中曽根康弘醜聞&売国奴プロファイル考

 更新日/2017(平成29).9.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 中曽根康弘ほど名宰相、大勲位として持ちあげられる他方で醜聞に事欠かない御仁はいない。中曽根に纏わる胡散臭さは次の通りである。馬鹿馬鹿しいので敢えて記さないとしていたが、政治史上の重要性に鑑み確認しておくことにする。他にも順次収集していく予定である。「中曽根醜聞」は掃いて捨ててもまだまだ掃ききれないほど盛りだくさん過ぎる。

 2004.8.9日、2012.1.3日再編集 れんだいこ拝


【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その1、従軍慰安婦施設開設】
 「したたかと言われて久し/中曽根康弘
」。
 叩きつけられた絶交状

 中曽根康弘に関わって、中曽根より1歳下の伝記作家、小島直記に速達の絶交状を叩きつけられたことがある。拙著『佐高信の斬人斬書』(徳間文庫)の次の部分が小島の逆鱗に触れたのだった。

 <戦争に行かなかった人や行っても悲惨な目に遭わなかった人ほどタカ派になる。「経営者の戦争体験」の取材をしていて、大和投資顧問会長の坂田真太郎の話になるほどと思った。坂田は学徒出陣で兵隊にとられ、入隊して「主計になる試験を受けたい者は前へ」と言われて、前へ出たら、下士官から猛烈な勢いで殴られた。主計というのは、つまり、経理係であり、前線に出なくてすむ。わが中曽根康弘クンは、その海軍主計少佐だった。>  これについて小島は、中曽根の弁護をするつもりはないが、自分も海軍主計大尉だったので「主計」そのものについての浅い斬り方を許せない、と激昂してきた。本来ならば、同期の戦死者に代わってあなたをブン殴るところだ、ともあった。

 それに対して私は、問題の著書の別の頁の「若い人がもの知らずにアレコレ言うのを恫喝したら批評精神は死ぬ」という木下恵介の言葉を、ただ読み返すだけです、と返事を書いた。小島がどんなに怒ろうとも、私は中曽根について「主計に逃げた」という印象を消せなかった。中曽根自身が『政治と人生』(講談社)で、海軍短期現役補修学生制度(いわゆる短現)に言及し、「陸軍に行くと一等兵から始めて上等兵の靴を磨かなくてはならないが、海軍の主計科は経理学校に入ると同時に中尉である」と書いているからである。

 フランス語で『パンセ』を読む

 私は中曽根に1度だけ会ったことがある。『俳句界』の社長姜キ東(※キは王編に「其」)が、私がホストの対談に、俳句をつくる中曽根に出てもらえないかと言って来て、中曽根の側近をもって任じる村上正邦に紹介を頼んだ。数年前のことである。だったら、中曽根が講演する明治記念館に来い、と言われ、指定された時間に出かけた。控え室での中曽根は黒ずくめの男たちに囲まれていた。私が入って行くと、彼らがみんな、場違いな奴が来たな、と硬い雰囲気で迎える。その時、村上が大きい声で「ああ、サタカさん、サタカさんは左だけどいい人だ」と叫んだ。それで少しは場の空気もなごんだが、中曽根に紹介され、返事はあとで、と言われる。結局、秘書から断りの電話が来たのだが、それまで、かなり激しく中曽根批判をしていただけに致し方ないだろう、と思った。そう伝えると村上は、「何だ、中曽根も料簡が狭いな」と笑っていた。

 中曽根の俳句は「まったくの自己流」である。東大法学部に入って「六法全書ばかり見ていると人間は水分がなくなる。水分を埋めるには俳句がいい」と思って句作を始める。水原秋桜子や中村草田男の句集は読んでいた。
 ○したたかと言われて久し栗をむく
 ○くれてなお命の限り蝉しぐれ
 ○眠り落つ妻の寝息や秋深し

 こういった句を作った中曽根はまた、フランス語で『パンセ』を読んだ。早野透の『政治家の本棚』(朝日新聞社)によれば、その一節をサミットで披露したら、フランスの大統領ミッテランが驚いたという。中世のフランス語で書かれているから難しいのだが、中曽根は苦労して『パンセ』を3分の1ぐらい訳したとか。

 中曽根の平和憲法擁護演説

 中曽根は改憲派の総大将だが、1歳下で護憲派の宮澤喜一と『改憲vs護憲』(朝日文庫)の「憲法大論争」をしたことがある。企画したのは今春亡くなった元『朝日新聞』主筆の若宮啓文で、その若宮がいきなり秘話を明かして中曽根に迫った。「これはあまり知られてないのですが、中曽根さんは改憲論を鮮明に打ち出す前の1949年の衆院本会議で、吉田(茂)首相を相手に『絶対平和主義と中立堅持は8千万民族の決意だ』と憲法擁護の演説をしたことがありますね」。中曽根はこう答える。「それは、その通りなんですね。というのは、マッカーサーの占領中、朝鮮戦争が勃発する前、私は野党の民主党にいて、中立、中道、中産階級という三中主義を唱えたことがあります。当時、マッカーサーが『東洋のスイスになれ』なんて言ったときで、なにも占領下、アメリカの言うままに動く必要はない。我々は我々の自主性を持って中立でいるんだという意味で、占領政策に抵抗する意味もあって中立堅持の演説をし、同時に中産、中道ということも言ったんです」。しかし、朝鮮戦争が始まって、日本はアメリカに警察予備隊をつくらされ、アメリカから武器をもらって外国からの侵略に抵抗することになった。それで中曽根は「外国の侵略に対抗するものは防衛力であって、警察ではない。こういう欺瞞は許さん。できるだけ早期に、自分で自分の国を守る体制を正式につくり、早く米軍を撤退させて、独立を回復しよう」と主張するようになったという。

 それにしても、一時的にせよ、中曽根が絶対平和の憲法を擁護する演説をしたことがあるというのは興味深い。若宮は「対談を終えて」で、宮澤が傾倒した石橋湛山を「平和憲法を高く評価し、冷戦初期の一時期を除いて、護憲の立場を鮮明にし続けた政治家」と規定しているが、中曽根は若き日に、自民党の総裁選挙で、岸信介ではなく湛山に投票したとも証言している。岸は戦争に責任のあった人であり、「我々はあの人たちの命令で戦争に駆り出されて、第一線で命がけで働いてきたんで、その責任を不問に付すことはできない」と精神的に葛藤していた。「その後遺症で、岸さんが自民党の総裁になるときに、私の属していた河野(一郎)派は全部岸さんに入れたんだけれども、私は1人だけ対立候補の石橋湛山に入れた。そうやって心の葛藤を晴らしたのですね」。

 中曽根は田中角栄と同じ年である。最近、ロッキード事件は民間機疑惑の田中が本筋ではなく、軍用機疑惑の児玉と深い関わりを持つ中曽根が“主役”だったという証言がいろいろ出ている。田中は「キッシンジャーにやられた」と言ったらしいが、田中を嫌ったキッシンジャーは中曽根のことは気に入っていた。早野透と松田喬和という2人の元番記者が語った『田中角栄と中曽根康弘』(毎日新聞出版)がそのコントラストを浮かび上がらせている。

 国家第一の中曽根は「市民」を嫌う。

 「市民というのは、反権力のイデオロギー的虚像だ。パリコミューンの反逆の議論ですね。民衆蜂起というような」。こう語る中曽根は「私や自民党は庶民だ。地についたものは庶民だ。市民じゃないの、庶民なんです」と言い、こう結ぶ。「私の根底にあるのは庶民なんです。市民ではない。江戸の庶民なんです」。


【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その1、従軍慰安婦施設開設】

 暴かれた中曽根康弘氏の65年後の「人生の嘘」/明日うらしま・梶村太一郎 2011-11-02 09:56:55 

 暴かれた中曽根康弘氏の65年後の「人生の嘘」:生きているうちに「慰安婦」を何人、どのようにして集めたのか答えよ。 このブログでは、「日本の核の男爵」としての中曽根康弘氏について、また彼の自民党内閣の後継者の安倍晋三氏の「人生の嘘」について以下のように書きました。

 5:日独の双子の「核の男爵たち」の破綻
 http://tkajimura.blogspot.com/2011/05/blog-post_22.html

 22:原発中毒の人々と「人生の嘘」(2)
 http://tkajimura.blogspot.com/2011/08/blog-post_30.html

 ところが先日、10月27日、中曽根氏の「人生の嘘」が完全に暴かれました。高知の「草の家」の皆さんが決定的な史料を入手して公表したのです。これについては、これまでに、まずは10月28日に「しんぶん赤旗」が:「土人女を集め慰安所開設」中曽根元首相関与示す資料http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-10-28/2011102814_02_1.html
続いて本日11月1日に朝日新聞が:中曽根元首相、慰安所「取り計らい」 旧海軍資料に記述http://www.asahi.com/national/update/1101/OSK201110310228.html
として報道しました。朝日新聞は本年の4月26日、すなわちチェルノブイル事故25周年の日に、「オピニオン」特集でわざわざ中曽根氏の大きなインタヴュー記事を掲載し、「それでも原発推進すべし」とのキャンペーンを行い、すっかり信用を落としました:
 http://www.gns.ne.jp/eng/g-ken/doukan/agr_762.htm

 しかしこの「慰安婦」問題では中曽根氏を追究する記事を掲載したことは高く評価すべきでしょう。中島嘉克記者はよくぞ書きました。名前を記憶しておきます。

 わたしは、2007年3月に、当時の安倍晋三首相が「慰安婦強制連行はなかった」との一国の首相としては許し難い暴言を吐き、大きな国際問題になったにもかかわらず、日本の朝日新聞以下のメディアが東京新聞を例外として沈黙するか、さらにはこの暴言を擁護するのに対し、週刊金曜日誌上で語学の天才の村岡崇光ライデン大学元教授と共にオランダ戦犯法廷の一次資料を翻訳解説する連載を行ったことがあります。翌年に単行本となったこの仕事は、その一部が英文とさらに本年は韓国語に翻訳され、国際的にも歴史研究の資料となっています。(『「慰安婦」強制連行』・オランダ軍法会議資料/梶村、村岡、糟谷、2008、金曜日) 以来、「慰安婦強制連行はなかった」などとの史実の改竄は、まともな研究者や政治家は口にできなくなっています。ですから、日本の歴史改竄主義者たちには最も嫌われている書籍のひとつです。これを読んで覚醒した若者たちが多くいます。

 さて、この問題が起こった当時、中曽根氏は東京の外国人特派員協会で記者会見し、特派員たちに自らの海軍時代の慰安所関与に関して追究され以下のように真っ赤な嘘を述べています。わたしの著書にもこの件は、完全な裏付けが無かったため記述していませんので、ここで追加の意味もありますので書いておきます。戦後の「核の男爵」が軍隊時代には、せっせと「慰安所」設営に精を出していることを、特派員たちを前にして、以下のようにしらを切っています。アメリカのブルームバーグ紙の日本語版です:
以下全文引用
ーーーーーーー
 タイトル:中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題

 http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920000&sid=auVti5ZLiSxw&refer=jp
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%253E

 3月23日(ブルームバーグ):中曽根康弘元首相は23日午後、日本外国特派員協会で記者会見し、自らが旧海軍時代に従軍慰安婦が詰める「慰安所」を設置したと指摘されていることについて「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と否定した。

 従軍慰安婦問題への旧日本軍の関与の実態に関しては「具体的なことは知らない」と述べるにとどめたが、「日本として謝罪すべき問題だ」とも指摘した。また、米下院に提出された旧日本軍の従軍慰安婦問題に関する対日非難決議案へ日本政府が取るべき対応について「結果次第だ。考えるべき問題があれば考え、処置すべきことがあれば処置すべきだ」と語った。

 また、安倍晋三首相が、当時の官憲などが慰安所の設営や慰安婦の募集・移送に関与していたことを認めて「おわび・反省」を表明した1993年の河野洋平官房長官談話を継承する、としていることに賛同する考えを強調。その上で、「日本政府、国民は正式な謝罪を行っている。改めて政府が言うチャンスがあれば必要だ」とも語った。
ーーーーーーーー
 当時、安倍発言が大きな国際問題になったため、以上のような発言となったものです。

 この記者会での発言は、検索すれば多くが出てきます。「ではその施設では何をしていたのか」と問われ、「碁を打っていた」などと、ふざけた回答までしています。当時から信用されていませんでした。しかしこの発言を覆す証拠が無かったのです。これが1942年から65年後の2007年の中曽根氏の「人生の嘘」であることを暴く史料がついに出たのです。

 現物が以下に紹介され、解説もされています:
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2011/10/post-191b.html
 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2011/10/post-4383.html
 貴重な資料ですので ここから現物の写真を一部お借りします。

 ここに見られる記述:

 「歸(略字)心矢の如く[帰心矢のごとく]氣荒くなり日本人同志けんか等起る様になる。主計長[海軍第二設営班主計長の中曽根康弘・海軍主計中尉]の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」。

 これは中曽根氏の1978年の回顧録への寄稿にある:「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」と見事に符合しています。 次の写真には囲いのある典型的な慰安所も記入されています。

 左に見えるここだけ囲いのある建物には「設営班慰安所」とあります。さて、この証拠が出た以上は、今も幸いにお元気である中曽根康弘氏に、「三千人もの大部隊の慰安所には、何名の女性を集めたのか」また「どのようにして集めたのか」について具体的に正直に語っていただく必要があります。それができないようでは、中曽根氏の名前は日本の第二次世界大戦の戦史の汚点として記録されることになります。 そして、戦後の内閣総理大臣としての経歴の汚点ともなります。これにどう答えるかで、中曽根康弘という人間が決まります。これで氏は晩年になって歴史の審判の公共法廷に立たされ、ついに「人生の嘘」を墓場までもって行くことができなくなったのです。以上をわたしたちの4年前の『「慰安婦」強制連行』の補足として書いておきます。高知市の「草の家」のみなさまの真摯な長い活動に感謝いたします。何年前になりますか、ドイツの市民運動の仲間とともに大変なお世話になったことも改めて感謝しつつ。
 http://tkajimura.blogspot.com/2011/11/blog-post.html
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設
 
 まず、”手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」。
 

 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」、「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」、「具体的なことは知らない」と完全否定している。が、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の”手記”のほうがデタラメということになってしまう。
 
 だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」、「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
  

 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる。主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」。さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日~同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。そして2つの地図を見比べてみると、”ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 
 
 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」、「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。つまり、中曽根首相がこうした”強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。
 
 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。
 
----------------(転載ここまで)
 
 このように、「中曽根康弘」は戦時中に「慰安婦」を集めて「慰安所」を作り、それを自慢げに記録に残したりするような人物なのです。これだけ見ても、彼がどこか普通の人間としての常識に欠けていることが分かります。また、彼のウィキペディアの記事を見てみても、その数々の失言・暴言にはただただ唖然とさせられるばかりです。
 697 :名無しさん@3周年:04/06/25 21:41 ID:D/GUn/r2
【教科書問題の黒幕は、中曽根】
噂の真相97年3月号では、、「自由主義史観研究会」「「新しい歴史教科書をつくる会」の両方のよびかけ人に名を連ねている高橋史朗が、統一協会・勝共連合とも深い関わりをもっているという(2月号では生長の家との関係を指摘されていた。どっちが本当だろう?  あるいは、両方に関係している というのは別に矛盾でないということか?)。 また、産経新聞(元大御所の鹿内信隆は、陸軍経理学校時代に慰安所開設の勉強をしたらしい。 戦地に送るコンドームの不良品検査にも当たっていたらしい。この信隆に傾倒していた 馬鹿者どもが現在の編集幹部となっているとのことである。)が藤岡と右派人脈を結びつけ、 一連の従軍慰安婦問題・教科書批判を仕掛けた張本人ではないか、と指摘している。更に、【中曾根康弘】も、海軍主計将校時代、原住民に対する強姦を防止するために 慰安所を作った者である(これ自体は中曾根自身が「終わりなき海軍」なる回想記で 書いている本当のことである。「噂の真相」では、ボルネオ島バリクパパンである可能性が高く、しかも強制に近い現地徴集が行われていたと思われるとのことである。)。 平成9年1月21日、藤岡らが小杉隆文部大臣に慰安婦問題を教科書から削除するよう 求めた際、特に大臣に直接会えたのは中曾根が仲介したからだということである (中曾根に依頼したのは高橋史朗)。

高橋史朗は、統一協会・勝共連合の機関紙・ビデオ・講演会等で、「日本の性教育は”時代遅れ”」 「結婚前の純潔」が適切」「性教育 過激派 の狙い」等のタイトルの元に、結婚前の 純潔教育(これはまさに統一協会の教えである。)を説いているようである。 「結婚前の純潔教育」自体が直ちに間違っているとは思わないが、統一協会の主張に 沿う内容であるというと警戒感を抱かざるを得ないし、こんな奴が慰安婦問題を語っている という辺りがどことなく怪しさを感じさせるものである。

05.1.21 TBS「中曽根元首相、憲法改正試案を発表」
http://news.tbs.co.jp/headline/tbs_headline1115796.html

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その2、広島のきのこ雲を見て原子力の時代直感
 1945.8.6日、中曽根康弘は高松で広島のきのこ雲を遠望した。この時次のように思ったと云う(中曽根康弘「天地有情-50年の戦後政治を語る」(文藝春秋、1996年)の166~1722頁の「原子力推進の原点になった原爆雲遠望」の項参照。中曽根については「中曽根康弘」で確認する)。
 「私が戦争中海軍に動員されて高松にいた時、広島の原爆雲を見た。この時私は、次の時代は原子力の時代になると直感した」(中曽根康弘「政治と人生―中曽根康弘回顧録」講談社P75)
(私論.私見)
 何と中曽根は、広島原爆のきのこ雲を見て、広島被災に思いを馳せるのではなく、「次の時代は原子力の時代になると直感した」と、著書「天地有情-50年の戦後政治を語る」の中で「先見の明あり」的自負を記している。人の感性は自由であるが素っ頓狂な話しではある。(これは、2011.3.11日の前に書きつけている。今、同日の福島原発事故に遭遇して、中曽根は如何なる「先見の明あり論」を開陳してくれるのだろうか。)

 2013.7.8日書き直し れんだいこ拝

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その3、CIAの影、闇の世界のパシリ
 中曽根には終始「CIAの影」がちらつく。
 694 :名無しさん@3周年:04/06/25 21:32 ID:D/GUn/r2
 最近〔95年〕公開された国務省の機密文書によると、CIAが自民党に対して政治資金を提供し、 岸内閣の佐藤幹事長が受け取っていたので、日本の政治は外国のカネで動かされていた。 日本政府が米国の諜報機関に操られた事実は、1995年3月20日のLA・タイムス紙上で、 マン記者が全項を使って解説しているが、日本とイタリーが売弁政治だったとして、国辱的な政治が歴史に記録されることになった。それにしても、オウム真理教のサリン事件のドサクサに紛れて、この重大な売国事件は黙殺されてしまった。だが、世界の先進国が原子力発電を放棄した中で、核エネルギーに 依存する道を突き進んだ路線と共に、日本の運命を狂わせた出発点がここにあった。
 これに関連して興味深いのは征矢野仁の記述で、[読売新聞日本テレビ・グループ研究]に引用されたニューヨーク・タイムズの記事は、「、、、、、元CIA工作員(複数)の言によると、この他に、戦後の早い時期にCIAの恩恵を受けた人物として挙げられるは、強力な読売新聞の社主であり、一時期は日本テレビ放送網社長、第2次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官となったマツテロ・ショーリキである」とあって、その後に訂正記事のエピソードを含むとはいえ、元CIA工作員の発言は否定されていない。 正力と【中曽根】が田中清玄や児玉誉士夫などの利権右翼と結び、CIAコネクションの中で日本の政治に対して、エージェントとして動いていた姿が見え、正力の人脈が占領軍のG2(参謀第2部)に 密着し、ウィロビー部長との結びついた意味が納得できる。 原子力施設の工事で最右翼といわれ、【中曽根】と姻戚関係を持つ鹿島建設の繋がりが、闇の中から浮かび上がってくるのである。”[平成幕末のダイアグノシス/藤原肇著] http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/sale/diagnosis.html

 オウム事件の本番」に注目すべき中曽根記事が掲載されている。これを転載しておく。
 安部英とは何者か?巡洋艦「愛宕」の元軍医、海軍の同朋会「青年懇話会」を通して現在の政治家の中で最も汚い男と言われる中曽根康弘と半世紀にわたって親交し、中曽根によって「エイズ研究班班長」に選ばれた男だ。この「青年懇話会」という海軍の同朋会の幹事をしていたのが、薬害エイズの拡大を招いた「血友病総合治療普及会」の理事赤沢樟一だ。そしてこの血友病患者をミドリ十字社との利権に繋ぐ普及会の創設者はほかならぬ安部英なのだ。.....彼らは「究極の利権集団・皇軍」 の生き残りという人脈と閨閥で違う階級を形成している。戦前も現在もその構造は微動だにしていない。

 〈研究成果で免責取引「七三一部隊」〉

 戦犯免責の黒幕はやはり「石井の番頭」だった―。人体実験など重大戦犯事実の隠ぺいで、東京裁判での訴追を免れた関東軍防疫給水部、通称七三一部隊。内藤良一元軍医中佐。内藤氏は石井四郎部隊長の側近で、戦後は薬害エイズ事件の旧ミドリ十字を創設。部隊で研究した技術を土台に同社を血液製剤の国内トップメーカーに押し上げた。
 731部隊とミドリ十字  http://www.kumagaya.or.jp/~m_akagi/jimori/sensou/7125sen1.htm

 薬害エイズの被告企業の一つミドリ十字は、731部隊長だった石井四郎の右腕だった、陸軍軍医学校教官「内藤良一」ら、731部隊出身者・関係者が中心となって、1950年前身日本ブラットバンクを設立した。くしくもこの年は、朝鮮戦争が勃発した年だった。(アメリカの意向が強く働いたと思われる、戦争にはたくさんの血が必要となる。)1964年社名をミドリ十字とする。1970年代から80年代の間多数の731出身者を擁していた。この時期から濃縮血液製剤いわゆる非加熱製剤の輸入・販売を開始した。ミドリ十字はインターフェロン、血漿、人工血液の製造で世界的な有名企業にのし上がった。1978年アメリカ・ロスアンゼルスにアルファ社を設立する。創業者の内藤は、1973年社長に就任。78年には会長になった。731部隊二代目隊長北野政次は、1959年同社取締役・東京プラント長に就任した。そして、挙げ句の果てには1963年先駆的な「血液製剤の開発」に対し、科学技術庁から科学技術功労顕彰を受けて、77年には、日本政府から勲三等旭日中綬章を受けた。731部隊の主要目標のひとつに、血液の代用品を見つけることがあったことは忘れてはいけない。他にもミドリ十字は様々な疑惑がある。1982年通常は健康体のボランティアに行われる人工血液の試験を、重病患者に生体実験した疑惑。1979年胆のうガンで入院した女性患者に人工血液の生体実験を行った。胎盤商品化など様々な騒ぎをおこしている。そして、あの薬害エイズである、起こるべくして起きた出来事だろう。ここにまた731部隊が甦ったのである。
 中曽根は首相当時に財政法を改定し国債発行を合法として今日の膨大な借金のきっかけをつくった。中曽根政権以前は国債発行は法律違反であった。中曽根はまたゼネコンポリティックスの創始者でもある。中曽根政権以後、皇民党事件をきっかけとして右翼及び闇の世界の人間が表舞台に出てきてしまった。右翼及び暴力団が繋がる星の数程ある建設業者が国の公共事業にたかる構図をつくってしまった。国債濫発も、中曽根が始めた。

 中曽根政権当時の歴史教科書からの南京大虐殺記述削除という暴挙により近隣アジア諸国との関係悪化を決定的なものとした。1987年、中曽根は人種差別発言をした後アメリカニュージャージー州のラトガー大学の日本文化研究センターの序幕式に招待された。しかし、中曽根が来賓挨拶をする段階で、地元のヒスパニック系及びアフリカ系アメリカ人学生が会場になだれ込み「人種差別主義者ナカソネ、ゴーホーム!」との連呼の出迎えを受け場内は騒然となった。不思議な事にこのような事件は日本のマスコミは流さないですね。

 【中曽根は闇の世界のパシリ】

 読売新聞のW社長は、若造の頃に、中曽根と一緒に児玉邸の玄関番をしていたと、ロッキード事件のおり、報じられていました。そのころから、闇の世界のパシリだったと言うことになると思います。 一度でも闇の世界の協力を受けたら、生涯かけて、その何百倍のしのぎに尽くすフロントになりきらないと命の保証はないのは常識です。W社長や中曽根さんが、今も、闇の世界の代理人と推測してもあながち見当違いとは言えないと思います。 児玉は、闇の中心人物であったのは間違いない。その子分達が今の闇の中枢になっていると思われる。第一勧銀から巨額融資を受けていた小池の親分は、(現代の眼社長)児玉の子分だったと記憶しています。いまも、児玉人脈が闇世界を牛耳っている証拠だと思います。

 戦後政界では多くの汚職事件が起こり、多くの政治家が疑惑を持たれた。しかしその中で中曽根ほど疑惑を持たれた人物はいない。九頭竜川ダム汚職(1964)、殖産住宅事件(1972)、ロッキード事件(1976)、リクルート事件(1988)と実に4件の事件において疑惑が持たれている(黒田清・大谷明宏著「権力犯罪」より)。

 しかし不思議と中曽根が逮捕された事件は1つもない。中曽根が関与したと思われる汚職事件のうち、多くは疑惑のままで終わっている。しかし中曽根の汚職が限りなく"クロ"に近い事件では、側近の逮捕によって決着がつき、決して中曽根本人に捜査の手が及ぶことはない。例を挙げると、ロッキード事件では側近の佐藤孝行元総務庁長官が、リクルート事件では藤波孝夫元官房長官の逮捕で幕を閉じている。また汚職で逮捕された政治家にも中曽根側近は多く存在する。東京協和・安全信組事件(1993年)の山口敏夫元労相、贈収賄事件(2000年)で逮捕された中尾栄一元建設相、最近でKSD事件(2001)の村上正邦元労相はいずれも元中曽根側近である(ついでながら、現在中曽根が後見人を勤める亀井静香前政調会長はイトマン事件(1990)に関与したという疑惑が持たれている)。現在法律上では中曽根は犯罪者として認定されていない。しかしこれだけ多くの事件の関与を疑われ、これだけ多くの自分の側近が逮捕されていれば自ずと中曽根を疑ってしまうものだ。

 しかし私がここで問題にしたいのは中曽根の汚職暦ではない。自分の犯罪をあたかも「トカゲのシッポ切り」かの如く部下に押し付けて自分はのうのうと政治家を続けているところである。これでは中曽根の下から後継者となる有能な人材が育つことはない。しかも中曽根は自民党の顧問的存在であるため、自民党から有能な人材が育たないという事にもつながる。

 *中曽根が首相時代にアメリカのレーガン大統領(当時)に対し「日本を共産主義から守る浮沈空母とする」と発言し、世論から非難されたことにちなんでいる。

 【中曽根もナベツネも児玉誉士夫の舎弟】

 わけのわからない~新聞
 入社二年後に政治部へ配属された『渡辺は(番記者として接していた)大野(伴睦)を通じて児玉(誉士夫)を知り、また読売の創立者で衆議院議員にもなった正力松太郎の紹介で中曽根(康弘)と知り合った。その中曽根は以前から児玉を「先生」と呼んで私淑していた関係……』 『つまり、この頃は河野(一郎)派の若侍だった中曽根と渡辺、それに渡辺とは東京高校~東大日共細胞~読売と肩を並べて歩んできた親友の氏家(齋一郎)の三人は明らかに、地下帝国の帝王として保守政治の裏側を操っていた児玉軍団のいわば準構成員として働いていたのである』 『社会部の事件記者たちが、たとえば九頭竜ダムの汚職事件を突っ込んでいくと、児玉(誉士夫)と並んで自社の渡辺の名前が出てきてしまうのだから、これでは取材にはならない』 『「あんなのを政治部長にしたら大変だ。児玉に読売を乗っ取られる」という社会部の圧力があって、ワシントンに支局長に出されることになる』
 
 
昭和47年に帰国。そこからわずか3年で『編集局次長兼政治部長の座に昇りつめ、経済部長になった氏家、外報部長になった水上と「反社会部連合」を組んで……』 『翌年早々にロッキード事件が勃発、児玉誉士夫が逮捕され、中曽根も灰色高官として窮地に……強きの渡辺も一時は辞表をだすことまで覚悟』 (引用:『別冊宝島72 ザ・新聞』/JICC出版局)

 34.防衛利権は誰のもの? 防衛庁から軍需産業へ756名が天下り

 21日付「朝日新聞」によると、戦車や艦船、ミサイルなどを製造する軍需産業の主要50社に天下った防衛庁・自衛隊の上級幹部が昨年までの過去10年間で756人に達することがわかった。98年の大規模の背任汚職事件が摘発されて以後も、高水準の天下りが続いており、企業側と防衛庁側の完全な癒着構造ができあがっている。天下り人数の上位6社は順に、東芝、三菱重工、三菱電機、川崎重工、NEC、石川島播磨重工で、この6社の契約だけで昨年は約6000億円に達し、調本の総契約額のほぼ半分を占めている。(K・M)
 http://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/otopics/topics0002.html

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その4、原発導入請負師】
 中曽根の我が国への原発導入請負師ぶりについては「日本に於ける原子力政策史その1」に記す。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その5、軍事利権師】
 中曽根の軍事利権師ぶりについては「自衛隊考」に記す。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考飛び入り、浅香光代の隠し子の父親騒動】
 「浅香光代が隠し子と初の親子対談『父は誰? 知る権利ある』
」を参照する。
 女優の浅香光代(89)が2.17.9.29日放送のTBS系「今夜解禁!ザ・因縁」(金曜・後8時57分)で、“隠し子”の北岡昭次さん(63)と60年に及ぶ騒動に終止符を打った。昭次さんは今回の放送で顔出しを決意。初めてと話す親子2人きりでの対面で「なんで隠し子になったのか」と隠し子になった経緯を直撃した。これに浅香は「『お子さんのお父さんはどなたですか?』って聞かれるじゃない。恥ずかしくない人だった。でも名前を出しちゃまずいから。『子どもをおろしてくれ』と言うのが条件だった。『子どもを産まないでくれ』って言われた」と真実を話し、父親の名前を公表しないことを条件に出産「身ごもった時『どんなことがあっても、あなたの名前は出しません』、『私の子よ。あなたは関係ない』って頑張って産んだ」と理由を説明した。さらに昭次さんは「私の父は誰? 知る権利は僕にある」と真相に迫ると、これまでとは違う困った顔を見せた浅香は、考えた末「それはね…総理や副総理をやった人だって知ってくれればいい。向こうにせがれがいるわけ。それも政治家になってるから」と経歴などを初告白するが、肝心の名前に関しては「言えない。墓場に入るまでは言わない」と拒んだ。対面の最後には浅香が「私はね親として、母親と呼んだらダメとかそれは本当に傷ついてる。お巡りさんに『お父さんと呼んでいい?』っていたらしくて、それを聞いたとき、胸が張り裂ける気持ちだった。かわいそうなことをしたなって思った。ごめんなさい」と謝罪をした。

(私論.私見)

 浅香光代(89)の隠し子の北岡昭次氏が63歳とすると、誕生年は1954(昭和29)年と云うことになる。この頃の政治家で、「総理や副総理をやった人」で、「政治家のせがれがいる人」で、「(肝心の名前に関しては)言えない。墓場に入るまでは言わない」と日航123便事件の真相を「墓場まで持っていく」のセリフとハーモニーしているとなると、中曽根臭がぷんぷんする。恐らくこの推論は当りだろう。

 2017.9.30日 れんだいこ拝
 浅香光代vs野村沙知代の「サッチー騒動」をおさらい!内縁の夫や隠し子、愛人だった政治家とは? 」。出典:https://matome.naver.jp
 浅香光代vs野村沙知代の「サッチー騒動」をおさらい!内縁の夫・世志凡太との馴れ初めは?

 女剣劇界の大スターであり、重鎮である浅香光代は、芸能生活80年を超える舞台界のレジェンド。愛称はミッチーですが、この名が老若男女に広く知られるようになったのには、ある騒動が引き金となっています。その騒動とは、野球評論家・野村克也の妻である野村沙知代への批判が発端となった「サッチー騒動」。時は1999年3月31日。野村沙知代に剣劇を教え、舞台で共演した浅香光代が、「あんな人はもう嫌だ!引っ叩いてやりたい」とラジオで話したことから2人の対立に火が付きました。こうして、当時70歳を過ぎた女性2人の、週刊誌やマスコミを巻き込んだ壮絶極まる罵倒バトルが始まります。1996年の衆議院総選挙で次点だった野村沙知代が繰り上げ当選になる可能性が高まると、バトルにはさらに拍車がかかることに。浅香光代は「挨拶もろくにできないくせに何が代議士だ!税金の無駄遣い」と、野村沙知代を痛烈に批判しました。

 浅香光代の口癖は江戸弁?内縁の夫・世志凡太との馴れ初めとは?

 「ミッチー」の愛称と歯に衣着せぬコメントで一世を風靡した浅香光代の口癖は、「あたしゃあね~」。彼女の江戸弁調の話し方は、人気モノマネタレント松村邦洋の十八番でもあるので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。男性よりも男らしい?サバサバした性格の浅香光代ですが、実生活では、コメディアンである内縁の夫・世志凡太と事実婚状態にあります。30年近くも生活を共にしている2人ですが、そもそもの馴れ初めとは何だったのでしょう。浅香光代の話によると、「梨本勝さんや当時の芸能レポーターから男女の関係があると大騒ぎされて、そんなに言われるのなら、いつでも別れられるのだからとりあえず一緒になっちゃえば」という話になったとか。その後、2人は長い事実婚生活に突入しました。そんな浅香光代は、2016年に放送された「私の何がイケないの」(TBS系)で、世志凡太から公開プロポーズを受けています。その場で婚姻届にサインをした浅香光代でしたが、今もって婚姻届は役所に提出されていません。

 浅香光代の子供2人の父親は?孫は俳優の浅香航大?
 浅香光代の隠し子2人の父親である愛人だった政治家とは?

 実生活ではコメディアンの世志凡太と事実婚を送っている浅香光代は、息子2人を持つ母親でもあります。子供たちの存在は周囲にも秘密だったようで、子供たちには、皆の前では自分のことを「先生」と呼ばせるなど徹底していました。浅香光代は、2014年に雑誌「婦人公論」で、「20代で出産した2人の息子の父親は既婚者の大物政治家(故人)だった」と告白。これにマスコミが飛び付き、「息子2人の父親は誰だ?」との隠し子騒動が勃発しました。19歳の若かりし頃、50代の既婚者だった大物政治家と出会って恋に落ち、彼の子供を身ごもった浅香光代は、「子供は諦めてくれ」と懇願されます。しかし、「子供たちには決して父の名前を教えない」との約束と引き換えに出産に踏み切ったそうです。告白後は、複数の政治家から「父親は俺か?」と冗談交じりの連絡を受けたという浅香光代ですが、いまだに子供たちの父親の名前は明らかにしていません。


【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その6、九頭竜ダム補償問題事件】
 中曽根は「九頭竜ダム補償問題事件」(1964年)に顔を出している。1964.12月初旬、九頭竜ダム建設で水没することになった鉱山経営者・緒方克行は補償交渉の調停人として児玉の元を訪ねる。この時、児玉は、「内容も理解できたので、何とか調停して差し上げましょう。既にこの問題に携わるメンバーも決めてあります。中曽根さんを中心として読売政治部の渡辺恒雄君、同じ経済部の氏家斉一郎君に働いてもらいます。ま、暫くは成り行きを見ていてください」。12.27日、緒方は児玉邸で読売新聞記者の渡辺と氏家に引き合わせられる。この時、事前運動費として1千万円(当時の金額を今換算すれば1億円相当)を児玉に差し出している。ここに児玉、中曽根、ナベツネ、氏家が顔を揃えている。1965.2.12日、中林恭夫(池田前首相秘書官事務取扱・当時、大蔵省証券局課長補佐)が自宅官舎屋上から転落死する。2.25日、田中彰治代議士、衆院決算委員会席上で九頭竜川ダムの入札疑惑を追及。3.4日、倉地武雄・言論時代社社長、藤井・電発前総裁を衆院決算委員会で参考人質疑。倉地は「記事内容に間違いない」と断言、藤井は発言内容を全面否定し、両者の意見が食い違う。4.9日、倉地武雄が同三男に絞殺される。児玉、中曽根、ナベツネ、氏家の働きかけは成功せず、後日1965.7.25日、運動費も返還されている。妙な事件である。石川達三の「金環蝕」の題材ともなり、同名で映画化までされた一大スキャンダルである。多くの疑獄関係書に詳しい経過が記されている。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その7、三島事件】
 中曽根の三島事件との関わりについては「三島最後のドキュメント考」に記す。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その8、殖産住宅創設経営者・東郷民安氏を喰い物にする】
 殖産住宅事件では旧制静岡中学時代からの東郷民安氏を裏切った、と云うか食い物にした。これについては「中曽根の性癖考」に記す。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その9、政界風見鶏】
 中曽根の政界風見鶏ぶりについて次のように記されている。
 1972.7月、佐藤栄作内閣退陣を受け、田中角栄と福田赳夫とが後継争いしたいわゆる“自民党総裁選・角福戦争”時に風見鶏的対応で話題を生んだ。「七億円中曾根派買収疑惑」と云われる。この時、40名を擁する中曽根派が、少数派閥ながらキャスティングボートを握ることになった。角福両陣営からの猛烈な働きかけに対し、中曽根は自らの総裁選出馬断念による票割り当てを使って両派を揺さぶった。中曽根は、総裁選の2週間前になって「立候補せず」を発表した。この直後、中川俊思議員が「週刊新潮」に、中曽根派の一人ひとりに1000万ずつが手渡されたことを暴露した。そのほかに、2億円が中曽根さんの手元にキープされており、合計7億円で派閥ぐるみ田中派に買収されたとして、当時話題になった。この問題は、中曽根が中川議員を名誉毀損で訴え、後に中川議員謝罪、なんとなくうやむやな形で決着がついた。別の情報によると、田中側からの10億円は、総裁選を挟んで5億円ずつ渡されており、総裁選前の7億円は、田中派からの5億円と福田派からの2億円を足した数字だという。(「日本をダメにした九人の政治家」 浜田幸一 1993年 講談社 (P76-77) )

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その10、ロッキード事件】
 中曽根とロッキード事件の関わりについては「ロッキード事件の見方その3ーれんだいこかく語りきー」に記す。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その11、児玉誉士夫葬儀に顔ださず】
 中曽根が懇意にしてきた児玉誉士夫葬儀に顔さえ出さなかったことが明らかにされている。

 ベンジャミン・フルフォード氏の「テロ世界戦争と日本の行方」(211ページ)

 「恩義のある人の葬式にさえ顔を出さない人間は、卑怯者である。中曽根を政治家として育てて、金銭面で一番面倒を見たのは、児玉誉士夫である。なのに中曽根は児玉の葬式に出なかった。中曽根というのはそういう男である。旧内務官僚(本当は、その中でも特高警察)あがりの、根っからの官僚自己保身体質の男が中曽根である。やっぱり、党人派に対して、官僚派というのは政治家として質が良くない。私は、党人派の政治家が好きだ」。


【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その12、田中角栄愚弄】
 中曽根がポスト鈴木の総裁選で角栄と交わした密約を如何に反故にしたかは「金丸信の中曽根嫌い考」に記す。次のような伝もある。
 「読売新聞の渡辺恒雄氏とテレビ朝日の三浦甲子二氏の両人が目白台の田中邸に赴き、『中曽根康弘を総理大臣にして下さい。 あとでどんな無理な相談も聞くから」と土下座した一幕というものもあり、マスコミ対策の一環という要素も含まれていたのかもしれません。【渡辺恒雄】氏というのは児玉誉士夫氏の舎弟分で、【東声会】のクラブの会員名簿にも名をつらねていたことがある、闇の世界との繋がりも深い人物です。また彼はロッキード事件当時アメリカで読売の特派員をやっており、【ロッキード事件では窓口役】をはたしていたのではないかとも言われています。 一方の、【テレビ朝日】の法王として君臨した【三浦甲子二】氏も闇の世界と通じており、さらに【KGBのエージェント】だったとの風評もある人物です。〔略〕

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その13、ダグラス・グラマン事件】
 中曽根とダグラス・グラマン事件の関わりについてはダグラス・グラマン事件考」に記す。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その14、日本航空123便墜落事故事件】
 中曽根と1985.8.12日の日本航空123便墜落事故事件の関わりについては「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」に記す。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その15、国営事業の民営化】
 中曽根政権時の日本専売公社、日本国有鉄道および日本電信電話公社の三公社の解体民営化、長年半官半民であった日本航空の完全民営化を推進させた。臨時行政調査会の提言による「民間活力導入」による公的部門の民営化も悪事である。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その16、バブルの蓋を開ける】
 中曽根政権時の1985年バブル経済突入も悪事である。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その17、リクルート事件】
 中曽根とリクルート事件の関わりについてはリクルート事件考」に記す。

 1990(平成2).7.19日、証券取引法違反(株価操作)容疑で東京地検特捜部に逮捕された仕手集団・光進の小谷光浩は、中曽根の有力な政治団体である山王経済研究所のメンバーであった。この小谷という男はもともと不動産業畑の人間で、飛島建設や三井不動産の先兵となって、地上げや底地買いを手がけ、荒稼ぎしてのし上がった。国際航業乗っ取り事件にからむ小谷容疑者との関係では中曾根氏の金庫番・山王経済研究所の会計責任者)・太田英子女史がつっかえ棒役を果たした。小谷は太田英子女史との間で同社株10万株の相対取引をして、1億2千万の差益を得さ せていることが明らかにされている。  リクルート事件では藤波孝生元官房長官が泥をかぶった(太田英子女史も)。丸高グループ転換社債をめぐる脱税等の疑惑では本来、大蔵事務次官経験者のポストである公正取引委員長に国税庁長官を起用することでウヤムヤにした。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その18、大勲位菊花大綬章を受章】
 1997(平成9).4.29日、大勲位菊花大綬章を受章。これも臭い話しである。ちなみに日本国憲法施行後、皇族・外国人以外で大勲位菊花大綬章を生前受勲したのは吉田茂、佐藤栄作に次いで3人目である。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その19、その他】
 富士銀行不正融資事件(羅臼疑惑)。最上興産疑惑。
 1990年のイトマン事件に関与した亀井静香も、中曾根側近。
 1993年の東京協和・安全信組事件の山口敏夫元労相は、中曾根側近。
 200年の贈収賄事件で逮捕された中尾栄一元建設相も、中曾根側近。
 2001年のKSD事件の村上正邦元労相も、元中曽根側近。

【中曽根康弘の醜聞プロファイル考その20、その他】
 JAL123便墜落事故の真実を「墓場まで持っていく」と言った中曽根康弘こそ、JAL123便撃墜の首謀者ではないのか」。

 中曽根式民営化の真の目的は利権と外資への日本資産の献上だった。2000年9月現在、日本フリーメイソン「東京メソニック協会」は東京のシンボルのひとつである東京タワーと同じ区画にある第38森ビルに入居している。戦後GHQは、日本軍の隠した貴金属を次々と発見していくが、発見されたものは米国政府の命令で米国本土に送り、米国の財産としなければならなかった。しかし、日本軍部が自己所有として記録に残した貴金属と、実際に米国本土に送還された貴金属の量には圧倒的な「差」があった。日本軍の隠した貴金属摘発を担当したのは、GHQのマッカート少将であったが、実際に実務を仕切ったのは冶金課長のジョージ・パーディであった。日本から奪われ米国政府にも渡されなかった膨大な貴金属は、パーディの手によって東京メソニック協会と言う得体の知れない財団法人に移され隠された。この東京メソニック協会は、フリーメーソン日本支部代表(グランドロッジ)であった。パーディはフリーメーソン日本支部の支部長であった。そして事実上米国を欺いてイスラエルに奪われた貴金属は、この2つの「森ビル」を拠点に次々と現金に姿を変え、東京港区を中心とした日本の優良不動産の買収に使われ、不動産に姿を変えて行った。その土地買収と買収した土地への高層ビル建設を担ったイスラエルのフロント企業が森ビル。日本を代表するビル会社、森ビルの正体はフリーメーソン日本支部であり、イスラエルのフロント企業であり、その資金源は日本軍部とGHQから略奪した貴金属であった。イスラエル=森ビルは港区全体の大地主と言われるようになる。
 
 中曽根は総理大臣時代、高層ビルの高さ規制撤廃を行い、森ビルの事業を大々的にバックアップした。そして中曽根は国鉄分割民営化等で出てきた国鉄の土地、政府所有の国有地を破格でイスラエル=森ビルに投げ売りした。イスラエルは日本政府とGHQから略奪した資金で、中曽根が投げ売りする東京都内、日本全国の優良不動産を買収して行った。原発建設、森ビルのための高層ビルの高さ規制撤廃等、中曽根の政策は常にイスラエルのために行われて来た。こうして中曽根の政策により、日本の国土の最重要地を入手したイスラエルは、宗教法人創価学会の名義で不動産を登記する事で、脱税を大々的に行う(宗教法人に課税はされない)。
 
 中曽根の子分で、大蔵省の官僚時代から夫婦で東京タワーに隣接するイスラエルのメソニック森ビルに「無料」で住んで来た国会議員浜田卓二郎は、公明党創価学会の強力なバックアップで国会議員を続けながら、イスラエルの取得した優良不動産を創価学会名義で登記するパイプ役となって来た。浜田と中曽根の尽力で無税の恩恵を受けたイスラエルは、見返りとしてその不動産を担保に、新生銀行(日債銀、興銀、長銀等の旧・政府系金融機関が、こうした不正融資のブラック・ボックスになって来たが、現在その機能を引き継いだのが新生銀行である。)から資金の融資を受け、浜田と公明党創価学会の選挙資金とし、中曽根自民党の選挙資金として献金して来た。元々、戦後自民党が結成される際に、その結党資金を提供したのはイスラエル、パーディのメソニック協会であった。
 
 森ビルの社運をかけた事業の六本木ヒルズで悲惨な事故が発生した。2004年3月26日、小学校入学直前の6歳の男児が電動回転ドアに挟まれて死亡した。痛ましい死亡事故が発生したのち、2003年4月から2004年2月までに、同ビルの回転ドアで32件の事故が発生したことが明らかになった。森ビルの責任が問われた。しかし、六本木ヒルズの「運営本部長」を兼ねていた森ビルの森稔社長(70)については事故を予見できなかったとして立件が見送られた。森ビルの森社長は小泉前首相と密接な関係を築いたようだ。森ビルが社運をかけて取り組んだ事業が「六本木ヒルズ」だ。ライブドア、村上ファンド、楽天などの企業が六本本ヒルズにオフィスを構えた。「ヒルズ族」という新語が生まれた。
 
 2003年4月22日の六本木ヒルズのオープニングーセレモニー。小泉首相は「この東京の新たな街づくりに極めて刺激的、魅力的な六本木ヒルズが誕生したという、この誕生に立ち会うことができたのは幸運だと思います」と祝賀挨拶した。また、「こんなに賑わっていてどこが不況か」と述べたことも伝えられた。森氏は私に「小泉政権を批判しないように」と語った。森氏が小泉首相を支援していることがよく分かった。このセレモニーの最中、私は六本木ヒルズ内に個人事務所棟があり、小泉政権や米国政府と親密な学者や元官僚などがオフィスを有していることを聞いた」。テレビ朝日も森ビルのテナントのひとつである。森ビルと清和政策研究会との間には抜き差しならないものがあるのだと考えられる。自民党清和政策研究会は検察を支配し、森ビル関係者は逮捕もされずに事件処理を終えた。





(私論.私見)