れんだいこの信長論



 更新日/2018(平成30).12.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「れんだいこの織田信長論」をものしておくことにする。

 2013.11.01日 れんだいこ拝


れんだいこのカンテラ時評bP182  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月 1日
 れんだいこの信長論その1、織田信長研究論

 このところイエズス会考をブログしてみた。この流れで織田信長を確認しようと思う。信長のバテレン被れとバテレン離れの相克を検証してみたいからである。何より信長は戦国末期政治史の中心(芯)に位置している。彼を研究することにより戦国末期の政治史が良く見えてくる。例えて言えば、富士山を理解するのに、実際に登山し、頂上から見れば全景が良く見えるのに似ている。先に清河八郎論で、幕末史は清河八郎の活動歴から見ればよく見えると述べたが、同じ意味合いで信長の動きを見れば戦国末期史の流れが能く見える。こういう「高見できる人物」はそう居る訳ではない。

 これが「れんだいこの信長研究」の動機である。2013(平成25)年、63歳の時、これに着手する。役に立たない国際ユダ屋お仕着せの学問に慣らされた分、本来は歴史好きのれんだいこが関心を払わぬようになり、遅くなった嫌いはあるが今気づいたのが幸いである。別に遅過ぎることはないと思う。

 れんだいこの信長論は、その生涯履歴を、「履歴考1(上洛まで)」、「履歴考2(上洛以降安土城普請まで)」、「履歴考3(安土城普請以降光秀の謀反まで)」、「履歴考4(光秀の謀反から本能寺の変まで)」、「履歴考5(本能寺の変後の政争史)」の5本立てとする。この仕分けの方が結節が能く見えるからである。基本的には天下布武の顛末史となる。

 信長ありせばこその秀吉の天下統一であり、三百年近く続くことになる家康の江戸幕府開設であったことを考えると意義深い。留意すべきは、この時代は、世界史的には大航海時代と云われる西欧列強による世界の植民地化が押し寄せていた。西欧列強を背後で操るのは国際ユダ邪であり、日本も狙われていた。この危機をどう切り抜けたかが見ものとなっている。結果的に鎖国体制を敷いたが、これにより得た得失を当時の歴史軸で評価し、今日の歴史軸で改めて問い直したいと思う。「当時の歴史軸での評価なしの今日的歴史軸見解」が流布されることが多いが、凡愚の見立てと云わざるを得まい。

 戦国末期史の研究が何故に重要か。それは1543−44(天文12−13)年頃の鉄砲伝来、イエズス会宣教師ザビエル来日から始まる国際ユダ邪の日本攻略の轍(てつ)が2013現在の日本政治史に合わせ鏡となっているからである。

 1945年の大東亜戦争での敗戦以来、日本は直接間接に国際ユダ邪の露骨な対日攻略の軛(くびき)に置かれてきた。その結果の2013政治となっている。これから如何に逃れるのか、日本を再生させるのかの恰好教材として戦国末期史の研究が要請されていると了解している。その為には、冒頭で述べたように織田信長論から入るのが最も適切であろう。その他の戦国武将論、史実論、事件論は、その延長線上で交合させれば良いと思う。

 もし仮に、先行する同視点啓蒙書があれば幸いである。それを下敷きに註釈替えして行けば良いからである。ざっとネット情報に目を通してみたがない。書籍では立花京子著「信長と十字架」(集英社、2004年初版)があるようではある。他に非常に精緻な研究書はあるようである。しかし精緻過ぎて却って焦点が分からなくなるきらいがある。

 それに何よりバテレン被れ下の天下布武史と、バテレン離れ後の安土城築城から本能寺の変までの流れとの緊張感がないままの長文饒舌記録では読むのに辟易するだけのことになる。そういうものはそういうものとして有益であろうが、市井人の我らは却って遠ざかってしまう。そういう意味で、重要史を押えながら分かり易く知って為になる必読本信長論を綴って行きたいと思う。

 ここまでを織田信長研究論とし、以下、織田信長論とする。サイトは下記の通り。今は出来立てほやほやだから全く不十分ではあるけれども。

 別章【織田信長】
 (rekishi/sengokukinokenkyu/sengokudaimyoco/
odanobunagaco/top.html

【れんだいこの信長論その2、織田信長のバテレン離れ考】
 信長の履歴については別稿で確認する。これを踏まえて興味深いところは、信長がバテレン勢力の後押しを得ながら天下布武を押し進め、比叡山焼き討ちを経て安土城築城の頃よりバテレン勢力と距離を保ち始め、やがて決別に向かう経緯である。信長は本能寺の変で討ち取られたが、仮にこの事件に遭遇していなかったとすれば秀吉より早く伴天連追放令を打ち出していた可能性が高い。信長のこの変転史を確認したい。この見地こそが信長論の要諦であろう。以下、まず信長とバテレンの蜜月時代を確認する。次に相対的自律時代を確認する。最後に死闘時代を確認する。

 信長とバテレンの蜜月時代は、記録上は**から始まる。

 相対的自律時代は。

 死闘時代は。

 以上から何を窺うべきか。これは極めて現代史に繋がるテーマである。国際ユダ屋の下僕として仕えている現代政治家に信長の爪の垢でも煎じて飲ませたいところである。

【立花京子著書「信長と十字架」考】
 「信長と十字架〜立花京子〜その1」その他を参照する。

 立花京子氏は、著書「信長と十字架」で、信長とイエズス会の関係を明らかにしている。イエズス会の宣教師達の残した日記、信長と親交のあった人の手紙を丹念に読み取り、時間的前後関係を明らかにした上で、実際に何が起こったのかを推論した。「扉」は次のように記している。
 「『天下布武』の理念を掲げて、ポルトガル商人やイエズス会をはじめとする南欧勢力のために立ちあがった信長は、彼らによって抹殺された―。信長研究に新風を吹き込んできた注目の研究者が、この驚愕の結論を本書で導きだした」。

 信長は、南欧勢力と密接に関連しながら全国制覇を目指し、やがて彼らによって抹殺されるというセンセーショナルな論考が進められる。

 それによると、当時、スペイン、ポルトガルは植民地主義の下、次々に「新たに発見した土地」を自分のものとし巨額の富を得ていた。その手段としてイエズス会の布教活動を利用し、その活動を経済的に支えていた。実際、中南米ではそのようにしてイエズス会が尖兵になり植民地を次々開拓していった。要するに「南欧グローバリゼーション」である。両国にとって最も欲しかったのは中国であった。しかし、当時の明をいきなり植民地化するのは難事業で、そのため日本にキリスト教国家を誕生させ、その日本に朝鮮、そして中国を占領させ、その後で用済みになった日本を切り捨て・・・というシナリオを書いていた形跡が認められる。そのための第一歩が日本の統一であり、白羽の矢を立てたのが信長だった。次のように記している。
 「1492年のコロンブスの『新大陸発見』以後、十六世紀に入ってからのイベリア両国が中南米、インド、フィリピンにおいて展開した大植民地化政策は、カトリック布教を先兵として展開されていた。・・・彼らによって突き動かされた、グローバリゼーションの大きなうねりが、安土にまで押し寄せていたのは明らかであった。」(p190)

 信長はバテレンたちの背後に居るポルトガル王国、ローマ法王から、軍事、経済援助を得る代わりに、キリスト教を保護し布教活動を援助するという契約を交わしたのではないかと推察できる。信長にとって、宣教師達を介して銃、大砲の入手、金銭的援助も得られるメリットがあった。このような軍事的金銭的メリットは他のキリシタン大名も得ていた。信長がイエズス会に多大な便宜を図っていた理由はこれで納得がいく。実際、この時代のイエズス会宣教師は武器を売りさばく「死の商人」であり、その「死の商人」を利用したのが信長だった。信長は、その見返りにイエズス会に、イエズス会のために天下統一することを約束した。だからこそ他を圧倒する武力と戦費が得られた。その他の大名にとって現金収入は年貢だけであり、その収入だけでは長年の戦闘を維持することは不可能だった。信長は「天下布武」の印文を用いていくことになるが、その印形は、仏教においては完全を意味する「円」ではなく,キリスト教の影響を色濃く受けた「楕円」であった。

 比叡山焼き討ちや、本願寺との戦いにつき、定説は、宗勢力が信長に恭順を示さない為にやったとしているが、立花氏は、信長の残忍さだけはで説明がつきにくく、南蛮人に対する契約を果たしたという所が強いのではないかと推理している。信長による、武器援助を見返りとしたイエズス会の布教と連動した仏教弾圧であったとの見解を提示する.キリスト教の宣教師からの何らかの教唆があったとすれば、説得力が増す。「信長はイエズス会の支援によって全国制覇に挑戦しただけでなく、イエズス会のために立ち上がった武将」としている。

 フロイスの日本史には「信長は毛利を平定し、日本六十六ヶ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国の子息たちに分ち与える考えであった」と記されている。イエズス会はザビエル以来中国大陸での布教を最終目標としていた。日本への布教はその拠点的役割の確保と云う狙いがあった。織田信長が全国平定を考えたのも本能寺の変も、その後の羽柴秀吉の登場も、すべてイエズス会、スペイン・ポルトガルが仕組んだものと考えられる。

 ところが途中から信長は暴走し始め、イエズス会にとって困った存在となった。信長にとってイエズス会とは金と武器を出してくれる便利な存在であり、キリスト教の教えはどうでもいい事だった。その結果、イエズス会は邪魔者でしかない信長暗殺を画策し、明智光秀に信長討伐を命じるように朝廷に裏で働きかける。光秀が信長を裏切った原因として、これまでは信長に恥をかかされた私怨が原因と説明されてきたが動機としてあまりに弱い。「信長亡き後はお前を日本国の国王にしよう」と耳打ちされたのであれば十分納得できると思う。次のように記している。
 「織田信長という存在は、大航海時代と時を同じくするイエズス会と南欧諸国による世界制覇の尖兵であった。経済的にも理念的にも南欧グローバリゼーションによって支えられていた存在であったが、独自の基盤を築き、そこから逸脱しようとしたことにより本能寺の変が演出され暗殺された」。

 伝統的秩序の改変を迫られ存続自体も危ういことが予想される事態に陥った朝廷は、誠仁親王と一部の公家、討伐者光秀による信長打倒を目論む。その黒幕も、やはりイエズス会.イエズス会の支援を受けて全国制覇を成し遂げつつあるなかで、総見寺を建立し自らの誕生日に礼拝を命令した信長に対する懲罰が,本能寺の変につながったと解釈する。しかも光秀を討伐者に仕立てあげる一方で、その光秀を始末する秀吉を準備する周到さがあったというから驚愕する.

 イエズス会の陰謀は秀吉による光秀殺害も仕組んでいた。秀吉は当時、中国地方に出兵していたが、信長討たれるの知らせを聞き、数日で大群を戻し光秀を討った。いわゆる「秀吉 中国大返し」である。しかし、当時は通信手段はなく、なぜ秀吉がこれほど速く情報を入手できたのかは謎である。しかし、事前に「信長暗殺」が知らされていたのなら,これは謎でもなんでもない。そういえば秀吉と毛利の和睦のタイミングもあまりに良すぎる。要するに、「主殺し」の悪人である光秀をトップに据えるのでなく、「主の敵を討った忠義者」をトップに据えなければ、その後の統治がうまくいくわけがないと黒幕は考えた。要するに明智光秀はイエズス会にとって単なる捨て駒だった。であれば、かつて信長のブレーンとして活躍し、イエズス会とも密着していた武将達が、信長の死後、秀吉に何事もなかったかのように従属したのも納得できる。彼らは信長の使えていたのでなく、金と武器を調達してくれるイエズス会の言いなりになっていただけのことだった。

 秀吉の無謀な朝鮮出兵も、宣教師による海外情報から決意されたのかもしれない。また、堺では、千利休のまわりにキリシタンが何人もおり、洗礼の儀式の一部が茶の湯の作法に取り入れられているという話もある。戦国時代、および安土・桃山時代は、日本人が最も活動的であった時代だが、キリスト教文明の影響は非常に大きく、後の江戸幕府は鎖国政策を取らざるをえなくなったのであろう。

【信長の人となり考】
 ここで、信長の人となりを確認する。織田信長に関する資料・文献として歴史的評価が高い書に、信長の弓取衆であった大田牛一の記した信長公記とイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記した日本史がある。「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス)」 という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは松浦静山「甲子夜話」に収録された、当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である。この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨がないと批判するものである。

 前置きをこれぐらいにしてフロイス著書「日本史」に記された信長像を確認する。ちなみに、フロイスの「日本史」は今日的な意味では「CIAレポート」と思えばよい。
 「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。

 酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。

 彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で
相撲をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。

 彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。彼は戦争においては甚だ大胆であり、寛大、且つ才略に長け、生来の叡智によって日本の人心を支配する術を心得ており、後には公方様(将軍足利義昭)まで都から追放し、日本王国を意味する、天下と称せられる諸国を征服し始めた。名声と評判と地位を拡大し、やがて日本の四十を超える諸国を征服して自らの支配下に置く事に至った。さらにその権力を誇示すべく各地方おいて特筆に価する多くの事を行った」。

  「信長公記・首巻」に、尾張の僧侶・天沢が甲斐を訪れた際、武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ次のように述べたと記されている。これを確認する。
 「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を橋本一巴、弓を市川大介、兵法を平田三位に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆松井友閑をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」。

 青年の頃は、女子と見まがう美男子であったとする記録もある。身長は約170cm程度で、500m向こうから声が聞こえたという逸話があるほど、かなり甲高い声であったという。

【信長の政治能力考】
 信長は領内の治安維持に対して殊の外厳格であった。二条城築城のとき、信長は自ら工事現場の監督を担当していた。このとき、人夫が女性にちょっかいを出していたのを見て、有無を言わさず首を刎ねている。

 信長の側から盟約、和睦を破った事は一度もない。逆に、信長と和睦した後に叛旗を翻した者は多い。例外として、浅井氏と不戦の盟約を交わしていたが反故にした事例がある。但し、これは浅井氏が同盟していた朝倉氏を討つためのやむを得ないものであった。

 羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等、家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、秀吉を呼び出して厳しく叱責し、ねねに対しては励ましの手紙を送るなど人情味を見せている。

 最大の同盟者である徳川家康に対する信義は殊の外厚かった。家康が武田信玄に敗北した三方ヶ原の戦いにおいて家臣に戦死者も出さず撤退した佐久間信盛に対して激しく非難している。第一次高天神城の戦いで、武田勝頼率いる武田勢の大軍に包囲され、高天神城への増援が間に合わず奪われたことに対し、二人がかりでなければ運べない程の黄金を詰めた革袋を二袋、家康に贈与して謝意を示している。天正10年、武田氏滅亡後に信長は東海道から帰京しているが、その際に家康から富士見物や大井川の舟橋など巨費を投じた盛大な接待を受けている。そのお返しとして、家康上洛を要請し、その際には、街道の整備や通過地の大名に接待役を命じ、信長自ら食膳を用意するなど盛大な接待を行っている。この隙に本能寺の変が勃発するのは衆知の通りである。

 アレッサンドロ・ヴァリニャーノが信長に謁見する為に安土城を訪れた際、一人の黒人がその宣教師に同行していた。信長は宣教師との会話後、後ろに控えていた黒人に興味を覚え、「なぜその様な肌色をしているのか」を質問している。ヴァリニャーノが「生まれた時からこの様な色でございます」と答えたところ、信長は家来に命じて黒人の背中を洗わせている。いくら洗っても肌は黒色であったのを確認した後、信長は得心している。ちなみに、この黒人は身長六尺二分(約182..44cm)の大男で怪力であった。信長はこの者を引き取り、名を弥助と改め側近にしたと云われている。弥助は本能寺の変の際にも信長に同行しており、明智の軍勢を相手に最後まで奮戦したと伝えられる。

 信長は、宣教師の献上した地球儀、時計、地図などを見て、初めての西洋文物であつたにも拘わらず理解した。「理にかなっている」との言を遺している。南蛮品の中でも興味のない物は受け取らず、フロイスから南蛮の目覚まし時計を献上された際には、扱いや修理が難しかろうという理由で返している。信長はお返しとしてローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っている。実際に届いたのは信長の死後の1585(天正13)年であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。フロイスはバナナも献上しており、記録に残っている中では信長がバナナを初めて食べた日本人となっている。

【信長の政策能力考】
 信長の宗教政策を確認しておく。

 信長は、桶狭間の合戦の際に途中で熱田神宮に立ち寄って必勝を祈願している。戦後、戦勝御礼として奉納した塀が信長塀として今で残っている。この事例は、信長の神道尊崇精神を窺わせる。他にも荒廃していた石清水八幡宮の修復に巨費を投じたり、120年間途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮を復活させるなど神道復興への功績が大きい。

 次に仏教に対する態度を確認しておく。宗門は法華宗を公称していた。安土城天主内の天井、壁画に仏教、道教、儒教を題材とした絵画を使用しており、それらに好意的な関心を寄せていたことが分かる。判明することは、宗教活動自体は公認していることである。一向一揆や延暦寺に対する容赦ない制裁は政治第一主義であったことを教える。政治の前に立ちはだかるものに対しては徹底的な殲滅を措置して憚ることがなかった。その際、信長が嫌ったのは宗教ではなく、当時の僧侶の堕落と横暴であったと思われる。但し、天台宗の比叡山延暦寺や一向宗の本願寺に対する厳しい姿勢は対立関係にあったイエズス会の差し金によったと思われる。仏教勢力の腐敗を弾劾する他方でキリスト教の宣教師に対しては誉めている。但し、或るキリシタンの家臣(馬廻)が愛人と同居している事を知ると、教えに従っていない事を指摘し、宣教師たちが彼を咎めた事を知ると非常に喜んでいる。この家臣が再び愛人と同棲すると俸禄を没収し追放している。

 安土城の石垣に地蔵仏や墓石を用いたことから判明することは、フロイスが指摘しているように唯物論的思考法を身につけていたことによると思われる。1573年、武田信玄が敵対した際に(西上作戦)、民衆は比叡山などを焼いたために神仏の罰がくだったのだと噂したが、信長は「日本においては彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではない」と言ったという。他方、ハ見寺、もしくは安土城内に信長に代わる「梵山」と称する大石を安置して御神体とし、家臣や領民に礼拝するよう言ったと伝えられる。フロイス「日本史」の言によると、神仏の存在や霊魂の不滅を信じることはなかったとされる。

 もう一つ注目すべきことは、宗門の宗義問答に興味を示していることである。判明するだけでも1569(永禄12)年のキリスト教イエズス会と日本仏教の論争となった「フロイスと日乗の宗義論争」、1575(天正3)年の天台宗と真言宗の論争となった「絹衣相論」、 1579(天正7)年の法華宗(日蓮宗)と浄土宗の論争となった「安土宗論」が記録されている。政治権力者が「宗門の宗義問答」に感心を見せた例は少なく信長政治の独特性を証している。

 信長の朝廷政策を確認しておく。

 信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。正親町天皇と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり1970年代より活発な論争が行われてきた。谷口克広は、各説を以下のように分類している。対立説は秋田弘毅、朝尾直弘、池亨、今谷明、奥野高廣、立花京子、藤木久志、藤田達生。融和説は桐野作人、谷口克広、橋本政宣、堀新、三鬼清一郎、山本博文、脇田修。

 「正親町天皇の譲位問題」を確認すると、1573(天正元)年12月、信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受諾した。しかし、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。対立説の解釈では、信長は朝廷に対しては金を出すだけでなく、口も出し、信長の言いなりにならない天皇と対立したとされる。また朝尾は、誠仁親王への譲位と足利義尋(足利義昭の子)への将軍宣下を同時に行うことで、信長が両者を包摂した権力者になることを天皇が拒絶したとみている。融和説は、天皇が譲位を希望しながら、信長の経済的事情により実現しなかったとみる。これまで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。天皇の譲位は、信長の経済的助成によりはじめて可能となる。天皇側が譲位を希望しても、信長が同意しない限り譲位は不可能であった。1581(天正9)年の京都御馬揃え直後、正親町天皇から退位の希望が信長に伝えられ、朝廷の内部資料である「お湯殿の上の日記」には同年3.24日に譲位が一旦決定して「めでたいめでたい」とまで記載されたにも関わらず、兼見卿記では4.1日に一転中止になったと記されている。  

 信長の商業政策を確認しておく。

 楽市楽座は信長が最初に行なった経済政策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、近江南部の戦国大名であった六角定頼(信長に滅ぼされた六角義賢の父)が居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を布いたのが初見とされる。今川氏真の富士大宮楽市も早いとされ、安野眞幸の分析では翌年の織田氏など以後の大名による楽市令などに影響を与えたとしている。既存の座・問丸・株仲間独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除して、税の減免を通して自由取引市場をつくることで新興商工業者を育成し経済の活性化を図った。信長は楽市楽座令を出す一方、座に安堵状も出している。ただし座の安堵状の内容が「これまで通りの権利を認める」というものにとどまっているのに対し、楽市だった美濃・加納を楽市楽座に、安土は新しく楽市楽座にするなど「楽座」寄りである。織田信長は、自分自身が美濃国の加納、近江国の安土、金森に楽市・楽座令を布いただけでなく支配下の諸大名に伝達され、各城下町で実施された。但し、これにより領主と特定の商人が関係を結んで御用商人化し、領主の命令を受けて座に代わって市場の支配権を得る例も見られるようになった。楽市楽座は一見上は規制緩和を掲げながら、実態は大名による新たな商業統制策であって江戸時代の幕藩体制における商業統制の先駆けであったとする指摘もある。

 信長は、楽市楽座以外にも、不必要な関所を撤廃して経済と流通を活性化させた(当時は寺社も関所を持って税金を取り立てており、これが仏教勢力との対立にもつながっていると思われる)。質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた撰銭令を発令し、経済の基盤を安定させた。他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である。日本の中央政権としては初めて金銀に貨幣価値を定め、高額品の取引には金銀を使うことを推奨した。その上で信長自身も茶器の購入や家臣への褒美に金銀を多用した。

【信長の文人能力考】
 幸若舞「敦盛」の「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。」という一節をよく舞った。和歌の教養もあり、上京した際に連歌師の里村紹巴から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させたという(信長記)。当時の多くの戦国大名と同じく囲碁を愛好しており、囲碁の「名人」という言葉は信長発祥と云われている(本因坊算砂の項を参照)。大の相撲好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが信長公記から散見される。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという。 

 茶の湯にも大きな関心を示した。これについては、「堺の商人との交渉を有利にするため茶の湯を利用していた」「茶器を家臣への恩賞として利用する目的があった」とする説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている(信長公記より)ことから、もともと信長自身が純粋に茶の湯を楽しんでいたようである。 

 三好義継が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した上で料理を命じた。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒った。坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたと云う。後日談として、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えている。

【信長の大陸侵攻計画考】
 ルイス・フロイスによれば、信長は日本を統一した後、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して明(中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える」と云う対外出兵構想を持っていたという。堀杏庵の「朝鮮征伐記」では、豊臣秀吉が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。秀吉はのちに明・天竺・南蛮を征服せんとして文禄・慶長の役を行う。しかし、これは、信長も秀吉もバテレンに炊きつけられた線を洗う必要がある。

れんだいこのカンテラ時評bP183  投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年11月 4日
 天下取りに挑んだ信長、秀吉、家康の比較考

 ここで少し息抜きの論考をしておく。「戦国期に天下取りに挑んだ信長、秀吉、家康の三将比較」をしておく。これにつき、本人が詠んだものかどうかは別として「ホトトギスの句」がある。知られている割には正確には知られていないので、これを確認する。

 「ホトトギスの句」は、信長、秀吉、家康のそれぞれの気性、生き方、行動をうまく表現しており名句として口ずさみ継がれている。出所は松浦静山「甲子夜話」(かっし・やわ)であり、当時詠み人知らずで伝わった歌として収録されている。これを確認する。

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資料206 鳴かぬなら……(「ほととぎす」の句)の「連歌その心自然に顯はるゝ事 『耳袋』巻の八より」その他である。(「時鳥」、「杜鵑」、「郭公」と書き分けられているが、読み易くする為「ホトトギス」と書き直す)
 「古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、恐れながら~君(家康)御參会の時、卯月のころ、いまだホトトギスを聞かずとの物語いでけるに、信長『鳴かずんば 殺してしまへホトトギス』とありしに、秀吉『なかずとも なかせて聞こうホトトギス』とありしに、『なかぬなら なく時聞こうホトトギス』とあそばされしは~君の由。自然とその御コ化の温順なる、又殘忍、廣量なる所、その自然をあらはしたるが、紹巴(じょうは)もその席にありて、『なかぬなら 鳴かぬのもよしホトトギス』と吟じけるとや」。

 「甲子夜話五十三」の「鳴かぬなら」は次のように記している。
 「夜話のとき、或る人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、その人の情実に能く恊へりとなん。郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、『なかぬなら 殺してしまへホトトギス 織田右府』、『鳴かずとも なかして見せふホトトギス 豊太閤』、『鳴かぬなら 鳴くまで待よホトトギス 大権現様』。このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、もとより仮托のことなれば作家を記せず。『なかぬなら 鳥屋へやれよホトトギス』、『なかぬなら貰て置けよホトトギス』。

 この「ホトトギスの句」が、現在では以下のようななめらかな口調の歌にされて伝えられている。
 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス    (信長)
 鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ホトトギス (秀吉)
 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス   (家康)

 「戦国期に天下取りに挑んだ信長、秀吉、家康の三将比較」につき、他にも三人の戦国武将が天下統一とどのようにかかわったのか次の歌で表現され伝えられている。
 「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは家康」。

 つまり、織田信長が準備し、羽柴(豊臣秀吉)が完成させた天下統一を忍耐し続けた家康が手に入れたと詠んでいる。史実を確認すれば、信長が足利政権を滅ぼし織田政権を展望中、本能寺の変で最後を遂げた。この間、旧体制を革命的に改変し新時代の基礎を築いた。豊臣秀吉が信長の事業を受け継ぎ、信長的軍事力にのみ頼らず巧みな人心収攬術を駆使して天下統一を成し遂げた。

 徳川家康は信長や秀吉との関係を良好に保ちつつ時期が来るの待った。家康の言「人の一生は重き荷を負うて遠き道に行くが如し」の通りの生き様であった。信長や秀吉に比べて華やかではないが着実を旨とし徳川幕府三百年の支配体制の礎を築いた。この史実を踏まえ巧みに詠んだ名句であろう。

 それにしても、こういう短い韻律句で歴史を伝える日本語は素晴らしいと思う次第である。
 付記。岡潔・著「日本民族の危機―葦牙よ萌えあがれ!」(日新報道、2011.10月初版)が、信長・秀吉・家康の天下取りリレーを考察している。「まるでヘーゲルの歴史哲学のごとく、天が使命を与えた信長・秀吉・家康が、それぞれ与えられた任務を達成した段階で、次なる者へと使命がシフトし、前の者は必然的に表舞台から退場したかのような描き方を、岡先生はしております」と評されている。岡潔によると、信長=打ち砕く人、秀吉=溶かす人、家康=固める人と云う役割分担している。史実の具体的な事件を取り上げつつ三者の行動なり性格分析を行なった論考になっている。

 そんな織田信長を知ることができる書物が「信長公記」(しんちょうこうき)。信長旧臣である太田牛一が書いた織田信長の一代記で江戸時代初期に成立した全16巻。信長の幼少時代から、上洛前までを首巻とし、上洛から本能寺の変までの15年の信長の記録を一年一巻として残している。「信長公記」において、織田信長は、正義を重んじる性格であり、精力的で多忙、道理を重んじる古今無双の英雄として描かれている。信長に対して「上様」、「信長公」、「信長」などと表現が変わっていることも特徴で、様々な時期に書かれたメモを整理し、それらを切り貼りして一冊の本として作り上げた書物であることがわかる。信長だけでなく、信長に離反した荒木村重の妻子を憐れみ、村重と妻との短歌のやり取りを詳細に記している。近年の研究で、年次の誤りが指摘されることもあるが、「信長公記」は他の二次史料とは一線を画す貴重な実録とみられている。他に、1611年(慶長16年)ごろ成立したとされる「甫庵信長記」がある。儒教の影響を受けており、意図的な改竄や虚構があると言われている。1685年(貞享2年)頃成立した「総見記」は、「甫庵信長記」からさらに考証を重ね、同書の訂正・補足を目的として作られている。







(私論.私見)