東京裁判の流れ

更新日/2021(平成31.5.1日栄和改元/栄和3).3.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2008.10.25日 れんだいこ拝


【1947年、東京裁判の流れ】
 1947.2.24日、弁護側反証が開始された。清瀬弁護人が冒頭陳述。

 9.10日、一般段階の反証が終わり、この日から個人段階の反証に入った(個人立証開始)。公判中に2名が病死、1名が病気で訴追から除外されたため被告は25名となり、広田弘毅首相ら9名が法廷戦術上の判断により証人として証言しなかった為に、実際にたったのは16名で、被告の対応もまちまちとなった。問題は、被告達は天皇に責任を負わさないよう反論せねばならず、検事側もそこに気遣うというかなり難しい反証を為さねばならないところにあった。

 個人弁護で受理された弁護側書証は約6百件、却下文書は140件以上、その他未提出文書も多く残された。

 この日、陸軍の政治関与を助長したと云われる荒木貞夫元陸相の弁護が始まった。

 続いて、奉天特務機関長の土肥原賢二被告の弁護が始まった。

 続いて、1937.12月、南京攻略戦の最中、揚子江を航行中の英国艦隊レディバード号砲撃事件を起こした元野砲連隊長の橋本欣五郎の弁護が始まった。

 続いて、日独伊三国同盟締結の責任を問われた畑俊六陸相の弁護が始まった。

 続いて、1937年の日中戦争勃発時の第1次近衛内閣の外相責任を問われた広田元首相の弁護が始まった。

 10.6日、日中戦争時の1938.6月から約1年間陸相だった板垣征四郎被告の弁護が行われた。山脇正勝元陸軍次官が証人に立ち、中国の*検察官が質疑した。「板垣被告が、中国での日本軍の軍規粛正に尽力していたか」が問われた。陸軍発行文書の「事変地より帰還の軍隊、軍人の状況」に記述されている帰還兵士証言の真実性が問題になり、山脇元次官は次のように釈明した。
 「わずかな事実を大きく誇張したり、噂に聞いたことを大袈裟に述べることもあった」云々。

 10.14日、55の訴因中、54訴因で訴追され、東条被告と並ぶ重要被告視されていた木戸幸一元内大臣の弁護が始まった。冒頭、木戸被告本人の約370Pに及ぶ長大な供述書が読み上げられ、ローガン弁護人が読み終わるまで二日半を要した。東条陸相の首相奏請経緯や戦局の分析、終戦工作の舞台裏の様子などが明らかにされた。天皇の開戦責任につき、次のように弁護した。
 「天皇は憲法上、内閣と統帥部の決定事項を拒否できない」。

 終戦工作につき、次のように貢献を強調した。
 「戦争の終結に当たって、私が聖徳のもとに於いて思う存分の活動を為し、日本本土が戦場となることを防ぎ、幾十万みの生命を救い得た」。

 木村兵太郎、小磯国昭被告の弁護が続いた。(略)

 11.6日、南京事件の責任者とされた元中支那方面軍司令官の松井石根被告の弁護が始まった。書証として南京攻略戦に参加した将兵の口供書が多数提出された。或る陸軍砲兵少尉の口供書は次のように証言していた。
 「上司から軍規風紀を厳粛にせよ、支那民衆を愛撫せよ、国際法を尊重せよと注意を受け、部下に徹底させていた。日本兵の虐殺その他の不法行為が頻発したようなことは聞いたことがない」。

 南京一番乗り部隊の部隊長の口供書は次のように証言していた。
 「私の部隊が占領した光華門では激戦が行われ、彼我ともに多数の死傷者があった。検察側証拠の埋葬人数の数字は、右の戦闘による日支両軍の白骨を算出の根基としている」。

 第16師団参謀長として攻略戦に参加した中沢三夫元中将口供書は次のように証言していた。
 「中国の戦場における略奪、破壊は、大部が退却する支旦軍に続いて乱入する窮民の常套手段」。
 (2008.10.22日付け日経新聞「東京裁判第3部個人弁護・結審編2」参照)

 11.12日、陸軍の武藤章、海軍の岡敬純被告の弁護が始まった。それぞれ日米開戦に反対であり、「最後まで日米交渉の妥結に尽力した」こと、日独伊三国同盟に対して反対だった云々と訴えた。

 11.21日、元駐独大使の大島浩被告の弁護が始まった。三国同盟を推進した責任が問われていたが、口供書で「私は何も彼らの思想ないし政策を全般的に肯定していた訳ではない」と弁明したところ、検察側からの反証書証「三国同盟と米国」と題する同被告の論文が提出された。論文には次のような記述があった。
 「独伊の戦争目的は、世界に存在する旧体制の不合理を是正するにあって、我が国の支那事変処理の目的と相通ずる」。
 「今回の同盟が新秩序を建設せんとする崇高なる目的より出でたることは、本条約の一大特色」。

 続いて、戦時下で陸軍省軍務局長を務めた佐藤賢了被告の弁護が始まった。

 続いて、重光外相の弁護が始まった。

 12月、対米最後通告の遅延問題を廻り、嶋田繁太郎元海相と東郷茂徳元外相との間に激しい対立が生じた。既に8月の公判で、山本熊一元外務省アメリカ局長が「海軍が対米無通告攻撃を主張していた」と証言していたのに対し、嶋田被告が口供書で「誤りである」と否定した。これに対し、東郷被告の弁護人から「海軍は1941.12.7日午後0時半(ワシントン時間)と決まった通告時刻を午後1時に繰り下げるよう東郷外相に要請した」とする田辺盛武元参謀総長の口供書を提出した。

【東条被告の宣誓供述書】
 12.26日、東条被告の個人立証が始まった。開戦時の首相責任が問われており、同被告の反論に諸外国のメディアが注目した。

 東条被告は、220Pに及ぶ宣誓供述書を提出し、同被告が政治的責任のある地位にあつた1940.7月の陸相就任から1944.7月に首相の座を去るまでの4年間について弁明していた。宣誓供述書が読み上げられた。

 日独伊三国同盟に関しては次のように主張した。
 概要「条約締結までの外交交渉は専ら松岡外相の手によって行われた。これによって世界を分割するとか、制覇するとかいうことは夢にも考えられなかった。『持てる国』の制覇に対抗し、我が国が生きて行くための防衛的手段であった」。

 1941.7月の南部仏印進駐に対しては次のように弁明した。
 「あの大東亜戦争は、南へ下りて行って西に行く、つまりイギリスを封鎖する、これが眼目で、支援ルートを押さえることで蒋介石政権も落とす。そして支那事変も解決する。まさに南へ下りて行って西に行く戦争だったはずだけれどもそうならなかった」。
 概要「米英などによる経済封鎖に対する止むを得ざる防衛的措置であり、断じて侵略的基地を準備したのではない。全面的経済断交というものは、近代に於いては経済的戦争と同義であり、米英の圧迫こそが真因である」。

 これにつき、上島嘉郎のライズ・アップ・ジャパンで次のように評されている。
 「実は、東條英機が述べている作戦は、大本営政府連絡会議という当時の最高意思決定機関にて正式に承認された「対米英蘭将戦争終末促進の腹案」に基づいた作戦なのですが、歴史の教科書や、メディア報道を見ても、「イギリスを封鎖する」という作戦について、全くと言っていいほど触れられていません。なぜ、教科書やメディアはこのような歴史的に重要な作戦について沈黙を貫いてきたのでしょうか?そして、東條英機が述べたこの作戦について、長年触れられてこなかったのは、ただの過去話と切り捨てられるものではなく、今もなお日本メディアの深い闇となってつながっているのです」。

 「ハル・ノート」に対して、次のように述べた。
 「米国側に於いて既に対日戦争の決意をしているものの如くに感じた」。

 結びを次のように締めくくっていた。
 「我が国の関する限りに於いては、自衛戦として回避する事を得ざりし戦争なることを確信するものであります。国際法上より見て正しき戦争であつたか否かの問題と敗戦責任如何との問題は異なった問題であります。敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任であります」。

【東条被告質疑】
 質疑が為されたが、東条の受け答えは明瞭であった。東条被告の個人立証4日目の大晦日、「木戸幸一被告が天皇の平和を希望する態度に反する行動をとったことがあるか」との質問に次のように語った。
東条 「日本国の臣民が、陛下の御意志に反して、かれこれするということは有り得ぬことであります。いわんや、日本の高官に於いてをや」。
ウェッブ裁判長  「只今の回答がどういうことを示唆するということが分かるでしょうね」。

 年明けにかけ、この東条発言を撤回させるため、弁護士らを通じた水面下の工作が為され、1948.1.6日、東条被告は、キーナン首席検事の質問に対し、12.31日の発言を次のように修正した。
 「国民としての感情を申し上げておったのです。天皇のご責任とは別の問題。(戦争開始は)責任者の進言によってしぶしぶご同意になったというのが事実でしょう」。

 こうして、天皇責任難問をクリヤーさせた。

【審理】
 1948(昭和23).1.8日、梅津美治郎元参謀総長の審理を最後に個人弁護の立証が終了した。この後、弁護側の補充反証が行われた。

 1.13日、検察側の反証に入った。ここで、新たな書証として最後の元老・西園寺公望元首相の秘書・原田熊雄男爵が昭和初期から十数年間亙って記した政界、軍の事情綴り「原田日記」と、木戸幸一元内大臣の1930年から終戦までの国家中枢の裏面史を記した「木戸日記」が提出され、活用された。他にも、グルー元駐日米国大使の日記、イタリアのチアノ外相、スメターニン駐日ソ連大使らの日記が使われた。田中隆吉・元陸軍省兵務局長の口供書も陸軍の陰謀を暴く重要証拠となった。

 2.10日、個人弁護の検察側反論、弁護側再反論が終了した。

 2.11日、検察側の最終論告が始まった。この日は戦前の紀元節(現在の建国記念日)で、起訴を4.29日の天長節(天皇誕生日)にしたのと同様、検察側の意図が働いていた。論告は、キーナン首席検事が序論、イギリス代表のコミンズ・カー検事が起訴状、アメリカのソリス・ホルウィッツ検事が一般論告、次に合計21名の検事により個人論告が行われた。死亡の2名と大川元被告を除く25名被告全員に「法律で知られた最量刑」を求刑した。全論告の総分量は日本文で三千枚を超え、各検察官が読み上げるのに14日間を費やした。

 3.2日、弁護側の最終弁論となり、一般弁論を弁護団長・鵜沢聡明氏が行った。概要次のように述べている。
 「侵略戦争が現実に有ったか無かったかを審判する世界的合意がない」。
 「国家の防衛、独立、生存の為に避け難いという判断に立ち至り、国家内の責任者として止むに止み難い戦争に従事した者を新たに刑罰に処するということは、果たして戦争の終息を来すか」。
 概要「侵略戦争であるかか否やの問題は戦勝国が敗戦国に対して決定しただけでは片面的で、司法正義の訴訟としては戦勝国も敗戦国も共に被告として審判を受けねばならぬ。ただ一方だけを侵略戦争とする侵略戦争の準備は有り得ない。連合国の戦争犯罪を不問にする勝者の裁きでしかない」。

 その後一般弁論の中の法律論の部を高柳賢三弁護人が行ったが、弁護人間の足並みが揃わなかった。個人弁論を廻っては、各弁護人間で激しい応酬が展開された。つまり、被告人間の深刻な責任なすりあいが最後まで演ぜられたということになる。総分量は論告の倍近い約5千8百枚となり、読み上げるのに32日を要した。

 4.15日、審理終了。その後タベナー検事が検察側回答をして休廷。4.16日、検察側の補足反論終了。ウェッブ裁判長が休廷宣言し、約2年に亙る公判が結審した。

【結審】
 マッカーサー創るところの「極東国際軍事裁判所条例(チャーター)」に基づき、いわゆるA級戦犯28人が起訴されたのは1946(昭和21).4.29日(昭和天皇の誕生日)であった。すべての審理が終了したのが1948(昭和23).4.16日。以降裁判のため7ヵ月の休憩に入った。

 10月、A級戦犯容疑者の豊田副武(元軍令部総長)と田村浩をBC級戦犯として起訴した。GHQが東京丸の内に特設した法廷で行われたことから「丸の内裁判」とも呼ばれた。翌年、田村には重労働8年、豊田には無罪が言い渡された。

 11.4日、判決文朗読が始まった。土日の休廷日を挟み12日午後まで7日間計30時間続いた。判決文は、「裁判所の設立及び審理」、「法」、「中国に対する侵略」、「太平洋戦争」、「通例の戦争犯罪」、「判定」など10章から構成されていた。現在、国立公文書館に所蔵されている和文の判決文は、約1200枚、英文では30万語あったとされている。

 判決は、被告らが、侵略戦争の共同謀議を行ったとして「平和に対する罪」を認め、「通例の戦争犯罪(残虐行為)」の責任を厳しく指摘していた。

 11.12日、判決文の朗読が終わり、最後の儀式となる「刑の宣告」が行われた。被告28名のうち、大川周明が精神障害で免訴され、松岡と永野は判決前に死亡していた。残る25名に判決が下され、全員有罪。概要は「判決」に記す。 
 GHQは訴願並びに再審申し立ての期間を11.12日以後19日までとした。これを受けて全被告を代表してブレイク二ー弁護人がマッカーサー司令官に再審査権の発動を促す申立書を提出した。これを受けてマッカーサーは、11.22日、総司令部の一室で対日理事会を構成する各国の代表を招き、刑の宣告について意見を聴取した。その結果、再審申し立て却下を決定した。

 11.24日、マッカーサーは特別声明を出して、米第8軍司令官に判決どおり刑の執行を為すよう命じた。

 この間、アメリカに帰国していたジョン・G・ブラナン弁護人が米連邦最高裁へ訴願提出している。ディビッド・F・スミス弁護人は人身保護令を提出している。「米大統領の命令によってマッカーサー元帥指揮下に設置された東京の法廷は、国際的な合法性を持たず、また、アメリカの立法府はこのような新規の裁判所の設置をマッカーサー司令官に委任したこともない。よって東京の軍事法廷はアメリカの憲法に違反している」との趣旨を添えていた。

 12.20日、米連邦最高裁は弁護人側の再審訴願申し立てを却下した。「極東国際軍事裁判所はマッカーサー元帥によって連合国の機関として設置されたものであり、このような機関の決定事項について、合衆国の法廷は審理する権限を持っていない」というのがその理由だった。

【死刑執行】
 12.21日、この米最高裁の訴願却下の報国を受けたマッカーサーは、ウォーカー米第8軍司令官に7死刑囚の死刑執行を命じた。
 
 12.23日、皇太子の誕生日であるこの日、7名の絞首刑が執行された。

【戦犯容疑者19名が不起訴で釈放】
 12.24日、処刑執行の翌日、岸信介元国務省ら戦犯容疑者19名全員が不起訴で釈放された。

【その後の東京裁判史】
 1950.3.7日、マッカーサー元帥が、服役戦犯の仮出所の為の審査委員会設置を発表。

 6.25日、朝鮮戦争勃発。

 11.21日、重光葵元外相がA級戦犯で始めて仮出所。

 1952.4.28日、サンフランシスコ講和条約発効。

 8.15日、戦犯の釈放などを求める「引揚援護愛の運動中央協議会」が1000万人の署名をまとめ首相官邸で善処要請。

 1956.3.31日、終身禁固刑を受けた佐藤賢了元陸軍中将釈放。戦没者を除き、級戦犯全員が自由の身に。

 1958.5.30日、巣鴨プリズン(BC級戦犯)全員仮出所。

 0978.10.17日、靖国神社が東条元首相等A級戦犯14名を合祀。

(私論.私観) 「極東国際軍事裁判」について
 この裁判の公正性は、論理的にも実務的にも整合していないように思われる。戦勝国側のイデオロギーの押し付けの臭い裁判であり、その方向で徹底的に利用されたという観点からみなさないとあちこちに齟齬を生ずる。つまり、「極東国際軍事裁判」の正邪論は不毛であり、戦後日本社会がこの裁判を通じて何を遮断され何を移入されたかということの実態解明こそが学究的であると思われる。

 然るに、戦後日本の平和運動は、この「極東国際軍事裁判」の判決を無条件に受け入れ、A級戦犯に対する徹底追求を金科玉条としてきた。これが問われてきたのは後日発生した靖国神社へ合祀問題である。社共及び新左翼を含む戦後平和運動はこれに猛然と異議を唱えてきたが、果たしてその論拠をどこに置いているのだろうか。れんだこが見るのに、大東亜戦争の仕掛人としてのA級戦犯故に合祀を許さない、という観点のように拝察するが、正論足り得るだろうか。

 れんだいこが思うに、合祀事件の問題性は、A級戦犯を合祀した非にあるのでは無い。戦後日本が先の大東亜戦争の歴史的総括をせぬままに、それを道義的に云々するのではなく歴史的位相において少なくとも是非論と手法論と責任論の観点からだけでも自己切開すべきところその労を取ることなくなし崩し的に合祀しそれを追認している非にこそある、と云うべきだろう。

 この観点の差は、ミソとクソほど違いがある。然るに、戦後日本の平和運動は見かけが似ているというだけでクソ運動しか主張し得ていない、まことに社共運動に似合いのレベルではあるが。そう観ずるのはれんだいこだけだろうか。

 2003.9.26日 れんだいこ拝





(私論.私見)