松浦邁



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「松浦邁・(**期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝




【松浦邁(まつうら つぐる)プロフィール】(44期)(陸軍歩兵中尉)
 日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。
 1911.8.22日、。
 1932年(昭和7年)6月-陸軍士官学校(44期)。10月、歩兵少尉。  1934年(昭和9年)、歩兵中尉。
 1936年(昭和11年)、二・二六事件被疑者。
 1938年(昭和13年)、歩兵大尉。
 1941年(昭和16年)。陸軍少佐。
 1944年(昭和19年)、依願退役。
 1954年(昭和29).12.6日、逝去。

 松浦 邁中尉現下青年将校の往くべき道」。
 「軍服の聖衣を纒(まと)へる農民の胸奥を知る者は独り青年将校のみ。我等は熱と誠心の初年兵教育に彼等の魂を攫(つか)み彼等の胸奥を知る。困窮に喘ぐ家郷を棄て 黙々として君国の為め献身する彼等の努力こそ実に血と涙の結晶なり、彼等の胸奥の苦悩は我等のみが知れり。彼等が我等を見上る真摯の眼には 何物か溢(あふ)るゝその至純なる農民層の頼むあるは唯 我等青年将校のみ、我等は軍服をまとえる彼等の兄とし彼等の深刻なる苦悩を代表す。興嶺大江の雪に氷に埋るゝ幾千の生霊に代りて彼等の意志を貫徹するは、我等あるのみ。客秋満蒙の地に鉄火閃(ひら)めきしより以来 勇猛何物をも恐れざる尊き彼等の血潮は未だ涸れず、彼等は病床に独り苦しめる老父母を残して去れり、彼等は粥を啜り 芋の根を噛(かむ)りて日々を送る妻子を残して去れり。彼等はボロをまとひ 寒さに凍えて帰りをのみ待てる弟妹を残して去れり。彼等は断じて何人の犠牲にも非ず。彼等は唯 「天皇陛下の為に 」 起てり。彼等は家郷の土と父母との身代りとなりて笑って死せり、彼等の笑って死せるは彼等の在に依りて家郷の土の苦悩が救はるる事を確信したればなり。「 忠道烈士 」 の 名  彼等に取て何の価値あらん。金鵄勲章の輝き  彼等に取て何の満足あらん、嗚呼 彼等の死を以てせし祈願に応ふる何物か与へられんや。吾人は幾千の生霊を空しく異郷の土に冥する事に忍びず彼等と共に戦へる我等は先立つる彼等の遺志を貫徹せずんば止むを能はざるなり」。





(私論.私見)