【相沢中佐公判と死刑執行経緯】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「相沢中佐公判と死刑執行経緯」を確認する。れんだいこは、相沢事件が2.26事件と密接に関連している気がする。それも、相沢事件が呼び水したのは疑いないとして、更に相沢も2.26事件青年将校も何やら一本の線で誘導されている気がしてならない。これを確認する。「相沢事件」、「相沢事件 (永田軍務局長斬殺)」その他を参照する。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
【相沢三郎陸軍中佐の永田鉄山軍務局長殺害現場考】 |
相沢事件は、1935(昭和10).8.12日、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、白昼に陸軍省内において統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件を云う。事件は、夕刊で、陸軍省発表に基づき「永田危篤、犯人は某隊付中佐」と報ぜられた。「現役将校が白昼公務執行中の上長官に対し危害を加え『危篤』に陥らせたという事実は我が陸軍未曾有の重大事であった」と評されている。この「相沢事件」は半年後に勃発する二・二六事件の導火線となった意味で看過できないので、この事件の経過及び裁判過程を確認する。 事件の背景には日本陸軍内に於ける皇道派と統制派の対立があった。相沢事件より前、日本軍部内に様々な対立が発生しており、やがて「皇道派対統制派の対立」へと煮詰まって行く。相沢は、1934(昭和9).12.31日の夜、士官学校事件の背後に永田鉄山がいると判断し、「こんど上京を機に永田鉄山を斬ろうと思うがどうか」と大岸頼好大尉に相談している。1935(昭和10).6月、林陸相と永田軍務局長の満洲・朝鮮への視察旅行中、磯部浅一、村中孝次、河野寿が永田暗殺を謀議している。同年7月、皇道派リーダーの真崎甚三郎教育総監が更迭された。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告された真崎は、「これは真崎一人の問題ではなく陸軍の人事の根本を破壊するものだから承知できん」と反論している。皇道派の将校らは林大臣の行動を統帥権干犯と非難し、「皇道派対統制派の対立」が沸点化した。この事件が相沢事件の直接の引き金となった。相沢は、「教育総監更迭事件要点」や「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題する文書を読み、教育総監更迭の真相を知って統帥権干犯を確信する。 同年7.18日、相沢は、総監更迭の事情を確かめようとして上京する。翌19日、陸軍省軍務局長室において永田少将と面談し、辞職を勧告して一旦帰隊した。「粛軍に関する意見書」を読み、磯部浅一、村中孝次の免官(8月2日付)を知ると、「このままでは皇道派青年将校たちが部隊を動かして決起し、国軍は破滅すると考え、元凶を処置することによって国家の危機を脱しなければならない」と決意した云々。 同年8.11日、台湾転任を前に上京。途中、伊勢神宮と明治神宮に参拝して、「もし、私の考えていることが正しいなら成功させて下さい。悪かったならば不成功に終わらせて下さい」と、祈願したという。 事件当日午前9時30分頃、相沢が陸軍省に至り山岡重厚整備局長を訪ね談話する。給仕を通して永田少将の在室を確かめている。 午前9時40分過ぎ、軍務局長永田鉄山少将は、東京三宅坂台上の陸軍省内二階の軍務局長室で、南向きの窓を背に局長用テーブルに座って、前の椅子に座る東京憲兵隊長・新見英夫大佐、兵務課長・山田長三郎大佐と陸軍内部の綱紀粛正(過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策)に関する打ち合わせをしていた。新見大佐は怪文書について報告しており、軍務局長の机の上には、「粛軍に関する意見書」が開かれていた。 ここへ相沢が乱入する。事件の証言が錯綜しており真相は分からないが素描しておく。異様な形相の歩兵中佐が軍刀を抜いたまま入って来た。「ぬっ」と入って来たと云う説と「天誅!」と叫びながら斬りかかってきたとの説もある。殺気に気がついた永田が立ち上がり凶刃を避けようとする。これに相沢が斬りかかる。最初の一太刀は永田の右肩を斬るが傷が浅かった。相沢が隣の軍事課長室へ逃れようとしたところを相沢が追う。新見英夫大佐が相沢の腰に飛びつたが逆に斬りつけられ左上膊部に重傷を負い、転倒して意識を失ったとされている。山田大佐は「すっと出ていった」とする説と、「(ついたてのところで)相沢、よせ、よせと口走るばかりであった」(岩田礼「軍務局長惨殺」)とする説がある。事件後、山田大佐は、「自分の軍刀を取りに兵務課長室へ走って戻り、軍刀を持って局長室にとって返した時には局長は殺害され、相沢は立ち去った後だった」と弁明したが、軍内部及び世間から「上官を見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い」と批判され、さらには相沢と通じていたのではないかという噂までささやかれるに至った。事件から約2ヶ月後の10.5日、「不徳の致すところ」という遺書を残し自宅で自決している。相沢は、永田の左背部に向かって突き刺し、切尖は永田の心臓部に達している。倒れた永田は入り口の方へ這っていったが応接用テーブル付近で力尽きた。相沢は、仰向けになった永田の体の上から、そのこめかみに一刀を加え、武士の作法通り永田の首筋にとどめを刺した。背部に二刀、こめかみに一刀、さらにとどめの一刀が咽喉部にくわえられ、軍服はおびただしい出血に黒々と濡れ絨毯は血の海に染まった。軍事課室から課員の武藤章(中佐)らが駆け込んだ時には、永田はすでに息絶えていた。ほとんど一瞬の出来事であった。 永田鉄山少将の履歴は次の通りである。亨年51歳、陸士十六期。陸軍軍人にして統制派の中心人物であった。「将来の陸軍大臣」、「陸軍に永田あり」、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だった。企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と追想している。相沢三郎中佐の履歴は次の通りである。46歳。陸士二十二期。歩兵将校として階級は陸軍中佐に昇進していた。剣道の達人として知られていた。 決行後、相沢は、整備局長室に戻って「永田に天誅を加えた」と告げている。出血している左手をハンカチで縛り、たまたま来室していた山岡大尉に医務室へ案内させている。途中、(どう理解すべきか分からなくなるが)永田局長の一の子分といわれた新聞班長の根本博大佐が駆け寄ってきて黙って固い握手を交わしている。調査部長の山下奉文大佐が背後から「落ち着け落ち着け静かにせにゃいかんぞ」と声をかけている。相沢はその場で憲兵に拘束された。憲兵から「これからどうする」と聞かれ、「さあ任地へ行くべきだろう」と答えている。同23日、待命となり、同10.11日、予備役編入となる。 永田が殺された時、大川周明は、「小磯がバカだからこんなことになった。あの書類さえ始末しておけば永田は殺されずにすんだものを……」と嘆息したという。社会民衆党の亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方はカウンター・クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」と述べている。 事件を受けて、綱紀粛正のため陸軍省では9月から10月にかけて首脳部の交代が行われた。林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任し、川島義之陸相、古荘幹郎陸軍次官、今井清軍務局長、村上啓作軍務課長の布陣となった。
永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る。その後、永田が筆頭であった統制派は東條英機が継承し、石原莞爾らと対決を深め(石原は予備役となり)やがて大東亜戦争に至る。 |
【相沢中佐公判考】 | ||||
相沢は事件直後から第一師団軍法会議予審に付され、岡田予審官が二ヶ月間にわたり厳重取調べた。相沢事件の第一師団軍法会議の予審は11.20日に終結する。島田朋三郎検察官の手許で起訴状が作成された。第一師団軍法会議長官・柳川平助中将の決裁を経、同中将はこれを川島陸相に報告をなし、相沢中佐は陸軍刑法の「用兵器上官暴行罪」ならびに一般刑法の「殺人罪」および「傷害罪」をもって正式起訴された。
1936(昭和11).1.28日、第1師団軍法会議による公開裁判が行われた。これが第1回公判となる。裁判長(判士長)は陸軍少将第一旅団長の佐藤正三郎。判士3名(大佐2名、中佐1名)、法務官1名の計5名が裁判官として任命された。法務官は相沢公判のため特に先般第十師団より新井朋重が選ばれ着任した。検察官は法務官の島田朋三郎、弁護人は弁護士、法学博士の鵜沢聡明、特別弁護人、陸軍歩兵中佐の満井佐吉であった。公判は、問題が教育総監更迭に関し、勅裁を受けている大正2年の省部規定を蹂躙した軍首脳部の行動が統帥権干犯となるや否やに絞られ、林陸相の行動が統帥権干犯となるか、林陸相にあえてそれを行わせた永田軍務局長に陰謀の事実があったかどうかが事件の焦点となった。 第一回公判につき、次のように評されている。
磯部浅一は「行動記」の中で次のように記している。
2.12日、第6回公判。陸軍次官の橋本虎之助中将を証人喚問する。2.17日、第*回公判。陸軍大臣の林銑十郎大将を証人喚問する。2.25日、第*回公判。前教育総監の真崎甚三郎大将を証人喚問する。軍機保持上公開を禁止した。三証人とも、職務として関与したものであるから勅許をまたずしては証言できないと肝心の点については証言を拒否した。鵜沢、満井両弁護人は勅許を仰いで真崎大将を再喚問するよう申請するとともに、斎藤実内府、池田成彬、木戸幸一、井上三郎、唐沢俊樹警保局長、下園佐吉(牧野前内府秘書)、太田亥十二を証人喚問することを申請した。軍法会議は勅許奏請の手続きを執らなければならない段階となり、軍中央部も反対することはできなくなった。ところが2月26日払暁に二・二六事件が勃発したことにより一時中断された。 この時期、即ち、2・26事件の直前の軍の大勢は、皇道派で占められ、相沢公判のような事件についてさえも、同情をもつ者が多かった。西田税らは次のように主張している。
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【相沢三郎の弁護を引き受けたのは鵜沢総明博士考】 | |
相沢三郎の弁護を引き受けたのは鵜沢総明博士を確認する。博士は、戦前は、政友会代議士として衆議院当選5回、勅撰貴族院議員をつとめる一方、教育界では大東文化学院総長を歴任、また戦後は、東京裁判弁護団の団長、明大総長をつとめている。 以下、「相沢公判」所収の「2月7日の鵜沢弁護人政友会離党声明書」を転載する。
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相沢公判の弁護人として鵜沢総明が登場している。その鵜沢は大東亜戦争後の東京裁判で弁護団団長に選ばれている。鵜沢が選ばれた理由として、林逸郎弁護士は、「弁護団中の侵略戦争是認派を抑えるため」と語っている。窺うべきは、鵜沢を登場せしめている背後の意思であろう。れんだいこ的には臭いと思う。 2013.3.30日 れんだいこ拝 |
【相沢事件初公判予告考】 | |
「大阪朝日新聞 1935.11.3(昭和10) 永田中将刺殺の相沢中佐きょう起訴 公判は来月上旬か」を参照する。
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【1936.1.28(昭和11)相沢事件考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「報知新聞 1936.1.29(昭和11) 信念を問われて『至尊絶対』の一言 相沢中佐の訊問進む 永田事件公判」を参照する。
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【1936.2.6(昭和11)相沢事件第5回公判考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1936.2.6日、相沢三郎中佐の永田中将暗殺事件第五回公判が青山第一師団軍法会議法延で開廷した。審理に先だち島田検察官から前回相沢中佐が述べた昭和維新の意義、達成方法、具体的手段などについて中佐に質疑している。(「大阪朝日新聞 1936.2.7(昭和11)島田検察官の追及 三段論法で畳みかける 相沢中佐の第五回公判」参照)
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【1936.2.26(昭和11)相沢事件第*回公判考】 | |||
「大阪朝日新聞 1936.2.26(昭和11) 証人喚問の申請斎藤子ら十余氏 無外師と池田成彬氏も真崎大将再喚問も申請」を参照する。
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【1936.4.22(昭和11)相沢事件第11回公判考】 |
4.22日、第11回公判を再開した。裁判長は判士、陸軍少将の内藤正一に変更され、裁判官も変更があった。また、弁護人も菅原裕弁護士と角岡知良弁護士に変更となった。裁判長は公開停止を宣言し、一般公衆の退廷を命じた。 |
【1936.4.22(昭和11)相沢事件第14回公判考】 |
5.1日、第14回公判で終了する。非公開のままで証拠申請はことごとく却下された。 |
【1936(昭和11).5.7相沢事件第**回公判考】 | ||
5.7日、上官暴行、殺人傷害で死刑判決が言い渡された。5.8日、上告。6.30日、上告棄却が言い渡され死刑判決が確定した。1審、2審とも判決内容が事前に漏れていた。
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【1936.7.3(昭和11)相沢被告銃殺刑執行考】 |
7.3日、午前5時、東京代々木衛戊刑務所内において、判決謄本の送達さえ行われず、弁護人の立ち会いも許されず、銃殺刑は執行された。 鷺宮の相沢家では供養が行われた。夜になって荒木大将が弔問した。7月5日、真崎大将が弔問した。寺内陸相は花輪を供えようとしたが、側近に遮られたという。 |
【相沢事件関係訊問調書】 | |||||||||
「永田軍務局長に天誅を加へたり」。
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吾等は之(木曾義仲の話)と同様なる皇室に対する厳粛なる感情が、二千年の歴史を通じて、間断なく国民精神の中に流れて居ることを認むる者である。吾等の先祖が、天皇の御先祖は天照大神の御孫であって、天上の諸神を率ゐて此の国に天降り、国神を服従せしめて諸神を統一し給へる者であるとの信仰は、吾国の政治の基礎には、統一したる神の世界てふ観念の潜めることを示すものである。『吾等は神の子孫である。吾等の先祖なる神々は天皇の御祖なる神に従ひまつりてその宏謨を翼賛した、吾等もまた祖神の例に従ひて、皇室に忠誠を尽さねばならぬ』━これ実に吾等の祖先の堅き信仰であった」。(大川周明『日本文明史』) |