【相沢中佐公判と死刑執行経緯】



 (最新見直し2011.06.04日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「相沢中佐公判と死刑執行経緯」を確認する。れんだいこは、相沢事件が2.26事件と密接に関連している気がする。それも、相沢事件が呼び水したのは疑いないとして、更に相沢も2.26事件青年将校も何やら一本の線で誘導されている気がしてならない。これを確認する。「相沢事件」、「相沢事件 (永田軍務局長斬殺)」その他を参照する。

 2011.6.4日 れんだいこ拝



【相沢三郎陸軍中佐の永田鉄山軍務局長殺害現場考】
 相沢事件は、1935(昭和10).8.12日、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、白昼に陸軍省内において統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件を云う。事件は、夕刊で、陸軍省発表に基づき「永田危篤、犯人は某隊付中佐」と報ぜられた。「現役将校が白昼公務執行中の上長官に対し危害を加え『危篤』に陥らせたという事実は我が陸軍未曾有の重大事であった」と評されている。この「相沢事件」は半年後に勃発する二・二六事件の導火線となった意味で看過できないので、この事件の経過及び裁判過程を確認する。

 事件の背景には日本陸軍内に於ける皇道派と統制派の対立があった。相沢事件より前、日本軍部内に様々な対立が発生しており、やがて「皇道派対統制派の対立」へと煮詰まって行く。相沢は、1934(昭和9).12.31日の夜、士官学校事件の背後に永田鉄山がいると判断し、「こんど上京を機に永田鉄山を斬ろうと思うがどうか」と大岸頼好大尉に相談している。1935(昭和10).6月、林陸相と永田軍務局長の満洲・朝鮮への視察旅行中、磯部浅一、村中孝次、河野寿が永田暗殺を謀議している。同年7月、皇道派リーダーの真崎甚三郎教育総監が更迭された。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告された真崎は、「これは真崎一人の問題ではなく陸軍の人事の根本を破壊するものだから承知できん」と反論している。皇道派の将校らは林大臣の行動を統帥権干犯と非難し、「皇道派対統制派の対立」が沸点化した。この事件が相沢事件の直接の引き金となった。相沢は、「教育総監更迭事件要点」や「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題する文書を読み、教育総監更迭の真相を知って統帥権干犯を確信する。

 同年7.18日、相沢は、総監更迭の事情を確かめようとして上京する。翌19日、陸軍省軍務局長室において永田少将と面談し、辞職を勧告して一旦帰隊した。「粛軍に関する意見書」を読み、磯部浅一、村中孝次の免官(8月2日付)を知ると、「このままでは皇道派青年将校たちが部隊を動かして決起し、国軍は破滅すると考え、元凶を処置することによって国家の危機を脱しなければならない」と決意した云々。

 同年8.11日、台湾転任を前に上京。途中、伊勢神宮と明治神宮に参拝して、「もし、私の考えていることが正しいなら成功させて下さい。悪かったならば不成功に終わらせて下さい」と、祈願したという。

 事件当日午前9時30分頃、相沢が陸軍省に至り山岡重厚整備局長を訪ね談話する。給仕を通して永田少将の在室を確かめている。

 午前9時40分過ぎ、軍務局長永田鉄山少将は、東京三宅坂台上の陸軍省内二階の軍務局長室で、南向きの窓を背に局長用テーブルに座って、前の椅子に座る東京憲兵隊長・新見英夫大佐、兵務課長・山田長三郎大佐と陸軍内部の綱紀粛正(過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策)に関する打ち合わせをしていた。新見大佐は怪文書について報告しており、軍務局長の机の上には、「粛軍に関する意見書」が開かれていた。

 ここへ相沢が乱入する。事件の証言が錯綜しており真相は分からないが素描しておく。異様な形相の歩兵中佐が軍刀を抜いたまま入って来た。「ぬっ」と入って来たと云う説と「天誅!」と叫びながら斬りかかってきたとの説もある。殺気に気がついた永田が立ち上がり凶刃を避けようとする。これに相沢が斬りかかる。最初の一太刀は永田の右肩を斬るが傷が浅かった。相沢が隣の軍事課長室へ逃れようとしたところを相沢が追う。新見英夫大佐が相沢の腰に飛びつたが逆に斬りつけられ左上膊部に重傷を負い、転倒して意識を失ったとされている。山田大佐は「すっと出ていった」とする説と、「(ついたてのところで)相沢、よせ、よせと口走るばかりであった」(岩田礼「軍務局長惨殺」)とする説がある。事件後、山田大佐は、「自分の軍刀を取りに兵務課長室へ走って戻り、軍刀を持って局長室にとって返した時には局長は殺害され、相沢は立ち去った後だった」と弁明したが、軍内部及び世間から「上官を見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い」と批判され、さらには相沢と通じていたのではないかという噂までささやかれるに至った。事件から約2ヶ月後の10.5日、「不徳の致すところ」という遺書を残し自宅で自決している。相沢は、永田の左背部に向かって突き刺し、切尖は永田の心臓部に達している。倒れた永田は入り口の方へ這っていったが応接用テーブル付近で力尽きた。相沢は、仰向けになった永田の体の上から、そのこめかみに一刀を加え、武士の作法通り永田の首筋にとどめを刺した。背部に二刀、こめかみに一刀、さらにとどめの一刀が咽喉部にくわえられ、軍服はおびただしい出血に黒々と濡れ絨毯は血の海に染まった。軍事課室から課員の武藤章(中佐)らが駆け込んだ時には、永田はすでに息絶えていた。ほとんど一瞬の出来事であった。

 永田鉄山少将の履歴は次の通りである。亨年51歳、陸士十六期。陸軍軍人にして統制派の中心人物であった。「将来の陸軍大臣」、「陸軍に永田あり」、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だった。企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と追想している。相沢三郎中佐の履歴は次の通りである。46歳。陸士二十二期。歩兵将校として階級は陸軍中佐に昇進していた。剣道の達人として知られていた。

 決行後、相沢は、整備局長室に戻って「永田に天誅を加えた」と告げている。出血している左手をハンカチで縛り、たまたま来室していた山岡大尉に医務室へ案内させている。途中、(どう理解すべきか分からなくなるが)永田局長の一の子分といわれた新聞班長の根本博大佐が駆け寄ってきて黙って固い握手を交わしている。調査部長の山下奉文大佐が背後から「落ち着け落ち着け静かにせにゃいかんぞ」と声をかけている。相沢はその場で憲兵に拘束された。憲兵から「これからどうする」と聞かれ、「さあ任地へ行くべきだろう」と答えている。同23日、待命となり、同10.11日、予備役編入となる。

 永田が殺された時、大川周明は、「小磯がバカだからこんなことになった。あの書類さえ始末しておけば永田は殺されずにすんだものを……」と嘆息したという。社会民衆党の亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方はカウンター・クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」と述べている。

 事件を受けて、綱紀粛正のため陸軍省では9月から10月にかけて首脳部の交代が行われた。林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任し、川島義之陸相、古荘幹郎陸軍次官、今井清軍務局長、村上啓作軍務課長の布陣となった。

 永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る。その後、永田が筆頭であった統制派は東條英機が継承し、石原莞爾らと対決を深め(石原は予備役となり)やがて大東亜戦争に至る。

【相沢中佐公判考】
  相沢は事件直後から第一師団軍法会議予審に付され、岡田予審官が二ヶ月間にわたり厳重取調べた。相沢事件の第一師団軍法会議の予審は11.20日に終結する。島田朋三郎検察官の手許で起訴状が作成された。第一師団軍法会議長官・柳川平助中将の決裁を経、同中将はこれを川島陸相に報告をなし、相沢中佐は陸軍刑法の「用兵器上官暴行罪」ならびに一般刑法の「殺人罪」および「傷害罪」をもって正式起訴された。

 1936(昭和11).1.28日、第1師団軍法会議による公開裁判が行われた。これが第1回公判となる。裁判長(判士長)は陸軍少将第一旅団長の佐藤正三郎。判士3名(大佐2名、中佐1名)、法務官1名の計5名が裁判官として任命された。法務官は相沢公判のため特に先般第十師団より新井朋重が選ばれ着任した。検察官は法務官の島田朋三郎、弁護人は弁護士、法学博士の鵜沢聡明、特別弁護人、陸軍歩兵中佐の満井佐吉であった。公判は、問題が教育総監更迭に関し、勅裁を受けている大正2年の省部規定を蹂躙した軍首脳部の行動が統帥権干犯となるや否やに絞られ、林陸相の行動が統帥権干犯となるか、林陸相にあえてそれを行わせた永田軍務局長に陰謀の事実があったかどうかが事件の焦点となった。

 第一回公判につき、次のように評されている。
 「第一回公判は、翌年1月28日から行われた。2・26事件の直接のきっかけは、この裁判であったと考えられる。まるで皇道派が舞台をしつらえたかのような法廷で展開された思想戦の模様は青年将校の燃え滾る心に油を注いだ」。

 磯部浅一は「行動記」の中で次のように記している。
  「相沢中佐のようにえらい事は余にはとても出来なかった。それで相沢事件以来は弱い自分の性根に反省を加え、これを叱咤激励する事につとめた。特にともすれば成功主義すなわち打算主義に流れようとする薄弱賎劣な心を打破して、一徹な正義観念によって何事もせねばならぬことを自己の信仰とせねばならぬと考えて一切の打算から離隔する事に努めた」。
 「12月になってからは、1日から20日迄は他出して雑多な人と雑談する事をさけ、妄念の断離につとめた。これがため、毎朝早く起き明治神宮に参拝することと、北氏著の国体論の精読浄書を日課とした。かくの如くしている間に、余の腹中に何物か堅い決意の中心ができた。いよいよ決行出来るだけの腹が出来たというわけだ」

 2.12日、第6回公判。陸軍次官の橋本虎之助中将を証人喚問する。2.17日、第*回公判。陸軍大臣の林銑十郎大将を証人喚問する。2.25日、第*回公判。前教育総監の真崎甚三郎大将を証人喚問する。軍機保持上公開を禁止した。三証人とも、職務として関与したものであるから勅許をまたずしては証言できないと肝心の点については証言を拒否した。鵜沢、満井両弁護人は勅許を仰いで真崎大将を再喚問するよう申請するとともに、斎藤実内府、池田成彬、木戸幸一、井上三郎、唐沢俊樹警保局長、下園佐吉(牧野前内府秘書)、太田亥十二を証人喚問することを申請した。軍法会議は勅許奏請の手続きを執らなければならない段階となり、軍中央部も反対することはできなくなった。ところが2月26日払暁に二・二六事件が勃発したことにより一時中断された。

 この時期、即ち、2・26事件の直前の軍の大勢は、皇道派で占められ、相沢公判のような事件についてさえも、同情をもつ者が多かった。西田税らは次のように主張している。
 「国体明徴、粛軍、維新革命は三位一体で、相沢中佐蹶決の真因もここにある。したがって超法規的な国体、超法律的維新に殉ずるもの、そのうくるところも、また同じく超法律的でなければならない」。

【相沢三郎の弁護を引き受けたのは鵜沢総明博士考】
 相沢三郎の弁護を引き受けたのは鵜沢総明博士を確認する。博士は、戦前は、政友会代議士として衆議院当選5回、勅撰貴族院議員をつとめる一方、教育界では大東文化学院総長を歴任、また戦後は、東京裁判弁護団の団長、明大総長をつとめている。

 以下、「相沢公判」所収の「2月7日の鵜沢弁護人政友会離党声明書」を転載する。
 2月7日の鵜沢弁護人政友会離党声明書

 「陸軍省における相沢中佐事件は、皇軍未曾有の不祥事件であります。この事件を単なる殺人暴行という角度からみるのは皮相のそしりをまぬがれません。日本国民の使命を忠実に、ことに軍教育をうけたものが、ここに到達した事件でありまして、遠く建国以来の歴史に関係を有する問題といわねばなりません。従って、統帥権の本義をはじめとし、政治、経済、民族の発展に関する根本問題にもふれるものがありまして、実にその深刻にして真摯なること、裁判史上空前の重大事件と申すべきであります。裁判の進行とともに各方面の関係を明確にするためには公明正大なることを要し、いかなる顕官重臣といえども、証人たらざるをえない場合があるかと思われます。政府および軍部には識度の高い方々がキラ星の如くでありますから、この事件の重大性を正視されたならば、最善の帰結を見出すところがあらねばならぬと信ずるのであります。

 わたしとしては、かかる場合に、一党一派に籍をおき、多少なりとも党派的好尚に影響せられてはならぬと痛感し、政友会入党30年の微力を致したる過去を一擲し、ここに、政友会を離党することに相成った次第であります。けだし、事件の真相を審究し、単に弁護人たちの責務のほかに、国家的見地からかかる問題の最善の解決を希求する念が熱烈となり、仁愛を基本とする刑政の本義を闡明せんとする微衷は、わたしをしてこの決意に至らしめたのであります」。
(私論.私見)
 相沢公判の弁護人として鵜沢総明が登場している。その鵜沢は大東亜戦争後の東京裁判で弁護団団長に選ばれている。鵜沢が選ばれた理由として、林逸郎弁護士は、「弁護団中の侵略戦争是認派を抑えるため」と語っている。窺うべきは、鵜沢を登場せしめている背後の意思であろう。れんだいこ的には臭いと思う。

 2013.3.30日 れんだいこ拝

【相沢事件初公判予告考】
 「大阪朝日新聞 1935.11.3(昭和10) 永田中将刺殺の相沢中佐きょう起訴 公判は来月上旬か」を参照する。
 犯行の動機 陸軍省発表 相沢中佐の永田中将殺害事件はかねて第一師団軍法会議において予審中のところ十一月二日予審終了し、用兵器上官暴行殺人および傷害事件として同日公訴を提起せられたり。右永田中将殺害の事情概ね左の如し。

 相沢中佐はかねてより我国の現状をもって建国精神に悖り各部門とも悪弊累積してその前途頗る憂慮すべきものありとし、速かにこれを革正して国体の真姿を顕現せざるべからずと思惟しありしが、昭和八年夏ごろより国家の革正は軍部が国体観念に透徹して一致結束して邁進せざるべからざるにかかわらず陸軍の情勢はその期待に反するものありとし、まず部内の革正を断行せざるべからずとの意見を抱懐するにいたれり。しかして昭和九年三月永田少将の陸軍省軍務局長就任以来、同少将が殊更に国家革正運動を阻止するものなりとの一部のものの言を信じ、同少将に不満の念を抱きおりたるところ、同年十一月反乱陰謀被疑事件起りこれに関連して村中孝次、磯部浅一が停職処分に附せられついで同十年七月中旬教育総監の更迭をみるに及び一部のものの言説およびいわゆる怪文書の記事などにより右は全く永田少将の策動に本づくものとし、なお七月十九日同少将に面談し辞職を勧告し置きたるも、その後これが実現を見ざるを知り同少将をこのまま放任するにおいては陸軍の革正はとうてい期し難く、従って皇軍の前途憂慮に堪えざるものありとなし、八月十日福山発単身上京し、同十二日陸軍省軍務局長室において急遽執務中の永田少将に迫りこれを殺害するにいたるものなり

 判決は明春

 相沢中佐に対する起訴状は島田検察官の苦心執筆になり犯行の動機径路並びに情状を僅か四、五枚の中に明確簡潔に論及している。適用条文は別項のごとく永田中将に関する「用兵器上官暴行罪」(陸軍刑法)ならびに「殺人罪」(一般刑法)と新見英夫憲兵大佐に関する「傷害罪」によるもので、新見憲兵大佐に関して「上官暴行罪」の適用なきは犯行当時相沢中佐が興奮して何人か制止せる軍人を斬ったという以外に姓名その他上官の認識がなかったものとの認定によるものである。予審調書は三冊約一千枚の大部なもので証人として被害者の新見憲兵大佐および責任自殺をとげた山田長三郎大佐以下十七名が喚問を受けている。事件の性質上公判は軍紀に関するため陸軍軍法会議法第三七二条「安寧秩序若ハ風俗ヲ害シ又ハ軍事上ノ利益ヲ害スル虞アルトキハ弁論ノ公開ヲ停ムル決定ヲ為スコトヲ得」の条文によりいわゆる「巷説ヲ妄信」の犯行の動機その他一部の審理は公開を禁止される模様である。なお判決に対して不服の場合は言渡後三日間に高等軍法会議に上告することを得るので相沢中佐が一審判決に直ちに服罪するや否やを問わずいずれにしても判決確定は明春に持ち越されるものと見られている。

 適用条文

 陸軍刑法第六十二条「上官ニ対シ兵器又ハ兇器ヲ用イテ暴行又ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス」
一、敵前ナルトキハ死刑、無期若クハ十年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
二、其ノ他ノ場合ナルトキ無期若クハ二年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
【刑法第一九九条】人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス
【刑法第二〇四条】人ノ身体ニ傷害シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ五百円以下ノ罰金若クハ科料ニ処ス

【1936.1.28(昭和11)相沢事件考】
 「報知新聞 1936.1.29(昭和11) 信念を問われて『至尊絶対』の一言 相沢中佐の訊問進む 永田事件公判」を参照する。
 夕刊続き=二十八日の永田事件、相沢中佐の公判は午前十時五十五分再開後身許調査、賞罰、経歴、家庭の事情、健康状態、趣味等につき訊問があって、次に相沢の思想、信念を訊く。
法務官  「被告の日頃の感懐は…」。
相沢  「私は小さい時から実父に次の事を教えられました、私の父は明治維新の際大義名分を誤り、賊となった事を残念に思い、「お前が大きくなったら陛下の御為めに尽さなくてはいけない、今一つは世の中には自分のものは一つもない、総ては天子様からお預かりしているもので、時と場所で何時でも御返ししなくてはならない」と教えられました。こうして私は大きくなりました恭しく思いまするのに、天皇陛下は天照皇大神と共に天地創造の神であります大君は古今東西、過去現在招来を通じて絶対であらせられます。吾々がこの世に生れた真の意義は顕官や富豪になるというような生物的慾望であってはならない。東西を通じて人間の真の使命は道徳の完成と真理の究明に向って進むべきにある。日本人は大神の宏大無辺の懐に包まれて生れているのであって、日本の使命は天の大岩戸を開いて広く全世界に御稜威を輝かすにあります。私の信念は以上述べました処によって私利私慾の根源をなくするため明治維新の藩籍奉還に則り、この総ての財を陛下に奉還するにあると思います」。
 引続き思想的、人格的に影響を受けた点について
相沢  「かつて東久邇宮殿下が瑞巌寺に成らせられた時「禅は国家のため学ぶべきものだ」との御言葉を拝し、知人の紹介で仙台の輪王寺に至り、無外和尚に禅の指導を受け、更に修養を積むため時の東北帝大総長北条先生の許に弟子入りして種々思想的にも、人格的にも多大の指導を受けた」。
裁判長  「無外和尚さんはまだ御無事か、そして交際を続けているのか」。
相沢  「結婚した後二三度お目にかかりました」。
裁判長  「被告の信念は…」。
相沢  「至尊絶対」。
 午前十一時四十分公判を打切る。

 財奉還論を叫ぶ 舌鋒いよいよ鋭し

 午後二時七分佐藤裁判長再開を宣し、相沢中佐の公判は続く 。
杉原法務官  「午前の時国家革新の信念について述べたいといったが、それについては何時頃から関心を持ったか、大体昭和五年頃から国家革新を考えたと聞いているがその事については」。
相沢  「日本臣民は大御心に従って無窮に進む、日本臣民はこれを翼賛し奉ればよいので、国家革新ということは考え得ないことです。これが即ち昭和御維新である、国家革新という事は断じてあり得ない。自分は何故昭和維新に身をささげねばならぬかについて申上げます。私が昭和四五年頃体操学校に居る頃国内の現状を見て実に慨歎に堪えないものがあった。塞村の民の心は非常にすさんでいる、鉄道大臣や賞勲局総裁はいまわしい事を引き起す等亡国的思想にかぶれて国家を忘却し、経済においても私利私慾に走り、海軍の統帥権干犯、陸軍の満洲における忌わしい話等聞いて大御心を悩まし奉ると拝し相沢はもう忍ぶ事は出来ませんでした」 。
杉原法務官  「何によって世相を知ったか」。
相沢  「新聞や講演等によって知りました」。(かつて青森へ赴任して以来大岸頼好大尉によって思想的また人格的に多大の影響を受けたことを述べ、当時の青年将校のいずれもが国家革新を希求していた事を指摘し)「陛下の皇軍は将校も兵卒も共に大御心を体して全員一致皇軍の真使命に進むべきであります。国家の行つまりは財物の偏重と為政者の失政によるものである事を指摘して財奉還論を絶叫する 」。
杉原法務官  「六年の十二月に歩兵学校に召集され、東京に出て来ていろいろの人に接し話したようだがその時の人々は?」
相沢  「菅波大尉、大蔵大尉、小川氏、西田税氏、安藤、合田、佐藤の各大尉、海軍の古賀、中村両大尉等と会いました」。
杉原法務官  「この人達は初めから知っていたのか?」。
相沢  「みんな大岸大尉の紹介で知りました」。
杉原法務官  「そういう人達と話をして信念が動いたか?」
相沢  「信念には変りありません」。
杉原法務官  「昭和七年秋田に転任したようだが、ここで知り合った人はなかったか?」。
相沢  「ありません、その後東京に出て村中、磯部氏等と会いました」。
杉原法務官  「維新の実行方法についてはその後変りはなかったか?」。
相沢  「別にありません」。

 職業軍人に一矢

杉原法務官  「昭和維新のことについて皇軍のことを述べたが当時の皇軍についてはどう考えるか」。
相沢  「皇軍がよく真面目を保たなければならないという事は考えていました、当時昭和八年四月の師団長会議で陸相の訓示内容はしっかりしたものだと考えた。骨子は大御心に本当に副い奉るという事であった、しかしその点について不審の点があったので東京で調べて見ると各隊で陸相の時局の認識が普及していない事実を知った自分はこのような大事な事が徹底していぬのが残念に堪えない。この点から見ると軍人の中には職業軍人となって本当の大切な事を考えていぬ人があるように思った、戦闘方法がどうのこうのと昔の町道場のようでは戦は強くてもその根本精神を失っていては大御心に副い奉る事は出来ない。これを私は職業軍人というのです。また陸軍の中央では政治的野心というか、軍人が経済学者なり政党財閥等から誘惑されている。かように中央がしっかりしないで皇連を破壊して悪思想に染まっている、また隊では隊長の通りになって世渡り根性になられた将絞があるように考えます。例ははぶきます。なお中立思想の持主には洞ヶ峠といいますか、何閥々々と称し、また調子が悪くなるとまた別の人をかつぐ、かかる事は誠に遺憾と思う。誰がするのか青年将校はどうのこうのと、誰はどうのと色々とうわさをして説をなすものがある。つまりお前は誰の処へ行ったろうとかいって取調べられる、誰の処へ行こうが腹がしっかりしていればかかる必要はない」。
 午後二時五十五分、佐藤裁判長が休憩を述べる。

 『政治的意図の下に青年将校を弾圧』 陳述漸く核心に入る

 二十分休憩の後、午後三時十五分より再開され、杉原法務官の訊問が続く。
杉原法務官  「陸軍部内の革新は福山へ赴任する前の事のようだが、福山へ行ってからも東京へ出たようだが何処へ泊ったか」。
相沢  「大抵大蔵の処ですが奥さんが病気のときは西田の処か偕行社に泊りました」。
杉原法務官  「福山へ行って九年三月永田少将が局長に赴任したがそれから被告は永田局長に対する見方が変ったようだが」。
 「維新の勢力は刻々と進んでいるまた一方これを妨げんとする保守の勢力もある、それは私利私慾によるものである、保守でもよいのは『尊皇絶対』だけである、この事は悠久永遠のものであるからである、永田少将閣下が局長になられては自分は非常に注意して局長の言動について調査した、局長が赴任されてから東京の将校が会合を企てました、それは一旦許されて開催際に隊長を通じて禁止された、私はこれは政治的圧迫と考えました、局長は軍の統轄上青年将校に注意され指導される事が必要であります、これを無言の内に断圧するということは政治的策動の他ないと思った、処が局長閣下は重臣、政党、財閥、新官僚と合体して維新の勢力を断圧せんとしたように思う、例えば○○○○○事件がありますが、その処分は皇軍を徹底的に破壊したものと思います、いやしくも皇軍に籍を置く者を局長の立場にありながらまた辻中隊長は士官学校生をスパイに使って青年将校を陥穽に陥れんとした事を見て、皇軍の将校は何と考えたか、また真崎閣下を取除かんとした事は実になげかわしい事でありますその他罪のない各地の青年将校を処分している、そし機関説排撃問題が起ると軍当局は政府と力を合せて重臣、官僚と意を合する如く地方では青年将校を弾圧し、中央部では真崎閣下を教育総監の椅子からもぎとるように引離しました」。
杉原法務官  「今述べた事を被告は同志から聞いたといったが被告の同志というのは」。
相沢  「先に述べた通りであります」。
杉原法務官  「その他には」。
相沢  「出所不明の文書を見たこともあります」。
杉原法務官  「どうして被告はそれ等の事をたしかと思ったか」。
相沢  「私は社会の各方面に立入って識っている」。
杉原法務官  「今述べた人以外に誰からかそんな話を聞いた事はないか」。
相沢  「他にはありません」。
杉原法務官  「政治的野心の用語の意味は」。
相沢  「元老、政党、財閥と関係して政治的地位を獲得せんとする意味であります」。
杉原法務官  「前述の知人以外に誰か色々意見、情報を聞いた人はないか」。
相沢  「特別にこれという人はありませんが、新聞を読むにもまた陸軍省幕僚の友人の言葉の裏にもその他の人々からも直接その問題には触れないが、自分の所信をかためるに役立つものがあった事は事実です」。
 午後三時四十五分閉廷する。次会は三十日午前十時から開廷と宣告される。

 無外師起たん 特別弁護人として 

 仙台発=永田軍務局長を刺し殺した仙台出身相沢三郎中佐の軍法会議第一回公判に際して、かつて同中佐に仏の道を説いたことのある仙台市北山輪王寺住職福定無外師は特別弁護人として法廷に超つことを決意し、次の如く語った。
 「公判前の相沢に対しては精神を統一し、虚心坦懐、誠心誠意答えるように激励しておいたが、更にその親戚からの申込もあるので私は公判に特別弁護人として超つ決意をしました、特別弁護人としての私は事件には触れず、専ら中佐が当寺に来て座禅した当時の態度から熱烈なる愛国心の持主であるということを説く積りです」。

【1936.2.6(昭和11)相沢事件第5回公判考】
 1936.2.6日、相沢三郎中佐の永田中将暗殺事件第五回公判が青山第一師団軍法会議法延で開廷した。審理に先だち島田検察官から前回相沢中佐が述べた昭和維新の意義、達成方法、具体的手段などについて中佐に質疑している。(「大阪朝日新聞 1936.2.7(昭和11)島田検察官の追及 三段論法で畳みかける 相沢中佐の第五回公判」参照)

検察  しからば軍人としては特にどうすればよいのか
相沢  将校、下士兵は恰も父兄弟の如くなり、上官は畏れ多くも陛下の御身に代わ奉り部下を統べることであります
検察  もし昭和維新に反対するものがあればどうするか
相沢  機会がある毎に諄々と説きます
検察  永田中将が維新実現の反対と見れば何故方法をつくし説かなかったのか
相沢  このことについては特に念を入れて申上げたつもりでありましたのにこれをお記憶になりませんか、すべてこの前申上げた通りであります
検察  前回犯行と国法との関係につき述べているが、どうも当職の腑におちない、上官に暴行すれば上官暴行罪になり人を殺せば殺人罪になることぐらいは判りそうなものだが
相沢  私は罪状を認定するために申上げたのではありません、勅語にある国憲を重んじ国法に遵い、その文字通り国憲重しと見たためであります
検察  その動機はわかったが、刑事上の責任を考えず台湾に赴任するなどどうして考えたか
相沢  国法を犯しましたッ、相沢の馬鹿のためでありました
検察  国法は陛下の御裁可により発布されたるものであるから国法を犯すことは陛下の大御心にそむく結果となることを考えなかったか
鵜沢弁護人  法律問答はやめられてはどうか、法律にも限度あり相沢中佐は法律以上に重大なことがありとして今回の挙に出たのでありますからそれ以上訊くことは法律理論にわたると考えます
検察  永田局長を一万両断すれば維新が達成されると思ったことが認識不足であったというのか
相沢  私の考えは少し違います
 ここでまた維新問答あり、ついで中佐が四冊も貯蔵していた北一輝著「日本改造法案」についても問答あり
検察  被告に永田局長観を問いたい。局長就任前のことにつき何か政治的野心でもあったと思ったか
佐藤裁判長  それは追って聴く
 なお二、三問答あって十一時十分漸く島田検察官の質疑を終り裁判長はこのとき「弁護人には何か彼告に訊ねることはありませんか」と問う
鵜沢弁護人  被告の供述をよく聴いて見ると固い信仰と電光石火の間の出来事であるから証拠など余り云云すべきではありませんと前提して大正二年に設けた陸軍内規の将官人事に関する規定を相沢中佐が見たことありや否やを問う
相沢  ハイ見たことはないが内規があることを聞きました、真崎教育総監の更迭はこの規定によらなかったと信じました
鵜沢弁護人  この規定は予審で示されてありますか
相沢  示されませぬ
 鵜沢弁護人は、相沢と統帥権干犯の認識につき問答を重ねたのち更に村中大尉と磯部一等主計の書いた「教育総督更迭の真相」に言及、更に中佐が公判廷で朴訥な口調で縷々陳述した昭和維新論の曖昧な点を敷衍、懇切に説明し
鵜沢弁護人  被告の陳述によると永田閣下は非常に理牲の強い人である、これに反し被告は情即ち真心の強い人である、この理と情の意義が最も重大であります
相沢  情は感情でなく私情でもなく忠君愛国の至情であります
 鵜沢博士はさらに相沢中佐の永田中将観から辞職勧告および相沢の最後の決意など詳細に尋ねると中佐は嬉しそうに低声で「ハイ、ハイそうであります」と頷く
鵜沢弁護人  まだ聴きたいことがありますがそれは公開の席上を避けます
 十一時三十四分休憩、午後一時三分再開
特別弁護人満井中佐  中佐は先刻公開の席上ではいえないことがあるとのことでありましたが、むしろ是を是とし非を非として一切を暴露した方がよろしいと考えますから中佐のお考え直しを願います
裁判長  公開または非公開はあとで合議の上決定する
満井中佐  中佐の陳述を綜合大観すると相沢個人が個人永田を刺したのでなく皇軍の一員たる公人の資格をもって軍人勅諭を守り決行したのであると思います、中佐は皇軍を救うため止むに止まれぬ志から部隊附将校として行ったものでありますか
相沢  その通りであります
満井中佐  国法の大切なことは十分知りながら国軍の危機にのぞみ国法を乗越えて国憲を守らんとしたのでありますか
相沢  ハイそのとおりであります
 満井中佐が着席すると佐藤裁判長はしばらく杉原法務官と打合せた上「本日はこれまでに止め次回の期日は追って指定する」と述べ午後一時十三分呆気なく閉廷した

【1936.2.26(昭和11)相沢事件第*回公判考】
 「大阪朝日新聞 1936.2.26(昭和11) 証人喚問の申請斎藤子ら十余氏 無外師と池田成彬氏も真崎大将再喚問も申請」を参照する。
 午後一時五十八分再開、熱心な傍聴者も朝来非公開のため待ちくたびれて多くは引あげ一般傍聴人は僅か五名という寂しさである 開廷するや佐藤裁判長は『これより公判を続行す』と宣す。

 ついで鵜沢弁護人起ち次のように述べる。

 「証拠の申請をいたしますが、第一に被告は真崎教育総監更迭当時に於て永田軍務局長に統帥権干犯の事実あり、第二にこれについては官僚、財閥、政党と策謀、皇軍を私兵化せんとする懼れがある、この点について被告は種々の観察をつくして確信したと申述べております。第三に某事件の処置が皇軍の基礎を破壊するが如き虞れあるものであったと被告は信じております。弁護人としては第一に統帥権干犯の事実の有無を明かにするため証人の申請を行うわけであります。このためにこそさきに林大将、本日は真崎大将の喚問を見たのでありますが、こと軍事上の機密に関するため今ここに申述べることはできませんが、この点はさらに明かにするためさきに非公開の席上、申請しました真崎大将再喚問のほか現内大臣斉藤実閣下の喚問を御願いしたい。これは証拠物件たる文書中にも斉藤内府の名が現われており、そこに述べられている事実の有無は極めて重大な問題でありますから、この際あくまで皇軍の明朗化のため、また斉藤内府のためにもこの点を明かにしていただきたい。(これより統帥権問題ならびに国体明徴理論につき詳述)ロンドン軍縮会議以来わが国においては統帥は他国のまねるべからざる一つの大きな精神的関係であり、わが国軍の忠勇無比なる事実もまた根底をここに存する。統帥権の本質的規定は憲法第十一条に存するに拘らずわが国の学者は多くその根拠を単に憲法第十二条にのみ求めております。陸軍に於ては省部規定において統帥の問題は軍行政権の左右を許さざるものなるを明らかに定めており、軍内部においても真崎教育総監の人事問題にいたるまでは統帥権の問題につきかかる疑惑が起ることはないのであります。この点につき重臣高官のうちには統帥権の本質を理解せずこれを軽視し西欧流の解釈にのみ頼っている傾がある。この点に関して怪文書その他によって生れた世の疑惑を一掃するため斉藤内府の証人訊問にあたっては特にこの点をお訊ね願いたい。更に被告の人格を証明するため大岸頼好大尉(和歌山連隊附)菅波三郎大尉、赤塚誠中佐、福定無外師の四名を証人として申請いたします。福定無外師は被告の禅門の師であり被告の人となりをよく見ながら教育したもので、大岸、菅波、赤塚などの交友と併せて被告の思想人格を識るには趣めて重要な人物であります。被告の行動は時に外面より理解に苦しむ点がないでもありませんが、被告は純と誠の人である。被告の精神状態に対しても世上一部に疑惑があるようであり、これが当を得ざるものであることはもちろんでありますが、この点についても右四人の証人たちが最もよく被告の心事を識っていいと思います。さらに元一等主計磯部浅一氏の喚問をお願いします』 と述べ着席する」。

 次いで満井特別弁護人起ち次のように発言する。
 「申請をいたしたい、証人はただ今の人物のほか三井財閥の中心池田成彬氏ならびにその親戚の会社重役太田亥十二氏、木戸幸一侯爵、井上三郎退役少将、牧野前内府の秘書下園佐吉氏、警保局長唐沢俊樹氏の喚問をお願いいたします。斉藤内府に対しては、(一)教育総監更迭 前後の事情(一) 斉藤内閣辞職当時重臣会議を開き後継首相に岡田大将を推し西園寺公の御下問奉答を強いた事実の有無。(三)岡田大将に対しその首相就任後ロンドン条約存続を要請請託した事実の有無、陸軍の人事に対し容喙した事実の有無について御訊問を願いたい。池田、木田両氏に対しては、(一)故永田閣下との交友関係の実情(二)陸軍部内昭和維新勢力の抑圧に対し注文を発したる事実の有無。(三)永田閣下との間に生前死後を問わず経済的援助関係があったかどうか。(四)一般に重臣、財閥の結びつきの具体的関係(五)現在の日本国家の情勢に対する認識、抱負などにつき詳細徹底的に御調べ願いたい。木戸、井上、下園の諸氏に対しては、いわゆる朝飯会の内容、特に牧野前内府と軍中央部およびいわゆる新官僚との脈絡関係につきこれらの人々がいかなる役割をなしたかにつき御調べを願いますさらに唐沢警保局長に対しては(一)永田中将と同郷であり深い関係があったと見られているが、その実情(二)永田中将は死の前夜赤坂の科亭「あかね」に唐沢氏と会合したといわれているが、その事実の有無(三)軍事の内外呼応して非常時解消のため青年将校に大弾圧を下すという議があり永田、唐沢両氏がこれに関してしばしば打合を行ったとの噂は果して事実なりやなどに関してお調べを願いたい。更に証人申請の全般的理由として現下内外の情勢は一大難関に遭遇しており軍縮会議の決裂、露満国境の紛争、北支問題の紛糾など国際関係の不安に加え国内においては国民生活の窮乏、思想の混乱、政情不安などは顕箸な事実であり、相沢中佐の行為もまたかかる点を衷心より憂慮したに出でたものでありましてこの事件の本質を把握するためには前述のごとき点をぜひとも明かにする必要があります、陸軍のためのみならず海軍のためにも否全国民のためにこれらの諸氏を証人として訊問することによりぜひともこの点を天下に解明されたいと思うのであります」。

 以上、証人申請の理由を供述し、さらに朝飯会活動の実情につき世上伝えられるところに触れたのち 「相沢中佐事件の綜合的観察を要求する」とて声を励まして国家内外の情勢の激化、これに処すべき皇国日本の革新的使命を述べる。

 三時十五分休憩に入る 。

【1936.4.22(昭和11)相沢事件第11回公判考】
 4.22日、第11回公判を再開した。裁判長は判士、陸軍少将の内藤正一に変更され、裁判官も変更があった。また、弁護人も菅原裕弁護士と角岡知良弁護士に変更となった。裁判長は公開停止を宣言し、一般公衆の退廷を命じた。 

【1936.4.22(昭和11)相沢事件第14回公判考】
 5.1日、第14回公判で終了する。非公開のままで証拠申請はことごとく却下された。

【1936(昭和11).5.7相沢事件第**回公判考】
 5.7日、上官暴行、殺人傷害で死刑判決が言い渡された。5.8日、上告。6.30日、上告棄却が言い渡され死刑判決が確定した。1審、2審とも判決内容が事前に漏れていた。
 判決・相沢三郎中佐 『 被告人を死刑に処す 』
 相沢三郎中佐判決全文陸軍省発表
 ( 昭和十一年五月九日 午後十一時三十分 )
 相沢中佐の永田中将殺害事件は予て第一師団軍法会議に於て審理中のところ、今次の叛乱事件に関連し一部判士の更迭を要するに至りたる結果、審理を更新し 四月二十二日以来五回に亘り 公判を開廷せり。しかして裁判長は本弁論は現下の情勢上安寧秩序を害し、且事実上の利益を害する虞ありと認め、公開を停めて審理し 五月七日判決を宣告せり。なお 本判決に対し相沢中佐は五月八日陸軍高等軍法会議に上告を為したり。
 判決
 宮城県仙台市東六番丁一番地  士族戸主
 台湾歩兵第一聯隊 ( 原所属 )
 予備役陸軍歩兵中佐  従五位勲四等
 相沢三郎
 明治二十二年九月九日生
 右の者にたいする用兵器上官暴行殺人傷害被告事件に付、当軍法会議は検察官陸軍法務官島田朋三郎与審理を遂げ判決すること左の如し。
 主文
 被告人を死刑に処す
 押収に係る軍刀一振は之を没収す理由の要旨
 被告人は明治三十六年九月仙台陸軍幼年学校に入校し、逐次 陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校の過程を終え、同四十三年十二月 陸軍歩兵少尉に任ぜられ、爾来各地に勤務し累進して昭和八年八月 陸軍歩兵中佐に進級と同時に歩兵第四十一聯隊付に、越えて同十年八月一日 台湾歩兵第一聯隊付に補せられ、未だ赴任するに至らずして同月二十三日待命仰付られ、次で同年十月十一日予備役仰付られたるが、予てより尊皇の念厚きものなるところ、昭和四、五年頃よりわが国内外の情勢に関心を有し、当時の常態をもって思想混乱し、政治経済外交等万般の制度機構孰れも悪弊甚しく 皇国の前途憂慮すべきものありとし、之が革正刷新、いわゆる昭和維新の要ありとし、爾来同志として大岸頼好、大蔵栄一、西田税、村中孝次、磯部浅一等と相識るに及び、益々その信念を強め、同八年頃より昭和維新達成には先ず皇軍が国体原理に透徹し、挙軍一体愈々皇運を扶翼し奉ることに邁進せざるべからざるに拘らず、陸軍の情勢はこれに背戻するものありとしてその革正を断行せざるべからずと思惟するに至りたるが、同九年三月、当時陸軍少将永田鉄山の陸軍省軍務局長に就任後、前記同志の言説等により、同局長をもってその職務上の地位を利用し、名を軍の統制に藉り、昭和維新の運動を阻止するものと看做しいたる折柄、同年十一月当時陸軍歩兵大尉村中孝次 及び陸軍一等主計磯部浅一等が叛乱陰謀の嫌疑に因り軍法会議において取調を受け、次で 同十年四月停職処分に付せられるに及び、同志の言説その頃入手せる、いわゆる怪文書の記事等により、右は永田局長が同志将校等を陥害せんしする奸策に外ならずとなし、深くこれを憤慨し、更に 同年七月十六日任地福山氏において教育総監真崎大将更迭の新聞記事を見るや、平素崇拝敬慕せる同大将が教育総監の地位を去るに至りては、これまた永田局長の策動に基くものと推断し、総監更迭の事情その他 陸軍の情勢を確めんと欲し同月十八日上京し、翌十九日に至り一応永田局長に面会して辞職勧告を試みることとし、同日午後三時過ぎ頃 陸軍省軍務局長室において同局長に面接し、近時 陸軍大臣の処置誤れるもの多く、軍務局長は大臣の補佐官なれば責任を感じ辞職せられたき旨を求めたるが、その辞職の意なきを察知し、斯くて 同夜東京市渋谷区千駄ヶ谷における前記西田税方に宿泊し、同人 及び 大蔵栄一等により 教育総監更迭の経緯を聞き、且 同月二十一日福山市に立ち帰りたる後、入手したる前記村中孝次送付の教育総監更迭事情要点と題する文章 及び作成者発想者不明の軍閥重臣閥の大逆不逞と題する  いわゆる怪文書の記事を閲読するに及び、教育総監真崎大将の更迭をもって永田局長等の策動により、同大将の意思に反し敢行せられたるものにして、本質においても亦手続き上においても、統帥権干犯なりとし痛くこれを憤激するに至りたるところ、偶々 同年八月一日 台湾歩兵第一聯隊付に転補せられ、翌二日 前記村中孝次、磯部浅一 両人の作成に係る粛軍に関する意見書と題する文章を入手閲読し、一途に永田局長をもって元老、財閥、新官僚等と欵かんを通じ、昭和維新の気運を弾圧阻止し、皇軍を蠧とつ害するものなりと思惟し、このまま台湾に赴任するに忍び難く、この際自己の執るべき途は永田局長を殪たおすの一あるのみと信じ、遂に同局長を殺害せんことを決意するに至り、同月十日 福山市を出発し翌十一日東京に到着したるも、なお永田局長の更迭等情勢の変化に一縷の望みを嘱しょくし、同夜前記西田税方に投宿し、同人及び来合せたる大蔵栄一大尉と会談したる末、   自己の期待するが如き情勢の変化なきことを知り、茲に愈々 永田局長殺害の最後の決意をかため、翌十二日朝 西田方を立ち出で同日午前九時三十分頃陸軍省に至り、同省整備局長室に立寄り、かつて自己が士官学校に在勤当時 同校生徒隊長たりし同局長山岡中将に面会し対談中、給仕を遣わして永田局長の在室を確めたる上、同九時四十五分頃同省軍務局長室に到り、直ちに佩おびいたる自己所有の軍刀を抜き、同室中央の事務用机を隔て来訪中の東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐新見英夫と相対し居たる永田局長の左側身辺に急遽無言のまま肉薄したるところ、同局長がこれに気付き、新見大佐の傍に避けたるより、同局長の背後に第一刀を加え、同部に斬付け、次で同局長が隣室に通ずる扉まで遁れたるを追躡じょうし、その背後を軍刀にて突き刺し、さらに同局長が応接用円机の側に到り 倒るるや、その頭部に斬付、因って局長の背後に 長さ九・五センチ深さ一センチ 及び長さ六センチ、深さ十三センチ、左側頸部に長さ十四、五センチ、深さ四、五センチの 切創外 数個の創傷を負わしめ、右刀創による脱血により同局長を 同日午前十一時三十分死亡するに至らしめ、もって殺害の目的を達し、なお 前記の如く永田局長の背部に第一刀を加えんとしたる際、前示新見大佐がこれを阻止せんとし、被告人の腰部に抱き付かんとしたるにより、右第一刀を以て永田局長の背部を斬ると同時に新見大佐の上官たることを認識せずして 同大佐の左上膊部に斬付け、因って同部に長さ約十五センチ、幅約四センチ、深さ骨に達する切創を負わしめたるものなり。

 法律に照すに、被告人の判示所為中、永田少将に対し兵器を用いて暴行を為したる点は陸軍刑法第六十二条第二号に、同人を殺したる点は刑法第百九十九条に、新見大佐の上官たることを認識せずして同人の身体を傷害したる点は同法第二百四条に各該当するところ、右、用兵器上官暴行殺人 及び傷害は一箇の行為にして数箇の罪名に触るるものなるを以て、同法第五十四条第一項前段第十条により その最も重き殺人罪の刑に従い、その所定刑中死刑を選択して処断すべく、押収に掛る軍刀一振は本件犯行に供したる物にして、被告人以外の者に属せざるを以て同法第十九条第一項第二号第二項により これを没収すべきものとす。よって 主文の如く判決す。


【1936.7.3(昭和11)相沢被告銃殺刑執行考】
 7.3日、午前5時、東京代々木衛戊刑務所内において、判決謄本の送達さえ行われず、弁護人の立ち会いも許されず、銃殺刑は執行された。

 鷺宮の相沢家では供養が行われた。夜になって荒木大将が弔問した。7月5日、真崎大将が弔問した。寺内陸相は花輪を供えようとしたが、側近に遮られたという。

相沢事件関係訊問調書
 「永田軍務局長に天誅を加へたり」。
永田閣下に対する考へを述べよ
現時皇軍が私兵化せるは国家の危機にして、此の事は全軍将校の責任と考ふるも、尚三月事件、十月事件等軍の不統制が社会に暴露せられたることの最大の責任者は永田軍務局長にあると信じ、此の国家重大の秋何とかして皇軍を正道に復帰せしむることに日夜煩悶心身を労して居りました。最近村中、磯部の意見書が一般に配布せられある今日、青年将校の妄動となり又軍の威信を失墜し、之が為責任者たる陸相、軍務局長等が軍人以外の者に葬られることあれば、皇軍の威信は益々失墜すべし、此に於て皇軍を正道に復帰せしむる為には一刻も速かに機会を作り、天聴に達せしめんと日夜苦心の結果、永田閣下を殺害するの決意をしたものでありまして、永田閣下個人に対しては何の恨みもありません。唯皇軍正道化の機を作る為に犠牲としたものであります。今日の社会は腐敗堕落の極に達し此の儘に進まんか、我が皇国日本は蒙古の二の舞を演じ、遂には瓦解の運命を辿るを恐れたからであります
永田閣下殺害後如何にする考へなりしや
私は生命のあらん限り皇国に尽さざるべからずとの信念を有するを以て、天に代り永田閣下を殺害したのでありまして、相沢個人としては台湾に赴任し、与へられた職務を完ふしなければならないと信じておりました

 この後は【皇道派名将録考】に続く。




(私論.私見)
吾等は之(木曾義仲の話)と同様なる皇室に対する厳粛なる感情が、二千年の歴史を通じて、間断なく国民精神の中に流れて居ることを認むる者である。吾等の先祖が、天皇の御先祖は天照大神の御孫であって、天上の諸神を率ゐて此の国に天降り、国神を服従せしめて諸神を統一し給へる者であるとの信仰は、吾国の政治の基礎には、統一したる神の世界てふ観念の潜めることを示すものである。『吾等は神の子孫である。吾等の先祖なる神々は天皇の御祖なる神に従ひまつりてその宏謨を翼賛した、吾等もまた祖神の例に従ひて、皇室に忠誠を尽さねばならぬ』━これ実に吾等の祖先の堅き信仰であった」。(大川周明『日本文明史』)