自クとの連立継続)首相・中曽根康弘、副総裁・二階堂進、幹事長・金丸信(田中派)、総務会長・宮澤喜一鈴木)、政調会長・藤尾正行(福田)、大蔵大臣に竹下、外務大臣に安倍が留任。 中曽根内閣の85年度政府予算案は、一般歳出が前年比マイナス*.*%の緊縮財政の中で、4年続きのマイナス・シーリングの中で引き続き防衛費だけ6.9%増で突出、遂に3兆円を突破した。GNP比率0.997%。昭和51年11月の閣議決定(三木内閣)の「GNP比率1%を超えないことを目途とする」の線まで89億円を残すだけとなった。ODA(政府開発援助)は10%増。「総合安全保障」傾向が一層強められた。 国債発行額は、11兆6800億円(建設国債が5兆9500億円、赤字国債は5兆7300億円)で、前年度当初より1兆円減、国債依存度は22.2%になった。年度末の国債残高は133兆円と見込まれ、国債費は10兆円を超えて、歳出の**.*%を占め、1位の社会保障費を抜き、支出項目の第1位に踊り出た。 2.7日、竹下登.金丸信による政策勉強会「創政会」旗揚げ。他に橋本龍太郎、小渕恵三、小沢一朗、梶山静六、羽田孜、奥田敬和、渡部恒三ら各氏。田中派の亀裂が鮮明化した。2.27日、田中角栄元首相脳梗塞で倒れる。東京逓信病院に入院(5.5日判明)。以降、長期療養生活に入ることになった。『政界の田中支配終焉』。 8.15日、中曽根首相及び政府閣僚の多数が、戦後の首相として初の靖国神社に公式参拝し、日本の野党、民間団体がこれに強く反対。中国の世論は日本の閣僚が侵略戦争を美化したものと批判。 9.22日、「先進国5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)」がニューヨークのプラザホテルで開かれ、竹下大蔵大臣が出席。「プラザ合意」が為され、為替市場協調介入強化が合意された。日本はその後、バブル時代に入る。 この背景には、アメリカの双子の赤字(85年度の財政赤字・2123億ドル、貿易赤字1485億ドル)問題があった。ジェームズ・ベーカー財務長官が日本と西ドイツ(ゲアハルト・ショトルテンベルク蔵相)に頭を下げて、「ドル安誘導の為に政策協調して欲しい」と要請した、と伝えられている。この頃の日本の対米貿易赤字は、82年に約121億ドルであったのが、84年には約370億ドルに達していた。西ドイツの対米貿易黒字は79億ドル。 12.28日、第二次中曽根再改造内閣が成立。安倍外相、竹下蔵相留任、渡辺美智雄通産相、海部俊樹を文相、後藤田氏を再度官房長官に起用。 9.11日、自民党両院議員総会、党則を改正して中曽根首相の総裁任期を一年間延長(87/10/30まで) 12.30日、政府'87年予算で76年三木内閣が決定した「防衛費GNP1%枠」をはじめて突破。 |
【「中曽根政権終息」】 |
1.26日、第108通常一国会で中曽根首相が施政方針演説。以降、売上税問題が焦点化。与野党を通じて導入反対運動が盛り上がる。 4.1日、JR六社発足。4.14日、国鉄民営化。JR7社(北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州、貨物)が誕生。松田昌士はJR東日本、井出正敏はJR西日本、葛西敬之はJR東海の社長に就任。 4.17日、米国、対日経済制裁措置に踏み切る(日米経済摩擦の表面化)。 4.23日、売上税関連法案、事実上の廃案。 7.4日、竹下登自民党幹事長が113名を率いて田中派から独立、経世会を結成→自民党最大派閥。 中曽根康弘総裁の任期満了。 |
この後は、【その9、矮小政権時代考】
(私論.私見)