大正時代史2、第一次世界大戦前後の流れ


 更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).6.22日

 これより以前は、「大正時代史1、大正初年の動き


1914(大正3)年の動き

【サラエボ事件】
 6.28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者にしてオーストリアの皇太子フランツ・フェルディナンド大公夫妻がボスニア(ヘルツェゴビナ)の首都サラエボでセルビア人過激派(フリーメーソンにしてパン=スラブ主義のグループに属していた)青年・プリンチップに暗殺される(サラエボ事件)。オーストリアは19088年、スラブ系国家のボスニア・ヘルツェゴビナを併合。事件の背景にはスラブ系とゲルマン系の民族主義の対立があった。

  後に、サラエボ事件の大反逆罪裁判が、サラエボで開かれた。この時、裁判において、爆弾テロを行った暗殺者一味のカプリノヴィッチと、その手助けをしたガブリロ・プリンチップは、みずからがフリーメーソンであることを告白。暗殺計画は、セルビアのメーソン・ロッジ「ナロドナ・オドゥプラナ」(人民防衛軍)で計画したことを暴露した。さらに彼らは、ロッジの指導者がセルビアの指導的メーソンのラドスラヴ・カズィミロヴィッチであり、ほかにツビロヴィッチ、グラベス、ツィガノヴィッチ、陸軍少佐ボヤ・タンコシチなどの中心メーソンがいたことを明らかにした。

 そもそも、セルビアのロッジは、ふつうのメーソン・ロッジではない。ハンガリーから『ブロブラティム』(親睦の意味。本部ペテルブルグ)という母ロッジが伝授され、のちに33階級をもつ『スコットランド・システムの最高評議会』に昇格し、様々な下部ロッジを設立した巨大なロッジなのである。そのほかに、セルビアには、フランスの『グランド・オリエント』(大東社)系のロッジが設立されていた。

 サラエボ事件を首謀した『ナロドナ・オドゥプラナ』(人民防衛軍)は、この両方に属していた。つまり、このロッジは、三国協商のもとにあったロッジで、協商メーソンともいうべきものであったのである。となると、暗殺計画も協商メーソンによるものではないかという推理が出来る。それは正しい。なぜなら、オーストリアの皇太子暗殺は、二年前の1912年から決定されており、その決断を下したのが、パリにあるフランス最大のロッジ『グランド・オリエント・デ・フランス』であることが判明している。そこには、こう書かれていた。「大公は、王位につく前に死を迎える”有罪判決”を受けた」。
 7.24日、オーストリアが「事件にはセルビアが関係している」と非難。セルビアに対して宣戦布告した。これをきっかけに、ロシア、ドイツ、イギリス、フランス、オスマン帝国、イタリアなどが参戦。世界大戦に発展した。

 7.8日、孫文が上野精養軒で中華革命党結成大会を開催。


【第一次世界大戦勃発】
 7.28日、ドイツが、オーストリア、ドイツの支持を受けてセルビアに宣戦布告(第一次世界大戦の始まり)。ドイツは、8.1日・ロシア、8.3日・フランス、8.4日・イギリスに宣戦布告。未曾有の世界大戦にはロシア、アメリカ、オスマン帝国、日本も参戦した。1918(大正7)年11.11日まで続いた。
vs
セルビア vs オーストリア・ハンガリー + ロシア(スラブ系)
セルビア オーストリア(1914.6)
ドイツ フランス(ロシアの同盟国):植民地モロッコ争奪
ドイツ ベルギー(ドイツの入国を拒否)
ドイツ イギリス(ベルギーの同盟国):建艦競争
ドイツ 日本(イギリスの同盟国)

 ※三国協商:イギリス・フランス・ロシア (後で + イタリア)
             <世界の結果:3王朝の崩壊>
          1. ロシア:ロマノフ朝崩壊:ロシア革命(1917.11)
          2. ドイツ:ホーエンツォレルン朝崩壊--->ワイマール共和国
          3. オーストリア:ハプスブルグ帝国崩壊

【第一次世界大戦に日本参戦】
 8.4日、政府、欧州大戦に関して、局外中立を宣言し、日英協約の目的が危殆に瀕すれば、必要措置を執ると声明。
 8.6日、戦争支持・不支持で第2インターが分裂崩壊する。
 8.7日、グリーン英国大使、日本に対独武装商船攻撃に限定して参戦を要請。
 8.8日、元老・閣僚合同会議を開催し、対独参戦について協議。
 8.9日、加藤外相、対独参戦をイギリスに回答。
 8.10日、イギリス政府、日本の強硬方針に警戒し、対独参戦要請を撤回。加藤外相、再検討を求め、戦域限定について協議。 8.14日、天皇、日光から還幸。御前会議を開き、ドイツに対する最後通牒の発信を決定。
 8.15日、政府、ドイツに対し東アジアのドイツ艦隊の撤退と膠州湾租借地の引き渡しを求め、最後通牒。

 8.23日、.ドイツに宣戦を布告し、第一次世界大戦に参戦。
 8.25日、オーストリア、日本に宣戦布告。
 8.27日、日本、オーストリアとの国交を断絶する。


 日本はこの戦争に連合国側の一員として参加した。英仏独露の4国は欧州情勢に釘付けとなり、中国に感心を払う余裕を持たなくなった。これを好機と見た日本は、ドイツに対して宣戦布告を行い、ドイツが保持していた山東省の租借地に派兵して、青島(チンタオ)攻略を一手に引き受け、12月には首尾よく占領した。こうして、欧州戦線へは一兵も送り込まずして勝利者となることができ、戦利が転がり込むことになった。

 9.2日、袁世凱、欧州大戦に関し局外中立を宣言。
 9.2日、日本陸軍、青島要塞攻略のため、山東省龍口に上陸(青島出兵)。
 9.3日、袁世凱、山東省に交戦区域を設定し、日本軍の行動を承認。
 9.28日、日本海軍、膠州湾に砲撃を開始。
 10.6日、日本軍、済南を占領。山東鉄道を支配下におく。

 10.14日、日本軍、赤道以北のドイツ領南洋マーシャル諸島占領。ドイツ艦隊ヤルート泊地を占領。
 10.31日、日本陸軍、青島要塞総攻撃を開始。
 11.7日、日本陸軍、青島と青島鉄道、膠州鉄道を占領し、要塞を陥落する。青島(チンタオ)占領。
 11.8日、青島要塞陥落の祝賀提灯行列が東京の皇居からイギリス大使館にかけて行われる。
 11.10日、青島要塞、正式開城。日本軍守備隊入城する。11.26日、青島守備軍司令部設置。11.29日、青島政庁開庁。

 11.15日、英国、日本艦隊のトルコ・ダーダネルス海峡派遣を要請。日本政府これを拒否。
 日本の対応は火事場どろぼうに匹適した。1.ドイツに宣戦布告し、山東半島(当時、ドイツの租借地)の青島とその付近を攻略(大正3年8月23日〜11月7日)。2.日英同盟がありながら、英国を主とする連合国に武力をもってする協力を十分にしなかった。(--->日英同盟破棄(1921年))。3.フランスから欧州戦線への陸軍部隊派遣要請があったが拒否。4.シベリア出兵のさいに、日本と米英の間で意見の相違があった。その結果、米英のアングロサクソン国との緊密な関係にひびが入り、やがて日本の孤立を招くことになった。

 第一次世界大戦日本の好景気を呼び、「戦争恐るるべからず」という風潮を呼ぶ。
      ☆国民:「戦争は儲かる」(■大戦景気=戦争バブル)
      ☆軍人:「ロシア・ドイツ恐るるに足らず」
      ☆政府:「欧米の独善を排す」(近衛内閣)

【西部戦線で「マルヌの戦い」】
 9月、西部戦線で「マルヌの戦い」がはじまった。パリの東、マルヌ近郊。大聖堂跡でフランス軍が機関銃陣地を構築。ドイツ軍を迎撃。ドイツ軍はフランスを奇襲し、その後ロシアと戦う作戦だった。ところが作戦は失敗。敵と味方が、互いに塹壕からにらみ合う長期戦となった。

【第一次世界大戦の歴史的意義考】
 後の展開から見て、欧州戦線を目の当りに経験しなかったことが(それが良いとか悪いとかいうのではない、事実の問題として)、近代戦争の最新方式から取り残される破目になった。この戦争で初めて戦車が登場し、毒ガスも使用された。飛行機が縦横無尽に活躍し、全くそれまでの戦争方式を一変させていた。こうした軍事技術の革新に遅れを取ることになった。以降、日本軍の装備が欧州列強の軍と比較すると完全に時代遅れに成っていく。戦車・機関銃・航空機・毒ガス等の新兵器を駆使しての戦い。各国の兵士の動員率は日露戦争の数倍の規模。大量消費される武器弾薬等の軍需品の補給のため労働者の大量動員。あらゆる物資を戦争遂行に注ぎ込むために行われた食料品や日用品の統制・配給。この大戦で欧州列強の行ったのは、国家の資産を総動員し戦う国家総力戦であった。それに対し日本軍は、日露戦争の装備、日清・日露戦争の時のままの限定戦争を想定しての配備。軍部には至急「軍装備の近代化」、「国家総力戦への備え」の必要を痛感させたが、勝利したことによりその着手に遅れを取ることになった。

 その他、この大戦中に世界初の共産主義運動の結実としてのロシア革命、ファッショ運動等新たな世界情勢が流動化しつつあった。日本は目先の利益に追われ、こうした流れに全く付いていけない「知の腐敗」がこの頃から際立ちつつあった。この世界情勢からの遅れが致命傷となっていく。

 政治的にはこの大戦の結果は、ドイツの軍国主義に対する、英米仏のデモクラシー(民主主義)の勝利と理解された。君主制・貴族制と違い民主制、すなわち政治はお上が決める物でなく人民が権力を所有し政治を決めるというデモクラシー。これは国家の問題点を正す為には特定の指導者に頼るのではなく人民一人一人が自覚を持ち政治を改善する必要があるという考えに繋がる。明治後期の護憲運動から始まっていたデモクラシー運動は、この大戦により正しいものとして国民に認識され、新しい政治システム・政治思想として人々に多大の影響を及ぼし始めるこになる。いわゆる「大正デモクラシー」が始まる。

 〜大戦の勃発により経済界動揺

 開戦直後、世界経済の中心であったロンドンでは一切の機関が停止し、世界経済は大混乱に陥る。各国政府は当時の国際貿易の決済に使われていた「金」の輸出を停止。日本もこれに習う。このため為替取引が途絶され、日本経済も大混乱に陥る。日本の輸出も激減。一種の恐慌状態に陥る。
【石橋湛山の慧眼(第一次世界大戦とその後の日本への警告)】
 「石橋湛山の慧眼(第一次世界大戦とその後の日本への警告)」。
 この問題に対する吾輩の立場は明白なり。亜細亜大陸に領土を拡張すべからず、満州も宜く早きにおよんで之を放棄すべし、とは是れ吾輩の宿論なり。更に新たに支那山東省の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざる所なり。(『東洋経済新報』大正3年11月15日号「社説」) 而して青島割取に由って、我が国の収穫するものは何ぞと云えば、支那人の燃ゆるが如き反感と、列強の嫉悪を買うあるのみ。その結果、吾輩の前号に論ぜし如く、我が国際関係を険悪に導き、その必要に応ぜんが為に、我が国は、軍備の拡張に次ぐに拡張を以ってせざるべからず。
  (同上、大正3年11月25日号「社説」)
 (加藤徹氏著『漢文力』中央公論新社、pp.10-11より孫引き)

 8.19日、北浜銀行、日銀が追加救済融資を断ったため、休業に陥る。8.20日、北浜銀行休業を受け、名古屋の明治銀行・名古屋銀行・愛知銀行で取付騒ぎが起こる。
 9.3日、第34回臨時帝国議会招集(〜10日)。
 9.9日、片山潜、アメリカに亡命。片山潜、3度目の渡米に出発。
 9.19日、友愛会、第1回協議会を開催。
1915(大正4)年の動き

 1.7日、中華民国、日置日本公使に対し、山東省の日本守備兵撤退を要求。1.11日、政府、中華民国の撤兵要求は国際慣例に違反すると解答。
【日本政府が「対支21か条」を突きつける】
 1.18日、日本政府の加藤高明外相は、日置益公使を通じて袁世凱大統領に「5号21ヶ条の要求書」を突きつけた。その内容は次の通り。
 山東省に於けるドイツ利権の継承。

 袁世凱をはじめ中国官民猛反発。2.10日、英国大使、日本の対華要求事項に関する対英通告第5号が漏洩していたことに遺憾を表明。2.11日、中国人留学生ら対華21ヶ条要求抗議大会を開催。2.20日、米国大使、日本の対華要求中第5号の実否について質問。3.16日、駐華英国公使、中国政府に対し、日本の要求を承認するよう勧告する。3.22日、中華民国、日本の要求した満洲に関する5条件をのむ。3.25日、中国政府、排日運動取締告示。3月、上海・漢口・広東で日貨排斥運動が起こる。4.26日、日置駐中国公使、中国政府に21ヶ条譲歩修正の新要求案を提出。5.1日、中国政府、21ヶ条の修正案を拒否。最終対案を示す。5.4日、内閣、対華5号21ヶ条の内希望条項の第5号を削除した最後通牒案を決定。5.6日、御前会議で対華4号21ヶ条最後通牒案を決議。

 5.7日、第5項を除き最後通牒を突きつけた。5.9日、袁世凱政府、21ヶ条要求を受諾(中国では国辱記念日となる)。5.25日、中国袁世凱政権は、二十一カ条の要求を受諾。日中両国間で条約および交換公文に調印(対華21ヶ条要求)。

 第一次世界大戦の最中、「対支21か条」を袁世凱に強要し、受諾させた。外相・加藤高明、陸相・岡市之助、法相・尾崎行雄、参謀本部作戦部長・宇垣一成。山東省のドイツ権益の継承や満州、モンゴルの権益保持、旅順と大連の租借期限延長などを盛り込んでいた。次いで、ドイツ領であった太平洋上のミクロネシア(南洋諸島)も占領することになる。

 但し、中国人民は、「59国辱記念日」として抗日運動の材料とし、その後の反日運動の根拠としていった。

 3.25日、総選挙。憲政擁護運動以来、初めての総選挙となった。大隈内閣は元老の支援を受け、激しい選挙戦を展開した。三菱の支援を受ける大隈首相と三井と関係の深い元老の井上ラインが提携し、今井清一著「日本の歴史・大正デモクラシー」(中央公論社)に拠れば「大隈首相は地方の財産家にも立候補を勧め、政府が与党候補者に対して公認料を出す習慣も、この選挙から始まったのである。大隈首相が組閣してから、早稲田大学の交友を中心に結成された大隈伯後援会が全国各地に結成され、大隈首相は閣僚と共に(陸海内務の三大臣を除く)全国各地に遊説して官民合同の歓迎会を開かせ、遊説途中の停車場では一等展望車上から演説をぶったり、その派手なこと、派手なこと、選挙民を驚かせた」とある。

 総選挙の結果は、与党の立憲同志会が大勝した。同志会の当選者は151名で見事に第一党になった。中正会は35名、政府支持の無所属が56名で、381議席のうち与党は242名と過半数を制した。これまで国政をほしいままに牛耳っていた政友会は104名と、結党以来初めて第二党に転落した。
 1915.4月、イープルの戦いで、ドイツ軍は史上初めて毒ガスによる大規模な攻撃を実施した。銃剣を持ち、単純なガスマスクをつけたフランス人兵士たちが戦闘に備えている。ガスマスクをつけて機関銃を構えるドイツ軍。

 5.17日、第36特別帝国議会招集(〜6月10日)。6.2日、衆議院、朝鮮2個師団増設案を可決。
 6.1日、友愛会全国労働者大会、鈴木文治と吉松貞弥を米国に派遣することを決定。6.19日、アメリカでの排日運動緩和のため、鈴木文治らこの日渡米。労働大会などに出席をする。
 6.21日、陸軍二個師団増設などを含めた大正4年度追加予算公布。7.6日、台湾の台南で抗日武装蜂起(西来庵事件)。77.30日、大隈内閣の閣僚辞表を提出。8.1日、大浦前内相、公職をすべて退き、隠居謹慎にはいる。8.10日、辞表を提出した大隈内閣に対し元老が慰留。連帯責任を訴える加藤外相、若槻蔵相、八代海相のみ辞任し、内閣改造で対応。8.11日、立憲政友会議員総会、大隈内閣留任を反対決議。8月、朝鮮各地で独立運動が相次ぐ。
【戦争景気に沸く】〜貿易収支、出超に転じる
 夏頃から、輸出の激増・海運の活況という兆候が顕著になり、景気は好況になる。この後、直接戦争の被害を受けていない日本は、戦争景気で大好況になる。「産業別事業計画資本」が製造業全体で30倍強の伸び、会社利益率も主要産業総計で、大正7年下期には55.2%の伸び。特に海運業は191.6%、造船業は166.6%の高利益率を示した。まさに、バブル経済も真っ青な大好況。株価は開戦時の3倍に暴騰し日本中が異常な企業熱・投機熱に包まれる。 開戦時から休戦時までの4年間で工業生産は10倍以上に、輸出は3.3倍に、金準備は4.7倍に殖えた。

 大戦期を通じての日本の貿易は、輸出超過約12億円、貿易外受取(海上運賃等)超過約12億円、の大幅な貿易黒字。(ちなみに、当時の国家予算規模は10億円内外三井・三菱・住友などの大財閥もこの間に資産を倍増させるが、いわゆる「戦争成金」とくに「船成金」を数多く排出させる。その代表で新財閥とも言える存在になったのが、神戸の鈴木商店。その総帥金子直吉支配人の強気の経営が成功し、一時期スエズ運河を通る積み荷の一割が鈴木のもの、と言われたほどになる。この大戦は、日本の経済構造をも変容させ、産業経済部門別生産額において、工業が農業を抜く事になる。日本はこの段階でようやく、明治維新以来の農業国から、工業国への変貌を遂げたと言える。

 いわば火事泥式に利益に与ることになった。大戦という神風に恵まれて「成金国」になった。ところが、この巨大な利益による空前の繁栄が財政を放漫化させ、財政再建の自助努力を忘れさせ、大戦後の反動不況の幅を大きくした。輸出利益は20数億円に上ったが、儲けたのは一部の関係者だけで、大衆は一向に潤わなかった。やがて米騒動へと発展していくことになる。
 通貨膨脹、物価高騰、生活費昂上となり、国民全体の収入が増えた。歳入:7億3000万円(大正3年)----->20億8000万円(大正11年)。第一次世界大戦が終わってからは、歳入は減り続け、昭和2年の金融恐慌に至る。(昭和5年において国債(公債)残高60億円)(-->昭和5年、蔵相井上準之助は緊縮財政、金解禁を推進)

 第一次大戦後の日本は、農業国から準工業国へと変質しつつあった。農民の占める割合は50%を切った。

 10.28日、大隈首相、貴族院・衆議院の両議員に対し、防務会議の結果を説明。陸軍2個師団増設、戦艦3隻、駆逐艦8隻、潜水艦2隻の建造計画決定という内容。
 10.28日、日本、イギリス、ロシアの3国、袁世凱の帝政移行延期を勧告。11.1日、袁世凱、帝政移行延期勧告を拒否。11.11日、袁世凱、帝政移行を延期。
 10.30日、台北臨時法院、台湾独立運動の西来庵事件関係者903人に死刑判決。
 12.25日、田中智学、国柱会を創立。
 11.10日、大正天皇の即位礼が京都御所紫宸殿で行われる。同日、叙位・叙勲で、キリスト教関係者も初めて勲位を受ける。11.12日、大嘗祭を行う。12.9日、大正天皇、上野公園に行幸し市民の大礼祝賀を受ける。
 11.28日、警視総監、インドの革命家タクール(ラス・ビハリ・ボース)に12月2日期限で国外退去を命じる。12.1日、ラス・ビハリ・ボース、頭山満邸に入り、続いて相馬愛蔵邸にかくまわれる。
 11.30日、日・英・仏・露・伊の5カ国、単独不講和宣言に調印。
 12.3日、加藤高明外相、日置益駐中国公使に、対華21ヶ条要求を訓令。
 12.5日、第35帝国議会招集。12.18日、衆議院で政友会・国民両党の内閣弾劾決議案を否決。12.25日、大隈内閣は衆議院で二個師団増設予算を否決したため、議会を解散。
 12月、東京株式市場暴騰(大戦景気)〜貿易収支、出超に転じる。
1916(大正5)年の動き

 1.1日、袁世凱、皇帝の座に着き、帝政へ移行。各地で反乱独立が相次ぐ。1.12日、大陸浪人福田和五郎ら、袁世凱排撃を主張し、大隈首相に爆弾を投げつけるが不発で失敗。3.22日、袁世凱、帝政を取り消す。
 1.12日、ロシア皇帝代理ゲオルギー大公が東京に到着。1.13日、ゲオルギー大公と山県有朋会談。大公は、ロシアへの兵器供給を要請する。2.9日、英国政府、日本海軍のインド洋・シンガポール派遣を要請。2.14日、閣議、ロシアに対し、東支鉄道一部譲り受けの提議と日露同盟締結の方針を決定。7.3日、第4回日露協約調印。
 1月、大隈首相狙撃事件。
 1.31日、内閣、予算案に関して貴族院との折衝のため、審議延長2日間を要求。山県有朋に調停を依頼。2.8日、衆議院予算委員会総会、妥協案で成立。2.12日、衆議院本会議で予算成立。
 1月、吉野作造、「中央公論」で民本主義論を展開。雑誌「婦人公論」創刊。
 2.23日、友愛会、労働者問題研究会を結成。3.14日、東京で電車賃上げ反対市民大会開催。
 3月、大隈内閣、蒙古独立工作を黙認。3月、参謀本部、土井市之進大佐に続き、小磯国昭少佐を満洲に派遣し、満蒙独立運動を画策。6月、袁世凱が死去したことなどにより、大隈内閣は、蒙古工作中止を決め、現地の日本人らは反発して独自行動に移す。
 吉野作造と上杉慎吉の間で、民本主義論争が起こる。
 4.22日、段祺瑞政権樹立。
 5.9日、中国革命軍の首領黄興、アメリカから浦賀に寄港。上陸する。7.3日、中国革命軍の黄興、下関から帰国の途に着く。
 5.24日、三浦梧楼斡旋により、原敬・加藤高明・犬養毅の3党首会談が実施される。6.6日、3党首会談で、対華外交・国防方針を一致させ、外界の容喙を許さずの覚書を出す。
 5.27日、三村予備中尉、張作霖爆殺を企図し失敗。
 6.6日、袁世凱没。中華民国大総統に黎元洪が就任。6.19日、政府、非公式に中国南北両政府に対して和協を勧告。
 6.24日、大隈重信首相、参内して後継首相に寺内正毅朝鮮総督を推す。7.6日、大隈首相、寺内朝鮮総督と後継内閣で協議を行い、加藤高明同志会総裁との連立内閣を進める。7.10日、寺内朝鮮総督、首相の勧める加藤高明との連立内閣を拒否。8.6日、大隈首相、寺内朝鮮総督と再度会見し、加藤高明との連立内閣成立を勧める。8.12日、大隈首相、参内して寺内総督との交渉不調を奏上する。
【ソンムの戦い】
 1916.7.1日、英仏中心の連合国側は「ソンムの戦い」で攻勢に出た。攻撃を敢行しようとするカナダ軍。イギリス軍がソンムの戦いで初めて戦車を実戦投入した。ソンムでは、半年にわたる塹壕戦に。連合国側は約90万人、ドイツ軍は約60万人の死傷者を出したが決着はつかなかった。 ソンムの戦いの間、ウヴィレの近くで化学兵器から身を守るため、PH対ガスヘルメットを使用するイギリス機関銃部隊のヴィッカース重機関銃隊。飛行機や飛行船による都市爆撃が初めて行われ、大口径の大砲も生まれた。 イギリスのサーチライトにより、夜の空に静かに迫ってくるドイツの巨大なツェッペリン型飛行船が現れる。

 7.14日、日独戦・日露協約などの論功行賞が、元老・大臣・外交官・軍人に対し行われる。8.19日、論功行賞が議員、文官ら12万人に対し実施され、濫賞ではないかと批判が起こる。
 7.22日、イギリス国庫債券1億円引受を発表。
 8.13日、中国鄭家屯で駐在中の日本軍と奉天軍が衝突。8.14日、日本軍に支援を受けた満蒙独立工作のパプチャップ軍3000が郭家店に到達する。
 8.15日、横浜船渠職工1200人、職工長排斥・賃上げ・解雇取消を要求してスト。8.16日、横浜船渠のスト、鈴木文治の仲介で解決。8.26日、堂前孫三郎、西尾末広、阪本孝三ら、大阪に職工組合期成同志会を結成。9.1日、初の労働法「工場法」が成立。9.1日、西尾末広ら、職工組合期成同志会を結成。
 9.11日、河上肇「貧乏物語」、大阪朝日で連載開始。
 9.25日、立憲同志会、公友倶楽部、中正会が合同を決議。
 10.4日、大隈首相、加藤高明立憲同志会総裁を後任に指名し辞任を表明。元老会議は寺内正毅朝鮮総督を推薦する。10.5日、大隈内閣総辞職。
寺内正毅内閣
 10.9日、山県の強い推挙で、寺内正毅内閣成立。1911年に伯爵。
 成立経緯は次の通り。

 元老たちは大隈排斥後、政府の不偏不党性を保つという希望を朝鮮総督・寺内正毅に託した。元老たちは当初、寺内を支える衆議院党派として同志会を当て込んでいたが、寺内とその組閣参謀・後藤新平は密接に政友会と提携する路線を推進した。寺内は組閣に容喙しようとする山縣に対して、「何でも彼でも閣下の仰せらるることを一々諾くことはできませぬ」と完全に突っぱねている。

 元老の影響をできる限り排斥した寺内の内閣は、彼の朝鮮総督時代の部下友人(蔵相勝田主計)と貴族院議員たち(農商務相・仲小路廉、逓信相・田健次郎)を大量に含む形で発足した。「朝鮮内閣」の異名をとる所以である。その翌日、寺内に振られた立憲同志会は、中正会、大隈伯後援会と合体して憲政会を組織した(総裁・加藤高明)。のちに憲政会は民政党と改称して政友会と張り合う大政党になるが、この後しばらくは非政権党として「苦節十年」の苦渋を舐めることになる。
 経過

 寺内内閣は成立当時から不人気な政権であった。寺内は「二ヶ月持てばよいほう」とかなり暗い観測をしていたし、民衆たちも寺内の頭がビリケン人形よろしく尖っていたために「非立憲(ビリケン)内閣」と呼んで攻撃の手を弛めなかった。
とはいえ、そのビリケン内閣にも使命がある。大隈内閣によって混乱させられた対支外交の刷新がそれであるが、寺内がとったのは朝鮮時代の知己である財界人西原亀三を使っての西原借款であった。借款先は、袁世凱亡き後の中華民国の最大実力者・段祺瑞。寺内内閣は段に梃子入れすることによって中国統一をなさしめようとしたのである(援段政策)。三浦悟楼の肝煎りによって「天皇直属機関」として成立した外交調査会のメンバーであった原敬、牧野伸顕などはこれに反対した。当時の中国は北京に段祺瑞、奉天に張作霖、徐州に張勳、そして南方に孫文を中心にする革命派があって相攻伐していたが、原はむしろこれらの勢力に宥和を図らせる「南北妥協」の促進こそがパワーポリティックスの面からも有利だと説いたが、内閣は寺内首相、勝田蔵相、そして西原亀三を中心に密謀的に援段政策を進めていった。

 2年前には第一次世界大戦も勃発していた。寺内は、朝鮮総督時代、武断統治を実施。桂園時代には陸軍大臣と韓国統監(1910年日韓併合後は朝鮮総督)を兼任し朝鮮の植民地支配体制の構築を推進した。とくに鮮満通鉄道の完成は満州経営体制の確立であり,また大陸における対ソ軍事動員体制の一環をなすものであった。日本の植民地領有を契機とする軍事官僚の政治的独立を担った一人でもあった。

 さらにまた寺内内閣(1916〜1918)は,一方で依然として元老・枢密院・貴族院に依拠したが,他方で経済調査会の設置・軍需工業動員法の制定などの新たな体制を準備していた。〔参考文献〕黒田甲子郎『元帥寺内伯爵伝』1920,同伝記編纂所

 1916年、元帥授与され、また同年10月、大隈重信内閣の後を受けてその推薦を受け組閣、第18代内閣総理大臣を拝命している。寺内内閣は、1916(大正5)年10月9日〜1918(大正7)年9月29日にかけての約2年間存続。内閣の主な顔ぶれは、寺内が首相と外務大臣、大蔵大臣を兼任し、内務大臣として後藤新平(大7.4.23−)を登用している。閣僚は貴族からなり、政党を無視した挙国一致を目指した内閣だった。野党同志会や国民党と対立するが、議会解散・総選挙後に第1党となった政友会が政府支持に回ると、国民党やその他の無所属議員も政府支持を明らかにする。

 そんな中、寺内は様々な改革に着手していった。まず、外交問題を審議する天皇直属の臨時外交調査会を設置。メンバーには内閣の主要閣僚をはじめ、立憲政友会の原敬や立憲国民党の犬養毅らを加え、政策決定をスムーズにするとともに、政治基盤の安定化をはかった。また、国内でも、教育制度の再編成をはかるために臨時教育会議を設置し、教師と教育内容への統制を強化した。このように寺内は国内の経済や社会状況の変化に応じて新しいシステムを提案していくことで世間から高い評価を得たのである。こうして政権安定を図った内閣は、増税、海軍軍拡、中国交通銀行への資金提供(西原借款)などを実施した。

【憲政会結成、二大政党の時代】
 10.10日、立憲同志会、公友倶楽部、中正会が合同して立憲憲政会が結成される(総裁加藤高明)。

 立憲同志会創立者たる桂太郎は、同党の正式発足を見ないまま、大正二年(一九一三)十月死去した。そこで、立憲同志会は、同年十二月二十三日、第三十一回議会召集を前に結党式を行い、第三次桂内閣の外相であった加藤高明を党総理に推挙した。次いで大浦兼武.大石正巳・河野広中の三名を党総務に推し、第一次山本権兵衛内閣に対しては反対党として臨んだ。つづく第二次大隈重信内閣では、加藤高明外相・大浦兼武内相・若槻礼次郎蔵相らを入閣させて与党となり、四年三月行われた第十二回総選挙では、一四四名を獲得して第一党となった。このため、大隈内閣は立憲同志会・中正会などを含め絶対多数の与党勢力に支えられたが、さきの総選挙における選挙干渉で野党の糾弾をうけていた大浦内相が、増師案通過のため多数の政友会議員を買収した疑獄事件により辞表を提出したことから、閣内は紛糾するに至った。大隈首相は内閣改造によって窮地を脱したが、内政外交の失敗を攻撃され、また民心も離れていった。

 五年三月、第三十七回議会終了後、大隈首相は山県を訪ね、後任として立憲同志会の加藤高明を推薦したが、山県に拒否され、朝鮮総督寺内正毅を首班とする寺内・加藤連立内閣を提案した。しかし、寺内は立憲同志会との連立を拒否し、挙国一致内閣を標榜して大隈首相と一線を画した。

 かくして十月四日、大隈首相は辞表を奉呈し、元老の推挙により組閣の大命は寺内正毅に下った。挙国一致内閣をめざした寺内は、結局、同月九日、官僚中心の超然内閣を組織した。

 一方、大隈内閣末期から進められていた非政友派合同による政党組織は、寺内内閣が成立すると、第一党を占めている立憲同志会を中心に、中正会及び大隈伯後援会の後身である公友倶楽部との合同工作が進み、内閣成立の翌日、憲政会を結成した。新党首には大隈重信が辞退したため、加藤高明が就任した。また、党総務には尾崎行雄・安達謙蔵・若槻礼次郎・浜口雄幸ら七名が加藤総裁から指名された。
 この時期に及んで憲政会が結成されたのは、寺内内閣への対決姿勢のあらわれであった。これにより、憲政会は原敬の率いる政友会と相対立する二大政党となった。http://www.sangiin.go.jp/japanese/ayumi/history/
html/h10640.htm

 10.12日、築地精養軒で全国記者大会が開かれ、寺内内閣の成立に関して、元老を批判。閥族官僚政治排斥を決議。
 10.18日、富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場で社会主義者らがスト。10.21日、大阪婦人矯風会、大阪府の飛田遊郭地指定に反対し婦人デモを行う。
 11.9日、無政府主義者の大杉栄が、伊藤野枝と三角関係に陥ったことから、神近市子に刺される(葉山日陰茶屋事件)。
 12.12日、ドイツ政府、米国に休戦の仲介を申し入れる。12.13日、ドイツ講和提議の報道が流れ、東京株式市場が暴落する。12.15日、日銀、金融緩和の調節案を実行する旨声明を出す。12.20日、日本興業銀行を中心に株式市場救済案が成立する。
 日伊通商航海条約破棄に関するイタリアの公文が到着。
 12.25日、第38回帝国議会招集(〜1月25日)。12.30日、連合国、ドイツの講和提議を拒否。
1917(大正6)年の動き

 1.5日、林権助駐中国公使、鄭家屯事件で、士官学校教官・軍事顧問・警察官の派駐要求口上書を、伍延芳外交部長に提出。1.9日、閣議、列国と強調し、中華民国の内政上の紛争には不干渉を決定する。
 1.14日、池見鉄工所の職工630人が20%賃上げ争議を実施(〜17日)。3.14日、室蘭日本製鋼所の職工3000人が賃上げを要求。3.15日、室蘭日本製鋼所の職工、友愛会の指導でストライキにはいる。しかし、指導部が検挙され失敗。22人が解雇される。
 1.15日、寺内正毅首相、対民国問題に関し、憲政会・政友会・国民党の3党首に党首会談を申し入れる。
 1.25日、憲政党と国民党が内閣不信任案を上程。衆議院が解散される。
 2.13日、イギリス外相、講和会議では山東省と南洋諸島のドイツ権益に対する日本の要求を支持すると回答。
 2.14日、雑誌「主婦之友」創刊。
 3.1日、フランス政府、山東省と南洋諸島のドイツ権益に対する日本の要求を支持すると表明。3.5日、ロシア政府、山東省と南洋諸島のドイツ権益に対する日本の要求を支持すると表明。
 3.1日、京都帝大生高山義三ら寺内内閣攻撃演説を行い、警察から政談演説中止を命令される。
 3.12日、ロシアの首都ペトログラードに労兵政権が樹立。1無血革命で、ロマノフ王朝が瓦解される。3.15日、ロシア皇帝ニコライ2世退位。ロマノフ王朝滅亡。ルヴォフ仮政府樹立。3.21日、米国、ロシア仮政府を承認。3.22日、英・仏・伊の3カ国、ロシア仮政府を承認。3.27日、内閣、ロシア仮政府の承認を決定。4.4日、駐ロシア大使、仮政府に対し承認の公文を提出。

 1917年ロシアでは革命が起き、世界で最初の社会主義政権、ソビエトが誕生した。


 4.6日、米国、ドイツに宣戦布告し大戦に参加。
 4.20日、第13回衆議院議員選挙。政友会が第1党に返り咲く。
4.22日、世界における本格的な毒ガス戦のはじまり。ベルギーの町、イーブル付近の塹濠で好適な風が吹くのを待っていたドイツ軍は、午後5時30分から大量の塩素ガスをフランス・アルジェリア軍に向けて放射しはじめた。
 (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.1)

 1915年に初めて初歩的な戦闘機が戦場に投入され、ドイツと連合国が大空の支配権をもって争った。


 5.1日、在京の社会主義者ら34人が、山崎今朝弥宅でメーデー集会を開き、ロシア革命支持を決議。
 5.2日、松方正義を内大臣に任命する。
 5.11日、日米協会発会。
 6.19日、三菱長崎造船所で、労働者12000人が、賃上げを要求してストライキを実施。6.29日、三菱長崎造船所のストライキ解決。7.20日、富士瓦斯紡績押上工場で賃上げ要求ストが行われる。7.21日、大阪鉄工所因島工場で3割賃上げストが行われる。7.23日、大阪鉄工所因島工場のストライキは、指導者検挙で敗北に終わる。7.28日、佐賀県東松浦郡三菱芳谷炭坑で、坑夫4000人が5割賃上げストを実施 (会社側、暫時改善を約束)。8.3日、富士瓦斯ストライキ、会社と戦時手当1割増で妥結。
 6.20日、国民党、犬養毅を党総理に指名。
マルタ島に日本海軍の慰霊碑】
 「UAE・トルコ・アルゼンチン・メキシコ・ブラジル・イタリア海軍」は日本寄港のたびに必ず靖国に詣でる。「悪の枢軸」扱いのイラン大使が毎年ヒロシマ・ナガサキ慰霊碑に花を手向ける。マルタ島に日本海軍の慰霊碑がある。これらは日本では報道されない。日本海軍は「地中海の守護神」と呼ばれて、マルタ島には旧日本海軍の慰霊碑がある。なぜ、日本から遠くはなれたマルタ島に旧日本海軍の慰霊碑があるのか?マルタ島は、地中海の中央にあるマルタ共和国領の島である。第一次世界大戦が勃発すると、日本の盟国イギリスから、日本に対し日本陸軍のヨーロッパ派兵と金剛型戦艦の貸し出しを求めてきた。が、日本は遠方のヨーロッパに軍隊を送るのは無理だと断る。その第一次世界大戦に参戦した日本は、ドイツの植民地だったマリアナ諸島やパラオなどの南洋諸島を占領する。これが第一次大戦後に国際連盟の委任統治として、日本の治政下に置かれるきっかけになった。太平洋では一定の軍事行動を行った日本だったが、イギリスからの派兵要請を断り続けては日英同盟の関係上まずいという観点から、日本艦隊の派遣が決まる。それが地中海で船団護衛に就いた第二特務艦隊だった。

 日本の艦隊が地中海船団護衛を始めて間もない1917年6月、日本の駆逐艦「榊」がドイツの潜水艦U-27から雷撃を受け「榊」艦長以下59名が戦死した。かろうじて「榊」は沈没を免れ、イギリス駆逐艦の手助けを得て近くのクレタ島まで曳航された。「榊」の戦死者はマルタ島に埋葬され、彼の地には現在も慰霊碑が残っている。この日本海軍の地中海船団護衛によって多くの商船や輸送船が守られた。この日本の功績によってマルタ島に日本海軍の慰霊碑がある。

 7.14日、第39特別議会で、戦艦8隻、巡洋戦艦4隻の建造などを含めた追加予算が成立する。7.20日、閣議で、中国段祺瑞政権を財政援助する一方、南方革命政権とは交渉しないことを決定する。
 7.21日、ロシア・ケレンスキー内閣成立。

 8.1日、友愛会、労働争議の頻発とそれに対する弾圧激化をうけ、会員の自重を訴える。


 8.1日、ローマ法王、世界大戦の講和斡旋を宣言。9.15日、政府、ローマ法王の講和斡旋を拒絶。


 8.14日、北京政府、ドイツに宣戦布告し大戦に参加。9.13日、中国南部の革命政権、ドイツに宣戦布告し大戦に参加。


 横浜正金銀行が、1000万円の対華改革借款前貸契約成立。


 9.10日、早大生1000人が5教官馘首に反対して集会を実施。9.11日、早大天野派学生、大講堂に立て籠もる。9.22日、早大学生立て籠もり事件解決。


 9.10日、広東軍政府樹立。


 9.12日、金貨幣・金地金輸出取締令公布(金輸出の禁止)。


 10.24日、ロシア政府、日露通商航海条約破棄を通告。


 11.7日、ロシアでボリシェビキがケレンスキー政府を倒し、世界で最初の社会主義政権、ソビエトを樹立。 (ロシア革命史については「別章【ロシアマルクス主義運動考】」で確認する)


 11月、石井・ランシング協定(日米間の中国問題協定)。


 12.2日、フランス政府、連合国会議で、ロシア革命に対する干渉策として、日米連合軍によるシベリア鉄道占領案を提議。


 12.6日、堺利彦、加藤時次郎ら、成人男子への普通選挙誓願と、普通選挙演説会の開催を協議。演説会は当局の弾圧で中止に。


 12.6日、中村太八郎・大井憲太郎ら、普通選挙同盟会を再興。


 12.22日、ソビエト、ドイツ・オーストリアと講和交渉を開始する。


 12.25日、第40帝国議会招集。


1918(大正7)年の動き

 1.1日、英国外務次官、珍田駐英大使に、日本軍主力と英・米3カ国で、ウラジオストク派兵を提議。
 1.8日、米国、第1次世界大戦終結を目指した平和綱領14ヶ条を発表。

 1.12日、政府、居留民の保護を目的に、ウラジオストクへ軍艦2隻派遣。


 1.26日、農商務省、三重県津の商人岡半右衛門に対し、米の買い占めについて戒告を与える。


 1.28日、堂島米穀取引所立会を中止して、政府の定期市場干渉策に反対を表明。


 1月、吉野作造ら普選研究会を設立。


 2月11日、憲法発布30周年祝賀国民大会開催。民衆と警官が衝突。


 2.12日、衆議院、8・6艦隊編成を含む予算案修正可決。


 2.13日、貴族院、8・6艦隊編成を含む予算案可決。


 3.日、友愛会が紡績労働組合結成。


 3.3日、ソビエト政府、ドイツ・オーストリアと講和条約を締結。


 3.7日、アメリカ政府、日本に対しシベリア干渉は最終平和会議の決議に委す旨の声明を日本に求める。


 3.19日、日本、シベリアで自衛手段を取ることもあり得るとアメリカに通告。


 4.3日、友愛会、創立6周年大会開催。


 4.5日、日英両国の陸戦隊がウラジオストクに上陸。


 4.6日、ソビエト政府、シベリア戦争状態を宣言し、赤衛軍分遣隊編成を命令。


 5.14日、ソビエト・チェリアビンスクの駅でドイツ・オーストリアの捕虜とチェコ軍が衝突。さらにチェコ軍とボリシェビキ軍が衝突する。


 6.17日、ロシア皇帝一家謀殺される。


 6.21日、ロイド・ジョージ英国首相、珍田捨己駐英大使に、日本軍のチェコ兵保護のためのシベリア出兵を要請。


 6.23日、孫文帰国。


 7.8日、米国政府、日本にチェコ兵保護のためのウラジオストク日米共同出兵を要請。


 7.12日、徳山湾停泊中の戦艦「河内」が爆発沈没。645人が死傷する。


 7.17日、政府、ウラジオストク日米共同出兵に関して、兵力制限なしで同意すると返答。


 7.18日、農商務省、堂島米穀取引所に、米価暴騰のため定期取引無期限停止命令を発する。.米価大暴騰、東京米殻取引所立会停止。

 7.23日、富山県下新川郡魚津町で、漁師の妻ら数十人が、米価高騰防止のため、米の県外積出し中止を荷主に要求。(米騒動の始まり)


 7.23日、農商務省、主力米仲買人の伊藤延次郎に警告を発する。


 7.31日、米価暴騰が止まらず、東京米穀取引所の立会が停止。


 7.31日、泰平組合、中国財政部と第4次兵器売り込み契約2242万円分を成立。


 7.31日、米価暴騰により、すべての取引所の立会を中止。


 8.1日、名古屋の米穀取引所の立会が停止する。


【シベリア出兵】http://www3.kiwi-us.com/~ingle/sib/siberian%20expedition.html
 8.2日、内閣、シベリア出兵を決定。8.3日、第12師団に動員令が下る。8.12日、陸軍、ウラジオストクに上陸。8.24日、日本軍増援部隊、ウスリー・バイカル方面へ出動。これを「シベリア出兵」と云う。

 ロシア革命の波及を恐れたアメリカ、イギリス、フランス、そして日本の4カ国はシベリアにいるチェコスロバキア軍の捕虜救出を口実に出兵した。寺内は、このシベリア出兵のために軍備の拡張を進め、国民への増税も実行していった。更に、世間からの批判が高まると、世論を弾圧していった。こうして寺内内閣は、『軍閥内閣』といわれるようになった。

 この革命によっていわゆる第一次大戦の東部戦線は崩壊。ドイツ勢力がシベリア鉄道を経て東漸してくる虞が生じてきた。アメリカもこれを恐れ、シベリア抑留中のチェッコ・スロヴァッキア兵団を救うために日本に対して共同出兵を求めてきた。寺内政権はこれに同調して、外交調査会における原、牧野、西園寺などの反対を押し切ってこれに応じ、ウラジオストックに相次いで日米陸軍が上陸していった。これをシベリア出兵と云う。資本主義諸国が革命の波及を恐れて武力干渉に乗り出したということであり、日本は生命線の満州、朝鮮を守り、それをきつかけに沿海州−東シベリアでの権益拡大を図ろうとしていた。

 各国とも武力干渉の無益を悟り2年余で撤兵したが、現地日本陸軍は外交調査会の意志に背いて戦場を拡大していった。アメリカは日本に対して強烈な不信を感じ、隣国の中国も不快感を示した。剽悍なコザック兵は寒さに慣れぬ日本兵を襲って甚大な出血を強い、現地軍は参謀本部に増兵と増糧要請を立て続けに打電した。こうして日本だけがずるずると4年余シベリア駐兵を続けた挙句、戦死者3千人を出して、戦費10億円を浪費した。

 1918.8月、メッセンジャードッグが戦場を駆けた。
【米騒動各地に起る】
 1918(大正7)年、米騒動が発生した。これを確認しておく。

 この頃、第一次世界大戦による物価の高騰に増税が加わり、社会不安が広がっていた。こうした折、政府のシベリア出兵決定により米の投機熱が高まり、米価がうなぎ昇りに上がった。働き手の男の工賃が50銭と云うのに、一升が45銭まで値上がりした。

 7.23日、富山県魚津市の漁師たち女房40数名が浜に集まり、米価が上がるのは米を他所へ持っていくからだとして、はしけ船に米俵を運ぶ仲仕達の作業を実力で阻止した。蒸気船は虚しく出港した。これが引き金となって東北などを除くほぼ全国で米屋や高利貸しが襲われる大暴動となった。これを「米騒動」と云う。

 8.3日、隣の滑川、中新川郡西水橋、生地などの漁師町でも二千人を超す群集が、地主、大米穀商宅へ押しかけ、米の安売りと移出阻止を訴えた。地元紙の富山日報、北陸タイムスを通じて全国へ報道された。
 8.10日、名古屋、京都で暴動。
 8.13日、全国に暴動が波及、軍隊が鎮圧に出動する。以後3日に渡り、青森・秋田・岩手と沖縄を除く全国で騒動が頻発。
 8.14日、米騒動により、大阪市内に外出禁止令が出される。内務省、新聞各紙に米騒動の記事を掲載禁止にする通達を出す。報道禁止を要請したが、マスコミは反発した。
 8.16日、米騒動により第4回全国中等学校野球大会は中止となる。政府が穀類収容令公布。
 8.17日、山口宇部炭鉱で、米騒動に連動したストライキが起こり、軍隊が出動。
 8.22日、内相、各地方長官に対し、民心安定・中産階級救済を訓令。

 富山において起こった「越中女一揆」は瞬く間に名古屋、京都に伝播して全国的な暴動に至った。大戦景気でインフレが進み、米価の高騰で国民生活を窮乏させていたのら、商社が米を買い占めて米価を釣り上げ、政府がこれを放置したため、怒った大衆が全国一斉に立ち上がった。1道3府38県の43市、187町、206村(1道3府32県37市134町139村ともある)に広がって数百万人が参加した。政府は軍隊を出動させ38市町村で検挙者数万人、そのうち7708名が起訴される。

 これが「米騒動」である。米騒動はだれか煽動者がいたわけではなく、内務省警保局の捜査にも関わらず政党関係者も社会主義者もこの騒動に関与していなかった。まさに一過性の大狂騒だった。横山源之助は、「日本之下層社会」で採り上げている。寺内内閣は、鎮圧のために軍隊を出動させ、米騒動に関するビラや発言を厳しく取り締まっていった。しかし、それがかえって強い批判を招き、寺内は総辞職を余儀なくされた。

 1918(大正7)年 物価が高騰、米騒動が起こる。鎮圧するも連日暴動が相次ぐ非常事態となって、総辞職となった。辞職後まもなく没。

 同じ頃、国内でも寺内の総理の座を危うくする事件が起きていた。米騒動である。当時の日本では、第一次世界大戦による物価の高騰に増税が加わり、社会不安が広がっていた。更に、シベリア出兵で米の買占めが始まり、米の値段は急騰した。そして、ついに1918年7月、富山県魚津町の主婦達が米の値下げを求めて町役場に押しかけ、これが引き金となって東北などを除くほぼ全国で米屋や高利貸しが襲われる大暴動となったのである。寺内は、鎮圧のために軍隊を出動させ、米騒動に関するビラや発言を厳しく取り締まっていった。しかし、それがかえって強い批判を招き、寺内は総辞職を余儀なくされたのである。

 ニックネームは「ビリケン」。長男の寺内寿一も陸軍大将・元帥。

【寺内内閣辞職を余儀なくされる】
 8.25日、第2回関西記者大会。米騒動の責任追及、シベリア出兵反対、言論弾圧抗議の決議を行う。これについて記した大阪朝日新聞の夕刊記事「白虹日を貫けり」が亡国を示しているとして問題になり発禁処分。

 9.9日、大阪朝日新聞、朝憲紊乱の罪で起訴される。
 9.12日、寺内内閣弾劾全国記者大会開催。
 9.21日、騒動などにより首相寺内正毅辞表を提出。西園寺公望に組閣の命令が下る。寺内内閣は軍隊を出動させて50日に及ぶ騒ぎを力で鎮圧したが、総辞職を余儀なくされた。米騒動は、外交面で失態を演じていた寺内内閣を引き倒すには十分であった。 

 (第38議会の冒頭に国民議会と共に不信任案を提出、議会は解散となる)

 9.24日、中華民国と、済順および高徐両鉄道に関する公文、山東省における諸問題処理に関する公文、満蒙4鉄道に関する公文を交換する。
【原敬内閣誕生】
 9.25日、西園寺公望、首相を辞退して原敬を推薦。9.27日、政友会総裁原敬に組閣の命令が下る。寺内内閣の後継首班の大命は、ついに政党総裁・原敬に降下した。9.29日、原内閣成立。初めて爵位のない首相が誕生する。

 初めは出兵に反対した政友会総裁の原敬(1856〜1921)が寺内の後を継ぐことになった。 1918(大正7)・9.29日から1921(大正10)・11.4日(62才〜65才)までの、3年2ヵ月間爵位をもたない衆議院議員が首相に就任することとなった。平民の身分の者が首相になった初めてのことであり、世間は「平民宰相」と呼び歓迎した。

 原敬内閣は、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣以外は、すべて政党人で構成されていた。外務大臣の内田康哉は、原敬の友人であった。大蔵・高橋是清、内務・床次竹二郎、陸軍・田中 義一、山梨半造(1921年6月9日〜)、海軍・加藤友三郎。

 従来の藩閥、官僚、貴族院の勢力を排して、完全な政友会内閣を組織した。内閣制度始まって以来、19代目にして始めて国民が選挙で選んだ政党内閣ができたのである。

 原内閣は撤兵に踏み切れず、泥沼に入り込む。軍事費乱費で財政悪化に拍車をかけた。原敬は、我が国初の政党内閣を組織し、大戦集結後も積極財政を展開した。

 政友会総裁・首相。原の政治原理は民意の多数を利した政党が内閣を作り、政策を実施すべきもので、閥族の指名による内閣を否定。原は1900年(明治33)、政友会の初代幹事長、3代総裁となって、政友会を近代政党に脱皮させた。党総裁・代議士としての原が1918年(大正7)首相になると、世人は平民宰相としてこれを歓迎。原の開明性は皇太子の欧州視察旅行の推進実現に代表される。普選は時期尚早として、地租3円を有権者とする制限選挙で国会に政友会の絶対多数を実現した。しかし原はその開明性のために1921年東京駅頭で暗殺された。               

【原敬の後継経緯】
 山縣は、京都閑居中の西園寺に目をつけ折衝した。殆ど激論的に執拗に西園寺の起つべきことを勧めたところ、西園寺は、「仰せごもっともである、けれども遣れない」と拒絶した。山縣のブレーンの一人であった松本剛吉は、山縣から経過を聞いた後、「然からば原総裁は如何でござりませうか」と諮問した。山縣は返事をしなかったが、松本は、その「政治日誌」の中で、「ここで私は山縣公の意中の人は原総裁であると電光石火的に感じた」と記している。翌日、松本が再び山縣に原をすすめると、山縣は、「さうさ、原でもよかろう」。

 だが山縣は、純然たる政党総裁に政権を渡すことを避けようとし、西園寺が参内したときに不意打ちに大命を降下させた。が、西園寺はこれを曲げて拝辞した。こうして、遂に原に大命が降下することとなった。原は帰宅したところをジャーナリストの前田蓮山につかまえられた。「決まりましたか」と聞かれ、「決まったよ」と応えた。その理由として、「米騒動だな。あの時若しわが党が煽動でもしてみ給へ、大変なことになっていたに違いないよ。官僚内閣の無力なことが、山縣にも良く呑み込めたのだ」と述べた。その内閣は、「官僚派、貴族院からも数名迎えた妥協的内閣」という大方の予想を裏切って、陸海軍をのぞく全閣僚は政友会から迎えられ、純粋な政友会内閣がここに成立した。

 9.25日、西園寺の推挙で政友会の原敬が奏請され、9.27日、原敬は組閣を命ぜられ、9.29日、原敬の政友会内閣成立。日本の憲政史上初の純粋政党内閣(本格的政党内閣)が誕生した。
【原敬の履歴と政治思想】
 原は、明治維新直後に、盛岡から上京、新聞記者をした後、外務省に勤務する。伊藤内閣の外相であった陸奥宗光らに才覚を認められ、外務次官、朝鮮公使を歴任した。1897(明治30)年、41歳の時、大坂毎日に請われて3年契約の社長に就任。入社挨拶は次の通り。
 「眼中に政府を置かず、また一部の人民を重しとせず。時に政府の忌諱(きい、忌み嫌うこと)に触るることあるも、あるいは世上の攻撃を受くることあるも、期する所気国家の富強隆盛に在るなり」。

 伊藤博文が、立憲政友会を組織し、原を誘う。明治から大正初期にかけては、明治維新の元勲たちによる薩長らの藩閥政治が横行し、歴代の首相は官軍側出身の士族が独占していた。原は、次のように批判していた。
 「閥族の任命により首班を得た政党が、選挙によらず議会内に多数を占めたとしてもこれは超然内閣であり政党政治とは言い難い。政党政治とは、選挙により多数を制した政党が首班の任命を得て内閣を組織することである。政権の異同の決着は国民多数の判断を待つべきもので、閥族による決定は戦国時代の様相に外ならない」。

 原は、国会に基盤をもたない閥族の指名による内閣の在り方を批判していた。

 1900(明治33)年、原は、伊藤博文の創設した政友会の初代幹事長となる。1914(大正3)年、西園寺公望の後を継ぎ第三代総裁に推された。原は、政友会を本格的政党へ脱皮させた。そして1918(大正7)年、歴代の士族出身の首相に代わって平民として初めて首相の座につき、積極的に藩閥政治の悪弊の排除につとめました。

原内閣には大戦末期の大問題が重畳して押し寄せた。目前にあるのはシベリアに駐兵する日本陸軍六万の去就であり、山東半島問題であり、第一次大戦の戦後処理問題であった。内政では、普通選挙問題であり、小選挙区制導入問題、米騒動問題、労働運動の勃興であった。

 原内閣はこの輻輳した大問題の群を手際よく整理していった。まず第一次大戦のパリ講和会議に対しては西園寺公望全権のほか、牧野伸顕、珍田捨巳などが全権公使として派遣された。

 つづいて在シベリア日本陸軍の処遇については、すでに当初の目的であったチェコ・スロヴァキア兵団の救出も成功した今、長期間にわたって駐兵をつづけるのは国内外政上共に得策とは言えない、という原首相、内田康哉外相、田中義一陸相の一致によって撤兵が実現していった。兵力三万、馬匹五千などが陸続として故国に帰る中、突発したのは尼港(ニコライエフスク)事件であった。赤軍と日本陸軍が沿海州ニコライエフスクにおいて衝突、またロシアに成立したソヴィエト政権は、一種の亡命政権であるオムスク政権を攻撃して潰走せしめた。参謀本部はこの状況において硬化し、出兵継続を主張する上原勇作総長と、大部分撤兵を唱導する田中陸相との間に激烈な対立を醸成した。結局、撤兵主張が通過したが、田中も上原も辞意を表明し、さきに田中陸相が辞任して山梨半造次官が昇格した。

 日華情勢も刻々と変化した。寺内内閣の外交調査会における原総裁が「援段政策」を厳しく批判し、むしろ南北妥協をはかるべきであるとの持論を展開した。原内閣がその方針に従って対華外交を進めていくが、事態は寺内内閣の時と大きく変化しようとしていた。つまり、山東問題に端を発する反日暴動の激化、また段祺瑞の直隷派と安徽派の戦争(安直戦争)が始まり、原内閣はあわてて北京親日派に大規模な梃子入れをせざるをえなくなっていった。南北妥協どころではない、日本は満蒙権益を守るために汲々とせざるを得なくなっていたのである。ここで日本が目を付けたのが、安直戦争においてキャスティング・ヴォートを握った奉天軍閥の張作霖である。日本はこれ以降、急速に張と結束してゆくことになる。

 原と元老の関係はどうだったであろうか。山縣は政党を嫌うことおびただしかったが、もはや彼の政治的地平上に原以上の政治手腕を持つ政治家を見いだし得なかった。山縣は政党を嫌いつつも、急速に原に傾倒し、寄り添う。両者の結合が完成したのは明治国家体制の中枢部に機能障害を見いだしたからである。つまり、大正天皇の脳病の進行であった。

 大正天皇はすでに議会開設の勅語を読むことすら困難となり、国務を執るあたわざる状況となっており、摂政設置が避けがたいものとなる。幸いにして、皇太子裕仁親王は壮健であり、帝王の風格に満ちあふれていた。二人は驚喜するが、もうひとつの問題が浮上する。その皇太子の妃となるべき久邇宮良子は島津家の血を引き、その島津家には色盲の系統がある、というのである。

 山縣は久邇宮家に婚約拝辞を勧告したが、久邇宮良子はこれを拒否。このやりとりが東宮御学問所講師・杉浦重剛から右翼に流れ、頭山満など右翼の巨頭や島津家を盟主とする薩派は山縣を激しく攻撃し、山縣はついに栄爵拝辞、枢密院議長を退任する上奏をなした。山縣は敗北し、「俺は勤王に出て勤王で討ち死にした」
 と興奮憤慨し、原も「古いかも知らぬが切腹いたす」と落涙するありさまであった。

 ともかく、この問題は予定通り久邇宮良子が天皇家に輿入れすることで決定され、山縣は失脚。原もこのころに右翼から暗殺予告をうけることがしばしばで、二月二十日には遺書をしたためている。現に、のち近衞文麿が西園寺の秘書・原田熊雄に、「右翼の巨頭の五百三良三が、数日後に原は暗殺されるということを告げに来た」
 と語っている。そしてその原は、まさにその予言の通り、東京駅において近畿政友会大会に出席すべく下阪のおり、転轍手・中田艮一によって刺殺された。短剣は心臓に達し、それが致命傷となったのである。

 山縣はこれを聞き、愕然として涙にくれた。かつて明治国家草創の同僚であった大隈の死去すらその嘆きを減殺することはなかった。こうして二月朔日、山縣も逝去する。最高の権威を持つ元老と、最大の政治力を持った首相がともに死に、その大きな穴を補完しうる後継者はどこにも居なかったとなれば、この時代の再現はもはや不可能であった。
  http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/
Taisyou-naikaku/19-Hara-Seiyukai.htm

 9.28日、大阪朝日新聞の村山竜平社長、右翼黒竜会に襲撃される。
 10.8日、米国、対華新4国借款団編成を、日・英・仏に提議。
 10.15日、閣議、シベリア出兵軍はザバイカル以西に進出しないと決定。この月までにシベリアへ兵力72000人を派遣。
 11.3日、ドイツの軍港キールで水兵が反乱。
 11.9日、ドイツ皇帝がオランダに亡命し、マクス首相、皇帝の退位を表明。エーベルト社会民主党政権樹立(ドイツ革命)。
 11.11日、ドイツ新政権が連合国と休戦条約を締結し、約4年半にわたる第1次世界大戦が終結。

 11.13日、オーストリア皇帝カール退位を宣言し、帝国崩壊。
 11.14日、武者小路実篤、宮崎県木城村に「新しき村」を建設。
 11.16日、米国政府、シベリア出兵の兵力数やシベリア鉄道占拠に抗議。
 11.20日、政府、シベリア出兵数58000人と米国に回答する。
 11.24日、吉野作造、浪人会相手に立会演説会を実施。
 11月、朝鮮総督府、朝鮮半島の土地調査事業を完了。
 12.2日、日・米・英・仏・伊の5カ国、中国北部の軍閥政府と、中国南部の革命政権の両方に対し、和平統一を勧告。
 12.7日、東京帝国大学に、吉野作造・宮崎竜介・赤松克麿・石渡春雄らによって社会運動団体「新人会」が興される。
 12.15日、連合国、対ドイツ休戦期限を翌1月18日まで延長を決定。
 12.23日、吉野作造、福田徳三、今井嘉幸ら、民本主義啓蒙団体「黎明会」を興す。
 12.24日、閣議、シベリア派遣軍の一部撤兵を決定(残留26000人)。
1919(大正8)年の動き

 蔵相は高橋是清。大正8年度の一般会計歳出は15%増、軍事費は46%増、9年度は同16%、21%増の予算を組み、5年前の大正4年度に比べて歳出総額が2.3倍、軍事費は3.6倍に膨れ上がった。財源には、所得税、酒税などの増税と公債増発を充てた。但し、個人所得税の課税最低限引き上げ、扶養控除の新設、累進課税の導入(最高36%)等の社会政策的な配慮をしており、「高所得者に重く、低所得者に軽く」の工夫をしていたことも注目される。

 高橋蔵相は、国債依存政策を活発化させた。明治末期の「桂デフレ」による公債償還促進と非募債主義は、大戦中の大隈、寺内内閣のもとで形骸化されていたが、高橋蔵相はこれを一歩進めた。@・償還の停止(9〜11年度)、A・鉄道、通信、教育事業と植民地経営の公債依存、B・従来、主に国庫剰余金と戦時利得税で賄ってきた臨時費を軍事公債にほぼ全面依存、などに踏み切った。

 1.13日、パリ講和会議全権に西園寺公望、次席全権大使として牧野伸顕(大久保利通の次男であり、吉田茂の義父にあたる人物)らを任命。
 1.16日、友愛会、労働組合公認期成大演説会を大阪で開催。2.2日、友愛会、労働者学生大演説会を神戸で開催。
【バリ講和会議】
 1.18日、パリ講和会議が開催された。ユダヤ人の食べるコーシャをなぞってユダヤ的なものを示唆して「コーシャ会議」と云われた。フランスのクレマンソー首相を議長として、アメリカのウィルソン大統領、イギリスのロイド・ジョージ首相、イタリアのオルランド首相を中心に開かれた。

 日本からは西園寺公望が全権大使として参加した。随員の中には後の日本の指導者となるべき有能な人材が随行しており、松岡洋右、近衛文麿、重光葵、有田八郎、吉田茂らであった。日本初の国際的檜舞台への登場となった。この時、日本代表団の一員として加わっていた珍田捨己(すてみ)駐英大使は、次のような書簡を発表している。

 この時、ウィルソン大統領より14か条の提案が為された。久保田政男氏著「フリーメーソン」は次のように記している。

 「国際連盟の創設、国際労働立法、民族自決など、その後の世界史に多大な影響を及ぼす事項を提議している。国際連盟の創設は、フリーメーソンの世界政府の設立ということであった」。

 ラビ・M・トケイヤーは、「ユダヤ製日本国家」で次のように記している。
 「日本政府は、ユダヤ人が自分の国家をパレスチナに建設しようとしするシオニストの願望を支持し、その要求が実現されることを望む」()。

 1.27日、講和会議で牧野伸顕全権大使が、第一次世界大戦に協力した見返りとして、旧ドイツの権益下にあった中国山東省と赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の無条件委譲を要求。結局、日本は、第一次世界大戦に協力した見返りとして、山東省の旧ドイツ権益と赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の譲渡を要求し、しぶとく交渉し認められるところとなった。

  ドイツは、ワイマール憲法に基づく民主国家への再生を促がされ、合わせてベルサイユ会議では天文学的な賠償金を賦課され、軍備も制限された。
 この時、牧野は、パリ講和会議に参加して「人種的差別撤廃提案」をして保守層からも讃えられている。

 2.19日、普通選挙期成大会開催。2.13日、普通選挙促進同盟会全国学生同盟、普通選挙を求め衆議院までデモ行進。2.15日、京都で普通選挙期成労働者総会開催。2.16日、神戸で普通選挙期成労働者総会開催。
 2.21日、早稲田大学に民人同盟会が結成される。
 2.25日、黒竜江省ユフタ付近で出兵中の歩兵第72連隊田中支隊が壊滅。戦死350人。
 2月、大原孫三郎によって社会・労働問題の研究を専門とする大原社会問題研究所が設立された。
 3.1日、朝鮮に独立運動(3・1独立運動)。朝鮮京城のパゴダ公園で朝鮮民衆が独立宣言。独立万歳の大デモ行進が実施される(3・1独立運動)。これ以降、全土で独立運動が行われ、半年間で136万人が参加、6760人が死亡し、52730人が投獄される。

 3.2日、コミンテルン創設。
 3.7日、堺利彦と高畠素之ら対立し売文社解散。
 3.8日、衆議院、政府の小選挙区制選挙法改正案を修正し可決。3.25日、族院、小選挙区制選挙法改正案を可決。5.23日、改正衆議院議員選挙法公布。有権者納税資格を3円に引き下げ、小選挙区制を採用。
 3.8日、普通選挙を主張した村松恒一郎ら6人、立憲国民党より除名される。3.10日、立憲国民党を除名された村松恒一郎ら、純正国民党を結成。
 3.10日、友愛会、治安警察法17条撤廃臨時集会を開催。4.13日、友愛会関西労働同盟会結成。
 4.3日、雑誌「改造」創刊。
 4.8日、陸軍省、朝鮮騒乱鎮圧のため、6個大隊と憲兵400人を派遣すると発表。
 4.10日、李承晩ら上海で大韓民国臨時政府を樹立。
 4.12日、関東総督府を廃止し、民政の関東庁と軍事の関東軍司令部を設置する。4.15日、朝鮮総督府、政治犯処罰令を公布。
 4.21日、政府、パリ講和全権委員団に対し、旧ドイツ権益の譲渡で進展がなければ、国際連盟規約調印を拒否するよう訓令。(これにより、アメリカが譲歩)

 4.30日、パリ講和会議で、旧ドイツ権益である山東省と膠州湾租借地の日本側譲渡が決定する。中国側猛反発。

 5.4日、牧野伸顕パリ講和全権大使、経済特権と居留地設置を条件に、山東省の還付を表明。5.7日、パリ講和会議で、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を日本委任統治と決定する。

【中国で5・4運動】
 5.4日、.中国に5・4運動(青島返還を要求)。第一次世界大戦のパリ講和条約で、中国に対する日本の要求が認められたことに対して激怒した中国の学生たちが大規模なデモを行う。「五・四運動」と呼ばれる全国規模の民衆運動と発展していった。天安門広場で学生らが集結。「21ヶ条要求の撤廃」「講和条約調印拒否」等を掲げて、列国公使館へデモ行進を実施(5・4運動)。以後、中国全土に拡大。

 5.7日、中国人留学生2000人が、東京で「国辱記念日」デモ行進を行う。

 5.17日、内田康哉外相、山東省の返還を声明。

 6.3日、北京で抗議運動をしていた学生が検挙され、逆に運動が一般市民へと拡大。6.10日、北京政府、親日派の高官曹汝霖ら3人を罷免。6.28日、ベルサイユ講和条約調印。北京政府は調印を拒否。11.16日福州で抗日学生デモが在留邦人と衝突。12.7日、天安門広場で抗日国民大会開催。

 5.18日、渡辺政之輔ら、新人会の支援で、新人セルロイド職工組合を結成。
【 ベルサイユ条約調印】
 6.28日、 ベルサイユ条約調印。北京政府は調印拒否。 国際連盟の枠組みがつくられ、国際労働機関(ILO)の設立なども定められた。敗戦国ドイツは全ての海外植民地を失い、莫大な賠償金が課された。これは、のちにヒトラーの台頭を招く遠因となった。第一次世界大戦を経て、ロシア帝国(ロマノフ朝)、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国と4つの帝国が世界地図から消えた。 パリ・凱旋門の下には第一次世界大戦で戦死した「無名戦士の墓」がある。各国でも、身元不明の戦死者を埋葬したモニュメントがつくられた。

 第一次世界大戦でイギリスの海軍大臣だったウィンストン・チャーチルは、第一次世界大戦をこう総括している。

 「もはや、アレクサンダーやシーザーやナポレオンが彼らの麾下の大群を勝利に導き、部下の兵士と苦難を分ち、緊張したわずか2、3時間の決心と身振りとをもって、帝国の運命を決しつつ、馬上豊かに、戦場において、四辺を睥睨(へいげい)するような図は、もはや再び見られないことであろう。しからば、将来はどうであるかというに、彼等は、今日の諸官庁のように安全な、閑静な、陰気な事務所の内、書紀たちに取り巻かれて、ゆったりと座していることになるであろう。しかるに、他の一方では、幾万、幾十万を算する戦士等は、こうした英雄が電話一つ掛けただけで、機械力により、片っ端から殺戮され、または窒息させられることであろう。すなわち、我々がこれら偉大なる指揮官を見たのは今回の大戦が最後であったろう。否、恐らく、あの大戦禍(アルマゲドン)が起こる以前に、こうした英雄たちは絶滅に帰したのであろう。次の時代の争闘は女や子供や一般民衆を殺すことであろう。そして、勝利の女神は、最も巨大なる規模の下にこうした争闘を組織した勤勉なる英雄と悲しき婚姻をなすであろう。(中略)来るべき戦争に彼等の用いるべき手段は、無制限に、ことごとくを粉砕し、恐らく一度それを使用し始めた以上は、到底手に負えないほどの破壊の動力及び過程であろう。人類は未だかつてこうした地位に立ったことは一度もない。人類は、その道徳心において、目立つほどの改善もされず、より賢明な指導者に率いられたのでもないのに、彼等は生まれて初めて、人類自身の総絶滅を達成すること請合いという器具を手に入れたのである。これ実に、人間のあらゆる栄光と努力とがついに彼等をそこまで導いてきたところの、人類運命の先端であるのだ」(非凡閣『世界大戦』第9巻 ウィンストン・チャーチル著、広瀬将等訳 1937年)。


 この年、和辻哲郎の「古寺巡礼」が著されている。


 これより以降は、「大正時代史3、大正ルネサンスの光と影






(私論.私見)