真崎甚三郎・陸軍大将




 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派指導者の「真崎甚三郎・陸軍大将」を確認する。荒木貞夫・陸軍大将、山下奉文・陸軍大将、小畑敏四郎・陸軍中将。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


真崎甚三郎・陸軍大将
 「ウィキペディア真崎甚三郎」その他を参照する。
 真崎大将論を廻って論が二分されている。れんだいこが睨むところ、これは丁度ロッキード事件を廻る分裂と似ている。と云うことは、背後に国際ユダヤの陰謀があると云うことになり、そうとすれば非常に手の込んだ冤罪の可能性がある。そういう気づきから「れんだいこ式真崎大将論」に向かうことにする。

 方や「私は真崎こそ、日本を敗戦に追いやった元凶であり、今騒がれている所謂A級戦犯の人達よりもよほど罪が重いのではないかと思っています」論がある。方や「真崎大将こそ真の有能軍人であり、彼が葬られた経緯こそ疑惑せねばならない」論がある。この両論のどちらに軍配を挙げるべきやが問われている。
 1876(明治9).11.27日 -1956(昭和31).8.31日。日本の陸軍軍人。陸軍大将。皇道派の中心人物。佐賀県出身。弟に海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次。外務省、宮内庁などの官僚で、延べ25年という異例の長期間昭和天皇の通訳を務めた真崎秀樹は長男。

 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)。

 1895.12月、士官候補生。1896.9月、陸軍士官学校へ。1897(明治30).11月、陸軍士官学校第9期卒業。荒木貞夫、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也が同期にいる。荒木が首席で卒業している。1898(明治31).6月、 少尉に昇進。歩兵第46連隊附。1899(明治32).5月、対馬警備隊附。1900(明治33).11月、 中尉に昇進。12月、陸軍士官学校附(区隊長)。

 1904(明治37).2月、日露戦争に従軍(~1905.12月)。6月、大尉に昇進。歩兵第46連隊中隊長。「もし生き残って帰ったら、出家して坊さんになろうと思ったくらいで、世に戦争ほど悲惨なものはなし」と書いている。

 1907(明治40).11月、陸軍大学校卒業(19期恩賜)。陸軍省軍務局出仕。1908(明治41).10月、軍務局課員(軍事課)。1909(明治42).1月、少佐に昇進。1911(明治44).5月、ドイツ駐在(~1914.6月)。1914(大正3).6月、歩兵第42連隊大隊長。11月、中佐に昇進。歩兵第53連隊附。

 1915(大正4).5.25日、久留米俘虜収容所長。この時代、収容所の環境整備のために努力し、従来禁止していた所内での音楽などを許可した。衛戍司令官・柴五郎中将からなじられると、「ドイツ人にとっての音楽は、日本人にとっての漬物類と同じことで、日常生活の最低不可欠なものであります」と答えて了解を求めた。これとは逆の記述も為されている。それによると、第一次大戦中、日本はドイツ人捕虜を概ね人道的に扱ったにもかかわらず、真崎が所長を務めた久留米俘虜収容所は捕虜側からの評判が最も悪く、真崎は所長在任中の1915.11.15日、ベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両中尉殴打事件を起こし、捕虜側は捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に真崎所長の行為に激しく抗議し、米国大使館員の派遣を要求した云々。どちらの話しが本当なのか、どちらも本当なのか真偽を糺す必要がある。

 1916(大正5).11.15日、教育総監第2課長。

 1918(大正7).1.18日、陸軍大佐に昇進。

 1920(大正9).8.10日、 陸軍省軍事課長。この時代、陸軍機密費の不正蓄積についての感触を得、持ち前の正義感から、機密費の適正な使用と管理について意見を具申したところ直ちに近衛歩兵第1連隊に転出させられている。この当時、軍の機密費を取り扱う者は、田中義一陸相、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮陸軍省高級副官の四人であった。

 1921(大正10).7.20日、近衛歩兵第1連隊長。1922(大正11).8.15日、陸軍少将に昇進。歩兵第1旅団長。1923(大正12).8.6日、陸軍士官学校本科長。1924(大正13).3月、欧米出張(~9月)。1925(大正14).5.1日、 陸軍士官学校幹事兼教授部長。

 1926(大正15).3.2日、陸軍士官学校校長。この時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、安藤輝三、磯部浅一らを輩出。生徒のなかには、新カント派の哲学に影響されて、学校の規則のような他律の拘束には服する必要がないと主張する者がいて、その一人で、後に二・二六事件に連座して処刑された渋川善助を退学処分にした。また、軍人の一般教養の低下を憂慮し、軍事偏重であった士官学校の課程を改正した。

 1927(昭和2).3.5日、陸軍中将に昇進。

 8.26日、第8師団長。弘前に単身赴任。この時代、思想問題を研究し、北一輝の『日本改造法案大綱』はロシア革命におけるレーニンの模倣で、それを基にした国家改造は国体に反するとし、大川周明の思想は国家社会主義であって共産主義と紙一重の差である、と結論づけた。そして軍人が参加して革新運動をやると軍隊を破壊するだけでなく日本の国を危うくすると認識し、そういう思想の持ち主を注意人物とし、軍人が彼らに近づくことを警戒していた。

 1929(昭和4).7.1日、第1師団長。この時代、1931年に三月事件が起こり、師団参謀長・磯谷廉介からクーデターの計画を聞くと、軍事課長の永田鉄山に警告した。さらに、警備司令官に対して、「もし左様な場合には、自分は第一師団長として、警備司令官の指揮命令を奉じない。あるいは大臣でも次官でも、逆に自分が征伐するかもしれんから、左様ご了承を」と通告して、計画を阻止した。

 1931(昭和6).8.1日、台湾軍司令官。本来なら真崎が関東軍司令官に任命される順番であったが、本庄繁が任命され、真崎は台湾軍司令官に任命された。

 1932(昭和7).1.9日、参謀次長。参謀次長兼軍事参議官に就任。国家革新の熱病に浮かれた軍部の幕僚連が理想の国家を満州に作り、そこから逆に日本に及ぼして日本を改造するために満州事変を引き起こしたと見なしていた真崎は、事変不拡大、満州事変は満州国内でおさめることを基本方針として収拾にあたった。上海事変の処理では、軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵した。熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行されるという建前から、有利な戦機を見逃して二カ月以上も出動を押さえた。万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえた。そのため拡大派や国家革新推進派から非難された。 

 荒木貞夫陸軍大臣とともに国家革新を図る皇道派を形成。勢力伸張を図り、中堅将校たちの信望を担ったが、後に党派的な行動が反発を買い、統制派を生むことになる。肩書きは参謀次長であったが、当時参謀総長閑院宮載仁親王の下で事実上の参謀総長として参謀本部を動かした。

 1933(昭和8).6.19日、陸軍大将に昇進。軍事参議官。

 1934(昭和9).1.23日、教育総監に就任(軍事参議官との兼任)。天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進し、率先して天皇機関説を攻撃。天皇機関説を葬り、国体を明徴にせよという運動が次第に強くなり、右翼、在郷軍人、ついには現役軍人に及んでくるようになると、三長官(大臣、参謀総長、教育総監)協議の上、陸軍大臣が訓示するのが当然で適切であるが、大臣訓示は閣議を経なければならず、また政府はすでに二回も声明を出しているから、時間がかかるので、現役軍隊だけなら教育総監の訓示でも可なりと決定され、教育総監の真崎が国体明徴の訓示を行った。

 1935(昭和10).7.16日、 陸軍の改革を断行しようとした荒木の後任の岡田啓介内閣の林銑十郎陸軍大臣とその懐刀である軍務局長・永田鉄山少将が、「陸軍三長官」の一つである教育総監を、陸軍将官の人事決定は三長官の合意の上でなければやらないという規定を破り、教育総監の意志を無視して二長官だけの決議で罷免し、後任に渡辺錠太郎を据えた。これにより教育総監を罷免、軍事参議官となった。高宮太平の「軍国太平記」によれば、真崎は教育総監という陸軍三長官の一員でありながら党派的、政治的行動にて勢力伸張をはかり、これを危惧した林陸相が閑院宮の庇護のもと真崎を教育総監から軍事参議官に追いやった云々と記されている。

 8月、この人事に統帥権干犯だと反発した皇道派の相沢三郎陸軍中佐が永田鉄山を殺害した。これを「相沢事件」と云う。
【2.26事件の際の真崎大将の立ち回り】
 1936(昭和11).2.26日、陸軍の改革に反発した皇道派の若手将校により二・二六事件が起きた。蹶起を知った際、連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったと云う。2.26日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到なる何者かの陰謀ではないかと真崎は述べている。真崎は軍事参議官、軍の長老として、強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾しようと行動する。

 この時の真崎大将のとった行動が「真相は藪の中」になっている。反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであるが、事件関係者と真崎の証言が齟齬している。26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」と声を掛けたとされ、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。このことから真崎の事件関与が指摘されている。他方、当時真崎の護衛であった金子桂憲兵伍長の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。
【真崎公判の様子】
 3.10日、陸相官邸における行動、伏見官邸における工作、軍事参議官会議における維新断行のための大詔渙発、戒厳令施行の促進などを図ったことが決起部隊に対する利敵行為とみなされ、予備役編入され、事実上解雇された。7月、拘留され、憲兵隊本部の取調べを受けた。

 12.21日、匂坂法務官は真崎大将に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。

 1937(昭和12).1月25日、事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、反乱幇助で軍法会議に起訴されたが事件関与を否認した。9.25日、論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年。9.25日、無罪判決が下る。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが判明している。

 二・二六事件のとき参内して、この事件の黒幕は真崎大将であると上奏し、なんとしても真崎を有罪にするか、官位を拝辞させなければ、天皇を騙したことになり、陸軍大臣としての立場がなかった寺内寿一大将は、大将拝辞を条件に不起訴にすることを真崎の家族に伝えたが、家族は頑として断った。真崎を取り調べる軍法会議の議長であり、起訴後は裁判長であった寺内は、真崎銃殺の意図をもって裁判を進めていたが、支那事変が起って最高司令官として北支へ転任となり、磯村年大将を真崎裁判の判士長にする際には、「何でもかまわぬから、真崎は有罪にしろ」といった。磯村は戦後、「ああ、あれは随分綿密に調査したが、真崎には一点の疑う余地がなかった」と証言している。なお、荒木貞夫は判決文について、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。そして、とってつけたように主文は"無罪"。あんなおかしな判決文はない」と述べている。

 一方、真崎甚三郎の取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判の控訴取下げに関して、鵜沢聡明博士の元老訪問に対する真崎大将の意見聴取が真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げたと証言している。鵜沢博士の元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。万一の場合は、悪化しないようにご尽力をお願い致したい」と言うと、「もしそういうことがあったら、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて、茫然自失に見えたという。そして、亀川が辞去する際、玄関で、「この事件が事実でありましたら、またご報告に参ります」と言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えている。また、亀川は、真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったなと感じ、後に久原房之助邸に行ったときに事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起こったことは全然知るよしもなかった、ということである。

 結局、真崎甚三郎・大将(軍事参議官)は「叛乱者を利す」容疑を問われていたが無罪となった。また、終戦後に極東国際軍事裁判の被告となった真崎の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した磯村年大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している。

 推理作家松本清張は「昭和史発掘」で、「26日午前中までの真崎は、もとより内閣首班を引きうけるつもりだった。彼はその意志を加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長に告げ、伏見宮より天皇を動かそうとした形跡がある。 真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等の略綬を佩用していた。(略)真崎は宮中の形勢不利とみるやにわかに態度を変え、軍事参議官一同の賛成(荒木が積極、他は消極的ながら)と決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断わった。この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた」と主張している。

 磯部は、5.5日の第5回公判で、「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、5.6日の第6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をしたことはありません。ただ、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。磯部の獄中手記には、「…真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将軍に累を及ぼし、軍そのものが国賊になるので…云々」と書かれている。また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるものと述べている。
 1941(昭和16)年、 佐賀県教育会長に就任。

 1945(昭和20).11.19日、終戦後のこの日、A級戦犯として逮捕命令が発令され巣鴨プリズンに入所し、2年間収監された。皇道派に属していたというだけの嫌疑であった。他の被告は弁護士を頼んだが、真崎は弁護士をつけなかったという。第1回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12.2日、第一ホテルで行われた。以降3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は責任転嫁と自己弁明に終始した。特に、敵対していた東條英機等統制派軍人や木戸幸一に対する敵意と憎悪に満ちた発言と、親米主義の強調は事あるごとに繰り返しており、その態度からは「皇道派首領としての威厳や格調、陸軍を過ちへ導いた事への自責の念は全く見られなかった」と野口恒等から酷評されている。極東国際軍事裁判で不起訴処分。梨本宮殿下を除いて軍人では一番先に釈放された。同裁判の真崎担当係であったロビンソン検事は満洲事変、二・二六事件などとの関わりを詳細に調査し、「真崎は軍国主義者ではなく、戦争犯罪はない」、「二・二六事件では真崎は被害者であり、無関係」という結論を下し、そのメモランダムには、「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」とある。

 真崎の自動車運転手を務めていた石黒幸平(陸軍自動車学校職工)は、真崎大将は情に厚く部下思いであると、陸軍部内はもちろん、自動車運転手間にも信望があった、と証言をしている。

 1956(昭和31).8.31日、死去。 遺言書では、第一に「日本の滅亡は主として重臣、特に最近の湯浅倉平、斎藤実、木戸幸一の三代の内大臣の無智、私欲と、政党、財閥の腐敗に因る」としている。また巣鴨在監日記の12月23日(1945年)には、「今日は皇太子殿下の誕生日である。将来の天長節である。万歳を祈ると共に、殿下が大王学を修められ、父君陛下の如く奸臣に欺かれ、国家を亡ぼすことなく力強き新日本を建設せられんことを祈る」と記している。

 葬儀は9.3日午後1時から世田谷の自宅において行われ、葬儀委員長は荒木貞夫が務めた。天皇からの祭祀料が届けられた。

 1989.2.22日、二・二六事件で真崎黒幕説を唱えた高橋正衛は、その説に異を唱える山口富永に対し、末松太平の立ち会いのもとで次のように述べている。

 「真崎組閣の件は推察で、事実ではない、あやまります」。

 真崎大将論につき「★阿修羅♪ > カルト10」の♪ペリマリ♪氏の2013.2.24日付け投稿「太田龍 二・二六事件の真相、全面開示」、2013.3.6日付け投稿「太田龍『226真相全面開示』には一部重大な誤りがあります」がある。これを確認しておく。♪ペリマリ♪氏は、「太田龍『226真相全面開示』には一部重大な誤りがあります」で次のように述べている。(れんだいこ文法に則り現代文に書き直す。構成も変える。当然ながら文意の改変はしない)
 みなさんにお詫びしなくてはならにことがあります。太田龍の動画『2.26真相全面開示』について、 一部重大な誤りがあります。「真崎大将は2・26事件には無関係であるが、人格高潔でイルミナテイのエサになびかないから陥れられた。 真崎大将の名誉回復が急務である」 という太田龍の見解は誤まりです。

 河野司編『二・二六事件 獄中手記遺書』の中に収められている礒部浅一の獄中手記、及び2・26裁判記録に目を通すと、真崎大将が事件に関与したことは動かせない事実であり、青年将校を幇助しながら敵前逃亡したことが了解されます。また真崎大将が無罪を主張する強弁詭弁には、目を覆わんばかりのものがあり、「真崎大将は人格高潔なためイルミナテイに陥れられた」などというのはまったく馬鹿げています。こんなトンデモを太田龍に吹き込んだのは誰でしょうか・・・情報提供者としての落合莞爾の名前が頻繁に出ていますが・・・よく調べもしないで転載したことを大変申し訳なく思います。重ねてお詫びいたします。以下に磯部浅一の獄中手記および2・26事件裁判に関係した本から、真崎が事件に関与した証左となる該当箇所を抜粋します。

 河野司・編『二・二六事件 獄中手記遺書』河出書房新社 礒部浅一 前掲書より写真転載

 明治三十八年四月一日山口県大津郡菱海村河原に生まれる。 広島陸軍幼年学校を経て、陸士士官学校卒業。安藤輝三と同期。 陸軍経理学校を卒業し一等主計になる。 『十一月二十日事件』によって村中孝次とともに停職処分。 怪文書『粛軍に関する意見書』を作成・配布して免官。 2・26事件後第一次判決にて死刑宣告。 北、西田裁判の関係上、刑の執行が一年遅れた間、 長文の獄中手記を記し昭和十二年八月十九日銃殺刑に処される。

 以下、礒部浅一獄中手記より抜粋します。

 極秘(用心に用心をして下さい)千駄ヶ谷の奥さん(西田税夫人から、北玲吉先生、サツマ(薩摩雄次)戦死、岩田富三夫先生の御目に入る様にして下さい。万々一、ばれた時には不明の人が留守中に部屋に入れていたと云って云いのがれるのだよ(読後焼却)

 ・・・第三に申上げることは、反間苦肉の策であるかもしれませんが、一つの方法と信じます。それは、川島陸相、香椎中将(事件当時の戒厳司令官)、堀中将(事件当時の第一師団長)、村上大佐(事件当時の軍事課長)、小藤大佐(第一連隊長)、真崎大将、の七氏を叛乱幇助在で告発することです。・・・多くの青年将校を、死刑にせねばならない様な羽目に落とし入れたのは、寺内は勿論ですが、筆頭に揚ぐ可き人物は、川島陸相他前記の人です。

 真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将星にルイを及ぼし、軍そのものが国賊になるので、真崎の起訴を遷延しておいて、その間にスッカリ罪を着た、西田になすりつけてしまって処刑し、軍は国賊の汚名からのがれ、一切の責をまぬかれようとしているのです。軍部の腹の底は、北、西田、青年将校を先ず処刑してしまって、誰も文句を云うものがなくなった時、真崎を不起訴にし、川島、香椎等々の将軍、否、軍全部を国賊の汚名からのがれさせようとしているのです。

 私は今真崎に対し、川島、香椎、山下、堀、小藤、村上及び事件当時の戒厳参謀課長を告発せよと云うことを、シキリにすすめているのです。真崎はまだ決心がつきませんが、何とかして真崎に決心してもらいたいと努力しています。・・・私はこの数か月、北、西田両氏初め多くの同志の事を思って毎夜苦しんでいます。北、西田両氏さえ助かれば、少しなりとも笑って死ねるのです。どうぞどうぞ、たのみます、たのみます。

 真崎大将を不起訴にする様に運動している御連中がたくさんいる様ですが、私はこれに対しては非常に反感をもちます。真崎はたしかに吾々に対して同情して、好意的に努力してくれた人です。ですから、真崎個人に対して感謝もしますけれども、吾々同志が義士か国賊かと云う問題を決定する為には、真崎が義士か国賊か、川島その他軍首脳部の書簡が国賊化否か、而して真崎と如何に関係深かりしかを決定せねばならぬのです。吾々が国賊ならば、当然に真崎と川島とその周囲の人は国賊であるはずです。彼等が法の制裁をうけないならば、吾人も当然法の制裁を受けない筈です。二月事件に戒厳令を発したでもなく、大臣告示を発したるにもあらざる北、西田両氏の如きは、当然も当然も当然すぎるほどに制裁のケン外にある筈です。吾々青年将校は、北さんの戒厳命令により、或いは西田氏の大臣告示によって行動したのではないのでずぞ。陸軍の親玉からもらった命令によって動作したのに、命令を発した人は罰せられずに、命令を受けた人が殺されたり、全く命令や告示の圏外にあった人が死刑を求刑されるのです。こんなトンチンカンなベラボウな話はありません。

 どうしても話のすじ道を通す為には、真崎を起訴し、川島、香椎、堀、山下、村上等が起訴され、勅裁経て陸軍大将の裁判長を定めて黒白を明らかにせねばならんのです。而してこれをすることは、実に寺内等を窮地に追い込む第一弾になるのです。然るに真崎の不起訴を策動する人物の如きは、同志を犬死させたり、見殺しにさせたりするところのふとどき至極の奴輩です。

 所が入所して日時の経過するに従って、軍首脳部の公判方針がチョロチョロと出かかり出しまして、小生はそのたびに心痛をせねばならなくなりました。それは前記諸氏が小生を全く国賊あつかいにし、叛徒として無茶苦茶な証言をしているのです。これでは助かりそうにはない。全部処刑され、死刑も多数あるという様なことを思うと、私は同志に対して、立っても居てもおれない程にすまなくなりました。数日数夜を考えあげた末に、遂に意を決して真崎、荒木、川島、安倍、香椎、安井戒厳参謀長、古荘、山下、堀等十五士氏を告発しました。

 原秀夫『二・二六事件軍法会議』文芸春秋より、以下抜粋します。(事件から60年ぶりに初公開された裁判資料に基づいたものです)

 二・二六事件の裁判の中で、最後に残ったのが、真崎大将の公判だった。すでに昭和十一年七月十二日、香田ら十五人の将校らは、代々木陸軍衛戍刑務所内の処刑場で銃殺刑に処せられた。磯部、村中は、同じく死刑判決を受けながら、北一輝、西田税に対する裁判の証人として刑の執行が延期されていたが、翌昭和十二年八月十九日に処刑される。ちょうどこれと同じ頃、真崎大将の公判が進められていたのである。真崎公判は、事件発生から一年三か月たった昭和十二年六月一日から始まった。起訴はその年の一月だから、公判準備に半年かかったわけである。

磯村裁判長  「これより裁判官たる法務官をして、被告の尋問、証拠調、及び弁論の指揮に関する事項を行わせる」。
真崎大将  「私は、尋問を受くるに先立ちまして、一言申し上げておきたいと存じます。私は、これ迄、検察官及び予審官の御取調に対しては、事のありの侭に、又私の感じた侭を、極めて率直に申し上げて置いてあります。しかし腹の立った事もあり、不都合な云い現わし方、こう申上げた方が判り易かったと思うことがあります。私は実は公判廷では何も申し上げまいと思いましたが、天皇の御名に於いて行う神聖な法廷ですから、真相を究めるために、どんな御質問に対しても、お答え申し上げ、閣下方に訴えたいと思います」。
小川法務官  「只今、検察官が述べられた公訴事実に意見があるか」。
真崎大将  「意見があります。香田清貞を招きどうしたとか、教育総監更迭に最後まで同意しなかったと述べたとか、昭和維新を何したとか、述べられましたが、実に驚き入った次第であります。礒部の問題も違っており、漸く挙げて承りますと、御読み聞けの事柄は、全部も全部まるっきり事実と相違しております。何所で御聞きになり、何うして御調べになったか知りませんが、何も殊更このような理屈を付けられた感じがいたし、作り事をした様な気がいたします。いずれ御尋問に従いまして、如々申上げて参ります」

 起訴事実を全面否認した真崎甚三郎 原秀夫前掲書より写真転載

 第一回公判で読み上げられた調書に、香田清貞大尉の憲兵調書がある。香田大尉は歩兵第一旅団司令部付で、蹶起当日は礒部らと共に陸相官邸の占拠を担当している。香田大尉の調書は、事件の前年、真崎から招かれた私邸を訪ねたときの様子を次のように記している。

香田大尉の調書  <昭和十年十二月二十八日午後七時頃、真崎大将を訪問したところ、同大将は「近頃若い者は国体明徴問題を如何に考えているか。この問題をとらえてしっかり活動したならば、維新は合法的に開けてくるのだ。青年将校の活動が足らん」と言われ、・・・「着眼が悪い」と不満のようでした。「相沢中佐の公判も近づきました」と申すと、大将は奥から相沢中佐の常に口にした詩など書いてある手紙を持ってきて、「相沢公判についてはなにも具体的には話していないが、心の中では誰にも負けないほど、相沢のことについては考えている。相沢は時々やってきていたが、まったく純真な神様に近いような人物である。・・・自分も証人に出る心算である。ただ、自分が出るには勅許を得なければならに」と言われた。私が「国体明徴に関して軍教育の中枢にある渡辺大将が、天皇機関説を擁護する如き訓示をされたのは遺憾」と申すと、「そうじゃ、渡辺があの位置を退くようになれば、維新運動が都合よく運んでいく」と申された。>
真崎大将   「『青年将校の努力はまだ足らん』と発言したことも『同感の意を示した』といった不都合なことを告げたことはありません。どうして、そう間違ったか判りません。『お前は病気にかかっているのである。早く直さねばならぬ。軍人は政治に関与して、かれこれ言うべきではない。』と説き聞かせたのであります。香田は、私の教育方針を取り違えて解したように思います。仮に不都合な事を申したとしても、当時、彼は叛軍ではなく、一歩兵大尉であります。叛軍でない者に向かって彼是申したからとて、何が故に反乱者を利したといえるのでありましょうか・・・妻が病気だったので早く帰ってくれればよいと思った。嫌な気持ちで会った」。

 第二回、第三回公判では、叛乱の中心人物といえる磯部浅一と、小川三郎大尉の調書の一部が読み上げられた。二人は昭和十年十二月、十一年一月に真崎大将を訪ねている。その折の模様を次のように述べている。

小川大尉の調書   <私は昭和十年十二月二十四日、磯部浅一と共に真崎大将を訪問し、応接室で閣下に、「教育総監の辞表を出されたそうですが」と質問した。真崎大将は、「そんなことを誰が言うたか」と申しました。私「相沢公判は重大だから徹底的にやって貰いたい。辞表を出されたというが、一体どうするのですか」。真崎大将「俺はそんな弱いことはしておらん。相沢は命まで捧げてしたが、俺はそこまではいっておらんが、そんな弱いことはしておらん」。私「国体明徴問題とか今度の相沢公判が巧くいかねば血が流れるかもしれません」。真崎大将「そういうことになるかもしれんが、俺がそんなことを言ったら若い者を煽っているようにいうからどうも困るのだ」などの問答をし、同大将は私どもの如く維新的情勢にかんする時局に対し、相当突っ込んだ考えを有するものと信じた>
礒部浅一の供述  <昭和十一年一月二十八日早朝、真崎大将を訪ね、火急の用事と、強いて面会を願った。私は「統帥権干犯問題につき、決死的努力をしようと思いますから、閣下も尽力して頂きたし」と申したところ、将軍は、「俺は十分やる」と言われた。次いで、「金を下さい」と申し込み、「いくらいるか」と申されたから、「千円ほしいが五百円でも結構です」と申したところ、「俺も貧乏で金はないが、何か物でも売ってやろうか。君は森伝を知っているか。森に話してみたか」と言われたので、私は、「森氏は知っておりますが話さぬ」と答えて帰り、その翌日頃森を訪ねた。森は真崎から呼ばれた話をし、金五百円を手渡された。真崎大将は心より私どもの運動を理解し鞭撻し、私どもが剣をもって起つことも十分承知していると感じた。真崎大将は、わたしや村中のことをすこぶる心配し、「次の時代には免官を元に戻してやらねばならぬ」と言われ、要するに私は、真崎大将は今回の事件を知りながら有形無形の援助をなしてくれたものと信ずる。>
真崎大将   「『直接行動をする様な重大なことなれば、話さないでくれ』とは、私が如何に愚者でも言うはずはない。『俺もやる』とは言っていない。私は『貰いつけているところから貰えばいい』と言った。『都合する』とは言わぬ」。
真崎大将  「礒部は嘘を言っております。礒部を絞り上げてください。とにかく維新運動をやっているのは青年将校のアバズレ者だけであります」(第三回公判)
裁判長   「不利なことはことごとく否定するね」。
真崎大将   「磯部から金を貸してくれと言われて、考えておくからと答えたのは本当であります。『俺も十分やる』とは言わず、『自分も研究する』とか『考えておく』とか軽い意味の答えをしたと思う」(第六回公判)

 真崎大将による事件勃発以後の自らの行動についての弁明
○蹶起を知ったのは、二月二十六日の早朝、亀川哲也の訪問を受けてであった。
○実は亀川は、この数日前にも真崎邸を訪れ、蹶起が近いことを示唆していた。

 亀川の調書によると、「『いかなる事態があっても青年将校を見殺しにせぬように』と言うと、真崎大将は『老人を誤らさないように、若い者を指導してくれ』と語った」。

 真崎大将の反論
 「亀川から『青年達を見殺しにしないでくれ』と言われたことなし。『年寄を誤らせない様に若い者に話してくれ』と言ったこともない。浪人者は他の者に対し、自分の言うことを省いて吹聴しやすいものである。私は亀川を危険視していた」。

 二月二十五日夜、青年将校らの蹶起を知った亀川は、二十六日午前四時ごろ真崎邸を訪れる。

亀川の憲兵聴取書  <真崎大将の処へ行こうとしたのは、早く知らせる方が良いと考えましたからです。真崎さんを選んだ原因は、彼等が信頼して居るからです。・・・此時、大将を選んだ事は、前夜来西田の言葉もあり、事件の即日収拾、即日大赦の方針で工作を依頼する為に行きました。私は応接間で待って居りますと、(真崎)大将が寝間着に羽織を引っかけて出て来られました。私は大将を見るや胸がつかえて泣き出しました。そして、一語をも申しません。大将は私の傍に立って、「落ち着いたら、落ち着いたら」と言って居られましたが、大将も非常な胸さわぎを感じて居られました。約十分位、私は泣き続けて居った様に思いますが、私は涙を拭いて、「今朝青年将校が、部隊を率いて立つらしい。こう言う事態が無い様にと思って、数年の間願って来たが、とうとう来る所へ来てしまって残念です」と申しましたら、大将は死人のような顔色になられ、腕をくみ椅子に寄りかかり、じっとして居られました。私が続いて、「若い者の行動は乱暴でも、気持ちは純真だから、此際軍の長老連達は、一致結束して、一刻も早く事態を収拾せられねばならず、殊に貴方に対しては、若い者などが大きな望を持って居る。真崎内閣と言うような事も考えているらしい。ぜひ御自重を願いたい」と申しますと、大将は「残念だ。今迄の苦労が水泡に帰した」と言われました。>
真崎大将   「二月二十六日早朝の亀川の言は、閣下(下級者である小川法務官に対して、こう呼んだのである)、すべて捏造であります。亀川は実に酷い奴であります。検察官は亀川のような不逞な奴から愚弄されたのであります。私は『貴様のような危険人物は、早く出て行け』という気持ちで、『鵜沢博士の処には早く行け』と言ったのであります。」
裁判官   「二・二六早朝五時、亀川のような危険人物と、何で早朝に会ったのか。」
真崎大将  「相沢事件のことで来たと思った。私は馬鹿だった。」
裁判官   「危険人物なら面会謝絶にすべきではないか」
真崎大将  「お答えの仕様がありませぬ。神明に誓って偽りは申しませぬ。相沢事件のことが気になって会ったのです。後悔しています。」
裁判官  「二月二十五日夜、今夜は電話があっても起こすなと言っていないか」
真崎大将   「夢を見た様なことを承ります。ありもしない事を作ったものが幾らもあります。」

 (裁判官は続けて、真崎の妻・信千代に対する憲兵の聴取書を読み上げる。この中には、妻の証言として、真崎大将が「電話があっても起こすな」と言ったという内容が含まれていた)

 真崎大将 「妻がそう言ったなら、そうだろうと思います。

 亀川から蹶起の知らせを受けた真崎大将は、午前八時ごろ、陸相官邸に駆けつけて青年将校らから蹶起の趣旨を聞く。その後の真崎大将の行動は、何とか蹶起を擁護し、自分の有利に展開させようという意図から出たものだ、と批判されている。六月十七日の第八回公判において、真崎大将に対して磯部の調書の読み聞けが行われた。

礒部の調書   <歩哨の停止命令をきかずして一代の自動車が辷り込んだ。下車と同時に「閣下、統帥権干犯の賊類を討つ為に蹶起しました。状況は御存知でありますか」というと、「ウン」とだけ申され、次に私が「善処を願います」と申し上げると、「お前たちの精神はよくわかっておる」と二、三度言われたのをはっきり記憶している。同大将を官邸に案内したら、「落ち着いて、落ち着いて」と言われた。>
真崎大将  「二・二六朝、官邸前で礒部に会った覚えなし。『お前たちの気持ちはわかっている』と言った覚えなし。礒部に会ったのは、官邸を出るときである。礒部は夢を見ているのだ。仮に『諸君の精神はよくわかっている』と言ったとしても、『やれやれ』の意味ではなく、物騒に感じたので相手をごまかすくらいの気持ちで言ったのではないかと思います。仮に言ったとすれば、相手をごまかして通すつもりで言ったものと思います。『落ち着いて、落ち着いて』との発言については、兵が銃剣を突付けたので、『落ち着いて、落ち着いて』と言ったのであります)」


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 河野司編・磯部浅一獄中手記より抜粋
 「(二月二十六日早朝)歩哨の停止命令をきかずして一台の自動車がスベリ込んだ。余が近づいてみると真崎将軍だ。『閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知でありますか』という。『とうとうやったか、お前達の心はヨヲッわかっとる、ヨヲッーわかっとる』と答える。『どうか善処していただきたい』とつげる。大将はうなづきながら邸内に入る。門前の同志と共に事態の有利に進展せんことを祈る。この間にも丹生は、登庁の将校を退却させることに大いにつとめる。

 (原秀夫前掲書より抜粋続き)
 また、その後の法廷で真崎大将は、「落ち着いてと何度も言ったのは、自分が落ち着いていないからであります。心の中は煮え返るようになっても、臆していないような風を装うのが、軍隊指揮官に必要なことであります。私は自然に落ち着いたように見えたのだろうと思います」

 二・二六事件の朝、真崎大将は勲一等の勲章を佩き堂々たる姿勢で陸相官邸に乗り込んだ。同じ頃、陸相官邸に乗り込み、磯部に拳銃で撃たれた片倉衷(ただし)少佐は、その時の様子を、真崎公判準備のための証人尋問で次のように証言している。<真崎は私が撃たれたのを見ても何もせず、入院先の軍医学校で顔を見ても知らん顔。人情を解しない、愚痴が多い人だ。>

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 片倉衷がこんな風に真崎を非難する資格はありません。石原莞爾のポチとして満州事変で活躍した片倉は、226を統制派のためのクーデターに転換させる、『カウンター・クーデター』(片倉本人の弁)の原案を作成、青年将校たちを人柱として利用したグループの一人です。私は皇統派と統制派の対立の図式は八百長だと思います。

 (原秀夫前掲書の抜粋続き)
 真崎大将は、この証言に対して、次のように弁解している。「彼らを撤退させなくてはいかぬ、と一寸頭に浮かんだが誰にも言わなかった。言えばポンと撃たれるか、突き刺されるように感ずるくらいのゾッとするような空気だった。」

 公判記録を読みながら、私はなんともやり切れない気持ちになっていった。法廷には、青年将校らが尊敬する指導者としての陸軍大将の姿はない。ひたすら弁解と言い逃れに努める老人の姿である。

 「幸田は自分勝手なことを言っている」、「磯部が私の悪口を言って回っていると聞いている」、「亀川は嘘つきです」、「村中の造り話です」、「平野(助九郎」は不用意の質問をする男です。平野を絞り上げてくれ

 山口一郎太の陳述
 <午前八時頃になりますと後ろの方がざわざわするので振向くと、真崎大将が入って来られました。若い将校はいぢ等不動の姿勢をとり久しぶりで帰ってきた慈父を迎えるような態度を以て恭しく敬礼をしました。・・・(真崎大将は)成程行い其のものは悪い、然し社会の方は尚悪い、起こったことは仕方がない、我々老人にも罪があったのだから之から大いに働かなければならぬ、又非常時らしくどしどしやらねばならぬ事にも同意だ、と云うう様に大へん青年将校に同情のある言い方をされ、次官が立たれた後の椅子に腰を下されて、大臣との間に短い言葉で話を交わされました。

 大臣「大隊、今、斎藤少将からお聞きの通りだ」。真崎「彼らの要望はどんなものか」。大臣「ここに書いたものがある」と言って紙片を渡されると、真崎大将はそれを眺め、また蹶起趣意書とか、青年将校の希望事項の原稿とかいうものにも、頷きながら目を通しておられました。それから、真崎「こうなったら仕方がないじゃないか」。大臣「御尤もです」。真崎「来るべきものが来たんじゃないか」。大臣「私もそう思います」。真崎「これで行こうじゃないか」。大臣「それより外、仕方ありません」。真崎「君は何時参内するか」大臣「もう少し様子を見て」。真崎「僕は、参議官の方を色々説いてみよう」。などの話で、同大将は青年将校に対し、同情のある話しぶりでありました・・・>(山口太一郎予審官第二回調書)

 真崎大将
 「山口の言う所では、いかにも私が大臣といろいろ話合った様でありますが、夫れは山口の珍問答で小説を作っているのであります。山口の虚構、捏造であります。馬鹿気て聞く気にもなりません。あの場面は、シーンとして何も話すことはなかったのであります」。

 山口調書
 <若い人達は、「牧野、西園寺、宇垣、南の四名を逮捕して下さい」ということを云始め、そして、立派な内閣を作るということを早くやること、皇軍相撃たぬこと等を要求した。これに対して荒木大将が、「そんな老人を捕えて何になる」と言った。一方、真崎大将は、「吾々に総てを委せて呉れんか。委する以上は条件を付けないで呉れ。きっとやるから。吾々も命がけだ。今迄は努力が足りなんだ。今度はきっとやる」と答えた。>

 真崎大将
 「どうも驚く外ありません。山口の言うのは殆どちがいます。彼らが誰彼を逮捕すること、皇軍相撃せぬこと等の要求があったことは、その通りだが、私が『吾々に全てを任してくれ』と言ったというのは嘘であります。・・・山口等は私が彼らの精神を生かす様に骨を折っていたものと、感じたかも知れませぬが、私は何もそんなことを致して居りませぬ。・・・山口も芝居が好きと見えます。」(第十一回公判調書)。

 裁判官
 「山口大尉は『(真崎大将は)最も呑み込みの早い筈の人であり、嘘を吐かぬという点で有名は将軍でありますから、今朝陸相官邸で言われた処の「此精神を生かさないと、何回でもこういう事が起こるから之を生かす為に骨を折る」と言われた、あの通りに行動し各軍事参議官に此旨を説明され、荒木大将も之に同意して働かれたものと思う』と述べているが如何」

 真崎大将
 「夫れは彼等の勝手な考えであります」

 裁判官
 「山口は、被告を嘘を言わぬ有名な将軍だと思っているのだから、ありもせぬ事をいわないと思うが」

 真崎大将
 「山口は亀川と同じく、英雄の好きな男であります。私は副官に『こんな事しやがって何と理由を付けても申し訳ないぞ』と申してあります」(第九回公判調書)

 真崎の回想
 <昭和十一年七月十日、礒部と私は対決せしめらるることとなり、私は先に入廷し、礒部を待って居ったが、間もなく礒部も大いにやつれて入り来たり、私にしばらくでしたと一礼するや狂気の如く昂奮して、直ちに「彼等の術中に落ちました」と言うた。私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて、術中とは何かと問い返したれば、沢田法務官(注・藤井法務官の誤り)は壇上より下り来たりて「それは問題外なる故触れて下さるな」と私には言い、礒部には「君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に」と肩を撫でて室外に連れ出し、これだけで対決は終わった。何のことか分からぬ。私は不思議でたまらなかった>(「暗黒裁判二・二六事件」「特集文芸春秋」昭和三十二年四月号)。

 問題の七月十日の予審調書は、被告人真崎大将に対する尋問調書であり、礒部は証人としてこの予審廷に出廷している。

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 磯部浅一獄中手記より

 「真崎とは七月十日に対決した。真崎は余に国士になれと云いて暗に金銭関係等のバクロを封ぜんとする様子であった。余は国士になるを欲しない。如何に極悪非道と思 われてもいいから主義を貫徹したいのだ。だから真崎の言は馬鹿らしく聞こえた。余は真崎に云った、大臣告示も戒厳軍隊に入りたる事もすべてをウヤムヤにしたのは誰だ。閣下はその間の事情を知っている筈だから純真なる青年将校の為に告示発表当時、戒厳軍編入当時の真相を明かして下さい。これによって同志は救われるのです。閣下は逃げを張ってはいけない、青年将校は閣下を唯一のたよりにしているのだ。故に軍内部の事情を青年将校の為にバクロして下さいと願って簡短に引きあげさせられた。予審官たる藤井は余の論鋒をおそれてオロオロしていた。余等を死刑にしたのは藤井等だからおそるるのもムリはない」

 (原秀夫前掲書より抜粋続き)

 昭和十一年一月二十八日、礒部が来たときの会話について。

真崎  「統帥権干犯問題に付き『決死努力をする』と云ったのに対して『俺もやる』と言った様なことはありません。金の問題に付いても私が家のものを売っても準備すると云った様なことは全然ありません。」
 「(礒部は)翌日か翌々日被告をよく知って居るものから金五百円貰ったということであるが如何。」
真崎   「私は判りません。」
  「一月二十八日、礒部が金の話をしたとき、森伝を知って居るかと被告から言い出したということであるが如何。」
真崎  「判りません。」

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 磯部浅一獄中手記より

 「川島(陸相)との会見に於いて充分なる結果を得なかったので、川島と交友関係に於いて最も暑い真崎を訪ねる事にして、一月二十八日、相沢公判の開始される早朝、世田谷に自動車を飛ばした。・・・真崎は何事かを察知せるものの如く、『何事か起こるのなら、何も云って呉れるな』と前提した。余は統帥権干犯問題に関しては決死的な努力をしたい、相沢公判も始まる事だから、閣下もご努力していただきたいと云って、金子の都合を願った。大将は俺は貧乏で金がないが、いくら位いいるのだと云う。金は千円位あればいい、なければ五百円でもいいと云って、大まけをして半額に下げた。『それ位か、それなら物でも売ってこしられてやろう、君は森を知っているか、森の方へ話してみて必ずつくってやろう』と云って、快諾して呉れた。余は、これなら必ず真崎大将はやって呉れる、余とは生まれて二度目の面会であるだけなのに、これだけの好意と援助とをして呉れると云う事は、青年将校の思想信念、行動に理解と同情を有している動かぬ証拠だと信じた。特に森氏を真崎が絶対に信じている事、及び川島と森氏とが極めて親交があることを先に実見した事から、川島、真崎の関係が絶対に良好であることの確信を得た。森氏が実によく青年将校の情態を知っているのは、真崎、川島から聞くのだ。この事から想像すると、両将軍が青年将校の威武を相当たよりにしている事が明らかである。殊に真崎は村中、礒部は免官になったが、復職させてやるなどと森に語ったことすらあるらしいのだから、尚更だと云える。」

 (原秀夫前掲書より抜粋続き)

 礒部の予審調書

  「一月二十八日に真崎邸を訪れたのは何の用件で行ったのか」。
礒部   「私共は昨年末頃から決行の意向を有したるを以て、軍首脳部の意向を打診する為行ったのであります。其の理由として、私共が決行するに付いては今度の如く兵を連れて行くことを軍首脳の方はお知りになって居たと思いますが、兵を使うことに付いては私個人の問題でないから、軍首脳の方の判然とした態度を知り度く思った為訪問したのであります。」
  「夫れで、真崎大将に如何なることを話したか。」
礒部   「統帥権干犯問題に付いて決死的な努力をしたい、相沢公判も本日から開かれることになったのであるから、閣下に於かれてもご努力願い度いと云うことを申し上げますと、閣下は初め私が訪ねたとき「云って呉れるな」と云われましたので之は私が非常な決心で行ったのを見て・・・・其の様に云われたと思いました。私が前の様に申し上げますと閣下は『俺もやるんだ』と云われました。それから、私は金が欲しいと云いますと、何程入るかと云われたので千円位欲しいと答えました処、夫れ位ならば何とかなるであろうと云われましたが、私は如何なる考えか千円出来ねば五百円でもよいと云いました。すると閣下は森伝を知って居るかと云われましたので、私は、余りよくは知らぬが知っては居ります、将軍は森氏を御信用の様ですが、私は考えが違いますと云いますと、俺は貧乏して居るので金がないから物でも売って作ってやろうと云われました。夫れから、森の方へ電話を懸けて見様と云われた様に思いますが、此の点は確かではありませんが、きっと作ってやると云われました。」

 以上、原秀夫『二・二六事件 軍法会議』より転載。

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 河野司編・磯部浅一獄中手記より抜粋 森伝氏に宛てて

 「・・・二月二十九日、入所以来小生は如何にして千五百将兵の賊名を取り除き、叛乱罪たることを破砕せんかに万考、殆ど血滴をしぼりへらし、骨ズイをスリ減らしました。・・・それですから、川島、荒木、真崎、山下奉文、村上啓作等に対して、有利なる証言をして暮れることを一念に祈願しました。事を解決するの鍵は、川島等数氏にあって、これらの諸氏が青年将校の行動を認めたのだと一言云って呉れさえすれば、千五百全部助かるのだ。陸軍そのものが助かるのだ。軍首脳部からも責任者など一人も出さずにすむのだと思うと、川島、荒木、真崎、山下、古荘、村上、香椎等の諸氏の証言がどれだけ大切で、又どれだけ小生には心配であったかわかりませんでした。

 この小生の対公判策を有利に発展せしむる為には、真崎将軍をカツギ出すよりほかに仕方がないのです。唯単に真崎を出した丈では、真崎が知らぬといえばそれ迄になってしまうので、勢い金銭関係を云わざるを得なくなったのです。真崎と小生等と、精神的にまた物質的に深い関係がある事になりて、真崎が「僕は青年将校の行動を認める、俺ばかりではない、川島も事件当時は大臣告示を出して認めている。川島のみならず軍議参議官全部が認めたのだ。寺内も認めたではないか。それのみならず大臣告示中には、各閣僚も青年将校の真精神を理解して、今後<匪躬>の誠を致す事と明記されているのだから、青年将校の行動は罰してはならぬ。青年将校を罰するなら軍事案技官全部、特に川島は厳罰になり、又、現寺内大臣にも責任がある筈だ。又事に天皇先刻の戒厳軍隊に編入され、戒厳命令によって警備地区をもらって警備をしているのだから、絶対に罰してはならぬ」と云うてくれたら、吾々は非常に有利になりますので、小生としては先ず真崎にウント強いことを云ってもらい、川島その他をも同意させる事にせねばならないと考えました。

 大体以上の様ないきさつから、真崎将軍の事を比較的くわしく延べ、又川島将軍の事、先生の事に及び清浦子、大隈伯と佐賀閥の事にもおよびまして、真にやむを得ず同志を殺さぬ為に止むを得ず、先生を引き合いに出して意外の御迷惑をかけ、誠に相すみませんでした。先生、磯部と云う奴は恩を仇で返す奴だと御叱り下さらずに、小生の同志を救う為の非常手段を許して下さい。何事も那家万年の為めなれば御海容下され度、伏して願上ます。小生の止むを得ざる失言の為めに、先生に永い間の牢獄生活をさせた事を非常にすまなく思っております。何卒御海容下さい。」

 荒木貞夫大将

 「君、真崎の判決文を読んだことがあるか。あんな奇妙な判決文はないよ。判決理由はひとつひとつ真崎に罪状をあげている。そして、とってつけたように、主文は無罪。あんなおかしな判決はないよ」。

 三島由紀夫

 「礒部の獄中の手記が、ほとんど『ヨブ記』を思わせるような凄まじいい呪いを奔騰させており、悪鬼羅刹の面影をあらわしているのは理由なしとしない。それは日本の国体論者が、その限界状況において、かえって致命的な国体否定者に転化する劇的な瞬間を記録している。

 私は事件後三十年にして世に出たこの遺稿が、達筆の手書きの、ほとんど血書を思わせる墨痕淋漓たる姿のまま、現代アメリカの尖端的な複写機ゼロックス(アメリカ人はゼロックスという語をすでに動詞化している)によって複写されたものを読んで、複雑な感慨を禁じえなかった。

 絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくような状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、自尊心と羞恥心を賭けることだと云ってもよい。それは自己弁護ということとはちがう。二・二六事件はもともと、希望による維新であり、期待による蹶起だった。というのは、義憤は経過しても絶脳は経過しない革命であるという意味と共に、蹶起ののちも『大御心に待つ』ことに重きを置いた革命であるという意味である。こういう二・二六事件の根本性格を、磯部ほど象徴的に体現している人物はなく、そこに指導者としての礒部を配したのは、神の摂理とさへ思われるのである。蹶起の指導者としても、又、挫折の指導者としても。

 遺稿の第二部の結末で、簡潔に述べられている挿話であるが、礒部に告発された真崎が、獄中で礒部と対決させられる場面は、尽きぬ劇的興趣に溢れている。真崎は、磯部より森との関係を暴露されて、一時入所し、そこで礒部と対決させられることになったのだ。この煽動家の将軍は、恐ろしい呪詛の焔に充ちた青年の目を直視することができない。それでも虚勢を張って、「国士になれ!」と叱咤する。暗に金銭関係の暴露を封じようとして、そう言うのだと礒部は察する。そこで「余は国士になるを欲しない。以下に極悪非道と思われてもいいから主義を貫徹したいのだ」と答えるのである。


 しかし、告発し暴露した党の相手に対して、礒部も亦、その証言に頼らなければならぬ弱みを持っている。対決は七月十日のことで、十五士銃殺のわずか二日前である。もし将軍が誠意ある証言をしてくれれば、同志の命は救われるかもしれないのだ。将軍は将軍で、この危険な青年が、どこまで自分を恫喝しうるかを、恐怖を以て測っている。礒部が、蹶起の瓦解を将軍の責任だと信じていることは明白なのである。裏切り者はきらびやかな将軍であり、告発者は追いつめられた虜囚なのだ。ここは礒部の人間研究に甚だ大切なところと思われるので、煩をいとわず引用しておく。

 『他の同志はもはや死を観念しているのに、余はひとり楽観して、栗(原中尉)から、礒兄は永生きをする、殺されるのがきまっているのにそんなに楽観出来る様な人はたしかに永生きをする、等と云いて冷やかされた。栗(原)から、礒部さん、あんたは不思議な人だ、あんたに会うと何だか死なぬ様な気がする、等と云われたこともある。余は七月下旬には出所出来る、出所したら一杯飲もう、等云いて、栗(原)、中島をよろこばしたものだ。軍部や元老銃身が吾々を殺そうとした所で、日本には陛下がおられる。陛下は神様で決して正義の士をムザムザ殺される様な事はない、又、日本は神国だ、神さまが余等を守って下さる、と云う余の平素の信念がムクムクと起こって来て、決して死刑される気がしなくなったのだ』


 正直に言って、此度発表された遺稿を通して、私にもっとも興味があったのはこの問題である。私の年来の人間観をもう一度検証してみようという気を起こさせたのはこの問題である。ましてそれは三十年を経て今なおなまなましく、もどかしい禿筆の乱れるに委せて書かれた筆跡そのまま、今私の目の前にあるのである。人は日常生活では、これほど肺腑をえぐる、しかもこれほど虚心坦懐な告白に接することは、めったにあるものではない。そこにあるのは、人間の真相にほかならない。」(三島由紀夫『道義的革命の論理‐磯部一等主計の遺稿について』文藝 昭和42年3月 初出)
(私論.私見)
 こういう記録を読む場合のイロハであるが、まずは原文通りかどうか確認せねばならない。それから検討に入らねばならない。れんだいこの印象として、真崎大将が嵌められようとしている形跡を感じる。そもそも青年将校の予審調書は誘導尋問されている訳だから、決定的証拠にはし難い。その辺りを見てとらず、♪ペリマリ♪氏が、「 みなさんにお詫びしなくてはならにことがあります。太田龍の動画『2.26真相全面開示』について、 一部重大な誤りがあります。「真崎大将は2・26事件には無関係であるが、人格高潔でイルミナテイのエサになびかないから陥れられた。 真崎大将の名誉回復が急務である」 という太田龍の見解は誤まりです」とするの少々気が早いのではないのか。自分で「「太田龍 二・二六事件の真相、全面開示」」を持ちだし、次に「太田龍『226真相全面開示』には一部重大な誤りがあります」とするのは如何にも尻軽で手の込んだ芝居臭い。2.26事件にロッキード事件と同じような謀略を感じ取っているれんだいこは、資料的な面で参照させていただくことにする。真崎大将論は引き続き追及することにする。

 2013.3.6日 れんだいこ拝

 眞崎甚三郎大将が二・二六事件で投獄された時、断飲断食したことを証する資料が『木戸幸一日記』にある。
 「昭和12年1月12日二時、牧野伯より電話にて、眞崎大将は去月二十八日頃より絶食し、六日頃よりは水もとらずと、子息〔秀樹カ〕を二回許り呼びて、遺言めきたることを云へり、衛戍病院に入院せりと、阿部大将等が面会を求めたるも許されずと(後略)」。
 (『木戸幸一日記 上巻』535頁上段/1966年/(財)東京大学出版会)

 上記の資料(三浦芳聖著『神風串呂』)中、眞崎大将が21日間の断飲断食で観音様を霊視し「本物の天皇は他(ほか)にあるぞよ!」というお告げを受けた傍証になるかと思われる。眞崎甚三郎大将は、断飲断食を敢行し命懸けで「神の声」を聴いた。

 山口富永氏は著書でこう書いています。
 「(私は)昭和史を対象として物を書いてきている多くの著述家、殊に二・ニ六事件を取り扱ってきている人々の多くが戦時中、体制派にあって物を言っていた朝日新聞の軍事記者・高宮太平の流れをくんだ松本清張、その流れの下にあった高橋正衛、以下半藤一利、秦郁彦というような人々とその見解を異にすることを明確にする」と言ったうえで、山口氏はこれら物書きの二・ニ六史観は統制派寄りで、真崎大将を二・ニ六事件の黒幕で青年将校への裏切り者と描いてそれを主流としているという。しかし山口氏は、それは事実とは全く違うと反論し、「大体、社会主義陣営の人は統制派好みで皇道派嫌いという傾向である」と言い切っています。

 二・ニ六事件当日、真崎大将と陸相官邸に向かう車に同乗していた金子桂憲兵は、「車が高橋是清大蔵大臣私邸前を通過する時、兵士によって踏み荒らされた雪中の足跡をみた真崎大将は『これは赤の仕業だ』と言った」、とあります。赤とは統制派を指しています。この金子憲兵は「真崎大将が青年将校に激励された」と定説になっている、「お前たちの気持ちはヨオック分かっている」ということについて、「真崎大将はそんなことを言ったのではない。『何という馬鹿なことをやったのだ』と叱りつけた」と証言しています。しかし、この事実を大谷敬二郎隊長に報告しているが全部削除されたというのであります。


 ほとんどの物書きによって真崎が事件に関与したとされた。しかし、真崎は事件後の裁判で無罪であります。元々事件への関与などないのですから当然の結果でした。にもかかわらず”真崎を処刑せい”と言っていたのが寺内寿一(当時陸軍大臣)でありました。真崎の拘束は統制派の支那事変への邪魔をされないがためのものだったのが本当のところではないか。では真崎甚三郎はどのような人物であったのか、次の文章にこそ真崎甚三郎という人物、教育者・真崎の真髄がうかがえます。少々長いですが田崎末松著『評伝真崎甚三郎』から引用させていただきます。・・・

 岡田芳政少尉は大正13年5月、士官学校を御賜で卒業した親任少尉である。原隊である歩兵第八連隊(大阪)で初年兵教育を命ぜられてハリ切っていた。初年兵を受け入れた中隊では、まず新兵の一人一人を呼んで入隊についての宣誓書に記名捺印させていたのであるが、唯一人、どうしてもそれを承諾しない新兵がいた。その説得に延々三時間を費やしていたのである。連隊本部ではこの宣誓書の捺印が全部終了したことを師団司令部に報告することによって恒例の初年兵入隊の行事は一切完了することになっている。ところが岡田少尉の所属する第十中隊からは午前中にくるはずの完了報告が午後二時になっても到達しないので、まだかまだかの矢の催促。岡田少尉は焦慮しながらも、士官学校で鍛えられた精神でもってすれば、これくらいなことは必ず説得できるという信念を持って辛抱強く説き続ける。だが、この新兵はアナーキスト系の要注意人物で、はじめから計画的であった。だから二人の会話は平行線をたどりながら延々三時間にも及んでいるのである。その時である。荒々しくドアをおしあけて一人の古参中尉が飛び込んできた。「まだ押さんのか」と言いながら、くだんの兵隊の胸ぐらをつかんだと見るや、やにわに腰投げでもって床にたたきつけた。途端「ハイ。わかりました」と起き上った兵隊は簡単に捺印した。一瞬の出来事である。唖然としたのは岡田少尉である。誠心誠意、皇軍の使命から説くこと三時間、それでもなお説得することが出来なかった一人の新兵の心が、一瞬の暴力によって、いとも簡単に屈服せしめられたというこの眼前の事実。幼年学校から士官学校と七年間にわたって体得した軍人精神、自他共に微動だにしない堅確なものと信ぜられていたこの信念に対する懐疑と挫折感とが電流のように彼の胸元をつらぬいた。期待が大きかっただけに失望もまた大きい。こうしてしばらくの間、将校として味わった失意の初体験をかみしめていたとき、あることが天啓のようにひらめいた。「諸子は将校として一人だちの勤務をするときには、さまざまな困難に遭遇することであろう。そしてそれは、この士官学校において習得した軍事知識や体験だけでは解決し得ない多くの要素を含んでいることであろう。そのためには、諸子はさらにより広く深く学ばなければならない。・・・一層の努力を要望する。もし、考えあぐねるような悩みや困難にぶつかった場合には、いつでも本官を訪ねるがよい・・・」。卒業の際に餞けとして語られた士官学校本科長・真崎少将の言葉である。彼は矢も楯もたまらず、三日間の休暇を得て東京四谷信濃町にある真崎少将宅を訪れた。

 やがて帰宅した真崎は、軍服も脱がず彼の前に腰をおろすや、例の吶々(とつとつ)とした調子で諄々として諭すように説いた。「貴官の当面の悩みである宣誓書についてであるが、そもそも兵役に服するということは、日本においては国民の権利であり義務でもある。この当然な権利であり義務である入隊に際して宣誓書をとるなどということは理にあわない話である。これは市井の浮浪者や博徒どもを徴募した鎮台当時の遺物である。実質的には何ら意味も価値もないのである。入隊のため営門に入るときがすなわちその権利と義務の完全な履行ということになる。自分が陸軍省軍事課員であったころ、この無用の慣習を廃止すべく、いくたびか上司に建言したが、その都度、老将軍たちの反対にあって今日にいたっている。このことはなにも意に介するほどのことではない。だが、重要なことは、部下を心服せしめる指揮掌握の根源として統率の本義ということである」。

 ここで真崎は膝を正してあらためて語り始めた。「教育というものは被教育者の美点を発見してやることである。教育者は、被教育者の地位に身を置かなければ教育は出来ない。教官が怒ってしまうようでは兵隊の教育が出来るだろうか。・・・日本の軍隊教育は、ドイツの直訳移入ではいけないのだ。ドイツの操典によると、初年兵の第一期の検問期間は、徹底的に兵隊の欠点を指摘せよということになっている。しかしだ。国民性の異なるドイツのやり方をしては教育の効果はあがらぬ。ドイツの国民は合理性、理論的の国民であるが、日本の国民性は感情的であるから、徹底的に欠点を指摘してはならない。むしろ美点を指摘すべきである。かりに、教育には有形の教育と無形の教育があるとして、剣術とか武術とかいうような有形の教育において欠点を指摘するのはよいとしても、無形の教育、心の面まで立ち入って欠点のみを指摘したならば決して効果はあがらぬ。・・・兵営で朝夕点呼を行うのは人員を掌握するがためではない。そんなことは既に掌握されておらねばならぬことであって、点呼のときには、兵員の健康状態、精神状態等を知ることに注意をすべきものだ。逃亡兵の出る心配のあるような軍は皇軍ではない。初年兵の中には教官をだまして教練をサボるようなものもあるだろうが、知らぬふりをしてサボらせておくがよい。人間というものは、三回と人をだませるものではない・・・」。

 真崎の話は、さらに彼独自の国体観から発する、軍隊内務における命令服従と責任についての見解を、文字通り夜を徹して語り続けた。外はいつしか白んだ。牛乳配達や新聞配達の通る音がしはじめた。「お客様はお疲れでございましょう」朝食を運んできた信千代夫人の声によって中断されるまで、彼の話はとどまることはなかった。一新品少尉に対する将軍のこの真剣なる態度。岡田少尉はすっかり感動して心服してしまった。これが教育者真崎の一面である。一人岡田に対するだけではない。昭和二年八月、第八師団長として弘前に栄転するまでの四カ年を将校生徒の教育のために心血をそそいだのである。・・・・・

 真崎が陸軍大学校に入校して在学中に日露戦争が起きました。そのため歩兵第四十六連隊中隊長として出征しました。真崎は戦功により尉官としては最高の功四級金鵄勲章を授けられました。しかし、真崎はこの戦功のことについては家人に何一つ語りませんでした。ただ、戦争を体験した結果「戦争はするべきものではない」としみじみ語っていたという。とくに瞬間の間に斃れていく部下や同僚の死を前にして、生命のはかなさを嘆じ、そこから「人間というものはいつでもはっきりした死生観をもつべきだ」と悟ったという。その真崎大将が二・ニ六事件で収監されて間もなくのことであります。真崎大将の信千代夫人ら家族がそれぞれの手紙や歌を送ってきました。その中に小学校の二年か三年であった五女の喜久代の一首がありました。君のため国のためにと つくす人を うたがい見れば後悔をする 純真な幼児のこの歌の中にこそ、君国奉公の精神を刻み込んできた真崎大将の真の姿を見る思いであります。ーーー引用終わりーーー


 三浦芳聖伝 50、眞崎大将を見舞う(串呂哲学研究ノート№172)」。

 昭和20年(1945年)8月24日、三浦芳聖は、萩村の寓居に於て、天照大御神から御神諭を賜り、切腹自裁を50日間の断飲断食に替え、更に石清水八幡宮に参篭して、世界に二人と無い実証として、真夏の烈日を凝視直拝出来るようになった芳聖が、 その後のある日、眞崎元大将を訪ねた。眞崎甚三郎元陸軍大将は、三浦芳聖の戦前の皇国維新運動時代の最も信頼関係にあった同志でした。三浦芳聖は、御神諭拝賜の経緯を説明し「天照大御神から汝が神皇正統のスメラミコトだと言われた!」と打ち明けると、眞崎元大将は、「私はそれを信じます!」と言われ、芳聖は眞崎元大将と手を取り合って感泣し合ったという。下記は、三浦芳聖の著書からの引用です。眞崎甚三郎研究の貴重な資料です。
 「最後の最後まで三浦家こそ神皇正統家であると大確信を持ちながら永眠されたのが、眞崎甚三郎元大将であります。眞崎大将は二・二六事件で現天王に死刑にせられようとしたが、近衛公のお蔭で助かり投獄されまして、獄舎に於て、『私は今まで地位も名誉も望んだことなく、ただ天子様の為のみを思ってきた。然るに陛下は私を死刑になさろうとされたが、果たして神というものがあるのだろうか』と思われ、断飲断食をせられたのであります。そして、ほとんど死んだようになっておられた21日目に観音様の御姿をはっきりと御覧になったのです。その時『自分としては少しの邪心も持たず、至誠一貫してきたが、私の至誠が解らない様な天子様があるものだろうかと言ったら、観世音菩薩は『今の天皇は本当の天皇ではない。本当の天皇は他(ほか)にあるぞよ!と仰せになった。この事は私の妻にも誰にも今まで語ったことはない』と。私が終戦直後、神皇正統嫡皇孫天津日嗣の天皇であると言って行ったときにそう言っておられました。そしてその時は『今も今とて後醍醐天皇のような天皇がお出ましになられなければ、もう日本はだめだと思っている所へあなたが来て下さった。荒木や山本はあなたが神皇正統嫡皇孫だという事を、すぐには信じないかも知れないが、私は信じる』と言われました」。

 (三浦芳聖著『神風串呂』第135号/1966年、5~6頁、改行、句読点、送り仮名を補い数字はアラビア数字に変換するなど編集替えしている)

 上記のような関係で、芳聖は、戦後も眞崎元大将と主に文通で交流を続けた。そんな昭和26年のある日、「眞崎さん危篤」の電報に接し、芳聖は門人2名を随行せしめてお見舞に行き延命祭祀を実施した。下記は三浦芳聖の著書からの引用。
 「元陸軍大将・眞崎甚三郎さんとは、昭和2年陸軍士官学校の校長をしておられる当時から実に親子の間がらにも等しい程の昵懇でありましたが、この方は実に高潔な方でありまして、二・二六事件の青年将校あたりが、ああ云う高潔な方が総理大臣になられて日本の政治をやって下さったならば必ず良くなるであろうと要望し、神の如くに慕った人格高潔にして、その風貌は日露戦争の時の総司令官大山元帥の如き方でありました。この方が私を深く信頼せられまして、私も又この高潔な人格に深く敬重致しまして昭和2年以来刎頸(ふんけい)の交わりをして来たのであります。

 ところがたまたま昭和26年、私が太陽凝視直拝の行を致して居りました当時、眞崎さん危篤の電報を受取りまして直ちに上京致しました処、すでに臨終を告げられ、まわりの者は念仏を申して、カンジヨリで水を口元へ当てており、眞崎さんはもう人事不省におちいって殆ど虫の息になって居られました。そこで私は特にその場に立会って居られた医学博士に懇請(こんせい)を致しまして、眞崎さんの枕元で最高の大祓い神事を厳修致しまするや病状一変し奇跡的にも全快を致されまして、その後5年間寿命が延びられたのであります」。

 (三浦芳聖著『神風串呂』第131号5~6頁/1966年、改行、句読点、送り仮名を補い数字はアラビア数字に変換するなど編集替えしている)

 お見舞いに行った時に、眞崎元大将の長女「みよ子」さんが芳聖の母親の御影(生き写し)であることが判明し、その神風串呂が解明された。 まことに不思議な事に、芳聖は、その時「串呂の虫」が飛んできて、「真崎」をはじめとする地名に止り、串呂線上を這って行ったと述べている。 下記は、三浦芳聖の著書からの引用。
 「その際、丁度私が祭祀を終わりまして後ろを向いた時に、私の瞼の母親が目に映ったので、これは聖母が後ろにいて私の祭祀を助けて下さったのであると思いましたが、霊眼ではなくて現実の人物であることが分かりました。私は早速眞崎さんの奥さんに「この方は?」と尋ねましたところ長女であると云う事でありました。『それではこの方は大正六年二黒土星巳年生まれですか?』と尋ねると、『そんな事までお分かりですか』と驚かれるので、『いや、実は私の母親が明治14年二黒土星巳年でありましたが、全く瓜二つによく似ておられるからであります』と言って、随行していった古澤・鈴木の両名に地図を出させますと、その当時は私の知らない地名は綺麗な虫がどこからともなく飛んで来まして串呂を知らせてくれましたが、その当時もその虫が飛んで来まして全然知らなかった三保の松原の突端の「真崎」という所へ止ったのであります。『こんな所に真崎と云う所がある!』と思わず叫ぶと、九分九厘まで死んだ様になって居られた眞崎さんが聞き耳を立てて『真崎という所があるかぁ』と言われたので皆びっくりしてしまいました。そして串呂の虫がはって行く処へ糸を引いて見ますと、やがてそれは私の聖母の神戸の墓へ行ったのであります。そして串呂をよく見ますと私の降誕致しました牧平の『大門』即ち三浦皇統家四百六十年間の蒙塵の府であった愛知県額田郡額田町大字牧平字『大門』へピシンと串呂して居ります。そこで私は『眞崎何と仰っしゃいますか』と聞くと、『みよ子と申します』と申されましたが、ピシッと三重県阿山郡伊賀町の『御代』を串り、神戸市の『御影』という所を串つて居りました。 真崎御代さんが聖母の生写真、即ち御影(みかげ)であると云う神風串呂であります。 この時、私が48才の時であります。思い起こせば私が10才、聖母が33才の時に生き別れをして、私はお寺へ行ったのでありましたけれども、その瞼の母親を見る心地がして思わず泣いたのであります」。

 (三浦芳聖著『神風串呂』第131号6~7頁、昭和41年6月発行、改行、句読点、送り仮名を補い数字はアラビア数字に変換するなど編集替えしている)








(私論.私見)