鈴木金次郎



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「山本又・(**期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝




【プロフィール】(**期)(陸軍予備少尉)
 鈴木金次郎少尉の四日間 [ 憲兵訊問調書から ]」。
二月二十五日
午後十時か十一時頃、
第七中隊長野中大尉が第七中隊班長と第十中隊の各班長に本事件の内容を志達し置き、
二月二十六日
午前零時三十分に各班長自ら兵を起床せしめ、
事件決行の内容を伝えたのであります。
夫れから各班長が各兵に兵器弾薬を分配しました。
全部 ( 営庭 ) 集合したのは二月二十六日午前四時十分頃でありました。
午前四時二十五分頃、歩兵三聯隊を出発しまして、
歩兵第一聯隊の裏門を同聯隊の栗原中尉に案内されて、
麻布区三河台町、赤坂区氷川町、福吉町溜池を通り、
市電電車路に沿うふて警視庁に到着しましたが、
その行軍の序列は第七中隊が先頭で、機関銃(八挺)第十中隊、第三中隊、
夫れで此機関銃は三中隊に各一銃宛を配当、警視庁に向ひ
次の通り配置しました。

警視庁の玄関に在りたる第七中隊の常盤少尉の指揮する小隊が、
警視庁の中に這入り、各通信機関を遮断しました。
警視庁の裏庭に主力を引きつれて居るたる野中大尉が、
警視庁の幹部二名を裏庭の主力の位置に伴ひ出して、
一時此の警視庁を引受けるからと告げ、
沢山の負傷者を出しては御互の為にならんから、
武力行為は避けて庁舎と電話を吾々の専用にして呉れと交渉しました処、
暫く躊躇して居りましたが、
軍隊の事であるから承知しましたと云ひました。
夫れで部隊の主力を警視庁の中庭に集結して、
一部の兵力を以て庁舎内電話室の警戒 及 屋上に陸軍省と連絡の為少数の通信兵を配置、
更に一部の兵力を以て凱旋道路 及 海軍省前附近の道路を遮断しました。

同日午前六時頃
野中大尉より私が内務大臣官邸の占領を命ぜられ、
第十中隊の二ケ小隊を指揮して官邸に行きましたが、容易に官邸を占領することを得たる為、
兵力の多過ぎる事を知り、一ケ小隊を残置、鈴木少尉は警視庁に引揚げました。
二十六日午後六時頃
第一師団の命令で戦時警備下令の事を達せられ、
二十七日の御前八時か九時頃迄警視庁に居りました。

二月二十七日
午前九時頃

野中大尉から帝国議会議事堂に集合を命ぜられ、
警視庁を引揚げ、議事堂に集合しましたけれ共、
野中大尉り警視庁に帰れとの命により、
午後二時頃警視庁に戻りました
再び議事堂に集合せよとの命令を、二十七日午後四時頃野中大尉より達せられ、
同日午後四時過ぎに該議事堂の中に集結しました。
午後四時三十分頃、将校丈け陸軍大臣官邸に集合を命ぜられて集結しましたが、
其時、歩兵第一聯隊第一中隊長山口大尉より宿舎命令を達せられました。
其宿営地区は鉄道大臣官邸に定められ、鈴木少尉は文部大臣官邸に宿営することとなり、
夕食後何もせず寝てしまいました。

二十八日
午前九時頃

誰の命令か判りませんが陸軍大臣官邸に集まれと言はれ、
鈴木少尉は一人で歩いて行きましたが、
途中で某曹長の乗って居る自動車に乗って行きなさいと云はれましたから、
その自動車に乗って陸軍大臣官邸に来ました。
其の時、野中大尉、香田大尉、山口一太郎大尉、対馬中尉、清原少尉、
村中孝次其他数名居りましたが、氏名は記憶とて居りません。
約二十分位の後に、
安藤大尉から将校は幸楽に集れと言はれて
鈴木少尉は村中、対馬と自動車で幸楽に行きました処、
安藤大尉は悲壮の顔色を以て 部隊を離れてはいかん と叱責せられましたから、
夫れなれば帰りますと云ふて村中孝次の自動車便乗させて貰ひ、文部大臣官邸に戻りました。

二十八日
午後二時頃
清原少尉が来て、外は大変面白いから巡察して来たらどうだと言はれ、
下士官二、兵一を連れて溜池より自動車(円タク)で電車線路を沿ひ、警視庁参謀本部前、
永田町通りを赤坂見附に出て左に電車線路に沿ひ幸楽に立寄り、
二、三分して自動車で文部大臣官邸に帰りました。
同日午後十時頃
常盤少尉が酒肴を準備して持って来ましたから、その酒肴を飲食してから二階に上り、
二十九日
午前二時三十分
頃まで寝てしまいましたが、
夫れから起きた処、班長の井沢軍曹が来て、
只今 近衛の聯隊が吾々を攻撃すると云ふ事を告げましたけれども、
吾々は命令に依って警備配置について居るを以て、

配置に就いたのであります。
ところが二十九日
午前五時頃
ラヂオを以て奉勅命令を放送され、夫れを承知しました。

奉勅命令は絶対のものなるが故に、
爾後の行動に附ては中隊長野中大尉の命を待つことと、同中隊長に連絡をとりましたが
中隊長は行先が判明しなかつたため、鈴木少尉は無抵抗の決心をして部隊を
文部大臣官邸に集結して置きました。
二十九日午前七時乃至八時頃
戦車に某少佐、大尉両参謀が乗って来て、
下士官兵を所属部隊に帰せと言はれましたとて、
先づ中隊長野中大尉を探しましたが 行先が判明しませんので、
議事堂に兵を集結して中隊長の命を待つ考へでした所へ、歩兵第三聯隊第十中隊の新井中尉が来て、
内容を良く存じませんが何か訓示をした様でありました。
其時、鈴木少尉は参謀から盛んに追及せられましたので、
自ら議事堂の方へ行って見て来るから待つて居って下さいと云ふて議事堂に行きました。
議事堂には、村中、野中中隊長、対馬、竹島両中尉が居りましたから、
鈴木少尉は中隊長野中大尉に情況を報告した処が、
然らば兵隊を帰して、
吾々将校は自決をしやうと云ふ事を協議して文部大臣官邸に帰りました。

二十九日午前九時頃
歩兵少佐の某参謀から将校は首相官邸に集れと言はれましたから、
途中議事堂へ立寄り、
野中大尉、常盤少尉及鈴木少尉の三人で首相官邸に行きました処が、
其時は既に戦闘状態になつて居った為、陸軍大臣官邸の方へ行きました。
官邸に居りました坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉、清原少尉等が遺書を認めて自決する
覚悟をして居りましたが、
清原曰く
「 今自決したならば吾々の精神を伝ふる者がなくなつてしまうから、出来る丈生存することを 」
主張された為に、自決の決心をしたが清原の意見に左右されて思ひ止まりました。
二十九日昼食後、拳銃 ( 弾丸共 ) を憲兵に渡して、
疲れて居りましたから
陸相官邸に午後四時頃まで寝てしまいました。

午後四時頃、某歩兵大佐参謀、某砲兵少佐参謀来室
「 君等は自首したのか 」
と 言はれましたから、
自首した旨を答へた処、
然らば 直に検挙だと云ふより早く憲兵が這入って来て、
鈴木外十一名は其場で逮捕され、
午後六時頃、衛戍刑務所に収容されました

本事件の目的如何。
自分として何も考へて居りませんでした。野中大尉から事件の決行の目的を話されて承知しました。
本事件の遠因 及 近因 如何。
原因に就て申しますれば 現在の腐敗したる社会相 ( 例へば国体明徴問題の如き ) を、
我国本来の国体に戻すことが最も必要であると言ふことを痛感し
更に最近歩兵第三聯隊前のフランス料理店 竜土軒に於て、
相沢中佐公判の発表会を二月四日を第一回とし、村中、磯部、渋川等が傍聴した状況を、
日時を記憶して居りませんが、爾後三回同所に於て開催致しました。
集合した者は 第一回 野中大尉、安藤大尉、香田大尉、新井中尉、中橋中尉、栗原中尉、
高橋少尉、林少尉、池田少尉、伊藤 ( 常男 ) 少尉、清原少尉、鈴木少尉 外 二、三名
集まりましたが克く記憶はして居りません。
第二回の集合には私が集合致しませんでしたから存じません。
第三回も大体第一回と同じ様でありました。
歩兵第三聯隊第十中隊長代理 新井中尉より勧誘されて集合したのでありますが、
相沢中佐の精神が非常に立派な為に、
之れを聴けば兵の精神教育上大いに役立つものと考へたのであります。
公判の状況を聴く度に相沢中佐の心境、
特に尊皇絶対の精神が真に皇国軍人の到達すべき心境であると感じました。
然らば 此の精神から出た行為も亦美しいものであると言ふことを信じました。
又 相沢中佐の言はれる此の挙に出でた原因動機が
現下の腐敗せる功利的な社会相 及 統帥権干犯問題でありとするならば、
現在の社会へ導いて居る責任者 所謂重臣にあると言ふ事を感じたのであります。
而して之等の元兇を正義の刃に依って除き
之れに依って大義を明にし 人心を正しくすることが必要であると感じましたが、
其の方法手段に就いては考へて居りませんでした。
本件の動機如何。
直接の動機としては、
二月二十二日 週番勤務に就きまして、申告の為に週番指令安藤大尉の下に行きました。
其の時 「 貴様はやっと部下になった 」 と 言はれました。
同日 清原少尉と共に安藤大尉の処に遊びに行きました時に
「 今週中にやる。俺の命令で出すから腹を決めて置け 」
と 言ひましたので私は
「 週番指令に其の様な命令を出す権限がありますか 」
と 問ひました処が
「 非常の場合だから大いにある 」
と 言はれました。
其の時私は 本当に決行するや否や非常に疑問に思って居りました。
其の時私は 決行する丈の信念は持って居りませんでしたが、命令ならば致方ないと思ひました。
安藤大尉は
「 何 大した事はない、鼻唄を唱ひながら出来ることなのだ。万が一間違ったら俺が全責任を負ふ 」
と 言はれましたので、私は演習やる位ひの気持ちで居りました。

二月二十五日 射撃の為め大久保射撃場に行って居りましたが、
午前十一時頃安藤大尉の伝令が 「 要件あるに付 至急聯隊に来られ度し 」
と 書いた名刺を持って来ましたので、直ちに聯隊に帰って安藤大尉の下に行きました。
其の時 「 野中大尉の下に到り指示を受くべし 」 と 言はれましたので、野中大尉の下に行きました。
其の処で野中大尉より実際計画に基く決行の命を受け 尚 班長を午後集合する様にと言はれました。
同日午後二時頃射撃場に帰り射撃の監視をして居りました。
同日夜夜間演習の予定でありましたが、
之を取り止めて 午後五時頃、部隊は上等兵の引率を以て帰営を命じました。
私は斯くなっては 或は 最後かも知れないと思ひましたので、班長全員と新宿の某食堂 其他で晩餐を共にし、
午後八時頃 所属隊に帰営しました。
同日午後十時頃、第七中隊長 野中大尉の下に第十中隊の各班長を連れて行き、
決行に関する細部の計画を伝達されました。
之等が直接の動機であります。
間接の動機は近因として申述べた通りであります。
現役軍人 並 右翼団体 ( 浪人 ) 等の関係は如何。
前述の他 ありません。
政治家方面との関係は如何。
政治家方面との連絡関係はありません。
教育家方面との連絡関係は如何。
ありません。
左翼思想方面との連絡関係は如何。
ありません。
本事件に関し、運動等を為したることありや。
前述の通り 安藤大尉、野中大尉の命を部下 下士官兵に伝達したる外、
運動として特に為したることはありません。
只 二月二十三日に安藤大尉より印刷物 「 大眼目 」 を貰ひまして、
其の内容に相沢中佐の公判に関する事項が掲載されて居りましたから、
「 相沢中佐の尊皇絶対の精神 」 に就て
第十中隊の下士官兵に一回の精神教育をしたことがあります。
下士官に相沢中佐の公判に関する事項に就いては
前後二回程 第十中隊の下士官室に於て話したことがあります。
本事件に関する資金に就いては如何。
本事件の金銭関係は常盤少尉が担任しておりましたので、
私は金銭出納に関しては部内外を通してありません。
皇軍の本質 並 威信上に及ぼしたる影響の認識は如何。
後日訂正するかも判りませんが、現在私が考へて居る事は、
我国の軍隊は天皇御親率でありまして、
其の司々を吾々臣下に委ね給ふものであります。
若し吾々にして皇軍を私兵化せんとするが如きは誠に畏れ多き極みで、
漸次私兵化の傾向なきにしも非らざるは、痛憤に堪へざる所であります。
皇軍相撃つが如きは断じて許すべからざる事なり。
若し本事件に於て世人之を皇軍相撃ちしものと称するものあらば
絶対に然らざるものを明にする必要があります。
本事件を対外的に見れば或は皇軍の結束破れ正に乗ずべきもの好機なるを
感ぜしむることあるかも知れませんが、
皇軍は之れに依って建軍の本義を明にし、益々団結鞏固にすることが出来たと信じます。
各大臣邸の見取図を他の将校から貰った事はないか。
左様なことはありません。
第十中隊の弾薬は誰が分配したか。
弾薬係の下士官 伊高 ( 花吉 ) 軍曹が分配致しました。
弾薬庫より出した者は誰れか。
第一中隊の新 軍曹は弾薬係の出納者になって居りますから
本人の独断行為か 又は週番指令の命令かは 克く存じませんが、
私の中隊の兵器係 伊高軍曹は新 軍曹が弾薬庫を開けたと云って居りました。
現在の心境如何。
御上に対し 御宸襟を悩まし奉り何とも申訳けがないと考へて居ります。
唯 正義の刃に依って国家の蠧毒たる元兇を斃したことに依って国民が真に国体精神に醒めて呉れれば、
死んで猶銘すべきであると信じます。
将来に対する覚悟は如何。
御上に対し奉りご御宸襟を悩まし奉りたることは何とも申訳けありませんが、
出来る丈け生存して私共の精神を一般国民に伝へて昭和維新に翼賛し奉る覚悟であります。
本事件に対する被告の地位 並 役割は如何。
二十六日午前四時二十五分頃、第十中隊の下士官兵百四十二名を指揮し、
他の部隊と一緒に警視庁に行きましたが別に中隊長とか小隊長と云ふ様な関係ではありません。
又 本事件に関し役割として特別に命ぜられたものもありません。
第七中隊長野中大尉よりは事件当初より指揮されて居りませんでしたが、
任務は其の時に応じて野中大尉より命ぜられて居りました。
本件につき他に陳述すべきことありや。
前に述べた内容中 時間的に喰ひ違ひはあるかも知れません。
又 事件決行当時の心境 並 現在に於ける心境は精神に於ては良いと信じて居りますが、
兵を動かしたと云ふ点に就いては非常に申訳ないと思って居ります。
陳述人  鈴木金次郎昭和十一年三月一日    於ける本所憲兵分隊
 鈴木金次郎少尉証言
 「警視庁の玄関に在りたる第七中隊の常盤少尉の指揮する小隊が、
警視庁の中に這入り、各通信機関を遮断しました。
警視庁の裏庭に主力を引きつれて居るたる野中大尉が、警視庁の幹部二名を裏庭の主力
の位置に伴ひ出して、一時此の警視庁を引受けるからと告げ、
沢山の負傷者を出しては御互の為にならんから、武力行為は避けて庁舎と電話を吾々の
専用にして呉れと交渉しました処、暫く躊躇して居りましたが、
軍隊の事であるから承知しましたと云ひました。
夫れで部隊の主力を警視庁の中庭に集結して、一部の兵力を以て庁舎内電話室の警戒
及屋上に陸軍省と連絡の為少数の通信兵を配置、
更に一部の兵力を以て凱旋道路及海軍省前附近の道路を遮断しました。」。







(私論.私見)