山本又



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「山本又・(**期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝




【山本又プロフィール】(**期)(陸軍予備少尉)
 山本又予備少尉の四日間 [ 憲兵訊問調書から ]」。
 何が為に本事件を起したるや。
 久しい間の上司の悪弊の累積だと信じます。
 加入の原因如何。
 昭和九年夏頃 静岡歩兵第三十四聯隊に居た山田洋大尉の紹介に依り磯部の明治神宮に在る下宿を訪ねたのが、磯部氏と知合になったそもそもです。其後一、二回参りました。又 新宿 「 ハウス 」のとき一回、此度の家には三回ばかり行きました。二月二十三日に自宅に磯部氏来訪し何等要件を申さず、二月二十五日午後六時迄に磯部氏の所に行くことを約束つけられました。
 二月二十五日に行きしや。
 午後六時少し過ぎに磯部氏の所に参りましたら、今夜始めるが歩兵第三聯隊に集合せよと言はれました。
 何を始めるのか聞かなかったか。
 聞きませんでしたが、昭和維新を断行だと思ひました。
 どうして断行する時期と思ったか。
 「 今にして時弊を改めずんば 」の御勅語の今が恰度今日だと思ひましたから断行の時期だと思った。
 昭和維新を翼賛し奉る方法如何。
 陸軍大臣に嘆願し これが聞かれることによって、昭和維新が断行出来ると考へました。
 嘆願の内容如何。
1、上御一人親政
2、天皇機関説の絶対排撃
3、国防の充実
4、国民生活の安定
5、邪教の排斥
 今度の事件に於ける活動状況を述べよ。
 二月二十五日午後八時頃に歩兵第一聯隊に参り、栗原中尉の所に赴き、同聯隊の第十一中隊に行き丹生中尉に挨拶し、蹶起の趣意書を原紙に書き印刷させました。
 趣意書は誰から手渡された。
 村中氏からと思ひました。はっきり憶へません。
 其時の服装は如何。
 指揮刀をつり軍服で聯隊へ参りました。
 背広で行ったのではないか。
 そうでありません。背広は磯部氏で栗原中尉の中隊で着換へしたと憶へてます。
 拳銃と軍刀はどこで手に入れたか。
 栗原中尉の隊で栗原中尉からもらひました。
 其後の情況を述べよ。
 (二十六日)
 部隊から出るときに機関銃の後から随行し、陸軍大臣官邸へ参り、表門の処に居た憲兵伍長と握手し、「 御苦労様 」 と云って 又、「 陸軍大臣は負傷させないから 」 と云った後、出入者を表門の処で監視して居りました。其の間、時々憲兵の詰所で休んで居りました。山口大尉は大臣官邸に居りまして、二月二十七日の部隊を有する指揮官に宿舎命令を下したので、夫々 山王ホテル、幸楽へ参りました。私は新議事堂の小使室に行きました。この命令は、小藤大佐の命令だと思ひました。私は此処から 農林大臣の官邸で夜を明かし、翌日石原大佐殿、満井中佐殿に会ひ、憲兵隊に参りますと、石原大佐殿は錦旗に向へば討伐されると言はれましたから、そんな事のないやうに勉めて居りますと申しました。満井中佐殿が後から来られました。
 其後の状況を述べよ。
 満井中佐殿と憲兵隊似て面会し、次の事をお願ひ申し上げました。山本は年長でありますから、心配して個人として参りました。決して勅命に背きません。そむかない様につとめ、又皇軍同志討は絶対にさせない様に努力致しますから、是非、昭和維新の大詔渙発をお願ひ致します。満井中佐殿申されるには、大詔渙発に就ては、石原さんが心配して下さるから、先づ隊は命令に従ひ集結し、将校は裁きを受けるが良い。山本は是非共、命令通り後方集結させたいが、微力ですから中佐殿が行って将校に話して下さいと申しましたら、中佐殿は憲兵隊長の命を受けて立会った神谷少佐殿と一寸御話の上、夫れでは行かうと満井中佐殿と山本と自動車に乗り、新議事堂に到り、山本は将校に集合を願ひ、中佐殿に命令に服する様話して戴きました。中佐殿は帰られ、山本は便所に行って帰ったら、将校は二、三名居りました。安藤大尉殿と丹生中尉殿だと思ひます。暫らくすると、日本山妙法寺の山村上人外十五、六名法鼓をうつて修行に参りましたから、お願して新議事堂の入口で君国の安泰を祈って戴きました。夫れから、夕方、農林大臣官邸に行きまして、一夜をあかしました。
 (二十九日)
 翌日正午頃と思ひます、磯部さんが飛んで来て、攻撃して来るから整列と云ひました。山本はつかれましたから以前より寝て居りました ( 武装全部を解き )。磯部さんの声で起き上がり、武装を備へて外へ出ました。其時聯隊長殿と山口大尉殿が居られ、是非、後方に集結する様にと磯部さんに話して居りますから、山本は磯部さんに是非、連隊長殿の命令に従ひ、全員整列し、後方に集結させて下さいと云ひましたら、連隊長殿も是非そうして、私の言葉を生かせろと云ひました。夫れから山本は後方が大そう騒がしいので、見ると、若い少尉が七、八十名を指揮して新議事堂の横を陸軍省の方に行きます。兵が非常に競い立って居りますから、大声に静かにせよ、絶対撃ってはならぬと注意しました。夫れから腹痛甚だしく、鉄道大臣官邸の一室で一人腹をおさへて居りました。万平ホテルへ行きましたら、安藤大尉殿が居られました。まだ腹が痛いので応接室に一緒に休んで居りました。其内、安藤大尉殿は全部山王ホテルに引上げるから、後方を見張ろうと思ひますと、参謀少佐の方が一名の将校と二人で奉勅命令の書類を持って参りましたと 兵が云ひますから、此事を安藤大尉に伝へました。安藤大尉は、夫れは連隊長殿を通してもらいたいと云ひますから、山本が出て行って少佐殿に、山本は奉勅命令を謹んで服しますと申上げました。此の時始めて山本は奉勅命令が降つたことを知りました。夫れから部隊の後尾について行き、山王ホテルに行きました。そこで、更に一人の将校に、奉勅命令であるから服さなければいかぬと云ひました。山本は、又戒厳司令官、憲兵司令官に約束申したことがあります。即ち勅命ら反せない様及行軍同士討せぬ様微力ながら努力致します。右二件は武士の一言金鉄と考へ居りました。

 朝、連隊長殿が来られ、兵を集めて呉れと申されますから、兵を集めました。連隊長殿が兵は聯隊長について来いと云はれました。其時、山本はついて行きますと云ひました。連隊長殿は、だまつて居られました。其中、村中、磯部さんが来ましたから、是非、山本の意見に同意して下さい。兵を纏めて先づ靖国神社に参拝し、後退致しませうと皆に云ひました。暫らくして皆同意し、南無妙法蓮華経を三唱し、帰ることになりました。山本は兵は外に出よと申し、外に出し、皆叉銃して石原大佐殿の代りの参謀の方の指揮下に入り、将校も全部外に出て、香田大尉殿が一切まかしたと云ふ言葉を聞き、山本は最後のどたん場でやつと勅命にも反せず、同士撃ちもせず、両司令官閣下に約束せし事を果したと考へ、是より約束通り 天裁を受けるため身延山に行くべく、山王ホテルの裏口から山王神社を通り 町へ出ましたら、警戒厳重でありますから引返し、山王ホテル内の地方人に着物をもらい 又山王神社に至り、中間の神社に国家を祈り夜を其の裏の林にて明かし、三月一日午前八時頃其処を出発し途中で昼食を為し、六本木の歩兵第一聯隊の前にて礼を為し、一夜の宿の礼を心に謝し、乃木神社に参拝、大宮御所を拝し、信濃町より東海道を松田駅に向ひました。其日午後四時頃松田駅に著し 相模屋に宿り 翌日二日午後八時頃出発、自動車に少々乗り 多くは徒歩にて御殿場の萩原の日本山妙法寺に至り、飯塚上人に事情を話し 僧服を戴き此の寺に一泊、三日午前八時頃の汽車にて富士駅にて乗り替へ 身延駅下車 単身身延山久遠寺に参拝天裁を仰ぐ旨を日蓮大聖人の霊に申上げ、清水坊に一泊三月四日午前七時五十分頃老上人耳が遠いので お弟子様及夫人に事情を話し、金五円を置き 此の事変に殉ぜし斎藤実、高橋是清、渡辺錠太郎、天野武輔少佐、野中大尉 其他の霊位の法要を依頼し 且 戒厳司令官閣下憲兵隊に出頭すべく、神谷少佐殿に電報を依頼し、午前八時三十五分の自動車に乗り、身延駅を午前九時十九分発富士駅にて乗り替へ、東海道を経て、午後二時二十分頃品川に下車し、午後三時五分 憲兵隊に到着致しました。
家内に送りし金五十円は其出所如何。
歩一を出発する時に磯部氏が私に当分の小遣として 又 家族の費用として渡しましたから伝令をして家に二月二十六日晩 届けさせました。
磯部の外に知った同志を挙げよ。
村中を磯部の家で知り、其後磯部と共に二、三回会ひました。
陸軍大臣官邸に行きし心境。
大勢で大臣の所に行けば昭和維新が断行出来ると思ひました。此際万一暴行するものがあったなら、自分は止める考へでした。
磯部の所持金を知りしや。
全然知りません。
本件に付 陳述すべきことありや。
二月二十八日の夜 山下少将閣下が鉄道大臣官邸に来訪せられ、村中に後退する様に勧告し居られたのを憶へて居ます。閣下の帰られる際、微力ながら努力し命令に服させたいと思ひますと云ひますと、閣下は 君は修養が積んでる 故物が解かると云はれました。自分は絶対に奉勅命令には反しません、守りました。これから天子様の御決定あらせられた御裁きを受ける決心です。
陳述人  山本又昭和十一年三月四日
 「山本又少尉(予備)証言 」。
 「部隊から出るときに機関銃の後から随行し、陸軍大臣官邸へ参り、表門の処に居た憲兵伍長と握手し、「御苦労様」 と云って 又、「陸軍大臣は負傷させないから」と云った後、出入者を表門の処で監視して居りました」。






(私論.私見)