(最新見直し2013.06.19日)
これより以前は、「大正時代史2、第一次世界大戦前後の流れ」
1919(大正8)年、ベルサイユ講和条約以降の動き |
8.1日、大川周明、満川亀太郎ら、国家社会主義組織「猶存社」を結成。8月、北一輝、「国家改造案原理大綱」を完成(後「日本改造法案大綱」と改題)。
8.12日、斉藤実を朝鮮総督に、水野錬太郎を朝鮮総督府政務総監に任命。
8.23日、東京砲兵工廠、賃上げ・8時間労働求めスト。8.30日、東京砲兵工廠のスト解決。9.18日、神戸川崎造船所職工、賃上げ・待遇改善ストを実施。9.29日、神戸川崎造船所スト、8時間労働で妥結。0.6日、大阪東洋紡績四貫島工場の職工3300人が5割賃上げ・労働時間短縮を求めて争議を起こす。11.27日、足尾銅山坑夫1万人が解雇反対・賃上げ要求・労働時間短縮を求めてストライキ。12.4日、足尾銅山スト、労働者の要求が受け入れられ解決。9.3日、東京市電従業員ら、日本交通労働組合を結成。
8.30日、友愛会、創立7周年大会で、大日本労働総同盟友愛会と改称。10.5日、友愛会、東京本所で婦人労働者大会を開催。
9.10日、オーストリア政府、サン=ジェルマン講和条約に調印し、ハプスブルク帝国解体。
10.18日、早稲田大学民人同盟から、浅沼稲次郎、平野力三らが分かれ出て、建設者同盟会を興す。
11.24日、第1回関西婦人団体連合大会開催。平塚らいてう、新婦人協会創立を宣言。
11.25日、大正日日新聞創刊。
12.25日、普通選挙期成関西労働連盟結成。
12.23日、床次竹二郎内相の私的諮問機関「資本労働問題協議会」の中心メンバーであった徳川家達を会長、渋沢栄一、清浦奎吾、大岡育造を副会長とする労資協調路線の協調会が設立される。日本工業倶楽部の支持もあって郷誠之助、中島久万吉らの実業家も理事として参加した。労働界からの協力を求めて交渉が行われたが、鈴木文治は労働組合抜きの協調主義であるとして参加を拒否したため、大日本労働総同盟友愛会など労働団体の代表の参加はなかった。社会問題に関する最大の研究団体であった社会政策学会は参加をめぐって対応が分かれ、桑田熊蔵、河津暹、金井延、添田寿一、神戸正雄、気賀勘重ら概ね「右派」と見られていた人々が常務理事・理事として参加した。これに対し同年発足の大原社会問題研究所には学会内の左派が結集し、協調会と対比される民間の調査研究機関となった。しかし、桑田ら社会政策学会出身の3常務理事は発足1年後に辞任した。その背景には温情主義に固執し労働組合承認に消極的であった桑田らと、労働組合を承認し一層踏み込んだ社会政策を進めようとする新官僚(添田敬一郎ら)の対立があったとされる。
12.24日、第42回通常帝国議会招集(〜2月26日)。
12.25日、憲政会大会が内閣弾劾と普通選挙の実施を決議。
憲政会の尾崎行雄(1858−1954)が軍縮演説と遊説。
この年、民主主義下の対話を重視した米国の哲学者、教育者のデューイが、東京帝国大学で4週間にわたる計8回講演した。デューイの来日実現には彼の大学の同窓、新渡戸稲造の尽力があった。
1.10日、森戸事件。東京帝大経済学部森戸辰男教授の筆禍事件。森戸・大内兵衛は新聞紙法違反で起訴され有罪。
1月、国際連盟に正式加入(常任理事国となる)
3月、.株価暴落(戦後恐慌始まる)
3月、平塚雷鳥、市川房枝ら、新婦人協会を結成。
5.2日、上野公園で日本最初のメーデー。
戦後恐慌・関東大震災・軍縮 (大正9年〜昭和元年 1920〜26年)
大戦終了後も1年間は続いた好況もそれ以上は続かず大正9年春、過剰投資の反動から株式市場、商品市場が大暴落。戦後恐慌となる。一年後に一応沈静化した後も、石井定七事件(石井商店が大借金の上で破産)、銀行の取り付け事件なども起こり、政府・日銀の行った銀行救済策については「問題を本質的に解決せず、かえって病状を悪化させた」などの批判もでる。
1920年初め、レーニンが次のように読み取っている。「日米両国は形式的には互いに同盟関係にある列強であるにも関わらず、両国の間に、ますます競争や敵対心がはっきりと見受けられる」。この「日米間の不和反目」という歴史の低流を分析したレーニンは、「この反目を利用して自国ロシアを強化する」という方針を樹立した。
【「西にレーニン東に原敬」】 |
第十四回衆議院議員総選挙で与党政友会の圧倒的勝利をおさめた原敬内閣は、衆議院における絶対多数と、貴族院内に提携勢力を確保する工作に成功した勢いをもって、大正9年(1920)7月、開会の第43回特別議会に臨んだ。原内閣は、かねてから政友会が唱えていたいわゆる四大政綱である教育の改善整備・産業及び通商貿易の振興・交通通信機関の整備拡充・国防の充実をこの議会で積極的に押し進めた。
この積極政策の推進によって、国家財政は急速に膨張した。本議会では、国防充実費、鉄道建設改良費、臨時軍事費等の追加予算案が通過した。四大政綱に関連する文部・内務・海軍・逓信の各省経費は大幅に増大した。特に、わが国の軍事費はかつてない大規模なものとなった。これは第一次大戦後の経済の発展による税収の増加を背景にしたが、また公債も発行された。
外にあっては、前議会閉会当時からシベリア情勢が特に不穏となり、三月十二日から五月末にわたり、ニコライエフスク港において、日本人居留民が同方面の過激派軍のため虐殺されるという、いわゆる尼港(にこう)事件が突発した。
本議会において、野党は、この事件を攻撃材料の一つとして政府の責任を鋭く追及した。内政・外交にわたる原首相・外相・陸相らの報告演説に対し、さきの総選挙に当選したばかりの憲政会代議士永井柳太郎は、七月八日、質疑の中で、「今日の世界において、なお階級専制を主張するものは、西には露国過激派政府のニコライ・レーニンあり、東にはわが原総理大臣あり」との熱弁をふるった。この発言に政友会は激高し、発言の取り消しを迫り、さらに「議院の体面を毀損するもの」として動議を提出、これは懲罰委員に付され、五日間の出席停止を決め、七月十四日の本会議で政友会の多数によって議決した。
このため、憲政会・立憲国民党の両党は、さきの解散の不当性、普選の拒否、財政・外交政策の失敗、尼港事件等を理由とする内閣不信任案を提出したが否決された。しかし、原敬内閣の成立を歓呼して迎えた国民多数の間にも、内閣・議会に対する批判が次第に高まっていった。
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10月、第一回国勢調査施行(人口7700万人)。
10.2日、警視庁特別高等課に労働係を新設。
11.30日、京都赤旗事件。
12月、大杉栄、境利彦ら、日本社会主義同盟を組織(翌年解散)。
原政権は、文官任用令を改正し、拓殖局局長や各省次官、内務省警保局長、警視総監などの資格制限を撤廃し、政党人に採用門戸を開いた。山県が制限したものを元に戻したことになる。同時に、原首相は、高文官僚を政友会に取り込んだ。
この年、「シオンの議定書」の最初の日本語版が公刊された。
明治44年度末の国債残高は26億円弱で歳入総額のほぼ4倍。一般会計に占める国債費の割合は25%以下に下がっていた。
1.24日、加藤高明憲政会総裁、貴族院でシベリア撤兵を主張。
1.31日、衆議院予算委員会で、憲政会が満鉄疑獄と関東州阿片取引問題について政友会を攻撃。
2.3日、衆議院の憲政会と国民党、それぞれ普通選挙法案を提出するが、政友会の反対で否決。
2.10日、宮内省、皇太子妃に内定している久邇宮良子女王について、変更はないと異例の発表。宮中某重大事件を収拾するため。長州閥の中村雄二郎宮内大臣は辞職。
2.19日、宮内大臣に薩摩閥の牧野伸顕(59歳)が就任。
3.3−9.3日、皇太子裕仁親王(昭和天皇)の欧州訪問に供奉長(ぐぶちょう)として付き従った珍田捨巳枢密顧問官は、牧野に対して皇太子の性格について(落ち着きがない点、研究心の足りない点を欠点)としてあげ「今後一層の御補導を申上ぐべき旨」を語った(牧野日記引用)。それに対し牧野伸顕は、「御補導益益大切なり。君側の人選一層肝心なるを感ず」と性急な執政を補導していく必要を強く認識し、こうして宮中に牧野グループを形成し政治関与を深めて行くことになる。
牧野伸顕は自分の未来の権力掌握の為に大物政治家の「準元老化運動」に関与していく。具体的には枢密院議長の清浦奎吾と海軍長老の山本権兵衛の二人を「準元老」として選ぶ。牧野伸顕は二人の「準元老化」を元老の西園寺公望に伝えるが西園寺公望は大反対する。最後の元老の西園寺公望の考えは、「元老とは新たに発足した議会が道を外れぬよう議会制度を監視するとともに後見する存在で議会制度が軌道に乗り円滑に運営されれば消えゆく過渡的存在のもの」。こうして、牧野伸顕と元老西園寺公望の対立が生まれる。元老制度を終わらせて政党政治に委ねたい西園寺公望と将来は自ら元老として天皇親政に移行したい牧野伸顕の対立が始まる。
3.21日、山県有朋、宮中某重大事件の責任をとり、元老・枢密院議長などの職を辞すると申し出る。
5.18日、天皇、山県有朋の元老などの辞表を却下する。
2.12日、京都府警察部、綾部の大本教本部に200人の警官を派遣し、教主出口王仁三郎と幹部の浅野和三郎、吉田祐定を検挙(第1次大本教事件)。10.20日、警察、大本教の本宮山御殿を取り壊す。
2.16日、朝鮮参政権運動代表者閔元植が東京駅ホテルで暗殺される。
2.17日、衆議院、阿片取引非難決議案を否決。
2月、プロレタリア文学雑誌「種蒔く人」創刊。
3.3日、皇太子裕仁親王、渡欧に出発。
3.14日、足尾銅山争議が起こる。4.18日、足尾銅山争議解決。
5月、大阪藤永田造船所争議が解決。6.25日、三菱内燃機工場の職工が労働条件の改善と横断組合承認を求めて争議を開始。
4.24日、山川菊栄ら社会主義婦人団体「赤瀾会」を設立。
4.28日、大阪電燈会社争議が起こる。5月、大阪藤永田造船所争議が解決。6.25日、三菱内燃機工場の職工が労働条件の改善と横断組合承認を求めて争議を開始。
4月、第一次世界大戦の敗戦国ドイツの賠償金額が1320億マルクに確定された。ドイツは、第一回支払いをしたのみで、支払い義務履行難に陥り、支払い猶予承認を余儀なくされた。かくして、ドイツの支払い能力如何が問題となったが、数次の国際会議でも関係各国の対ドイツ政策に食い違いが見られ、意見の一致点を見出すことが出来なかった。
5.9日、日本社会主義同盟結社禁止。5.28日、日本社会主義同盟に解散命令。
5.16日、原首相主催で、植民地総督・軍人・外交官らが出席し、東方会議が開かれる。
7.1日、中国共産党創立大会が上海で開かれる。中国各地の共産主義者が上海に集まり、内外に党設立を宣言。主なメンバーは、李漢俊、張国*、陳独秀、毛沢東。是より先1919.10月孫文率いる中華革命党が「中国国民党」を結成しており、中国国内には「中国国民党」と共産党の二つの有力な革命勢力が誕生したことになる。
7.8日、神戸の川崎造船所と三菱造船所の労働争議団が合併。7.10日、神戸川崎造船所と三菱造船所の労働争議を実施している労働者35000人が神戸で大デモ行進を実施。7.12日、神戸川崎造船所争議団が工場管理を宣言。警察がデモを禁止する。7.14日、兵庫県知事が争議に対し軍隊出動を要請。7.29日、神戸造船所争議団と警察が衝突し、死者が出る。同日、争議団の指導者賀川豊彦が検挙される。8.12日、神戸造船所争議団が「惨敗宣言」をし労働争議を終える。100人以上が起訴され、1300人が会社側から解雇される。
7月、宮内省、「天皇の病状が悪化し、御発言に障害起こり」と発表。
8.20日、暁民会の近藤栄蔵・高津正道らが暁民共産党を結成。
8.20日、山崎今朝弥ら、自由法曹団を結成。
9.16日、鈴木文治ら日本労働学校を開設。
9.28日、安田財閥総帥安田善次郎が、大磯の別邸で右翼少年朝日平吾に刺殺される。朝日平吾はその場で割腹自殺。
10.1日、日本労働総同盟友愛会創立10周年記念大会開催。名称を日本労働総同盟と改称する。
【バーデン・バーデンの密約】 |
10.27日、ドイツバーデンバーデンにて 小畑敏四郎、岡村寧二、東條英機、鴨脚(いちょう)光弘と陸軍改革を固く誓い合う。これが有名な「バーデン・バーデンの密約」。ここで
「第一次世界大戦後の総力戦への対応」 、「ソビエト連邦樹立(共産主義への脅威)」 、「派閥政治の打破」 を固く誓い合う。 この「バーデン・バーデンの密約」から昭和20年8月15日の敗戦まで一気に流れていく。この永田鉄山と小畑敏四郎を中心に若手将校が結束した「バーデン・バーデンの密約」は陸軍史における重要な大事件である。 |
【原首相暗殺される】 |
11.4日、東京駅で京都に向かおうとしていた原敬首相が大塚駅の転轍手・中岡艮一に刺殺される。11.5日、原内閣総辞職。 |
原敬首相の洗礼名はダビデ・ハラ。原は、「日本をキリスト教国する」使命を帯びていた。 |
【ワシントン会議】 |
1921(大正10).11.12日、ワシントン会議が開かれ、米、英、日、仏、伊、蘭、ベルギー、ポルトガルの9カ国が国際情勢、海軍軍縮問題などを話し合う。1・全世界で就役中又は建造中の主力艦65隻180万トンを廃棄する。2・英、米、日、仏、伊の主力艦保有率を5、5、3、1.67、1.67として上限を定める。英・米を50万トンとする。などに合意した(四カ国条約調印)。これは、当時にあつて空前絶後の国際的合意による軍縮の動きであった。会議の成功には、議長国アメリカの「建造中の巨艦15隻61万トンを率先廃棄する」との自ら範を垂れた軍縮提案が効果を与えていた。日英同盟廃棄を決定。
日本側の全権委員は、加藤友三郎海相・海軍大将(1861〜1923)が主席全権、貴族院議長・徳川家達、駐米大使・幣原喜重郎が瀬全権委員として参加した。加藤は、「国防は軍人の専有物ではない。国力の充実がなければ、いかに巨大な軍備を持っても無意味である」と考える自重派であり、艦隊増強派と対立していた。この二派の対立相克が、その後の海軍内に尾を引いていくことになり、やがて政治問題化し、昭和の歴史を彩ることになる。
ヤコブ・モルガン氏の「山本五十六は生きていた」は次のように記している。「この諸条約とともに日本は明治35年以来続いた日英同盟や石井・ランシング協定(明治41年、中国に於ける日本の特殊権益を米国が認めたもの)の破棄、山東省の旧ドイツや満蒙についてのいくつかの特権など21か条約の一部破棄、シベリア撤兵などを約束させられたのであった。このワシントン条約こそアメリカ、イギリスのユダヤ、アングロ・サクソン同盟が日本に突きつけた挑戦状であり、のちの日米開戦の伏線となるのである」。
財政に見合った規模への国防予算の削減・軍縮の気運が高まり、ワシントン軍縮会議により海軍軍縮(大正10年 1921年 11月)・山梨軍縮による陸軍師団の兵員の削減(第一次 大正11年 1922年 8月)、(第二次 大正12年 1923年 4月)・宇垣軍縮による陸軍4個師団削減
(大正14年 1925年 5月)が行われた。
特に陸軍は軍縮により兵員の3分の1を削減。軍縮派の中心、宇垣陸相は軍内部の反対派を予備役に編入して軍縮を強引に押し進めた。宇垣の考えは兵員削減により浮いた軍事費を装備の近代化に充てるというもの。ちなみに予備役とは、軍を退役して民間に戻るが、戦争等の国家緊急時に軍人の増員が必要になるため、この時たたちに現役に戻れるよう、軍籍だけは持っている立場。つまり事実上の引退。この軍縮により多数の陸軍将校が失業。軍人の社会的地位は低くなり、青年将校の結婚難が問題になったほど。軍内部の志気はかなり低下。ポストが少なくなり出世が難しくなった軍将校の間には「出世第一主義」「事なかれ主義」という見えない、そして致命的な構造腐敗が蔓延していく。
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軍縮合意に先立って原首相が暗殺され、高橋が首相兼蔵相となった。陸海軍の軍備節約を促した結果、12年度の軍事費の一般会計に占める割合が42%から33%に下がった(それまでの最高は10年度の49%)。翌13年度(1924)には30%を割り、以後昭和5年度(1930)までの7年間、30%を越えることはなかった。日清戦争の開戦(1894)から太平洋戦争の終結(1945)に至る半世紀の間、軍事費の比重が30%を割ったのはこの7年間だけであった。軍人が肩身が狭い時代となっていたことになる。その加藤は、12年8月現職のまま病死した。
11.12日、暁民共産党員の検挙が始まる。
11.12日、元老西園寺公望、高橋是清を後継首相に推薦。
11.13日、高橋是清内閣成立。
11.25日、皇太子裕仁が摂政に就任。
12.13日、太平洋方面の現状維持に関する日・米・英・仏4カ国条約成立。日英同盟は失効。
「日本皇軍兵士・武富登巳男氏」は次のように記している。
「このー、二年の防衛費の動きをご覧になったら分かりますが、国民の総生産のーパーセントを突破したらいかんということを盛んに言っておった時代がありました。ところが、実際にーパーセントを突破したら、もうそれが当たり前になって、もう全然新聞などでも攻撃もしない。
大正十年度は国の予算のほぼ半分ぐらい、正確には四十九パーセントまでを軍事費に取られたことがあります。こういうふうになってくると、もうまともな国民の生活などは期待できません。このように軍事費というのは、いったん膨張したら整理がつかなくなる」。 |
1.21日、コミンテルン主催のモスクワ極東民族大会に片山潜、高瀬清、徳田球一らが出席。
2.6日、ワシントン会議終了。軍縮5条約が決まり、日本は海軍対英米比率6割で調印、主力艦の建造を中止。中国に関する9カ国条約にも調印する。
2.23日、憲政会、国民党、無所属団が共同で普通選挙法を衆議院に提出。討議中に傍聴席から蛇が投げ込まれる事件が起こる。2.23日、普通選挙を要求する数万人の群衆と警官隊が衝突。2.27日、衆議院で普通選挙法否決。
3.3日、部落解放運動の全国水平社創立大会開催。
3.24日、過激社会運動取締法が貴族院で修正可決。衆議院では審議未了。
4.9日、日本農民組合創立大会が神戸の山手キリスト教会館で開催。
4.20日、治安警察法改正。政談集会への婦人の参加が認められる。
5.12日、石川島造船所の職工2500人が不当解雇撤回などを求めてサボタージュ。5.19日、石川島造船所のサボタージュ首謀者16人が解雇され。失敗に終わる。
5.15日、新婦人協会主催で治安警察法改正祝賀集会が開かれる(婦人政談演説会の最初)。
6.1日、賀川豊彦、自著「死線を越えて」の印税で大阪北区安治川教会に大阪労働学校を設立。
6.6日、高橋内閣、内閣改造問題で閣内不一致のため、総辞職。政友会、非改造派の6人を除名処分。
6.9日、元老西園寺公望と松方正義、後継首相に加藤友三郎海軍大臣を推薦。6.12日、加藤友三郎内閣成立。政友会がこれを支持。
6.24日、政府、シベリアから撤退することを表明。10.25日、北樺太に残る部隊を除き、シベリア出兵全部隊が撤退完了。
7.3日、海軍軍備制限計画発表。7.4日、陸軍軍備制限計画発表。
7.15日、堺利彦、近藤栄蔵、山川均ら渋谷で日本共産党を極秘結成。
7.16日、憲政会、憲政擁護民衆大会を芝で開催。政党内閣組織を宣言。
7.18日、有島武郎、北海道狩太に所有する農場の内400町歩を小作人に無償で提供。
8月、山川均、「前衛」に無産階級運動の方向転換を発表。
中国で、「第一次国共合作」。コミンテルンの仲介により、1922年夏頃より協力関係に入った。
9.1日、立憲国民党解散。
9.4日、長春で日本・ソビエト・極東共和国の3者が利権問題を討議(長春会議)。9.25日、長春会議決裂。
9.30日、日本労働組合総連合創立大会が大阪で開催。
11.7日、東京帝国大学の学生会「新人会」など各大学の学生研究会が集まり、学生連合会を結成。
11.8日、犬養毅、尾崎行雄、島田三郎ら革新倶楽部を創設。
【物理学者アインシュタイン夫妻が来日、神戸に到着】 |
11.10日、ノーベル委員会が、物理学賞をアインシュタインに与えると決定。
11.17日、物理学者アインシュタイン夫妻が神戸に到着。
11.18日、アインシュタインが伊勢神宮に参拝して深く感銘を受け、次のように記帳している。
世界の文明は、アジアから始まり、アジアに帰る。そのアジアとは日本云々。 |
世界の未来は進むだけ進み、その間に幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は真の平和を求めて、世界の盟主を挙げねばならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力でなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、もっとも古く、もっとも尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。その中でもアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国を創っておいてくれたことを…。 |
アインシュタインが各地で講演している。
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12.29日、アインシュタイン夫妻離日(約40日間滞在)。 |
11月、コミンテルン大会で日本共産党を支部として承認。
12.30日、ソビエト社会主義共和国連邦樹立宣言。
1922(大正11)年、明治天皇の和歌集「明治天皇御集」が発刊された。宮内省にて編纂され、文部省より発行された。明治天皇の御製は全部で9万3032首が残されているが、『明治天皇御集』はそのうち1687首を収める。
1月、パリ会議決裂。これを契機として、フランスの鉄血宰相ポアンカレーはドイツ領ルール地域の占領を敢行した。
1.20日、普選即行全国記者同盟大会開催。2.11日、東京・千葉・飯田・名古屋・京都・大阪・八幡で「過激社会運動取締法案」「労働組合法案」「小作争議調停法案」(労働3悪法)の制定反対集会とデモが行われる。 2.23日、東京で普選即行大示威行進が行われる。
3.1日、衆議院、憲政会・革新倶楽部などの提出した統一普通選挙法案を否決。
1月、「文芸春秋」創刊。
2.1日、ソビエト極東代表のヨッフェが後藤新平の招きで来日。
3.10日、中国政府、対華21ヶ条条約の破棄を通告。併せて旅順・大連の返還を要求。3.14日、日本、中国側の領土返還要求を拒否。
4.14日、石井・ランシング協定破棄の交換公文に調印。ワシントン軍縮会議の了解事項に基づいて、日本の中国における権益を承認。
5.10日、早稲田大学軍事研究団発会式開催。5.12日、軍事研究団反対学生大会で、左右学生が衝突。5.15日、軍事研究団解散。5.20日、軍研反対派だった早稲田大学文化連盟も解散(早大軍研事件)。
6.5日早朝、早大軍研事件を発端として、早稲田大学を初め共産党関係者の一斉検挙が実施される(第1次共産党事件)。[翌1924年3月:解党]
6.9日、社会主義者高尾平兵衛射殺される。
【石橋湛山時評】 |
8.18日付け東洋経済新報社社説で、石橋湛山が、「(第一次世界大戦後の賠償問題の行き詰まりから)世界は絶えず第二次欧州大戦争引いては世界大戦争の悪夢に脅かされねばならぬ」と指摘している。石橋氏は、「激動期の日本経済」で、当時のドイツのインフレについて次のように述べている。
「通貨膨張は必然に物価の騰貴を起し、通貨の価値即ちその購買力を減ずるからであります。通貨の購買力が減ずる場合に資金を貸す人は、将来において購買力の少ない価値の低い資金を返して貰うことになります。従って金利を多く貰わなければ、この損害を償うことが出来ません。ですから、インフレーションの場合には金利は必ず騰貴します。もし戦後のドイツの如く、激烈に貨幣の購買力が減る場合には、恐らく金銭貸借は出来ますまいが、出切るとしても、その金利は非常に高いものにならねばなりません。1923年には、ドイツの中央銀行は金利を一時、108%に上げました」。 |
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8.28日、加藤友三郎首相が現職のまま病死。山本権兵衛に組閣大命が下る。この行財政改革は第二次山本権兵衛内閣に引き継がれた。
9.16日、皇太子が、被災地視察の翌日、11.27日に予定されていた久邇宮良子女王との婚儀の延期の意思を侍従長に伝えている。
10月27日 法制審議会、婦人参政権を否決。 11月 2日 選挙の納税資格無条件撤廃を決定。
11月10日 国民精神作興に関する詔書を公布。
【虎の門事件】 |
12.27日、後の昭和天皇となる当時の皇太子・摂政宮裕仁親王が、摂政の宮として大正天皇の代理で第48帝国議会の開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上の虎の門を通過中に、ステッキ状の仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助はその場で逮捕された。これを虎ノ門事件と云う。
事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあり警備の直接の責任者であった。正力は警視総監・湯浅倉平らとともに、即刻辞表を提出。警務部長らは懲戒免職、山口県知事は休職、父は衆議院議員を辞任して閉門
蟄居、謹慎した。正力は、翌大正13.1.7日、懲戒免官となった。 1.26日、摂政殿下裕仁のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となった。官界復帰の道が開けた。但し、本人は古巣に戻る気をうせていた。
難波大介の履歴は次の通り。
山口県熊毛郡周防村立野(光市)の旧家に生まれる。父作之進は県議を経て大正9年(1920)代議士当選。母はロク。長兄は東京帝国大学、三兄、弟は京都帝国大学出身。
母方の遠縁に河上肇・大塚有章、長兄夫人の遠縁に宮本顕治がいる名望家。
徳山中学に進んだが退学、私立鴻城中学に移り、高等学校受験に失敗。11年、大正第一早稲田高等学院文科に入学したが、翌大正12.2月、退学。深川の労働者街に身を投じた。この間、河上肇『断片』(「改造」)を讀むなど左傾化しつつあった。関東震災直後の帰省の途次、甘粕事件・亀戸事件などを聞いて官憲の非道ぶりにテロリズムの実行を決意する。12.22日、父のステッキ銃を持って上京。京都の友人宅に滞留の後、事前に新居格ら新聞記者にテロ決意の手紙を送ったうえで、12.27日、虎ノ門で帝国議会開院式に赴く車中の皇太子(当時摂政にして後の昭和天皇)を狙撃したが失敗した。この銃は、韓国帰りの林文太郎が作之進に譲ったものだが、伊藤博文が部下の林に与えたものという説がある。
事件当日より予審訊問が行われ、翌年2月、本裁判に付された。裁判長は横田秀雄大審院長、検事は小山松吉検事総長ら。官選弁護人は今村力三郎、岩田宙造、松谷与二郎であった。10.1日、公判開始、11.13日に死刑の判決が下った。
大審院でも天皇制否定の主張を曲げず、裁判所の改悛慫慂政策は、判決直後、難波の「日本無産労働者、日本共産党万歳」の絶叫で挫折した。判決2日後の11.15日、大助は処刑された(享年26歳)。 |
【第二次山本内閣総辞職】 |
虎ノ門事件の即日、第2次山本権兵衛内閣が引責総辞職を余儀なくされている。 |
大正末期の加藤高明(1860−1926)内閣(憲政会内閣)が組閣された。蔵相・浜口雄幸(1870−1931)。14年度予算で、@・行政機構の統廃合、A・軍縮の継続、B・不急事業の繰り延べ、C・特別会計の整理などを断行。一般会計歳出を前年度より1億円(6.2%)削った。ところが、この加藤も現職のまま15年(1926)1月、急死。二人の加藤首相はいずれも財政再建の途上で殉死することになった。
1.7日、枢密院議長清浦奎吾首相の清浦内閣成立(超然内閣)。
清浦圭吾(1850−1943)。貴族院内閣。蔵相・勝田主計。
1.10日、政友会、憲政会、革新倶楽部が、清浦内閣を非政党の特権階級内閣であると批判。第2次護憲運動が始まる。
1.16日、清浦内閣を支持する議員148人が政友会を離党。
1.26日、中国、第1次国共合作。
1.26日、摂政宮裕仁と久邇宮良子の結婚式が宮中で挙行される。
【政友本党を結成】 |
1.29日、政友会は、清浦奎吾内閣への賛否をめぐって古傷が開き、激しい対立の結果、床次竹二郎、山本達雄、中橋徳五郎、元田肇らが政友会を離党し、148議席を率いて大挙脱党して政友本党を結成した。
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1.30日、大阪中央公会堂で、憲政擁護関西大会。出席した政友会、憲政党、革新倶楽部の3党首を狙った列車転覆未遂事件が起こる。
2.25日、虎ノ門事件で辞職した正力松太郎元警視庁警務部長が読売新聞を買収。反対する記者が相次いで辞職する。
3月、平沼騏一郎枢密顧問官ら、国本社を設立。
3月、日本共産党、解党を決議。
4.12日、第6回国際労働会議労働代表に鈴木文治が選出される。
4.27日、安部磯雄、山崎今朝弥、石川三四郎ら日本フェビアン協会を設立。
4月、大川周明、安岡正篤、満川亀太郎ら、行地社を設立。
5.10日、第15回衆議院議員選挙。護憲3派が大勝。
5.15日、芳沢謙吉駐中国公使とソ連のカラハン駐中国代表が、日ソ国交回復交渉を開始。
5.26日、クーリッジ米国大統領、新移民法に署名。移民総数の制限、ハワイを除く在米移民数比率による移民割当、帰化不能外国人の入国禁止など、日本人排斥を目的としているため、日本で反発、対米感情が悪化する。
6月、中国で「黄土甫軍官学校」設立される。この学校は、コミンテルンから派遣された軍事顧問による各種の軍事教練を目的として設立された軍学校であり、校長には国民党の右派幹部の一人である蒋介石が就任し、共産党側からも周恩来らが教官として参加していた。この学校から後の指揮官が輩出していくことになり、国共内戦時に死闘を繰り返すことになる。
6.日、清浦内閣総辞職。
【第二次憲政擁護運動(第二次護憲運動)】 |
政友会、憲政会、革新倶楽部三党は三党首会談で、清浦内閣打倒と憲政擁護を謳って共同歩調をとることを決定。これを憲政擁護運動と称して十年前の運動を模した。前回のような盛り上がりに欠けてはいたものの、「苦節十年」の憲政会が154議席で第一党の座に躍り出、野党三党(護憲三派)が圧勝をおさめ、清浦内閣は総辞職した。これを「第二次憲政擁護運動(第二次護憲運動)」と云う。これによって、憲政会総裁・加藤高明に大命が降下し、加藤は昂然、組閣に着手することになる。政友会総裁・高橋是清、革新倶楽部の犬養毅を招いての協議で、高橋は内務、または大蔵のポストを要求して組閣交渉を難航させたが、行司役を務めた平田東助伯爵が「内務は政府の中心、大蔵は政策の中心であるから、これは憲政会から閣僚を出す」としてはねつけ、憲政会の領袖・若槻礼次郎と濱口雄幸がそれぞれ内相・蔵相となった。政友会の高橋には農商務相、横田千之助に法相、革新倶楽部の犬養には逓信相のポストをそれぞれ提供し、こうして護憲三派内閣が発足した。
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【第1次加藤高明内閣成立】 |
6.11日、憲政会、政友会、革新倶楽部の三党連立による憲政会の加藤高明を首相とする第1次加藤内閣(護憲3派連立内閣)が成立(在任・1924.6.11−1925.8.2日)。多数政党による組閣「憲政の常道」の初め。首相・加藤、蔵相・浜口雄幸、内相・若槻礼次郎、外相・幣原喜重郎。いずれも高文官僚の登用であった。加藤内閣から犬養内閣までの8年間、政友会と民政党(憲政会の後身)が政権交代を繰り返すことになる。
総理大臣 |
加藤高明 |
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憲政会 |
内務大臣 |
若槻礼次郎 |
|
憲政会 |
外務大臣 |
幣原喜重郎 |
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大蔵大臣 |
濱口雄幸 |
|
憲政会 |
司法大臣 |
横田千之助 |
大正13.6.11-大正14.2.5、病死 |
政友会 |
|
高橋是清 |
大正14.2.5-大正14.2.9 |
政友会 |
|
小川平吉 |
大正14.2.9-大正14.8.2 |
政友会 |
文部大臣 |
岡田良平 |
|
貴族院 |
農商務大臣 |
高橋是清 |
大正13.6.11-大正14.4.1、
農商務省廃止 |
政友会 |
農林大臣 |
高橋是清 |
大正14.4.1-大正14.4.17 |
政友会 |
|
岡崎邦輔 |
大正14.4.17-大正14.8.2 |
政友会 |
商工大臣 |
高橋是清 |
大正14.4.1-大正14.4.17 |
政友会 |
|
野田卯太郎 |
大正14.4.17-大正14.8.2 |
政友会 |
逓信大臣 |
犬養 毅 |
大正13.6.11-大正14.5.30 |
革新倶 |
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安達謙蔵 |
大正14.5.30-大正14.8.2 |
憲政会 |
陸軍大臣 |
宇垣一成 |
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海軍大臣 |
財部 彪 |
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鉄道大臣 |
仙石 貢 |
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憲政会 |
内閣書記官長 |
江木 翼 |
|
憲政会 |
法制局長官 |
塚本清治 |
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政友会は、民政党攻撃の為もあり軍縮を「統帥権干犯」だと非難し、軍官僚の暴走に手を貸していくことになる。三派連立について、大正十三年三月の「国際写真情報」に次のように評している。「往日の犬と猿が同じテーブルで護憲を談じる、大いに結構だがこれがいつまで続くやら」。
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6.13日、小山内薫、土方与志らが私財を投じて建設した築地小劇場が開場。 6.14日、築地小劇場一般開場。公演が始まる。
7.1日、メートル法施行。
7.5日、第8回オリンピック・パリ大会開催。
7.18日、衆議院、貴族院制度改正に関する建議案を可決。
9.1日、アナキスト和田久太郎が元戒厳司令官福田雅太郎陸軍大将を狙撃するが、未遂に終わる。
9.4日、政府、与党3派の普選連合協議会、普選法案大綱を決定。
9月、中国で、第2次奉直戦争勃発。一部日本人が直隷派馮玉祥のクーデターを支援。
11.12日、学連を中心に、全国学生軍事教練反対同盟結成。
11.24日、孫文、馮玉祥の招請で北京へ向かう途中、神戸に立ち寄る。11.28日、孫文、神戸高等女学校講堂で「大アジア主義」の講演を行い、西洋覇道ではなく東方王道の干城となることを訴える。
12.13日、東京婦人会などが、婦人参政権獲得期成同盟会を結成。
【中国軍閥間に内戦が発生「奉直戦争」】 |
中国内の軍閥間に内戦が発生した。日本軍の支援を仰いだ張作霖がやはり軍閥の呉佩孚の逆襲にあって満洲そのものが危機にさらされる情勢となった。これを奉直戦争と云う。が、浜口首相、幣原外相は動かなかった。これが為「軟弱外交」と評された。その後、呉佩孚の部下だった馮玉祥の反乱にあって、呉陣営は敗退し日本の介入は結果的には必要なくなった。馮の反乱は裏で日本の軍部による謀略だったとの評が立った。この事件は、軍が文官の指揮を越えて政治に手を出す契機となった点で史実的意味がある。
ところが、工藤美代子著「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)が次のように記している。
「近年になってモスクワの新情報が開示され、そもそもこの事件はソ連側スパイの謀略によって動かされていたことが、イギリスの調査でほぼ確実になった。イギリス情報部の秘密文書によれば、実は馮の背後にはソ連=コミンテルンが張り付いていた。馮がモスクワからの指令で動いていた事実は、コミンテルンからの通信を逐一解読していたイギリス情報部の発表とも一致した」。 |
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ラジオ放送開始される。
1.5日、イタリアのムッソリーニ、ファシスタ党独裁体制を確立。
1.7日、連合国財政会議がパリで開催される。
1.12日、海軍陸戦隊、南京の排日運動に対処するため上陸。
1.15日、ドイツでハンス・ルター内閣が成立。ナチス党員が閣僚となる。
1.17日、ロックフェラー、東京帝国大学図書館に400万円を寄付。
1.18日、群馬県世良田村で村民が被差別部落23戸を襲う。世良田村事件。
1.20日、日ソ基本条約調印(国交回復)。
1.22日、施政方針演説で、普通選挙成立・貴族院改革・行財政整理・綱紀粛正を表明。
1.24日、警視庁、軍事教育反対を唱える学生デモを禁止。
1.28日、トロツキー、ソ連革命評議会議長を解任される。
3月、孫文死去。「革命いまだ成らず」。国民党の指導部はおう精衛(おう兆銘)を首班とする集団指導体制に移行。
3.30日、牧野伸顕は内大臣に転じ、1935年(昭和10年)まで在任する。前内大臣の平田東助は「皇室は政治に関与しない方がよい」との立場から「なるべく拝謁せざるほうがよろし」としていた。新内大臣の牧野伸顕は、「昭和天皇に対して積極的に政治指導」との立場から「積極的に拝謁」(倉富勇三郎日記(1933年3月2日)し、内大臣の政治に対する関わり方を180度転換していく。4年間に及ぶ宮内大臣の経歴を活かし依然として宮内省に影響力を保持し続けていく。それまで職務区分の明確だった宮内省と内大臣府を横断する体制を築きあげていき、侍従職と合わせて宮中全体を支配するようになっていった。
【普通選挙法成立】 |
加藤高明第一次内閣の大仕事は普通選挙法案を可決することであった。貴族院と、枢密院が関門となった。枢密院は、選挙権は独立で生計を営むものに付与すべきだとして、「他人の救助を受けるもの」を除外する欠格事項を設けた。これでは学生などに選挙権が付与されないことになってしまう。内相・若槻礼次郎や翰長・江木翼などが奔走し、枢府議長の浜尾新、副議長の一木喜徳郎などが協力して、「他人の救恤を受けるもの」とした。これにより学生が親から援助を受けることは救恤に当たらないことになった。これにより枢密院可決となった。衆議院は苦もなく通過したが難関が貴族院であった。貴族院は「他人の救恤を受けるもの」規定を問題視した。議論は平行線のまま、両院協議会が開かれるに到った。加藤首相が政友会の名うての策士・岡崎邦輔に依頼し、「他人の救助を受けるもの」の上に「貧困のため」という言葉を入れることによって、ようやく協議会が可決、第五十議会において可決する運びとなった。 |
3月、政治的に「大正デモクラシー」による民主化を求める大衆運動が盛んに成り、その成果として遂に第50議会で25歳以上の成人男子全てを選挙人とする「普通選挙法」が成立し、5月公布された。絶対主義的天皇制の枠内での議会主義のスタートとなった。
戦後の普選法に比べると、1・女性の選挙権は認められていない。2・日本内地に限られ、植民地(朝鮮、台湾)の住民には認められていない。3・成人男子の24歳以下は除外、4・戸主でない者は除外。5・住所が一定しない季節労働者も除外、という点でかなり制限が多い。但し、有権者数は前回の300万人台から1200万人台へと3倍強に増えた。
この時期、不況と恐慌を背景に労働問題が深刻化して労働争議が多発している。雇用・労働条件の悪化に対して労働者が反発・抵抗を始めたのが原因。全国に労働組合運動が起きる。これは共産主義運動と結びつき、労働争議は次第に長期化・暴力化している。これに対して政府は治安を乱すものとして仰圧。この労働争議の増加傾向はその後も続いていく。
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シベリアからの撤兵。「寄席の落語家をして、『シベリアシッパイ』と云わしめたシベリア出兵は、皇軍の光輝有る歴史に、拭うことの出来ない汚点を記した海外派兵であった」(「日本戦争外史・従軍記者」、全日本新聞連盟)。
4月、.田中義一、政友会総裁に就任。
【治安維持法制定】 |
4.22日、治安維持法発布[5月19日施行]。第一条は次の通り。
「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りて之に加入したる者は10年以下の懲役又は禁固に処す」。 |
当時の若槻内相によれば、「もともと治安維持法は、・・・・以前から内務省内の宿題であった(古風庵回顧録)」と述べている。同法にも反対が根強く、とくに新聞社は、言論の自由がどこにあるかとして激越に反対した。そこで関係省庁の若槻内相と小川平吉法相が委員会を開いて、新聞の自由な意見までが取り締まられないように、取締のポイントを絞った。つまり、国体変更と私有財産制の否認のみが取締の対象となった。こうして、両院を通過することとあいなった。 |
5.10日、革新倶楽部が政友会と合同、政友会の議席数は136議席の第二党となり、第一党の憲政会に迫った。政友会閣僚は、内閣における埋伏の毒としての役割を果たし始める。
【総同盟第一次分裂】 |
5月、総同盟が第一次分裂。総同盟主流派の松岡駒吉、西尾末広、鈴木文治ら右派が、当時勢力急伸中の日共系「総同盟革新同盟」を除名。左派の労働組合約30が「日本労働組合評議会」を結成した。総同盟は、右派と左派に割れた。 |
5月、北樺太派遣軍撤退完了。
8月、日本農民組合の提唱で、「合法的な単一無産政党」結成の動きが始まった。
【第2次加藤高明内閣成立】 |
8.2日、第一次加藤高明内閣が総辞職した。顛末は次の通り。濱口蔵相の財政改革案に反対し、閣内不統一を惹起した。加藤首相は、どうしても賛成できんか、賛成できんならば、辞めてもらうほかない」と通告したが、政友会閣僚は、「自分らだけで辞めるということはしない」とがんばり続けた。そこで加藤首相は、「そんなら閣内不統一ということになるから、よろしい、自分は辞める」と言って辞表を取りまとめ、捧呈した。往日の犬と猿の護憲体制は、わずか一年足らずで崩壊した。 |
閣内不統一によって加藤高明首相が辞表を捧呈すると、摂政宮は西園寺に後継首班の選考を下問した。西園寺は、「大命再降下こそしかるべし」と奉答する。元老はあまりに露骨な政友会のやりかたを嫌悪した。加藤高明は辞退したが、ついに拝受し、憲政会単独内閣が発足した。8.2日、第2次加藤高明内閣が組閣され、1928(対象15).1.30日まで続く。
総理大臣 |
加藤高明 |
大正15.1.28、逝去 |
憲政会総裁 |
若槻礼次郎 |
大正15.1.28-大正15.1.30、首相代行 |
憲政会 |
内務大臣 |
若槻礼次郎 |
|
憲政会 |
外務大臣 |
幣原喜重郎 |
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|
大蔵大臣 |
濱口雄幸 |
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憲政会 |
司法大臣 |
江木 翼 |
|
憲政会 |
文部大臣 |
岡田良平 |
|
貴族院 |
農林大臣 |
早速整爾 |
|
憲政会 |
商工大臣 |
片岡直温 |
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憲政会 |
逓信大臣 |
安達謙蔵 |
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憲政会 |
陸軍大臣 |
宇垣一成 |
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海軍大臣 |
財部 彪 |
|
薩派 |
鉄道大臣 |
仙石 貢 |
|
憲政会 |
内閣書記官長 |
塚本清治 |
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法制局長官 |
山川端夫 |
大正14.8.10- |
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12月、.農民労働党結成されるも即日禁止。
1.11日、張作霖、東三省は北京政府から独立と宣言。
1.15日、京大などで、社会科学研究会の学生を一斉検挙(京都学連事件。治安維持法の初適用)。京都帝大など全国の学生社会科学連合会メンバーが検挙、最初の治安維持法適用事件。翌1927年5月30日:京都地裁による有罪判決。
1月、若槻礼次郎、憲政会総裁に就任。
1.19日、共同印刷争議。会社側は全員解雇で対抗。2.7日、資本家側の要求容れた労働組合法政府案に対し、大都市各地で大規模な反対デモ。
【第1次加藤高明内閣成立】 |
1.30日、第一次若槻礼次郎内閣(民政党内閣)が組閣される(1927(昭和2).4.20日まで続く)。
総理大臣 |
若槻礼次郎 |
|
憲政会総裁 |
内務大臣 |
若槻礼次郎 |
大正15.1.30-大正15.6.3 |
憲政会 |
|
濱口雄幸 |
大正15.6.3-昭和2.4.20 |
憲政会 |
外務大臣 |
幣原喜重郎 |
|
|
大蔵大臣 |
濱口雄幸 |
大正15.1.30-大正15.6.3 |
憲政会 |
|
早速整爾 |
大正15.6.3-大正15.9.14 |
憲政会 |
|
片岡直温 |
大正15.9.14-昭和2.4.20 |
憲政会 |
司法大臣 |
江木 翼 |
|
憲政会 |
文部大臣 |
岡田良平 |
|
貴族院 |
農林大臣 |
早速整爾 |
大正15.1.30-大正15.6.3 |
憲政会 |
|
町田忠治 |
大正15.6.3-昭和2.4.20 |
憲政会 |
商工大臣 |
片岡直温 |
大正15.1.30-大正15.9.14 |
憲政会 |
|
藤沢幾之輔 |
大正15.9.14-昭和2.4.20 |
憲政会 |
逓信大臣 |
安達謙蔵 |
|
憲政会 |
陸軍大臣 |
宇垣一成 |
|
|
海軍大臣 |
財部 彪 |
|
薩派 |
鉄道大臣 |
仙石 貢 |
大正15.1.30-大正15.6.3 |
憲政会 |
|
井上匡四郎 |
大正15.6.3-昭和2.4.20 |
憲政会 |
内閣書記官長 |
塚本清治 |
|
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法制局長官 |
山川端夫 |
大正14.8.10- |
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加藤高明首相死後の総辞職を受けての西園寺公に下問がくだった。西園寺は、首相死去によって政権が移動することを避けたいと考え、「政界のお使い番」松本剛吉などが収集してくる情報をもとに、摂政宮に対し、今回も憲政会に対して大命降下せられんことを奏請した。憲政会の新総裁となった若槻礼次郎が拝受し、加藤高明内閣の閣員名簿をほぼ引き継ぐ形で新内閣が発足した。若槻内閣が基盤とする憲政会は依然少数党であったから、若槻首相以下は政友本党と提携し、第五十一議会を乗り切ることに成功し、同時に、後の憲本合同への道を開くことになった。 |
2.11日、在郷軍人会、赤尾敏ら第一回建国祭。東京では三万人がデモ行進、紀元節をより国粋化。
2.12日、福本和夫、「社会の構成並に変革の過程」を発表。この頃「福本イズム」隆盛。
3.4日、中野正剛、衆院で、政友会総裁・田中義一が陸相時代に機密費400万円を受領と弾劾。田中義一の機密費横領事件問題化、追放。
3.5日、左翼を排除して、労働農民党結成。
3.18日、北京で反軍閥大会。軍警が発砲し、死者多数。
3.20日、蒋介石、軍の共産党員を逮捕(「中山艦」事件)。
3.末日、学連事件。
6.10日、ソウルで共産党指導下に独立要求の「万歳デモ」。数十万人が参加し、二六〇人逮捕。
7.6日、
江木法相、松島遊郭事件で閣僚にも予審の尋問がおよぶ情勢とし、閣議の了解を求める。7.7日、大阪地裁、床次政友本党総裁を松島遊廓事件で予審尋問、深夜におよぶ。
7.18日、長野市で警察署統合・廃止反対県民大会が暴動化、知事官舎などを襲撃し八六三人検挙。
7.23日、朴烈事件の金子文子が獄中で自殺。7.29日、朴烈夫婦が予審調査で寄り添う「怪写真」が東京市内各所に配布され、問題化。
8.2日、日本楽器の争議に憲兵隊が出動。
9.20日、慶大の学生一六人、社会科学研究で無期停学。
10.3日、 ウィーンで第一回汎ヨーロッパ会議開催。欧州の統合を目指し、二四ヵ国が参加。
10.7日、伊で、ファシスタ党が唯一の合法政党に。
10.18日、米氏、レーニンの遺書を掲載。トロツキーとスターリンの性格をずばり指摘して評判に。
10.23日、ソ連共産党、トロツキーを政治局から追放。
10月、日本農民党が旗揚げされた。
11.12日、松本治一郎ら全国水平社の幹部15名が、「福岡連隊爆破陰謀事件」をでっちあげられ検挙される。福岡連隊内差別事件の糾弾運動に対する弾圧。連隊爆破陰謀の容疑。
11.22日、スターリン、一国社会主義建設を説く。
11.26日、中国国民党左派、武漢遷都を決議(蒋介石は南昌を主張)。
12.12日、右派が社会民衆党を旗揚げした。労働農民党が左派無産政党として再編されていった。無産政党の三派鼎立が確定。
12.25日、大正天皇崩御、大正天皇を追号。摂政宮裕仁親王が践祚(即位)し、「昭和」と改元。
大正15年、青森県東津軽郡車力村(しゃりきむら)で、小作争議が起こる。昭和農業恐慌が始まった。
1926(大正15)年、牧野は、元老と共に後継首相の推薦に参加するような政治に関する大きな権限まで手中に収めることとなった。(宮中・府中の両面で強大な権限を保持する牧野伸顕内大臣の存在は宮中だけでなく、その後の政局にも多大な影響を及ぼす事となる)
牧野伸顕は摂政に政治上の練習のため、時々政局の経過について報告することを内大臣の職務とし、加藤高明首相にも摂政への政情報告を依頼するなど、積極的な輔弼を心がけていく。
そしてお飾りに過ぎなかった「内大臣」が天皇陛下の名代として総理大臣との力関係が逆転していく。明治憲法下で「内大臣」は常時輔弼で 「総理大臣」は輔弼が限定的であった。牧野伸顕の政治思想は当時の憲政会よりで政友会に批判的だったため、牧野伸顕から政情報告を受ける摂政の政治思想も牧野伸顕に近い物となっていく。牧野伸顕内大臣の輔弼スタイルの特徴として、(君主である天皇が明確な政治意思を有し、政治の非常時には、その意思を政府に伝達して聖旨に沿うような政治運営を求めていたことがあげられる。そして牧野伸顕の理想通りに昭和天皇の聖旨に沿う形で昭和天皇の意思に反して「支那事変」は拡大していく。それを恐れた「青年将校」が「君側の奸」を排除する為に牧野伸顕を襲撃する。牧野伸顕の輔弼スタイルによると(いい加減な政権運営を行った場合、天皇の信任が去っていく事になる)そして田中義一首相がこのパターンで天皇や牧野伸顕の信任を失い、叱責されて総辞職する事になる。第一次世界大戦により次の世界大戦は総力戦になる事が確実となり日本陸軍は総力戦を模索した。乃木希典大将が将来の日本陸軍の立て直しに期待した田中義一は陸軍内での総力戦体制の構築が不可能である事にいち早く気づき、陸軍元帥への道を捨てて未知数の政治の世界に足を踏み入れる。
これより以降は、「昭和時代史1、第ニ次世界大戦への流れ」


(私論.私見)