「古屋哲夫氏の北一輝論5」考
(最新見直し2011.06.04日)
【以前の流れは、「
2.26事件史その4、処刑考
」の項に記す】
(れんだいこのショートメッセージ)
ここで、「
古屋哲夫氏の
北一輝論5
」を確認する。「人文学報」の第43号(1977年3月)に掲載されたもののようである。これを転載し論評しておく。
2011.6.4日 れんだいこ拝
【「古屋哲夫氏の
北一輝論5
(人文学報第43号、1977年3月)】
14、クーデターの思想
北の『改造法案』が当時の国家主義者たちに大きな衝撃を与えたのは、いうまでもなく、「天皇大権によるクーデター」という問題を直截に提起したからにほかならなかった。
北が、『国体論』で展開した議会主義的な社会主義運動論を、辛亥革命とのかかわりのなかですでに棄て去っていたであろうことは、『支那革命外史』における「武断主義」ヘの傾斜のなかからも十分にうかがうことができる。そして北が、中国革命に対応する日本対外政策の「革命的一変」の主張からさらに進んで、それにみあう国家体制全般の変革=国家改造を、昌え始めるとともに、この「武断主義」は「クーデター」論へと結実してゆくことになるのであった。そしてまた『改造法案』の北は、当時の現実の議会を、かつての『国体論』の場合とは逆に、変革のための手段とはなえりず、むしろ敵の掌中にあり、クーデターにより奪取しなければならない敵の城郭と捉え直してくるのであった。
もともと『国体論』における北の議会主義とは、議会に多様な利害の調整と統合の機能を求めようとする本来の議会主義とは異質のものであった。北が議会制度に期待したのは、この制度を通じて国家意識を強化し統合することであった。すでにみたように(本稿(1)参照)、『国体論』では日露戦争からの凱旋兵士が社会主義の担い手に見立てられているのであり、北の議会主義は、日露戦争における「愛国」的団結を、普選の実施によって国家意思にまで高めうるという想定のもとに立てられてたものとも云えた。しかしこうした戦勝気分のなかでの身勝手な 想定が、実は幻想でしかなかったことはすぐさま北にも明らかになったことであろう。
日露戦争後の国内政治の推移を北がどう捉えていたかは明らかではない。しかしそれが北の期待に沿うものではなかったことは確かであろう。大正初頭の政局をゆるがした護憲運動は、軍国主義を批判し、2個師団増設に反対するものであったし、また第1次大戦後、成金景気のなかで、平和主義・自由主義・個人主義の風潮が高まっていったことも繰返すまでもないところであろう。北はこうした状況を国家意識が上下から解体してゆく危機であり、選挙→議会という活動方法によってはこの危機は打開できないと捉えたのであった。
『改造法案』緒言は次のように書き出されている。「今ヤ大日本帝国ハ内憂外患並ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難二臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安二襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只龍袖二陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス」(2−219頁)。つまり彼は、私利私欲のために権力を利用する支配層と、国家を離れ、むしろ国家を破壊する方向するに走ろうとする国民との双方に、危機を深化させる要因を見出していたのであった。彼が「欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バント」する国民について語るとき、彼の脳裡には、第1次大戦におけるロシアやドイツの、革命連動による「内部崩壊」の姿が画かれていたことであろう(本稿(3)参照)。しかし、国家意識の強化こそ人類進化の方策だと考える北にとって、危機は革命迎動の勃発というロシアやドイツの状況よりもはるか手前の段階で捉えられねばならなかった。
彼は危機の本質について次のように述べる。「経済的組織ヨリ見ルトキ現時ノ国家ハ統一国家二非ズシテ経済的戦国時代クリ経済的封建制タラントス。……国家ハ嘗テ家ノ子郎党又ハ武士等ノ私兵ヲ養ヒテ攻戦討伐セシ時代ヨリ現時ノ統一二至リシ如ク、国家ノ内容タル経済的統一ヲナサンガ為二経済的私兵ヲ養ヒテ相殺傷シツツアル今ノ経済的封建制ヲ廃止シ得ベシ」(2-229頁)。これは国民の側の問題として云いかえてみれば、経済的封建制→金権政治による国民の「私兵化」として状況を捉えることにほかならないであろう。そしてこの国民の「私兵化」状況のもとでは、普通選挙を実施しても、議会を辺ずる国家改造の道はありえないというのであった。
1923年(大正12)の『改造法案』改題刊行に際して書き加えた
1)
国家改造議会についての註において、北は「現時ノ資本万能官僚専制ノ間二普通選挙ノミヲ行フモ選出サルヽ議員ノ多数又ハ少数ハ改造二反対スル者及反対スル者ヨリ選挙賀ヲ得ダル当選者」(2-378頁)にほかならないと断じているし、また二・二六事件の軍法会議法廷においては、憲法の3年間停止を主張した理由について、「戒厳令下に於て時局事態を収拾せられるに際し、不忠なるものが憲法に依り貴衆両議会を中心に、天皇の実施せられる国家改造の大権を阻止するを防止する為、論じてあるものであります」
2)
と述べたといわれる。
1)
この部分は23年の刊本では伏字となっているが<何行削除>と書かれている行数からみて、この刊行の際に書き加えられたものと推定することができる。
2)
林茂他編『二・二六事件秘録(三)』〈小学館、1971年)、412頁
北は、改造過程における議会の排除については、この程度のことしか述べていない。しかし彼はもはや、それがたとえ小数であるにしても、どうしても「私兵化」状況を反映してしまうような選挙→議会の方向に国民の不満を組織しようとは考えなくなっていたことは明らかであった。「由来投票政治ハ数ニ絶対価値ヲ附シテ質ガ其以上ニ価値ヲ認メラレルベキ者ナルヲ無視シタル旧時代ノ制度ヲ伝統的ニ維持セルニ過ギズ」(2−221頁)と北が云う時、それは彼が、「経済的諸侯」とその「私兵」の拠点と化した議会、というイメージを更に一般化し、議会制度を、たんに現状を数量的にしか反映しえず、従ってそこから新しい「質」を生み出すことのできないものと評価したことを意味していたことであろう。「経済的維新革命は殆んど普通選挙権其のことにて足る」(1-389頁)という『国体論』の観点から云えば、それは明かに180度の転換であったが、しかしそこで変化したのは、北の議会制度観であるよりもむしろ、彼の国民の現状についての認識であったという方が適切なように思われる。つまり、日露戦争直後の北は、国民のなかに望ましい「質」が順調に発展してゆくとみたのであり、それ故にその発展を量的にまとめあげ、国家意思へと媒介してゆく普選=議会制度に期待をかけたのであった。しかし第1次大戦になるとこの彼が発展を期待した「質」が逆に崩壊の道を歩んでいるとみられるのであり、従って、それを前提として成立しいていた彼の議会主義も、もはや無用のものとして棄てられていったとみることができよう。
北の唱える国家改造とは、なによりもまずこの崩壊に瀕した「質」を、かつて彼が期待した以上の強さに再建することをめざすものと云えた。そして彼は『改造法案』においてはこの「質」を端的に「国家主義」として提示したのであった。同書の「結言」は次のように云う。「マルクスの如キハ独乙ニ生レタリ雖モ国家ナク社会ヲノミ有スル猶太人ナルガ故ニ其ノ主義ヲ先ツ国家ナキ社会ノ上ニ築キシト雖モ、我ガ日本ニ於イテ社会的組織トシテ求ムル時一ニ唯国家ノミナルヲ見ルベシ。社会主義ハ日本ニ於イテ国家主義其ノ者トナル」(2-279頁)と。『国体論』における「社会主義」をここで思い切って「国家主義」に書きかえたのは、世界的大帝国へと向う彼の目標の膨張に相応ずるものだったことは明らかであろう
1)
。そして彼が国家改造によってうち立てようとしたのは、この目標への軍事的過程を担いうる軍国的国民組織にほかならなかった。前にもふれたように彼は『改造法案』を「日本帝国を大軍営の如き組織となすべしと謂う精神を以て記載した」
2)
のであった。では彼はこの「大軍営」に至る「国家主義」を如何にして再建強化しようというのであろうか。
1)
しかし北は、23年の改題刊行にあたってこの部分を削除してしまっている。その理由は明らかではないが、第1には、この社会主義=国家主義の主張が、自らの理論の特異な印象をうすめることをおそれたのではないか、第2には、国家なきユダヤ社会という問題を出すことによって、読者を改めて国家と社会の関連という問題に立ち戻らせることを避けようとしたのではないか、といった臆測をめぐらすことも可能であろう。
2)
2・26事件憲兵隊調書、3-445頁
結論から云えば、北はここでまず「天皇」を持ち出し、そこから国家改造の政治方策を組みあげていった。しかし彼は状況認識だけから云えば、反対の結論を引き出すことも可能であったはずである。すなわちさきにあげた「政権軍権財権ヲ私セル者」が「只龍袖二陰レテ惶々其不義ヲ維持」しているという認識からすれば、彼等を「龍袖」にかくし「其不義ヲ維持」せしめている「天皇」をも、彼等の支配の根柱として追及し、その打倒を唱える方が素直な結論というべきものであろう。 あるいはまた、「クーデターハ国家権力則チ社会意志ノ直接的発動ト 見ルベシ。其ノ進歩的ナル者二就キテ見ルモ国民ノ団集其者二現ハル、コトアリ。奈翁レニンノ如キ政権者ニヨリテ現ハル、コトアリ」(2-221頁)という彼のクーデターの定義から云えば「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ」(2-219頁)うるならば、クーデターは天皇の権威なしに正当化されうるはずであった。しかし北は逆に「天皇ハ国民ノ総代表タリ、国家ノ根柱タルノ原理主義」(2-222頁)を叫び始めるのであった。
北のこの天皇論を支えているのは、歴史的に形成された国民精神を中核に据えることなしには、国家主義を確立することは出来ないとする論理であり、彼は日本においてはその中核は天皇以外にありえないとするのであった。『国体論』において明治天皇を維新の英雄とする理解を示し、『文那革命外史』において、 国民信仰の伝統的中心である天皇を変革の基軸とすることのできた明治維新を革命の理想型であると主張した北にとって、天皇中心主義はもはや信念の域に達して始めていたのでもあろうか。「神武国祖ノ創業明治大帝ノ革命二則リテ宮中ノ一新ヲ図リ」(同前)などとあえて「神武国祖」までをもとりあげていわゆる国体論的天皇信仰との妥協を図ろうとする姿勢さえとりはじめる北であった。
「国民ノ総代者ガ投票当選者タル制度ノ国家ガ或ル特異ナル一人タル制度ノ国ヨリ優越ナリト考フルデモクラシーハ全ク科学的根拠ナシ。国家ハ各々其国民精神卜建国歴史ヲ異ニス」(2-223頁)。 しかし北は、「国民精神ト建国歴史」を基礎にして、改めて天皇を国民の総代表にしなければならないというのではなかった。そうした天皇の根本的性格はすでに明治維新において出来あがっているというのが彼の主張するところであった。「此時(維新革命)ヨリノ天皇ハ純然タル政治的中心ノ意義ヲ有シ、此国民運動ノ指揮者タリシ以来現代民主国ノ総代表トシテ国家ヲ代表スル者ナリ。即チ維新革命以来ノ日本ハ天皇ヲ政治的中心トシタル近代的民主国ナリ」(同前)との『改造法案』の叙述は、明治維新についての北の解説であり、「維新に帰れ」との叫びであったと読む外はない。彼は、維新における天皇は、国家意識にめざめた倒幕運動に参加し、それを指導することによって小家長君主から近代公民国家の政治的中心に転身したと理解しているのであり、国家改造の第一の課題は、この天皇の政治的本質をおおいかくし、天皇と国民の間に立ちはだかり肥大化していった支配層を打倒するために、彼の理解する維新を再度実現することにおかれたのであった。『改造法案』の主張するクーデターとは、維新革命の再現により、天皇に国民の総代表たる地位を回復させることによって、国民の国家主義への再編成をめざすものであったと云いかえることが出来るであろう。
しかし、この天皇=総代表論でゆけば、まず国民の側で天皇に代表さるべき「社会意志」を形成することが前提でなければならない。「日本ノ改造二於テハ必ズ国民ノ団集卜元首トノ合体ニヨル権力発動タラザルベカラズ」(2-221〜2頁)、「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終二天皇大権ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ泰ジテ速力二国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ」(2-219〜20頁)。打倒すべき支配層の城郭の奥深くに鎮座する天皇と、「国民ノ団集」とは如何にして「合体」することが出来るというのか。『改造法案」は、だから「ク ーデター」が必要なのだと述べるだけで、その具体策については何事も語ってはいない。 おそらく、上海で執筆した当時の北にとって曰本のクーデターのための具体的方策を画くことは困難であったであろうし、また官憲の弾圧を避けるためにも、まず基本的目標を示すにとどめることが有利だと考えられたことであろう。しかし、彼のクーデター論の性格が全くうかがえないというのではない。第1には、彼はクーデターヘの道においても、国民大衆の組織化には関心を示さず、少数のエリートに期待をかけていたとみられる点である。『改造法案』にみられる国民は、さきにみたように、「欧州諸国破壊ノ跡ヲ学パン」とする国民か、「経済的諸侯」に「私兵」化される国民かにすぎないのであり、そこから北の、大衆的エネルギーヘの期待を読みとることはできない。彼は逆に、この著作にかかる直前に満川亀太郎に書き送った書簡「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」の末尾において、「数十人の国柱的同志あらば天下の事大抵は成るものと御決意下さい」(2-213頁)と述べ、またこの書簡を永井柳太郎・中野正剛・小笠原海軍中将に示すことを依頼しているのであった。ここで彼の云う「国柱的同志」のイメージは明らかでないとは云え、これらの事柄は、彼のクーデター論が、少数のエリートによる上からの国民全体の再編成をめざすものだったことを示しているように思われるのである。もちろんそれは、国民の側の「社会意志」の形成の要請とは矛盾しているようにみえる。しかし、この点については、北は挙国一人の非議なき「筈の」国論の形成でこと足りると考えたのではなかったであろうか。
第2には、北がクーデターの実力部隊として、上級指揮官から離れ、より下級の将校に掌握された「軍隊」を想定していたと思われる点である。彼は国家改造を「天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国二戒厳令ヲ布ク」(2-221頁)という状態のもとで実現するのだと主張した。云うまでもなく戒厳とは、統治権が軍隊の掌握下におかれることを意味する。従ってこの軍隊が国家改造に反対するならば、クーデターはたちまちのうちに崩壊せざるをえないであろう。しかも、クーデターはこれまでの軍首脳部の排除をもめざしているのである。「改造内閣員ハ従来ノ軍閥吏閥財閥党閥ノ人々ヲ斥ケテ全国民ヨリ広ク偉器ヲ此任ニ当ラシム」(2-226頁)。 ここでは「軍閥」は斥けるべきものの飛頭にかかげられているのであり、そのためには、従来の指揮命命令系統は切断されなければならない。ここで北が、辛亥革命から得た「革命運動が軍隊運動ならざるべからざる活ける教訓」(2-23頁)をその基礎においていたことは明らかであろう。すでにみたように『支那革命外史』における北は、大隊長以上とは結托しないという原則のもとに、軍隊との述絡を確立し、叛逆の剣を統治者の腰間より盗み出した辛亥革命の姿をみ、さらに維新討幕の志士たちの上にも想いをはせたのであった。「維新革命に於て薩長の革党が其藩内の幾政争に身命を賭して戦ひしは蝸牛角上の事に非ず。其の藩候の軍隊を把握せずんば倒幕の革命に着手する能はざりしを以てなり」(2-26頁)。この点でもまた国家改造のクーデターは、北にとって、維新の再現と捉られていたことであろう。要するに、彼自身によっては書かれることなく終ったクーデターの構想は、こうした「国柱的同志」と軍隊を掌握した下級将校との連携を軸とするものであったと考えられるのである。
しかし、この軍隊掌握の問題は、『改造法案』の場合には、たんにクーデターのための武力というにとどまらず、国民組織の基軸に据えられている点に特徴がみられた。まず第1に、北は、在郷軍人団をして土地・私有財産の調査とその限度超過額の徴収にあたらせることを予定する。もちろんそこでは従来の階級を否定し、「在郷軍人ノ平等普通ノ互選ニヨル在郷軍人会議」(2-230頁)を開いて、 在郷軍人団そのものを改造することが前提とされているのではあるが、同時にまた、軍隊による在郷軍人の指導という側面をそのままうけつごうとするものであったことも明らかであった。在郷軍人組織は日露戦争後、軍隊、さらには天皇制そのものの社会的支持基盤として全国的に拡大されてきたものであるが、北はこの組織化に依拠すると共に、さらにそれを国民組織の中核に再組織しようとするのであった。云いかえれば、彼は軍隊生活で養われた軍国的愛国精神を国民組織の基軸たらしめようと考えたとも云える。「在郷軍人ハ嘗テ兵役二服シタル点二於テ国民タル義務ヲ肢そ多大二果タシタルノミナラス其ノ愛国的常識ハ国民ノ完全ナル中堅タリ得ベシ。且其大多数ハ農民卜労働者ナルガ故二同時二国家ノ健全ナル労働階級ナリ。……在郷軍人団ハ兵卒ノ素質ヲ有スル労働者ナル点二於テ労兵会ノ最モ組織立テル者トモ見ラルヘシ」(2-230頁)。
北が、「現時ノ日本ハ充実強健ナル壮者ナリ。……古今ヲ達観シ東西ニ卓出セル手術者アラバ曰本ノ改造ノ如キ談笑ノ間二成ルヘシ」(2-226頁)として国家改造に極めて楽観的態度を示したのは、在郷軍人に「既ニー糸紊レサル組織アルカ故」と云う極めて安易な評価を基礎とするものであった。それは−面から云えば、天皇の権威をもってすれば、軍隊―在郷軍人組織の基底部分を「一糸紊レザル」ものとしてそのまま利用しうるとする安易さであり、「日本ノ国体ヲ説明スルニ高天ケ原的論法ヲ以テスル者」を排斥しながら、高天ケ原的国体論による組織化に依拠しようとする矛盾を示すものでもあった。かつての国体論批判の成果は、『改造法案』においては、「天皇」を国民の総代表とする論理を基礎ずけるだけのものとなり、 高天ケ原的国体論との闘争は実際上放棄されたとみるほかはない。
在郷軍人評価の安易さは、別の面からみれば、軍隊生活の体験が労働者・農民としての生活に優位するという単純な想定となってあらわれている。それはまた、労働者農民の階級闘争が、軍隊体験を解体してしまうまでには激化していないという情勢判断を基礎としているとも云えよう。さきにあげた、現時の日本は「充実強健ナル壮者」だとする評価は、云いかえてみれば、階級闘争がそれを軍事力で圧伏しなければならない程には激化していないとの判断を示すものにほかならなくなる。従って、改造過程における在郷軍人団の登用は、たんにそれが軍隊の延長としての性格をもっているとの消極的側面からだけではなく、そうした「団」としての活動によって、軍人意識を再強化し、労働者農民の生活者としての意識を圧伏し非主体化することをねらったものと云える。結局のところこの軍隊=在郷軍人を軸とする国民の再組織とは、階級闘争をその出発点で解体することを意図するものにほかならず、北を日本ファシズムの先駆とする評価は、この問題にかかわるものであった
1)
。
1)
『改造法案』が「在郷軍人」書いたのは、検閲を顧慮したもので、実は「現役軍人」を指しているのだとする説が、最近においても、松木清張氏の『北一輝論』(講談社、1976年)によって援用されているが(156〜8頁参照)、そうした見方は、クーデターの政権奪取の側面だけに固執しすぎているのではあるまいか。北は、クーデターにおける現役軍隊を暗黙の前提とし、そのうえで在郷軍人に独自の役割を負わせていると私は読むのであり、そうでなければ、北の国民再組織の意図を読み落すことになると考えるのである。
こうした北の軍国的国民再組織論は、その基底となる徴兵制を堅持・強化すると同時に、軍隊生活に一定の改造を加え、国民生活の模範たらしめようとする意図を生み出すことになった。彼はまず「国家ハ国際間二於ケル国家ノ生存及ヒ発達ノ権利トシテ現時ノ徴兵制ヲ永久二亙リテ維持ス」(2-268頁)と宣言する。もっとも、この「国家」は、日本帝国を指して居り、彼はここで、如何なる兵役制が適するかは、それぞれの国の建国事情や国民的信念にかかわる問題だとの主張を展開している。すなわち植民者の契約的結合から生じた米国や、社会契約的信念の普及している英国の場合には、契約にもとずく傭兵制の方が適しているが、日本の場合には事情が全く異っていると北は云う。「日本国民ノ国家観ハ国家ハ有機的不可分ナルー大家族ナリト云フ近代ノ社会有機体説ヲ深遠博大ナル哲学的思索ト宗教的信仰トニヨリ発現セシメタル古来一貫ノ信念ナリ。徴兵制度ノ形式ハ独仏二学ヒタルモ徴兵制度ノ精神タル国民皆兵ノ義務ハ中世封建ノ期間ヲ除キテ上世建国時代二発源シ更二現代二復興シテ漲溢シツゝアル国民的大信念ナリ」(2-268〜9頁)。
北はこの国民的信念にもとずく兵役制度を基礎とすることによってはじめて国家の発展が可能になると考えているのであり、従って次には、この国民的信念から逸脱する思想・信仰の自由を厳しく拒絶するのであった。「将来クエーカー宗ノ如キ又浅薄ナル非戦論ノ如キヲ輸入シテ徴兵忌避ヲ企ツル者アラバ刑罰ハ断々トシテ其ノ最モ重キ者ヲ課シテ可ナリ」(2-271頁)と北は云う。そして彼は、こうした徴兵制度の徹底化と共に、軍隊生活における平等化をすゝめることで、軍隊を国民生活の中心に位置づけようとするのであった。彼は、高等教育履修者に対する例外措置としての徴兵猶予や1年志願兵制度を廃止すること、現役兵には国家が俸給を、給付して家族の生活を保証することなどを主張すると同時に、「兵営又ハ軍艦内二於テハ階級的表章以外ノ物質的生活ノ階級ヲ廃止」(2-268頁)することを要求した。 彼がこの條項につけた註では、「物質的生活」は飲食のことについて述べられているだけであるが、ともかくも北は、私有財産を基礎にした自立した国民生活の中核部分に、こうした物質的平等の軍隊生活を組み入れることによって、そしてまたその両者を在郷軍人団によって結び合わせるという形で、国求改造によってつくり出すべき国民編成を方向づけていたと云うことができる。そして、政治機椛の改造もそれと見合った形で構想されたのであった。
北は、改造政策尖行のための中心機関としては、国家改造内閣、在郷軍人団、国家改造議会という3種の組織を考案しているが、そこに彼が暗黙の前提としていた筈の軍隊を加えてみると、改造内閣→軍隊→在郷軍人団という形で政策が実施され、その成果は在郷軍人団を軸とする国民の組織化として改造議会に吸収される、そしてそこから国民の合意が改造内閣にもたらされる、という政治過程が予定されていたとみることができる。そしてこの過程が安定したところで、憲法を改正し、クーデターの過程は完了することになるのであった。「天皇ハ第3期改造議会マデニ憲法改正案ヲ提出シテ改正憲法ノ発布卜同時二改造議会ヲ解散ス」と『改造法案』は規定した
1)
。
1)
この規定は、23年の改題刊行の際に削余されてしまっているが、この点については後の機会に触れることにしたい。
以上みてきたことを要約すれば、北の国家改造とは、分配的正義と大国家産業の同時的実現、伝統文化の維持発展と国際語による世界化、天皇を中心とし「日本国民本有ノ国家有機体的信仰」(2-269頁)を軸とする国民の軍国的編成という三つの課題を遂行しようとするものであり、またこれだけの課題が実現できれば、他民族を同化し世界的大帝国を建設することが可能になるというのであった。それは云いかえれば、『改造法案』に提示された諸方策を植民地・新領土にも普及・実施してゆくことが、大帝国を基礎づけることになるということでもあった。
北はまず、日本内地と同じ私有限度の原則を、日本人と現地人とに対し差別なく平等に実施してゆくことが、植民地統治の根本であることを強調する。「私有財産限度、私有地限度、私人生産業限度ノ三大原則ハ大日本帝国ノ根本組織ナルヲ以テ現在及将来ノ帝国領土内二拡張セラルヽ者ナリ」(2-264頁)。そしてこの内外にわたる同一原則の実現は、植民地における日本人の横暴をおさえるとともに日本の「正義」を示すことになると北は考えるのであった。そしてこの三大原則の実現した後に、他の諸政策の実施に移り、参政権など、日本人と同一の権利を与え、同一の日本国民たらしめることを予定した。具体的には、朝鮮・台湾・樺太などの現有の植民地に対しては、日本内地の改造を終り戒厳令を撤廃すると同時に三大原則の施行に着手し、その後10年乃至20年の間に地方自治権、参政権など内地人と同一の生活権利を与えてゆくという曰程が掲げられた。そしてその後に獲得した新領土に対してもその文化程度に応じて改造方針を実施するというのであり、 従ってこの改造完了後には、日本人と異人種異民族とは同一無差別なる権利を有する日本国民になるというのであった。そしてさきに触れたように(本稿(4)参照)そこではエスペラントが通用している筈であった。
それこそ進化論上の先進国ではないか、と北は云いたかったのであろう。彼は日本の将来の姿を次のように画き出している。「将来ノ新領土ハ異人種異民族ノ差別ヲ撤廃シテ日本自ラ其ノ範ヲ欧米ニ示スベキハ論ナシ。濠州ニ印度人種ヲ迎ヘ、極東西比利亜ニ支那朝鮮民族ヲ迎ヘテ先住ノ白人種トヲ統一シ、以テ東西文明ノ融合ヲ支配シ得ル者地球上只一ノ大日本帝国アルノミ。従テ此ノ改造組織ヲ其等ノ領土ニ施行シテ主権国民自ラ私利横暴ヲ制スルト共ニ先住ノ白人富豪ヲ一掃シテ世界同胞ノ為ニ真個楽園ノ根基ヲ築キ置クコトガ必要ナリ」(2-266頁)。そしてこの「白人富豪ノ一掃」が「支那保全」・「インド独立」のための対英・対露戦争論へとつづくわけであるが、この点はほとんど『支那革命外史』の主張そのままであるので、ここでくり返し検討することは必要ではあるまい。
この北の未来像のなかで問題なのは、彼が国家改造の基軸においた「国民の総代表としての天皇」論や、「国家有機体的信仰の上に立つ徴兵制」論などは、改造政策の世界への拡大につれてどうなっていくかという点であろう。北はこれらの点については、わずかに「現在及ヒ将来ノ領土内ニ於ケル異民族ニ対シテハ義勇兵制ヲ採用スル者アルベシ」(2-268頁)と述べているにすぎず、何の解答も与えていないと云ってよい。しかしこれらの問題に対する彼の態度は、彼の民族自決主義に対する批判のなかにうかがえるように思われるのである。
北は民族自決主義について、「八十歳ノ老婆ニモ生活ヲ自決セシムベク十歳ノ少女ニモ恋愛ヲ自決セシム」というような、「自決スル力」の有無を考えない空想だと批判したあとに、次のようにつづけている。「現時ノ強国中各種老幼ノ民族ヲ包有セザル者ナキコト各家庭ニ於テ老婆少女ヲ有スルガ如シ。是等二向ッテ自決ヲ迫ラバ各家庭ノ分散スベキ如ク一切ノ強国ハ分解スベシ。強国ノ無用ヲ云フカ。然ラバウヰルキンソンハヴェルサイユニ行カズシテ端西ノ社会党大会ニ列席スベカリシナリ」(2-263頁)と。北にとっては、弱小民族の自決よりも強大民族の発展の方が基本的な命題であった。そしてそれは文化の領域にもあてはめられてゆく。「思想信仰ノ価値ハ其ノ民族精神又ハ世界思想ニ戦ヒテ凱歌ヲ挙ゲタル時ニ認メラルヽ物ナリ」(2-270頁)との北の言葉を、さきの「東西文明ノ融合ヲ支配」する日本という未来像につなげてみると、勝利した日本民族精神の支配下における諸文化の融合という結論が導かれてくるにちがいない。しかしその結論を『改造法案』にあてはめてみると、エスペラントを語る天皇制国家という奇妙なイメージしか得ることが出来ない。それは民族精神の攻撃性を解体することなしに、世界的同化作用につなげてしまうという北の進化論の矛盾を示すものであり、またその矛盾を解消しない限り、北の進化論も侵略擁護のための理論にすぎないと評されても致方ないであろう。
しかし彼の理論の帰結をそこまで追い求めることはさして意味のあることではないかもしれない。北も再びその進化論的未来像を語ろうとはしなかったし、彼の『改造法案』が右翼陣営に与えた影響もその進化論によるものではなかったのだから。北が『改造法案』を九分通り書きあげた時、大川周明が彼の帰国を求めて上海にやってきた。この時両者が夜を徹して話し合ったのは、進化論の展開についてではなく、天皇中心主義─金権政治打倒による国家の富強─白人帝国主義からのアジアの解放といった主題をめぐってであったことは、のちにふれる大川の思想からみても間違いないところであろう。北は後年、この時『改造法案』について大川との間に意見をかわし、「天皇大権の発動で日本を改造する様に論述してある主意から、革命的運動者と行動を共にせずに、吾々は何処迄も一天子中心の国家主義改造で進まねばならぬと云ふ事を確く約束しました」と述べているのであった
1)
。
1)
2・26事件憲兵隊調書、3-445頁
15、猶存社の時代
北が『改造法案』により、以後の国家主義運動のなかに一定の地位を占めることができたのは、当時の国家主義者達の間にも一種の「行き詰り」感が広がり、その打開策が模索されていたからであった。北を上海から呼び戻そうというのも、こうした模索の1つであり、『支那革命外史』の著者としての構想力に、期待がかけられたからにほからなかった。北呼び戻しの発案者は満川亀太郎1)であるが、彼は最も敏感にこの「行き詰り」を感じとった者の1人でもあった。彼は回顧して、「米騒動によって爆発したる社会不安と、講和外交の機に乗じたるデモクラシー思想の横溢とは、大正7年秋期より冬期にかけて、日本将来の運命を決定すべき1個の契機とさへ見られた」2)と述べているが、米騒動の火の手がようやくおさまったばかりの1918年(大正7)10月9日には、早くも自ら発起人となり、老壮会を創立して、「行き詰り」の打開を模索し始めている。この会は多方面にわたる異なった立場の人々を集めて意見を交換することを目的としたものであり、会名も、老人も青年も共に語る会という意味であった。この会はまさに、その目的通りに多彩な出席者を得て、1922年に至るまで「44回の例会を開き、出入会員は5百名に及ん」3)だといわれるが、こうした会合が永続きしたこと自体、この時期の特徴を示していると云うこともできよう。
1)
満川亀太郎は1888年(明治21) 1月の生まれであるから北の5歳年下にあたる。苦学して早稲田に学び新聞記者となったが、川島浪速らの大陸浪人に知己を得、1914年(大正3)10月、国家主義的雑誌「大日本」の創刊に参加、老壮会創立時にもその記者であった。
2)
満川亀太郎著『三国干渉以後』(平凡社、1935年)、182頁
3)
満川亀太郎、「新愛国運動の諸士」、「解放」大正12年5月号、(第5巻5号)
老壮会の例会については、満川が雑誌「大日本」に7回にわたって紹介記事・「老壮会の記」を掲載しているので最初の26回分については、その出席者名や大まかな内容を知ることが出来る。ここでは北をむかえる日本の雰囲気を示す意味で例会の内容を簡単に要約しておくことにしたい。
第1回
大7・10・9
江戸川端・清風亭、出席27名、会名、普選論など論議。
第2回
同・10・22
清風亭、出席20名、会名を老壮会に決定、議題「現下世界を風靡し我皇室中心主義上将た亦講和上至大の関係ある所謂民主的大勢を如何に取扱ふべき乎」、島中雄三と大川周明論争。
第3回
同・11・2
出席13名、議題「我国政治組織改革の根本精神如何」、(なお、会合場所は、全部については記されていないが、はじめの頃は清風亭であったと思われる)
第4回
同・11・22
出席15名、議題「独逸の敗退に伴う英米勢力の増大は我国の生存を脅圧し来るや否や、来るとせば之に対応するの道如何」、満川より北一輝の来翰を披露。
第5回
同・12・11
出席11名、選挙制度について意見交換、普選論と反対論あり。
第6回
大8・1・19
出席24名、北原龍雄「社会主義とは何ぞや」、高畠素之「社会主義者の観たる世界の大勢」につき講演、質疑。
第7回
同・3・4
出席18名、長瀬鳳輔「社会主義の史的観祭」。(以上、「大日本」大正8年4月号)。
第8回
同・3・28
清風亭、出席7名、草間八十雄より東京市の貧民生活者の現状を聴取。
第9回
同・4・16
出席15名、藤井甚太郎より明治維新談、終わって北原龍雄の持論・大政奉還論も出る。
第10回
同・4・29
出席10名、『女性』社同人・権藤誠子・柳葉清子より婦人問題をきく。緊急問題として山東問題・国際連盟脱退などにつき激論。
第11回
同・5・17
神楽坂倶楽部、出席8名、中山逸三の露西亜談、普通教育問題や川島清治郎の貨幣廃止論(以上、「大日本」大正8年6月号)。
第12回
同・6・5
神楽坂倶楽部、出席20名、鹿子木員信の世界革命論、「日本も支那も印度も国際的にはプロレタリアにして、世界的ブルジョアジーたる英米に対抗すべきもの」。
第13回
同・6・11
出席17名、米穀応急策につき論議沸騰。
第14回
同・6・19
出席24名、中野正剛の時局談、「旭日旗影薄し」。(以上「大日本」大正8年7月号)。
第15回
同・7・8
出席15名、酒巻貞一郎より西伯利の近況談、遠藤友四郎らの富豪財産奉還論出る。
第16回
同・7・14
出席25名其他数名。大川周明「欧露の真相及労農政府の建設的施設」
第17回
同大7・22
出席19名、三井銀行増資問題につき論議、(以上「大日本」大正8年8月号)
第18回
同・8・5
出席30名、渥美勝の神政復古の理想論、藤田勇より活版工ストライキ、下中彌三郎より啓明会について報告。
第19回
同・8・24
出席31名、平賀磯治朗(世話人の1人)より、日立鉱山粉擾事件についての視察報告談。(以上「大日本」大正8年9月号)
第20回
同・8・29
出席27名、堺利彦より社会主義者より見たる刻下の形勢をきく。次いで綱島正興より足尾銅山の視察結果、坑夫組合設立など報告。
第21回
同・9・9
出席13名、大川周明「亜細亜解放運動の一大脅威たる西蔵及阿富汗問題」(イギリスのアジア政策)。
第22回
同・9・17
猶存社、出席29名。鵜沢幸三郎より国際労働会議委員選出側面談、下中彌三郎より「支那関税問題」につき所感、その他労資関係論、(以上「大日本」大正8年10月号)
第23回
同・9・25
神楽坂倶楽部、出席24名、長瀬鳳輔より独逸改造の真相及び其将来についての観察談。飯島省一より東京印刷職工現状談。
第24回
同・10・2
猶存社、出席27名。権藤成卿「日本歴史上より観たる労働問題」。川村豊三より海員の生活状態など報告。
第25回
同・10・9
猶存社、出席52名、創立一周年記念集会。寿司とおでんで小宴。
第26回
同・10・15
猶存社、出席26名。渋川雲岳「朝鮮独立運動の内情」藤沢親雄「エスペラントの由来・組織・使命」(以上「大日本」大正8年11月号、以後老壮会の記事がなくなのは、満川がこの年いっぱいで大日本社を退社したためである。)
こうして老壮会の会合はきちんきちんと進められたが、「老壮会の国家主義者中、一途に国内改造を目指せる人々は、最早毎週第1回位の集会討究に満足出来なくなった。」1)と満川は云う。そして彼らはまず活動の拠点として牛込区南町一番地に家を一軒貸りうけ、満川の発議により、大正8年8月1日、「猶存社」の門標をかかげた2)。(のち結社名に転ずる「猶存社」も最初はこの満川一派の事務所名であった。)満川は次に、かねてから考えていた北一輝呼び戻し策を提議することになる。彼はすでに早稲田在学中に図書館で『国体論及び純正社会主義』を読んでおり(当時の大学図書館では発禁本も読めたという)3)、さらに大日本社に送られてきた『支那革命党及革命之支那』(『支那革命外史』前半)を読むと早速、北を自宅に訪れている4)。そして以後上海に渡った北との間に文通をつづけていたであろうことは、前述の「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」からもうかがうことが出来る。また同書中に「芳書には日本の外交革命に絶望したかの如く見えますが大丈夫です」(2-213頁)と書かれているところからみれば、満川の伝えた「行き詰り」感が、北に『改造法案』の執筆を決意させる具体的契機となったとも考えられる。
1)、2)、3)、4)
前掲『三国干渉以後』それぞれ、215、216、87〜8、147〜8頁。
満川の回想はつづく。「猶存社も出来たし、我々の覚悟も出来た。だが実を言ふと、全般の国家機構に亘れる改造の具体案は出来ていた訳ではなかった」1)、「私は心ひそかに北一輝君を上海から呼び戻し、その識見と経験とを以て、混沌たる国内改造の機運を整調指導して貰ふより外に途が無いと考へていた。……私は熱心に同志に説いたところ、大川君がまことに君の言ふ通りだから、自分が上海まで北君を迎へに行かうと提言した。そこで何(盛三)君が愛蔵の書籍を売却して金百円を調達し、これを旅費として大川君を煩はすことになった」2)。当時すでに満鉄東亜経済調査局に勤務していた大川は、『支那革命外史』に眼を通していたと思われるし、また日本の現状を打破すべきものと考える点で、まさに満川の強力な同志であった。
1)、2)
前掲『三国干渉以後』、219、220頁。
大川はすでに、北が『支那革命外史』を書いたと同じ1916年(大正5)、『印度に於ける国民的運動の現状及び由来』を刊行しているが、その序文(大正5年10月付)で次のように述べている。「今日の日本が非常の時機に際会していることは、更めて吾人の呶々するを俟たぬ。……吾人の眼に映ずるものは沈滞し弛緩せんとする生命、腐敗せんとする生命である。而して此の国民的生命の沈滞・惰弱・頽廃は、今日の日本が、雄渾森厳なる国民的理想を欠ける事に其の根本の原因を有すると信ずる」1)。彼は欧米列強に追いつこうとする「明治の理想」が達成されたのち、それに代わる「大正の理想」が確立されないところに、日本の沈滞の根源があるとみた。従ってこの現状を打破するための「今日の急務は、消極的に国民を縛るに存せずして実に積極的に国民の魂を熱火の如く燃立たらしむる雄渾なる理想の鼓吹に在る。しかして斯くの如き理想は、 皇国をして亜細亜の指導者たらしめんとする理想の外にない」2)と大川は云うのであった。そしてこの行き詰り感は、米騒動をむかえることによって更に深刻となり、危機感に転じた。「国家が軍を海外に出す(シベリア出兵を指す)時に米価が高いからと云って暴動を起し亦それが忽ち全国数十個所に拡まると云ふ事は深刻なる暗示を国民に与へるもので、日本国家は此の儘では不可と云ふ事を示す天意であると私には考へられました」3)と彼は回顧している。「亜細亜の指導者」たることに新しい「国民的理想」を求めようとする大川は、亜細亜モンロー主義を唱える『支那革命外史』の著者を自らの同志と感じたことであろう。大正8年8月8日付の満川の北宛紹介状をふところにした大川は、8月23日上海に上陸、早速北を訪ねている。
1)、2)
橋川文三編『大川周明集』(筑摩書房、1957年)、11、12頁。
3)
5・15事件予審調書、『現代史資料5、国家主義運動2』(みすず書房、1964年)、685頁。
満川や大川は、明治的右翼の国家主義にあきたらず、現状打開の力を持つ新しい国家主義を再建して、まさにわき上らうとする左翼勢力と対峙しなければならないと考えたのであった。そうした彼らの模索の方向を示すものとして、この年10月につくられた1枚のビラを紹介しておこう。
老壮会ノ労働問題解決案
老壮会ハ多年労働問題研究ノ結果、総テノ生産事業ハ家族制度ニ則リテ一切立憲的合理的ニ解決セサル可ラストナシ凡ソ左ノ九大原則ヲ主張スルモノナリ。
1資本主ニ対スル利益配当ノ制限
2労働者ニ対スル立憲的利益分配
3右分配ハ株券ヲ以テス
4勤続年限ニ依ル奨励法
5公傷害ニヨル遺族ノ永久保護
6労働者ニ可及的住宅供給
7工場法鉱業法其他関係法規違反ノ監視権ヲ労働者ニ与フルコト
8工場坑夫其他労働者食料費ノ検査権ヲ同上
9工場及坑内爆発物等ノ煙害並被害ノ科学的予防法
政府ハ物価調節・労資協調及労働組合法案ヲ以テ、資本者ハ温情主義・三益主義ヲ以テ、労働者ハ賃金値上・時間短縮・待遇改善ノ要求並ニ同盟罷業及怠業ヲ以テ孰レモ労働問題ヲ解決セント欲シ、又一般国民ハ政府ノ施設・治安警察法撤廃・普通選挙・通貨縮小・国際労働会議等ノ結果ヲ俟テ緩和セラルヘシト期待スルモ、吾人ノ所見ハ之ニ反シ労働問題ノ紛糾ハ社会組織ノ根本的錯誤ニ胚胎シ、世界大勢ノ険悪、思想問題ノ動揺ニ基クモノナルヲ以テ、我国体ニ合適セル吾人ノ九大原則ヲ先ス適用スルニ非レハ其解決到底不可能ナルコトヲ声言ス。
大正8年10月8日
東京市牛込区南町一番地
老 壮 会
(国会図書館憲政資料室蔵・斉藤実関係文書所収)
ここに述べられている九大原則について語る必要はないであろう。問題は猶存社を拠点とする満川らの一派が、労働問題の解決をも、「社会組織ノ根本的錯誤」・「世界大勢ノ険悪」・「思想問題ノ動揺」という三つの悪条件を克服するための、国家主義的再編成の一環として捉えようとしている姿勢にあるのであり、この姿勢からみれば、北の『改造法案』が1段と高いレベルにあるものとみえてくることは明らかであった。
大川が北を訪れた時、北は『改造法案』の最終部分である「巻八・国家ノ権利」のうち「開戦ノ積極的権利」まで筆を進めていたという1)。大川の来訪は当時孤立の状態にあった北を喜ばせたに違いない。北は「一面識だにない六尺豊かな大川君が、日本が革命になる、支那より日本が危ないから帰国しろとワザワザ上海にまで迎えに来た大道念に刎頸の契を結んだ」(2-序4頁)と書いているし、大川も「欣然君等の招きに応ずる。原稿の稿了も遠くはない。脱稿次第直ちに後送するから出来ただけの分を日本に持ち帰って国柱諸君に領布して貰ひたい。取り敢えず岩田富美夫君を先発として帰国させ、自分も年末までには屹度帰国する」、との北の言葉を聞いて「抑え切れぬ歓喜と感激を覚えた」2)と回想している。2日間を北と語り合った大川は8月25日帰国の途につき、岩田も9月初旬には東京に帰ってきた3)。
1)、2)
大川周明「北一輝君を憶ふ」前掲『大川周明集』356頁。
3)
岩田富美夫(明治24年10月27日生)について、司法省刑事局の資料は「大正5年陸軍参謀本部の特務機関の下に諜報勤務に従事する為、支那山東省に渡り政治、経済、地理其他一般情勢を探索したるが其の当時北一輝と相織り、大正7年6月帰国、爾来国家主義運動に身を投じ」大正12年6月大化会を組織したが、その活動の「多くは所謂暴力団的行動なり」と述べている。(司法省刑事局「思想資料パンフレット特輯」第24輯、「国家主義系団体員の経歴調書(一)」、昭和16年4月、91〜2頁)、この記述が正しいとすると岩田は大正7年6月帰国後、再び上海にわたり、北のもとに居たことになる。北が『改造法案』の残りの原稿と共に岩田に持たせた大川・満川宛の手紙は8月27日付となっており、前掲の満川「老壮会の記」によれば、9月17日の例会以後、老壮会の会合に出席しているから、岩田がこの間に帰国したことは間違いない。
大川・岩田によってもたらされた『改造法案』が「どれだけ同志をし歓喜せしめたか知れない。実際これだけ明確に国家改造方針を指示したものは無かった」1)と満川は云う。しかし、この北の『法案』をどう読むことによって彼等は歓喜したのであろうか。彼等はまず赤穂義士になぞらえて47部を騰写印刷で作成し、重要と目される人物に送付したが、その際「老壮会本部、大川周明・満川亀太郎の連名による領布の辞を付している。その大部分は北一輝なる人物の紹介にあてられているのであるが、『改造法案』の内容についても、「改造後ノ大軍国的組織ヲ示シテ日本民族ノ対亜細亜使命ヲ宣布セル等今ノ直訳的新思想家等ヲシテ必ズ反省皈順セシムルヲ信シ候」2)と述べている点が注目されよう。すなわち、彼等はまず『改造法案』を最も直截に「アジア解放」のための「大軍国組織」案としてうけとったのであった。
1)
前掲『三国干渉以後』、227頁
2)
林茂他編『2・26事件秘録』別巻(小学館、1972年)、128頁
しかし彼等もたんにそれだけのものとしてこの『法案』を読んだわけではなかった。1919年 (大正8)12月長崎に着いた北は、翌20年1月5日猶存社を訪れ、とりあえずその2階に住みつくことになったが、この北をむかえて満川らも、猶存社に集る同志たちを思想運動結社に組織 する方向に動き始める。満川が、「猶存社の……創立されたのは大正8年8月であるが、公然天下に名乗りを揚げたのは、大正9年7月機関誌『雄叫び』を発行してからである」と述べているところからみて、次の「猶存社綱領」が作成されたのもこの時であったと推定することができる。
一
一
一
一
一
一
一
革命日本の建設
日本国民の思想的充実
日本国家の合理的組織
民族解放運動
道義的対外策の遂行
改造運動の聯結
戦闘的同志の精神的鍛錬
そしてこの綱領の中軸は、「日本国家の合理的組織」化と、「道義的対外策の遂行」あるいは「民族解放運動」とを、不可分のものとして捉えようとする点にあった。『雄叫び』の宣言1)は云う。「吾々日本民族は人類解放戦の旋風的渦心でなければならぬ。従って日本国家は吾々の 世界革命的思想を成さしむる絶対者である。……眼前に迫れる内外の険難危急は、国家組織の根本的改造と国民精神の創造的革命とを避くることを許さぬ。吾々は日本其者の為めの改造又は革命を以て足れりとする者でない。吾人は実に人類解放戦の大使徒としての日本民族の運命を信ずるが故に、先づ日本自らの解放に着手せんと欲する」と。満川は「私共には最も多くの多くの影響を有する者は実に北君其人の思想である」2)と述べているが、その北の影郷のうち最も根本的なものは、この点、すなわち、国内改造を世界への進出の不可欠の前提とし、同時にそこに「人類解放戦」、「世界革命」といった民族的使命感を組み入れようとしている点にみられた。
1)
私はまだ『雄叫び』の現物をみることができないでいるが、宣言のここに引用した部分は、前掲満川稿「新愛国運動の諸士」及び『現代史資料4国家主義運動1』24頁に掲載されている。
2)
同前 満川稿
しかし北は、猶存社において、積極的に『改造法案』を解説し、その影響力を広めようとしていたわけではなかった。「しばらくは猶存社に平和なる日が続いた。北君は朝夕の誦経が終ると、15年前の著述たる『国体論及純正社会主義』に筆を入れるを日課としていた」1)と満川が述べているように、北は『改造法案』を猶存社の人々の前に投げ出したまま、超然としたポーズをとって、次の活動の機会をうかがっていたと云えよう2)。これに対して、むしろ大川・満川らの方が北の影響力を広めるために、積極的に動いていたように思われる。例えば、彼等は大正9年9月26曰付で「北一輝談話要領、支那ノ乱局二対スル当面ノ施策」を、さらに大正10年4月9日付では、さきの「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を謄写印刷とし、猶存社同人の名で配布している3)し、また多くの人々を北に引き会わせてもいた。満川は「酋存社には多くの同志が出入りしだした。大川君沼波瓊音氏や、鹿子木員信氏、島野三郎君等を伴ふて来た。満州建国に重要な役割を演じた笠木良明君や、今満州国の要職に就いている皆川豊治、中野琥逸、綾川武治諸君とも知り合った」4)と書いているが、あとでみるように、西田税を知り、彼を北に結びつけるきっかけをつくったのも満川であった。
1)、4)
前掲『三国干渉以後』、246、247頁
2)
もっとも北も、老壮会の例会などに顔を出すことはあったようである。ある会合での北の姿を遠藤友四郎は次のように書いている。
「曽て老壮会では、大本教の幹部其を聘して、大本教の講演を聴かして呉れた。其時講師が力説したのは、奇蹟の大本教であった。祈れば雨が降るとか、天が晴れるとかであった。之を聴いた聴衆は、中にまともに感動した者も絶無では無かったらうが、多くは大本教に対する軽侮と反感とを抱いたのであった。特に学生や労働者で、講師に『今夜の雨を霽れさして呉れ』と所望した者も二三あった。其時、北一輝君は顔色朱を注いで、其様な質問は『大本教に対する不敬不遜』だと怒鳴った。
奇蹟を生命とする宗教に奇蹟を求めて何が不適、何が不遜?、故に私は北君に云った、講師に対して不遜であらうとも、大本教そのものに対しては何等の不遜不適も無いでは無いかと」。(遠藤友四郎著『日本主義の確立―日本思想パンフレット第ニ輯』、大正14年12月、26頁)。なお、北は「大本教を私が直接最初に知りましたのは大正9年の事」(3−479頁)であったと述べている。
3)
前掲『2・26事件秘録』別巻、167〜172頁参照。
北が求めていたのは、政界最上層、とくに天皇側近に自らの影響力を及ぼし得る機会であったと思われる。上海から帰国した北が、まず第一番に行ったのは、時の皇太子(現天皇)への「法華経」の献上であった。「私は霊感に依って、当時の東宮殿下に法華経を献上すべく、それ丈けを持ちまして、大正9年1月初めに東京に着いて猶存社に入りました。法華経は小笠原長生氏の手を通じて非公式ながら殿下に献上が叶ひました。爾後、同小笠原氏から承りますと(虎の門事変後)、恐多くも最も御手近くに置かれて居られるとの事であります」1)と北は述べているが、田中惣五郎によれば、大正9年3月2日付で東宮大夫浜尾新から東宮御学問所幹事小笠原長生にあてて、右法華経の受領書が出されているという2)。そして北がこれにつぐ第二の積極的行動に立ちあがるのは、同じく皇太子にかかわる「宮中某重大事件」であった。
1)
2)
2・26事件憲兵隊調書、3-445頁。
田中惣五郎著『増補北一輝』(三一書房、1971年)、240頁。
宮中某重大事件とは、皇太子の婚約者(久邇宮良子女王)に色盲の遺伝があるとして、元老山県有朋が婚約解消を主張したことから起った対立・抗争を指している。そして猶存社も反山県の陣営に加わったのであった。満川は回想する。「大正10年の新年怱々、某重大事件が杉浦重剛翁の東宮御用掛辞任によって、漸く表面に現はれ出た。旧臘以来問題となっていたのがますます迫って来たのである。私はこれを杉浦翁と最も親交のあった一瀬勇三郎翁から聞いて君国のため容易ならざる一大事であると思った。……猶存社の同人は悲壮なる決意を懐いて起った。当の対手は元老山県有朋公である。押川方義、五百木良三郎氏等の城南壮も、頭山満翁、内田良平氏等の黒龍会も前後してこの問題解決のために起った」1)。北はいわゆる怪文書を執筆してばらまき、子分の岩田富美夫らは山県暗殺を策謀したと云われる。「北が久邇宮家におくった桐の箱入りの『勧告文』は、いわゆる怪文書中の白眉といわれ、これを垣間見た警視庁の人々さえ感激おくあたわざる文章であったという」2)と田中惣五郎は書いている。しかしこの時、北がどんな内容の怪文書を書いたのかは明らかになっていない。
1)
2)
前掲『三国干渉以後』252頁
前掲『増補北一輝』242頁
この事件では、長州閥の山県を抑えるために、内相床次竹二郎らの薩摩系政治家が動くなど、薩長対立の局面もあらわれたが、結局、山県が自己の主張を撤回し、1921年(大正10)2月10日、宮内省から「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し世上種種の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更なし」との発表が行われて、事件は落着した。これに力を得た右翼勢力は、つづけて、3月3日出発と予定されていた皇太子外遊に対する反対運動を展開しているが、この点については、政界上層部の対立を引き出すことができず、何らの成果なく終っている。
北のこうした宮中某重大事件へのかかわりは、『改造法案』の観点から云えば、「平等ノ国民ノ上ノ総司令官ヲ遠ザケ」(2-223頁)ている閥族・天皇側近への攻撃であり、天皇を国民の総代表者たらしめる1つの方策として意識されたことであろう。この点から考えると、大正10年1月24日政界有力者に配布されたという「宮内省の横暴不逞」と題する怪文書1)が、北の筆になるものではなかったかとも思われてくる。しかしより重要なことは、北がこの事件の過程から、自らの活動方式を固めてゆくための端緒をつかみとったと思われる点である。まず第1に北は、彼自身の怪文書活動と彼が配下とした岩田富美夫、清水行之助、辰川静夫(龍之介)らによる暴力団的活動との組合せが、意外と効果あることに気づいたに違いない。そして、以後、青年将校運動が抬頭するに至るまで、北の活動はこの方式を基本として行われるに至るのであった。第2には、こうした活動方式が既成の政治勢力にとって利用価値があり、従ってそこから資金的援助を獲得できる可能性の生れることをみてとったのではなかったろうか。
1)
前田蓮山編『床次竹二郎伝』(同刊行会、1939年)、539頁、ただしこの文書の具体的内容については書かれていない。
宮中某重大事件において問題となるのは、北と床次竹二郎との関係である。北は、1926年(大正15)10月の宮内省怪文書事件予審訊問調書において「政友本党の床次総裁とも2、3年前までは深い交際があり」(3-315頁)と述べているが、これを逆算すれば猶存社時代にあたることになる。両者の関係は間接的な形ではあれ、すでに北帰国直後に、『改造法案』の発禁問題をめぐって始っていた。満川は、大正9年の「休会(年末年始)明け議会の劈頭に、貴族院議員江木千之氏は秘密会を要求し、『日本改造法案大綱』の取扱方に就て政府に質問した。その結果(結局不起訴処分)と述べているが、速記録によれば江木の質問は2月19日の第1回貴族院予算委員会で行われ次のように記録されている。
江木千之君、私ハ世間ノ所謂社会改造問題ニ付テ政府ノ御意見ヲ伺ヒタイト考ヘルノデアリマスガ、是ハドウカ速記ヲ私ハ止メテ質問シタイト思ヒマス。
委員長(子爵前田利定君) 速記中止(「第42回帝国議会予算委員会議事速記録」第1号、13頁)
ところが、北ヤ吉(一輝の実弟)によれば、このあと次のような出来事があったと云う。「兄はいった。『この書物を見て、江木千之が貴族院で危険思想だと騒いだので、床次内相は之は既に出版法違反で問ふことになっていると答へ、罰金三十円を取られたが、床次が三百円某君(多分後藤文夫君)に持たせてよこしたから、差引二百七十円儲かったことになる』と。そうして大笑した」1)。床次が北の『改造法案』に300円もの金を払ったのは、北とその周辺の勢力に何らかの利用価値ありとみたからではなかったであろうか。もちろん、その後の両者の関係を示す資料は見出されていない。しかし北の云う「深い交際」という言葉からは、その後、とくに両者が積極的に活動した宮中某重大事件において、資金援助的な関係が存在したことが読みとれるように思われるのである。
1)
北ヤ吉「風雲児・北一輝」・宮本盛太郎編『北一輝の人間像』(有斐閣、1976年)所収、265頁、なお満川は、床次にも『改造法案』を送ったが、この配布のことがもれたのは床次からではなく、「別個の理由を以て朝鮮総督府警務局に知られたのが最初であった」(『三国干渉以後』228頁)と述べており、また当時の朝鮮総督であった斎藤実の関係文書(国会図書館憲政資料室蔵)のなかには、現にこのときの騰写刷り『改造法案』が保存されている。
ともあれ、以後の北は、怪文書=暴力団的方向に活動を展開してゆくことになるのであるが、 さらにその目標を、天皇大権あるいは天皇側近の問題に集中させてゆくについては、もう1つ、 朝日平吾事件の影響を考慮に入れなくてはならないであろう。
宮中某重大事件が解決した7か月後、1921年(大正10)9月28日、安田財閥の創始者安田善次郎が大磯の別邸で、朝日平吾に刺殺されるという事件がおこっている。朝日はその場で自殺したが、彼の遺書は友人の手で猶存社1)にも送られてきた。「死ノ叫声」2)と題されたこの遺書は、自らの行動を「富豪顕官貴族」を打倒する「最初ノ皮切」と意義づけ、あとにつづけと訴えたものであるが、そこで彼は、日本の現状を、既成の支配層が天皇と国民を隔離し、私利私欲のために国民を圧迫しているという形で捉えている。そして当面の目標として、「第一二奸富ヲ葬ル事、第二ニ既成政党ヲ粉砕スル事、第三ニ顕官貴族ヲ葬ル事、第四二普通選挙ヲ実現スル事、第五ニ世襲華族世襲財産制ヲ撤廃スル事、第六ニ土地ヲ国有トナシ小作農ヲ救済スル事、第七ニ十万円以上ノ富ヲ有スル者ハ一切ヲ没収スル事、第八ニ大会社ヲ国営トナス事、第九ニ一年兵役トナス事」という9項目を掲げた。北はここ、自らの『改造法案』と根底において共通する発想を見出したことであろう。
1)
朝日は、友人奥野貫に、内田良平、藤田勇、北一輝にあてた三通の遺書を残したと云われるが(前掲『現代史資料4、国家主義運動1』解説参照)、満川は「遺書に北・大川・満川の三名が名指され」(『三国干渉以後』258頁)ていたと述べているので、ここでは一応、「猶存社あて」としておくことにした。
2)
前掲『現代史資料4、国家主義運動1』による。
しかし、朝日が自らの行動の基点を、次のような形で、天皇の赤子としての権利の回復という点に求めているくだりを、北はどう読んだのであろうか。「吾人ハ人間デアルト共ニ真正ノ日本人タルヲ望ム、真正ノ日本人ハ陛下ノ赤子タリ、分身タルノ栄誉ト幸福トヲ保有シ得ル権利アリ、併モ之ナクシテ名ノミ赤子ナリト煽テラレ干城ナリト欺カル、即チ生キ乍ラノ亡者ナリ寧ロ死スルヲ望マザルヲ得ズ」。ここに云われている、真正の日本人は「天皇ノ赤子」・「天皇ノ分身」だと見方は、明らかにこれまでみてきたような北の思想とは異質であり、彼が排撃した「国体論」に属するものと云わねばならないであろう。しかし北はここで、朝日との思想的違いをとりたてる前に、国体論的系譜からも、『改造法案』に呼応する行動が生れたという点に眼をみはったのではなかったか。
以後の彼は、本来なら「頑迷国体論者」(2-223頁)としりぞけるべき筈の政治家、小川平吉・平沼騏一郎などに接近してゆくのであるが、そこには、いかなる形であれ、朝日平吾的天皇信仰に刺激を与え、めざめさせることは、国家改造のエネルギーを拡大することになるという論理が用意されていたように思われるのである。そしてそのことは、この翌々年1923年(大12)に改題刊行された『改造法案』にみることができる。
すでに触れたように、この時北は『改造法案』にいくつかの修正を加えているが、そのなかで最も重要なものとして「天皇ハ第三期改造議会マデニ憲法改正案ヲ提出シテ改正憲法ノ発布ト同時ニ改造議会ヲ解散ス」(2-226頁)との規定を削除して、次のような新たな規定と註とを書き加えた点をあげねばならないであろう。
国家改造議会ハ天皇ノ宣布シタル国家改造ノ根本方針ヲ討論スルコトヲ得ズ。
註ニ
是レ法理論ニ非ズシテ事実論ナリ。露独ノ皇帝モ斯カル権限ヲ有スベシト云フ学究論談ニ非ズシテ日本天皇陛下ニノミ期待スル国民ノ神格的信任ナリ。
註四
斯カル神格者ヲ天皇トシタルコトノミニ依リテ維新革命ハ仏国革命ヨリモ悲惨ト動乱ナクシテ而も徹底的ニ成就シタリ。再ヒ斯カル神格的天皇ニ依リテ日本ノ国家改造ハ露西亜革命ノ虐殺兵乱ナク独乙革命ノ痴鈍ナル除行ヲ経過セズシテ整然タル秩序ノ下ニ貫徹スベシ。(2-378頁)
北の著作において天皇に対し「神格」なる言葉があらわれるのは言うまでもなくこれが最初である。そしてのちに西田税は、伏字版のこの部分に「神格」ではなく「人格」と書き込んでいるという(2-379頁)。もちろん所有されるものとして「物格」、独立の主体としての「人格」という『国体論』の用語法から云っても、天皇を「国民ノ総代表」とする『改造法案』の観点から云っても、ここは「神格」ではなく「人格」であるべきであろう。しかし北は、そうしたことは充分承知したうえで、あえて「神格」と書いたのではなかったか。若しそうでないとすれば、この改訂を行う意味がないように私には思われるのである。
つまり、天皇の宣布したる根本方針を討論しえずという天皇の絶対性は、国民の「神格的信任」(人格的ではなく)を提示せずには主張しえないのではないかと言うことである。もちろんそれは、『改造法案』のなかに矛盾を持ち込んだことになり、従って北も、西田あたりには、「神格」と書いたのは弾圧を避けるためで、ほんとうは「人格」とすべきだったなどと語ったこともあったかもしれない。しかし北は、そうした矛盾をも意識したうえで、あえて「神格的天皇」を前面に押し出し、国体論的な天皇信仰をも国家改造のエネルギーとして動員しようとする、新しい戦略を明示して置こうとしたのだと私は解する。そしてそのことは、彼の思想のなかの進化論的契機を弱める結果となり、進化論的ユートピアと国家改造論との緊張感は次第に失われていったことであろう。同時にまた、この新しい戦略は、「頑迷国体論者」と交わり、そこから生活の資を得るという彼の行動に対する自己弁護の論理ともなったのではなかったか。
ともあれ、宮中某重大事件、朝日平吾事件という2つの事件を体験した1921年(大正10)は北にとって1つの転期であった。彼はそこから、怪文書=暴力団的行動によって、天皇大権・天皇側近、あるいはその反面としての共産主義排撃といった問題をとりあげ、既成政治家とも握手するという活動方式を生み出していった。そして同時にそのことによって猶存社のなかで次第に孤立していったと思われる。1926年(大正15)の『改造法案』第3回公刊に際して付した序文のなかで、「十年秋、故朝日平吾が一資本閥を刺して自らを屠りし時の遺言状が此の法案の精神を基本としたからとて聊か(も)失当ではない」(2-359頁)と北が得意げに回想しているのに対して、同じ事件について満川は「その年の九月未知の人朝日平吾君が我々3人に宛てゝ遺書を送った。そこで又一層不穏の気を増した。有ること無いこと様々の評判を立てられて、私共の活動を妨げられたことは一再に止まらない」1)といささか苦々しげに回想しているのであった。
1)
前掲「新愛国運動の諸氏」
この時期に大川・満川らが中心としていたのは、北とはちがって、学生などに対する啓蒙活動であった。「我等同志は良かれ悪しかれワシントン条約を一転機とする新世界の誕生を認識せざるを得なかった。それは米国の台頭に対する大英帝国の覇権の衰退、従って英国の世界支配に打ちひしがれた亜細亜民族勃興の機運であった。吾人はこの機に乗じて日本改造、亜細亜復興、世界革命の思想を三位一体の原理に整調具現化すべき急務に迫られた。ここに同人笠木良明君等の異常なる努力によって全国に各学生団体の組織と結合とが企てられた。帝大日の会を長兄として 、拓大には魂の会、早大には潮の会、慶大には光の会が組織された。これら兄弟の会の司宰に成る復興亜細亜講演会が、神田青年会館に開かれたのは大正11年11月30日であった」1)という。翌年には、日大・東の会、曹洞宗大学・命の会、第5高校・東光会などがつくられたようである。 そしてこのうち、日の会は鹿子木員信(大10・6創立)、魂の会は大川周明(大11・3創立)、潮の会は満川亀太郎(大11・11創立)、東光会は大川周明(大12・4創立)を指導者として、1925年(大正14)の大川・満川たちによる行地社設立まで存続していた2)。
1)
前掲『三国干渉以後』、263〜4頁。
2)
前掲『三国干渉以後』、「新愛国運動の諸士」及び行地社機関誌「月刊日本」第1号(大14・4刊)に掲載の「各同志団体沿革並近情」などによる。
もちろん、こうした活動様式の違いが、すぐさま、北と大川・満川らとの分裂を結果したわけではなかった。とくに上海からの北呼び戻しの提唱者である満川の場合には、北の『改造法案』を広めることに熱心だったようにみえる。例えば、彼が指導していた「潮の会」では、創立以来「毎週1回北一輝氏の『日本改造法案大綱』を研究の中心として会合を開いた」1) いたと云うし、また1922年(大正11)春には、西田税らの陸軍士官学校生徒がつくっていた「青年アジア同盟」に接触し、彼等の間にも『改造法案』の思想を注入している2)。それまで、大陸浪人にあこがれ、黒龍会の方向を志向していた西田を、国家改造思想に転換させたのは、この満川の啓蒙活動の結果であったと云ってよい。
1)
『月間日本』第1号
2)
士官学校時代の西田税については、芦澤紀之著『2・26事件の原点』(原書房、1974年)が詳しい。同書によれば、青年アジア同盟の会合と彼等の満川・北への接触は次の如くであったと云う。
○
大10・9初旬、西田税・福永憲・宮本進・平野勣ら、青年アジア同盟を結成し、黒龍会・長崎武に援助を求める。
○
大10・12・18、青年アジア同盟第1回会合、長崎、長瀬鳳輔を同行、牛込宗参寺
○
大11・1・22、同第2回会合、長崎、水野梅暁を同行、山王台日吉亭
○
大11・2・19、同第3回会合、長崎、満川亀太郎を同行、清風亭、2・22西田発病、2・28〜4・23陸軍病院に入院。
○
大11・3・19、同第4回会合、長崎、満川、ビハリ・ボース来る。清風亭。
○
大11・3・26、満川、福永・宮本・平野を招き、北訪問をすすめる。4・2、3人は北を訪れる。
○
大11・4・23、西田、自宅療養を命ぜられ、陸軍病院を退院、北を訪問したが『改造法案』の借用をも求めず帰郷。
○
大11・4・30、福永、満川を訪れ『改造法案』の解説をうける。
○
大11・6・19、西田、陸士卒業試験のため上京、満川を訪れて『国体論及純正社会主義』を借用、居合わせた大川周明に紹介される。帰校した西田は「福永から渡された『日本改造法案』を熟読して、初めて愕然とする」(同書、170頁)
○
大11・7・21、西田ら秩父宮と会い、『改造法案』による国内改革を言上。
○
大11・7・28、西田、陸士(第34期)卒業式後、北を訪問し、朝鮮へ赴任。
しかし、こうした啓蒙活動を中心とする大川・満川らは、暴力団的活動家を輩下とする北との間に次第に異和感を深めていったとみられる。そして、さらに、大川・満川らが、北の影響をうけながらも、自らの思想を明確にするに従って、北との間の、天皇中心主義、国家改造論などに関する発想の違いも次第にはっきりと意識されざるを得なかったことであろう。
猶存社が解散するに至るのは、1923年(大正12)2月のヨッフェ来日をめぐる対立によってであった。そしてその背後には、ロシア革命に対する大川・満川と北との評価の対立が存在し ていた。彼等国家主義者達が、ロシア革命の評価をめぐって分裂するというのは一見奇妙とも見えるかもしれない。しかしそこには、天皇観にまでつながる問題が存在しているのであった。
〔未 完〕
(私論.私見)