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「池田俊彦少尉証言」。
「皇軍の衝突による犠牲者の発生を協議の結果、中橋中尉、中島少尉、林少尉、池田少尉の四名は徒歩で首相官邸を出発、途中より、自動車で陸軍大臣官邸に赴き、栗原中尉、田中中尉 は官邸に残って居りました。当時陸相官邸には、坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉、が居りましたが、後から、野中大尉、対馬中尉、竹島中尉、常盤少尉、清原少尉、鈴木少尉、渋川氏が来たので合計十四名が一室に居りましたが、野中大尉及渋川氏は何処かへ出て行きましたので十二名になりました。室内には多数の将校が来て「血を流さないでよかつた」と申されましたが、中には「切腹しろ、切腹しろ」と云ふ人もありましたが、今死んでは犬死になるから自決しなかつたのであります。即ち、一旦国法に反した以上、刑罰を受くることは元より覚悟の上で、生命など問題にして居りませんが、せめて公判を通じて吾々の精神を国民に知悉せしめ、国民の皇国精神を勃興して終りを遂げたいと思ったので自決しなかつたのであります」。 |
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「池田俊彦少尉憲兵調書」。(「二・二六事件秘録 (二) 」 から)
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« 国家革新運動に従事するに至りたる原因動機 » |
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学問的、歴史的、社会的方面、皇軍将校としての立場の順序に就いて申述べます。
(1) 学問的方面
陸軍士官学校予科二学年の頃より漢丈に興味を持ち、始めは朱子学を考究し、漸次 陽明学に傾き来り。就中、安岡正篤の 「 王陽明の研究 」 は 特に感激を深くしました。又、日本精神に関する種々の書物を読み、仏教の方面も稍(やや)研究し、東洋思想の内観的価値重大にして深遠なるを感じました。西洋学問の概念的普遍的なるに対し、東洋倫理の玄(東洋学の意)
にして 幽遠なるを銘記したのであります。陸軍士官学校本科の中頃より、日本精神の総べてを超越して尊きものなることを更に感じ、而して之れは日本国民の理念と至情なることを痛感致しました。
(2) 歴史的方面
日本精神 即ち 皇道は、天御中主神を中心として中心分派し、遠心求心兼備せる世界大道宇宙(自己及天体) の真理であって、恰も太陽が万物を生成育化する如きものであり、大御心が世界を隈なく照らすものなることを確信しまして、而して
此 精神の日本に於て最も発揚せられたる時代は、大化の改新、建武の中興、明治の維新にあることは疑なき事実であります。日本の 「 神ながらの道 」
が 歪めらるれば、それに対して常に天誅の刃は下されたのであります。人間界が動物界と異なる点は 甲が或る処から或る処までやれば、次の時代の乙は又
或る処から始めると言ふが如き 人間の意志及事業の継続であり、而して それは純にして真直なるものであります。日本家族主義が一貫し、孝なる事 即ち
忠なる君民一体の国家の永続であります。往昔、仁徳天皇が民の心を心となされ給ひし如き国家の永昌にあることを確信するものであります。蘇我入鹿が天皇の命を勝手に作り、天子の威を着て私腹を肥し、大逆を敢てなしたるに対し、中大兄皇子は破邪顕正の剱を取って、宮中にて剱を抜くの法度を破りても大極殿に於て
天誅の刃を下されました。而して 「 神ながらの道 」 に復し奉り、大化の新政を現出し奉ったのであります。又、建武の中興に於ても 御宇多天皇の御意志に基き、後醍醐天皇の御代に高時を破りて中興の大業を成就しました。是れ即ち
高時の勅を奉ぜざるを打破して大業を翼賛し奉る楠公以下忠臣の業に依るものが大なのであります。明治維新亦然りであり、昭和維新も亦然る可きものと考えるのであります。
(3) 社会的方面
現今の情勢を見ますると、天日照々として輝く真の国体を現出せんと云ふ可きか。何人もこれを打破せんとする希望に燃へつつあると思ひます。但し 現今、自己の地位を確立しあるものは私慾の為に汲々として現状を維持するに急なのであります。米が余る程出来て
食ふことの出来ぬものがある一方に於て、生産過剰に苦しむ者ありて一方に物資を持たぬ者がある。これが現今の矛盾の一つであります。何処かに やりくりの悪い所があるやうに思ひます。農民は貧苦のどん底にあるも
之れに対する処置は僅少であります。帝都の大震災、金融界の動揺に対する救済は大々的になされましたが、下層民の窮境には極めて冷淡であります。天皇陛下に対し奉り、機関なりとする天皇機関説論者を保護せんとするが如き政府の声明、党利のみを第一とする政党政治の堕落を見る時、何んとかせんと忠臣は努力しつつあるが総て法規に依って阻止されて居るのが現状であります。陛下に対し奉り、植物学の御研究をお薦めし、天皇の大権の御発動を御裁下のみを縮小し奉り、自己等の地位権勢を以て国家を動かさんとする元老、重臣の横暴、而して仁徳天皇の如く、明治天皇の如く、民の心を十分に大御心を以て滋育し給ひたるが如きことをせず、極端に言へば
陛下に蓋をし奉り 自己の地位を保護せんとするが如き実に慨嘆に堪へません。我等は断固 妖雲を一掃して、天皇御親政の真の国体を顕現せんことを期すのであります。我等は過去に於て如何に善人たりとも、如何に国家に功労があるも、現在国家の発展を阻止せんとするが如きは逆賊と言はざるを得ないものであります。
(4) 皇軍の将校としての立場
軍は天皇親率の下に皇基を恢弘(かいこう)し、国威を宣揚するを本義とせられて居ります。而して 対外的、対内的 何れに対しても国家の奸たる者は討伐をせなければなりません。平戦両時を問はずに軍の行動を妨害すのものは、外人たると日本人たるとを問はず、正義の剣を振って打倒すべきであります。軍は細民の為めの軍に非ず。政党、財閥、元老、重臣の軍にも非ず。一に、天皇陛下の皇軍にあります。軍は一元的中心の下に製正敏活一致して行動し得るを以て本質とするのであります。即ち統帥の一貫であります。これが歪められれば軍の絶滅であります。而るに数年来、屡々、統帥権干犯問題を惹起し、軍をして私兵化せんとせる傾向があります。今回、相沢中佐殿の立たれたる最大の原因又ここにありと信ずるのであります。軍が資本家と供託して殖民地を作り、
「 ダンピング 」 を以て市場を獲得し、民の利害を顧ず、威力を発展せしむるが如きは、所謂覇道の軍であって 決して皇軍ではないのであります。皇軍は万民を生成育化する皇道精神の具現にあるのであります。
以上の様な心境にありましたので、士官学校卒業以来、歩兵第一聯隊中隊長山口一太郎殿、機関銃隊附中尉栗原安秀殿、同少尉林八郎氏と語る機会が多く、益々改造運動に努力致し度く思って居りましたが、特に初年兵教育を担任して身上調査をしてみて深刻に国家組織の欠陥を認識しましたが、更に
現に行はれつつある相沢中佐殿の公判状況を元歩兵大尉村中孝次氏より聞くに及び、憤慨の至りに堪へず、どうしても軍の力に依りて国家を改造しなければならないと思ふ様になったのであります。 |
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« 此の事件誰が計画したか » |
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誰が計画したのか存じませんが、臆測で、歩兵中尉 栗原安秀、元歩兵大尉 村中孝次、元一等主計 磯部浅一、歩兵大尉
山口一太郎の 四人であらうと思ひます。二月二十三日 午前十時頃、林少尉が私の部屋に来り 決行の日は示さないが、近くやると云ふことを言ひますので、私は五・一五事件の如き火花線香式の如きものはやらないと申しました。すると林は今度は、歩兵第一聯隊七中隊、第一中隊、及
機関銃隊、近衛歩兵第三聯隊 一箇中隊、歩兵第三聯隊 八箇中隊、豊橋 若干、野重 同右出動し、帝都の実力を握り、戒厳令を戴き、維新を断行すると申して居ましたので、是なら出来ると思ひ、私も参加すると申しました。然し私の中隊は機関銃隊みたいな下士官兵に御維新に参加する丈の教育が出来ていないことと、又
中隊長がこの運動をしない人ですから 迷惑を掛けてはならないと思ひ、更に不成功となった時、多数の兵員を犠牲にすると思って 連れて行かず、私一人参加しました。そして爾後二日間は演習に忙しく、全然同志と会合せず、二十五日演習より帰り、午後六時半頃、私の部屋で林より「
今晩やるぞ 」と 聞かされました。そこで私は午後十時頃機関銃隊将校室へ行きますと、栗原中尉(歩一) 中島少尉(鉄道第二聯隊 現在砲工学校在学中)
が居りまして、私は栗原中尉り計画を聞きました。・・略・・
右の計画を聞いてから 暫らく沈黙の状態が続きました処へ、山口大尉は当時週番司令でありましたが、私等が居ります処へ来、「 本庄閣下の親戚である私は
一個の山口と二つの肩書を持ちたい 」と 申されました。此意味は 皆と一緒に第一線に立つて行きたいが、他に任務があるから一緒に行けないと云ふことで、他の仕事は外交面担任すると云ふ事であります。・・略・・
午前五時頃、栗原中尉は第一教練班及機関銃の主力を率ひ、表門より突入し、次で林少尉の部下の大部分侵入し、私の教練班並林少尉及林の部下一部は裏門から突入しました。そして林少尉は中に入り、私は機関銃二銃を持って裏門の警戒に当たりましたが、栗原部隊が首相を中庭でやっつけたので兵を表門に集結し、万歳を三唱しました。当時大蔵大臣担任の近歩三中橋基明中尉及中島少尉の指揮する一隊も、首相官邸に到着して居りました。又、田中中尉は自動車一台、トラック二台(共に軍用)
を持来て居りました。・・略・・
二月二十七日夕、陸相官邸に於て 栗原中尉の除く外の全将校と軍事参議官と会見し、野中大尉が一同を代表して次の事をお願ひしました。「 事態の収拾に付ては真崎閣下に御一任したいと思ひます。宜しくお願ひします。軍事参議官閣下は真崎閣下を中心としてやられる事をお願ひ致します
」。それに対し阿部閣下は、誰を中心とすると言ふのではなく、軍事参議官が一体となって努力するといわれました。真崎閣下は、「 諸氏の尊い立派なる行動を生かさんとして努力して居る。軍事参議官は何等の職権もない。只、陸軍の長老として道義上、顔も広いから色々奔走して居る。陛下に於かされては
不眠不休にて、御政務を総攬あらせられ給ひ、真に恐懼の至りである。お前達が此処迄立派な行動をやって来て、陛下の御命令に従はぬとなると大問題である。その時は俺も陣頭に立って君等を討伐する。よく考へて聯隊長の命令に従ってくれ
」と 言はれました。そこで私等は退場し、聯隊長とは誰か、元の聯隊長か今の小藤大佐かと色々話合ひましたが、そこへ山口大尉が来られ、真崎大将に対し、「
奉勅命令の内容は我々を不利に導き、御維新を瓦解せしむるものなるや 」と 問ひたる処、 「 決して然らず 」と 答へられました。山口大尉は更に、「
聯隊長とは誰か 」と 問ひたるに、「 小藤大佐なり 」と 答へられました。そこで吾等は、一に大御心にまかせ、聯隊長の命令に従ふことを誓ひました。 |
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「池田俊彦の最終陳述」。
「検察官殿の論告の主文に同意いたします。大命によらずして、陛下の軍隊を動かし奉りました罪まさに万死に値します。どうか情状酌量などなさらぬように心からお願い申し上げます。しかしながら、我々は民主革命を企図したものではありません。社会民主革命などと言うことは、これ迄考えたこともありません。また 勅命に抗したことはありません。我々は断じて逆賊などではありません。これだけは はっきりと申し上げます。申し上ぐべきことはこれだけでありますが、最後に一つお願いがございます。世間では我々を逆賊として我々の遺族に危害を加えるものがあるやも知れません。私はどんな苦しみでも甘んじて受けますが、どうか遺族だけはこのようなことのないようにお願い申し上げます。昭和十一年六月五日、最終陳述」。 |
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