【ハト派の主流派時代考】

 (最新見直し2006.9.22日)

 この前は、その5、日本左派運動の支離滅裂考

【「池田政権、そのハト派政策」】

 岸辞意表明後、自民党内は後継人事に揺れることになった。池田隼人(前通産相)、大野伴睦(副総裁)、石井光次郎(朝日新聞出身の党人派)、藤山愛一郎、松村らの面々が候補となり、この闘いを制したのが池田であった。この時池田擁立の裏方を大平正芳が取り仕切っていた。その大平に知恵と手法を授けたのが佐藤派に籍を置いていた田中であった。

 1960.7.19日、第一次池田勇人内閣が成立した。池田政権登場の政治史的意味は、池田が佐藤栄作と並ぶ吉田学校の愛弟子であることからして「不文律吉田ドクトリン」への回帰つまりハト派政治の再登場というところにある。こうして、戦後の政権与党として立ち現れた自民党内はハト派とタカ派があざなえる縄のように絡みつつ活力を保持していくことになる。池田内閣は、池田・岸・佐藤の三派を主流とする体制となったが、ハト派がタカ派を呑み込んでの合従連衡であったことを証左している。これが60年代初頭の政権党内の相克である。「ハト派がタカ派を呑み込むハト派政治」の流れが「戦後日本政治史の特質7」となる。

 この時、池田は次のように語っている。「忍耐と寛容」、「所得倍増」を旗印に掲げ、「経済のことはお任せください」、「毎年7.2%の成長確保で10年間で国民の所得を二倍にしてみせます」、「私の任期中は刑法改正も再軍備もしません」。つまり、岸政治に濃厚であった憲法改正、自衛隊増強路線から一転し、「不文律吉田ドクトリン」を焼き直した「軽武装経済成長」路線にシフト替えしたことになる。政教分離の方針のもとに中華人民共和国との貿易拡大をはかり、1962年には準政府間貿易の取決めが行われた。

 池田は、次のように政治哲学を述べている。「私はかって、いつ終わるともわからない長い闘病生活の間に、一つの堅い信念というべきものを持った。それは『人間はいかなる境遇にあろうとも、誠意を持って世のため人のために尽くし、自ら努力を怠らない限り、必ず生きていく道はある』ということである」(「均衡財政」)、「私は、それはそのまま一つの民族についてもいえることだと思う。8400万人というわが国の人口は、世界においても決して少ない数ではない。その8400万人が、誠心誠意、平和を愛し、人類の福祉を願って勤勉に働く限り、どうして生きていけなくなる筈があろうか。我々日本人が、今日ほど、他の民族から愛せられたことが、かってあったであろうか。私の接する外国人はみな日本人の勤勉を賞賛している」(「誠意と努力の哲学」序文)。「共産主義は予見できる将来において自由な民主主義に勝つことは出来ない」(新聞インタビュー記事)。

 池田政権の高度経済成長政策は軌道に乗った。「戦後復興」時代が終焉し「類稀なる高度成長」時代へと突入していった。1964.4月、日本はIMFの勧告に従いIMF8条国となった。これと前後して、資本取引の自由化を原則とするOECD(経済協力開発機構)に加盟が認められた。日本はこうして名実共に先進国への仲間入りを果たした。池田首相時代の経済的発展は世界史上に特筆されるハト派の善政時代であったように思われる。こうした施政が登場すること自体が戦後日本政治史の特質であった。

 1964.6月、自民党総裁の改選期に入り、池田三選の是非をめぐって党内が割れた。池田、佐藤栄作、藤山愛一郎が立候補し政権取りを争った。かっての吉田門下の両柱だった池田と佐藤の争いが熾烈を極めた。佐藤派内は池田再選を廻って派内が割れた。保利と福田が再選阻止に動き佐藤の立候補擁立に動いた。親池田系に位置する田中は大平と組んで池田三選−その後佐藤への禅譲構想で対抗した。この時、池田・佐藤の密議も交わされたが「酒乱の電話」でご破算となった。結局、佐藤は立った。これを受けて、「佐藤君に、君達からも云っておけ!公選では、百票は引き離してみせるからな。負けた後で吠え面かくなよ、とな」と、池田が夜回りにきた記者に云ったことが伝えられている。

 池田3選を目指したのは、池田・河野・大野・三木・川島の5派連合。3選阻止派の佐藤は、佐藤、岸・福田、石井の3派連合。独自の戦いをしたのが藤山派。特に池田派と佐藤派の攻防が凄まじく、この時飛び交った実弾は20億円と推定されている。相互に「一本釣り」を行い、「ニッカ」(二派から金を貰う)、「サントリー」(三派から貰う)、「オールドパー」(皆から貰った挙句誰にも入れない)議員が現れた。事前予想は「両派相伯仲」、「公選は大接戦」となり、政治記者たちの客観的な分析によってもなお、いずれが勝利を得るのか、まったく読みきれなかった、と伝えられている。

 7.10日、自民党総裁公選が行われる。第一回目の投票結果は、池田243票、佐藤194票、藤山39票であったが、池田が過半数に達せず(池田が佐藤・藤山連合を上回る事僅か10票)決選投票となった。この時、佐藤と藤山が2、3位連合を組み佐藤を立てた為、、池田は佐藤にわずか5票だけ上回る激戦となった(得票不明)。こうして、池田は、対立候補の佐藤、藤山の追撃を振り切り三選された。とはいえ、予想外の苦戦であった。後の政治史から見て必要なことを記せば、第三次池田内閣は、幹事長に三木武夫、官房長官に鈴木善幸を登用している。

 ところが、池田が病魔に襲われ、10.25日、池田首相は引退表明する。翌26日の衆参両院議員総会で、川島正次郎副総裁と三木武夫幹事長が後継者の選考に入ることが了承された。後継候補は、佐藤と河野一郎、藤山愛一郎の3人となったが、調整は手間取った。11.4日、「河野・藤山盟約書」が出来上がった。以降、大平−田中コンビの裏工作が進み、大平が絶妙の根回しにより佐藤後継を演出していくことになった。



【「佐藤政権、ハト派とタカ派の両刀時代」】
 1964.12.1日、第15回臨時党大会が開かれ、第一次佐藤内閣が発足する。この佐藤政権が1972.6.17日に引退声明するまで7年8ヶ月にわたる長期政権となる。佐藤政治の特質は、吉田門下生として「不文律吉田ドクトリン」に依拠しつつ政局を運営していったことにある。直前の池田政権の高度経済成長政策をも踏襲しながら「更なる成長」時代を牽引した。他方、岸・元首相の実弟ということもあり、一定部分タカ派的要素も組み入れていった。佐藤政権での防衛庁長官は、岸−藤山派の小泉純也、松野頼三が務めているのがその例証である。

 そういう意味で、「いわばハト派とタカ派の両刀使いの名人にして、待ちの政治」に徹することで60年代半ばから70年代前半を長期安定政権として君臨した。7年8ヶ月の佐藤長期体制は、福田。田中・保利茂を三本柱として、この三本柱を競争・牽制・均衡の操縦で安定政権を作り上げてきたことに特質があった。佐藤首相時代の「ハト派とタカ派の両建て政治」の流れが「戦後日本政治史の特質8」となる。

 この時代の1964.11.17日、宗教団体・創価学会を母体とする公明党が結成されている。公明党はその後着実に党勢を伸張させていき、70年代からの日共との熾烈な競り合いに勝利し、その後野党内の合従連衡を経験し、遂に自民党と連合する形で政権与党入りしていくことになる。

 後の政治史から見て必要なことを記せば、この佐藤時代にその後の自民党を牽引する逸材が育成されていることである。岸派のプリンス福田、吉田学校の若手有望株田中、池田派の大平、その他三木、中曽根等々いずれも佐藤政権時代に頭角を現している。この派閥の領袖が合従連衡しながら党的統一を見せていくことになる。佐藤は閣内を福田に、党内を田中にという「角福体制」をとりながら、7年を超す長期安定体制に向かうことになった。

 1965.6.22日、日韓会談が妥結し、日韓基本条約に調印する。佐藤政権は、国内的治政においては順風満帆であったが、思わぬところから国際政治の荒波に襲われることになる。1965.2.7日米帝がベトナム北爆を開始、続いて南ベトナムへ正規軍を投入し泥沼に入っていくことになる。この間、佐藤政権は日米軍事同盟の責務から米帝のベトナム介入政策を支援していくことになる。これが国内の左派運動を覚醒させ、特に新左翼系の急進主義的反体制運動の洗礼を受けていくことになる。

 70年安保改定は、60年安保闘争に比して安穏に処理された。しかしながらこの時期は、長期安定的な自民党政権の金権的腐敗が目立つ時期でもあった。高度経済成長政策のひずみが生じつつある時期でもあった。こうした時期に、1971(昭和46)年7.15日ニクソン米大統領の訪中発表(第一次ニクソン・ショック)と8.15日同じくニクソン米大統領による、ドルと金との交換禁止によるドル防衛策(第二次ニクソン・ショック)が発表された。第二次ニクソン・ショックはもう一つの政策転換で、米国への輸入品に15パーセントの課徴金を課す政策を発表していた。これはわが国の輸出依存政策に激震を走らせ、為替市場を大混乱させ、東京証券取引所は史上最大の暴落を誘発した。が、この間佐藤首相は何ら為す策を打たず「佐藤無策」と揶揄された。

 10.25日国連が、「中国加盟、国府追放」決議を可決したが、佐藤政府の政策に変化を与えなかった。ひたすら花道としての沖縄返還へ向けての外交交渉に向かい、日中関係の打開は次期政権に託された形になった。

 佐藤首相は、沖縄返還交渉を手土産に1972.6.17日、引退声明していくことになる。この時の記者会見室は異様な空気で遣り取りされている。概要「テレビはどこにあるんだ。私はテレビを通じて国民に直接話をしたいんだ。新聞になると、文字になると違うからね。僕は、偏向的な新聞は大嫌いなんだ。新聞記者は出て行ってくれたまえ」。この佐藤の発言に記者団は反発し、「それじゃぁ、出よう」となって、がらんとなった会見室で、佐藤首相はテレビカメラに向かった。この時、「中国へ、中国へとなびく今の風潮は、賛成し難い」、「総理は孤独である」の発言が為されている。


【「角福戦争」】
 ポスト佐藤を廻って、田中と福田、大平が熾烈な抗争を演じる。この経過につき首相指名に至る流れに記している。

 佐藤首相は、引退会見後すぐさま後継首相として福田の担ぎ出しを保利と打ち合わせ、福・角調整に入った。この調整に成功すれば、佐藤の院政を敷く事が出来るという思惑もあったと推定できる。佐藤・福田・田中会談で、田中の出馬の意思が高いことを踏まえて、第一回目の投票により二位になった方が決選投票で一位に連合するという「一、二位連合」案が盟約された。

 ポスト佐藤は福田が本命であったが、田中がこれを追い込んでいく。福田と田中には互いに譲り難い見識の相違があった。田中は、吉田−池田−佐藤と継承されたハト派系政策を更に遂行しようとしていた。福田は、鳩山−岸と継承されたタカ派政策を導入しようとしていた。高度経済成長路線に対し批判的で、総需要抑制策を志向していた。懸案の日中関係においても、田中はこれを推進し国交回復を目指そうとしていたが、福田はそれまでの台湾政府との信義の積み重ねを重んじようとしていた。

 この頃の米国国務省機密文書は次のように分析している。「佐藤の後継者選出がそれまでの自民党総裁選と違う理由は、それまでは主流対反主流派の戦いが一般的であったが、今回はほぼ絶対この中から総裁が決まると思われる三人は、全員主流派であり、それだけに後任選びの過程で主流派の結束に永久的な亀裂を生む可能性がある」と分析した上で、総裁候補それぞれについて次のようにコメントしている。概要「基本的には三人の中で誰が総裁になっても、いずれとでも上手くやっていけるだろう。日米関係の行方は、福田が一番良い影響を与えるであろう。大平が一番影が薄い。田中の態度が最も未知数だ。日本の政治家の中では、田中だけが海外との絆を発掘するどころか、海外との接点すら持っていない。彼の素養が最も不明である」。以降も特に田中についての驚くほど詳細なレポートが発信されていった。特徴は、「コンピューター付きブルドーザー」としての能力と政治手法を高く評価しており、そうした優秀さを危惧している節のあるレポートとなっていた。

 
いよいよ佐藤後継レースが議事日程化することとなった。これより先の6.11日、田中は「日本列島改造論」を発表している。これは向こう受けを狙って唐突に出したものではない。1966年に幹事長を辞任した翌年の1967年に就任した自民党都市政策委員長時代に、日本の産業・経済構造を研究し、1968・5月に「都市政策大綱」(議論の取りまとめは、麓(ふもと)邦明氏)としてその成果を発表していた延長線上のものであり、東京一極集中からいかにしてバランスの良い総合的国土活用ができるかの視点で、産業の適正配置と分散、高速道路網の整備、地方単位の快適生活環境都市づくり等を提言していた。考えようによれば、総裁選出馬に当たってのマニュフェストのようなものであり、田中がこれを為したことの政治的意義は高く評価されるべきであろう。 

 7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催された。総裁選の第一回投票結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票となった(有効投票476)。この結果、いずれも過半数に達しなかったため上位二人の決選投票になり、田中は282票、福田190票と、圧倒的な大差で福田赳夫を破って第6代自民党総裁に選出された。

 54歳という若さは戦後最も若い宰相であり、大学を出ていない首相としては初めてであった。角栄が首相になった意義に戦後歴代首相の帝大卒(石橋湛山のみ私大早稲田卒)の不文律を打ち破ったことがある。マスコミも礼賛記事で、「小学校卒が東京帝大卒に勝った」、「今太閤」ともてはやした。

 7.6日、臨時国会召集、佐藤内閣総辞職。衆参両院で田中角栄が第64代内閣総理大臣に指名される。田中首相は、官房長官・二階堂進、官房副長官・山下元利・後藤田正晴、幹事長・橋本登美三郎、副幹事長竹下、首相秘書官に通産官僚・小長啓一(のちのアラビア石油社長)の抜擢、外相・大平正芳、通産相・中曽根康弘の布陣で組閣した。福田は入閣拒否した。

 角栄はかくて頂点に立ち、「決断と実行」をメインスローガンに掲げた。「二期六年はやらないよ。おれは人が六年でやることを三年でやる」とも云い為しており、自身満々のスタートを切った。この頃の内閣支持率60%を越している。田中の勝利の政治史的意味は、政権与党自民党内の戦後主流派たる吉田−池田系譜のハト派が再度権力を掌握したことにある。政治史から観てこれがハト派政権の絶頂期であり、田中政権の退陣とともにハト派タカ派伯仲時代に移行する。



【「戦後主流派ハト派の絶頂期」】
 田中政権時代、ハト派政治の真骨頂的政策が遂行されている。在任中の流れに記したが、その最重要施策を拾い出す。就任直後の「日中国交回復、台湾との国交断交」政策。 通産省に資源エネルギー庁発足。1973年の第4次中東戦争発生、「第一次オイルショック」発生に伴う「新中東政策」、1974年の国土庁発足、「資源外交」等々はいずれも田中首相の識見無くしては実現しない政策であった。


【文芸春秋社−立花隆連合による「角栄追討戦」が開始され、田中内閣退陣】
 その田中政権は思わぬところから狙撃された。1974.10.9日、月刊「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄−その金脈と人脈」、児玉隆也の「寂しき越山会の女王」が掲載された。立花隆のレポートは田中金脈が徹底追及しており、ニクソン米大統領のウォーターゲート事件を追及し、失脚に追い込んだワシントン・ポストの二人の記者ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインのキャンペーン記事に匹敵する調査報道だった。これが以降の田中政界追放の狼煙となった。

 文芸春秋の「田中金脈研究」の元資料が英文であり、出所は当時田中外交に不安感を持っていた韓国KCIAからだとの情報があったと田原が述べていることは注目されて良い(新野哲也「誰が角栄を殺したのか」192P)。

 10.22日、田中首相は、外国人記者クラブで会見、質問攻めされる。「一言で言うと、私は経済界の出身であり、政治に支障のない限り経済活動をしてきた。記事で個人の経済活動と公の政治活動が混交されていることは納得いかない。米国だけでなく、政治家が国民の支持と理解を得るためには、プライバシーの問題をある意味で制限されることは承知している」。

 この外国人記者クラブでの会見で、日本のメディアが一斉に動き出した。宮崎学氏の「民主主義の原価」には、「いわば外圧をきっかけに、日本のマスコミが一気に金脈報道に乗り出したのだ。R氏は、この記者会見を仲介したのは共同通信記者だったが、その記者はCIAのエージェントであったと話している」とある。

 11.26日、田中退陣表明。在任期間2年4ヶ月で終わった。金脈追求で行き詰まる。「政局の混迷を招いた」として正式に辞意を表明。この時、「私の決意」と題するメッセージを竹下官房長官が代読した。「政権を担当して以来2年4ヶ月余、私は決断と実行を肝に銘じ、日本の平和と安全、国民生活の安定と向上のため全力投球を続けてまいりました。しかるところ、最近における政局の混迷が少なからず私個人に関わる問題に端を発していることについて、私は国政の最高責任者として政治的道徳的責任を痛感しております」。「わが国の前途に思いをめぐらす時、私は一夜、はい然として大地を打つ豪雨に心耳をすます思いであります」。

 「週間読売49.12.14日号」に次のような角栄の談話記事が載っている。「私自身だけのことであれば、古い話だし、いかようにも応戦できる。しかし党は割ってはいけない。これが私が決意をした、最大の動機だ」。


 この後は、その7、ハト派対タカ派の死闘時代考





(私論.私見)