「フロイスと日乗の宗義論争」



 更新日/2018(平成30).12.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「フロイスと日乗の宗義論争」を確認する。

 2013.08.11日 れんだいこ拝



【ルイス・フロイス神父と日乗の宗義論争その1】
 「ウィキペディアのフロイスと日乗の宗義論争」、「ルイス・フロイスについてフロイスと信長」、「永禄12年宗論に対する基礎的考察」その他を参照する。

 織田信長は日本史上に珍しい論理能力に長け弁証を重視した為政者であった。これによると思われるが、その治下に於いて宗義問答を好んだ。宗義問答とは「教法や宗派に関する論争」であり「教義の異なる宗派間の宗義の優劣、真偽を廻る論争又は法論である」と定義づけられている。信長治下の宗義論争としては1569(永禄12)年の「フロイスと日乗の宗義論争」(キリスト教イエズス会と天台宗の論争)、1575(天正3)年の「絹衣相論」(天台宗と真言宗の論争)、 1579(天正7)年の「安土宗論」(法華宗(日蓮宗)と浄土宗の論争)が記録されている。日本の政治権力者が「宗義問答」に関心を見せた例は少なく、この方面でも信長政治は格別の個性を放っている。ここでは「イエズス会宣教師ルイス・フロイスと仏法僧・日乗の宗義論争」を確認しておく。ちなみに、この当時、イエズス会宣教師と日本仏教各派の論争は各地でかなり為されていたようである。「山口宗論」では、ザビエルやトルレスの事例が報告されている。

 1569(永禄12)年、信長36歳の時、織田信長立会いの下で「ルイス・フロイス神父と日乗の宗義論争」が行われている。日付け、場所については判明していないが推定によると4.20日、場所は妙覚寺とされている。フロイスの「1569.6.1日付け書翰」と「日本史」に記載されている。その他資料も勘案して論争の模様を再現してみる。

 天台宗の僧・朝山日乗(あさやまにちじょう)は一貫して宣教師排斥に動いてと敵対したためであろう、フロイスは耶蘇通信で「日本のアンチキリスト」、「庶民の欺瞞者」、「肉体に宿りたるルシフェル」、「悪魔の化身」などと酷評している。日乗の人となりを次のように記している。
 概要「彼は生来身分の低い家系であり、背が低く、大変醜く、卑しい人物である。また無知で、日本の宗旨に関する学識もなければ教養もない。尤も鋭敏で抜け目のない才能をもっていた。話すことにたいへん自由奔放で、弁舌の才では日本のデモステネスである」。(デモステネスは古代アテネの政治家で、彼の演説は明確で力強かったため古典古代第一流の雄弁家にあげられる)
 「日乗は妻帯者であったが、貧困のため離別し、その後武士となった。しかし、その職にあって幾多の侵略とか殺人の罪を犯し、その罪に対する不安から仏僧になった。衣服を変えはしたが習慣を変えようとはしなかった。そこで彼は羊の皮を着、僧侶となって国から国へと遍歴した。日乗は彼は尼子の国主に叛逆を働いたために山口の国(周防)に逃亡し、毛利元就のところに身を寄せ庇護を受けた。八年か十年前、彼は一片の金襴をここで購入し、他の遠く離れた国々に行った。そして、村や町でそれは内裏が彼に与えた衣服であり、貴重な品として民衆に分けるためにやって来たのだと話した。各々は、その小さな糸のために、財力に応じて一クルザード、二クルザードという額を彼に渡した。これにより彼は莫大な財を手に入れ、山口に小さな僧院を建て、そこで弟子を募った。この時、彼は他に幾千もの悪事や虚偽を行った。彼の邪心は一つの場所に落ち着くことができなかった。彼は邪心を広めるため、三好三人衆が公方を殺した松永久秀を信貴山城で包囲すると、弾正殿が裕福であり、苦境にあるので、日乗に金銭を与えるかもしれないと分かったので、彼は山口の毛利とともに松永久秀宛の書翰を作らせた。それは直ちに兵を率いて加勢するので、三人衆を滅ぼすため日乗上人という仏僧と相談するようにというものであった。フロイスが堺に到着し、そこに滞在していた時、彼は三人衆の間者によって、それらの書状とともに捕らえられた。篠原長房殿がさっそく堺のある僧院で彼を激しく鞭打たせた。彼は山口から返書が来るまで書状のことを否定し、自分を自由にするように六、七千クルザードの賄賂を贈った。しかし、篠原殿はこれを受け取らないばかりか、彼をえたに引き渡すよう命じました。摂津国の西宮という地で、日乗をこの者達に引き渡し、首には鉄製の首輪を付け、手足を縛って堅固な牢に入れた。日乗は内裏が彼の赦免を請うよう策を弄したので、彼の死を強く望んでいた多くの異教徒の意に反して解放された」。

 「言継卿記」という公家の日記の「永禄11.4.15日条」に「朝山日乗上人、去年以来摂州に籠者也。不慮之至也。依勅定遁今日上洛云々」とあり、日乗が摂津で囚われの身となっていたことが裏付けられる。

 それにしても、この書き方は何と悪意のある書き方だろうか。宣教師なる者が、論以前に於いて、論争相手方の人格をこのように落し込める癖を持つことが逆に分かり興味深い。こういう作風には染まりたくないものであるが、こういう論法はバテレンと共に普及し、今日では染まらぬ事例を探す方が難しい。

【ルイス・フロイス神父と日乗の宗義論争その2】
 「ウィキペディア朝山日乗」を参照し、フロイス式日乗観を訂正しておく。但し、ウィキペディアもかなり汚染されており、他の論考を見かけないので、次に記す辺りが精一杯の「正しい日乗観」となる。

 朝山日乗は戦国時代の日蓮宗の僧である。生年は不詳。地下家伝では出雲国朝山郷の領主で尼子家臣だった朝山慶綱の子とされる。これによれば出雲国出身の尼子氏の関係者であったことになる。比叡山で学び、その能力が評価され、第105代(1526(大永6)年−1557(弘治3)年)の後奈良天皇から日乗上人の号を賜っている。この栄誉を得て山口(周防)の毛利氏に抱えられている。ここで小さな僧院を建立している。その後、京に移った日乗は、松永久秀と三好三人衆の戦いに介入しようとし、毛利氏からの書状を久秀に届けようとして三好方の間諜に捕まった。三好家臣の篠原長房は日乗を堺に監禁し、首に鎖をつけ、両袖に1本の長い木を通し、手首をその木に縛り付けて磔のような格好にし、与えられる食事もわずかという状態で100日以上も過ごさせている。日乗はこの状態にありながら弁舌をもって周囲の人を動かし、法華経8巻を入手して近隣の人々に読み聞かせ、施しを得ていたと云う。


 1568(永禄11)年、織田信長が上洛すると三好三人衆は退却し、日乗は自由の身となった。日乗の罪状は勅命によって許され、4.16日に朝廷に参内している。第106代(1557(弘治3)年−1586(天正14)年)の正親町天皇は、朝廷の回復を信長に依頼するため日乗を仲介者としている。これを機に日乗は信長に接近していく。

 7.10日、近衛前久邸で法華経の講釈をしている。1569(永禄12)年、1月、征夷大将軍となった足利義昭は、毛利元就と大友宗麟を和睦させようとし、松永久秀もこの動きに協力する。日乗は久秀の使者として吉川元春の元に赴いている。

 (※日乗と松永久秀の関わりが度々出ているが眉唾であろう。れんだいこ推理によると松永久秀は隠れキリシタン大名であり、反キリスト教派の日乗が与するのは不自然である。恐らく、松永久秀が隠れキリシタン大名であることを隠し逆に描き出す為の手の込んだ歴史詐術記録ではなかろうかとの仮説を立てておく)


 この春、信長によって村井貞勝とともに皇居の修理を命じられ、内裏修造の奉行を務めている。フロイスによれば日乗はこの頃から「すでにあらゆる諸貴人に知られていた」という。4.8日、信長が宣教師に滞在と布教を許可した朱印状を与える。4.19日、日乗は信長にキリスト教宣教師の追放を進言している。但し信長は却下している。フロイスの「1569.6.1日付け書翰」は次のように記している。

 「信長は日乗を気に入っていた」、「日乗は信長に『宣教師のいるところは騒乱が起きて破滅するので、信長が美濃に戻る前に宣教師を追放するよう』と進言した。しかし、信長は一笑に付し、『予は汝の肝がこうも小さいことに驚いている。予は宣教師を追放するつもりはない。すでに彼が都に滞在するだけでなく、何処の国にも思いのままに行くことができるための許可状を与えており、公方様も同様であるからである』と答えた」。

 れんだいこは、日乗の「宣教師のいるところは騒乱が起きて破滅する」の言こそ至言であると拝察する。

 1569(永禄12)年、4.20日、フロイスとロレンソ了斎が妙覚寺にいる信長のもとを訪れている。信長はバテレンに対し、「仏僧達はなぜフロイスを憎悪するのか」と尋ねた。ロレンソと「それは暑いか寒いかであるとか、徳か不徳かという論争のようなもので、教義的に相容れぬ存在です」と答えている。信長「フロイスらは神や仏を敬うか」と問うている。これに対しロレンソは、「神仏はどちらも私達と変わらない人間であり、妻子を持ち、生まれ死ぬ人間であるので敬いません。神仏は自身を死から救い解放することができず、故に人間を救うことはより不可能なことです。私どもはもっと価値の高いゼウス様を信仰しております」。その時、日乗はフロイスの側にいたが、信長を前にして一言も話さなかった。フロイスもロレンソも、そこにいるのが日乗であることを知らなかった。座敷と外の縁には入りきれないほどの領主達がいた。信長は日乗に「日乗上人、お主はこれに対して何と言うか。何か尋ねてみよ」と言った。これにより、「フロイスと日乗の宗義論争」が始まった。この宗論は信長の面前で二時間に及んだ。

【ルイス・フロイス神父と日乗の宗義論争その3】
 フロイスの「日本史」では、この時、日乗は次のように述べ、日乗と宣教師の宗論が始まった。
 「拙僧は、バテレンが説く教法を少し承りたい。殿がここで彼がそれを拙僧に説くように命じ給えば嬉しく存じます」。

 極めて日本的な、礼儀に適った口上である。以下、フロイスの「1569.6.1日付け書翰」と「日本史」に基づき再現してみるが、既に日乗に対する悪意のある紹介の仕方で分かるようにフロイスの記述を「そのまま理解」はできない。全体のやり取りの中から、手前たちの都合の良い個所を選び出し、且つ日乗の印象が悪くなるような発言を脈絡抜きに書きつけていることが判明する。そういう訳で、フロイスの言だけを読んでも理解が追いつかない。そこで、れんだいこ文責で、このようなやり取りだったと推理しながら拝察する。

 まず、日乗が、宣教師(以下、バテレンと記す)の信仰対象を問うている。ロレンソは、これに答える前に、日乗に日本仏法の信仰対象を問い質している。日乗は答えることを後にし、「私の質問にまず答えよ」と、バテレンの信仰対象を話すよう促している。そのやり取りから始まっている。
日乗 「バテレンは誰を崇めるのか」。
フロイス等 「三位一体のデウスであり、天地唯一の創造主である」。
(フロイスらがデウスの全知全能を説明した後)
日乗 「そこまで云うのなら、その有難いゼウス様と云うものを我々に見せてみよ」。
フロイス等 「それは見ることができない」。
日乗 「ゼウス様なるものは釈迦や阿弥陀よりも以前のものか」。
フロイス等 「以前のものです。無限で永遠のものであり始まりもなければ終わりもない」。
(この後、日乗がデウスのことをもっとはっきりさせようとして色や形態に関する質問をしている。その後どのようなやり取りになったのか分からないが、日乗が次のように述べている)
日乗 「殿下、これは騙(だま)し(陰謀)の言です。殿下、彼らはこのような教義で人々を欺いています。追放し、二度と当国に戻らないように、すぐさま追放するよう命じてください」。
(この後のやり取りが不明であるが、信長が笑って次のように促している)
信長 「お主は気後れしたか。問うてみよ。彼らは答えるであろう」。

 恐らく、相当難しい神学問答に誘われたのであろう。何しろ西欧の宗教と東洋の宗教とは教義の骨格が異なる。話しが噛み合わなかったと拝するべきだろう。日乗が尋ねなかったので今度はロレンソが質問した。
ロレンソ 「生命の造り主は誰であるかを知っているか」。
日乗 「そういうものは知らぬ」。
ロレンソ 「ならば知恵の源泉とあらゆる善の始まりは(誰で)あるか知っているか」。
日乗 「知らぬ」。
(その他の問いに対しても、日乗は知らぬと答え、お主らが答えてみよと返答するばかりであった)
(これに対し、ロレンソが詳しくユダヤ教的に取り込んだイエズス会式キリスト教義を説明する)
日乗 「(そういうことであれば)禅宗の『本分』とデウスは同じである」。
(フロイスらは論拠を挙げてその違いを説明した。その後のやり取りの内容が分からないが、日乗は突如、次のように述べている)
日乗 「彼らが都に滞在していたために足利義輝は殺された」。
(この宗論の中でロレンソは、日乗が比叡山で心海上人という人物に教えを受けていた事について尋ねており、日乗もこれを肯定している。但し、どういう流れで、このやり取りが為されているのかは分からない)

 ここでは、日乗が「知らぬ」ばかりを連発させられている。それはそうであろう。「生命の造り主」、「知恵の源泉」、「善の始まり」などの問いはユダヤ教ないしはキリスト教の独特の問いであり、日本仏教にはそのような問いかけはない。それは「恥ずべき知らぬ」ではなく、「そういう問いの意義を見いだせない知らぬ」と受け取るべきであろう。もっとも、フロイスは、日乗の「知らぬ」を「我らの問いに答えられなかった」と凱歌的に記述している。迂闊に読むとフロイスのそういう詐術に誘導されてしまうが、こういう筆法に騙されてはなるまい。

 それはともかく、前後の脈絡が分からないが、日乗が「彼らが都に滞在していたために足利義輝は殺された」と述べている。この発言は非常に重要であり、れんだいこは、実はこれが史実なのではなかろうかと思っている。この後の議論の流れは分からない。

 今度は信長自身が質問している。
信長 「デウスは善には報償を、悪には罰を与えるのか」。
(続いて、デウスへの奉仕の仕方やデウスを讃える理由についても質問している)
信長 「分別を弁えないような人間はどうするのか」。
(この後のやり取りが不明であるが、ロレンソが次のように答えている)
ロレンソ 「その通りであるが、それには二つの形があります。一つは現世の一時的なもの、もう一つは来世の永遠なものです。私どもの信仰は永遠の命に繋がっています」。
(この後のやり取りが不明であるが、日乗が次のように述べている)
日乗 「それならば人間の死後に報償あるいは罰を受けるものが残ることになる」。
日乗 「人間に不滅なものがある」。
(こう述べた後、「大笑いした」とある。前後の流れが分からないが、バテレンの「永遠の命論」に対する激しいやり取りが為されたものと推定できる)
(ロレンソは病気を患っていたことから宗論の続行が不可能となり、フロイスが引き継いでいる。しかしこれは、ロレンソでは太刀打ちできなくなってフロイスが登場することになったと窺うべきだろう。前後のやり取りが不明であるが、フロイスが次のように答えている。
フロイス 「日乗の驚きは私にはおかしなことではない。なぜなら日本の宗旨は何もしないことを根本とし、日本の学者の学識と理解は四大(地、水、火、風)に含まれた見える物しか及ばないからである。またそれらのことをほとんど分かっておらず、見えない不滅の霊魂について語ればなおさらで、これを新奇なものと見なすのは何ら不思議なことではない」。
(フロイスのこの弁からすると、日本の宗教では四大(地、水、火、風)から万物が生まれると説いていることを認め、それだけでは「永遠不滅の霊魂」に対する認識ができないと批判していることになる)
日乗 「永遠不滅の霊魂が存在するということは、この世で最も神秘なものであるので、すぐさまここで見せてもらいたい」。
(日乗は、日本宗教の四大(地、水、火、風)から万物が生まれるの教理で何ら問題はない。敢えて「永遠不滅の霊魂」を説く理由が見いだせない。一体それは何ものなり也や、そこまで云うのなら、我々の教理との絶対の違いである「永遠不滅の霊魂」なるものを見せてみよと迫っていることになる)
フロイス 「日本の宗教は無を根本とし、四大の可視的なもの以上には及ばず、四大の原因についての知識もないため、不可視で不滅の霊魂が分からない。霊魂は四大が全く混じらないものであるので、肉体の目では見ることもできないし、霊魂のことを理解していないのならば、容易には知ることもできない。人間には二つの見方があって、一つは野生の動物と同じように肉体の目によって、もう一つは道理と理解力によるものである。彼が推論したり、瞑想や悟りの業を行ったりする時に、外的な感覚がその機能を停止するのに応じて、全身の活動は少なくなり、その時霊魂はさらに演説するため、さらなる活力をもつ。これは肉体と霊魂が同一のものであれば不可能なことである。

 霊魂が不滅であり、肉体が滅んだ後にも残ることについても、望めば二つの道理によって理解することができる。第一に、合成物は皆その構成する物質に分解するが、霊魂は合成物ではなく、そのため分解するものがないのである。第二に、もし肉体が病んだ時、理性もまた衰え弱くなるならば、肉体が分解した後に永遠なものがないことの明白なしるしである。しかし反対に、肺の病気にかかった時、肉体の衰えによっても理性はまったく変わることがない。また、牢獄のように体の中にいる時、完全な活力があったが、その束縛から解かれた後、それよりもはるかに大きな活力をもつのであるから、死後に霊魂が存在することは明らかである」。
(フロイスが必死で「永遠不滅の霊魂」の存在を説いていることになる。しかし、幾ら熱心に説いても、日本宗教の教義に於いては不要の詭弁でしかない。そういう押し問答が続いたとみられる)
日乗 「お主は霊魂がそれほどまでに存在すると言うのであるから、今ここで私に見せるべきである。そこで、お主が存在するという知的物質を見せてもらうため、このお主の弟子、すなわち私の側にいたロレンソの首を斬ることにする」。
(フロイスの記述では、「日乗は激しく怒りながら、部屋の片隅に掛けてあった信長の長刀に向かって突進し、長刀の鞘を外し始めた」とある。これを推理するのに、仮に日乗がロレンソの首を斬ろうとしたのなら、長々と続く「押し問答」の日乗式決着のさせ方だったであろうと思われる。それによると、霊魂不滅なら、ロレンソが肉体的に死のうと精神的に生きているのだから何ら構わないだろう、さぁどうすると問いかけたことになる)

 これに対し、信長がすぐさま立ち上がり、日乗を後ろから取り押さえ、和田惟政と佐久間信盛、他の領主達は反対側から駆け寄って日乗を捕まえた。そして、力づくでその手から長刀を取り上げた。皆は日乗を大いに嘲り、信長は笑いながら再び座るように云い、「予の面前でそのようなことをするのは大変無礼である」と言った。フロイス「日本史」では「日乗、貴様のしたことは悪行である。仏僧が為すべきことは武器を取ることではなく、根拠を挙げて自身の教法を弁護することではないか」と述べたと書かれている。他の領主も日乗に対して同様のことを述べた。特に和田惟政は、「信長の前でなければ直ちに日乗の首を刎ねていたであろう」と語った云々。

 しかしこれはフロイスの「加工された弁」であり、実際のやり取りは双方向から話しを聞かなければなるまい。恐らく、それほどまで説くのなら、「永遠不滅の霊魂」を証してみよと迫り続けた日乗に分が良い流れではなかったかと思われる。よって、「日乗が敗れた」とする総評は正しくない。それはイエズス会側の見立てであり、宗論後の日乗の反キリスト教姿勢は益々軒昂であり、議論は噛み合わず平行線のまま終わったと受け取るべきだろう。


 それが故であろう、この宗論後、日乗は罰せられていない。信長の可罰的性格からして考えられないことである。翌4.21日、日乗は岐阜に帰ろうとする信長に再び宣教師の追放を進言している。但し却下されている。その後も執拗に宣教師追放を訴え、信長からその命令が下されないことを悟ると、今度は朝廷に訴え正親町天皇からバテレン追放の綸旨を手に入れている。日乗は綸旨を受け取ると義昭のところに向かっている。しかし、義昭は次のように返答している。
「内裏に伝えよ。誰かを(都に)入らせるか、追放するかについては、陛下[内裏]の問題ではなく、これは予(義昭)に属する問題である。予は司祭に対して都に滞在するだけでなく、日本諸国の何処であっても望むところに滞在できる許可状を与えている。彼を追放する理由がないので、そのようにするつもりはない。また、これに加えて、司祭は同じ自由を与える信長の許可状も得ている」。

 他方、信長は伴天連追放綸旨に対して天皇に一任する態度を示している。これにより、京都は宣教師追放の動きが高まっていった。その間、日乗と和田惟政の間で手紙のやりとりが行なわれている。日乗はキリシタンであった和田惟政を陥れようとしたが進展は見られなかった。フロイスは、岐阜へ帰った信長のもとへ馳せつけ、「バテレン追放綸旨」の一件を相談している。信長は、「内裏も公方も気にするな。すべては予の支配下にある。バテレン殿は望みの場所にいて差し支えない」と述べ直ぐに朱印状を下付している。夕食を準備させ、信長自らフロイスの食膳を運び、長時間に渡って自然現象や習俗について語り合っている。

 その後の宣教師の動静につき割愛する。「日本に来たポルトガル人」の「1569年(永禄12年)の出来事」の項が詳しく解説している。但し、「無断で複製・転載を禁じます。引用する際はメールでご連絡頂いた上、当ホームページよりの引用を明記してください」とあるので転載しない。他にない論考なので転載できないのが惜しい。いずれ、れんだいこ文で記そうと思う。

 1573(天正元)年頃、信長の寵を失って失脚した。1575(天正5)年、9.15日(10.26日)逝去している。子孫は九条家諸大夫となる。

 判明するのはここまでである。もっと克明に確認したいが、これ以上の資料が揃わぬため止むを得ない。






(私論.私見)