【東京裁判開廷の様子と以降の流れ】 |
【1946年、東京裁判の流れ】 | |||||||||||||||||||||||||||
東京裁判所は、東京都新宿区市ヶ谷台の元陸軍士官学校跡地で戦時中の大本営や陸軍省のあった旧陸軍ビルに設置され、講堂が法廷に使用された。1946(昭和46).5.3日に開廷し、結審は2年後の1948.4.16日。 1946(昭和46).4.29日、開廷4日前のこの日、GHQ直属の国際検察局が、100名を越すA級戦犯容疑者リストから選ばれた28名の被告の名前と起訴状を公表した。起訴状には、通例の戦争犯罪に加えて、新たな戦争犯罪概念として「平和に対する罪」、「人道に対する罪」が加えられていた。但し、「人道に対する罪」は最終的には適用されなかった。 同5.3日午前11時20分、戦犯追及の極東国際軍事裁判所(以下、東京裁判と云う)が開廷された。木戸幸一被告を先頭に28名の被告が登場し、2列に並んだ。大川被告のシャツの胸元をはだけた姿が人目を引いた。傍聴席は500名を超え、外国メディアを含めた報道陣約200名が詰め掛けた。 東京裁判は、「極東国際軍事裁判所条令」に基づき審理されていった。同条令は、捕虜虐待など従来の戦時国際法に規定された「『通常の戦争犯罪」に加え、侵略戦争の計画.準備.遂行などの「平和に対する罪」、民間人の殺害や人種的迫害などの「人道に対する罪」という新たな戦争犯罪の概念を適用していた。 「平和に対する罪」に関わる戦犯はA級戦犯と呼ばれ、その他の戦犯(B.C級戦犯)と区別され、東条元首相等28名が起訴された。 起訴されたA級戦犯被告は東条英機ら18名、元首相が平沼騎一郎.広田弘毅、外交官が松岡洋右ら4名、その他政府高官が賀屋興宣ら2名、内大臣の木戸幸一、右翼思想家大川周明の28名だった。この日入廷したのは病気のものを除く26名。 判事は、戦勝国のうち米、英、仏、中、カナダ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドと、戦勝への貢献国インド、フィリピンの11カ国から各1名が任命された。つまり、中立国からは一人も選ばれていない。そのうちアジア人判事は中国、フィリピン、インドの3カ国。東京裁判の構成国と判事は次の通りである。裁判長には、 オーストラリアのクィーンズランド州最高裁判所長官であったサー.ウィリアム.ウエップが主任判事としてマッカーサーによって抜擢された。
検察官は、首席検察官のジョセフ.B・キーナン(米国)を始めとする11名、その他500名近くの国際検察局スタッフ。対する弁護側は、鵜沢総明、清瀬一郎ら主任弁護人とアメリカ人弁護人の約50名(日本人弁護人34名、補佐弁護人58名、米国人弁護人58名ともある)。 東京裁判の審理は、1946(昭和46).4.29日から1948.4.16日まで約2年間にわたって416回を重ね、出廷した証人は419名、証拠採用された書類は4336通に上った。公判は日本語、英語の同時通訳で行われた。 審理対象となったのは、1928(昭和3).1.1日から日本が降伏調印した1945.9.2日までの期間における日本の「侵略戦争」における被告の役割と行動だった。張作霖爆殺事件を起点とし、満州事変、満州国建国、日中戦争、日独伊3国軍事同盟、太平洋戦争、無条件降伏に至る17年8ヶ月に亘る期間の「戦争の歴史」が裁かれた。ソ連との張鼓峰事件、ノモンハン事件も含まれていた。 5.3日の初法廷は、ウェッブ裁判長の開会の辞で始まり、午後から起訴状の朗読に入った。 この時、大川が彼に対する告訴状の写しを丸め、一列前にいた登場の禿げ頭をピシャリと叩くという椿事が発生している。緊張した雰囲気の法廷に失笑が漏れた。その様子は精神異常を明らかにしていた。間もなく退廷させられた。大川は翌5.4日精神鑑定の必要ありと宣告され、米陸軍病院に送られた。「梅毒性進行麻痺に伴う精神病」を患っていると判断し、「正邪の弁別」が出来ず、「彼に対する訴訟手続きの性格を理解する能力」を欠いているとして、療養所へ収容した。大川は、ここで、「宗教のための序説」を執筆しながら極東国際軍事裁判が終わるまで留まった。裁判後釈放され余生を過ごした。1957.12月に71歳で死亡するという風変わりな経過を見せている。 起訴状の朗読は5.4日、5.5日は休廷、5.6日も続いた。5.4日付毎日新聞は、「世界の注視を浴びた歴史的大裁判」との見だしで開廷の模様を伝えた。2面で、次のような書き出しから始まる記事を載せた。
5.6日、改廷日の奇行で入院した大川被告を除き、全員が無罪を主張した。清瀬一郎日本側弁護人が緊急動議を提出し、裁判の正義と公正の見地からウェッブ裁判長の適格性を問うた(「裁判開始直後の裁判長忌避動議」)。法廷は混乱し、休憩宣言された。ウェッブ裁判長は再開した法廷で、「忌避動議却下」を言い渡し、予定の罪状認否に入った。9分間で終わり、次回の審理が5.13日に行われると宣告され休廷した。 5.13日、首席検察官キーナンは、被告たちを前にして、「平和に対する犯罪、殺人、人道に対する犯罪、このゆえに被告らは断罪されなければならない 」と主張した。清瀬一郎弁護人は再度異議を提出し、1・「平和に対する罪」、「人道に対する罪」を裁く権限はない、2・侵略戦争は犯罪ではない、3・国家の戦争で故人責任は問われないと主張した。 清瀬弁護人は、概要「この裁判は、『自己の有せざる権限を他人に与うることあたわず』という法律上の格言及び『罪刑法定主義(法律が無ければ犯罪無し)』と『法律不遡及の原則』に違反しているから、連合国には『平和に対する罪』、『人道に対する罪』で被告達を裁く権限は無い」、「我々がここに求めんとする真理は、一方の当事者が全然正しく、他方が絶対不正であるといふ事ではありませぬ」と主張した。 宇野正美氏は、著書「戦後50年 日本の死角」の中で、この時の清瀬弁護人の主張を記している。これを転載する。
清瀬弁護人のこの動議に対し、アメリカのキーナン首席検察官やイギリスのコミンズ・カー検事などから反駁が為され、キーナン首席検察官は、日本弁護団の主張に対して、「戦勝国が侵略戦争の責任者達を処罰できないという理由は有り得ない。日本は無条件降伏したのだ!」なる論法で反論している。 アメリカ人のブレイク二ー弁護人とファーネス弁護人は清瀬動議を補強して、「新たに『平和に対する罪』や、『人道に対する罪』を本法廷憲章により創定することは、事後法の制定となる。事後法で人を処罰することはできない」と弁護している。 宇野正美氏は、著書「戦後50年 日本の死角」の中で、次のように記している。これを転載する。ブレイク二ー弁護人は、発言の時期は不明であるが次のようにも述べている。
ファーネス弁護人は、発言の時期は不明であるが次のようにも述べている。
清瀬弁護人の法理論を今日的に評すれば、「東京裁判は公正な裁判ではなかった」ことが判明する。特に、裁判管轄権、裁判官の適任性、法の不遡及、共同謀議の法理等々明白な法的不備が確認でき、裁判の形式的な手続きを踏んだだけ狡猾にされた勝者側の敗者に対する見せしめ裁判であったことが判明する。即ち、清瀬弁護人の法廷闘争には鋭いものがあったということになる。 5日後の5.17日(第7回開廷)の午前に、ウェッブ裁判長は「『管轄に関する全ての動議を却下する。その理由は、将来宣明する』として、その場を切り抜け、事件の進行を図った」。しかし、その「将来宣明」は、昭和23年11.4日の判決言い渡しの時まで行われなかった。 弁護側が提出した管轄権に関する動議が却下された後、法廷は約半月休廷して6.3日、再開され、翌4日、キーナン首席検事の冒頭陳述書の朗読が行われた。英文にして約4万語、朗読に2時間50分を要した膨大なものだった。 6.13日より検察側の立証が開始され、昭和22.1.24日まで約7ヶ月続いた。この間登場した内外の証人は延べ1千名を超え、法廷で採用された証拠書証は2282点にのぼった。この膨大な証人と証拠によって、それまでブラックボックスに閉じ込められていた日本近現代史の奥の院のヴェールが次々と明るみに出されることになり衝撃を与えた。 なお、法廷陳述では、それぞれが次のように自己弁護している。平沼元首相「戦いを欲しなかった」、小磯陸軍大将「私は対米戦回避論者だ」、関敬純海軍中将「東条内閣の出現を憂えた」。東郷外相と海相嶋田繁太郎は責任のなすりあいで罵倒しあった。 6.18日、ジョセフ.キーナン首席検察官は帰国し、ワシントンで「我々、極東国際軍事裁判検事団は、天皇ヒロヒトを訴追しないことに決定した。我々は、天皇に関するあらゆる証拠を検討したが、天皇を戦犯として起訴する明白なる証拠は、一つとして発見し得なかった」と記者会見の席上述べた。天皇戦犯問題が、不起訴という形で、初めて公にされた。 6.27日、松岡洋右被告が死亡。 7.5日、検察側証人として出廷した田中隆吉・元陸軍省兵務局長は、米国のサケット検事の質問に答え、1928年の張作霖謀殺事件について次のように述べた。「張作霖の死は、当時の関東軍高級参謀河本(大作)大佐の計画によって実行されたものであります」。田中氏は、満州事変についても、陸軍の謀略を暴露し、国民が知らされていなかった史実を次々と明らかにした。こうした告発証言で後に「怪物証人」と云われる。 8.16日、元満州国の皇帝溥儀(ふぎ)が出廷し、自ら「満州国は日本の傀儡(かいらい)だった」と証言した。こうして重要証人が次々と出廷した。南京大虐殺の証言も出た。 8.29日、第58回裁判で、多摩部隊(1644部隊)による人体実験を明らかにした。検察官は次のように朗読した。
10.1日、ニュルンベルク裁判で、絞首刑12名などの判決が出され、10.16日、絞首刑が執行された。 10.10日、ジョセフ.キーナン首席検察官は、天皇訴追免除を決定した。 日本側弁護人は、ポツダム宣言が対象とする太平洋戦争に限るべきと主張したが退けられた。原爆投下責任については審議が却下される等、連合国側の戦争犯罪は不問にされるという「勝てば官軍」の一方的なものとなった。 しかし、皮肉なことに、大本営発表ばかりを信じ込まされていた日本国民にとって満州事変以来の「歴史の真相」が次々と明らかにされていった。 この間、清瀬弁護人により代表反論が為されているが、自存自衛戦争であったという観点からの日本軍の正当化であり受けは良くなかった。各論反証をそれぞれ担当弁護人が務めたが、「この弁護側の反証の中でますますはっきりしてきたのは、ウェッブ裁判長初め判事団の態度と立場が、極めて検察側に近いということだった」。 11.3日、戦争放棄などを定めた日本国憲法が公布された。 |