東照宮御實紀巻1巻




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 2013.11.01日 れんだいこ拝


【東照宮御実紀考】
 「東照宮御實紀卷一」を転載する。(れんだいこ文法に則り書き改める)
 東照宮御実紀卷一

 かけまくもかしこき東照宮のよって出させ給ふその源を考へ奉れば、天地ひらけはじめてより五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど、御諱惟仁と申しき。これは文徳天皇第四の皇子、御母は染殿后藤原氏明子と聞えし太政大臣良房の女なり。このみかどを後に淸和天皇と称し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿、兵部卿、常陸大守を経給ひ桃園の親王と号せらる。親王の御子二人おはす経基、経主と云う。経基王は淸和のみかどの御孫にて第六の親王の御子たるゆへ六孫王と称し奉る。この王はじめて源の氏を賜はり筑前、伊予、但馬、美濃、武蔵、下野、信濃等を歴任し、太宰大貳、左衛門権佐、式部少輔、內蔵頭等を累任せられ、鎭守府の將軍に補し、正四位上に叙せらる。これぞ後の世に云う源氏の武者の始めなりける。後に神霊をあがめて六宮権現といつぎ祭られ、旧邸の地を蘭若となし、大通寺遍照心院と号す。

 経基王の御子八人。満仲、満政、満季、満実、満快、満生、満重、満賴と云う。長子満仲朝臣、朱雀、村上、冷泉、圓融、花山、一条の五朝に歴仕し、春宮帯刀の長より兵庫右馬允、兵部少輔、春宮亮、治部大輔、左馬権頭、蔵人頭、摂津、越前、伊予、美濃、武蔵、下野、信濃、陸奥等の守、常陸、上總の介に累遷し、正四位上に昇られ、老年の後多田院を造営し、剃髮して多田新発知満慶と称す。

 満仲の子六人。賴光、賴親、源、賢賴信、賴平、賴範と云う。第四の子賴信、一条、三条、後一条、後朱雀の四朝に仕え、従四位上、伊勢、美濃、河內、甲斐、信濃、相摸、下野、伊予等の守、上野、常陸の介、刑部民部の丞、左衛門尉、兵部治部少輔、皇后宮亮、左馬権頭、冷泉院の判官代、鎮守府将軍に補任し內の昇殿を許さる。河內国壺井の通法寺にをさめ今に祀典絕えず。賴信の子賴義、河內、伊豆、甲斐、信濃、武蔵、下野、陸奥、出羽、相摸、伊予等の守、常陸上野介を歴て、左近将監、兵庫允、左衛門尉、民部少輔、左馬頭、小一条院判官代、鎮守府将軍になり、正四位下に叙し內院の昇殿を許されしが、鎮守府に年を経ること九年にして、夷族安倍貞任を征討して功勲世に著し。

 賴義の子三人。義家、義綱、義光と云う。義家はそのはじめ石淸水の宝殿にして元服せられしかば八幡太郞とは称せられき。この人世々にこえて弓矢の道にすぐれ、胆略またゆゝしかりしかば、東国の武者贄をとりて御家人と称するもの少からず。正四位下、左衞門尉、左馬頭、左近將監、治部兵部の少輔、武蔵、相摸、陸奥、出羽、下野、河內、伊予等の守を経て鎭守府の將軍たり。弱冠の昔、父賴義に従い奥に下り、九年の苦戦に勇略をあらはしければ、東奥の夷これを恐るゝ事鬼神の如し。また東奥の任にありて淸原家衡、武衡を攻め伏せてその武威いよいよ輝やけり。

 義家の子六人。義宗、義親、義国、義忠、義時、義隆と云う。第三の子義国は従五位下、帯刀長、加賀介、式部大輔。ゆへありて都を出下野国に下り、足利の别莊に幽居し、薙髮して荒加賀入道と称しける。その子義重、義康、季邦とて三人あり。長子義重に新田の庄を譲り、次子義康に足利の庄を譲られける。新田足利の両流に分るゝは本源こゝに起れり。義重幼より新田にありて新田太郞と名乗り、叙爵して大炊助に任じ、後入道して上西と号し上野国新田郡寺尾の城に住す。この時都には平相国凈海入道すでに薨じ、平氏やゝ衰ふるしるしあらはれしかば、諸国の源氏蜂起するに及びて義家朝臣の曾孫賴朝、伊豆国蛭小島より旗挙げして諸国の源氏をつのられしに、上西入道もとより自立の志ありし故にその招に応ぜざりしかば、終に鎌倉幕府に於てもしたしまれず。これしかしながら新田一流の祖なれば、はるか年へだてゝ慶長十六年に鎮守府将軍を贈り給へり。

 入道の子七人。義俊、義兼、義範、義季、経義、義光、義佐と云う。四郞義季は鎌倉幕府に給事し、常に供奉の列に候し、右大將家入洛の時も騎馬の隨兵たり。後に髮きり捨て新田大入道と号す。新田庄世良田の鄕徳川の邑に住せられしより、その子孫徳川世良田を称する事とはなりぬ。

 義季の子三人。賴氏、賴有、賴成と云う。長子賴氏、始は世良田孫四郞と云う。鎌倉將軍賴嗣並びに宗尊親王に仕へ結番衆に加へられ、従五位下三河守に叙任す。世良田長楽寺に寺領寄附の文書を蔵せり。賴氏の子経氏、教氏、有氏とす(大系図には経氏を江田三郞満氏とす)。二子教氏は世良田次郞とも又三河次郞とも称し、また徳川を称し、後に靜眞と号す(この二世三河守に任じ三河次郞と称ぜられしも、後に三河にて龍起し給ふ先徴とすぺし。豈に奇遇ならずや)。 

 教氏の子を家時とす。世良田又次郞また孫太郞とも称し父に先だちてうせらる(長楽寺へ父教氏寄附ありし文書に見えき)。家時の子を満義とす。世良田彌次郞また孫四郞とも云う。新田左中將義貞に属し、南朝に仕へて忠勤を励みしが、義貞うせられし後一族と同じく上野国に帰り、新田世良田徳川の間に隱れ住む。後に宗満と号す(世にはこの満義を太平記にのせし江田三郞光義とす。又教氏の弟三郞有氏の子江田弾正行氏を光義の事なりとも云う。いづれ是なりや)。

 満義の子二人、政義、義秋と云う。(大系図第十三にのする所かくのことし。第四には政義をのぞきて義秋のみを記す。德川系図、新田松平譜、大成記等に載する所も前說の如くなれば今これに随う。三家考に満義の子義周、その子義時、その子政義とす。諸說と大に異なり。ゆへに今はこれをとらず) 政義は右京亮と云う(政義のこと家忠日記大成記にその伝詳に載せず。波合記と云えるものには、政義南朝の尹良親王(後醍醐天皇には御孫、宗良親王には御子なり)の御子。良王を守護し、三河に伴い参らせんとして波合にて討ち死にされたりと見ゆ。徳川松平の家譜と大同小異なり。鎌倉大草紙に永徳の頃、新田一門波合にて皆な討ち死にせられしに、新田義宗の子相摸守義陸の討ちもらされ、後に相州箱根底倉にて尋ね出し討たれたりとみえ、底倉記には義陸を脇屋右衛門佐義治の子とし、母を世良田右京亮女とみえたり。又義陸奥州霊山にて旗挙げありし時、上野の世良田大炊助政義、桃井右京亮等をかたらはれしよし見ゆ。ともにこの政義の御事なるは疑いなく見ゆ)。

 政義の子を修理亮親季と云う。親季の子を左京亮有親とす。有親の子を三郞親氏と云う。新田の庄に潜み住まれたりしが、京鎌倉より新田の党類を捜索ひまなかりしかば、この危難を避けんがため故鄕をさすらへ出られ(大成記に上杉禪秀が方人せられしゆへ捜索しきりなれば、父子孫三人東西に立ち分かれ世を避け時宗の僧となられしよし有りと云えども、鎌倉大双紙、底倉記、喜連川譜等によるに、小山犬若丸に方人して奥州に下り、新田義陸を大將と守り立てんとせられしに、その事ならずして新田、小山、田村党皆々散々に行方知らずとあり。今藤沢寺に存する御願文を合せ考ふるに、小山が一乱より捜索厳なる事となりしは疑いなし。波合記に親季は尹良親王の御供にて討死の列に見ゆ。また親季の御遺骨を有親首にかけ三河に来り給い、称名寺御寄寓の間これを寺內に葬られしとて、その墳今も称名寺に存す) 時宗の僧となり山林抖藪のさまをまねび、父子こゝにかしこに隠れ忍び給ひけるが、宗門のちなみによて三河国大浜の称名寺に寄寓せられ、こゝにうき年月を送られし間に、有親は失せ給ひしかば、その寺に葬り後に松樹院殿とをくりぬ。

 又この国酒井村と云えるに、五郞左衛門と云いて頗る豪富の者あり。この者親氏の容貌骨柄唯人ならざるを見しり、請け迎えてをのが女にあはせ男子を設く。徳太郞忠広(又小五郞親淸とも伝う。これ今の世の酒井が家の祖なり)と云う。さて五郞左衞門の女はこの男子を生みし後ほどなく失せしに、その頃同国松平村に太郞左衞門信重とて、これも近国にかくれなき富豪なり。たゞ一人の女子ありしが、いかなるゆへにか婚嫁を求むる者あまたありしを許さで年を経しに、今親氏やもめ居し給ふを見て、その女にあはせて家を譲らんと請うこと頻なり。親氏もとより大志おはしければ、かの酒井村にて設け給ひし忠広に酒井の家を譲り、その身は信重が懇願にまかせ松平村に移り、その女を妻としその讓を受けて松平太郞左衛門と名のられけるが、松平酒井両家ともにきはめて家富財豊かなりし程に、貧をめぐみ窮を賑はすをもてつとめとせられ、近鄕の旧家古族は云うに及ばず、少しも豪俊の聞えある者は子とし聟としちなみを結ばれしほどに、近鄕のものども君父の如く親しみなつかざるはなし。

 親氏ある時、親族知音を会し宴を催しもてなされて後、吾つらつら世の有り樣をみるに、元弘建武に皇統南北に别れてより天下一日もしづかならず。まして応仁以来長祿寬正の今に至りて、足利將軍家政柄を失はれし後海內一統に瓦解し、臣は主を殺し子は父を追ひ、人倫の道絕え万民塗炭の苦しみを受くること今日より甚しきはなし。吾また淸和源氏の嫡流新田の正統なり。何ぞよく久しく草間に埋伏し空しく光陰を送らんや。今より志を合わせ約を固めて近国を伐りなびけ、民の艱難を救ひ武名を後世に残さむと思うはいかにとありしかば、衆人もとより父母の如く思い親しむ事なれば、いかでいなむものゝあるべき、いづれも一命を投げうち身に叶へる勤労をいたすべしとうけがひしかば、かねて慈惠を蒙りたる近鄕の者ども、招かざるに集まり来しほどに、まづ近鄕に威をたくまじうする者の方へ押し寄せて、降参する者をば味方となし、命に逆らう者は伐り従えられしかば、ほどなく岩津、竹谷、形原、大給、御油、深溝、能見、岡崎辺りまでも、大畧はその威望に服しける(当家発祥その源はこの時よりと知られける)。卒去有りて松平鄕高月院に葬り、芳樹院殿と謚せり。親氏の子を泰親とす(一說御弟なりと云う)。その跡を継ぎて是も太郞左衛門と称せらる。父親氏の志を継ぎ、弱を救い强を伐りて貧を惠み飢を救われしほどに、衆人の従いなびく事有りしにかはらず。

 その頃、洞院中納言実熙と云える公卿、三河国に下り年月閑居ありしに、(世には実熙三河に左遷ありしよし伝ふると云えども、応仁より後は都争乱の巷となり、公卿の所領は皆な武家に押領せられ、縉紳の徒都に住みわびて、ゆかりもとめ遠国に身を寄せたる者少からず。この卿も三河国には庄園のありしゆへ、こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし) 泰親この卿の沉淪を憐れみ懇に扶助せられ、既に帰洛の時も国人あまた従え都まで送られしかば、卿もあつくその恩に感じ、帰京の後公武に請ひて泰親を三河一国の眼代に任ぜられしかば、これより三河守と称せらる。この時、岩津、岡崎に両城を築き、岩津に自ら住し、岡崎にはその子信光を居住せしめらる。

 泰親の子六人。長子信広に松平鄕を譲り、松平太郞左衛門と称す(今三河の鄕士松平太郞左衛門が祖なり)。二男は和泉守信光。殊更豪勇たるをもて嗣子と定めらる。三男は遠江守益親、四男は出雲守家久、五男は筑前守家弘、六男は備中守久親とす。泰親卒去ありてこれも高月院に葬り、良祥院殿とをくらる。信光家継ぎて岩津、岡崎の両城主たり。この人螽斯の化を得て男女の子四十八人までおはしければ、この時よりぞいよいよその一門は国中に滋蔓し、ますます近国近鄕その威望かくれなく、国人帰降するもの多かりき。先嫡男は左京亮守家(これを竹谷松平と云う。松平哲吉守誠等今その後なり)、二男は右京亮親忠。これを嗣子とし岩津の城を譲らる。三男光直は釈門に入りて安穩寺昌龍と号す。四男佐渡守興副(形原の松平と云う。今紀伊守信豪が祖)、五男紀伊守光重(大草の松平と云う。壹岐守正朝志摩守重成等この孫なりしが、この筋今は絕えたり)、六男八郞左衛門光英、七男彌三郞元芳(御油の松平と云う。深溝の松平と云うもこの筋なり。今図書頭忠命等は御油の統。主殿頭忠侯は深溝の統なり)、八男次郞右衛門光親(能見の松平と云う。次郞右衛門光福。河內守親良等の祖なり)、九男美作守家勝、十男修理亮親正、十一男源七郞親則(長沢の松平と云う。この統は嫡家絕て今松平伊豆守信祝この筋とす)。この外はその名つまびらかならず。

 この時、畠山加賀守某が安祥の城を攻め拔かれ、その外所々攻め取りて三河国三分一を領せらる(蜷川親元記に松平和泉入道と見えしは信光の事にて、かの書に入道をして三州の反徒を征せしむる足利家の奉書を載す)。岩津の信光明寺をいとなみ、卒して後こゝに葬り崇岳院殿とをくりぬ。二男親忠その跡をつがる。子九人。太郞親長は岩津を領せられ、二男源次郞乗元(後加賀守)大給を領す(大給の松平と云う。和泉守乗完等の祖)、三男次郞長親をもて家督と定めらる、四男彌八郞親房(後玄蕃助)、五男は釈氏に帰し超誉と号し知恩院の住職たり。六男刑部丞親光(西福釜の松平と云う)。七男左馬助(長家安祥と称す)、八男右京亮張忠、九男加賀右衛門乘淸瀧脇の松平と云う(監物乗道、丹後守信徳等が祖)。

 明応二年十月の頃、三河国上野城主阿部孫次郞、寺部城主鈴木日向守、擧母城主中条出羽守、伊保城主三宅加賀守、八草の城主那須宗左衛門など云える輩、謀を合せて岩津の城を攻めんとて押し寄せけるに、親忠一門家兵を引率し井田の鄕に出張し、わづかに百四十余の兵をもて三千に余る寄せ手を散々に追いちらし、敵の首五十余級を討ちとらる。この後は西三河の国人大半は帰降し勢いかめしく聞えける。この合戦に討ち死にせし敵味方の骸を埋め、額田郡骸鴨田と云へる地に大樹寺を到建せらる。後に家を三子長親に譲り入道して西忠と号せらる。卒去の後大樹寺に葬り松安院殿と贈りなせり(大樹寺を香火院とせらるゝ事こゝにおこる)。

 長親譲りを受けて出雲守と称し安祥に住せらる。子五人。長子を次郞三郞信忠、二男右京亮親盛(福釜の松平と云う)。三男は內膳正信定(桜井の松平と云う。遠江守忠吉が祖)、四男甚太郞義春(東條の松平と云う)、五男彥四郞利長(藤井の松平と云う。伊賀守忠優、山城守信寳等が祖)、長親また慈愛深く武勇も卓絕なりしかば、衆よくなびき従う。

 この頃、今川修理大夫氏親駿遠両国を領し、三河も過半はその旗下に属しけるが、近来西三河は云うまでもなし。東三河の国士どもやゝもすれば今川を去りて長親に従がはむとする樣なるを見て大いに驚き、その所属北条新九郞入道早雲を將とし一万余の兵を率して、永正三年八月廿日、庶兄太郞親長が籠りたる岩津の城を攻め囲む。長親これを救はむと安祥より討って出、岩津の後詰めして早雲が大軍を迫ひ払はる。この勢に恐怖して東三河の輩多くその旗下に従いける。さるに長親は早く遁世の志ありしかば、未だ壯の齡にてかざりをおろし道関と号し、長子忠信に家を譲られ、所領悉く庶子に分かち授け、風月を友とし連歌を楽しみ、八十余りの壽を保ち、曾孫広忠卿の御時までながらへて、天文十三年八月廿一日、終をとらる。大樹寺に葬りて掉舟院殿と云へり。

 信忠家を継がれし後蔵人また右京と称せらる。子三人。長子は次郞三郞淸康君、二男は蔵人信孝(三木の松平と云う)、三男は十郞三郞康孝(鵜殿の松平と云う)、信忠は少しおちゐぬ心ばへにおはしければ、新降の国人共やうやう背きけるほどに、譜代の郞党に至るまでもふさはしからず思うさまなりしかば、信忠その機を察せられ、何事も残り多き齡ながら、僅十三になり給ふ淸康に世を譲り、頭おろし春夢と号し大浜の称名寺に閑居ありしが、四十に一二余りしほどにて享祿四年七月廿四日、父道関入道に先立ちて失せられしかば、これも大樹寺に葬り安栖院殿とをくりき。

 その太郞淸康君、これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日、十三歲にて世を継がせ給ふ。幼より武勇膽略なみなみならず万にいみじくわたらせ給へば、御內外樣のともがらもこの君成長ましまさば、終に中国に旗挙げし給ふべしと末賴もしく思ひ、なびき従う事父祖にもこえ、信忠の御時に離散せし者どもゝ、再び来りて旗下に属する輩少からず、岡崎並びに山中の両城主松平弾正左衛門信貞入道昌安は、信忠の時より背き参らせ自立の威をふるひしに、淸康君十四歲にてこれを攻めんとて、元老大久保左衛門五郞忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ、難なく山中城を攻め拔かれ、猛威に乘じ終に岡崎を攻められしに、昌安入道敵しがたく思い、をのが最愛の女子をもて淸康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひかしば、これを許され、その女を迎えて北の方となされ、岡崎の城を受け取りて御身は猶安祥におはしける(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが、信光の時五男紀伊守光重に譲り給ひ、昌安入道までこゝにありしが、このとき再びこの城本家に帰せしなり)。世には安祥の三郞殿と称しその武威を恐れける。

 享祿二年五月の頃 三河は皆な御手に属しければ、これより東三河を打ち従え三州を一統せられんとの御志にて、牧野伝蔵信成が吉田の城を乗っとらんとて、安祥を打ち立ち給ふ。信成終にかけまけて、兄弟をはじめ主従悉く討ち死にす。かくて淸康君は直に吉田川の上の瀨を押し渡し吉田の城に攻め寄せ給ふ。城兵一防にも及はず落ち行けば、淸康君その城に入て人馬の息を休め、一両日の後田原の城に押し寄せ給ふ。城主戶田弾正少弼憲光大いに恐れ、これも忽に降参す。本多縫殿助正忠はをのが伊奈の城に迎えて酒勧め奉る。淸康君はこの勢に乘じ近辺の城々に押し寄せ攻め抜き給ふ。破竹の如き勢に辟易して、牛久保の牧野新次郞貞成、設楽の設楽神三郞貞重、西鄕の西鄕新太郞信貞、二連木の戶田丹波守宜光、田峰野田の菅沼新八郞定則、その外山家、三方、築手、長間、西郡の輩風を望みて帰降す。

 享祿二年、尾張の織田備後守信秀が抱えたる岩崎野呂(一に科野につくる)を攻め抜き、同じく三年に熊谷備中守直盛が宇野の城を落としいれ給ふ。天文二年、広瀨の三宅寺部の鈴木等と戦て敵皆な敗走し、その冬、信州の大軍を迫い払はる。これを聞きて甲斐の武田大膳大夫信虎使者を進めらせ隣好を結ぶ。この猛威に恐怖して織田信秀が弟孫三郞信光、美濃の国士数十人語らひ、淸康君へ志を運び、もし尾州へ御出勢あらんには先鋒たらん事を請う。淸康君もとより望む所の幸なりと、一万余の軍勢にて、天文四年十二月、尾州へ発向し給はむと、まづ森山へ着陣あれば、美濃の国士共も皆なこゝに参り、贄をとりて拜謁し、やがて信秀を淸洲より引き出さんと、謀をめぐらし近鄕を放火せらる。しかるに叔父內膳正信定もとより腹黒き者なりしが、いつしか志を変じ織田方に內通し、安祥の虚を窺い本家を奪はむと姦計をめぐらす由聞えければ、淸康君も酒井大久保など云える旧臣等の諫めに従い、先ず軍をかへさるべきに定まりぬ。

 その頃、阿倍大蔵定吉と云える、御家に年ふるおとななりけるが、この者織田に內通するとの流說陣中に紛々たり。定吉大いに驚きその子彌七を近寄せ、我不幸にしてかゝる飛語を受くる事死しても猶恨みあり。我もし不慮に誅を蒙るとも、汝はいかにもして世にながらへ、父が寃をすゝぐべしと泣く泣く庭訓せり。その翌五日の朝陣中に馬を取り放し以の外騷動す。 

 淸康君これを制し給はんと外のかたに立ち出給ひ、木戶を閉めよ取り逃がすなと指揮し給へる御声を聞きて、かの彌七は父大蔵唯今誅せらるゝ事とや思いけん、淸康君の立ち給ふ御後ろに走り寄りて、御肩先より左の脇の番をかけ、たゞ一刀に切り付けたり。鬼神を欺く英傑もあえなく討たれて倒れ給ふ。そこらつどひ集まれる者ども、だゞあきれはてたるより外の事なし。扈従に植村新六郞とて十六歲の若者、御刀とりて御かたはらに控えしが、その御刀の鞘をはづしあやまたず彌七を切り伏せたり。衆人この時に至りかの大蔵を捉え糺問するに、定吉ありし事ども隠さず物語り、吾にをいてはたとひ寃罪をもて誅を蒙るまでも、君に二心を抱く者ならず。しかしながら愚昧の彌七君を弑する大逆無道、その父の定吉かくて有べきにあらずとて、首をはねらるべしと思ひ切りて詞を放てば、聴人もさすが定吉を誅するにも及ばず、ともかくも道関入道殿の御沙汰に任すべし、敵またこの虚に乘じ追い討ちせんは必定なれば、急ぎ君の御なきがらを守護し、軍を全くして一時も早く帰国せむにはしかずと、衆軍俄に周章狼狽し、鎧の袖を涙に沾しながら引き返す。後の世まで森山崩れと云い伝えしはこの時の事なりとぞ。 

 淸康君はじめには昌安入道が息女(春姬と申せしなり)を迎え北方と定め給ひしかど、琴瑟の和し給はざる故やありけむ。仲睦まじからず、後近鄕の鄕士靑木築後守貞景が女をもて北方となさる。この腹に贈大納言広忠卿生れさせ給ふ。これ東照宮の御父なり。この北方は御産後にとく失せ給ひしかば、又三州刈屋の水野右衛門大夫忠政が離婚せし、大河內左衛門尉元綱が女をめとり給う。こは尾州宮の城主岡本善七郞秀成にはかりあはせ給い迎えとらせ給ひしとぞ(世にこの大河內氏を水野忠政が寡婦なりと記せしもの多し。淸康君逝去は天文四年十二月五日、忠政の死は同十二年七月十二日なれば、淸康君におくるゝ事九年にして死せしなり。忠政が未亡人にあらざる事明けらけし。玉輿志に忠政が離别の婦と有をもて実とす。今これに随う)。 

 かくて御家人等深く御喪を秘して岡崎に立ち帰り、そのほとり菅生の丸山にをいて烟となし参らせ、御骨をば大樹寺に納め、善徳院殿とをくり奉る(大樹寺の記かくの如し。隨念寺記に菅生丸山に御火葬して、その地に御塚ありしゆへ、烈祖永祿四年、隨念寺をその地に造営し給ふと見え、又大林寺の記にははじめの北方春姬。御離婚の後も貞操を守り二度他へ嫁せず。淸康君御事ありし後、御骨をその香火院なればとて大林寺に葬りしかば、今も御夫婦の御墓大林寺に存するよし記す。今思うに御荼毘の後御分骨ありて、三所に葬りたるものなるべし)。この君時に廿五歲、さしも軍謀武略世にすぐれかしこくわたらせ給ひしを、惜しみてもなを余りある御事なり。三河にては祖父の入道をはじめ聞き召し驚き、上下たゞ火をけちたる如く驚歎して、ものも云われず泣きしづみたるもことはりなり。森山より帰りし御家人、かの大蔵が事を入道に申して御下知を乞いしに、入道泣く泣く仰せけるは、彌七が大罪全く狂気の致す所なれば、父大蔵が罪にあらず、大蔵は旧に変わらず忠勤を尽すべしと仰せければ、定吉は蘇生をしたるごとく深くその恩に感ぜしとぞ。

 かくてもさのみはいかゞとて、広忠卿その頃は未だ仙千代とていとけなくおはしけるを主となし、御家人各々かしづき御成長をぞ待にける。この卿は大永六年四月廿九日、生れ給ひ、今年はわづかに十歲にならせ給う。御弟二人御妹一人あり。その一人は源次郞信康、その次は釈門に入りて後に大樹寺の住職となり成誉と号す。御妹ハはじめ長沢の松平上野介康高の妻となり、後に酒井左衛門尉忠次の妻となる。

 さて天文五年二月のはじめ、織田信秀は淸康君の御事を聞き定め、今は岡崎も空虚なるべし、西三河を併呑せん事この時にありと、八千の人数をして三河に発向せしむ。岡崎がた小勢なりといへども、さすが故君の御居城を敵の馬蹄にかけん事口惜しと、宗徒の輩血をすゝつて誓をなし、井田鄕にをいて敵を迎えて决戦し、思いの外に切り勝ちて織田勢大いに敗走す。しかれども味方にも林植村高力など云える究竟のともがら四十人余戦沒す。かの內膳信定は淸康君の御時より叛心をいだき織田方へ內通しけるが、淸康御事ありし後また奸計を廻らし、老父の入道へしきりにこびへつらひて、今は幼君の後見となり、岡崎の政務を専らにし、何事も思うまゝに振る舞えば、御家人等もせん方なく今は信定を尊敬する事主の如く、敢てその命に背く者なし。

 阿倍定吉は信定がめざましき振る舞い多きを見て、かくては幼君の御ため終にあしかりなんとて、密かに仙千代君を伴い岡崎を逐電す。こゝに伊勢神戶城主東条右兵衛督持広は、淸康君の御妹聟なれば、定吉、幼主を持広に賴みしばし神戶に忍び居りたり。持広夫婦は仙千代君を我子の如くいたはり、こゝにて首服を加え、をのが一字を参らせ、二郞三郞広忠君とぞ名のらせたり。しかるに持広いく程なく病沒し、その子上野介義安は父の志を背き織田方に內通し、広忠卿を生け取りて織田方へ人質にせんと聞えしかば、定吉大に驚きまた広忠卿を伴い神戶を逃げ出て、遠州懸塚の鍛冶が家にしばらく忍ばせ奉り、その身駿河に行きて今川治部大輔義元を頼み、広忠卿御帰国の事を請う。

 義元もとより近国を併呑し終には中国に旗を立んとの素志なれば、速に定吉が請う所を許したり。定吉が弟四郞兵衛忠次も兄と志を同じくして遠近を駆けめぐり、岡崎の御家人等を密かにすゝめて心を尽しける。御叔父蔵人信孝、十郞康孝、その外林、大原、成瀨、八国、大久保党等これに応じ、若君当家の正統にましませば、国に迎へ奉らん事を議しあひ、今川義元は広忠卿を帰国せしめ、岡崎をはじめ三州一円をのが旗下に属せしめん下心なれば、東三河与力の士をかり催して、先ず広忠卿を三州牟呂の城に入り参らせ、広忠卿に陪従せし御家人等を先鋒とし、織田方旗下に属したる東条の城主吉良左兵衛佐義鄕を攻めしめ義鄕も討ち死にす。

 信定これを聞き驚き、若君を国に入らしめじと樣々心構えせしかど、譜代の御家人一致して天文六年五月朔日、終に広忠卿を岡崎に迎へ入れ奉る(この時軍功の輩に賜りし御感状今林肥後守忠英が家に存せり)。信定も今は力及ばず又老父入道に頼りて、広忠卿へ降参しいく程なく病没せり。この後岡崎には蔵人信孝、十郞三郞康孝両叔父を後見とし、大蔵定吉等おもふまゝに軍国の事をとり行ふ。淸康君後の北方(華陽院殿御事なり)、未だ水野忠政が元におはしける頃設け給へる御女あり(伝通院殿御事なり)。定吉はじめ酒井石川等のおとなどもの計ひにてこの御女を迎えとり、広忠卿の北方となし奉る。

 天文十一年十二月廿六日、この御腹に若君安らかにあれましける。これぞ天下無彊の大統を開かせ給ふ当家の烈祖東照宮にぞましましける。その程の奇瑞様々世に伝ふる所多し(北方鳳来寺峰の藥師に御祈願ありて、七日満願の夜、藥師十二神將の寅神を授け給ふと見給ひしより、身重くならせ給ふなど、日光山の御縁起にも記されし事多し)。石川安芸守淸兼蟇目をなし、酒井雅楽助正親胞刀を奉る。御七夜に竹千代君と御名参らせらる。こゝに御母北方の御父水野忠政卒して後、その子下野守信元は今川方を背き織田方にくみせられぬ。広忠卿聞き給ひ、吾今川の與国たることは人も皆な知る所なり。然るに今織田方に內通する信元が縁に結ぼふるべきにあらずとて、北方を水野が家に送り帰さるゝに定まりぬ。これは竹千代君三の御歲なり。御母子の御別れを惜しみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。

 さてその日になれば金田阿倍など云える御家人等を添えられて、北方を御輿に乗せて刈屋へ送りつかはさる。北方途中に於て送りの人々に仰せけるは、わが兄下野殿は極めて短慮の人なり。汝等我を送り来りたりと聞けば、定めて憤りて一々切りて捨てらるゝか、又は髮を剃りて追放し辱しむるか。二の外には出べからず、左もあらんにはわらはこそ縁尽くして兄の元に帰さるゝとも、竹千代を岡崎にとゞめをけば、岡崎の者を他人とは思はず、そのうへ下野殿と竹千代とは叔姪の中なれば、終には和睦せらるべし。下野殿今汝等を誅せられんに於ては後に和睦の妨げとなるべし。とくわらはを捨て帰るべしとて、いかに申せども聞き入れ給はねば、御送りのともがらもせんかたなく、その所の民どもに御輿をわたし御暇は申しけれど、猶心ならねば片山林の陰に身を潜め窺い居りたりしに、はたして刈屋より混甲二三十人出来たり。御送りの者ことごとく討ちて捨てよと下野守殿仰せを受けて来たりしに、御送りの岡崎士等はいづかたにあるやといぶかる。北方御輿の中より彼らを召して、岡崎の者どもは早くわらはを捨てゝ帰りしが、今程ははや岡崎へや至りつらん、追いかけても及ぶまじと仰せければ、刈屋の者ども力なく御輿を守護して刈屋へ帰りたり。この北方の姉君は形原の紀伊守家広の妻なりしが、家広も広忠卿既に北方を御離婚ありしに、我又水野が縁につらなるべからずとて、その妻をも刈屋に送り帰したりしに、信元大いに怒りて送りの者一人も残さず伐りて捨つ。こゝに於て後までも、広忠卿の北方は女ながらも、海道一の弓取と呼ばれ給ふ名將の母君ほどましまして、いみじき御思慮かなと世にも聞き伝えて感歎せぬはなかりけり。 

 広忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人女君三人おはしたり。御男子は家元、後に康元、生涯足なえて世に出で人にも交り給はず。後に正光院とをくり参らす。女君は多刧姬と申す。桜井の松平與一忠政に嫁せられ、後にその弟與一郞忠吉に合はせ給ひ、その後また保科弾正忠光に降嫁せらる(藩翰譜に正光に降嫁ありし烈祖の御妹は、伝通院殿。久松が元にて設け給へる所と云うは誤りなり)。その次は市塲殿とて荒川甲斐守賴持(又義虎)に嫁し給ひ、後に筒井紀伊守政行に嫁ぎ給ふ。その次は矢田姬と申し、長沢の源七郞康忠に嫁ぎし給いき。広忠卿にはこの後田原の城主戶田弾正少弼康光の女を迎え給ひしかど、この御腹には御子もましまさず、福釜の甚三郞信乗が子兵庫の頭親良と云えるも、桑谷の右京大夫忠政と云えるも、內藤豊前守信成と云えるも、実はこの卿の御子なりしとも伝えたり。

 十四年弥生の頃、御家人岩松八弥何のゆへもなく、御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ逃げいでたり(隣国より賴まれて刺客となりしと云う)。御かたはらの者共驚ききあはてゝ追いかくる。卿も御はかせとらせ給ひ、逃がさじと追い出給ひしかど、御股の疵痛ませ給へば追い付け給はず、この時も植村新六郞外のかたより来ながら、思わず八弥と行きあひしまゝをし捉え、共にからぼりの中に落ちいり、終に組み敷きて八弥を伐ちはたす。この植村先に淸康君御事ありし時は阿倍弥七を即座に伐りとめ、今度また八弥をもその座をさらず首をとり、二代の主君の御仇を即時に誅しける冥加の武士と、感じ羨まぬ者ぞなかりける。

 このほど織田信秀は尾州より三州を併呑せんと頻りに謀をめぐらしけるに、三州にても上和田城主三左衛門忠倫、上野の城主酒井将監忠尙等をはじめ、ここに內応する徒も少なからず。こゝに又蔵人信孝は広忠卿を翼立せし功により、その威権肩をならぶる者なかりしかば、縱恣の振る舞い多かりしを、大蔵定吉はじめ老臣共かねて睦まじからず互に猜忌し、信孝が矯逸そのまゝに捨てをかれば、昔の內膳信定が再び生せしご如くならんと、よりよりに広忠卿をも諌めたり。

 十六年正月頃、卿御病悩にわたらせ給へば、御名代として信孝を今川が元へ歲首の御使に赴むかしめ、その跡にて信孝が三木の領地を沒入しければ信孝帰りて大に驚き、吾翼立の功ありて罪なし、何の故にかく所領を沒入せられしぞ、これは定めて吾を憎しと思ふ大蔵等が讒訴の致すところならむとて樣々陳謝すれども、これを取り次ぐ者もなければ、終に憤りにたへずして、これも織田方に內応の志を抱きけり。このほど道関入道殿も失せ給へば、織田信秀よろこび大方ならず、今は三州を侵掠せむこと心やすしと先ず安祥を攻め落し、その子三郞五郞信広をこめ置く。渡理筒針に砦を構え、上和田に三左衛門忠倫、上野に酒井將監忠尙を置きて掎角の勢を張れば、元の信定が子內膳淸定、山中の権兵衛等もこれに応じ、岡崎孤城となりて甚危し。国中大に乱れて明けても暮れても互の争戦止む時なし。この時、筧平三郞重忠は岡崎の御家人なりしが僞りて忠倫に降参し、親しみつよて忠倫を刺し殺す。今度反逆の首長忠倫討たれしかば、岡崎方は大に悅び織田方は援助を失ひしに、信秀大に怒り、さらば自ら大軍を率し三州に出陣し、岡崎を攻めぬかんと用意する由聞えしかば、岡崎にも是を防がむとすれども衆寡敵しがたく、今川が元へ援兵を請わる。

 義元聞きて人質を請いけれは、竹千代君わづかに六歲にならせ給ふを、駿州に質子たるべしとの事に定まり、石川與七郞数正、天野三之助康景、上田万五郞元次入道慶宗、金田與三右衛門正房、松平與市忠正、平岩七之助親吉、榊原平七郞忠正、江原孫三郞利全等すべて廿八人、雜兵五十余人、阿部甚五郞正宣が子徳千代(伊予守正勝なり)六歲なりしを遊びの友として御輿に同じく乗せてつかはさる。こゝに田原の戶田弾正少弼康光は広忠卿今の北方の御父なれば、この御ゆかりをもて、陸地は敵地多し、船にて我領地より送り申さんと約し、西郡より吉田へ入らせ給ふ所を、康光ハその子五郞政直と心を合わせ、御供の人々を偽りたばかり船に乗せて尾州熱田に送り、織田信秀に渡しければ、信秀悅び大方ならず。熱田の加藤図書順盛が元へ預け置きしとぞ。

 かくて信秀より岡崎へ使いを立て、幼息竹千代は我膝下に預り置きたり。今にをいては今川が與国を離れ我が方に降参あるべし。もし又そのことかなはざらんには、幼息の一命給わりなんと申し送りたり。卿その使に対面し給ひ、愚息が事は織田方へ質子に送るにあらず。今川へ質子たらしむるに、不義の戶田婚姻の誼を忘れ、中途にして奪い取りて尾州に送る所なり。広忠一子の愛にひかれ、義元多年の旧好を変ずべからず。愚息が一命は霜台の思慮にまかせらるべしと返答し給へば、信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。竹千代君を失い奉らんともせず、名古屋万松寺天王坊に押し込め置きて、勤番厳しく付け置きしとぞ。

 今川義元も卿の義心に感じ、さらば援兵つかはすべしとて、遠江並びに東三河の勢を差し向け、三州小豆坂にて織田勢と合戦し、織田方終に引き返す。蔵人信孝織田方へ內通すといへども、三左衞門忠倫討たれし後は同志のともがら衰落するを憤り、自ら大明寺村に打ちて出あえなく討たれ、権兵衛重弘も山中城より落うせしかば、織田方にはいよいよ大軍を起し岡崎へ乱入せんとすれば、岡崎にも防戦の用意専らにすといへども、織田方は大軍、岡崎は小勢なれば、いかがはからはんと上下心を悩ます。その中に広忠卿には去年以来御心地例ならずましまししが、日にそひおもらせ給ひ、天文十八年三月六日、廿四歲にて失せ給ふ。三十にさへみちたまはで引き続きかくならせ給ふを、一門御家人等嘆き悲しまぬ者もなし。やがて大樹寺におさめ進めらす。大樹寺大林寺松応寺の旧記を合わせ考るに、この時織田方は岡崎を攻め亡さんとする事急にて、再び今川へ加勢を請い給う最中、広忠卿逝去ましましけるゆへ、御家人等この事織田方へ聞えんことを恐れ、その頃深く御帰依ありし法蔵寺教翁和尙と內話し、岡崎近き大林寺にて後のわざし、能見の原に內葬して後、今川へもその旨告やり大樹寺に葬礼を行ひぬ。年経て後能見の原御密葬の地にも一宇を造営あり。松応寺これなりと云う)。  

 慈光院殿と送り又瑞雲院殿とも申し、慶長十六年、大一統の後にぞ、大納言を送られ大樹寺殿と号し給う。今川義元こゝに於て大軍を起し、岡崎の兵を加えて二万余騎、織田信広がこもりたる安祥へ押し寄せ、本丸を殘しその外二三の丸まで攻め落し、今川方の總将雪斎和尙がはからひにて、信広と竹千代君と人質替えの事を申し送りける。織田も備後守信秀この春病沒し長子信長家継ぎしが、もとより勇銳の大將なれば、庶兄信広が安祥にて今川勢に囲まれ窘困すると聞きて、これを救はんため尾州を発し鳴海まで出陣せしが、安祥既に陥ると聞きて引き返さんとするところに、今川が使者至り人質替えの事を申しければ、信長も悅びて約を定め十一月十日、三河の西野笠寺まで竹千代君を送り参らすれば、こなたよりも大久保新八郞忠俊など云える岡崎譜代のつはもの出迎え受け取りて、信広をば織田方へ引き渡す。  

 君は天文十六年、六歲にて尾州の擒とならせられ、八歲にして今年はじめて御帰国あれば、御家人は云うまでもなし岡崎近鄕の土民までも君の御帰国をよろこぶ所に、今川義元岡崎の老臣等に、竹千代未だ幼稚のほどは義元預かりて後見せむと申し送り、十一月廿二日、竹千代君また駿府へ赴き給ひしかば、義元は少将宮町と云う所に君を置き参らせ、岡崎へは駿河より城代を置きて、国中の事今は義元思うまゝにはかり、御家人等をも毎度合戦の先鋒に用ひたり。  

 君かくて十九の御歲まで今川が元にわたらせらる。その間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。(伊東法師が記せし書に、広忠卿失せ給ひ、竹千代君未だ御幼稚なれば、敵国の間にはさまりとても独立すべきにあらず。織田方に降参せんと云うもあり。又は今川は旧好の與国なれば、今川に従はんこそ旧主の遺旨にもかなはめと云うもありて群議一决せざる間に、義元逸早く岡崎へ人数を指し向け城を勤番させければ、岡崎の御家人等は力及ばず。何事も義元が下知に属したりと見ゆ。これ說これなるに似たり)







(私論.私見)