二月二十五日午后四時頃、中隊 ( 第一中隊 ) の週番士官坂井中尉殿より、今夜正午頃非常呼集を実施するから午后十時頃集合すべく命ぜられ、且つ週番司令となりし安藤大尉殿よりも右同様の命令がありましたので、午后五時頃一先づ帰宅した。食を済まし、二時間位睡眠をとり、午后十時半頃聯隊に集合しました。集合後先づ中隊の将校室に這入りましたが其時は既に高橋少尉が来て居りましたし、週番の坂井中尉殿も居りました。その時、坂井中尉殿は非常呼集は十二時に実施する予定に付き一応就寝すべく伝へられたるに付き、将校室には寢る設備がないので班の寝台の空いている所に行って寝て居りました。
その後、十一時半頃、兵が来て非常招集に付き話されるからと起されたので其儘起床、将校室に行きました。将校室には、坂井中尉殿と高橋少尉と、他に其晩始めて紹介されて知った安田とか吉田とか云ふ砲兵少尉が集って居りました。その後、下士官も集める様にと言ふので下士官も起しました。然して全部集合後、坂井中尉殿が今夜の非常招集は斉藤内府を襲撃する為に行ふものなる旨を告げ、且つ兵器係の新、中島の両軍曹に弾薬の受領方命令しましたが、その内(二十六日)十二時になりましたので全員の非常招集を命じ、各班長をして起させました。軍装を終った兵に対してはその儘班内に控へさせて置きましたが、その内弾薬が到達したので、各班長に弾薬を分配させました。その間他の将校は班内を廻ったり色々やつて居りましたが、私は将校室に一人居りました。
其後直ちに整列を命じ、整列終るや坂井中尉殿が編成しましたが此編成は小隊編成ではありませんで、中隊の下士官と第二中隊から集って来た下士官を基準として、某軍曹以下何名と言ふ様な変則な分隊編成でありました。分隊の数は多分十二、三分隊と思ひました。私は中隊の後方から来る様に命ぜられました。編成終了後、坂井中尉殿は一同に対し、大要、「
之れより中隊は、日本国民を無視し御上の大権を私する足利尊氏にも勝るべき斎藤内大臣を襲撃せんとするものなり。各自は初年兵係教官として、又 補助教官として最も信頼す可き高橋少尉、麦屋少尉の両教官の下に活動するものに付き、気を落着けて任務を完ふすべき
」旨の訓示をなし、午前四時頃 屯営を出発、同五時頃 四谷区中町なる斎藤実の私邸に到着しました。その途中、坂井中尉は各幹部に任務を課しましたが、私は四谷見附より権田原に通ずる道路を省線の上に架けたる橋を渡り、四谷区仲町の斎藤邸に到る路上警戒の為三個分隊の警戒配置完了後、斎藤邸に到る可く命ぜられました。その命に依り私は離宮に流弾の飛ぶことを懼れ、久保田上等兵の指揮する小銃分隊には装填せしめず、橋上に離宮に面して配置し、久保川軍曹の指揮する軽機分隊を権田原の方面に面し、氏名不知下士官の指揮する重機分隊を四谷見附の方向に面し、各装填せしめて配置をなし、以て路上警戒を命じ、各部隊に対しては先方射たざる限り
此方より攻撃するが如きこと無き様注意し、単身斎藤邸に参りました。
其時斎藤邸には既に中隊到着、表門には軽機を配置して警戒して居りました。私は門から入って勝手口の方に廻った時には、既に外務警戒兵の外は侵入しあり、家中よりは軽機小銃の音が聞えて居りました。その時氏名不詳の兵が私に向つて「
警官が拳銃に弾を装填して居りますから御注意下さい 」と 注意しましたので、私は其処に居合せた兵二十名に対し警察官に注意する様に命じました。その時、渡辺曹長が居て「
私が注意して居ります 」 と 答へましたので既に入りかけていた兵二、三名共に勝手口から家内に入りましたが、其処には箱火鉢の前に坐り悠々迫らぬ態度を示し
煙草を喫って居る六十才位の夫人を見ました。私は日本婦人として誠に賞賛すべき婦人であると思ひまして、兵に対し「 老婆さんには決して危害を加えては不可
」 と 注意を促し置き、喇叭手外二、三名の兵と共に左の廊下を進みました処、二階の方から座布団や寝巻を冠った女中と思はれる婦人や子供等が二、三名下りて来ましたから、之等に対しては早く非難すべき事を命ずると共に、兵に対しても手出しをせぬ様注意を与へました。其階段下で暫く震えて動けぬ様になつている猫を見て居ると、二階から安田砲兵少尉が下りて来て私に向ひ、「
情況終り 喇叭一声 直ぐ引揚 」と言ひましたが喇叭は吹いたかどうか記憶ありません。私は直ぐ外に出て、前に路上警戒に配置した重軽機及小銃部隊の攸に行き「
前進 」 と 言ひました。その時、坂井中尉殿はその道路上に来て居て中隊全員を集結し、血糊に染った手を示し、全員に対し「 之れは悪賊斎藤の血である。 皆よく見ろ
」と 言ひ、私に対し「 之れからは赤坂見附の方に向って引率せよ 」と 言はれましたので、私は渡辺曹長と二人で先頭に立ち引率して赤坂離宮の東北側路上に出ましたが、その時、坂井中尉殿が停止を命じましたので私共は各人が離宮に最敬礼を致しました。その時、高橋少尉と安田少尉に、坂井中尉殿が指示しましたので、二人は其所から部隊を離れて行動を別にしました。
坂井中尉殿は下士官を二分して編成を替へ、自ら紀ノ国坂を下り赤坂見附を通って平河町の市電停留所付近に至り停止を命じました。私はその間、先頭の坂井中尉殿と一緒に参りました。丁度その時は明るくなりかけて居た頃で五時半頃であつたと思ひます。坂井中尉殿は下士官に対し道路上の警戒を命ずると共に、私に対し「
永田町を通り陸軍省に至り 歩兵第一聯隊から来て居る部隊があるから報告して来い 」と 命じましたので、私は渡辺曹長を伴れて参りました所が、陸軍省に行く角の所で歩兵第一聯隊の名は知りませんが、眼鏡を掛けた大尉に出会ひましたので状況を報告し、直ちに部隊に帰りました。部隊に帰りますと、私は坂井中尉殿から三宅坂に出してある久保川軍曹の軽機分隊と他の重機分隊と小銃分隊を指揮して道路上の警戒を命ぜられましたから、その地点に行き任務に服しました。其処に御前七時半か八時頃迄その任務に就きました。その間、交通遮断して置きましたが、陸軍武官を通すか否やに付疑問が起りましたので坂井中尉殿に伺ひました処が、始めは成べく通すなとの事でありましたが、後には通してよいと言ふことになに通す様になりました。その中に平河町の停留所付近に在郷軍人が天幕を張ってくれました。聯隊からは兵の外套や木炭、朝食を運搬して来て呉れました。私は天幕の中に入って居りましたが、夜になり、附近の家から入って呉れと言って来ましたので私共はその家に入りましたが、町名番地及氏名等は判りません。その家には二十七日の朝迄おりました。
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