人の環共和国、職託公僕の思想論

 (最新見直し2009.12.26日)

 れんだいこは既に「対謝(あい謝)論」(これを第一考案とする)を発表しているが、2009.12.24日、たまたま西欧的にはイブの日であるが、この日の早朝の寝起き端に第二考案的「悟り」を得た。これを仮に「人の環共和国、職託公僕の思想」と命名する。この思想を生みだす契機は、昨今の世上のいわゆる市民感覚の際限のない権利欲求と、これに対応する政治の徒な迎合がもたらす思想的社会的な腐敗に気づいたことにある。最近の犯罪者弁護の為に為すとめどない減刑弁論もこの流れのものと云えよう。働くより生活保護を受けた方が楽とする処世の流行現象もこの流れのものと云えよう。何か筋が違っている。一見似ているようでも、れんだいこ的正義論、救済論とは似て非なるものではなかろうかと気づいたことにある。

 しかしながら、気づくのは入り口でしかなかった。出口まで生みださなければ思想とはならない。ふつふつと煮て練るうちにふと湧いた。それが「人の環共和国、職託公僕の思想」である。2009年現在、社会事象の様々の不甲斐なさに照らして見えてきた思想である。現代社会の貧相をつらつら眺めるのに、この思想の欠如のなさしむる故と窺うべきではなかろうか。

 この思想についてはこれから述べるが、これを解説するのに多言を要すまい。名は体を表す如く、概念そのものが中身を表現しきっていよう。別段目新しいものではない。れんだいこの功績は、相応しい簡にして要を得た言葉を獲得したことにある。あるいは今後若干の表現替えがあるかも知れない。例えば、「人の環共和国思想」、「職託公僕思想」、「託僕思想」、「職僕思想」、あるいは単に「公僕の思想」と云うように。言い回しは変わるが論の中身の核心は不動である。

 以下、これを解説する。人は生きる為に、個性や能力や環境やしがらみやいきさつに応じて様々な職業に就く。それはそれで、ひとまずは良しとしよう。人は、そこで様々に営為している。人は、この職業的営為の環で結ばれている。海で働く人も野で働く人も山で働く人も。工場で働く人も店舗で働く人もオフィスで働く人もフィールドで働く人も。民間人も公務員も半官半民の人も。まずはこの生業(なりわい)の姿を確認せねばなるまい。れんだいこは、この構図を「人の環共和国」と名付けている。我々は、この「人の環共和国」の連鎖に於いて、どう生きるべきかが問われている。

 付言すれば、ここに過度の倫理や道徳や慣習や法律的縛りを持ち出す必要はない。強権的規制は却って「人の環共和国」の基盤を損なう。単なるマジメさや唯唯諾諾が良いとは限らないからである。それは何も仕事一途になれというのではない。よく働きよく遊べであるから、しかめツラしてまで真面目さを装う必要はない。時にはハメを外すこともあるだろう。後悔することもあるだろう。肝心なことは、人は公務員であれ民間人であれ、経営者であれ労働者であれ、どこで働く人であれ、どういう経緯で世間に揉まれようとも、最終的には社会的に負託された職業の個々の職域に於いてオマンマを食いながら、且つ職業と人の社会的に在るべき姿を率先垂範する方向で生きねばならないのではなかろうか。要するに、毎日の労働の中で、「人の環共和国」的感覚で仕事を為し得ているのかどうか、少しでも近づこうとしているのかどうかが問われている。

 この「人の環共和国の理」を知れば、古来より日本人の精神の原基にある「お陰さま思想」が蘇って来るだろう。「お陰さま」とは、ぼんやりした表現ではあるが実に奥行きの深い味わいのある言葉ではなかろうか。「有り難う」、「お世話様」、「もったいない」、「かたじけない」も然りである。人は、飯を食うのを一義とせねばならないので、時には衝突、対立、抗争、先駆けしながらオマンマの取り合いもする。しかしながら、何がしか食えるようになったなら、否その道中の手法に於いても胸に沁みてくるのが相身互いの精神であるべきなのではなかろうか。義理人情、恩返し、助け合いもこの系譜の思想であるように思われる。

 最近、こうした「人の環共和国の理」が分からず、この感覚のない自己に有利な権利意識のみを働かせ、自分のことは棚に上げ、のべつくまなく欲求ばかりしている連中がとみに増えてきている気がしてならない。世情は徒にこれに迎合している気がしてならない。魚は頭から腐ると云うが、その意味で、天下り高級官僚の我が身本位主義の痴態は許し難い。彼らが慎み深く第二次奉公として天下り、薄給で宮仕えした例を聞かない。それを批判するマスコミも然りで同じ穴のムジナでしかない。そういう連中の批判の舌鋒が得手勝手な饒舌暇つぶし論に堕すのも致し方あるまい。この傾向とは別に、最近は国庫の補助金狙いで吸血する手合いも多い。政府、与野党が競って補助金引き出し、給付金をバラマキし始めている。受け取る側も、それを感謝するでもなく当り前として手を出し続ける手合いが増えつつある。財源論なぞ糞くらえとばかりに、とにかく慎みを忘れつつある。

 何か筋が違うだな。全てが矮小化している。れんだいこにはそういう気づきがある。本来、どう在るべきか。しかも夢想や空想でもなく、社会的にしっかりと根付いている現実的な在り方としてどう在るべきか。ここを問わなければなるまい。

 この問いかけから生まれるのは「生産管理の思想」であろう。それぞれの職業の職域に於いて、実動する側が生産管理為し得ることによって始めて社会的な有意味を持つのではあるまいか。尤も、命は有限であるからして働ける間のことであるが。我々の労働の本質は生産管理に有り、これを能く為し得ることによって生産者が社会の主人公足り得ることになるのではなかろうか。社会の主人公は、階級的に自ずと定まるものではない。社会の主人公足るべき存在、階級が、そのことに気づき相応しく働くことによって始めて成り得るのではなかろうか。労働者階級は、即自的に「棚から牡丹餅」的に社会の主人公に成るのではなく、階級的出自から弁証法的に出藍し得て始めて本来の能力を獲得し十全に開花するのではなかろうか。かく了解したい。

 ここまで見えてきたら、「職託公僕の思想」に後一歩である。生産管理という語彙には当然ながら「生産」が付きまとっている。しかし、世の中には流通業もあれば情報産業も芸人職業もある。その他諸々。そういうあらゆる職業に通ずる主体的管理の思想を生みださねばなるまい。そう、そこで、「生産」に代わって「職託」、「管理」に代わって「公僕」へと云い換えられ、即ち「職託公僕の思想」が生み出されたという訳である。公務員にも民間人にも、経営者にも労働者にも、家庭の内と外でも、老若男児を問わず、「職託公僕の思想」は通用するのではなかろうか。ならば、生産管理と云わず「職託公僕の思想」と言い換えた方が良いのではなかろうか。これを、「対謝(あい謝)論」に続く第二の悟りとしたい。

 今、我らが時代には、日本人が営々として培ってきたこの思想が萎えつつあるのではなかろうか。ならば逆に、れんだいこは今後、これを吹聴して行こうと思う。見てきたかのように説く三途の川談議に耽る坊主の下手な説教より味わいがあると云えるのではあるまいか。幸せなことにこれを読まれた方、ご意見ご感想求む。

 2009.12.26日 れんだいこ拝




(私論.私見)