中曽根の履歴考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).10.24日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、中曽根康弘の履歴を確認しておく。 「ウィキペディア中曽根康弘」、「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK276」の 2020.10.16 櫻井ジャーナル「CIAとつながり、新自由主義を日本へ持ち込んだ中曽根康弘(櫻井ジャーナル) 」その他参照。 2004.8.9日 れんだいこ拝 |
【中曽根のプロフィール】 |
中曽根の経歴は次の通りである。 |
1918(大正7).5.27日、群馬県高崎市末広町にて出生。 奇しきなことに田中角栄も同年同月の4日生まれである。 |
中曽根自身はクリスチャンではなかったとされているが、共愛女学校を卒業している母親のゆくの賛美歌を聞きながら育った。中曽根は軍隊に入隊して出征する際、聖書を持って行ったという。 |
1935(昭和10).3月、群馬県立高崎中学校4学年修了。 |
1938(昭和13).3月、静岡高等学校文科丙類卒。東京帝國大學に進学。在学中、高等文官試験行政科合格。
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1941(昭和16).3月、東京帝國大學法學部政治學科卒。 |
短期現役制度(第六期二年現役主計科士官)に応募し、海軍経理学校にて初任教育を受ける。 | |||
1941(昭和16).4.18日、内務省に入省。海軍主計科短期現役第6期生として海軍経理学校入校。8.11日、同校卒。その後、海軍主計中尉に任官され、青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」(第一艦隊、第六戦隊所属)に配属される。高知県の土佐湾沖の太平洋で訓練を受ける。
同年11.20日、第二設営班班員に補職。11.26日、広島県呉市の呉鎮守府(司令長官豊田副武大将、参謀長中島寅彦少将)に到着。同鎮守府参謀長から第二設営隊の主計長に任命され、工員3000名と海軍陸戦隊の糧食・弾薬・資材、零戦・一式陸上攻撃機の武器・燃料を調達して輸送船団に積み込むよう命令される。11.29日に出港するまで昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮でほとんど寝る暇もなかったという。 |
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同年11.29日、二千人の工員とともに輸送船団は出発。中曽根は「台東丸」に乗船した。この船に乗船したのは刑余者(前科のある者)を含め様々な背景を持つ者たちであり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じて、荒くれ者の力を借りて統率することにした。中曽根は甲板に集めた八十余人の中から一番凄そうな親分肌の者を士官室に呼び出した。古田と名乗る前科八犯のその男に中曽根は「お前を男と見込んでの頼みだ。ひとつオレの子分になってくれないか。お前も天皇陛下に随分と迷惑をかけてきたんだろう。ここらでご恩返しをしようじゃないか」と申し出ると古田は了承した。中曽根と仁義を切って酒を呑み交わした古田は班長に抜擢された。 | |||
同年12.8日、太平洋戦争開戦。以後、輸送船団はアメリカ領フィリピンのミンダナオ島のダバオに上陸する。上陸後、飛行場の設営がはじまるとアメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の爆撃を受けた。 | |||
次にボルネオ島のバリクパパンに向かうが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。 1942(昭和17).1.24日、バリクパパン沖で日本軍輸送船団約20隻が急襲上陸のために停泊したところ、オランダとイギリスの駆逐艦と思しき敵艦艇と潜水艦が殴り込みをかけてきた(バリクパパン沖海戦)。こちらには軽巡洋艦がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は轟沈、さらに接近してきた敵駆逐艦から副砲や機関銃で攻撃され、輸送船も炎上する。中曽根が情況を確認すると、船倉は阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、多数の重傷者を出していた。班長も脚部ほぼ切断の重傷であり、中曽根は軍医長に託したものの、班長は負傷者を励ましながら治療を優先させているうちに戦死した。27日、この戦いで戦死した23人の仲間達の遺体をバリクパパンの海岸で荼毘(火葬)に付した。 |
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同年3.10日、中曽根はその後も主計科士官として従軍しに台湾の馬公に転任し、海軍建築部附となる。11月、大尉へ昇進。 |
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1943(昭和18).8.18日附で中曽根は高雄海軍施設部部員(高雄警備府)に任命された。高雄海軍施設部女子挺身隊「静和寮」寮長を務める。 | |||
1944(昭和19).11.1日、横須賀鎮守府付の派遣勤務海軍兵備局三課。 1978年に出版された「終りなき海軍」(松浦敬紀編著)によると、当時、海軍の主計長だった中曽根元首相が次のような発言をしている。
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1945(昭和20).2.11日、戦友の妹で早稲田大学教授小林儀一郎の娘/小林蔦子と結婚。その直後の2.25日、同じく海軍士官であった弟の良介が航空事故のため死亡している。 結局、戦時中、一度も外地勤務することなく、上級軍人としての海軍主計として内勤していたことが判明する。終戦時の階級は海軍主計少佐であった。 |
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1945(昭和20).8.6日、自著「自省録」(新潮社)によると、原子力への関心は海外将校だった終戦間際、広島への原爆の影響とみられる巨大な入道雲を見たのを契機として、原子力に関心を持つ。自著「天地有情-50年の戦後政治を語る自省録」(文藝春秋、1996年)によると、その166~172頁の「原子力推進の原点になった原爆雲遠望」という項に、原発推進のためにいかに尽力したか、その苦労話が得々と書かれている。 | |||
1945(昭和20).9月、退役。10月、内務省に復帰し内務官房事務官として勤務する。官房調査部でアメリカ軍との折衝を担当。このとき、アメリカ軍将校と交流する。 1946(昭和21).2月、地方事務官として香川県警務課長。 |
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1946(昭和21).9月、警視庁警視。監察官。 | |||
同年12月、依願退職。結局、戦後は、内務省警察畑の官僚として切り盛りして後、衆議院議員目指して退職する。 |
【第23回総選挙で衆議院議員初当選】 |
1947(昭和22).4.25日、28歳の時、第23回総選挙で衆議院議員初当選。この時、田中角栄、鈴木善幸も初当選している。初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をしたことはよく知られている。47年4月、衆院旧群馬3区で初当選以来、比例北関東ブロックも含め連続20回当選する。 |
【河野派に所属し児玉誉士夫と知り合う】 |
政治家になった中曽根は河野一郎の配下へ入り、そこで右翼の大物とされていた児玉誉士夫と知り合う。児玉がCIAの手先だったことがロッキード事件の際に判明している。 |
【MRAの世界大会に出席】 |
中曽根が権力の階段を登り始めるのはMRA(道徳再武装運動)と関係するようになってからである。グレン・デイビス、ジョン・G・ロバーツ著、森山尚美訳「軍隊なき占領」(新潮社、1996年)によれば、この団体はCIA系の疑似宗教団体で、日本人としては岸信介や三井本家の弟、三井高維が参加している。このMRAで中曽根はヘンリー・キッシンジャーなどCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合い、1950.6月、スイスで開かれるMRAの世界大会に出席している。 |
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キッシンジャーは現在98才で健在である。中曽根はんとの関係で、「中曽根は若い頃からキッシンジャーに師事していた」と評されているので、てっきりキッシンジャーの方が年上と思っていたが違う。中曽根は田中角栄と同年の1918(大正7)年生れ、キッシンジャーは1923年生まれである。1950年前後に師弟関係ができているようなので、この年で年齢換算すれば中曽根32歳、キッシンジャー27歳ということになる。してみれば、「ヘンリー・キッシンジャーに師事」を平面的に理解するのは正しくなく、32歳の中曽根が5歳下のキッシンジャーに顎(あご)で使われる関係がこの時期にできあがっていたと読む必要があろう。 |
【1953年の「ハーバード国際セミナー」に出席】 | |
ハーバード大学を卒業した直後、キッシンジャーは「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクールの責任者になるが、1953年のセミナーに中曽根は参加した。セミナーのスポンサーにはロックフェラー財団やフォード財団のほか、「中東の友」といった団体も含まれていたが、この「中東の友」はCIAが隠れ蓑に使っていた団体だと言われている。時期が1年ずれているが次のように解説されている。
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【改進党の衆院議員として米国の原子力施設を視察】 |
1953(昭和28)年、改進党の衆院議員として米国の原子力施設を視察し「日本もこの流れにのらないと取り残される」と感銘を受けたと云う。セイヤー教授が中曽根を核武装論者に仕上げ、間近に迫った保守合同の布陣に、中曽根に理論武装の手助けをした。2億3500万円の調査費を獲得し、日本の原子力計画が動き出すことになる。 |
【原子力研究開発のための原子炉調査予算案を成立させる】 |
1954(昭和29).3.2日、帰国した中曽根は一議員でありながら、大急ぎで原子力研究開発のための原子炉調査予算案(2億3500万円。このうち原子力平和的利用研究費補助金が2億3500万円、ウラニウム資源調査費が1500万円、計2億5000万円)を作って日本の国会に初めて提出、修正を経て4月に成立させた。こうした動きの背景には1953年12月にドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言がある。 |
【正力松太郎と結託】 |
この頃、正力松太郎に近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となって動いてきた。阿部英とは、「青年懇話会」で半世紀に渡って親交してきた仲。 |
【保守合同】 |
1955年、保守合同。この間、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党などを経て、55年の保守合同による自民党結党に参加する。保守合同に際しては、長らく行動を共にした北村徳太郎が旧鳩山派である河野一派に合流したことから河野派に属した。その後は反吉田茂勢力として、自主憲法制定や再軍備を標榜し、長く野党議員として過ごしている。議場では吉田政権を激しく攻撃していたが、吉田個人のことは「日本のために堂々とやっていた。マッカーサーの司令部にいっても、あまり卑屈にならないでやった」と評価している。 |
【この頃の中曽根に関する渡邉恒雄証言】 | ||
この頃の中曽根を渡邉恒雄が次のように証言している。
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【原子力合同委員会の委員長に就任】 | |
1955(昭和30)年、37歳の時、衆参超党派による原子力合同委員会の委員長に就き、同年の原子力基本法の制定や翌年の原子力委員会の発足を導いた。 | |
日本初の商用炉、東海原発(茨城県東海村)を英国から導入することを決めた初代原子力委員長の正力松太郎氏(故人)を補佐役として支えた。自著「自省録-歴史法廷の被告として」(新潮社、2004年)の41~46頁の「原子力推進に奔走する」の項で、「国会に一挙に8本の原子力法案を提出し」たことや、「このとき、科学技術庁も作って、正力松太郎さんが長官になり」、「正力さんは電子力委員会の委員長も務め」たことが書かれている。正力氏の秘書だった萩山教厳・元衆院議員(故人)は「中曽根さんは(正力氏を)『閣下』と呼び、銀座の読売新聞本社に通っていた」と生前の取材に証言している。 自著「天地有情-50年の戦後政治を語る自省録」(文藝春秋、1996年)によると、「原子力推進の原点になった原爆雲遠望」の項で、原発推進のためにいかに尽力したか、その苦労話が得々と書かれている。その一節は次の通り。
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【「憲法改正の歌」発表】 |
1956年、「憲法改正の歌」を発表するなど自主憲法制定を訴える改憲派として活発に行動し、マスコミからは「青年将校」と呼ばれた。若い頃から総理大臣を目指すことを公言し、憲法改正や首相公選論の主張など大胆な発言やパフォーマンスを好んだことや、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。 |
【日ソ共同宣言賛成討論】 |
同年11.27日の日ソ共同宣言を批准した衆議院本会議において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行ったが、内容はソ連に対する厳しい批判だったり「涙を呑んで渋々賛成」等と述べたため、社会党や共産党が抗議、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除される異例の出来事となった。 |
【岸内閣で科学技術庁長官として初入閣】 |
1959(昭和34).6.18日~1960(昭和35)年、41歳の時、7.19日、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け岸内閣で科学技術庁長官として初入閣。第2次岸信介内閣で原子力委員長に就任。 |
【九頭竜川ダム汚職事件に名前が挙がる】 |
1965年、福井県の九頭竜ダム建設を巡る落札偽計事件(九頭竜川ダム汚職事件)に名前が挙がっている。 |
【中曽根派を立ち上げ】 |
1966年、自民党内で頭角を現し河野派分裂後は中曽根派を立ち上げ一派を率いる。幹事長や総務会長を務め、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫各氏ら「三角大福中」と呼ばれる有力者の一人とみなされるようになっていった。 |
【第2次佐藤内閣第1次改造内閣で運輸大臣就任】 |
1967(昭和42).11.25日~1968(昭和43).11.30日、第2次佐藤内閣第1次改造内閣で運輸大臣就任。入閣した際、それまで佐藤栄作を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏と揶揄され、以後これが中曽根の代名詞になった。中曽根本人はこの変わり身について佐藤が沖縄返還を目指していたことからそれに協力することにした旨を説明している。 |
1968.4.6日、運輸大臣時代に成田空港問題に関わり、この日、友納武人千葉県知事とともに新東京国際空港公団と条件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書」取り交わしに立ち会っている。これに先立って、中曽根は買い取り単価を引き上げて畑1反あたり一律110万円にすることに同意している。 同年8.9日、「札束を積めば農家なんてすぐ土地を売る」と反対派の訴えに耳を貸さない政治家が多い中、自宅にアポなしで訪れ戸村一作ら反対同盟と面会している。 |
【第3次佐藤榮作内閣で防衛庁長官就任】 |
1970(昭和45).1.14日~1971(昭和46).7.1日、第3次佐藤榮作内閣で防衛庁長官を歴任する。 同年1.21日、防衛庁長官就任直後、「第一線級の隊員と話し合いたい」と語り、T-33練習機で千歳基地を訪問して、食堂で隊員らと飯を食っている。航空自衛隊T-2高等練習機に試乗。自衛隊員へのトイレットペーパー国費支給開始。 |
同年3.7日、防衛庁の事務方で権勢を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画について批判したことが衆議院予算委員会で取り上げられた際、中曽根は「(海原は)事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎない」という趣旨を同席する本人を前に言い放ち、議場を騒然とさせた(「お茶汲み」の箇所は議事録から削除されている)。 |
1970(昭和45).9月、訪米。メルヴィン・レアード国防長官と会談。 |
【三島事件との関わり】 |
同年9月、三島が死の2か月前、中曽根が主宰していた新政同志会青年政治研修会で「我が国の自主防衛について」という講演をしている(三島の決定版全集41巻に音声CDもあり)。 |
三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体などから強く批判された。中曽根は自著の中で「三島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけではない」と釈明している。 |
【角福総裁選戦争時の風見鶏対応】 |
この直後、中川俊思議員が「週刊新潮」に、中曽根派の一人ひとりに1000万ずつが手渡されたことを暴露した。そのほかに、2億円が中曽根さんの手元にキープされており、合計7億円で派閥ぐるみ田中派に買収されたとして話題になった。この問題は、中曽根が中川議員を名誉毀損で訴え、後に中川議員謝罪、なんとなくうやむやな形で決着がついた。別の情報によると、田中側からの10億円は、総裁選を挟んで5億円ずつ渡されており、総裁選前の7億円は、田中派からの5億円と福田派からの2億円を足した数字だという。(「日本をダメにした九人の政治家」 浜田幸一 1993年 講談社 (P76-77) ) |
【第1次田中角栄内閣の通産大臣、科学技術庁長官、原子力委員長就任】 |
1972(昭和47).7.7日~1972(昭和47).12.22日、 第1次田中角栄内閣の通産大臣、科学技術庁長官、原子力委員長。田中角栄政権が誕生した72年7月から2年務めた通産相(現経済産業相)時代、海外からの濃縮ウラン購入量を増加させるなど商業原発の増加に寄与している。 |
1972(昭和47).12.22日~1974(昭和49).12.9日、第2次田中角榮内閣で通産大臣。科学技術庁長官の任を離れた。 |
【三木内閣時代、自由民主党幹事長】 |
三木内閣時代、自由民主党幹事長となり、三木おろしの際には、三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。 |
【ロッキード事件勃発時の対応】 |
1976年、ロッキード事件勃発。同事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。後に、「(刑務所の)塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ち勲章までもらったのが中曽根」と揶揄された。 同年の衆院選では事件との関係から落選ら囁かれたが、辛うじて最下位で当選した。 |
【福田政権で総務会長に就任】 |
福田政権で総務会長に就いたのちは福田に接近し、まとめ役とされる総務会長ながら、政権ナンバー2で福田の潜在的ライバルの大平幹事長の政策とは逆方向の発言を繰り返す。 |
【東郷民安殖産住宅事件騒動】 |
中曽根は旧制静岡高校から東京帝国大学へ進んだのだが、高校時代の友人に東郷民安という人物がいた。東郷は殖産住宅の創業者だ。その会社の株式が1972年10月に上場されたが、その際に中曽根は東郷に「株式公開を利用して政治資金をつくりたい」と持ちかけ、公開時の株価操作で儲けさせてくれるよう働きかけたている。この上場を取り仕切ったのは業界最大手の野村証券。中曽根によると、当時の野村証券社長、北裏喜一郎は中曽根のスポンサーのひとりだというが、この上場でトラブルが発生、児玉誉士夫が出てくる。結局、東郷は1973年6月に所得税法違反の容疑で逮捕され、有罪判決を受けるのだが、冤罪だと考える人もいる。(東郷民安著『罠』講談社、1986年) |
1977年、殖産住宅事件絡みで証人喚問を受けた。 |
1978.2月、この頃から「自衛隊の近代化、装備の充実を長期的な計画で国民の協力を得て進めなければならない」などとタカ派的主張を全面に出すようになる。 |
同年3月、成田空港管制塔占拠事件発生。この事件に対して、「成田の過激派は迫撃砲を使ってでも退治せよ」と発言して総務会を過激派取り締まりの新規立法など強硬路線でまとめ上げ福田首相に直訴した。 |
同年4月、武装中国漁船が大挙して尖閣諸島周辺領海に侵入して操業を行った事件では「自衛隊を出動させろ」と主張している。をしている。 |
栗栖弘臣統幕議長が金丸信防衛庁長官に解任された際には、問題とされた来栖発言の主旨である有事法制必要論を肯定する発言をしている。 |
1978年、自由民主党総裁選挙に「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で総裁選挙に名乗りをあげ、一時は予備選挙で大平を上回り2位につけるという世論調査が出るほどであったが、予備選挙の結果は大平が1位となり中曽根は3位となる。第1次大平内閣では幹事長ポストを要求するも、逆に蔵相を提示され拒否した。 |
非主流派としていわゆる四十日抗争でも反大平連合に属したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず、早くから本会議での造反に反対するなど、三木・福田とは温度差があった。そのため大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。 |
1980(昭和55).7.17日~1982(昭和57).11.27日、国務大臣行政管理庁長官(鈴木善幸内閣)。 鈴木内閣では主流派となった。中曽根自身は蔵相ポストを希望していたものの、派の後輩の渡辺美智雄にその座を奪われるという屈辱を味わう。しかし、財政再建の手段として行政改革にスポットライトが当たる中、行政管理庁長官として職務に励み、首相就任後分割民営化などの答申をすることになる土光敏夫、鈴木善幸首相の信頼も得ることになった。 |
日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』は、行政管理庁長官時代の1980年に行われた総選挙においても、富士通や日本製作所から違法献金を受け取ったと報じた。 |
1981.5月、当時の首相である鈴木善幸は、初めて『シーレーン千海里防衛術』を公表するが、渡米の帰りの機中で「日米安保条約には軍事的協力は含まれない」と発言し、帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って、共同声明に対する不満を表明してしまい、アメリカの世論を怒らせた。 参議院本会議で、鈴木首相・宮澤喜一内閣官房長官と伊東正義外務大臣が日米同盟の解釈を巡って対立し、伊東外相が辞任するという前代未聞の事態にまで発展してしまう。これに武器技術供与の問題が重なることとなる。大村襄治防衛庁長官がワシントンでワインバーガー国防長官と会談した際に、アメリカ側から武器技術供与は同盟国に対しては「武器輸出三原則」の枠外にしてほしいと頼まれていたのに、鈴木首相はこれに対応しなかった。 おまけに伊東の後任である園田直外務大臣が、韓国との関係を損なう事件を起こす。事の経緯は、韓国が、防衛および安全保障に絡み、5年間で60億ドルの政府借款を要請したことに対して、園田は経済協力の切り離しを要求して40億ドル以下に削減、その上「資金をもらう方が出す方に向かって、ビタ一文安くすることはまかりならんと言うのは筋違いだ」というような発言をして、韓国の反発を招いた。中曽根は総理になる前から、最初にこれらの問題を解決してしまおうと密かに計画しており、首相就任直後に全斗煥と電話会談を行っている。 |
1982.11月当時、日米関係は最悪と呼べる状態だった。時代背景は、ソ連が大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備して、それに対抗する形でアメリカはパーシングIIを配備しようと計画しており、東西冷戦構造が一段と厳しさを増し、一触即発の事態にもなりかねない核の脅威の中で、西側の首脳達は厳しい外交の舵取りを行っていた。そんな中、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、アジアが全く無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。 |
(私論.私見)