教育論、愚民化教育批判論

 (最新見直し2013.01.31日)

 教育の重要性は知られている。これを今更れんだいこが繰り返す必要はなかろうが一応確認しておく。

 次のように云えるのではなかろうか。

 人間は、他の動物と比べて感覚器官の能力を減じているが、その分脳髄器官を発達させているところに特徴がある。よって、「考えること」は人間の本質的特徴であり、これを応分に開発することが教育の務めと云える。そういう訳で、洋の東西を問わず教育が発達し、その教育度をもってその国の文明度ひいては国力まで測れるようになっている。

 この場合、教育には実学と教養学の二種があり、そのどちらもが大事と云わねばならない。なぜなら、実学もある程度修得すれば、それから先は創意工夫の世界が待ち受けており、いわゆる発想が重要となり、そうなると実学分野以外でも練られた脳髄の支援が必要となる。そういう訳で、万遍な基礎教育を経ての専門教育、実地教育が必要となる。

 更に、社会が複雑になるに応じていわゆる市民社会教育が別途に必要となる。近年の教育は故に、基礎教育、専門教育、実地教育、市民社会教育の4分野から成り立ってきた。国家がこの教育を請け負うことになり、子供の成長段階に合わせた学校が作られ、社会へ送り出してきた。いわゆる産業予備軍的位置づけで為されることになったが、理想的には「教育は、教えることよりも雰囲気を捉えさせることが肝要。自主的に学び取る習慣の形成。教育に最短距離はない。質問が遣り取りされることが大事。実利教育と思考鍛錬教育と両方の教育が大事。人間性を高める教育が理想云々」と云われている。

 日本は、古来より伝統的に教育を格別重視してきたことでも知られている。思えば、明治維新後の学制による就学率の高さ、国民的な識字率の高さは世界に誇るものである。それも、それ以前の寺子屋教育あってのことだろうし、その寺子屋教育も一朝一夕で生まれたものではなかろう。という風に遡れば、古代万葉の世界にまで至り、その頃に於いても民草一般までが勉学を好んだ歴史があるのではなかろうか。
 ところが、その教育及び教育制度に対して、いつの頃からか逆行的な教育が施されるようになった。逆行的とは、敢えてわざわざ愚民化させる教育を云うのであるが、それは時の政府の体制維持的観点から導入されたことが判明している。ブント全学連が活躍した60年安保闘争以来、政府文部省は、青年の社会意識の高さを危険視し始め、「意図的な愚民化教育政策」に転換させた。「寺脇研元審議官を筆頭とする旧文部省の役人の“世紀の愚策”」と指摘されている。

 この時、ある文部官僚はこう嘯いたという(「愚民化政策」はここまで進んでいた!!」)。
 「充分教育をつける必要のある層は我々中央にあって国を指揮する者、それに社会の上層部の子弟だけで充分、それは特別教育で補完すればいい」。

 かくて、「愚民化教育」が始まった。「ゆとり教育」の名の下に教育内容が削減され、体制側には望ましくないとされた分野の場合には、文系理系問わず必要な基礎的知識を故意に教えず、そういうことにより読解力も思考力も低下し、いわゆる「学力低下」が促されてきた。これは、偶然ではなく意図的な「愚民化政策」という政策導入によりそうされてきた。その結果、子供達が自分の頭脳で考え試行錯誤しつつ弁証法的に成長するという学びのサイクルが壊され、その結果「生きる力そのもの」が衰えてきたのではないのか。

 「35年で義務教育の学習内容は半減した」は次のように述べている。
 昭和52年の「ゆとり教育」への転換告示以来、平成元年、そして平成10年と、文科省は都合3度にわたる学習指導要領の改訂によって、理数系のみならずあらゆる教科の学習内容を削減、平易化してしまいました。平成14年からの教科書改訂の際に、いわゆる「教育内容の3割削減」という言葉が頻繁に用いられましたが、厳密にいえば、平成4年時の教科書改訂でも、それ以前の内容から3割程度が削減されています。

 このことは、ほとんど誰も知りません。つまり、学習する内容がもっとも多かった昭和45年ごろと比較すると、現在の教科書の学習内容は3割減どころか、平均で半分程度になってしまっているのです。中山成彬文部科学大臣が「ゆとり教育」見直しを表明する契機となった、日本の子どもたちの国際比較での学力低下は、時系列的にみて、前回(平成4年)の3割削減の影響なのです。

 仮に、社会情勢の変化により学校教育の役目が減じたとしても、国家が逆行的教育政策を敷くのはあまりにも横暴ではなかろうか。体制側の御身保全策が国家の民族の悠久の歴史を冒涜しているのなら、それはあまりにも大きな犠牲ではなかろうか。

 2005.9.23日 れんだいこ拝





(私論.私見)