中曽根の履歴考その2 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).1.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「中曽根の履歴考その2」を確認しておく。 「ウィキペディア中曽根康弘」、「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK276」の 2020.10.16 櫻井ジャーナル「CIAとつながり、新自由主義を日本へ持ち込んだ中曽根康弘(櫻井ジャーナル) 」その他参照。 2004.8.9日 れんだいこ拝 |
1982.11月、自民党総裁選。盟友の渡邉恒雄は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた。早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党党員という繋がりがあった。「日本一の中曽根嫌い」を公言していた金丸信との和解もあり田中派の支持を得た中曽根は、党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得した。 |
金丸信 「そもそも田中派は中曽根を総理にすることに反対だった。ところが田中のオヤジがどうしても中曽根だと言う。後藤田が何であんなおんぼろ神輿を担ぐのかと言ったら、オヤジがおんぼろだから担ぐんだと言った。そこで俺がオヤジの言うことが聞けない奴は派閥を出ろと言ったらみんな収まった。俺は大の中曽根嫌いで通っていた。その俺が賛成したのだから中曽根は恩義を感じたのだろう。総理になった時に料亭に呼ばれた。中曽根は畳に手をつき深々と頭を下げてあなたを将来幹事長にすると言った」 |
1982(昭和57).11.6日、鈴木善幸の後を受けて第11代自民党総裁、第71代内閣総理大臣に指名され就任。三角大福中では最後、のべ6度の閣僚経験と2度の党三役経験を経ての首相就任であった。11.27日~1987(昭和62)。従来の官僚頼みの調整型政治を打破し私的諮問機関を多数設け、首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。1987年まで在任し、歴代第7位(戦後5位・昭和時代では3位)の長期政権となった。 |
政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官に田中派の後藤田正晴を起用し、党幹事長に同じく二階堂進を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」、「角影内閣」さらには「直角内閣」などと揶揄された。 |
鈴木内閣の行管庁長官として第2次臨時行政調査会(土光敏夫会長)発足に尽力した経緯もあり、首相就任後も鈴木内閣の行革路線を引き継ぎ、「戦後政治の総決算」を掲げ、臨時行政改革推進審議会の会長に土光敏夫氏を充て日本国有鉄道(国鉄)、日本電信電話公社(電電公社、現NTT)、日本専売公社(現日本たばこ産業=JT)の三公社民営化を実現した。
これによって総評および総評を支持母体とする社会党を切り崩す意図があった]。また、長年半官半民であったフラッグキャリアの日本航空の完全民営化を推進させた。 1996.12.30日号の「AERA」誌上で、「国鉄分割民営化の真の目的は国労を潰すことだった」と暴露している。 |
中曽根は電話会談から1ヶ月あまりで総理大臣として戦後初となる韓国公式訪問を実現。全斗煥と個人的な信頼関係を構築した。 |
1983(昭和58).1月、首相に就任して間もない頃、訪米。訪米に先立ち、アメリカが執心していた防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曽根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曽根は首相になって初めての訪米の途についた。 |
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1.18日、ワシントン・ポスト紙の会長キャサリーン・グラハム会長宅で行われた朝食会グラハム社主らワシントンポスト紙幹部と朝食会。この時のインタビューで「日米は運命共同体」、「不沈空母」、「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖」発言。「日本列島をソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでを備えた不沈空母とすべき」であり、「日本列島にある4つの海峡を全面的かつ完全に支配する」とし、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と語った。 1.19日、同紙に掲載される。中曽根が日本列島を空母に見立てて津軽海峡を封鎖しソ連の進出を防ぐ趣旨の発言をしたとする旨を報じた。日本政府は同行記者団にこの発言を紹介していなかったため、記者団が政府側に確認を求め、専守防衛からの逸脱であるとして議論を呼ぶ騒動となった。当時ワシントン・ポストで本記事を担当していたドン・オーバードーファーによれば、この「不沈空母」発言は、中曽根が日本語で「大きな船」と述べたのを通訳が過大な言葉に訳していたものであり、中曽根も発言後にその趣旨の説明をしている。 一方、2017年1月12日に日本の外務省が公開した外交文書では、中曽根がこのインタビュ内において確かに日本列島について「不沈空母のように強力に防衛する」と述べていたことが記録されていた。 1.19日、ロナルド・レーガン米大統領と会談。一連の親米政策、発言によりアメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に愛称で呼び合うほどの“個人的に親密な”関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した。 |
1983年1月21日、アンドルーズ空軍基地にて妻の蔦子(左)と |
4.21日、靖國神社参拝。8.15日、10.18日にも靖國神社参拝。 以前から総理大臣の靖国神社参拝は恒例であったが、中曽根が首相として初めて8月15日に公式参拝をしたことにより(8月15日に公式参拝をしたのは中曽根だけである。小泉純一郎は首相在任中の2006年8月15日に参拝しているが、公私の別を明らかにしていない)中曽根内閣の際に靖国神社参拝問題が持ち上がり、この問題が対中関係として際立つことになった。当時中国共産党指導部の胡耀邦総書記ら親日傾向を持つグループとその反対勢力との権力争いがあり、その中で靖国参拝が問題として浮上、中華人民共和国からの抗議が激しくなっただけであるという見方もある。自身の著書の中で中曽根は「親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国参拝を中止した」としている。胡耀邦と鄧小平は、当時日米同盟や日本の防衛力強化を歓迎すらしていた。東京裁判史観は否定しつつアメリカではなく、中華人民共和国には過去の歴史を謝罪すべきとする独自の歴史観を持っており、当時の日中関係は「蜜月時代」とも言われた。 |
1983.5月、中曽根は、ウィリアムズバーグ・サミット(第9回先進国首脳会議)に出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがMGM-31 パーシングII準中距離弾道ミサイルを配備すべきか否か、であった。だが、前向きな姿勢なのはアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスのミッテラン大統領、西ドイツのコール首相、カナダのトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議は今にも決裂しそうな気配を見せていた。
そうした状況の中、中曽根は敢然と発言する。
これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。 そして政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、またそのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長のための10項目からなる共同指針が示された。 ソ連が崩壊し、クレムリンの機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時のグロムイコ外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、アンドロポフ書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曽根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っているといえよう。 |
4-5月にかけてアメリカ海軍は千島列島エトロフ島の沖で大艦隊演習「フリーテックス83」を実施、3空母を集結させた。エンタープライズ、ミッドウェー、コーラルシーを中心とする機動部隊群が集まって挑発手金が軍事演習を実行したが、この重大な出来事を日本のマスコミは報じなかった。 |
5.28日~30日、ウィリアムズ・バーグ・サミットに出席。 |
1983.8.31日-9.1日、大韓航空007便がソ連の領空を侵犯するという事件が引き起こされる。この旅客機はアンカレッジを離陸して間もなく航路を逸脱、NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)が設定したアラスカの「緩衝空域」と「飛行禁止空域」を横切ってソ連軍の重要基地の上を飛行、ソ連側の警告を無視して飛び続けた末にサハリン沖で撃墜されたとされている。航路を逸脱してソ連へ向かう旅客機にNORADは何も警告していない。この事件には不可解なことがいくつもある。 この事件を利用してアメリカ政府は大々的な反ソ連キャンペーンを展開、その年の11月にはNATO(北大西洋条約機構)軍が軍事演習「エイブル・アーチャー83」を計画、核攻撃のシミュレーションも行われることになっていた。1981年の段階で西側からの全面攻撃を想定していたソ連のKGBはこれを「偽装演習」だと疑い、全面核戦争を仕掛けてくるのではないかと警戒、その準備を始めている。 |
1983.10月、田中がロッキード事件の一審判決で実刑判決を受け、中曽根が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を出す。 |
11.11日、「日の出山荘」(東京都西多摩郡日の出町)でロナルド・レーガン米大統領と会談。 |
同年11月、中国の総書記として初となる胡耀邦の訪日を実現。「日中友好21世紀委員会」(現・新日中友好21世紀委員会)を発足させることで合意し、中曽根総理訪中に合わせて1984年3月に実現した。同委員会第1回会合(1984年)で日中青年交流の拠点として「日中青年交流センター」を北京に建設することが提言され、1991年5月に実現している。総理退任後も対中関係改善に努め、六四天安門事件での対中制裁の解除を鈴木善幸・竹下登とともに政府に働きかけを行ったり、日中青年世代友好代表団団長として訪中して胡錦濤総書記と会談し、習近平国家副主席が訪日した際の天皇特例会見でも関与が取り沙汰されるも中曽根元首相の要請は「1か月ルール」によって断られたという。 |
リチャード・ニクソンが1974年8月にウォーターゲート事件で辞任した後、ジェラルド・フォードが副大統領から大統領に昇格するが、このフォード政権で台頭してきたネオコンは好戦的な政策を打ち出す。民主党のジミー・カーター政権ではズビグネフ・ブレジンスキー国家安全保障補佐官がアフガニスタンで秘密工作を実行、ソ連軍を戦争に引き込み、ロナルド・レーガン政権は1983年11月には戦術弾道ミサイルのパーシングIIを西ドイツへ配備している。 |
同年12月、総選挙(田中判決選挙)。自民党が過半数割れした。中曽根は新自由クラブとの統一会派結成により第2次中曽根内閣を形成し、自分とは政治信条が合わない田川誠一を自治大臣兼国家公安委員会委員長として迎える苦渋を味わった。 |
12月、「鈴虫発言」。 |
この年、中曽根首相は、青森県での遊説で「下北半島を原子力のメッカにする」と宣言し、原発や再処理工場が集積するその後の姿の先鞭をつけている。 |
1984.(昭和59).1.5日、靖國神社参拝。4.21日、10.18日にも靖國神社参拝。 1984(昭和59)年、インド訪問。パキスタン訪問。3月、中国訪問。 |
首相在任中は改憲を明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等、強い復古調姿勢政治を推進した。このため左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」、「軍国主義者」、「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」などといった激しい批判を浴びた。 教育改革については、文部省と日教組の二項対立の教育改革に終止符を打つため1984年に自身の私的諮問機関として臨時教育審議会(臨教審)を設置した。その後臨教審の答申は受け継がれ、1988年に内閣の主導による学習指導要領改訂を成し遂げた。これが日教組の歴史的分裂の契機となった。 政府税制調査会の会長として税収の「直間比率」是正 の観点から売上税導入を唱えた加藤寛をはじめ、石川忠雄、勝田吉太郎、香山健一、小堀桂一郎、西義之、佐藤誠三郎 など、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用した。これは自民党内の非主流派や野党などからは「御用学者の重用」と批判され、選挙を経た国会議員によって構成される国会の委員会より、中曽根が任意で選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られて報道される事態も招いた。 |
1984年、福田赳夫元首相に野党の公明党や民社党まで加わった「二階堂擁立構想」が持ち出された。 |
1985(昭和60).1.21日、靖國神社参拝。4.22日、8.15日にも靖國神社参拝。 同年3月、旧ソビエトのチェルネンコ書記長の葬儀を利用して、ゴルバチョフ新書記長との首脳会談も実現させた。 |
1985.2月、田中が脳梗塞で倒れて政治生命を事実上失う。官房長官として留まった後藤田の協力もあって、政権運営の主導権は中曽根の手に移った。 |
同年3月、旧ソビエトのチェルネンコ書記長の葬儀を利用して、ゴルバチョフ新書記長との首脳会談も実現させた。 |
8.12日、大韓航空機の事件から2年後、羽田空港から伊丹空港へ向かっていた日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落した。乗員乗客524名のうち520名が死亡している。運輸省航空事故調査委員会はボーイング社の修理ミスで隔壁が破壊されたことが原因だと発表したが全く説得力はない。再現実験でも調査委員会のストーリーは無理だということが確認されている。墜落から10年後の1995年8月、アメリカ軍の準機関紙であるスターズ・アンド・ストライプ紙は日本航空123便に関する記事を掲載した。墜落の直後に現場を特定して横田基地へ報告したC-130の乗組員、マイケル・アントヌッチの証言に基づいているのだが、その記事は自衛隊の責任を示唆している。 |
123便が墜落した頃、兜町では1987年に「完全民営化」する予定の日本航空の株価が暴騰していた。株価を上昇させ、大蔵大臣名目で保有されていた4090万株を高値で売却、1988年には700万株の時価発行増資を行うというシナリオだった。 2000円台の前半で推移していた日本航空の株価が急騰し始めたのは1984年のことで、「中曽根銘柄」と呼ばれていた。1985年の夏に株価は8000円を突破、そこで123便が墜落したわけだ。 株価は5000円を切るまで下落、日航株の仕手戦は終わったと考える人は少なくなかったが、内情を熟知している人は値上げさせなければならない事情があるので、絶対に値上がりすると断言していた。実際、1987年には2万円を突破している。その頃、日本航空は超長期のドル先物予約をしている。証券関係者から「クレージー」と言われていたが、これは株価操作による資金調達の代償だった可能性がある。 |
10.7日、日本外国特派員協会(FCC、1945.11月に日本に駐留していた従軍記者らによって設立された)に招かれ、日米経済摩擦について話す。最後に次のように述べて笑いを誘っている。
1985(昭和60)年、ベルギー訪問。パプア・ニューギニア訪問。フィジー諸島共和国訪問。 |
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10.29日、衆議院予算委員会での東中光雄委員(日本共産党)からの靖国神社問題(後述)に絡めた質疑への応答において、中曽根は太平洋戦争について、「これはやるべからざる戦争であり間違った戦争である」と述べ、中国に対しては侵略の事実もあったと認めている。 |
日本航空123便が墜落した翌月、ニューヨークのプラザ・ホテルで開催された先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議で「ドル高是正」で合意しているが、その前からドルが安くなる、つまり円高になることは確実視されていた。ドルを保有したくない日本の金融機関にとって超長期のドル先物予約をした日本航空はありがたい存在だったはずだ。 |
1985年、中曽根内閣下で竹下登蔵相が「プラザ合意」に基づく大幅なドル安・円高を容認した。その後、日本は円高不況に陥り、日本銀行が金融緩和策をとったことがバブル経済につながった。
日米欧の先進5カ国の財務相がドル高是正で協調した「プラザ合意」をお膳立てしたのは大蔵省(現財務省)財務官の大場智満(おおば・ともみつ)。(2023.5.11日、心筋梗塞のため死去した(享年94歳)。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った)。 |
【ジャパンライフ黒霧事件】 |
1985.5月、ジャパンライフのマルチ商法が大きな社会問題となり国会で集中審議された。山口隆祥会長が、傘下の販売店から会費を集め、政治家への献金窓口となる「健康産業政治連盟」を設立し、年間1~2億円をあらゆる政治家にばら撒いていたことが明らかにされた。最初に槍玉に上がったのは、山口元会長が最も親しかったと言われる「新自由クラブ」(1986年8月に自民党に合流)の山口敏夫労働大臣(当時)だった。山口氏はジャパンライフが所有するヘリコプターに乗って選挙区入りしたことが指摘された上、1983年にはジャパンライフから山口氏の5つの政治団体に計500万円の献金が行われていた。また、ジャパンライフが発行していた経営者月報には、見開きページに李香蘭の名で活躍した女優出身の山口淑子参議員が登場していたことが判明。そのほかにもジャパンライフが武道館で開いた「記念大会」に山口敏夫氏をはじめ増岡博之労相、村上正邦参議員、塩川正十郎元運輸相らが来賓として出席していた。ちなみに山口敏夫、増岡博之、塩川正十郎の3名は、1967年に初当選した自民党の同期でもある。 最大の大物は中曽根康弘元首相だった。日本共産党の藤田スミが、中曽根首相が中曽根の5つの政治団体にジャパンライフから計1000万円の献金を受け取っていることを追及した。中曽根は「善意の政治資金として受け付けたということでございまして……」と答弁している。山口会長と中曽根は同郷である。 同年11月、国会で、社会党の横江金夫衆議員が中曽根をさらに追い詰めた。内部告発状をもとに「(ジャパンライフは)この商売を守っていくために中曽根総理に対して、パラオ島にあるこの会社が持っている20万坪の土地を贈呈をしたということが書いてあるのです」と指摘した。 翌12月、国会で、共産党の藤田スミ衆議員がジャパンライフと国会議員らの癒着について糾弾している。ジャパンライフ傘下の「ヘルスカウンセラー協会」創立3周年の集会において、自民党副総裁の二階堂進衆議員と山口労相が山口元会長に“感謝状”を送り、中曽根首相は祝電を打っていたことを言及した。藤田氏は続いて1985年に開かれたジャパンライフ創業10周年記念集会にも批判の矢を向けた。「増岡厚生大臣をはじめとして、何と15人に及ぶ大臣クラスの錚々たる政治家が競い合うように参加をいたしまして、ジャパンライフの商法やあるいは山口会長を絶賛しているわけであります」と追及している。
翌1986.2月、国会で、安倍首相の父、安倍晋太郎外相まで登場。社会党の松浦利尚衆議員は、ジャパンライフの事業報告書の中で、山口元会長と共に安倍外相と山口前労相がニューヨークを表敬訪問したと記載されていると指摘した。それに対して安倍元外相は、「山口代議士がたくさんの人と一緒に、ちょうど私が国連に行っておったときに紹介といいますか表敬に連れてきたことは、確かにその中に今の山口隆祥氏ですか、おられたことは事実です」とその事実を認めた。 |
1986年、伊豆大島の三原山噴火。首相権限で海上保安庁所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された国土庁の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の内閣安全保障室長であった佐々淳行らは、後年の阪神・淡路大震災発生時における村山内閣の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。 三里塚闘争が今だ継続する中であったが、成田空港二期工事着工を決断した。 性風俗店の摘発やお色気番組の規制にも力を入れ、風俗営業法を大幅に改正し風俗店の出店区域を大幅に制限し、日またぎ営業を禁止し、テレビコマーシャルを禁止するなどしたため、同時期に起こったエイズ騒動とともに、「日本における性風俗産業は壊滅した」という風説が流れるほどになった。お色気番組に関しては国会答弁で「まず当面は、郵政省が監督権を持っておるわけでございますから、郵政省の側においてよく民放の諸君とも話をしてもらって、そしていやが上にも自粛してもらうし、その実を上げてもらう。郵政省としてはそれをよくチェックして見て、そして繰り返さないようにこれに警告を発するなり、しかるべき措置をやらしたいと思います。」と述べ、その後のお色気番組の自粛の遠因になった。 一方、広島市の原爆病院視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」、「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曽根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」などの失言で物議を醸すことも多かった(これら一連の事象については知的水準発言を参照)。 |
1986.4.13日、キャンプ・デービッドにてアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン・ナンシー夫妻に携帯テレビを贈呈。
1986.5.4日、中曽根康弘とロナルド・レーガン。
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1986(昭和61)年、6.2日、中曽根は自民党単独政権の回復に執念を見せ、衆議院解散(通称「死んだふり解散」。「ねたふり解散」とも呼ばれる)。戦後2回目の衆参同日選挙に踏みきった。7.6日、第38回院議員総選挙、第14回参議院議員通常選挙の大勝した。衆院選での公認候補300議席は当時単独政党では戦後最多であり、これに追加公認4人、さらに開票直後に解党した新自由クラブからの合流5人などが加わった。参院選での72人当選(追加公認2人)、非改選議員と合わせた所属議員数145人も自民党史上最多であった。 首相在任中2度あった総選挙(1983年と1986年)で、現職首相でありながらトップ当選できなかった。当時は中選挙区制で2位当選している。これは戦後の首相では中曽根だけである。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた小渕恵三や社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物がそろった、日本でも有数の激戦区でもあった(上州戦争を参照)。なお、日本において現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は片山哲や石橋湛山、海部俊樹の例がある)。 |
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村上正邦 が次のように証言している。
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中曽根政治はハイテク景気やバブル景気といった好景気を演出し、支持率も高水準を維持して自民党も単独で史上最多の議席を獲得するとともに、任期後半には上記の通り田中の影響を脱した。好調すぎる高付加価値製品の対米輸出によって貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意で円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団が大規模に行った旧国鉄用地売却 を含んだ国有地の払い下げ等を行った。これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こしたという批判も根強い。また、このバブルにおいて横行した各種のマネーゲームからは、やがて発覚したリクルート事件や、田川に次いで新自由クラブから労働大臣として中曽根政権に入閣し、1986年の自民党復党後は中曽根派に所属していた山口敏夫の失脚・収監など、政治家とカネを巡る問題が再び取りざたされるようになった。 |
中曽根は党規約改正により総裁任期を1年延長させた。「保守回帰」と呼ばれた1980年代後半の政治潮流の創設者として歴史に名前を残した。なお、この選挙期間中の街頭演説で、「大型間接税は導入致しません」、「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と発言している。 |
9.22日、自民党全国研修会で講演し、「アメリカの黒人は知的水準が非常に低い」と発言したことから「知的水準発言問題」が起きた(「知的水準発言」)。黒人(アフリカ系アメリカ人)やヒスパニック系の議員連盟によってアメリカ下院に提出された中曽根非難決議案は本人の謝罪により採択が見合わされたが、その釈明に際して「日本は単一民族国家」と発言したことが今度は北海道ウタリ協会からの新たな抗議を呼び、北海道旧土人保護法などが存続していたアイヌ民族に関する内政問題へと転化していった。 |
1986.9月、藤尾正行文部大臣が中曽根の自虐史観転換を批判する発言を雑誌に行い罷免される。 |
11月、中国訪問。 |
1987(昭和62)年、ポーランド訪問。1月、フィンランド訪問。6月、スペイン訪問。 |
1987年の予算審議で売上税の導入をほのめかした。先の衆参同時選挙中に「大型間接税は導入致しません」、「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と宣言していた舌の根が乾かぬうちのこの「公約違反」が追及され支持率が一時的に急落、国会が空転を続けた。 4月、統一地方選挙で敗北し、党三役の総辞任論や内閣の早期退陣論さえ囁かれ始めた。翌月、目指していた売上税は撤回を表明することになる。 |
選挙の敗北から18日後に行われた日米首脳会談で、準国賓待遇とは裏腹に、下院本会議は貿易相手国に黒字減らしを強要する包括貿易法案を290対137の大差で可決した。さらに、内需拡大と公定歩合の引き下げによるドル支えを露骨に強要した。このためNBCは「中曽根首相は『特別なあいさつ』を受けた」と皮肉っている。 |
中曽根政権が最後に編成したのが1987(昭和62)年度予算での「防衛費1%枠」撤廃。一連の防衛力強化政策の仕上げとなった。ブレーンの一人だった高坂正堯の意見を採用し、防衛費の予算計上額を日本の国民総生産 (GNP) の1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を放棄し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り換えて急速な軍備拡張への新たな歯止めとした。この決定により、日本政府はより積極的な防衛政策の立案が可能となり、米軍との協力関係はさらに緊密となった。これは米国への隷従の強化と取る向きもあり、また、“ヤスはロンの使い走り”(Messenger
boy) と批判されることもある。
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また、日本からの輸出の増加により日米間の通商、経済摩擦が深刻化したことから、アメリカの貿易赤字が増加したことに対処するために、日本国民に外国製品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分、当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなどの点でも、中曽根はアメリカからの要求へ積極的に応えた。この時の広告は「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」だった。 |
1988.3.11日、赤報隊から脅迫状が送りつけられる(赤報隊事件)。国会議員勇退後にはA級戦犯分祀推進や小泉総理の靖国参拝反対など大きく主張を転換した。
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次期総裁は公選ではなく「話し合い」で決めるべきという雰囲気が高まっていく。中曽根はこれを利用し、有力候補の三人を巧みに分断、秋までには支持率が回復したこともあり、次期総裁を自らの裁定に委ねさせることに成功する(中曽根裁定)。こうして、中曽根はニューリーダーと呼ばれた竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一のうちから、竹下を後継に指名、余力を持ったまま11月に総理を退任した。 |
10月、当時、「ニューリーダー」と呼ばれた、安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の3氏の中から、竹下氏を後継総裁に指名し、11月、自民党総裁・内閣総理大臣を退任退陣した。中曽根自身の回顧によれば、後継候補に必要な条件として、自身が断念した売上税(消費税)の導入について党内をまとめられる人物、当時容態が悪化していた昭和天皇の不慮に備え、「大喪の礼」を滞りなく行える人物、の2件があり、竹下が最もふさわしいと判断したという。 中曽根氏の総理大臣としての在任期間は1806日と、当時としては異例の5年におよび、当時で佐藤、吉田に次ぐ戦後三番目の長期政権となった。中曽根内閣は3次*年11ヶ月に及ぶ20世紀最後の長期政権となった。 |
1988(昭和63)年、退任後、(財)世界平和研究所会長(現職)。 |
1989(昭和64)年、リクルート事件への関与が明るみに出る。野党は予算審議と引き換えに中曽根の証人喚問を要求したが、中曽根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。
鳩山由紀夫は事件を機に、政官財の癒着の解明を目指してユートピア政治研究会を党内で立ち上げ、中曽根らを糾弾した。その後、鳩山が新党さきがけを経て、1996年に「友愛」を掲げて旧民主党を創設した際、中曽根は「政治は友愛だの何だのと綺麗ごとを言うが中身がなく薄っぺらい。ソフトクリームのようにすぐ解けてしまうだろう。」と嘲笑したが、鳩山は「夏にはおいしい」と切り返し、政治理念を守り通して「友愛」がその年の流行語大賞となった。自身は薩長連合になぞらえて保保連合を一貫して主張した。首相退任後は議会最後尾にある通称長老席に陣取っていた。宮澤喜一、竹下登とともに居眠りをしている姿が老害の象徴としてマスコミに盛んに揶揄された。 |
平成元年5月、理大臣退任後、リクルート問題で、平成元年衆議院予算委員会で証人喚問を受け、離党する。但し、2年後に復党した。 |
1990(平成2)年、ポーランド訪問。 1990(平成2).11月、バグダッドでヤセル・アラファト議長と会談。11.5日、サダム・フセイン・イラク大統領と会談。 |
1991年、湾岸戦争。中東特使に任じられ、当時のイラク大統領サッダーム・フセインと会談して日本人の人質全員解放を成功させた。 |
1991(平成3)年、復党を果たす。 |
1991.12.17日、ゴルバチョフ・ソ連大統領とエリツィン・ロシア大統領がソ連邦の年内消滅で合意。12.25日、独立国家共同体(CIS)発足。ミハイル・ゴルバチョフが19時の会見でソビエト連邦大統領の辞任を表明し、辞任と同時にクレムリンに掲げられていたソビエト連邦の「鎌と鎚の赤旗」の国旗も降ろされ、これに代わってロシア連邦の「白・青・赤の三色旗」の国旗が揚げられた。12.26日、ソ連最高会議共和国会議でソ連の消滅が確認された。 |
1992.1月、日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆。 |
【世界基督教統一神霊協会(統一教会)関連】 |
1992.3月、出入国管理及び難民認定法の規定で日本に入国できなかった統一教会の教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国した際、文鮮明と会談した。 同年9月、統一教会発行「中和新聞」 によると、桜田淳子や山崎浩子が参加したことで注目を浴びたこの年の統一教会の合同結婚式に中曽根は元総理の名で祝辞を送ったとされている。 |
1992(平成4).4.16日、ゴルバチョフ元ソビエト連邦大統領夫妻が、日本訪問中に、ゴルバチョフ元大統領の希望により、日本の農家や学校など日本国民の生活実態を視察し、出来れば国民との対話などを行いたいとの希望があり、中曽根元総理大臣(当時歓迎委員長)の取り計らいにより、日の出町にレーガン大統領以来二度目の世界的指導者の来町となった。視察場所は、農協の直売所・農家・大久野小学校(算数の授業を見学)を視察して「日の出山荘」に向かった。 |
1993(平成5).7.18日、第40回総選挙。当選(群馬3区,定数4,得票64387票(4位))。 |
1994年の首班指名選挙では村山富市首班に反発し、小沢一郎と共に海部俊樹を担ぐが失敗する。しかし、党からは貢献度を重視して不処分であった。 |
【世界基督教統一神霊協会(統一教会)関連】 |
1994.8月、勝共連合の幹部の誘いで文鮮明の側近である朴普煕と会談、1991年の文鮮明と金日成の会談の報告を受ける。 |
1995(平成7)年、メキシコ訪問。 「終身比例1位」。 |
1996(平成8).10.20日、第41回総選挙。小選挙区比例代表並立制(小選挙区制)の導入に伴い、当時の党執行部から、比例代表の終身1位で処遇することを確約され、小選挙区での立候補を見送り、比例代表北関東ブロック,名簿順位1位での終身1位の保証を受け当選。 |
1997(平成9).2月、憲政史上4人目の議員在職50周年を迎える。 同年4.29日、大勲位菊花大綬章受章。国会議員在職50年の表彰も受けた。戦後、生存者叙勲の復活が閣議決定された直後には「戦前の勲章の復活などは、いまの憲法にふさわしくない。第一、いまどき勲章をもらったって、いつ、どんな服につけるのかね」 と語っていたが受章した。日本国憲法施行後、皇族・外国人以外で大勲位菊花大綬章を生前受勲したのは、吉田茂、佐藤栄作に次いで3人目である。その他の栄典としては、大日本帝国海軍の軍人であったとき、海軍主計少佐として従六位に叙されている。 |
同年、第2次橋本内閣改造内閣で腹心の佐藤孝行の入閣を希望したが、ロッキード事件で有罪が確定したことを批判されて佐藤は短期間で辞任に追い込まれ、橋本内閣も支持率急低下で大打撃を受けた。 第18回参議院議員通常選挙では自民党派が大敗し橋本龍太郎は総理を辞任した。 |
1999(平成11).7.14日、都内の料亭で小渕恵三首相、石原慎太郎・東京都知事と会談。 中曽根派が山崎拓率いる近未来政治研究会と分裂した後、1999年に亀井静香や平沼赳夫率いる亀井グループと合併し志帥会となり、最高顧問に就任する。 |
2000年、総選挙。自民党では2000年の総選挙から比例区における73歳定年制が導入されており、原健三郎・櫻内義雄の両元衆議院議長がこれにより引退しているが、中曽根と宮澤喜一はこの時は特例により比例区定年制対象外となっている。しかし「特例をもうけていいのか」と全国の県連などから批判が上がり(群馬県連でも世代交代を求める声があった)、小泉純一郎総裁が中曽根と宮澤の両長老に引退を勧告した。一度、党執行部が約束したことを小泉が一方的に破棄して中曽根に引退勧告したことは、一部で「きわめて非礼なものである」との批判も呼び、中曽根は「政治的テロだ」と強く反発し、立候補断念の記者会見でも「引退はしない」と公言した(詳細は上州戦争を参照)。
2000(平成12).6.25日、第42回総選挙。当選(比例代表北関東ブロック,名簿順位1位)。同10月、外交最高顧問。同11.2日、料理屋「吉兆」(銀座)で森喜朗首相、瀬島龍三、渡辺恒雄、氏家斉一郎と会談。 2001(平成13).4.27日、小泉首相と会談。同6.27日、小泉首相と会談。 2002(平成14).3.20日、江藤・亀井派総会で終身比例第1位を返上する考えを表明。同4.22日、新首相官邸披露式典出席。同8.8日、都内の日本料理店で小泉首相、宮沢喜一・元首相、海部俊樹・元首相、橋本龍太郎・元首相、森喜朗・前首相と会談。 |
2003(平成15).2.25日、盧武鉉・韓国大統領就任式に出席。同10.2日、日本料理店「吉兆」(東京・銀座)で小泉首相、宮沢元首相、橋本元首相、森前首相と会食。 同10.10日、衆議院解散。2003年の総選挙。同10.23日、中曽根事務所(砂防会館、東京都千代田区平河町2-7-5)で小泉首相と会談。小泉首相から73歳定年制導入のために引退を要請される。同10.27日、砂防会館別館で記者会見、衆院選への出馬断念、国会議員引退ヲ表明シタ。56年に及ぶ国会議員としての活動に幕を閉じた。比例名簿で終身比例名簿1位から退いたことで、比例当選最下位順位の早川忠孝が復活当選している。 2003年に引退するまで連続20回当選、在職56年に達した。個人事務所を世界平和研究所内に置く(旧個人事務所を2009年まで43年間砂防会館内に置いた)。財団法人世界平和研究所で会長を務め、中曽根康弘賞を創設し、世界の平和・安全保障に関する研究業績を表彰する。 このとき、小泉の指示を受けて中曽根に引導を渡す役目を務めたのが、当時の党幹事長である安倍晋三であった。中曽根に「私はその判断によって50年の議会人として人生に終止符を打つことになる。今までの経緯からいって首相が判断した。その判断を合理的に説明し、私を納得させてほしい」と求められ、安倍が「なんとかご理解いただきたい」と頭を下げると、中曽根は「君も貧乏クジをひいたな」と笑い、「安倍君、君は幹事長だろ。幹事長の仕事は選挙に勝つことだ。全力を尽くせ。おれも応援するよ」と励ました。 同11.13日、亀井派常任最高顧問を辞任。政界引退後も、安全保障や国際交流のシンクタンクの会長を務め、内政や外交をめぐって積極的な発言を続け、みずからの心境を、「くれてなお命の限り蝉しぐれ」と詠んでいる。 |
2004(平成16).1月、中国訪問。1.12―14日、アジア・太平洋議員フォーラム(APPF)総会出席。1.13日、人民大会堂(北京)で呉邦国・中国全国人民代表大会常務委員長と会談。1.14日、人民大会堂で胡錦涛・中国国家主席と会談。 1.29日、政策研究フォーラム21世紀勉強会に講師として出席。 3.17日、故山中貞則元通産相の自民党・山中家合同葬に参列(青山葬儀所,東京都港区)。 5.14日、首相官邸特別応接室で小泉首相らと会談。宮沢元首相、橋本元首相、安倍晋三・自民党幹事長、細田博之・官房長官ら同席。 5.24日、首相官邸特別応接室で小泉首相、海部俊樹・元首相、宮沢喜一・元首相、森喜朗・前首相、細田博之・官房長官、安倍晋三・幹事長と会談。 |
6.10日、ブレアハウス(ワシントンD.C.)でナンシー・レーガンと面会。6.10日、米連邦議会議事堂で故ロナルド・レーガン元米大統領の棺に合掌。 6.11日(日本時間12日)、故ロナルド・レーガン元米大統領の国葬に参列(日本政府特使)(ワシントン大聖堂)。ミハイル・ゴルバチョフ、マーガレット・サッチャー、ブライアン・マルルーニーらと。 |
2004年から2014年にかけて、日本テレビにて自らの名を冠した対論番組『本音激論!なかそね荘』のホストを務めた。 |
2005.10.28日、党新憲法起草委員会が新憲法草案を発表した。中曽根が前文小委員長として前文をまとめたが、発表された草案では内容が変更されていた(中曽根原文より大幅に簡略化された内容となる)。 |
2006.3.21日、千葉県の幕張メッセで開催された統一教会系列の「天宙平和連合 (UPF)日本大会」にその活動趣旨に深い理解を示し、祝電を送ったという。(世界基督教統一神霊協会(統一教会)) |
2007.3.23日午後(ブルームバーグ)における日本外国特派員協会での記者会見で、慰安婦問題について質問され、「日本軍による慰安婦の強制動員事件について、個人的に知っていることは何もない。新聞で読んだことがすべてだ」と語った。また、自身の回顧録で海軍将校だった時に『三千人からの大部隊だ。そんな彼らのために、私は苦心して、囲碁を打つ休憩所をつくってやったこともある。彼らは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。しかしこれら民衆も、悲劇のクライマックスでは、古田班長のように、あるいは、従兵の佐々木のように、人間の尊厳をまざまざと見せつけてくれる尊い存在であったのである。』と言及した「慰安所」とは兵隊相手の慰安婦による売春が行われていたものではないかとの質問には「工員たちのための娯楽施設を設営した」、「慰安所は軍人らが碁を打つなど、休憩所の目的で設置した」と説明した。なお、中曽根が主計長を務めていた海軍航空基地第二設営班について防衛庁が戦後資料を取りまとめており、バリクパパンで飛行場建設後に慰安所が建設されたとの記録が残されている。2011年、その中から高知市の市民団体が「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」との記載を見付けたと、日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』が報じた。 |
軍事史学会特別顧問 アジア・太平洋議員フォーラム(APPF)会長 APPF名誉議長 。 |
2008.5.11日、テレ朝が日曜日の午前中に、田原総一郎氏が司会を務める「サンデープロジェクト」という番組をやっていた。同番組が何と中曽根康弘氏と元社会党委員長の土井たかこ氏、元共産党委員長の不破哲三氏の3人を集めて、戦中戦後の思い出や、政治、憲法などについて語り合うという特別企画を放送した。対談「中曽根、土井、不破3氏の終戦&政治への思い」。 |
2008.9.3日付の読売新聞朝刊に、9月1日に首相辞任の会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿している。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べている。 |
2008.12.7日、自宅で転倒し、右肩を骨折して入院したが順調に快復し、2009年3月7日に開かれた鳩山一郎没後50年の会合でも演説するなど、活動を続けていた。また同年10月、急逝した中川昭一元財務大臣の告別式に出席した際は、介添えを必要とせず自力で席を立って焼香をするなど、90歳を過ぎても矍鑠とした姿が見られた。 |
サンデー毎日2009.7.19日号において対談を行い、互いに一定の評価をし合った。不破哲三 コメントは次の通り。「首相在任当時は激しい論戦をやり合った。政治的に対立する立場にあったが、率直な討論のできる政治家だった」。
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2012年、日刊現代編集部(谷悠己)が、福島第一事故を受けて、日本の原発導入の歴史を追った通年連載「日米同盟と原発」の取材のため東京の事務所を訪ねて証言を求めたが、高齢を理由に応じてもらえなかった。 |
2013.12.4日夜、国会近くにある東京・紀尾井町のホテルニューオータニで、5月に95歳を迎えた中曽根の祝賀会が行われたが、企画者とされる山口敏夫元労相以外にも、山崎拓元幹事長、伊吹文明衆院議長、石破茂自民党幹事長、石原伸晃環境相、古屋圭司国家公安委員長、島村宣伸元農相、二階俊博衆院予算委員長、亀井静香元国民新党代表、渡辺喜美みんなの党代表らが出席した。海外訪問中の村上正邦元労相や体調を崩している与謝野馨元官房長官を除けば、旧中曽根派の主だった人物が結集しており、旧中曽根派の同窓会のようだったと報道された。 |
2015.5月、97歳の誕生日を迎えた。 同年8.7日、読売新聞に戦後七十年にあたっての長文の寄稿を行うなど健在ぶりを示している。 |
2016(平成28)年、7月、中曽根康弘(98歳)氏がSPの警護対象から外れた。 |
2017.9月、99歳の誕生日を迎えた。尾崎行雄記念財団は公式フェイスブックで「2003年の自民党の比例区における73歳定年制導入がなければ、中曽根元総理は恐らく尾崎の連続当選25回、在職連続63年の記録を塗り替えていただろう」というコメントを残している(計算上は、2003年以降も北関東ブロック比例1位の処遇が継続していて中曽根本人が辞退していなければ、2011年に在職連続64年となる。連続当選は2017年に26回となる。)。 |
2017(平成29)年、5月、著書「国民憲法制定への道」を出版。安倍晋三首相が掲げた憲法9条改正について、自衛隊を「自衛軍」として2項に明記すべきだと訴えた。同月の99歳の白寿を祝う会では「(改憲は)わが人生の願いだ」となお意欲を見せていた。
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2018.5月、日本の総理大臣経験者では史上2人目の100歳の誕生日を迎えた(前述)。関係者の話によれば、近年足腰が衰えたものの都内の事務所を週2回程度訪れ、書類整理や来客との面会をこなしているという。 |
【中曽根逝去、葬儀】 |
2019(令和元).11.29日午前7時すぎ、中曽根が東京都内の病院で老衰により亡くなった(享年101歳)。喪主は長男弘文(ひろふみ)。孫で衆議院議員である中曽根康隆によれば、中曽根は晩年は入退院を繰り返し、最期となる2か月間は入院していたものの「医者も説明できないような生命力があり、元気に過ごして」おり、病室でも相変わらず新聞に線を引きながら3、4時間もかけて端から端まで読んだり、テレビで国会中継を見たりしていたという。最期は子供や孫たちに囲まれながら息を引き取ったという。
同年11.29日、日本国政府の閣議で従一位・大勲位菊花章頸飾が決定された。 また、フランスからレジオンドヌール勲章(グラントフィシエ)、ドイツ共和国から功績勲章大十字章をそれぞれ受章している。 称号は、名誉博士(ルイ・パスツール大学)、名誉博士(タンマサート大学、政治学)の名誉学位を受けている。その他、1997年(平成9年)には国会議員在職50年表彰を受けた(史上4人目)。 |
内閣・自民党による合同葬は2020年3月15日にグランドプリンスホテル新高輪・国際館パミールで行われる予定だったものの、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い同年10月17日に延期となった。中曽根の死により、昭和時代の総理大臣は全員この世を去った。また、令和期まで生きた唯一の昭和時代の総理大臣経験者となった。 |
10.17日、コロナ禍の中、中曽根葬儀が「グランドプリンスホテル新高輪」で1400人規模で行われた。国葬でもないのに宮中の神嘗祭に参列された直後のご皇族方をご招待している。天皇は午前に神嘗祭が宮中で執り行われ、皇居神新嘉殿にて皇大神宮を御遙拝になられる。最後に夕刻、御祭神を和めるために御神楽が行われる。 |
(私論.私見)
小泉内閣の最大の功績として「アフガニスタン、イラクでの国際貢献を目的とした自衛隊の海外派遣」を挙げる(中曽根も第3次内閣でイラン・イラク戦争での掃海艇派遣を検討していた)。また最大の失政として「憲政の常道に反し、参議院で否決された郵政民営化法案を成立させようと衆議院を解散したこと」(郵政解散)を指摘した。「小泉内閣は、私がやったような政治の本道―たとえば財政とか行革とか、教育―ではなくて、道路と郵政をやっただけだ。どちらかと言えばはじっこのことだ。それを劇場政治として面白くやったんだな。俺に言わせれば印象派の政治だ(笑)」とインタビューに答えている[69]。
とりわけ、保守合同の立役者であり、自民党史上最高の軍師として鳴る三木武吉を比喩として使い、その時代の参謀型・調整型政治家を持ち上げる手段としていた。鈴木内閣時の金丸信に対しては、「三木武吉以来の人材だ」とおだて上げ、加藤の乱鎮圧後の野中広務には、「三木武吉を超えましたなあ」と褒め上げている。