「安土問答と西光寺・聖誉住持〜信長のもとで裁かれた浄土宗VS法華宗の宗論〜」、「戦国を歩こう」の「安土問答安土宗論考察第1回」、「安土問答安土宗論考察第2回」、「安土問答安土宗論考察第3回」、「安土宗論」を参照する。
「安土宗論」考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「安土宗論」を確認する。 2013.08.11日 れんだいこ拝 |
【「安土宗論」考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「安土問答と西光寺・聖誉住持〜信長のもとで裁かれた浄土宗VS法華宗の宗論〜」、「戦国を歩こう」の「安土問答安土宗論考察第1回」、「安土問答安土宗論考察第2回」、「安土問答安土宗論考察第3回」、「安土宗論」を参照する。
これによりそれぞれの代表が宗論の場に臨むことになった。「歴々の僧衆、都鄙(とひ)の僧俗、安土へ群れ集まり候」と当時の安土周辺の模様が記録されている。 旧暦5.27日、宗論が、前年に信長が建立した浄土宗の金勝山浄厳院で寺中警護の中で行われた。この地は元々佐々木六角氏頼が建立し六角氏の菩提寺であった慈恩寺(天台宗)があったが、信長が近江(八幡市多賀町)にあった興隆寺の堂舎を移し、栗田郡の金勝寺より明感という僧侶を招いて金勝山浄厳院と改称していた。信長はこの寺を近江・伊賀両国の総本山した。「その場所の立派なこと、座席の準備、仏僧の格式、民衆の集合という点では、ヨーロッパの著名な大学で上演される公開劇の雰囲気を備えていた」と当時来日していた宣教師フロイスが著書「日本史」の中で記述している。 浄土宗側の代表は、霊誉玉念、安土西光寺の教蓮社の聖誉定安、近江の正福寺開山想蓮社の信誉洞庫、京都知恩院内一心院の助念(記録者)の4人。法華宗側は、美濃斉藤道三の帰依僧妙覚寺(常光院)の日諦、京都頂妙寺の日b、京都妙満寺の久遠院の日淵(日雄)、京都妙顕寺内法音院の僧大蔵坊の4人。この8人が問答することになり各4人が対座した。また判者は当時京都五山の識者として有名だった日野・正明寺の鉄叟景秀とその伴僧の華渓正稷、因果居士(華厳宗の学者?)、法隆寺の仙覚坊(法相宗の学僧)の4人。宗論の奉行衆は信長の家臣の菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一、矢部家定。また「信長殿御名代」として織田信澄も立ち会った。(油屋常由の弟妙国寺、普伝) 問答の内容は次の通り。
討論は互角の勝負とみなされたが、浄土宗側が問うた「妙」についての問いに法華宗側が答えられなかった為、不利となった。宗論の結果は、信長の事前の命令通り書付を持って信長に提出され、目を通した信長の行動はすばやく(「宗論勝負の書付上覧に備えらるるのところ、即ち、信長公時刻を移さず」)宗論の場へ往き、浄土宗側に扇や杖などを与えて賞した。8月2日、聖誉定安は、信長からあらためて感状(上官や君主が功や業績などを認め賞した旨を書いた書状)と銀子50枚を贈られ功を慰労され、一代の面目をほどこした。これは宗論を戦ったのが浄土宗側では結局彼1人であったことが認められた。これにより西光寺は名刹となった。 法華宗側への沙汰を申し渡した。最初に不審を発した法華の信徒・大脇伝介を斬り捨てている。理由は、「この者実は長老の宿を仕った者であるのに、長老の味方もせず、人にそそのかされて不審を申し懸け、都鄙(とひ)の騒ぎを惹き起こしたのは不届きである」というものであった。 僧侶普伝が打ち首にされた。また宗論の場に出席した普伝という僧は、九州出身で、昨年秋から滞京していたが、一切経のどこそこの箇所に何々の文字があるといったことを空でいえるほどの博識があり、信長と近衛前久との雑談に出てくる僧であった。彼はどこの宗派にも属していなかったが、「八宗は兼学したが、法華はよき宗派なり」とよく周囲にもらしていたのにかかわらず、常々「信長申し候はば、何れの門家にもなるべし」と言っていた。近衛殿は普伝の行動について、「ある時は紅梅の小袖、ある時は薄絵の衣装などを身に着けており、自分の着ている破れ小袖などを結縁であるといってよく人に与えている」と話していたが、調べてみれば小袖は実は借り物で、まがいものの破れ小袖であったことが判明した。法華宗徒は「かほどに物知りの普伝さえ聞き入り、法華宗となった」と評判が立てば法華も繁盛するであろうと考えて普伝に協力を頼んでいた。普伝も多額の賄賂と引換えに法華宗となることを承諾していた。信長はそれらの行状を訊いてから、理由を申しつかせて斬罪に処した。 理由の1つは、僧としての在り様が「老後に及び虚言をかまへ、不似合」。宗論に勝った暁には終生にわたって身上を保証するとの確約をもって法華宗に招かれ、届も出さずに安土へ下ったこと、日頃の申し様と大いに異なる曲事の振舞いであるとの咎めであった。理由の2つめは、今回の事、「人に宗論いわせ、勝ち目に候はば罷り出づべしと存知、出でざる事、胸の弱き仕立、相届かざる旨」、つまりお前は自ら法問を立てることもせず、他人に宗論をまかせた。これは法華方が優勢になった時のみ自分も出ればよいと算段した上での行いであり、その性根の弱さは不届きというほかない」といったことになる。信長は、実質のない言葉で人の心を惑わす行為をひどく嫌い、また卑怯に見える態度を嫌った。 さらに信長は残った法華僧に対し、「諸侍軍役勤め、日々迷惑仕り候に、寺庵結構仕り、活計を致し、学文をもせず、妙の一字に、ツマリ候し事、第一曲事(くせごと)に候」。つまり、侍たちが日々軍役を務めて辛酸を舐めている横で、汝ら寺庵衆は安穏として贅沢をなし、学問もせず、ついには妙の一字の解釈にも詰まる体(てい)たらくに至った、このこと曲事に尽きる、といったことになる。 そして堺まで逃げたもう一人・建部紹智も追捕して斬罪に処している。 信長は、その上でしかしながら法華宗は「口の過ぎたる者」ゆえに、後日、宗論に負けたとは決して申さぬであろう。「ならば本日敗れた証拠として、汝らは宗門を変えて浄土宗の弟子となるか、それとも今後決して他宗を誹謗せぬ旨の墨付を提出するか、いずれかを選ぶべし」とせまった。法華僧はこれを受けざるを得なかった。その上で信長は、法華宗側に、法華宗十三ヶ寺が連名で、下記のような3ヶ条の起請文(詫証文)を書かさせている。
さらに法華宗に「可被立置之旨」に感謝する旨、もし違反した場合は法華宗悉く成敗されても恨みに思わない旨も誓わせ、宗論の奉行衆へ提出させている。この詫証文(起請文)は、題目曼荼羅に書いたもので、信長へのものと浄土宗の本山京都知恩院へのものであった。またさらに京都の法華(日蓮)宗の諸寺へ罰金を科し、日b以下の桑峯寺(桑実寺か?)籠居など厳しく処罰した。 法華側はこれ以降、説法のあり方を、折伏(しゃくぶく)から摂受(しょうじゅ)へと変化し、畿内の法華宗も権力へ従順する姿勢を強めた。信長へ提出した詫証文は、後豊臣秀吉時代の1584(天正13)年、法華(日蓮)宗に返却され日蓮宗はようやく復した。 |
「信長と算砂の関係[安土宗論に於ける日淵・日海の立場]」を転載しておく。
|