大東亜戦争開戦史(1941.12.8) |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、1941.12.8日の大東亜戦争開戦当日史を確認する。この戦争を日本帝国主義の錦の御旗から見れば、大東亜共栄圏の確立を大義として太平洋の覇権をめぐって連合国軍と争ったことから大東亜戦争とみなすことになる。これをアメリカ帝国主義の錦の御旗から見れば、対ドイツ.イタリアの大西洋戦域に対して太平洋戦域で争われた戦争であったことから太平洋戦争とみなすことになるようである。この戦争はほぼ15年の長きにわたったが、1945年に至って日本帝国主義の戦局は日増しに不利となっていった。 2014.06.24日 れんだいこ拝 |
1941(昭和16)年の動き |
【日本海軍の連合艦隊がハワイ真珠湾攻撃、太平洋戦争開始、陸海による電撃作戦突入】 | ||||||
1941(昭和16)年12.8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃し、3年6ヵ月に及ぶ大東亜戦争・対米英戦の火蓋が切って落とされた。 | ||||||
ラジオの臨時ニュースが次のように報じた。
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【対米英宣戦の詔書】 | ||
「芝蘭堂」氏の「太平洋戦争 対米英宣戦の詔書」 が「対米英宣戦の詔書」を紹介しているのでこれを転載しておく。
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【真珠湾攻撃概略】 | ||
時局の赴くところ、日帝は日独伊ブロック形成を選択し、米英仏を始めとする連合国軍との正面戦争に向かっていくことになった。これが第二次世界大戦の簡略な構図である。1941.12.8日現地時間12.7日午前7時55分、99式爆撃(急降下爆撃機)が、第一弾を投下した。7.57分、97式艦攻(雷撃機)が攻撃を開始した。奇襲が成功であると確信した淵田美津雄隊長は、「トラ、トラ、トラ」と発信した。こうして山本五十六連合艦隊司令長官の作戦は成功した。 日本軍のハワイ真珠湾攻撃によって、日本とアメリカは戦争に突入した。「大本営陸海軍部午前6時発表、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」とラジオの臨時ニュースが告げた。正午、ラジオを通じて「開戦の詔書」が発表された。「(米英両国は)帝国の生存に重大なる脅威を加う」、「帝国は今や自存自衛の為、厥然(けつぜん)起って一切の障碍(しょうがい)を粉砕するのほかなきなり」。 この時、外務官僚の不手際で宣戦布告が1時間20分後に為されるという失態を見せており、「卑怯」として反日気運が高まる原因となった。この時、日本政府より通達された最後通牒が真珠湾攻撃の直前後で発せられたことがアメリカ国民の憤激を呼び、後日極東裁判所審議の際に厳しく糾弾されることになる。 この報を聞いた石原莞爾はこう語ったという。
開戦二日後の10日、読売.朝日.東京日日など在京8社の新聞.通信社が「米英撃滅国民大会」を共催している。 開戦の年、昭和16年ににおける重要戦略物資の生産力の、アメリカとの差は実に77.9対1である。またこの年の国家財政は、一般会計支出81億円、臨時軍事支出94億円、公債発行額は87億円(そのほとんどが日銀引き受けによる発行)、公債未償還額の累積は373億円に達していた。
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【「米国及び英国に対する宣戦の詔書」(昭和十六年十二月八日)】 | |
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【外務官僚の失態】 | |
「最終通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世」を参照する。 真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっているが、宣戦布告の通知が遅れた事もその一つである。日米開戦の最後通牒の通知が遅れたことは、真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になり、米国の世論は一気に開戦へとまとまっていった。そういう意味でも、日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ないが、「通知が遅れた件に関しては、これは最初からそう仕組まれたものであったと云う他はない」という説もある。これを検証する。 そもそも日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合うものであった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間で「12月7日午後1時」に行うものであった。ところが野村、栗栖大使がそれを実際にハル国務長官に手交したのは「午後2時」であり、その時、真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。 最後通牒の手交が何故遅れたかについては尤もらしい説明が付けられている。対米最後通牒の電報は14通から成り、その内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、その日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。 その時の大使館員の様子は次の如くであったとされる。◆14通の電報は2種類の暗号を重ねた2重暗号であり、最初の13通は12月6日午後1時から入電を開始、粗同時に専門の電信官によって暗号解読が始まった。◆午後8時半、事務総括の井口貞夫参事官が解読作業中の若手外交官達を誘って行き付けの中華料理店”チャイニーズ・ランターン”の一室で夕食会を開く。これは寺崎英成1等書記官の中南米転任送別会を兼ねていた。◆7日早朝、13通分の電文タイプを開始、寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、及び妻の母と共に郊外に車旅行、連絡も付かない状況であった。◆7日の朝、大使館の電信課宿泊員で若い熱心な基督教徒である藤山楢一は14通目の電報ともう一通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入手したが、その日は日曜日であった為、教会の礼拝に出掛け、電信課の責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官及び松平康東一等書記官に対し連絡を怠った。 14通目の電報が7日の何時から暗号解読され始めたかの公式記録はない。だが前日に受信した13通の電報が既に解読されており、事の重大性に大使館全員が気付かぬ筈はない。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、それ以前の13通分についても事前にタイプを済ませて何時でもハル国務長官に提出できる様にしておくのが当然であったろう。だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半からであり、14通目の暗号解読が終ったと推定される午前10時迄は奥村一等書記官によるのんびりした調子(ペース)であった。 ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬよう指示されていた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。 この外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむ。先ず外務省であるが、僅か残り数行に過ぎない14通目と最後通牒文である第901号電を何故態々それ迄の13通より遥かに遅れて発信したのか。更にこの重要な時期に何故寺崎一等書記官を転任させる処置を取ったのか。又何故秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか等である。 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。これは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。 戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局この件をうやむやに葬り去ってしまった。次のように憶測されている。
れんだいこが思うに、この言は、「吉田茂フリーメーソン」に重点があるのではない。吉田茂は戦後史で確認するがフリーメーソンをも手玉に取った可能性がある。踏まえるべきは、「当時の日本大使館員達のフリーメーソン性」である。念の為付け加えておく。 |
【「1941.12.8真珠湾事件疑惑」】 | |
真珠湾の失態により、キンメル米国海軍大将とハワイ駐留陸軍司令官ショート陸軍中将は、それぞれ少将に降格された。他方、太田龍・氏は、「2006.1.12日付け時事寸評」の「F・D・ルーズベルト米大統領暗殺疑惑と、そしてその意味」で次のように述べている。(れんだいこ責任で編集替えする)
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「『日本は勝てる戦争になぜ負けたのか 』 新野哲也(著)真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があった?」を転載しておく。
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【米国の反戦女性議員ジャネット・ランキン考】 | |
2016年12月27日、東京新聞夕刊「政治生命失っても平和追求 対日戦に唯一反対の米女性議員」転載。
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2023.3.27日、「真珠湾攻撃の数日後、和辻哲郎の試験問題に東京帝大生が歓声をあげた意外な理由」。エッセンスを抽出書きする。
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【以降の流れは、「大東亜戦争史1、開戦からミッドウェー海戦まで」の項に記す】
(私論.私見)