南京事件の史的経過と政治化の過程 |
更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).4.18日
(れんだいこのショートメッセージ) |
60年間の、国内外の「南京大虐殺」事件の研究は、おおむね四つの段階に分けることができる。 |
【第一段階】 |
(30年代末から40年代の終わり頃、事件直後から敗戦前までの動き) |
事件直後にも一定、その後も隠然と「南京大虐殺」の残虐行為が伝えられていた。第二次世界大戦での日本軍の敗色濃厚になるに連れて、「南京大虐殺」が国内外で公然と語られるようになった。一連のドキュメント的なニュース報道、映像、専門書等の資料が出版された。それらは南京大虐殺事件の有力な証拠、南京大虐殺史研究の一連の貴重な歴史的史料となり、それ以降の研究の史料的基礎を固めた。 |
その1、中国内外の記者の当時の現場のニュース報道 |
日本軍が南京に侵攻し占領したとき、南京にはアメリカ、イギリスなどの外国人記者が留まっていた。ダーディン、スティール、スミス、マグダニエルとパラマウント映画ニュースのメンケン撮影技師等である。彼らは日本軍の残虐行為を目撃した後、それぞれ、『ニューヨーク・タイムズ』、『シカゴ・デイリー・ニュース』、AP共同通信社、ロイター社等のメディアで事件の暴露を行った。その中で、最も早く南京大虐殺の情報を報道していったのはアメリカの記者のダーディンであった。1937.12.18日、彼が『ニューヨーク・タイムズ』で報道した「捕虜全員を殺害、南京での日本軍の残虐行為拡大。民間人も殺害、アメリカ大使館も襲撃にあう」という知らせで世界中の世論が沸騰した。続いてイギリスの『ザ・タイムズ』、ソ連の『プラウダ』等も相次いで報道した。 国外のニュースメディアが日本軍の残虐行為を暴露したのと同時に、中国内の『大公報』、『中央日報』、『新華日報』等も、日本軍の南京での残虐行為に対して、また大量の暴露と報道を行った。『新華日報』だけでも1938.1月から5月まで、日本軍の南京での残虐行為のニュースを10数編報道している。ちなみに、1937.12.25日の「シャンハイ・イブニング・ポスト」は「南京入城後殺人鬼と化せる日本軍」、1938.1.23日の広東の「中山日報」は「南京で殺害されたる支那人1万人以上、姦淫されたる婦女数8千~2万人」と報道されている。 |
その2、 南京に留まった中国人、外国人の手紙、日記および映像資料 |
当時、南京にいた外国人たちが、自分の眼で目撃した残虐行為を詳しく、いつわりなく記録し、手紙の形式で友人に知らせている。1938.3月、イギリスの『マンチェスター・ガーディアン』紙の中国特派員のティンバリーが、これらの資料をまとめて編集し『戦争とは何か-中国における日本軍の暴虐』(英文版)を発行した。この本の中国語版が1938.7月、漢口の民国出版社から発行され、郭沫若がこの本に序言を寄せている。彼は「このように公平で客観的な描写は、われわれ自身の手にはなりがたい。……ここには人類の同情が、それにもまして力強く正義の叫びがこもっているのだ」と述べている。 南京に留まった南京安全区国際委員会の委員で、国際赤十字会の南京分会委員長のマギー牧師は、16ミリカメラで、生命の危険を冒して、極めて秘密裏に日本軍の南京での残虐行為を撮影している。南京国際安全区の副総幹事のフィッチは、マギー牧師のフィルムを南京から上海に極秘に持ち出し、そこで四部のコピーをつくり、一部はドイツの外交官のローゼンに贈り、一部はイギリスの宣教師に送り、一部はアメリカに持ち帰り、一部は中国に残した。そのフィルムは世界中に日本軍の残虐行為を暴露した。このフィルムは1991年アメリカであらためて発見され、今日までに残された、当時、現場で撮された、南京大虐殺の動く映像になっている。 当時、南京にとどまり、身をもって体験し、自分の眼で日本軍の残虐行為を目撃し、逃げのびた南京の軍人や一般市民たちは、日記やドキュメントの形式で多方面に血なまぐさい日本軍の残虐行為を明らかにしている。その中には『陥都血泪録』、『陥京三月記』、『淪京五月記』、『血泪話金陵』、『地獄中之南京』等がある。 |
その3、日本側資料 |
日本軍の市民虐殺、掠奪を最初に記述したのは石川達三の「生きてゐる兵隊」で1938年に発禁となった。石川は「中央公論」の特派員として1938(昭和13).1.4日南京に乗り込んで、八日間の滞在中に第16師団歩兵第33連隊の兵士たちを中心に取材したのち、帰国して一気に「生きてゐる兵隊」を書き上げ、「中央公論」3月号の創作欄に掲載された。330枚のうち80枚が伏字ないしは削除されていたが、2.18日発売と同時に内務省から頒布(はんぷ)禁止処分通告された。石川と雨宮編集長は警視庁に連行され、8.4日起訴されている。 当時の日記としては、小川関治郎「ある軍法務官の日記」(みすず書房,2000年)も貴重資料である。 (軍の命令で整然と捕虜を殺戮することと、出会った市民を殺傷したり徴発と称して略奪することは別である) |
【第二段階】 |
(45年~48年、敗戦直後から極東国際軍事法廷までの動き) |
日本国内では、日本軍の南京での残虐行為について不問にしてきた。そのため、極東国際軍事法廷が日本の戦犯を裁判する前までは、日本国内のほとんどの人はこの事件について耳にすることはなかった。その理由として、事件肯定派は「報道管制が敷かれていた故」とし、事件否定派は「いわれるほどの事件が存在しなかった証拠」とみなす。 40年代中期、日本の戦犯裁判にともなって、極東国際軍事法廷と中国南京戦犯裁判軍事法廷は、南京大虐殺事件の調査と確認ををおこない、裁判の保存書類をつくった。これがまた南京大虐殺史の直接の資料にもなっている。 極東国際軍事法廷は南京大虐殺事件について専門的に審理を行った。南京大虐殺は、第二次世界大戦期間での日本軍による残虐行為の中でも最も際だった事件であったため、法廷はこの事件について審理して、一連の重要な保存書類をつくった。たとえば起訴状、調査して書面で出された百余件の証言と関係資料、伍長徳、梁廷芳、マギー、ウイルソン、スマイス、ベイツ等の中国および外国の証人の証言、検察と被告側の双方の問い質しと申し開き文や松井などの上申書、そして、1218ページにのぼる厖大な『極東国際軍事法廷裁判書』の中の「南京攻撃」と「南京大虐殺」に関する判決文等々である。 中国南京戦犯裁判軍事法廷は、B・C級戦犯に対して裁判をおこなった。法廷は1250人の受難者および当時南京で日本軍の残虐行為を目撃した外国人のスマイス、ベイツ等の証人を調べ証言を得た。法廷は当時の紅卍字会、崇善堂、赤十字会の報告、図表の綴じ込みおよび、南京の偽市長の高冠吾が霊谷寺に合葬した無主孤魂墓地の碑文を取得した。法廷は中華門、雨花台等で土盛りの墓五カ所を掘り起こして被害者の白骨や頭蓋骨数千体を発掘し、法医学の検査を経て書き入れられた鑑定書などの資料をえた。法廷はまた、日本軍が武功をひけらかすために自分で撮影した虐殺の写真16枚と、現場で撮影した皆殺しの映画などの犯罪の証拠を収集した。法廷には、審理した戦犯の谷寿夫、向井敏明等の起訴状および判決書等がある。これらはすべて中国侵略日本軍の南京大虐殺研究の重要な資料である。 |
【第三段階】 |
(1950年代から1970年頃まで) |
1951.9月に日本が連合国と調印した「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)の第11条には、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国国際戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」と明記されている。日本は、戦後世界に独立国として再出発するに際して東京裁判の判決を受け入れ、「南京暴虐事件」の事実を承認した。
極東国際軍事法廷が南京大虐殺事件について専門的に審理を行っていたにも関わらず、1950年半ばから1970年代に至るまで南京事件はさしたる話題にならず、教科書からも南京で残虐行為があったとする「南京大虐殺」の記述が消えていた。文部省の保守的検定によったとされている。70年代に至るまで、日本の新聞や出版でも、南京大虐殺に関する報道はさほど熱心ではなかった。事件肯定派は「事件がタブ視されてきた為」とみなし、事件否定派は「火の無いところには煙が立たない故」としている。 |
1965(昭和40).6月、当時の東京教育大教授・家永三郎氏が、高校歴史教科書「新日本史」を文部省の教科書検定に持ち込んだところ、南京大虐殺等々数箇所の記述を廻って書き換えを要求され、1967(昭和42)年、教科書検定是非裁判に持ち込んだ。(年月日についてはやや曖昧)。家永教科書訴訟は、検定制度の是非を争う形で起こされたが、「歴史教科書における南京事件の記述をめぐる裁判」ともなり、「南京事件の歴史認識を廻っての国家的国民的認識が問われる裁判」ともなった。裁判の審理と並行する形で、「南京大虐殺論争」が展開されることになった。 |
1967年、新島良友氏が南京を訪問した後、はじめて南京大虐殺に関する数編の文章が発表された。この後、早稲田大学の洞富雄教授が「近代戦史の謎」を書き、その中で多くのページを使って南京大虐殺事件を紹介した。 |
【第四段階】 | |||
(1972年、本多勝一氏による「中国の旅」が出版され、論議が起る) | |||
1971年、日本の有名な新聞記者の本多勝一氏が中国を訪問し、日本軍の残虐行為を受けた幸存者たちの取材をおこない、多くの保存書類と写真を収集し、帰国して1972年に「中国の旅」を出版し、朝日新聞にも連載され、日本国民の関心を呼び起こした。このとき、洞富雄氏は南京大虐殺に関する『南京事件』を新たに著し、二巻の南京大虐殺事件資料集を出版した。事件肯定派は、「ここに至って、数十年間の長い間埋もれてきた重大な歴史的事件の真相がやっと日本の人民の前にさらけ出されるようになってきたのである」と評価している。 | |||
これに対し、事件否定派からは、1973年、鈴木明氏による「『南京大虐殺』のまぼろし」(文藝春秋の文春文庫)が出版され、こうして両書の上宰が国内での南京事件論争の発端となった。同書は、第4回(1973年)大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。
西岡昌紀氏が2007/12/16日付で次のような「カスタマーレビュー」投稿をしている。
秦氏の「南京事件」P51が次のように解説している。
この後今日まで本多―洞サイドの虐殺派と鈴木サイドの否定派の論争が続いていくことになった。 |
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「ウィキペディア鈴木明」が次のように記している。
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【第五段階】 |
(80年代、日本の教科書問題が、南京大虐殺事件の論争を引き起こす) |
80年代に入って、日本の歴史教科書への戦前の軍靴の歩みの記述をめぐって、謝罪派と居直り派の見解が衝突するという事態が発生し、いわゆる「歴史教科書問題」となった。1982年、日本の文部省は、中・小学校の歴史教科書の検定で、侵略を否定し、南京大虐殺を否定する目的で、中国侵略を「進入」と改竄させたと新聞各紙が一斉に報道した。この報道が、中国や韓国からの抗議を誘発し、日本国内でも教科書問題が政治的紛争の目玉となる。(しかし、木村愛二氏の「憎まれ愚痴『百人斬り』言論詐欺批判」に拠れば、「これが実は誤報」で、当時の文部省の意向は認められるが、それに応じて書き直した出版社は、実は無かった、というのが真相のようである) この報道に対し、中国人民とりわけ南京市民の憤怒がわき起こり、続々と中国侵略日本軍による南京大虐殺史の編纂、記念館の建設と慰霊碑の建立の要求が生まれてきた。1983年11月から、南京市人民政府は市民の願いに応え、力を結集して、南京大虐殺史の全面的で、深く掘り下げた研究を展開していった。こうした流れを受けて、日本の事件肯定派の歴史学者による本格的な研究が開始され、数々の貴重資料の収集、研究成果が発表・出版され、、研究作業が系統化していく段階に入った。その都度、南京大虐殺事件をめぐっての論争が引き起こされることになった。 |
1982(昭和57)年、洞氏の「決定版・南京大虐殺」が刊行され、内外の文献と証言を集成し、本多と並ぶ「大虐殺派」の代表格になった。 |
南京事件調査会などが設立され、資料の発掘と収集が積極的に始まった。第一に、多方面から歴史資料を募り、収集した。様々な方法と、多くのルートを通じて、全市、全省、全国の大都市の公文書館、図書館、博物館、映画資料館、歴史学研究機関、総合・単科大学に手紙を出し、ネットワークをつくり、手がかりを見つけるや、専任者を派遣して重点的に個別訪問させ、南京大虐殺の資料の収集作業を広範囲にわたって行った。この効果は顕著だった。集まった主な資料には、①・二つの戦犯裁判を中心とした保存書類資料、②・当時、国内外で公に出版されていた新聞、図書の資料、③・当時の日本軍による虐殺の現場写真やフィルムの資料、④・日本軍の側が当時編纂し出版していた『支那戦跡』等の、一連の日本側の資料等々が収集された。 |
第二には、南京大虐殺の幸存者の全面的調査である。1984年3月から、五ヶ月近い時間をかけて、はじめて南京大虐殺の幸存者の全面的調査をおこない、幸存者、目撃者、被害者でいまなお健在な1756人を発見した。同時にまた、集団虐殺に遭い、被害の重大な多くの証人が見つかった。その中には、中山埠頭での集団虐殺の幸存者の劉永興、草鞋峡の集団虐殺の幸存者の唐広普、石炭港の集団虐殺の幸存者の陳徳貴と潘開明、一家九人のうち日本軍に七人虐殺された夏淑琴、日本軍の凶暴に反抗した李秀英などがいる。調査した幸存者については、証人の人名簿を編纂して出版し、被害の一覧表に書き込んだ。重要な証人についてはすべて個別訪問の記録をつくった。身体に傷跡のある人については、また、傷跡の写真を写した。 |
第三には、かつて「極東国際軍事法廷」と「中国南京戦犯裁判軍事法廷」に参加して裁判をおこなった重要な歴史の証人を訪問した。
(1)1964年、中国側から極東国際軍事法廷の仕事に参加した人たちを訪ねた。それは、担当司法官で、検察官の向哲俊、元中国検察官主席顧問の兒征安、首席書記の裘劭恒、書記兼通訳の周錫卿と高文彬、張培基、中国司法官の梅汝綾(故人)の秘書の楊寿林などである。楊寿林は当時の極東国際軍事法廷裁判の実況を写した写真帳一冊を快く提供し、全部で141枚の写真を、東京裁判研究のために重要な証拠資料として提供してくれた。 (2)1984年9月、わが国の駐パキスタン大使館職員の葉於康を紹介する過程で、はじめて彼の父親の葉在増がかつて当時南京戦犯裁判軍法廷で審理にあたり、現在は九江に住んでいることがわかった。われわれは、すぐに専任者を派遣し訪問し、その結果意外にも彼こそが南京大虐殺の主犯の谷寿夫を審理した担当の司法官であり、重要な歴史の証人であることがわかった。 |
しかし、事件否定派も黙ってはいない。1984(昭和59)年に田中正明著「南京虐殺の虚構」が刊行され、渡部昇一氏が「本書を読んで、今後も南京大虐殺を云いつづける人がいたら、それは単なる反日のアジをやっている左翼と烙印を押して良いだろう」と推薦文を添えている。 |
1985(昭和60)5月田中正明編「松井石根大将の陣中日記」が刊行され、松井大将の弁護を試みた。 ところが、1985(昭和60)11月板倉由明氏が、「歴史と人物」60年冬号の論文で、田中正明編「松井石根大将の陣中日記」が約900箇所にわたり、「南京事件の否定に向かって」改竄されている事実を詳細に論証し、その要点が朝日新聞の11.24、25日付けに報道され、大きな反響を呼んだ。 |
【家永教科書訴訟と判決を廻って】 |
1980年代になると家永教科書訴訟の判決に至る動きを廻って、謝罪派と居直り派の論争もかまびすしくなった。1980年代の初めにそれまで「侵略」と記述されていた箇所が「進出」に、「占領」が「対外膨張」などの曖昧な表記に差し替えられ、これに対し、中国、韓国、ベトナムなどのアジア諸国から強く抗議が寄せられることになった。つまり、国際的な「教科書問題」の発生となった。その結果、1982年頃から教科書検定において近隣諸国への配慮が為されることになった。 一方、この頃から「多くの教師が、たんに犠牲者としてだけでなく侵略者としての日本の役割をも重視するようになった」。つまり、この頃までは太平洋戦争の被害者としての意識が強くあったのに対し、加害者として過去の史実を洗いなおすという作業が始まった。 1984年「南京事件調査研究会」発足。 このような流れの中で上智大学英語学教授 渡部昇一が「進出」に書き替えたさせたことはない、「南京大虐殺」は20~30万の虐殺ではないと主張し始めた。田中正明の「南京大虐殺」否定論も、その後の「南京大虐殺」の全面否定論は、田中説に拠って展開されていくほど強い影響力を持った。その論旨は、すでに刊行されていた日中戦争資料集を使って、「南京大虐殺」は ①・東京裁判でのでっちあげ、②・戦闘員まで虐殺に含めている、③・便衣隊戦術を中国がとった、④・中国軍のした掠奪暴行などを日本軍のせいにしているなどにあった、等々展開していた。 この流れが、逆に事件肯定派の反発を生み、現在の「南京大虐殺」論争の原型が1980年代に作られる事になった。「南京大虐殺」に関する書籍の多くは1982年以降に出版されているのは、このような経緯による。 「20~30万の虐殺」の数字が問題となったのは1985年前後で、国際的にも1985年「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」開館、中国の「公式」の被害者推定が30万人とされました。1987年には「侵華日軍南京大屠档案」が出版されました。 教科書に犠牲者数が20万以上、中国では30万以上とされるという記述が現れたのは1980年代末です。(この記述は洞氏らの専門家による研究を反映したものです) |
【偕行社見解の変遷について】 |
この時に至るまで、「南京大虐殺」の被害者実数に対してはさほどされていなかった(これは抗日戦争を戦ったのが国民党ではなく、中国共産党であるとしてきた中国の国内事情もあるように思います)。 このような中で、陸軍の退役軍人・遺族の団体である偕行社が、1984(昭和59)年4月号より「偕行」誌上の「証言による南京戦史」で、「南京大虐殺」を全面否定をしようと会員に寄稿を求めたところ、南京で捕虜が組織的に多数殺害されたという参戦者の証言が寄せられ、全面否定はできなくなり、表現は微妙ながら 捕虜「処断」約16.000人、市民被害約15.000人に落ち着くことになった。 この編集委員の一人が板倉由明で、「約1万3千名の虐殺はあった」という説を採る事になり、「中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と総括した。板倉氏は田中正明「松井岩根大将の陣中日誌」が意図的に改竄されていることを最初に指摘した人です。 ちなみにこの時、加登川幸太郎氏は「3千ないし6千名の虐殺」と総括していた。 |
【第五段階】 |
(90年代、新資料が続々公開される) |
80年代の末以降、国内外の一連の新しい史料の発見と公表に従って、南京大虐殺の歴史的研究は次第に深化し、新しい段階に入った。 80年代末以来、中国だけでなくアメリカやドイツなどにおいても、相次いで「南京大虐殺」に関する史料が発見された。その中で主要なものをあげれば、1990年ドイツの公文書館ポツダム支所で見つかった『ローゼン報告』、1991年アメリカであらためて発見されたマギー牧師の映した日本軍の残虐行為の記録フィルム、かつて南京に留まり、金陵女子文理学院の代理校長のヴォートリン日記、鼓楼病院の医師のウイルソン日記、南京国際安全区副総幹事のフィッチの日記と手紙がさらに発見され、彼らはみな日本軍の南京での放火、殺人、強姦、掠奪を自分の眼で目撃したのである。 アメリカで、抗日戦争史実擁護会、祈念南京大虐殺受難同胞連合会等の組織が成立し、多くのアメリカ籍の中国系学者が団結した。彼らはまた学術シンポジウムを開き、テレビフィルムを撮影し、書籍を出版するなど、際だった成果をあげている。彼らはまた日常の組織活動を展開し、広範に南京大虐殺の史実を宣伝している。例えば中国系作家の張純如女史は、南京大虐殺に関する作品を書くために、一年余りの時間を費やし、幅広く資料を収集し、ついに『ラーベの日記』を捜しあてた。1996.12.12日、ニューヨークの祈念南京大虐殺受難同胞連合会が記者会見を行った席上で、ラーベの孫娘のラインハルト夫人によって『ラーベの日記』が世間に公開された。尹集鈞と史泳が編集して著した『南京大虐殺』写真集は、英文で南京大虐殺を全面的に紹介した写真集で、ヨーロッパ方面の読者に南京大虐殺についての理解を深めた。 |
このような動きに対抗するかのようにして、日本の歴史を見直す運動が1990年代になってから、東京教育大学教育学 藤岡信勝らによって開始された。 |
【木村愛二氏の登場による新たな波紋】 |
1998.4.15日、木村愛二氏が「『南京大虐殺』の大嘘」を世上公開している。この特異なところは、これまで「南京大虐殺」を廻って、これを史実とするいわゆる左派系とこれを否定する右派系という色分けで対立していたのに対し、左派系人士の側から「南京大虐殺」否定論が為されたことにある。木村氏の場合、ホロコースト問題も絡めて虚構説を採っており、いわばユニークな視点を提供している。 この木村氏と朝日新聞の花形記者・本多勝一氏とが、「南京大虐殺」論も含むいわゆる歴史観を介在させての訴訟に入っている。以下、この概略を整理しておくことにする。 |
【鈴木明・氏による「新『南京大虐殺』のまぼろし」刊行による新たな波紋】 |
1999.5月、鈴木明・氏による「新『南京大虐殺』のまぼろし」が刊行され、1973年、鈴木明氏による「『南京大虐殺』のまぼろし」(文藝春秋の文春文庫)以降の検証を披瀝し、新たな波紋が広がった。 鈴木明(本名は今井明夫)氏は、2003年7月22日、虚血性心不全により東京都目黒区の病院で死去した(享年77歳)。 |
「Yosihiro TurusakiFB」。 |
(私論.私見)