【その5、日本左派運動の支離滅裂考】

 (最新見直し2006.9.22日)

 この前は、その4、岸ドクトリンの登場と二大ドクトリンの抗争考

【「岸政権対60年安保闘争】

 岸政権の最大政策課題は、60年安保条約の改定であった。その意味するところは「日米新時代の創出」であったが、アメリカからの防衛力の強化要請と、対等の日米関係の構築を同時的に練り合わせするという曲芸的なものであった。59年から60年にかけて、日米安保条約の改定問題が、次第に国民的な課題となって押し出されつつ急速に政局浮上していった。

 日本左派運動は、岸首相の戦前以来の国家主義者的履歴、政治観及びその手法、岸政権以来の反動的諸政策を踏まえ、岸政権の画策する60年安保改定に反発していくことになる。

 1959.3.28日、日本左派運動派は、先の「警職法改悪反対国民会議」の闘いの成果を受け継いで「安保条約改定阻止国民会議」(以下、「国民会議」と記す)を結成した。「国民会議」は当時の左翼勢力の大同団結による共闘組織であり、その能力が問われていた。この共闘組織は以降二十数波にわたる統一行動を組織していくことになり、次第に全国各地に共闘組織を結成していった。

 1960.1.6日、安保条約の改定交渉が、丸1年3ヶ月を費やして終わり、 岸首相が渡米して調印するばかりとなった。この岸渡米に猛然と阻止闘争に向かったのが結成されてまもないブントであった。概要は「空前絶後の安保闘争闘われる。その余波」に記したが、その結果、6.23日、新安保条約の批准書交換を見届けて、岸首相が退陣を表明した。「ここに私はこの歴史的意義ある新条約の発効に際し、人心を一新し、国内外の大勢に適応する新政策を強力に推進するため、政局転換の要あることを痛感し、総理大臣を辞するの決意をしました」。

 
この時、宮顕系日共は、ブント的急進主義運動にことごとく敵対し日本左派運動の内部分裂を画策したが、この時の「60年安保闘争」が、「不文律吉田ドクトリン」のハト派政治に代わって台頭しつつあったタカ派系政治の背骨を折り、政権与党内のハト派系の再登場を促したことは疑いない。「60年安保闘争」の史的意義はこの観点から見直されるべきであろう。これが60年代初頭のことである。既成社共運動の穏和主義に対抗する急進主義的新左翼運動の登場の流れが「戦後日本政治史の特質6」となる。


 この後は、その6、ハト派の主流派時代考





(私論.私見)