南京事件の史的経過と政治化の過程その2

 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).4.18日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 60年間の、国内外の「南京大虐殺」事件の研究は、おおむね四つの段階に分けることができる。


 【南京事件をめぐっての諸見解グループについて】
 70年代以降、日本国内では、南京大虐殺の史実の真実性をめぐって、長い時間をかけた激しい論争がおこなわれてきた。日本国内では、激烈な論争のなかで、南京大虐殺の研究が発展を遂げている。この論争をめぐって日本国内では三つの学派ができている。これを確認しておく。
 【1、虚構派、まぼろし派】
 その一つは、「虐殺虚構派」である。南京大虐殺の真実性を否定する日本の右翼分子を「虚構派」あるいは「まぼろし派」といい、その代表的な人物は、鈴木明、山本七平、田中正明らである。彼らの代表的著作はそれぞれ、『南京大虐殺のまぼろし』、『日本人とユダヤ』、『〝南京虐殺〟の虚構』である。1985年、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館が落成しオープンした後、田中正明はすばやく雑誌『正論』誌上に『南京大屠殺記念館に物申す』という挑発的な文書を臆面もなく公表している。
 【2、虐殺派
 二つ目は、「虐殺肯定派」である。南京事件調査研究会の洞富雄、藤原彰、本多勝一などを代表としている。歴史を尊重し、虐殺の真相を明らかにし、中日友好の態度を擁護する態度をとっている彼らは、日本軍は確かに大虐殺をおこなったと認識し、「虐殺派」といわれている。彼らは日本の右翼と不撓不屈の闘いをおこなってきた。

 洞富雄は日本における南京大虐殺史研究の大家と言うことができる。『近代戦史の謎』に続いて、『南京大虐殺(決定版)』を出した後、彼はまた『南京大虐殺の証明』など一連の大きな影響を与えた著作を発表した。

 藤原彰は彼の『南京大虐殺』の中で、武器を捨てた中国兵を虐殺したのは国際法と人道主義の原則に違反すると特に強調して指摘し、遭難して死んだ兵士たちを被虐殺者の人数に入れないやり方を痛烈に批判した。

 本多勝一は『ペンの陰謀』を書き、鈴木などの誤った議論に対して一つひとつ反駁した。

 「南京大虐殺の真相を明らかにする全国連絡会」が編集した『南京大虐殺』、笠原十九司が書いた『南京安全区の百日』、津田道夫が書いた『南京大虐殺と日本人の精神構造』等、「虐殺派」の研究は、従来にない高い水準に達し、極めて大きな影響力をもつ学派になっている。


 激しい論争の中で、「虐殺派」は新しい証拠の発掘に特に注意をはらい、南京大虐殺の真実性の裏付けをさらにもう一歩前進させた。1984年、1987年、南京事件調査研究会は二回南京に実地調査のために訪れ、幸存者を訪問し、保存書類を調べた。1985年、元日本軍の第16師団長の中島今朝吾の『陣中日記』が発見され、これはまた重要な証拠であった。その後、『ローゼン報告』、『ラーベの日記』等の一連の多くの新資料が陸続と発見され、「虚構派」と「中間派」に大きな打撃を与えた。
 【3、虐殺人数過小派】
 その三つ目は、「虐殺人数過小派」である。「虚構派」の破綻があちこちで出て来る状況の中で、秦郁彦、板倉由明などを代表とする「過小損失評価派」(「中間派」ともいう)が登場してきた。

 80年代の始めに、板倉由明は『〝南京大虐殺〟の数字的研究』を発表し、日本軍による被虐殺者の人数を1万3000人と推定した。続いて拓殖大学教授の秦郁彦は『南京事件』を出版し、彼は日本軍の虐殺人数は、ただ3万8000~4万2000人にすぎないと推算した。秦は、「敗残兵」や「投降兵」の殺害は正常な戦闘行為とみなし、一般民衆の中に紛れ込んでいたいわゆる「便衣兵」の殺害は、彼らの抵抗行動に対する「処刑」であり非合法の虐殺として勘定することはできないとの見解を披瀝した。

 虐殺派系からは、「中間派」は「大虐殺はなかった」ことを大いに宣伝することを通じて、人々に「南京大虐殺はなかった」かのように思わせようとしており、これは一種のさらに巧妙な虐殺否定論である、とみなされている。

 虐殺派の今後の展望
 虐殺派の今後の展望につき、3 .今後の任務」を転載しておく。
 60年来、とりわけ80年代以来、南京大虐殺史の研究は実り多い成果をあげることができたにもかかわらず、研究の範囲を広げ、さらに掘り下げていくことが必要である。とりわけ、日本国内では依然として極少数の者たちがかってに歪曲し、侵略の歴史を抹殺し、南京大虐殺を否定する状況の下では、南京大虐殺の歴史の定説を守りぬく闘いを長期にわたって継続していかなくてはならない。学術研究の視点からみて、われわれは以下のような主要な任務と主要な課題に直面している。

 (1)南京大虐殺の被害者、加害者とその他の目撃証人の関係資料の発掘と収集の努力を続け、この作業を南京大虐殺史の学術研究の基礎を深め発展させる取り組みとして、早急に取り組む。

 まず、史料を求め集めることが、現在直面している最も重要で、最も差し迫った仕事である。つまり、速やかに緊急措置をとって幸存者、証人の証言を録音と録画で保存し、歴史の証言として残していかなくてはならない。南京市では過去、1984年と1991年に幸存者に対して全面調査と再調査をそれぞれおこない、多くの重要な直接資料を得ることができた。しかしながら、当時の客観的条件の制限から、全面調査の範囲は主に南京の市内の一部と郊外に限られ、内容形式でもただ部分的な証言に限定されていた。歳月が過ぎ去るに従って、当時の南京大虐殺の被害者、幸存者と目撃者等、生きた証人たちが年を追って減少し、現在健在といえどもすでに年は70歳に達している。このため、南京の各区県および全国的な範囲で、法律的な公証と音声・映像手段を使って、歴史に対して重い責任を負う態度で全面調査を行って幸存者を探し尋ね、緊急的な措置で資料を収集していかなくてはならない。この基礎の上にたって、現代の科学技術的手段を駆使して、きちっと整理された永久に保存できる文書資料をつくりあげるのが今後極めて重要な任務である。

 第二は、南京大虐殺史の学術研究をさらに深め大きく発展させるためには、加害者に関する証人や物証の発掘に努力することが重要である。侵略加害国の日本として、今日に至るまでいまなお、多くの当時の南京大虐殺に関する政府筋や軍関係の文献、元中国侵略兵士の陣中日記や手記、現場写真あるいはその他の証人や物証があるが、様々な原因から埃の中に埋もれたままにされ、未だに世間に公表されていない。われわれは良識と勇気をもって、自分の陣中日記と手記を公開発表し、日本軍の残虐行為を明らかにした東史郎さんの正義の行動に対して、賞賛し支持するものである。同時に日本のより多くの正義の人たちに、歴史にまっすぐに向き合い、南京大虐殺を反映している写真、日記、文献などの証人や物証を公開発表し、あるいは南京に寄贈していただくように要請する。歴史を尊重する人も必ずや歴史から尊重されるであろう。

 第三には、国内外の各方面の力量を結集して、第三国の証人の証拠を探し続けることである。当時中国の首都であった南京には、その痛ましい災禍を自分の身をもって体験し、目撃した多くの外国人たちがいた。彼らは特別な身分で、様々な形態で滞在し、客観的で公正な一連の証拠を残している。例えば、アメリカのジョン・マギー牧師が日本軍の残虐行為の現場の映画、写真を撮影し残している。ドイツのヨーン・ラーベ氏は、大量の貴重な日記と写真およびその他の資料を残している。イギリスの有名な記者のティンバリーは事件の直後に『外国人の目撃した日本軍の残虐行為(日本翻訳名:戦争とは何か-中国における日本軍の暴行)』を書き、また数人の外国人は、戦後の極東国際法廷と中国戦犯裁判軍事法廷に出廷し、事実に基づいて証言し、人類の正義と尊厳を擁護した。しかしながら実証的に検討すれば、南京大虐殺の期間中に南京に留まった第三国の外国人は20数名いるが、しかし、いままで発見された外国人の関係する史料で公開されたものは十数人にすぎない。また、例えばマギー牧師が使った撮影機、日本軍の「百人切り」の軍刀等の証拠物は、未だに海外にある。従って、引き続き資料を募って集め、こうした史料の研究を深めることが今後の重要な仕事である。

 (2)南京大虐殺史の学術研究をさらに深く掘り下げよう

 今後、南京大虐殺史の学術研究の方法を深く掘り下げるために、われわれは事件の全体の研究に力を入れるだけでなく、また各部分の具体的な個別の事件の研究も重要視し、マクロ的な観点から把握するだけでなく、同時に、いつ、どこで、誰が、どのような事件なのか等というミクロ的な研究を重視しなくてはならない。表面的に分析するだけでなく、かつ深層にわたる本質的な研究をおこなうように力を入れ、努めて研究を不断に深め、水準を絶えず高めるようにしなくてはならない。今後、われわれは下記のような重要課題に重点をおいて研究を進める。

 ① 南京大虐殺の中でのそれぞれの重要な集団虐殺の個別の具体的な研究に関して。広範囲に史料を収集整理し、十分な証拠をもって系統的にそれぞれの典型的な虐殺事件の例について、逐一論証していく。

 ② 南京大虐殺で犠牲になった人たちの名簿の調査研究に関して。日本軍は当時、南京で血腥い大虐殺をおこなったが、殺人手段は極めて残忍で、殺人後もまた死体を焼き捨て証拠を湮滅し、その被害者の人数は非常に多く、被害地区は広範囲にわたった。このため、犠牲者の名簿調査の作業は多くの困難にぶつかった。しかしながら、歴史的な文献資料の掘り下げた検討と、大規模な捜索と訪問活動を通じて、この作業は一定の進展をみることができる。

 ③ 南京大虐殺の期間に受けた損失の状況の調査研究について。中国侵略日本軍は南京大虐殺事件を引き起こし、中国の南京では多くの生命と巨大な財産の損失をこうむった。日本軍による虐殺、強姦、放火、破壊、掠奪等の残虐行為が作りだした損失について、調査研究をもう一歩進め、比較的正確な判断をおこない数字的な統計として出さなくてはならない。

 ④ ヨーン・ラーベ氏および南京大虐殺に関する日記資料の研究について。当時、ドイツ人のヨーン・ラーベ氏は、南京安全区国際委員会委員長として、そのおかれている特殊な役割から、彼が現場で記載した日記と保存した史料は非常に重要な歴史的価値があり、深く掘り下げて研究する価値がある。

 ⑤ 南京大虐殺期間の慰安婦問題の研究に関して。日本軍が南京を占領した後、女性に対して強姦をほしいままにした以外に、また南京に多くの慰安所を設け中国の女性に無理矢理慰安婦をやらせ野蛮にも性奴隷として酷使したことは、日本が南京で犯したもうひとつの犯罪行為であった。 

 ⑥ ニュールンベルク軍事法廷でのナチスの戦犯裁判と東京極東国際軍事法廷での日本戦犯の裁判の状況の比較研究に関して。

 ⑦ アウシュビッツ収容所でのナチスによる大虐殺と中国侵略日本軍の残虐行為の比較研究に関して。

 ⑧ 中国侵略日本軍による南京大虐殺の残虐行為とすべての中国侵略の過程での残虐行為を関連づけた学術研究を継続して進めていく。

 ⑨ 南京浦口の戦争捕虜収容所問題の研究に関して。中国侵略日本軍は、国際法に違反して捕虜を虐待し、経済的な掠奪と暴行をおこなってきたことを暴露していく。

 ⑩ 南京「栄」細菌部隊問題の研究に関して。日本軍が南京で鬼畜にも劣る生きた人体を使った細菌実験をおこない、浙の戦場で使用するという残虐行為を行った事実を明らかにしていく。

 (3)国内外の学術交流と協力を強化し、高い水準の学術研究の隊列をつくりあげよう。

 現在、われわれは、喜ばしいことに、南京大虐殺史の学術研究の隊列が、ちょうど不断に発展しつつあることがみてとれ、特に、多くの若い専門的な学者が頭角を現しつつある。歴史の悲劇を再び繰り返さないために、歴史の教訓を戒めとし、中日の友好関係と世界平和を永遠に擁護していかなくてはならない。今後われわれは、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館と侵華日軍南京大虐殺研究会を拠り所とし、南京大虐殺史研究の専門家学者の多くの有志は団結し、国内外の研究機構と学者の密接な連携を保ち、今回の国際学術シンポジウムを新たな契機と出発点として、国内外の学術交流と協力をさらに強化し、南京大虐殺史の学術研究を引き続き前進させていこう。目次にもどる


【森 清勇/氏の「南京大虐殺」否定論の登場】
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK215」の赤かぶ氏の2016 年 11 月 14 日付投稿「ついに馬脚現した習近平、歴史歪曲が白日の下に 南京虐殺の捏造がついに暴かれ始めた(JBpress)」。
 ついに馬脚現した習近平、歴史歪曲が白日の下に 南京虐殺の捏造がついに暴かれ始めた
 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48368
 2016.11.14 森 清勇 JBpress 

 中国は日本の反対を押し切って、「南京大虐殺」をユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」(記憶遺産)に登録した。日本では南京で大虐殺があったと主張する人から、違法行為はあったが虐殺と言われるようなものはなかったと主張する人までいる。ナチス・ドイツがユダヤ人を大量虐殺(ホロコースト)した非人道行為は、第2次世界大戦中に起きたが戦争とは直接関係ない犯罪である。そこで敗戦ドイツを裁くニュールンベルグ裁判では、従来の戦争犯罪の範疇になかった「人道に対する罪」を新たに設けて裁いた。大東亜戦争においてホロコーストに匹敵する犯罪行為は、日本の敗戦が濃厚になった段階で、米国が行った無差別都市爆撃と原爆投下で約40万人もの日本市民を殺戮したことであろう。公平な裁判であるならば、米国が被告席に並んで宣告されるべき「人道に対する罪」である。しかし、米国は裁判官席に並んで自国の大殺戮を相殺するためか、日本が南京攻略戦で大虐殺を行い「人道に対する罪」を犯したとして日本を裁いたのである。南京事件当時、中国国民党に関わる在中の米国人記者や宣教師たちは、日本軍が大虐殺を行っているかのような宣伝工作に注力した。しかし、南京城内で市民の保護に当たった国際委員会(ドイツ人ジョン・ラーベ委員長)が抗議した日本軍の非行は、殺人49件、傷害44件、強姦361件、連行390件、掠奪その他170件ほどであった。中国にいた米国外交官などが帰国後、実見した現実(大虐殺はなく宣伝は歪められている等の主張)を米国民に訴えたが、ルーズベルト大統領によって戦争遂行を妨害するものとして拘束される状況であった。

 ■「大虐殺」とは何か

 そもそも、大虐殺とは何かが問題である。

 広辞苑には「惨たらしい手段で殺すこと」と書かれている。国連が1948年に議決したジェノサイド条約(通称)では、「集団虐殺罪とは、国民的、人種的、民族的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する目的をもって次の行為を行うものをいう。

(1)集団の構成員を殺害すること
(2)集団殺害の共同謀議
(3)集団殺害の直接かつ公然の教唆
(4)集団殺害の未遂(など)

 この定義に当てはまる第2次世界大戦中の事象は、先に挙げたナチスによる600万人ホロコーストであり、米国の無差別都市爆撃・原爆投下による40万人殺戮、米英のドレスデン爆撃による15万人死傷、ならびにソ連軍がポーランド将兵4400人を鏖殺したカチンの森事件などであろう。その他の大量殺人となれば、毛沢東の大躍進時の2200万人殺害・餓死、文化大革命時の2000万人殺害、ソ連革命時の2000万人粛清、カンボジアのポルポト政権時の200万人殺害(以上、『正論』2016年4月号、その他)などであろう。なお、1989年に起きた天安門事件では学生らの民主化要求を人民解放軍が戦車で轢き殺すなどの武力弾圧を行い、解禁された米国の秘密文書によると死傷者4万人以上、うち死者は1万454人(『WiLL』2016年7月)とされる。

 南京事件に先立つ4か月余前、北京東方の親日政権があった通州で、日本人居留区の385人(民間人)が居留区を警備していた中国保安隊と暴民に突如襲われ、掠奪・暴行されたうえに婦女子を含む223人が惨殺される事件(通州事件)が起きた。中国人に嫁した日本人女性が現場の近くにいて一部始終を目撃していた(藤岡信勝編著『通州事件 目撃者の証言』)。本人は日本人が惨殺される状況を見るに忍び難く、声を出そう、助けに行こうと葛藤するが、夫に日本語を喋るな、隠れているようにと厳命され、状況を見届ける以外になかったと悔やむ。その証言は現場にいたものしか語れない、また日本人ではあり得ない惨たらしさに満ちている。以上の例示のように、戦闘行為に関わる兵士などではなく、一般市民の殺戮は文句なしに虐殺と言えよう。他方で、捕虜の資格を喪失した便衣兵や反乱した捕虜などへの対処で起きる殺傷は、戦闘行為の一環とみるべきであり、虐殺とは言い難いのではないだろうか。

 ■朝日新聞が広めた南京大虐殺

 南京では戦闘はあったがラーベが抗議したように「虐殺」と言われるほどのことはなかったので、時の流れとともに忘れられていった。ところが、「虐殺の被害者が忘れようとすることは自由だ、しかし虐殺した側の国民が忘れることは、犯罪の上塗りにほかならぬ」(本多勝一『中国の旅』)として、朝日新聞の本多記者が「戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側の視点から明らかにする」(同上)という訪中目的で入国を許され、1971年6月から7月にかけ取材する。そのルポルタージュが帰国約1か月後から4か月間にわたって朝日新聞に連載され、大きな反響を呼ぶ。当時現地で戦った10万人超の軍人、200人を超える日本の新聞社・通信社の報道陣、数十人の日本人作家や画家、そして外交官、さらに民間人は戦闘が行われてから約8年後の東京裁判で初めて「その事実」を知り、疑心暗鬼にとらわれていたが、本多記者のルポに改めて驚かされる。事件に関わった日本人関係者が異議申し立てをしても、本多氏は「中国側の視点」での聞き書きであり、相手が話したことを忠実に書いただけであるとして、ごく一部の訂正を除き、事実の確認に努力したとは思われない。いずれにしても、この新聞連載が南京大虐殺論議の発火点となり、日本国家と日本人の頭上に重くのしかかることになる。本多氏は新聞だけでなく、「朝日ジャーナル」や「週刊朝日」でも連載し、写真の一部は「アサヒグラフ」でも発表する。

 これらのルポは単行本『中国の旅』に纏められ、翌年に出版される。朝日新聞社がいかに全力投球して南京事件を「南京大虐殺」に作り上げていったかが分かる。下調べをして疑問点や問題点を見つけて、現地で確認するのではなく、真偽を問わずにただ至る所で虐殺があったという中国の主張は、東京裁判による自虐史観に取りつかれた日本人学者たちを勢いづけることになる。中国にとっては日本のクオリティ紙からお墨つきをもらったようなものであったろう。爾来、日本では大虐殺派(30万人以上)、まぼろし派(虐殺はなかったと主張)、その中間派(数万人虐殺)と大きく3つに分かれて論争が行われてきた。その後発掘された資料からは、先述のように国民党の宣伝工作によって拡大喧伝されたことが明らかになり、虐殺派の主張はトーンダウンしている状況である。筆者は、戦闘行為に付随した捕虜の反乱鎮圧など、派生的に発生したものは基本的に虐殺ではないという視点に立っており、その視点からは30万人はおろか、数万人の虐殺もなく、まぼろし派の立場である。南京攻略戦に参加した将兵や多数の記者などの誰一人として「大虐殺」を語った者はいない。現地で視認していなかったのであるから当然であろう。東京裁判で初めて「南京大虐殺」を聞き、唖然とするわけである。

 ■本多氏は煽動家

 本多氏がジャーナリストであるならば、戦時中は語られることもなく、東京裁判で突然語られ始めた南京事案については大きな疑問がもたれていたわけで、中国の言い分をただ聞き書きして新聞紙上に発表するだけでは無責任の誹りを免れないであろう。氏が中国をルポした1970年代初めは、上記軍人や記者などもまだ多くが生存し、記憶もしっかりしていたに違いない(阿羅健一氏は80年代中期に、軍人や記者、外交官など48人の証言集を上梓している)。1970年代初期のルポ、そして直後に加筆して出版された単行本『中国の旅』が先導役となり、その後大虐殺を主張する本が次々に出版され、中国の主張を後押しすることになる。当時は日本の新聞社として朝日新聞しか中国に駐在を許されていなかった。そうした中で、中国側の視点から日本軍の行動を明らかにすることは中国にとっては願ってもない「大虐殺」流布の好機であり、「飛んで火にいる夏の虫」に、中国共産党が国家ぐるみで最大限の便宜を図ったことは言うまでもない。

 1980年代に入ると中国人民政治協商会議江蘇省南京市委員会文史資料研究委員会編の『史料選輯(侵華日軍南京大屠殺史料専輯)第四輯』が出版され、日本では(南京市文史資料研究会)『証言・南京大虐殺』として翻訳される。続いて、大虐殺関連の写真集『侵華日軍南京大屠殺照片集』が中国で出版され、日本では朝日新聞社が『南京への道』(本多著)や『南京大虐殺の現場へ』(本多・洞富雄・藤原彰共著)を相次いで上梓する。このように大虐殺に関する書の出版が続き、また南京戦直後に出版されたティンパーリ編『外国人の見た日本軍の暴行』も復刻され、1990年代中期以降の中国系米国人アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』へとつながり、世界的ベストセラーとなって日本を窮地に追い込んでいく。中国は勝ち誇ったかのように、日本に対して「正しい歴史認識」を迫り、大虐殺の記念館が中国のあちこちに建てられていく。本多氏は「一連の南京大虐殺キャンペーンが中国共産党に評価され、2006年9月24日、南京大屠殺記念館(南京市)から『特別貢献賞』を授与された」(田中正明『「南京事件」の総括』)のである。30万人であれ、数万人であれ、南京市民を虐殺したのであれば、日本と日本軍人が汚名を着せられても致し方ない。しかし、本当にそうした虐殺行為が起きたのだろうか。

 ■記者や軍人たちの証言

 「南京事件など無かったと思います」(記者として、後に軍人として参加した山本治氏)、「大虐殺とは言うが、私は見ていないので証言できない」(隠しているんじゃないかと疑う人もいるという足立和雄氏)、「南京虐殺については記憶がない」(体よく忘れたと見る人もいると語る橋本登美三郎氏)。これは、昭和59年から61年にかけて、阿羅健一氏がインタビューした軍人、新聞社・通信社記者、外交官など48人の大方の証言である(『南京事件日本人48人の証言』)。毎日新聞と朝日新聞、そして同盟通信は、それぞれ記者など約50人を南京に派遣している。3社で150人の報道体制である。外国人記者も5~6人いたし、外交官や日本人作家・画家なども数十名おり、言論をもって生きていた人間が約200人いたことになる。その誰一人として「虐殺」を語った者はいない。あちこちで1人や2人の遺体を見たり、揚子江縁では数百人(数千人という人もいる)の死体があったという人もいる。しかし、死体を見たというほとんどの者が、戦争中の出来事であって、虐殺などと考えたことはなかったと証言する。当時南京にいた関係者は外国語新聞や東京裁判で初めて「虐殺」を聞き、現地を隈なく巡回した者たちも「寝耳に水」に驚いたという。インタビュアーから、「虐殺を見なかったのですか」と、しつこく聞かれて、「そういえば、あれが虐殺だったんでしょうか」と逆に聞き返してくる返事ばかりである。外国語新聞は南京にいた米国人宣教師や国民党宣伝処の嘱託などで働いていた人物による報道などが基になっている。彼らは布教活動に対する米国からの資金援助が減り続けるため、米国内での寄付などをもっと多く募る目的で、日本軍の悪行を宣伝する必要があったとも言われる。

 記者たちよりももっと多くいて、実戦を戦ったのが将兵たちである。個々の兵士は限られた地域しか見ていないだろうが、部隊指揮官ともなれば、責任地域で何が起きているかを掌握している。掌握しなければ、次の行動がとれない。万を数えていた兵士の誰もが虐殺の報告を挙げていないし、小部隊の指揮官から連隊長、師団長も虐殺事案の報告を受けていない。虐殺事件の現場ともされる安全区(避難区)には同盟通信が支局を開設していた。その支局に事件があったとされる時期に出入りしていた記者さえ、虐殺を見たこともなければ、同僚記者など約50人の誰からも聞いたことがないという。ただ、米国からの逆ニュースで、南京で虐殺事件が起きたようだと知ったという。宣教師たちが捏造した情報が逆に南京にもたらされていたのである。

 安全区を設定したドイツ人ジョン・ラーベ(委員長)は、「貴下の砲撃隊が安全区を砲撃されなかったという美挙に対して、(中略)感謝の意を表するものであります」という書簡を日本軍に送っている。当時、南京の全市民が安全区に集結して国際委員会の管理下にあったわけであるから、安全区が安泰ということは、南京全市民が安泰であったということである。国際委員会が抗議したように、若干の殺人・強盗、強姦等はあったが、市民の「虐殺」というほどのことはなかったということである。

 ■習発言の嘘を暴いたスクープ

 平成28年8月31日付産経新聞は驚くべき事実をスクープした。その報道概略は以下の通りである。

 2015年10月訪英した習近平主席は、エリザベス女王主催の公式晩餐会で英国人のジョージ・ホッグ氏を取り上げて、「第2次大戦の際、記者として侵略者日本の残虐行為を暴く記事を発表した」と、南京大虐殺を実見した記者として、これほど称賛するにふさわしい人物はいないと紹介したそうである。中国は2008年にドイツなどとの合作で、赤十字職員と偽って南京に入り、中国市民を殺害する日本兵を撮影するホッグ氏を主人公にした映画を製作した。ホッグ氏は日本兵に見つかり処刑される寸前、中国共産党の軍人に助けられるというストーリーだそうである。ところが、映画の原作となった本を書いた英タイムズ紙記者ジェームズ・マクマナス氏は、ホッグ氏の中国入りは南京事件が起きたとされる1937年12月ではなく翌38年2月で、しかも上海に入り、南京には行っていないということで、「映画は脚色され、事実ではない」と証言している。

 実際、産経新聞は、ホッグ氏が務めたとされる新聞に署名記事がないこと、また通信社には署名記事があるが紀行文などで、「日本軍の虐殺行為を暴いた署名記事は見つからなかった」ことを確認したと報じている。ホッグ氏は孤児施設で教師を務め、国民党政府軍が孤児たちを徴兵しようとしたときは、孤児60人を連れてモンゴル国境まで移動し、戦果から子供たちを守ったとして、「中国版シンドラー」と評されているそうである。いずれにしても、中国の国家主席がエリザベス英国女王主催の公式の席上で語った「日本の残虐行為を暴いた記事」はあり得ない、全くのでっち上げであったということである。何としても日本の犯罪にしたい意図が先にあって創出された映画ということであろう。

 同紙、平成28年10月23日付のコラム「編集局から」によると、中国側の公式戦史集である『抗日戦争正面戦場』(1987年版)の南京攻略前後を丁寧に読み込むと、「相互に撃ち合うこともあった」「船の用意がなく、やむなく筏にしたが溺死するものが多かった」などの記述はあるが、南京虐殺は出てこないし、撤退する中国軍の惨状が描かれていたという。貧富の格差拡大や言論封殺などに反発して、共産党指導部に向かいかねない人民のエネルギーを外部の日本に向けて発散させるためでもあろうが、日本を犯罪国家として世界に喧伝したい意思を見せてき中国であるが、ここにきて綻びが出てきたというのは言いすぎであろうか。

 ■おわりに

 本多氏は「中国人が千何百万人も殺されたというような事実を、一般の日本人は噂ていどに、抽象的にしか知らず」と書き、「(米国はソンミ事件などを報道したが)日本の報道がそのようではなかったこと、26年過ぎてもまだそのままになっていることは事実である。ソンミ事件の報道に感嘆するよりは、実践したほうがよい」(『中国の旅』)と書く。

 百人斬りをはじめ南京大虐殺には、当時すでに疑問符がつけられていた。それにもかかわらず、中国の説明を真に受け、〝疑問の余地なく日本は大罪を犯したのだから、ちゃんと報道せよ″と本多氏は日本に迫り、中国を焚き付け、世界に流布する要因をつくった。

 朝日新聞の立ち位置からくることでもあろうが、検証を伴わない報道はジャーナリズムとは言えないだろうし、記者はジャーナリスト意識を欠落したものと言えないだろうか。

 今や、国家を代表する習近平主席の発言にさえ疑問が呈されてきた。いよいよ「南京大虐殺」という欺瞞のベールが剥がされ、「存在しなかった『大虐殺』」が白日の下に照らし出され始めたということではないだろうか。

森 清勇の付けブログ「実は米国がでっち上げた嘘だった「南京大虐殺」 」。
 © JBpress 提供 2019年12月13日、「南京事件」から82年の記念式典。「南京大虐殺」という嘘が大きく掲げられている(写真:新華社/アフロ)

 日本(軍)の疑心暗鬼

 日本は性善説に立つ国で、下記のように人権や人道、国家主権などを重んじる数少ない国である。明治以来のこうした積善が認められ、世界で尊敬される国の上位にランクされ続けてきた。

 その第1は奴隷の釈放である。アブラハム・リンカーン米国大統領は1862年9月に奴隷解放を宣言したが、大陸横断鉄道建設などで依然として奴隷を使っていた。ペルー船「マリア・ルス号」が横浜港に立ち寄った折に中国人苦力(クーリー)を輸送していることを知った副島種臣外務卿(外務大臣)は、奴隷運搬船と判断し国際裁判で勝利する。奴隷解放宣言から10年しか経っていない時である。

 第2は人種差別撤廃である。第1次世界大戦後の1919年、パリ国際会議に参加した日本代表団は国際連盟規約に人種差別撤廃条項を盛り込むように再三にわたって提案する。しかし壁は厚く、「提案が連盟で採用されるまで主張し続ける」といって引き下がらざるを得なかった。黒人系のバラク・オバマ大統領誕生は2009年のことであった。

 第3は植民地解放である。

 日本は東南アジアの植民地解放の必要性を訴えて大東亜戦争を戦う。有史以来の敗戦という惨めな結果となり未曾有の困難に直面したが、多くの独立国家が誕生して〝植民地解放″の目的は果たされた。この大東亜戦争の前半が支那事変で、1937年7月7日、日本軍が攻撃された盧溝橋事件に始まる。北京周辺の日本軍駐屯は1900年の北清事変(義和団の乱が発端)の結果として認められていた。日本は不拡大方針をとるが、広大な領土に引き込んで疲弊させ、あるいは上海に構築した強力な防衛線で日本軍の粉砕を企図した中国は停戦どころか、拡大させていった。こうして起きたのが南京攻略戦であり、大虐殺の汚名を着せられる。多くの日本人は信じられなかったが、最も驚いたのは現地で戦っている日本軍であった。

 現場で虐殺などの状況は見られないが、上海などの南京外から暴虐の情報が聞こえてくるので、〝どの部隊がどこで悪行を働いているのか″、〝日本軍がそんなことをするはずはないだろう″と疑心暗鬼に捕らわれたという。

 朝日新聞が掘り起こした「南京大虐殺」

 ドイツの協力で何重にも構築した上海の堅陣を破られた蒋介石は、南京の防衛戦に移行する。しかし南京の防備は軟弱のため早晩落城することは目に見えており、首都を重慶に移転して日本軍の暴虐を世界に宣伝する戦略に転換する。そのために、南京戦が始まる直前に「国民党宣伝部国際宣伝処」を設けた。徹底抗戦を命じた唐生智防衛軍司令官は、日本軍の南京開城(降伏)勧告を無視して落城寸前に逃亡して混乱を作為し、また日本軍は自分たちの食糧にも窮する状況下で得た数万の捕虜に困惑した。爾後の作戦に無害とみられる者を釈放するため移動しているところに反乱が起き、致し方なく武力鎮圧せざるを得なくなる。

 清水潔氏が『「南京事件」を調査せよ』で明かす兵士の陣中日記に見るように、凄惨な処刑も行った。軍法会議で捌かれるべき事件であるが、中国側は「日本の暴虐」として宣伝する。しかし、当時、200人以上いた日本人新聞・通信記者、写真家、さらには作家や大使館員などは誰一人として虐殺事件として報じなかった。捕虜、ましてや一般市民をむやみに殺害し、電線に吊るし、頭皮を剥がし、睾丸をえぐり、時には写真で見るように女性の陰部に棒を差し込むなど、猟奇事件にも似た、いわゆる「虐殺」などは一切見ていないからである。現地の日本軍には「寝耳に水」であり、昭和天皇にもその筋でないところから聞こえてきたという(NHKスペシャル、2019年8月17日放映・田島道治「拝謁記」)。

 東京裁判でも「暴虐」の亡霊が漂い、戦後しばらくは日本の不名誉としていたぶり続けられるが、それも間もなく忘れ去られた。再度亡霊が漂い始めたのは、朝日新聞がルポ「中国の旅」で再発掘する1971年以降である。中国は本多勝一記者の取材を許し、日本軍が残虐を極めたとした報道は単行本『中国の旅』として幾つかの出版社から発刊され続ける。

 産経新聞(平成28年5月14日付)によると、「『南京事件』は戦後、一貫して歴史教科書に記載され続けてきたわけではない。東京書籍の中学歴史教科書の場合、昭和53年度用(52年検定済み)から『南京虐殺』の文字が登場し、犠牲者数はこの時点では『おびただしい数』とあったが、その後、『20万以上ともいわれる』『中国では30万以上とみている』(59年度用)などと記されるようになる」。 その後は、他社の教科書にも同様の記述が見えるようになり、次いで高等学校の日本史教科書にも記述されていく。まさしく、『中国の旅』の影響としか思えないし、中国は1985年に30万人大虐殺と明記した記念館を南京に建設する。顕彰した本多勝一記者の写真や取材ノート・著作物などを、国際社会に広めて一躍有名になった中国系米国人アイリス・チャンの写真などと共に展示した。

 1998年に国賓として来日した江沢民は、南京事件をはじめとした日中戦争間の被害を3500万人とする歴史戦を展開する。しかし21世紀に入ると、蒋介石が宣伝戦で勝利を獲得する方便としてでっち上げた虚構であることを証明する資料が次々に発掘され、いよいよ「南京大虐殺」は完全消滅の危機に立たされた。

 領土拡張とナショナリズムの高揚

 そこに登場したのが「中華民族の偉大な復興」を掲げた習近平国家主席で、2012年のことである。清朝時代の領土を回復し、ナショナリズムの高揚で精神的な強国を作り上げるというのだ。この遠大な目標を達成するため、2020年までにGDP(国内総生産)を倍増(2010年比)させる経済発展と世界最強の軍隊を創設して勢力圏を拡大し、米国に代わるか、さもなければ米国と二分する覇権国になるというものである。南シナ海の環礁を領有権主張の根拠となる島とするために2013年後半から埋め立てる一方で、経済支援のインフラ外交で友好国を増大し、一帯一路で勢力圏を拡大していく。内々では2025年までに台湾を統一、30年までに南シナ海を内海化、40年までに東シナ海、建国100年を迎えた2050年にはシベリアを中国領にすると語っている。

 こうした物理的な拡張は強力なリーダーシップとナショナリズムで支えなければならない。そのために終身皇帝への道を固め、日本をこれまで以上に悪逆非道の国家に仕立てて徹底的にいたぶり尽くす戦略を立てたのだ。満州事変が始まった9月18日は国恥記念日と以前からみなされてきたが、2014年2月27日の全国人民代表大会(全人代=国会に相当)で、新たに対日関係の2つの国家記念日を制定した。一つは9月3日の「抗日戦争勝利記念日」である。国家創設間もなくの1951年以来、「対日戦勝記念日」として行われてきたが、「抗日戦争勝利」としたところに、国民のナショナリズムを刺激する要素を埋め込んでいる。

 二つ目は12月13日の「国家哀悼日」の新設である。南京を占領した日であるが、「約40日にわたる大虐殺が始まった日で、30万人以上の中国人が殺された」と主張して哀悼日とした。習近平主席がこの年の12月13日に南京の記念館を訪れ演説して檄を飛ばしたことから見ても、習近平氏のナショナリズム高揚の眼目であったに違いない。

 WWⅠにおける宣伝戦と検証

 第1次世界大戦に米国は当初参加しなかった。ドイツに蹂躙され続ける欧州、中でも英国は何としても米国を参戦させたかった。しかし、米国民はなかなか動かなかった。そこで、ドイツ兵は占領したベルギーの街の子供を見つけ次第に手首や指を切り落とし、鉄砲を撃てないようにしているという「可哀そうなベルギーの子供たち」の話が作られた。余談であるが写真撮影でVサインをするのは、戦場から帰還した兵士が「指はちゃんと付いているよ」と見せて安心させたことに始まると言われる。またドイツ軍はゼンプストにある馬方ダビッド・トルデンの家に押し入り主人を縛り上げ、13歳の娘に5、6人が襲いかかり暴行した。9歳になる息子を銃剣で切り刻み、妻は銃殺した。ブリュッセル近郊ではドイツ兵が家を焼いたが、兵の手にかかる寸前に赤ん坊が助け出されたとデイリー・メール紙が伝えた。掲載の翌日、本社から赤ん坊を連れてこいという電報が来る、また赤ん坊を養子にしたいという手紙が5千通も届いた。アレクサンドラ王女からも心のこもった電報と乳幼児用の服が送られてきた。こうしたドイツの蛮行を裁くため、報道に対する検証が戦後行われる。

 また米富豪が手首を切られた子供をみな引き取りたいと発表したから、手首や指を切られた子供やトルデン家の調査などが行われたが、すべては事実無根であることが分かった。アレクサンドラ王女の涙を誘った生き残りの赤ん坊の話しは、本社から敵の残忍さを語る記事を送れという電報を受けた記者が再三の催促に、取材に行かないで書いた嘘であった。作り話といえないので、赤ん坊は伝染病で死亡したが感染を恐れて葬儀もできなかったことにしたという。

 英政府は国民に義憤、恐怖、憎悪を吹き込み、愛国心を煽り、多くの志願兵を集めるために嘘を作り上げ広めた。また米政府と共謀して捏造した多くのプロパガンダで世論を沸騰させる。この世論に動かされた(とカムフラージュした)形で、米政府はドイツに宣戦布告し参戦する。こうしたプロパガンダの実体を暴いたのはアーサー・ポンソンビー(『戦時の嘘』)で、戦時プロパガンダは10項目に集約できるとした。その後、第2次世界大戦から2001年の貿易センタービ攻撃位までを項目ごとに分析したのがアンヌ・モレリ著『戦争プロパガンダ 10の法則』である。

 米国人宣教師たちが告発

 ポンソンビーの第5則は、「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる」というもので、敵を悪逆非道に仕立てるプロパガンダである。支那事変において蔣介石が「日本軍が残虐行為を行っている」と宣伝戦に出たのは、上海戦に敗北し、日本軍が南京に向かって追撃戦を行っていた11月のことであった。この時、蒋介石は国民党中央党部と国民政府軍事委員会を「国民党中央宣伝部」に改組し、普通宣伝処や新聞事業処のほかに「国際宣伝処」を作った。

 東中野修道氏が発掘した「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」は、「極機密」と押印され、宣伝の手口を克明に書き記した玉手箱であった(「『南京大虐殺』という虚構宣伝の全容と教科書のウソ」、『正論』平成18年7月号所収)。別冊子の「宣伝工作概要」には「宣伝戦で敵を包囲し、最後の勝利を勝ち取る」と書かれており、この実現のために中央宣伝部は全力投入していたという。

 少年時代に外人部隊に入隊し、長じて新聞記者・大学教員になった米国人フレデリック・ウイリアムズは一時、蔣介石軍に従軍する。その時の状況を「蒋介石はプリンターインクで戦っている」と『中国の戦争宣伝の内幕』に記している。宣伝戦で勝利を勝ち取るべくプロパガンダに全精力を投入していたのだ。

 「宣伝戦で勝利を勝ち得る」ためには、次の3つが必要であると東中野氏は言う。

①日本軍が暴行を働くよう仕向ける

②誰かが日本軍の暴行を告発する

③告発を世界に発信する

 そして、南京防衛軍司令官の唐生智が南京城陥落前夜に脱出したことから、爾後数日間の大混乱を招き、大量の捕虜発生と暴動鎮圧が①の状況を作為したとみる。また、南京攻防が指呼の間に迫る11月23日から陥落前日までの約3週間、唐生智司令官や首都警察長官、南京市長、各国大使館代表、宣教師、新聞記者などは毎日お茶会と記者会見を開いて中国軍と欧米人の交流を促進し親密度を深めて②の状況を作る。現に数人の記者や宣教師などは政府や党の顧問などとなり、こぞって告発している。この①②は南京の戦場における行動であるが、③は重慶に本拠を移した国際宣伝処の下で、上海・香港の支部、昆明とニューヨーク・シカゴ・ワシントン(米)、ロンドン(英)、モントリオール(加)、シドニー(豪)、インド、シンガポールなどに設置された事務所が機能した。

 告発を世界に発信したのは唐生智司令官らと誼を深めていた新聞記者や米国の宣教師たちである。こうして発信された告発は、ほぼ事件が終結した半年後の1938年7月、2冊の書籍(『戦争とは何か』『スマイス報告』)に纏められ、世界に流布して震撼させることになる。

 米大統領を動かした反日組織

 『戦争とは何か』で日本の罪状を告発した豪州出身で英マンチェスター・ガーディアン紙の特派員H・ティンパーリーは国民党中央宣伝部の顧問に付いていた。表の顔は特派員であったが、裏は国民党の秘密工作員で、日本の罪状告発の立役者として大活躍する人物である。『戦争とは何か』の執筆者の一人であるJ・フィッチは中国YMCA主事で、協会関係者にしてロータリークラブ会員でもあり交際範囲は絶大であった。告発の16ミリ・フィルムを米国に持ち込み、半年以上にわたって全米で講演旅行し、また主要な団体の幹部らと会談するのも容易な人物であった。

 こうした人物が米国その他とどのように関係していたかを抉り出したのは江崎道朗氏の「日本を泥沼に落とし込んだ米中ソ二つの反日ネットワーク」(『正論』平成18年8月号所収)である。19世紀末に天津にYMCA(キリスト教青年会、プロテスタント系)会館が初めて建てられて以降、1924年には約90人の米国人主事が派遣され、中国人主事も313人がいたという。フィッチは中国に派遣された一人であった。プロテスタント各派は中国で圧倒的な勢力を誇っていたYMCAと連携して次々と大学を建設した。24あった大学のうちの14は伝道団が創立・運営したキリスト教系であったといわれる。

 蒋介石が1927年に米国でも知名度の高かったクリスチャンの宋美齢と再婚し、30年にクリスチャンに改宗すると、米国のキリスト教団体は蔣を熱烈に支持する。『戦争とは何か』が発刊された同月にYMCA北米同盟の支持を得て、日本軍の行動を非難し、対日禁輸を米政府に要求する反日組織「日本の中国侵略に加担しないアメリカ委員会」(アメリカ委員会と略称)が結成される。

 名誉会長は元国務長官H・スティムソンで、漢口で総領事をやった人物が理事長となり、在中宣教師や著名なヘレン・ケラーなどが発起人となる。また同時期に、YMCA世界同盟の主導で中国と関係の深い国際伝道団体が「中国を援助する教会委員会」(教会委員会と略称)を設立して中国支援を開始する。この組織は全米12万5000のプロテスタント教会およびほぼ同数の関係伝道協会に影響力を行使できたという。信徒数に換算すると数千万人がいるわけで、反日感の強かったS・ホーンベック国務長官顧問を通じてハル国務長官に働きかけ、日中戦争に中立的立場を堅持していたF・ルーズベルト大統領をして中国支援へと舵を切らせる。

 世界を代表するシンクタンクでロックフェラー財団の支援を受けていた「太平洋問題調査会(IPR)」は、YMCAとの関係が深いことから必然的に「教会委員会」と連携して日本の侵略を批判する「調査シリーズ」を発刊・支援する。また、IPRはコミンテルン関係者が役員の雑誌『アメレジア』、「アメリカ中国人民友の会」、「アメリカ平和民主主義連盟」とも関係し、IPR理事長と「アメリカ委員会」理事長は兄弟でもある。極言すれば全米のキリスト教関係者とコミンテルン関係者によって動かされていた「アメリカ委員会」と「教会委員会」が一丸となって、南京での中国軍や市民の掠奪・放火なども「日本軍の悪行」に仕上げて世界に宣伝し、ルーズベルト大統領に反日を働きかけていた構図が浮かび上がってくる。

 おわりに:

 米国主導のプロパガンダが生んだ「大虐殺」。こう見てくると、南京での大虐殺のプロパガンダは米国主導で捏造されたと言っても過言ではない。

 第1次世界大戦後は米欧がこぞって戦時中の悪行検証を求めたが、南京虐殺でっち上げが米国主導であったとすれば、米国から罪状検証の声が上がるはずもなかったのだ。

 2015年10月10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、中国が申請した「南京大虐殺文書」を世界記憶遺産に登録した。しかし、外務省が翌年2月に検証を進めようとすると、中国側が態度を急変させ、登録資料の真贋性を検証できなかったという。

 2017年12月14日に装いも新たに再開した南京の記念館からは「南京大虐殺」を掘り起こした功績を称えられた本多氏、そして世界に広めたチャンの写真や著著をはじめ、南京事件関連の資料が大幅に撤去され、そのスペースには新たに慰安婦コーナーが設けられたという。

 国家哀悼日に指定してまで反日ナショナリズムを高めようとした南京事件である。宣伝戦で構築されてきた「大虐殺」の巨像が、実は虚構で積み上げられた「虚像」でしかなかったことが習近平主席の失態(英女王にウソの友情物語を語る)で暴露された結果であろう。

 本多氏が「万人坑」のルポ報道をすると、現地で働いた関係者から「作り話」だと異論が出る。関係者1000人にアンケートを行い、469人から得た回答を精査して「万人坑はなかった」ことを確信し、報道から約20年後の平成3年に朝日新聞社に取り消しを申し込む。朝日は「さらに調査を進める必要があると以前から考えています。(中略)共同で調査出来れば幸いと存じます」「本多は(中略)こんどは『旅』ではなく、改めて精密な現地取材をすることを考えております」などと書面で回答したという。産経紙がこの件で朝日の広報部と本多氏に質すと、朝日は「古い話であり、現時点では回答できることはありません」とし、本多は「回答しなかった」という。

 南京事件の罪状で刑死者も出た。ことは日本の、そして旧軍の名誉に関わる問題でもある。「古い話」であっても、報道した新聞社として疑義が呈され、現地取材などを考えていると回答した以上は、約束を果すのが最低限の責務であろう。そして、ウソと判明した暁には朝日の報道がきっかけになったと思われる記念館の撤去を迫り、亡霊を駆逐することが必要である。放置して済まされることではない。


コメント
3. 中川隆[4932] koaQ7Jey 2016年11月14日 11:25:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5355]
>これは、昭和59年から61年にかけて、阿羅健一氏がインタビューした軍人、新聞社・通信社記者、外交官など48人の大方の証言である

阿羅健一は資料改竄・捏造で悪名高い詐欺師だよ:

阿羅健一著「『南京事件』日本人48人の証言」批判 (以下阿羅本と略す)

阿羅は南京大虐殺の否定を図って、当時、南京に従軍したり、滞在した多くの日本人証言を集めた。その結果多くの証言者から「虐殺はなかった、見なかった」という証言を得た。また、既に虐殺の証言を行ったひとたちへの反論あるいは前言の撤回も引き出すのにも成功している。しかし、それは証言者を選び、聞き方を工夫して得られたものであり、実は多くの証言者が語っているのは虐殺の認識がないまま「虐殺の一部分、あるいはその痕跡」を目撃あるいは伝え聞いたことを示しているのである。それゆえに虐殺否定の証言の持つ構造を確かめることは、虐殺の証明だけでなく、否定論者の認識の成り立ちを解析するのにも重要である。

 阿羅本の問題点

1.そもそも、殺戮の現場に行っていない、見ていない証言者が多い。阿羅は軍首脳なら全般的な軍の方針を知っており、広範な情報が集中するからという理由で上級将校である証言者を重視している。実際には上級将校は殺戮を命令していても殺戮の残虐性を感覚的に実感していない。実行者である兵士において殺戮の残虐性をはじめて痛切に認識出来るのである。この点、上級将校の証言からなるこの証言集では虐殺の有無に対する有用な証言は期待できない。また、報道関係者なら広く見聞し、偏りのない見方をするだろうと考えたと思われるが、当時の記者は「暴戻支那を庸懲する」という日本政府の方針に沿い、好戦的な内地の世論に向けた扇動記事、戦意高揚記事を書いていた。記者の中には日本軍の先頭部隊と寝食を共にし、中国兵に対する敵愾心を共有したものと、軍首脳のそばにいて全般的な作戦や、交戦状況を書くことを主眼としたものがあった。(ただし、位置の情報はかけない)。そのような記者に虐殺の認識が乏しいのは当然であった。これに対して、カメラマン、技師の一部はそのようなイデオロギーに関係なく事実を見ており、虐殺に関する証言が多い。また、記者にあっても陸軍付きの記者より海軍付きの記者のほうが虐殺に対する感覚は鋭敏であった。

2.殺戮やその跡を見ても証言をしていない
  1. 捕虜や敗残兵の処刑を戦闘そのものであるとする見方があった。
  2. 捕虜の処刑が違法であるという認識を欠いたものがあった。
  3. 戦争とはこんなものだという考えがあった。
  4. 中国兵に対する憎しみ、中国人に対する蔑視感からなんとも感じない。
当然、国際法の捕虜に対して取扱規定に詳しいものは処刑に対してより疑問を持った見方をしている。
  
3.虐殺は民間人、あるいは便衣兵の疑いによる摘出、移送、殺害と作業が分担、区分けされその一部を見ても虐殺の一部であるとの認識が生まれにくい。

4.比較的少数の殺戮の現場を見たり、その痕跡を見ても大虐殺との認識に達しない。

5.阿羅の不適切なインタビュー方法
  阿羅は南京において何があったのか、何を見たのか、聞いたのかという偏らない検証ではなく、「虐殺があったか」「虐殺をみたか」「虐殺があったという話を聞いたか」「大虐殺はあったか」という聞き方をしている。これは証言者が虐殺の認識を持っていたか、どうかの聞き取りである。この聞き方では証人が虐殺というものをどう認識していたかによって答えは異なる。虐殺があったかどうかは証言が提示する事実の再構成によって著者ならびに読者で判断されるべきものである。

6.他者の虐殺証言の否定、あるいは撤回発言について
  いくつかの虐殺証言者を引き合いに出して否定させるよう努力したあとが伺える。その手法は証言者の人格攻撃を主としたものである。その当人が当該事実について発言したということは人格攻撃によって崩れるものではない。撤回発言の場合も前証言をすべてうち消すだけの内容に乏しい。私は、いくつかの前証言、肯定証言を発見・提示することが出来たので、うち消すに足る内容を持った証言を阿羅が提示したかどうか見て欲しい。

7.国際的なものの見方を学んだ日本人は外交官の発言など阿羅本にない種類の証言例をあとで掲げる。

--------------------------------------
 以下、阿羅本の記述を中心にどこを読みとるべきか、提示する。ところで、田中正明の著書の引用はどこまでであろうか。阿羅本と内容がダブるのはなぜなのだろう。

1)120人の報道員とスメラマンは何をみたか
■東京日々新聞 五島広作氏
 谷寿夫師団長付きの従軍記者である。「師団の司令部にいて師団長と行動を共にすることが多かった」。つまり、現場ではなく師団の中央にいて大所高所の方針を報道しており、虐殺行為は見ていないというのが正しい。記者仲間の話にも「出なかった」というのは、そうであろう。《このことは後述する》

■石川達三
 阿羅は<実刑を受けた石川氏の言葉だけに重みがある>と言いますが、氏が実刑を受けたのは日本軍の残虐さを隠すことなく書いたからであり、「虐殺がなかった」などと書いたためではありません。阿羅=畠中氏は実際には病気入院中のため会えず、手紙での取材であったと書きながら、「世界と日本」でインタビューのような体裁を取りながら書くのは発表形式として不誠実のそしりを免れません。読売ではあれほど雄弁に書いたものが、阿羅の質問にはほんの数行の木で鼻をくくったような返事の「手紙」しか返していないのは解せないことです。捏造の疑いさえ浮上します。石川はまだ、南京事件の全容が裁判を通して始めて日本で明らかになる前に、既に次のようなインダューを残しています。

★昭和21年5月9日 讀賣新聞 (木曜日) 第24911号 3版(2)☆☆
裁かれる殘虐『南京事件』<見出し>
  河中へ死の行進
  首を切つては突落す <小見出し>
<以下、石川発言>
 兵は彼女の下着をも引き裂いたすると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた、みごとに肉づいた胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた…近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた…彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―"生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大變なものだつた、大きな建物へ一般の中國人數千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた。また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使うのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中國人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した戰争中の昂奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、三重縣からきた片山某といふ從軍僧は讀経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に珠數をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その數は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師團長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡單に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか。ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師團長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた。何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ

■朝日新聞 橋本登美三郎氏
  このひとは記者15人を束ねる立場であって、現場に出向く立場でなかったことは阿羅本から読みとれる。中島師団長付きだったから、軍上層部の情報を収集する立場である。それにしても具体的な発言内容が乏しく、インタビューの意味がない。

■朝日新聞 足立和雄氏
数十人の中国人の処刑を目撃し、百人単位、二百人単位の処刑の可能性も指摘している。足立氏と行動を共にした友人の記者である守山義雄氏の文集には下記のような文を寄稿している。これも阿羅が引きだした「南京大虐殺はなかった」という証言とは趣を異にする。

★『守山義雄文集』より引用
---------------------
昭和十二年十二月、日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集まってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。
朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命
を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。”便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。
「悲しいねえ」
私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。 「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。
内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。(朝日新聞客員)

★ドイツ哲学者篠原正瑛氏の回顧録より引用
-------------------------
戦時中、私は留学生としてドイツに滞在していたが、その頃東京朝日新聞のベルリン市局長をしていた守山義雄氏から、南京に侵入した日本人による大量虐殺事件の真相を聞いたことがある。

守山氏は、東京朝日の従軍記者として、その事実をまのあたりに見てきた人である。
南京を占領した日本軍は、一度に三万数千人の中国人、しかもその大部分が老人と婦人と子供たちを市の城壁内に追い込んだ後、城壁の上から手榴弾と機関銃の猛射を浴びせて皆殺しにしたそうである。
そのときの南京城壁の中は、文字通り死体の山を築き、血の海に長靴がつかるほどだったという。守山氏は、このような残虐非道の行為までも、「皇軍」とか「聖戦」とかという偽りの言葉で報道しなければならないのかと、新聞記者の職業に絶望を感じ、ペンを折って日本へ帰ろうかと幾日も思い悩んだそうである。

(『西にナチズム、東に軍国主義』日中文化交流157号)

2)南京入城者の証言
 #雑誌『正論』からの引用らしいが、すでに出版した自分の本の再録とは阿羅も図々しい。

■大西一大尉
長参謀の「(やっちまえという虐殺)命令」の否定について
  大西氏から「聞いていない」という発言を引き出している。しかし、阿羅本にも「偕行」にある角良晴少佐証言、田中隆吉「裁かれる歴史」にある証言がある以上、大西大尉だけが聞いていなかったという可能性を否定出来ないわけである。例によって田中隆吉の態度がおかしいと人格否定発言を引き出しているが、これは事実関係とは無縁である。
阿羅本の岡田尚のところには長勇参謀が「捕虜は殺してしまえ」「戦争なんだから殺してしまえ」と暴言を吐いたことを証言している。暴言であっても、配下の将校にとっては命令としか聞こえないであろう。また、この発言に対して注意する将校もいなかったと証言している。

中島今朝吾師団長の「捕虜はせぬ方針なれば」
この発言を「銃器を取りあげ、釈放せい」という意味だとする否定論者の発言は多い。実態としてそのように釈放された例は本多勝一氏が「中国の旅」で紹介する一例だけであり、その中国人部隊も他の日本軍部隊に再び捕まって全員殺されており、一切、実行されなかったのに等しい。

中島の示した方針はそうだったかも知れないが、より下級の将校に達するときにはすでに下記のような指令に変質していた。上級の命令だからそれがすべてを支配したわけではなく、下級将校が暴走するのは日本陸軍の常であって、兵士に伝えられた命令がどういうものであったかが重要なのだ。

以下5件は『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』より引用
-----------------------------
★一六師団の大島副官「二百あろうと、五百あろうと適当のところへつれて行ってころしてしまえ」敗残兵の処理を聞かれたさいに、田中日記より(一六師団歩兵大三十三連隊第一大隊 田中次郎)

★松井岩根大将が、この地方(上海の白茆口)についたとき、あらゆる者は殺せと指示したと聞きました。<注 松井司令官がこれを言ったとは考えにくいが、下にはそう伝わったと言うこと>

★「その時、私は上からの命令文を見ました。『支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。」(一六師団歩兵大三十三連隊第三機関銃中隊 依田修) 

★「掃討をやる時は中隊長か大隊長の指揮によってです。注意事項というものはなく『戦争に耐えると思われるような者は全部ころしてしまえ』」田中次郎

★「掃討の時、『各戸をもれなく掃討すべし、外国の権益ある家に潜入する敵ある時は、臨検可』と師団命令がありましたで」(一六師団歩兵大三十三連隊第三大隊 沢田好治)

■岡田尚通訳官
通訳官という地位のためか、虐殺に対する認識は鋭い。十二月十二日の湯水鎮での千人から二千人の捕虜刺殺、下関にある数百の死体を証言している。

■岡田酉次少佐
経済工作の担当者であり、戦闘や虐殺に対する関心が低く、現場に出ていない。

■東京日々新聞カメラマン 佐藤振寿
  十二月十四日に蒋介石直系の八十八師の建物前で日本兵が中国兵を銃剣で殺しているのを目撃している。また、難民区に入ろうとすると中国人から「日本の兵隊に難民区の人を殺さないように言ってくれ」と嘆願されている。十六日には難民区から便衣兵の摘出をしているのを目撃している。
  ところで「多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まっていた」のは虐殺がなかった何の証拠にもならない。逆に腕章でも付けていないと何をされるかわからない状況だったということを示しているだけである。

★『南京戦史資料集 2』偕行社 より引用
   南京に派遣されていたカメラマンも虐殺現場を目撃しながら、撮影はせず、
 報道もしなかった。東京日々新聞(現毎日新聞)の佐藤振壽カメラマンは、南
 京市内で敗残兵約100人を虐殺している現場を目撃したが、「写真を撮って
 いたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と述べている。

■同盟通信部映画部カメラマン 浅井達三
  カメラマンとしていろんな場所を見ている。兵士の徴発物、銀行の略奪、便衣隊の手榴弾運搬、中国人200-300人の列、難民区以外に住む中国人は表に出ない、紅卍字会、中国人は日本軍を怖がっていた、死体は撮らない(撮っても掲載はされない)、やらせ写真について、パネー号沈没など。正確な観察がある。

「中国人が城内を列になってぞろぞろ引かれていくのは見ています。その姿が目に焼きついています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えている者や、難民となって南京にのがれてきた農民もいたと思います。手首が黒く日に焼けていたのは敗残兵として引っ張られていったと思います」
-それはいつ頃ですか。
「昼でした。二百人か三百認可の列で、その列が二つか三つあったようです」

敗残兵や便衣隊をやるのが戦争だとおもっていたので、記者仲間では虐殺ということは話題にならなかった、という発言がある。

言及された白井カメラマンの発言を紹介する 
★白井茂(映画カメラマン・東宝記録映画『南京』撮影者)

 「中山路を揚子江へと向かう大通り、左側の高い柵について中国人が一列に延々と並んでいる。何事だろうとそばを通る私をつかまえるようにして、持っているしわくちゃな煙草の袋や、小銭をそえて私に差出し何か悲愴なおももちで哀願する。となりの男も、手前の男も同じように小銭を出したり煙草を出したりして私に哀願する。延々とつづいている。これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。だから命乞いの哀願だったのである。それがそうとわかっても、私にはどうしてやることも出来ない。一人の人も救うことは出来ない。
  柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。一人の兵士は顔が真赤に血で染まって両手を上げて何か叫んでいる。いくら射たれても両手を上げて叫び続けて倒れない。何か執念の恐ろしさを見るようだ。 見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある。(中略)よく聞かれるけれども、撃ってたのを見た事は事実だ。しかし、みんなへたなのが撃つから、弾が当たってるのに死なないのだ、なかなか。そこへいくと、海軍の方はスマートというか揚子江へウォーターシュートみたいな板をかけて、そこへいきなり蹴飛す。水におぼれるが必ずどっか行くと浮く、浮いたところをポンと殺る。揚子江に流れていく。そういうやりかただった。
  戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相がそれから幾日も幾日も心に焼き付けられて忘れることが出来ないで困った。私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の目にした一駒なのであるが、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争をやらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。」
■報知新聞 田口利介
百人斬りの曹長について。「中国人と見ると必ず銃剣でやっていて、殺した中には兵隊じゃない便衣のものもいたと言います。」長参謀についてきかれて「私のような海軍記者から見ると、一般に陸軍の参謀は命令違反は平気ですね。佐藤賢了(中将)、富永恭次(中将)はその典型で、長勇もそんな一人だと思いますよ」の発言が興味深い。

海軍の従軍記者岩田岩二氏が遅れて砲艦で南京入りしたが、「彼は南京が近づくと無数の死体が流れてきたと言っていました。」

■同盟通信無線技師 細波孝氏
12月14日、湯山の近くに1万人が竹囲いの中にいた。湯山では窪地のようなところで何人か捕虜をやったと聞いた。
下関のトーチカに20-30人ずつ捕虜をつめ込んで焼き殺したと思う、そういうのを3-4つ見た。
中山門に通ずる通りで捕虜の移送を見た。八列縦隊で50m位で区切っていくつかありました。湯山の捕虜を何回かに分けて移送したと思う。捕虜は顔が青白く、三途の川を連れていかれるようなものだったな、と捕虜の殺害現場の下関に着いて思った。
12月15日か16日の朝早く、(あるいは同僚だった深沢氏の証言では17日夕かも知れない)下関では湯山の捕虜と思われる死体を見た、1万人をやったと思う、見たのは終わりの方で江岸にあった死体は流されたとらしく、実際に見た死体は百人位である。

#考察
記者と違って見たものをありのまま語っており、貴重な証言と言える。捕虜の収容、移送、殺害現場という流れを見ているので事態がよく把握される。下関に行ってからはじめて移送中の捕虜の顔が絶望的な表情だったのを思い出している。他の報道員にしても移送だけを見ていたとしたら、何の印象も残さず、証言に至ることもなかっただろうと思われる。また、国際法で捕虜を処刑してはいけないということを知っていたことが具体的な証言をしたことに繋がっている。この細波氏にして「死体に免疫」になっており、他の報道仲間で話題にしていないくらいだから、彼のほかの報道員が話題にしなかったのは当然と言える。また、下関には車に同乗して行っている。次の小池記者が「車を持っていなかったので行動半径は限られていた」というのと対称的である。すなわち、行ってないところのものは見ることが出来ず、証言もないのである。また、捕虜の処刑に関して「やっているところは(軍は)見せなかっただろう」としているのも重要である。

■都新聞 小池秋羊記者
  陥落当初に血まみれの民間人が彷徨っていた、陥落当初に難民区に隠れていた敗残兵は補助憲兵が連れだしていたが、その家族が兵隊でないと補助憲兵にすがっていた、10-20人とまとめて連行した。中央ロータリーの死体、ユウ江門のぺちゃんこの死体、下関のドックの何十体の死体を目撃。
「南京全体を見ていた訳ではないので見ていない場所で虐殺があったといわれれば否定はできません」

■読売新聞 樋口哲雄記者
「入城式のあとはブラブラしていた」
遊んだ話が多く、戦闘の話も出てこない。中央ロータリーの死体は長くほおってあったのだが、それにさえ触れていない。

■東京日々新聞 金沢喜雄カメラマン
クリークで何度も死体を見た。殲滅・包囲したためである。南京城内でも難民死体の存在は当然。虐殺は記者仲間でも話題になっていない。

■読売新聞 森博カメラマン
捕虜を江岸に行って放そうとしたが、結局ころした。岸が死体でいっぱいだったと聞いた。上の命令でやったのではなく下士官が単独でやったと思う。分隊長クラスあるいはその上も知っていたかもしれない。

陸軍の下士官の中にはには上官を上官とも思わず馬鹿にしているのがいた。

南京戦の後、下士官から捕虜を斬ってみないかと言われたことがある。やらなくてもいいことをやった。

略奪、放火もやっていた。南京の事件を話題にしたことはない。

■谷田勇大佐
  第百十四師団麾下の部隊の戦闘詳報に捕虜を処刑せよという旅団命令があったかという質問に対して「そんな命令をだすはずがない」谷田氏は捕虜担当であり、「捕虜は国際法規に従って処理すべきだと考えていた。」
十二月十四日十一時十三分頃<中華門付近にはほとんど死体なし。四時に下関に行ったが、埠頭には二千人か三千人死体があった。軍服を着たのが半分以上で普通の住民もあった。戦死体ではなく、城内から逃げたのを第十六師団が追いつめて撃ったものと思う。建物がまだ燃えていた。写真あり。十九日には南京を離れたが、それまでなら死体数は数千ないし一万程度。

莫愁湖にも十人以上の死体があった、軍人か市民かはっきりしない、半分ずつかもしれない。

十四日午後にユウ江門を通ったが死体はなかった。写真あり。雨下台にはなかった。
長参謀は虐殺命令のようなことを言いかねない、しかし成文として命令を出したとは思われず、隷下団隊の参謀に口頭で伝達したのでしょう。噂は長く耳にした。

■吉永朴少佐
  十六、七日頃下関の埠頭で数千人の死体をみた。軍服を着ていない死体も相当あった。軍服でない死体が吊してあった。

第十軍は迅速であったため「糧は敵に依る」はやむを得なかった。

■金子倫介大尉
南京には一-二泊であり印象は薄い。南京では何も見ていない。

■報知新聞カメラマン 二村次郎
  南京城にはいってすぐ長方形で、長さが二,三十メートルくらい、1メートルの深さの穴が掘ってあった。

昼間数百人の捕虜が数珠つなぎにして連れていかれるのをみた。

(3)作家・評論家の南京視察記については資料がなくコメントできない。

以下に、当時の記者、外交官、軍人の南京に対する認識を掲載する。

★第十三師団会津若松第六十五連隊従軍記者 秦賢助氏の回想録
 虐殺事件は、15日の午後から夜にかけて頂点に達した。この日、南京市街を太平門に向かって歩いていく捕虜の行列があった。おびただしいその数は、二万を数えられた。これぞ白虎部隊が、南京入城に際してお土産に連れて来た大量捕虜であった。果てしない行列の前途に待っている運命はまさに死であった。「花の白虎部隊」とまで謳われたこの部隊の捕虜になった彼らを虐殺したのは、果たして白虎部隊の過誤であっただろうか。
人情部隊長とまで言われた両角大佐の意図であっただろうか。それとも、師団長である荻洲部隊長荻洲立兵中将が選んだ処理方法であったろうか。

 軍司令部からは、何回か中央(陸軍省・参謀本部)に請訓された。最初の訓電は「宜しく計らえ」であった。漠然たるこんな命令では、処理のしようもない。重ねて求めた訓電でも、「考えて処理せよ」である。どう考えていいのか迷って、三度目の訓電には「軍司令部の責任でやれ」と命令してきた。軍司令部では、中央の煮えきらぬ態度と見た。
朝香宮中将を迎えての入城式を前にひかえて、軍司令部は焦った。「殺しちまえ」この結論は造作なく出た。すでに城内では捕虜を殺しているし、一兵の姿も見ないまで、残敵を掃蕩し尽くしている。それに、二万の捕虜を、食料も欠乏している際、そうするしかないと考えるに至った。しかし、両角大佐はさすがに反対したという。
 わが手に捕らえて、武装は解除しても、釈放して帰郷させたい肚には変わりがなかった。けれども主張は通らない。部隊長といっても一連隊長にすぎない。それにどの部隊も、大陸戦線において、連戦連勝、有頂天勝っていたのだから気も立っていたのだろう。何でもかんでもやることになった。
(『捕虜の血にまみれた白虎部隊』日本週報398号)

★石射猪太郎氏(外務省東亜局長)の回想

南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取り締まりの用を為さない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。一九三八(昭和一三)年一月六日の日記にいう。

上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。(略)

これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私は当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。
石射猪太郎『外交官の一生』

★重光葵(外交官・事件当時、駐ソ連大使)
「しかし、駐支大使として南京に赴任(一九四二、一)して南京事件の実相を知るに及んで、我軍隊の素質、日本民族の堕落に憤りを発せざるを得なかった。
 日支間の融和を以て東亜の安定および世界の平和の基礎であることを信条としている記者(筆者)にとりては、南京事件を筆頭とする支那に於ける日本軍隊の行為には云ふべからざる悲痛の感を抱かされた。或は支那の他の部分、広東、香港はもちろん、南方方面即比島、馬来その他も推して知るべきのみと深く考えさせられた。さらにまた軍隊のみでなく、軍隊に便乗している実業家、在留民も軍隊に劣らぬ実績を有つものの少からざるに至って殆ど絶望感を抱くに至り、此戦争が敗北に終わっても日本民族として尚正義を主張し得る立場を残さねばならぬことを痛切に思った」
  (重光葵『続 重光葵手記』(中央公論社 1988)より)

★法眼晋作(外交官・元外務事務次官・元国策研究会理事長)
 「電信専門の官補時代に最もショックを受けたのは、南京事件(後述)であった。敗走する中国軍を追って南京を占領(昭和十二年十二月十三日)した日本軍が、筆舌を絶する乱暴を働いた事実である。あまりに乱暴狼藉がひどいので、石射猪太郎東亜局長が陸軍軍務局長に軍紀の是正を求め、広田外相も陸軍大臣に強く注意して自制を求めた。軍は参謀本部二部長・本間少将を現地に送って、ようやく事態は沈静に向かった。
  戦後現在に至って、南京事件の事実を否定し、これがため著書を発行したり、事実無根との訴訟を起こす者も出てきた。また、被害者の数を問題にする者もいる。残虐行為は被害者の数が問題なのではない。私に理解できぬのは、この世界を震駭(しんがい)し、知らぬは日本人ばかりなり (当時、報道が軍の厳重な統制下にあった)と言われた大事件を、如何なる魂胆かは知らぬが否定し、訴訟まで起こす者のいることで、このようなことはまことに不正明なことと言わねばならぬ。
 盗人猛々しいくらいの形容詞では足りぬ。歴史的事実はいかなるものであれ、事実として認めるほうが宜しい。さもなくば、日本は事実を秘匿し始めた、将来またやるかも知れぬ、と案じる外国人 も出てこよう。この未曾有の事件を否定すればするほど、日本の恥の上塗りとなるくらいのことは、常識であると思う」
  (法眼晋作『外交の真髄を求めて』(原書房 1986)より)

 ※法眼氏は元産経新聞本紙「正論」執筆メンバー


 以上、阿羅本がどういう手口で証言を集めたか、そこから何が見えるかを明らかにした。虐殺の否定本と称される本書においても虐殺の証言はそこここに見られるのである。反論資料も掲示したが、これはほんの序の口である。なぜなら、本書は主として残虐行為を時間的、空間的に遠い場所から観察したひとたちの証言であり、残虐行為の実行者たる兵士の証言、残虐行為の被害者証言を併せて、読まないと南京事件の全体像は明らかにならないからである。

12月24日に部分的に加筆・訂正しました。なお、岡村寧次大将の資料は分量が多いことと、事件以後の部分が多いことにより削除しました。
http://pipponan.fc2web.com/shikosakugo_09/shi_2774.htm


阿羅健一批判の補遺


阿羅は南京大虐殺を肯定した記者などの発言に対し、その否定証言を求めてインタビューをしています。今回、石川達三、鈴木二郎、前田雄二、今井正剛などの肯定発言、長勇中佐の言動についての補強証言を発見しましたので紹介します。

総じていえることは阿羅健一が意図的に否定証言をしているものを選んでインタビューをしていることと、阿羅本の内容を持ってしても、いったん肯定証言をしたものたちの発言そのものを覆すに足る、新発言を得ることは出来なかったこと、そして肯定証言は日本人証言者だけでもこれに数倍、数十倍の規模で存在することです。
-----------------------------------
■石川達三は東京裁判の閉廷後のインタビュー
「読売新聞」1946年5月9日付けの記事から
 入城式に送れて正月私が南京へ着いたとき街上は死屍累々大変なものだった。大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶絶させた。また武装解した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬った。しまいには弾丸を使うのはもったいないとあって、揚子江岸へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるようにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切って河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のような捕虜が戸板や机に捕まって川を流れて行くのを下流で待ち構えた駆逐艦が機銃の一斉射撃で片っぱしから殺害した。

■徳川義親
日本軍に包囲された南京城の一方から揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮になったという。長中佐が自慢気味にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、「長、その話だけはだれにもするなよ」と厳重に口止めしたという。(徳川義親『最後の殿様』)《藤田とは藤田勇のこと》

■東京日々新聞 鈴木二郎
わたしはふたたび中山門に取って返した。そこでわたしははじめて、不気味で、悲惨な、谷量虐殺にぶつかった。二十五メートルの城壁の上に、一列にならべられた捕虜が、つぎつぎに、城外に銃剣で突き落とされている。その多数の日本兵たちは、銃剣をしごき、気合いをかけて、城壁の捕虜の胸、腰と突く。血しぶきが宙を飛ぶ。鬼気せまるすさまじい光景である。
神経の凍る思いで、その場を去り、帰途にふたたび『励志社』の門をくぐってみた。さきほどは気づかなかったその門内に、一本の大木があり、そこに十名余の敗残兵が、針金でしばりつけられていた。どの顔も紙のように白く、肌もあらわにある者は座り、ある者は立って、ウツロな目で、わたしをジッと見つめた。そのとき、数人の日本兵がガヤガヤとはいってきた。二,三人がツルはしをもってたっていたので工兵と知れた。そばに立っているわたしには目もくれず、そのなかの一人が、その大木の前に立つと、「こいつらよくも、オレたちの仲間をやりやがったな」とさけぶや、やにわに、ツルはしのさきが"ザクッ"と音をたてて刺さり、ドクッと血がふきだした。それをみたあとの数人は、身をもがいたがどうすることもできず、ほかの兵の暴力のなすがままになってしまった。・・・この捕虜のなかには、丸腰の軍装もあったが、市民のソレとわかるものもいた。
(鈴木二郎「私はあの”南京の悲劇”を目撃きした」-南京入城直後〔十二月十二日のことらしい〕の記事)

■同盟通信記者 前田雄二
 軍官学校で”処刑”の現場に行きあわせる。後者の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引き出し、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き抜く。悲鳴をあげて壕に落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっているのだ。引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫び立てる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育だ」という。壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。・・・・交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。私は辛うじて十人目まて゜見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。・・・午後支局[同盟通信社の野戦支局]を出ると銃声が聞こえる。連絡員の中村太郎をつれて、銃声をたずねていくと、それは交通銀行の裏の池の畔だった。ここでも処刑が行われていたのだ。死刑執行人は小銃と拳銃を持った兵隊で、捕虜を池畔に立たせ、背後から射つ。その衝撃で池に落ち、まだ息があると上からもう一発だ。・・・「記者さん、やってみないか」兵隊を指揮していた下士官が、私に小銃を差しだした。私は驚いて手を引っ込めた。すると、中村太郎に、「君はどうだ」と従すすめる。中村はニヤリと笑ってそれを受けとり。捕虜の背中に銃口を接近させると引き金をひいた。ズドンという音とともに男は背中を丸めるようにしてボシャンと池に水しぶきをあげた。それきりだった。(前田雄二『戦争の流れの中に』-十二月十六日の記事より)

■東京朝日新聞 今井正剛 
「先生、大変です、来て下さい」血相を変えたアマにたたき起こされた。話をきいてみるとこうだった。すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人ともへいたいじゃないのだから早く言って助けてやってくれというのだ。アマの後には楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員・・・と私はあわてふためいて飛び出した。支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。その塀に向かって六人ずつの中国人が立つ。二三十歩離れた後から、日本兵が小銃の一斉射撃、ウーンと断末魔のうめきが夕陽の丘いっぱいにひびき渡る。次、また六人である。つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされていくのを、空地にしゃがみ込んだ四五百人の群れが、うつろな目付でながめている。・・・そのまわりをいっぱいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。・・・ 傍らに立っている軍装に私たちは息せき切っていった。「この中には兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」。硬直した軍曹の顔を私はにらみつけた。「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」、「どいつだかわかりますか」、「わかる。女房がいるんだ。呼べば出てくる」。返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声を上げて女房が呼んだ。群衆の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳位の青年が飛び出してきた。・・・。たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群衆を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群衆が殺到した。「まだやりますか。向こうを見たまえ。女たちが一ぱい泣いているじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」。私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君は空地から離れた。何度目かの銃声を背中にききながら(今井正剛「南京城内の大量殺人」十二月十五日の記事より)
http://pipponan.fc2web.com/shikosakugo_09/shi_2774.htm

 秦郁彦の阿羅批判


 南京事件論争に詳しい歴史家の秦郁彦は『昭和史の謎を追う(上)』(1993)の中で阿羅氏の著作についてこう発言している。

---------昭和史の謎を追う(上)------------------
 「十二年十二月と十三年一月に南京にいた人に聞けば本当のことがわかるのではなかろうかと考え」て、軍の幹部百五十人、報道関係者三百人、外交関係者二十人ぐらいを探し、うち六十六人をヒアリングの対象者にしたとある。
その精力的な東奔西走ぶりは感服するが、「数千人の生存者がいると思われる」兵士たちの証言は「すべてを集めることは不可能だし、その一部だけにすると恣意的になりがちだ。そのため残念ながらそれらは最初からカットした」という釈明には仰天した。筆者の経験では、将校は概して口が堅く、報道、外交関係者は現場に立ち会う例は稀で、クロの状況を語ったり、日記やメモを提供するのは、応召の兵士が大多数である。その兵士も郷土の戦友会組織に属し口止め指令が行きわたっている場合は、いいよどむ傾向があった。 《中略》 阿羅は最初から兵士にアプローチするつもりはなかった、と宣言しているのだ。その結果、阿羅の本は「虐殺というようなことはなかったと思います」、「見たことはない。聞いたこともなかった」、「聞いたことがないので答えようもない」式の証言ばかりがずらりと並ぶ奇観を呈している。ここまで徹底すると、クロを証言する人は避け、シロを主張している人だけをまわって、「全体としてシロ」と結論づける戦術がまる見えで、喜劇じみてくる。

--------引用終わり-------------------------

私と違って実際にいろんな証言者から聞き取り調査をしているだけあって、阿羅が証言者を選り好みしている様をはっきりと批判している。
http://pipponan.fc2web.com/shikosakugo_09/shi_2774.htm

 外務省
 「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/
6. 2016年11月14日 11:42:20 : Oew8aCqKMY : @SpEy3Kzx1M[323]
南京虐殺を否定する“歴史修正主義新聞”産経が「旧日本軍が婦女子も虐殺」「犠牲者は40万人」と報道していた(リテラ)
http://www.asyura2.com/16/senkyo215/msg/749.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 11 月 11 日

「韓国人慰安婦を強制連行」と書いたのは朝日でなく産経新聞だった! 植村記者に論破され阿比留記者が赤っ恥(リテラ)
http://www.asyura2.com/15/senkyo193/msg/678.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 9 月 26 日

この件でも朝日以前に「ねつ造記事」を書いてるのは産経なんだが、この筆者はなぜそれに触れないのかな?

8. 2016年11月14日 13:18:30 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[993]
3 非戦闘員の組織的・無差別的虐殺の新証言
 ・・・
 長勇は、独断で一般市民大虐殺の命令を発しただけでなく、実際に現場で、実行をひるむ兵士を非常手段でもってけしかけたことを、やはり自ら語っている。長はその事実を藤田勇に秘話し、藤田がまた、これを徳川義親に語っているのでる。徳川義親は1973年に著した自伝『最後の殿様』(1973年、講談社)で、その伝聞をこう述べている。

 《ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮をおこなった。殺戮の内容は、10人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかいうようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時僕が聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であることを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。
 藤田君は、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青帮との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橋本欣五郎中佐の子分になって、10月事件では、橋本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田くんを大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ2人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。

 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して「人をころすのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、 「長、その話だけはだれにもするなよ」と厳重に口どめしたという》(172~173ページ)

http://blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/7ab687849fc75420c26361665a40bef2
____________________________________________________________________________________

 この筆者や>>3のような“ウヨ”が、どんな必死に屁理屈こねて弁解しようと「ウヨ連中の言う事」 など、まともな一般国民は まったく信用しないでしょうな。都合の良いとこだけ切り取って 殊更にそれを強調し 軍国日本の馬鹿さ愚かさを包み隠す。そんなのは 彼らウヨ連中の 常套手段である事は常識であり 賛同を得る事はほとんどない。● だから、ウヨ連中が、何千何万という単位のデモを 成し得た試しは ただの一度も無い ●

 どんなに屁理屈こねようとも 日本政府は 人数についてはともかく 公式に南京事件の存在を認めており旧陸軍の親睦団体である偕行社までもが 独自の調査の結果 公式に虐殺の事実を認め謝罪している。この二つの事実は 天地が引っくり返っても覆る事のない 厳然たる事実である 。そして、松井岩根陸軍大将の 絞首刑に処せられる直前に遺した言葉を よく噛み締めたまえネトウヨ諸君。

 松井は昭和23年(1948年)12月9日巣鴨拘置所において、戦犯教誨師花山信勝に次の言葉を残した[16]。

 南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入城の後、慰霊祭のときに、支那人の死者もいっしょにと私が申したところ[12]、参謀長以下、何も分からんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめ、あんなことをしたのだ。私は日露戦争のとき、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、支那人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とはまったく変わっておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが、せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。ところが、そのことのあとで、みなが笑った。はなはだしいのは、ある師団長のごときは、当たり前ですよ、とさえいった。したがって、私だけでも、こういう結果になるということは、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省をあたえるという意味で大変に嬉しい。せっかくこうなったのだから、このまま往生したい、と思っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9




(私論.私見)