西田税にしだ みつぎ




 (最新見直し2013.03.07日)

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派指導者の一人である「西田税」(にしだ みつぎ)を確認する。

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西田税

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 2011.6.4日 れんだいこ拝


西田税 (にしだ みつぎ)考】
 西田 税(にしだ みつぎ、明治34年(1901年)10月3日 - 昭和12年(1937年)8月19日)


 日本の陸軍軍人、思想家。 日本改造法案大綱を著し国家改造論者として知られる北一輝と親交を持つようになったことから、国家革新の志をさらに大きくするようになったという。西田の思想は革新的な青年将校から絶大に信奉されたが、昭和11年(1936年)の二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人 …。

 明治34年(1901年)10月3日、鳥取県西伯郡米子町大字博労町(現在の米子市博労町)に仏具店を営む父・西田久米造、母・つねの次男として生まれた。

 西田税はもともと軍人で、士官学校で言えば安藤の四期上、三十四期生である。同期には奇しくも安藤を革新に目覚めさせた秩父宮親王がいる。

 大正十四年、広島の第五騎兵連隊に転任する。この時、病によって依願免官となっている。軍を退いた後は上京して大川周明の門下に入り、次いで北の門下となる。北から版権を譲り受け、『改造法案』を出版したのはこの西田であった。西田は軍人であった縁から、北より先に青年将校と革新運動に入り込み、北と軍を結び付ける役割も果たしていた。

 青年将校の思想的リーダー西田税の気持ち・・・。
 「いよいよ青年将校が蹶起いたします。理由は第一師団が渡満して二年間も東京を留守にすれば、重臣ブロックその他の勢力が再び盛り返してくる。青年将校は満洲で命を捨てるよりも、君側の奸を除いて昭和維新の捨て石になりたい、と覚悟いたしておるようです。こうなったからには、私ども一人や二人(西田税、北一輝)ではもう抑えきれません」すると北一輝は「いたしかたあるまい」。
 貴様が止めなくて一体だれがとめるんだ」。
 「二月二十四日、この夜の寒さは格別だったので、岩崎は珍しく外出せず、自宅で晩酌を楽しんでいたすると十時過ぎになって、西田税がぶらりとやって来た。早速二人で飲みはじめると、西田の表情がいつになく憔悴したように見えたので、岩崎が問い詰めると、西田がようやく重い口を開いた。『 近く、どうしてもやらなければならなくなった』。『 やるというのは、実力行動か?』。『うむ、これまでのいきさつからいっても、今度ばかりはどうしても止められない。無理に止めようとすれば、彼らは俺を殺してでも蹶起するだろう』。『だが、そこが先輩の責任だ。貴様が止めなくて一体誰が止めるんだ』。『いや、それでは、俺も職業革命家とか、西田は命が惜しいのだと非難される。卑怯者にはされたくない』。『馬鹿をいえ  今やって成功すると思うか  磯部や栗原に引きずられてどうするのだ』。『もう、俺も引くに引けないところまできてしまった  それで今夜は貴様に別れに来たのだ』。酒が冷えてしまった西田の沈痛な表情には、すでに、覚悟の色が歴然と現れていた。岩崎は西田の表情から、今度は本物に違いないと思った」。
 「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、多くの国民がかわいかったからなのだ。 彼らを救いたかったからだ 」。

 西田はつ 「あなたの立場はどうなのですか」。
 「わたくしはあの事件の起きますことを、二月二十三日に知ったのでございます。西田の留守に磯部さんが見えまして、『奥さん、いよいよ二十六日にやります。西田さんが反対なさったらお命を頂戴してもやるつもりです。とめないで下さい 」と おっしゃったのです。その夜、西田が帰って参りましてから磯部さんの伝言をつたえました。『 あなたの立場はどうなのですか』。『今まではとめてきたけれど、今度はとめられない。黙認する』。西田はかつて見ないきびしい表情をしておりました。言葉が途切れて音の絶えた部屋で夫とふたり、緊張して、じんじん耳鳴りの聞こえてくるようなひ  とときでございました」。








(私論.私見)