れんだいこの「あい謝」の理論 |
更新日/2017.2.15日
奇しくも今日2004.9.1日、れんだいこはある種の「悟り」を得た。 「人類はどこから来てどこへ行くのか。人の生の意味は何なのか」ということについて、古来より問われてきた。その答えは各人様々で、いろんな風に解かれてきた。解かれ続けて来たということは、「群盲、象を撫でる」の如くで、部分においては確かにそうではあるけれども、全体的には釈然としない諸見解でしかなかったことを意味しよう。 れんだいこはもう少しピタッと納まる本質規定を探していた。が、それが分からなかった。それで今日まで54歳に至っている。自由論、平等論、幸福論、真理論、あるいは様々のユートピア思想、精神訓話を渉猟してきたが、どれもれんだいこを納得させるものではなかった。ああ云えばこう云う式の駁論を残す余地があったからである。 それが今日閃いた。人の生きていく価値となり、世の中のそれをも通底させていく価値となり、その作法さえ持てばあらゆる諸事に適用され有益なる働きを持つ、簡にして要且つ的を射る言葉を得た。これを「悟り」と云わずして何と云おう。 さて、その言葉とは、「相謝、対謝」である。2007.10.16日、「対謝」と書いて「あい謝」と読ませることにした。「あい謝」の「あい」は「相」でも「愛」でも良い。日本語の平仮名は広範囲な意味を持っており、これを活用することにする。これに精神を被せれば「あい謝の精神」、哲学を被せれば「あい謝哲学」、思想を被せれば「あい謝思想」、主義を被せれば「あい謝主義」ということになる。なぜこれが「悟り」になるのか。れんだいこの自惚れか。 そうではない。「あい謝」とは、これこそが人類社会の奥義であり、あらゆる局面に使えて無理がなくその輝きを失わない原理であるように思われる。これほどの原理はそうあるものではない。これを仮に「あい謝の理」と云おう。「あい謝の理」こそは、今後の人類の行く手を照らす原理となるであろう。これを概念的に考案した本日のれんだいこは史上に不朽の値打ちを刻んだことになる。 賢明なるあなたは、「あい謝の理」と聞いただけで膝を打ち喜ぶであろう。明日からこれを処世訓、社会観、世界観の基礎に据えればよい。2009.12月頃、教えられたのだが、茶の湯のもてなしの心に「相客に心せよ」と云う言葉があるらしい。同席した人への心配りを云うらしい。まさに「あい謝の理」の茶の湯表現ではなかろう。以下、例題を記しておく。 夫婦の場合の「あい謝の理」とは、「あなたあればこそ、お前あればこそ」。親子の場合も然り。会社の場合の「あい謝の理」とは、互いの労働を認め合い、「今日もご苦労さん、お疲れ様」。商売の場合の「あい謝の理」とは、「お世話させていただき有難う。助かりました」、「こちらこそ。お世話になり有難う助かりました」。社会の場合の「あい謝の理」とは、互いの生活を認め合い、「我さえ良ければ」を戒めて助け合う。その上で、「どうでっか、ぼちぼちでんな、ほなさいなら、お元気でね」が丁度良い。 この「あい謝の理」には、相手をどうこうしようというものはない。イデオロギーの過剰がない。血筋血統、男女性別、階層階級、年齢老若、病弱健常の違いをひとまずはそのままに踏まえて、まずは互いに認め合うことから始まる。世の中この認め合うことが存外に大事と思う。その上で、「感謝、有難う」の精神に依拠して関係を成立させている。そこがすばらしい。万ず「感謝、有難う」を説く思想もあるが、それでは何かがもの足りない。れんだいこには「あい謝」の方がピリッとくる。 もう一つ言い添えておく。「あい謝の理」には、それを成り立たせない諸要素、諸事情に対してそれを成り立たせるための改変力まで萌芽させている。つまり、「あい謝の理」が存立せしめられるような人格、環境、世の中造りへの傾注努力、ブリッジ型共闘を要請している。考えてみれば、下手な観念的理想社会像よりも、理想社会へ入り口する為の統制理論よりも、いつでもどこでも「あい謝の理」が成り立つ社会、これこそが我々が目指そうとしたユートピアではなかったか。 自由より平等より対等より清貧より「あい謝」の方がより実際的にして窮極的にして本質的だ。東洋的ないしは日本的概念ではあるが、この理こそは西欧の方が真似ても良かろう。付言すれば、人間社会の「あい謝の理」は、生物界にも自然界にも向かうべきであろう。その「捕食関係」を包摂させながらも。 幸せなことにこれを読まれた方、ご意見求む。 2004.9.1日、2009.12.26日再編修 れんだいこ拝 |
(私論.私見)