清原康平



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「麦屋清済・歩兵中尉(**期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝



死刑組

【麦屋清済(むぎや/きよずみ)プロフィール】(**期)(陸軍歩兵中尉)
 元歩兵第3連隊第1中隊陸軍歩兵少尉。

 「2017.2.26日、2・26事件行動、間違いなかった。将校からの手紙」。
 1936年に起きた「2・26事件」に参加した将校からの手紙を、元毎日新聞浦和(現・さいたま)支局長の石綿清一さん(94)=さいたま市浦和区=が保管していることが分かった。首謀した青年将校らに思想的影響を与えたとされる国家社会主義者・北一輝(きた・いっき)(1883~1937年)をたたえる内容で、事件から半世紀以上が過ぎた91年に受け取った。事件を「昭和維新」と記した文面などに、石綿さんは「『自分たちの行動に間違いはなかった』と思い続けていたのだろう」と思いを巡らせた。手紙の差出人は埼玉県寄居町に住み、2006年に96歳で亡くなった麦屋清済(むぎや・きよずみ)さん。事件では斎藤実内大臣の襲撃に参加し、裁判で無期禁錮の判決を受け、42年に出所した。
 「麦屋清済少尉の四日間 [ 憲兵訊問調書から ]」。
 二月二十五日午后四時頃、中隊 ( 第一中隊 ) の週番士官坂井中尉殿より、今夜正午頃非常呼集を実施するから午后十時頃集合すべく命ぜられ、且つ週番司令となりし安藤大尉殿よりも右同様の命令がありましたので、午后五時頃一先づ帰宅した。食を済まし、二時間位睡眠をとり、午后十時半頃聯隊に集合しました。集合後先づ中隊の将校室に這入りましたが其時は既に高橋少尉が来て居りましたし、週番の坂井中尉殿も居りました。その時、坂井中尉殿は非常呼集は十二時に実施する予定に付き一応就寝すべく伝へられたるに付き、将校室には寢る設備がないので班の寝台の空いている所に行って寝て居りました。

 その後、十一時半頃、兵が来て非常招集に付き話されるからと起されたので其儘起床、将校室に行きました。将校室には、坂井中尉殿と高橋少尉と、他に其晩始めて紹介されて知った安田とか吉田とか云ふ砲兵少尉が集って居りました。その後、下士官も集める様にと言ふので下士官も起しました。然して全部集合後、坂井中尉殿が今夜の非常招集は斉藤内府を襲撃する為に行ふものなる旨を告げ、且つ兵器係の新、中島の両軍曹に弾薬の受領方命令しましたが、その内(二十六日)十二時になりましたので全員の非常招集を命じ、各班長をして起させました。軍装を終った兵に対してはその儘班内に控へさせて置きましたが、その内弾薬が到達したので、各班長に弾薬を分配させました。その間他の将校は班内を廻ったり色々やつて居りましたが、私は将校室に一人居りました。

 其後直ちに整列を命じ、整列終るや坂井中尉殿が編成しましたが此編成は小隊編成ではありませんで、中隊の下士官と第二中隊から集って来た下士官を基準として、某軍曹以下何名と言ふ様な変則な分隊編成でありました。分隊の数は多分十二、三分隊と思ひました。私は中隊の後方から来る様に命ぜられました。編成終了後、坂井中尉殿は一同に対し、大要、「 之れより中隊は、日本国民を無視し御上の大権を私する足利尊氏にも勝るべき斎藤内大臣を襲撃せんとするものなり。各自は初年兵係教官として、又 補助教官として最も信頼す可き高橋少尉、麦屋少尉の両教官の下に活動するものに付き、気を落着けて任務を完ふすべき 」旨の訓示をなし、午前四時頃 屯営を出発、同五時頃 四谷区中町なる斎藤実の私邸に到着しました。その途中、坂井中尉は各幹部に任務を課しましたが、私は四谷見附より権田原に通ずる道路を省線の上に架けたる橋を渡り、四谷区仲町の斎藤邸に到る路上警戒の為三個分隊の警戒配置完了後、斎藤邸に到る可く命ぜられました。その命に依り私は離宮に流弾の飛ぶことを懼れ、久保田上等兵の指揮する小銃分隊には装填せしめず、橋上に離宮に面して配置し、久保川軍曹の指揮する軽機分隊を権田原の方面に面し、氏名不知下士官の指揮する重機分隊を四谷見附の方向に面し、各装填せしめて配置をなし、以て路上警戒を命じ、各部隊に対しては先方射たざる限り 此方より攻撃するが如きこと無き様注意し、単身斎藤邸に参りました。

 其時斎藤邸には既に中隊到着、表門には軽機を配置して警戒して居りました。私は門から入って勝手口の方に廻った時には、既に外務警戒兵の外は侵入しあり、家中よりは軽機小銃の音が聞えて居りました。その時氏名不詳の兵が私に向つて「 警官が拳銃に弾を装填して居りますから御注意下さい 」と 注意しましたので、私は其処に居合せた兵二十名に対し警察官に注意する様に命じました。その時、渡辺曹長が居て「 私が注意して居ります 」 と 答へましたので既に入りかけていた兵二、三名共に勝手口から家内に入りましたが、其処には箱火鉢の前に坐り悠々迫らぬ態度を示し 煙草を喫って居る六十才位の夫人を見ました。私は日本婦人として誠に賞賛すべき婦人であると思ひまして、兵に対し「 老婆さんには決して危害を加えては不可 」 と 注意を促し置き、喇叭手外二、三名の兵と共に左の廊下を進みました処、二階の方から座布団や寝巻を冠った女中と思はれる婦人や子供等が二、三名下りて来ましたから、之等に対しては早く非難すべき事を命ずると共に、兵に対しても手出しをせぬ様注意を与へました。其階段下で暫く震えて動けぬ様になつている猫を見て居ると、二階から安田砲兵少尉が下りて来て私に向ひ、「 情況終り 喇叭一声 直ぐ引揚 」と言ひましたが喇叭は吹いたかどうか記憶ありません。私は直ぐ外に出て、前に路上警戒に配置した重軽機及小銃部隊の攸に行き「 前進 」 と 言ひました。その時、坂井中尉殿はその道路上に来て居て中隊全員を集結し、血糊に染った手を示し、全員に対し「 之れは悪賊斎藤の血である。 皆よく見ろ 」と 言ひ、私に対し「 之れからは赤坂見附の方に向って引率せよ 」と 言はれましたので、私は渡辺曹長と二人で先頭に立ち引率して赤坂離宮の東北側路上に出ましたが、その時、坂井中尉殿が停止を命じましたので私共は各人が離宮に最敬礼を致しました。その時、高橋少尉と安田少尉に、坂井中尉殿が指示しましたので、二人は其所から部隊を離れて行動を別にしました。

 坂井中尉殿は下士官を二分して編成を替へ、自ら紀ノ国坂を下り赤坂見附を通って平河町の市電停留所付近に至り停止を命じました。私はその間、先頭の坂井中尉殿と一緒に参りました。丁度その時は明るくなりかけて居た頃で五時半頃であつたと思ひます。坂井中尉殿は下士官に対し道路上の警戒を命ずると共に、私に対し「 永田町を通り陸軍省に至り 歩兵第一聯隊から来て居る部隊があるから報告して来い 」と 命じましたので、私は渡辺曹長を伴れて参りました所が、陸軍省に行く角の所で歩兵第一聯隊の名は知りませんが、眼鏡を掛けた大尉に出会ひましたので状況を報告し、直ちに部隊に帰りました。部隊に帰りますと、私は坂井中尉殿から三宅坂に出してある久保川軍曹の軽機分隊と他の重機分隊と小銃分隊を指揮して道路上の警戒を命ぜられましたから、その地点に行き任務に服しました。其処に御前七時半か八時頃迄その任務に就きました。その間、交通遮断して置きましたが、陸軍武官を通すか否やに付疑問が起りましたので坂井中尉殿に伺ひました処が、始めは成べく通すなとの事でありましたが、後には通してよいと言ふことになに通す様になりました。その中に平河町の停留所付近に在郷軍人が天幕を張ってくれました。聯隊からは兵の外套や木炭、朝食を運搬して来て呉れました。私は天幕の中に入って居りましたが、夜になり、附近の家から入って呉れと言って来ましたので私共はその家に入りましたが、町名番地及氏名等は判りません。その家には二十七日の朝迄おりました。

 二十七日午前九時頃編成替をなし、私は第二小隊長に任命され、宿舎を永田町と平河町の角附近の家に替へました。私の指揮した第二小隊は別に任務を課せられませんので、私は銃前哨の配置に止め、他は全部宿舎に集結して午前十一時半頃迄居り、其後中隊全部議事堂に集結を命ぜられ、坂井中尉殿自ら指揮して議事堂に参りました。議事堂はその日の午后五時迄居りましたが、私の小隊は別に任務に就いて居りません。但し将校は全部陸軍大臣官邸に集合を命ぜられ私も参りました。陸相官邸では真崎、西、阿部の三大将にお会ひして、野中大尉が代表して真崎閣下に時局収拾をお願ひ致しました。その時に真崎閣下から、「 速かに所属部隊に帰れ 」 と 言はれて、私共は小藤部隊長の指揮下に入ることになりました。その後 高橋少尉は第一小隊長を、私は第二小隊長を指揮して赤坂の幸楽と言ふ料亭に宿営の為出発しました。その夜は私の小隊は任務がなく全員給養致しました。
  翌二十八日午后一時頃、坂井中尉殿が私の小隊と第一小隊を指揮して幸楽を出発、参謀本部前に到り「 爰は警備してはいけないのだ 」と 言はれ、陸相官邸の方へ廻りました。それから私の小隊は陸相官邸に対する外部よりの警戒を命ぜられ、道路上に重機小銃の分隊を配置して警戒に服しました。警戒と云ふのは、左翼団体や不逞の徒に対する警戒であります。其処に二十八日の夜を徹して二十九日の正午頃迄居りました。其時、参謀の人が来て部隊を帰すや否やの話があり、坂井中尉殿は帰すことに決め、部隊を集結し、弾を抜き、整列させて置きました処へ、中隊長や特務曹長が来て受取って帰りました。私はその時、初めて奉勅命令が下って居ることを知り「 悪いことをした 」 と 考へました。私は中隊の将校二人と共に陸相官邸に行きました。官邸には少将の人と井出大佐殿が居られまして、私共を室に通し、少将の人が 「 軍人らしくやつてくれ 」 と 申されました。其時は自決を決心致しました。それで遺書も認めましたが、行動を共にした将校が全部一緒に決行した方がよいと考へ、皆が集るのを待つて居りました処に、近歩三の中尉が来て「 僕は死なん。死は何時でも死ねる 」 と 言って居りました。私は其時は無関心を体で其儘私は眠って了つたのでありますが、午后五時半頃になり参謀の人が来て一人づつ「 此れから如何する考へだ 」 と 尋ねましたから、私は 「 大御心にお委せ致します 」 と 答へ、憲兵が来て逮捕し、衛戍刑務所に収容され、軍刀と拳銃は午后三時頃皆預られて了ひました。
 行動間の給養は何ふしたか。
 行動間の給養は幸楽に移る迄は聯隊から貰って居りました。幸楽に来てからは幸楽でやって呉れました。陸相官邸に来てからも幸楽から続けていた要でります。給養の事はよく判りませんが幸楽の分も聯隊で支払って呉れたと言ふ話でありました。

 今回の行動を起す事を始めて知ったのは何時か。
 二十五日夜十一時半頃 中隊の将校と下士官全部が集合した時、坂井中尉殿から ノートに書いてある計画を示され始めて事件計画の概要を知りました。

 其の時如何なる決心をなしたるや。
 中隊全員の出て行くこと故 已むを得ざるものとして行動を共にする事を決心致したのです。

 止むを得ずと言ふのは如何なる意味か。
 止むを得ずと言ふ意味では、一寸違ふかも知れません。私は始終坂井中尉殿から時局に関する色々な話を聞いて居りましたので、之に共鳴し憤慨して居た処の一人でありますから、既に機は熟し実行すべき秋に到達したのだと考へたので、斎藤内府辺りには気の毒なるも仕方がないと言ふ意味なのであります。

 今の時局に憤慨する様になったのは何時頃か。
 ロンドン会議の時分から 政党、財閥、重臣閥 等に対し、軽度の反感を持って居りましたが、特別士官として歩三に入隊後、坂井中尉殿から之等 裏面の状況を時々聞かされ 愈々憤慨するに至り、之等の閥族を排除するの必要を感じたのは、つい此の頃であります。

 然らば之を排除する方法として流血の惨を見るも止むを得ずと常に考へ居りしや。
 常には考へて居りませんでした。決行する晩に坂井中尉殿から言はれて始めて止むを得ざるものと考へたのであります。

 自分の服したる任務以外の他部隊の行動等は知らさりしや。
 私は坂井中尉殿から命ぜられて始めて自分の中隊丈けの任務を知ったのでありまして、計画には参加して居りませんから、他部隊の行動は全然知りません。

 坂井中尉から他部隊も同時に蹶起する等の事を聞かされたりしや。
 二十五日午後十一時半頃 将校及下士官が集合した時、計画を示され任務を授けらるる時、坂井中尉殿から歩一、近歩三にも我等の同志があって同時に蹶起する事を聞きました。

 行動間 坂井中尉が中隊を指揮したる模様なるが、其の間 中隊長が不在なるにも不拘中隊の兵力を外部に発動する事に対して不思議と思はざりしや。

 坂井中尉殿は週番でありますから中隊長に代って中隊を指揮するのだと思ひました。

 坂井中尉が勝手に中隊を出すのだと言ふ感じを持たざりしや。
 集合の当日は坂井中尉殿が若干の中隊が残留して連隊のの警備に任ずる外、全部出動する様に話されましたし、又 歩一、近歩三からも出ると云ふ話でありましたので、勝手に出すのだと思ひませんでした。

 全行動間 其の考で居たるや。
 二十六日午後七、八時頃、部隊が平河町に居た時 第一大隊長 ( 本江政一 ) が来て、「 閑院宮邸御警備の為め 歩五七聯隊を配置したが、之は宮邸警護であって決して此の中隊を攻撃等は全然するものにあらず。故に皇軍相撃つが如き不祥事のなき様 」と 諄々として説かれましたので 私は始めて変だなーと思ったのであります。

 其の間 何とか処置を講ぜようとは思はざりしや。
 其の時は始めて坂井中尉殿が勝手に動かして居ると言ふ考へを持ちましたが、時は既に遅し、仕方がないと諦めて了ひました。

 行動間上司より部隊の解散又所属隊へ復帰の命令等を聞かざりしや。
 何も聞いて居りません。只最後に部隊解散後、奉勅命令が出た事を知って居るかと参謀の人から言はれて始めて知った位です。

 若し行動間に於て上司から、お前達の行動は間違って居る、速やかに所属隊に帰れ、と 言はれたらば 帰って居たと思はるるや否や。

 諦めて居りましたが、若し そんな事でも言って呉れたしたならば、帰って居ったかも知れません。

 先に坂井中尉から決行の前夜 歩一、近歩三にも我等の同志が居って蹶起すると言はれたと言ふが、皇軍は全軍同志である可きにも不拘 単に歩一、近歩三の中にも同志がある等と言はれて、何も不思議と思はざりしや。元来同志等と言ふ語自体が皇軍に不適当なりと思ふが如何。
 其の様な深い考へはありませんでしたが、今になって考へて見れば変に考へられます。

 元来軍隊の行動は連隊命令、大隊命令が先に達せられ、然る後 其の中隊の部署が定まる可きに不拘、始めから中隊命令の様な坂井中尉の命令を達せられたる事に関し、将校たるものが奇怪とは思はざりしや。
 幾分奇怪なりと思ひましたが 週番指令が居って命令を出したとのことでありましたから、差支えないと思ひました。

 今になって冷静に考へて 前行動間の所為を如何に思ふか。
 我々の行動 其れ自体は 或は悪い事かも知れませんが、之れが為に朝野の民心は緊張し従来の如き 政党、財閥、重心閥等の横暴も幾分緩和せられ、真実の我国体の姿も着々顕現せらるるものであることを 確信して居ります。

 軍隊に対する国民の信頼には如何なる影響があると思ふか。
 真実に身命を賭して国家の為に尽くすものは軍隊を措いて他に無いことを覚えることと存じます。

 対外的には如何なる反響があると思ふか。
 対外的には国家の為 不利益なる如何なる勢力にも反抗して之を一掃し、飽く迄 皇室を中心に一致団結することを知らしめ得るものと考へられます。

 之を要するに行動自体は或は悪い事かも知れぬが、結果から見て国家の為になると思って居る様だが、
行動を起す時既に之を予期したが為に 正当なる手段ではないことを承知して決行したるものにあらずや。
 出動するときの考へは、前に陳述したる通りに相違ありません。但し 現在では我等の行動は国家の為になることを確信するものであります。

 他に申立つる事なきや。
 奉勅命令を最後迄知らなかったことを 返す返すも 残念に思っております。之に対しては何とも申訳がない次第であります。

 陳述人    麦屋清済
 昭和十一年三月二日      東京憲兵隊本部
 「清原康平少尉証言」。 
 「正午に至り歩三より石井一等主計、原山二等主計等の運搬し来れる(聯隊長命令に依る)昼食を各自警戒に就きたる儘あり。私が屋上の警備を藤倉軍曹に命じ、裏庭に下り、其後は何事も無く、夕食は原隊より給与を受け、其夜は中隊主力と共に警視庁機関庫内に宿泊せり。」。

 「清原康平少尉の四日間 [ 憲兵訊問調書から ]」。
 二月二十五日午後八時頃、当時週番司令となりし安藤大尉 ( 第六中隊長 ) から、私に直ぐ来るやうに伝令がありましたから週番司令室に行きますと、安藤大尉は、明朝、愈々、昭和維新を断行するから第三中隊も出ろ、そして今夜十二時を期し非常呼集をやるから次の服装携帯品に付いて準備して置け。服装、軍服は第三装甲を着用、外套に肩章を附すべし。軍帽は良きものを着用すべし。携行品は、 戦帽、白帯、防毒面、三脚架、拳銃、鉄鉢、条鉄、手旗、兵器手は倶乾麵麭、米、軽機関銃、実包、銃身、水筒、雑嚢、飯盒、衛生材料、特に看護兵を随行すべし。維新断行に就きまして内命を受けました。

 それで休養して居ると、
二十六日午前零時頃、週番司令の伝令が来て非常呼集の命令を受けました。私は直に週番司令室に命令受領に行きますと、安藤大尉は、午前四時二十五分、野中大尉 ( 第七中隊長 ) の指揮を以て出発、警視庁に向ふべし。突入時刻は午前五時三十分の予定。之れが為速に弾薬受領者を弾薬庫に差出すべし。と 命令を受け、中隊に帰り、下士官を週番士官室に集合を命じました処、藤倉軍曹、山本軍曹、神田軍曹、野村伍長、宍倉伍長、関根伍長、小座間伍長、平佐伍長、村上伍長、山崎伍長の十名が集合しました。渡辺曹長は風邪の為 集合しません。其処で安藤大尉よりの命令を伝達し 尚 昭和維新断行すべき旨附言し、兵器係下士官をして弾薬を受領せしめました。弾薬受領後私は中隊全員の非常呼集を実施し各内務班長をして下士官以下に一人宛六十発の弾丸を交附し、何分の命ある迄各班内に於て休養をせしめ、私は指揮官 野中大尉の下に命令受領に参りました処、第三中隊 ( 機関銃隊一分隊を分属 ) 約百六十五名は、第七中隊発進と共に舎前を出発、部隊は 第七、第十、第三中隊 ( 機関銃は各中隊分属 ) の行軍順序を以て営門を出発すべし。本日の合言葉は 「 尊皇討奸 」 標語は 「 大内山に光さす暗雲なし 」 を部下に伝達すべし。移譲の命令を受けましたので、私は直ちに中隊に帰り下士官以下を中央部廊下に集め【 只今より昭和維新を断行する第三中隊は清原少尉以下 野中大尉の指揮を以て警視庁を占領す本日の合言葉は「 尊皇討奸 」 標語は 「 大内山に光さす暗雲なし 」 と下命し、下士官以下をして復唱せしむ 】

 其の後 暫時休養の後、午前四時頃全員 ( 第三中隊は清原少尉以下百五十五名、機関銃一ケ分隊は分隊長 「 伍勤上等兵 」以下約十名 ) 舎前に整列し、先頭中隊である第七中隊の発進を待って、午前四時二十五分頃営門を出発しました。行軍途中 野中大尉は歩一裏門の処にて連絡の為 歩一に赴きましたので、約十分計り 其儘の体形で同所に求刑後、交番の無き所を選んで第一師団長官舎裏を経て、溜池、虎ノ門 ( 立番巡査は居眠しあり )、警視庁に到着いちしました。其処で、安藤大尉より所に休憩後、交番の無き処を選んで第一師団長官舎裏を経て、溜池虎ノ門 ( 立番巡査は居眠りしあり ) 警視庁に到着しました。午前五時過ぎ頃、警視庁に到着するに先立ち、別紙要図の如く配備を命ぜられました。
 私は軽機一ケ分隊、機関銃一ケ分隊 ( 兵力二十 ) を以て警視庁と内務省との間の通用門に向って司法省表面附近より射撃準備を命じ、残余の第三中隊主力を以て警視庁正門前を通り、同庁西北の破壊せる板塀の個所より警視庁裏庭に歩三の各部隊と共に待機しました。稍暫らくして、野中大尉が警視庁と折衝の結果、同庁の明渡しを受け、私は第三中隊の一部 ( 約四十名 ) を以て ( 軽機関銃二ケ分、小銃二ケ分隊 )警視庁屋上を占領すべき命を受け、直に占領しました。・・・「 本庄侍従武官長が天皇に上奏してその御内意をうけたらそれを侍従武官府を通して中橋中尉に連絡する。わが歩兵第3連隊が堂々と宮城に入り昭和維新を完成する。これがあらかじめ組んだプログラムですよ 」「宮城に入った赴援部隊が実弾をもたなかったというのもそれです。」「 ・・・・所が陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった。陸相や真崎さんは、待てど暮らせど本庄さんから連絡がないから、自分の方から動けない 」「 昭和天皇の怒りが全ての計画をホゴにしたことはあきらかです 」「 私は宮城の中で点滅するはずの信号を、いまかいまかと待っていた。その信号こそ、中橋中尉による宮城占拠の成功を知らせるものだった。信号があり次第、安藤大尉が兵を率いて宮城に入り、昭和維新はそのとき成るはずだった 」・・清原康平 文藝春秋 1986年3月号掲載、『 生き残りの決起将校の全員集合の座談会 』

 午前六時半を過ぎ、あたりはすっかり明るくなった。
私は部下に適宜朝食をとるようにいって 警視庁の階段を降りた。降りながら蹶起は明治維新の蛤御門の戦に終るのではないか、という気がして肩から力が抜けて行くのを覚えた。地上に降りて野中大尉を探すと、大尉は東口階段にドカッと腰掛けていた。私は敬礼し、「 宮城よりの連絡はありません 」と 報告すると、「 ウーム 」と 言ったきり天を仰いだ。・・・第三中隊の主力は、山本軍曹の指揮を以て野中大尉の指揮下にありまして、午前六時頃、携帯口糧 ( 乾麵麭一食分 ) で朝食を為し、警戒に任じ、正午に至り歩三より石井一等主計、原山二等主計等の運搬し来れる ( 聯隊長命令に依る )昼食を各自警戒に就きたる儘 了り私が屋上の警備を藤倉軍曹に命じ、裏庭に下り、其後は何事も無く、夕食は原隊より給与を受け、其夜は中隊主力と共に警視庁機関庫内に宿泊せり。

 (二十七日)午前十時三十分 野中大尉より 「 宿営休養の目的を以て 家族会館を偵察せよ 」との 命令を受けましたので、私は一個小隊を率い家族会館に至りました。主任者に連絡の結果、約三百名の宿営能力あることを知り、野中大尉の命令に依り中隊主力を招致して中に入れました。当時の家族会館には、家族約三十名一室に居りましたが、私の一存で之れらの人を外へ出すことを躊躇し、自ら首相官邸に赴き栗原中尉の指示を受けました。すると栗原中尉は、直ぐ家族会館に来り、彼等に蹶起趣意書を朗読したる上退去を許しましたので、私は兵が危害を及ぼす事を虞れ、三、四名宛逐次に退去せしめました。

 二十七日午後六時三十分頃、中隊長森田大尉が来ましたので、私は「 中隊長の指揮下に入れて戴きたい 」と 申しますと、常盤少尉は「 我等は小藤大佐の指揮にあるからそれはいかぬ 」と 述べました。午後七時頃に至り、小藤大佐命令になりとて蔵相官邸に引揚げを命ぜられましたので、午後七時半頃家族会館を出て蔵相官邸に入りました。

 (二十八日)正午頃、野中大尉来り、将校に陸相官邸集合を命ぜられましたので直ぐ参りますと、磯部等一見在郷将校らしき者集合して居りまして、何となく自決の気配を感じましたので、我等の行為が完全に之等の人物に依り利用せられて居る事を悟り、其処を脱出し、幸楽に居る安藤大尉の下に到り、自己の所信を開陳し、蔵相官邸に帰りました。当夜は三宅坂の警備に付きました。

 二十八日夜、中隊長より私に電話で、「 俺の中隊へ帰れ 」との 電話がありましたが、前述の事がありますので私は常盤少尉から聞いた通り申しました。

 (二十九日)午前五時頃、赤坂方面より 「 ラヂオ 」 の放送を聞き、初めて奉勅命令の下りし事を知りました。次で赤坂見附方面偵察の為参りますと、四十九聯隊の大隊長が奉勅命令が下つたから早く帰れと云はれましたので、中隊の兵を集め営門迄帰りました。すると憲兵曹長来り、将校は陸相官邸に集合せよと云はれましたので直ぐ参りました。

 陸相官邸に於ける状況を述べよ。
 最初自決する考えでありましたが、同志に諫められ大御心の儘になろーと決心したのでありました。事件中所属上官より解散 或は 所属隊復帰の命令を受領し 或は知得せし状況を述べよ。二十七日 午後六時三十分頃、中隊長森田大尉が来ましたので私は「 中隊長の指揮下に入れて戴き度い 」と 申しますと、常盤少尉は「 我等は小藤大佐の指揮下にあるから それはいかぬ 」と 述べました。尚 二十八日夜、中隊長より私に電話で「 俺の中隊に帰れ 」との 電話がありましたが、前述の事がありますので私は 常盤少尉から聞いた通り申しました。本計画に対し、被告は襲撃乃至準備を為したるや 又 被告の地位 並 役割は如何。全部 野中大尉 並 安藤大尉の区署命令を受けて行動しました。従って第三中隊長として行動しましたが、私の独断で行動した事は帰順の時以外はありません。

 本事件に参加の目的は如何。
 
財政権の奉還、統帥権の確立、天皇機関説排撃の為であります。
 
そう云ふ思想は何時頃から抱持したか。
 昭和八年在隊間 士官候補生の頃から抱いて居りました、特に最近に於ける相沢公判の状況は直接的動機と思って居ります。
 本事件に当り、特に参加を勧誘したるものありや
 安藤大尉、野中大尉、坂井中尉等であります。
 本事件に当り、他人から金銭を収受したる事ありや。
 何もありません。
 皇軍の本質 並に威信上に如何なる影響を及ぼしたりや。
 最後に至り、悪影響を及ぼしたと考へました。
 国内的に如何なる影響を及ぼしたりと思料するや。
 上御一人の御宸襟を悩まし奉り、民心を動揺せしめたと思ひます。
 国際的に如何なる影響を及ぼしたると思料するや。
 国際的に悪影響を蒙ったと思ひます。
 皇室に対し奉り、敬虔けいけんの念に如何なる影響を及ぼしたると思料するや。
 国民が我等の真の気持を理解したならば、皇室に対し奉る敬虔の念には何等の影響を及ぼさぬものと思ひます。
 現在の心境は如何。
 現在の社会情勢には不満の点もありますが、今度の事件に関しては全く他人より動かされ自分の信念と相当の距離を生じた事を深く遺憾に思って居ります。即ち 自分の信念は 軍隊は陛下の軍隊でありまして、統帥命令で動くべきでありますのに、強制的命令に動かされました事を遺憾に思ひます。
 将来に対する覚悟如何。
 只々大御心の儘に動きます。
 本件に関し他に陳述すべき事ありや。
 別にありません。
 陳述人  清原康平 昭和十一年三月二日 





(私論.私見)