大東亜戦争開戦史(1941.12.8)


 更新日/2022(平成31.5.1日栄和改元/栄和4).12.8日

 【以前の流れは、「大東亜戦争開戦直前史(1941~1941.12.8)」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1941.12.8日の大東亜戦争開戦当日史を確認する。この戦争を日本帝国主義の錦の御旗から見れば、大東亜共栄圏の確立を大義として太平洋の覇権をめぐって連合国軍と争ったことから大東亜戦争とみなすことになる。これをアメリカ帝国主義の錦の御旗から見れば、対ドイツ.イタリアの大西洋戦域に対して太平洋戦域で争われた戦争であったことから太平洋戦争とみなすことになるようである。この戦争はほぼ15年の長きにわたったが、1945年に至って日本帝国主義の戦局は日増しに不利となっていった。

 2014.06.24日 れんだいこ拝


1941(昭和16)年の動き

【日本海軍の連合艦隊がハワイ真珠湾攻撃、太平洋戦争開始、陸海による電撃作戦突入】
 1941(昭和16)年12.8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃し、3年6ヵ月に及ぶ大東亜戦争・対米英戦の火蓋が切って落とされた。
 ラジオの臨時ニュースが次のように報じた。
 「大本営陸海軍部午前6時発表、我が陸海軍部隊は本8日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり」。
 ホノルル時間7日午前6時45分、米駆逐艦ウォードが真珠湾港外で特殊潜航艇を撃沈。
 ホノルル時間午前7時55分、第一次攻撃隊が真珠湾攻撃を開始。
 ワシントン時間午後2時20分(ホノルル時間午前8時50分)野村、来栖両大使、ハル国務長官に日本政府の最後通牒を渡す。
 日本時間午後4時、米英に宣戦布告の詔勅を発表。陸軍はマレー半島への上陸開始。対米英蘭に宣戦布告。
 米議会で対日宣戦布告決議を可決。

【対米英宣戦の詔書】
 「芝蘭堂」氏の「太平洋戦争 対米英宣戦の詔書」 が「対米英宣戦の詔書」を紹介しているのでこれを転載しておく。
 詔書
 天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。

 朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。
 
 抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕なる皇祖考丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。

 中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。

 皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。

 御 名 御 璽  昭和十六年十二月八日 各国務大臣副書

【真珠湾攻撃概略】
 時局の赴くところ、日帝は日独伊ブロック形成を選択し、米英仏を始めとする連合国軍との正面戦争に向かっていくことになった。これが第二次世界大戦の簡略な構図である。1941.12.8日現地時間12.7日午前7時55分、99式爆撃(急降下爆撃機)が、第一弾を投下した。7.57分、97式艦攻(雷撃機)が攻撃を開始した。奇襲が成功であると確信した淵田美津雄隊長は、「トラ、トラ、トラ」と発信した。こうして山本五十六連合艦隊司令長官の作戦は成功した。

 日本軍のハワイ真珠湾攻撃によって、日本とアメリカは戦争に突入した。「大本営陸海軍部午前6時発表、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」とラジオの臨時ニュースが告げた。正午、ラジオを通じて「開戦の詔書」が発表された。「(米英両国は)帝国の生存に重大なる脅威を加う」、「帝国は今や自存自衛の為、厥然(けつぜん)起って一切の障碍(しょうがい)を粉砕するのほかなきなり」。

 この時、外務官僚の不手際で宣戦布告が1時間20分後に為されるという失態を見せており、「卑怯」として反日気運が高まる原因となった。この時、日本政府より通達された最後通牒が真珠湾攻撃の直前後で発せられたことがアメリカ国民の憤激を呼び、後日極東裁判所審議の際に厳しく糾弾されることになる。

 この報を聞いた石原莞爾はこう語ったという。
 「負けますな。だいいち鉄砲玉がありません」。

 開戦二日後の10日、読売.朝日.東京日日など在京8社の新聞.通信社が「米英撃滅国民大会」を共催している。

 開戦の年、昭和16年ににおける重要戦略物資の生産力の、アメリカとの差は実に77.9対1である。またこの年の国家財政は、一般会計支出81億円、臨時軍事支出94億円、公債発行額は87億円(そのほとんどが日銀引き受けによる発行)、公債未償還額の累積は373億円に達していた。

 「運命に導かれるように日本と米国は開戦に至った」。

【「米国及び英国に対する宣戦の詔書」(昭和十六年十二月八日)】
 天佑を保有し万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆(いうしゆう)に示す。朕(ちん)茲に米国及英国に対して戦を宣(せん)す。朕か陸海将兵は、全力を奮て交戦に従事し、朕か百僚有司(ひやくれういうし)は、励精職務(れいせいしょくむ)を奉行し、朕か衆庶(しゅうしょ)は、各々其の本分を尽し、億兆一心、国家の総力を挙けて、征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。

 抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは、不顕なる皇祖考、丕承(ひしょう)なる皇考の作述せる遠猷にして、朕か拳々措かさる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国か常に国交の要義と為す所なに。今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る、洵に巳むを得さるものあり。豈朕か志ならむや。

 中華民国政府、曩に帝国の真意を解せす、濫(みだり)に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干支(かんくわ)を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼(よしみ)を結ひ相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて兄弟尚未た牆(かき)に相鬩(あひせめ)くを悛(あらた)めす。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰(あまつさ)へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加(くは)ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌(わた)りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。

 皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘(くわいこう)し、速に禍根を芟除(さんぢょ)して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。

【外務官僚の失態】
 「最終通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世」を参照する。

 真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっているが、宣戦布告の通知が遅れた事もその一つである。日米開戦の最後通牒の通知が遅れたことは、真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になり、米国の世論は一気に開戦へとまとまっていった。そういう意味でも、日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ないが、「通知が遅れた件に関しては、これは最初からそう仕組まれたものであったと云う他はない」という説もある。これを検証する。

 そもそも日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合うものであった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間で「12月7日午後1時」に行うものであった。ところが野村、栗栖大使がそれを実際にハル国務長官に手交したのは「午後2時」であり、その時、真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。

 最後通牒の手交が何故遅れたかについては尤もらしい説明が付けられている。対米最後通牒の電報は14通から成り、その内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、その日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。

 その時の大使館員の様子は次の如くであったとされる。◆14通の電報は2種類の暗号を重ねた2重暗号であり、最初の13通は12月6日午後1時から入電を開始、粗同時に専門の電信官によって暗号解読が始まった。◆午後8時半、事務総括の井口貞夫参事官が解読作業中の若手外交官達を誘って行き付けの中華料理店”チャイニーズ・ランターン”の一室で夕食会を開く。これは寺崎英成1等書記官の中南米転任送別会を兼ねていた。◆7日早朝、13通分の電文タイプを開始、寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、及び妻の母と共に郊外に車旅行、連絡も付かない状況であった。◆7日の朝、大使館の電信課宿泊員で若い熱心な基督教徒である藤山楢一は14通目の電報ともう一通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入手したが、その日は日曜日であった為、教会の礼拝に出掛け、電信課の責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官及び松平康東一等書記官に対し連絡を怠った。

 14通目の電報が7日の何時から暗号解読され始めたかの公式記録はない。だが前日に受信した13通の電報が既に解読されており、事の重大性に大使館全員が気付かぬ筈はない。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、それ以前の13通分についても事前にタイプを済ませて何時でもハル国務長官に提出できる様にしておくのが当然であったろう。だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半からであり、14通目の暗号解読が終ったと推定される午前10時迄は奥村一等書記官によるのんびりした調子(ペース)であった。

 ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬよう指示されていた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。

 この外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむ。先ず外務省であるが、僅か残り数行に過ぎない14通目と最後通牒文である第901号電を何故態々それ迄の13通より遥かに遅れて発信したのか。更にこの重要な時期に何故寺崎一等書記官を転任させる処置を取ったのか。又何故秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか等である。

 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。これは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。

 戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局この件をうやむやに葬り去ってしまった。次のように憶測されている。

 「吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶の一人フリーメーソンであった。当時の日本大使館員達は戦後何れも『功労者』として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した」。

 れんだいこが思うに、この言は、「吉田茂フリーメーソン」に重点があるのではない。吉田茂は戦後史で確認するがフリーメーソンをも手玉に取った可能性がある。踏まえるべきは、「当時の日本大使館員達のフリーメーソン性」である。念の為付け加えておく。

【「1941.12.8真珠湾事件疑惑」】
 真珠湾の失態により、キンメル米国海軍大将とハワイ駐留陸軍司令官ショート陸軍中将は、それぞれ少将に降格された。他方、太田龍・氏は、「2006.1.12日付け時事寸評」の「F・D・ルーズベルト米大統領暗殺疑惑と、そしてその意味」で次のように述べている。(れんだいこ責任で編集替えする)
 ○「操られたルーズベルト」カーチス・B・ドール著、馬野周二(訳・解説)、プレジデント社、一九九一年十月刊。この本の英文原題は、FDR: My Exploited Father-in-Law By Curtis B Dall(一九六八年)。本書の著者、カーチス・B・ドールは、F・D・ルーズベルト米大統領の娘と結婚して居る。従って、F・D・ルーズベルトは、ドールの義父であり、エレノア・ルーズベルトは、ドールの義母にあたる。そしてずっと後になって、ドールは、ウイリス・カートの主宰するリバティー・ロビーと言う政治団体の代表に就任した。本書は、シオニストユダヤ、ADLの一味に不法に乗っ取られる以前のIHR(歴史修正研究所)によって発行された。

 ○一九四一年十二月八日(七日)当時の米真珠湾海軍艦隊司令官であった、キンメル海軍大将と、ドールは、一九六七年二月三日、対談した。そこでキンメル提督は、前任のリチャードソン提督が解任された、その後任として任命された。一九四一年晩秋、ワシントン(米海軍省)は、主力艦数隻、輸送船を他の地域に派遣せよ、と命令してきた。更に、日本軍のパールハーバー攻撃の少し前、ワシントンの海軍省は、パールハーバーの航空母艦五隻を他地域に移せ、と命令して来る(前出、二百九十一頁)。つまり、そこで、パールハーバー米艦隊は、空母はゼロ、と成ったわけである。

 ○キンメル大将も、カーチス・ドールも、これは、ルーズベルト政権による日本を対米英戦争に引きずり込む大謀略の一部であることを明確に認識して居る。米国では、一九四一年十二月八日(七日)の「日本のパールハーバー奇襲」説が、米国政府によるペテンであることについて、無数の暴露と論評がなされて居る。

 ○にも拘わらず、日本では、このペテンにもとづく「東京裁判史観」が、ますます強国に日本人の意識を支配しつつある。朝日新聞社の月刊誌「論座」の平成十八年二月号に、朝日新聞論説主幹・若宮啓文、讀賣新聞主筆・渡辺恒雄。この二人の「対談」なるものが掲載され、東京裁判の全面肯定にもとづく日本の軍、政府首脳の「戦争責任」なるものについて、売国奴的発言が展開されて居る。

 ○カーチス・B・ドールは、一九四五年四月十二日のF・D・ルーズベルトの病死は、何者かによる「暗殺」(毒殺)ではないか、と疑って居る。このF・D・R暗殺疑惑は、米国では、かなり広範に、反陰謀陣営に流布されて居るにも拘わらず、日本人には、まったく、知らされて居ない。

 ○要するに敗戦後六十年来、日本人は、米国そして、世界の、まともな情報から、完璧に遮断されたままなのである。我々は、まさに、一から、やり直すしかないのだ。(了)

 「『日本は勝てる戦争になぜ負けたのか 』 新野哲也(著)真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があった?」を転載しておく。
 2007年8月13日 月曜日

 ◆日本は勝てる戦争になぜ負けたのか 新野哲也 (著)

 ●モダンボーイ・永野修身元帥の正体

 御前会議で、永野は、「座して死ぬよりも、断じて打ってでるべし。アメリカに屈しても亡国、たたかっても亡国、どっちみち国が滅びるなら、最後の一兵までたたかって負けるべし、日本精神さえ残れば、子孫は、再起、三起するであろうと」と奏上している。杉山元参謀総長が、天皇からに勝算を問われ、何もいえずに冷汗をかいているとき、こうとも、いっている。「米英への宣戦布告は、放っておけば死ぬ病人に手術を施すようなもの、手術が成功する保証はありませんが」。大雑把で、とても、開戦理由とはいえない。真珠湾攻撃の命令も、山本の好きなようにやらせろ、というだけで、まるで、他人事である。

 米内も、真珠湾攻撃計画がとおらなければ山本が辞表を書くと、日米開戦の反対派を牽制しただけだった。二人とも、真珠湾攻撃のゲタを、山本にあずけている。山本は、「こうなったら暴れるだけ」といった。軍人(連合艦隊司令長官)になった山本は、すでに、軍政や政策の埒外に身をおいており、三国同盟や日ソ中立条約の締結が、山本を真珠湾攻撃にむかわせた、とは、考えにくい。

 こうなったら、というのは、永野か、米内から指示をうけた、ということである。山本を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。

 当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。

 軍人である艦隊司令長官に、日米開戦の責任をおしつけるのは、筋違いである。真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。戦後、GHQの協力者となった米内光政を、平和主義者として立てる論調が、とくに、親米保守派や文壇の大御所周辺でつよくなったため、そのことを、だれもいわなくなっただけの話である。

 支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。

 永野に、太平洋戦略のグランドデザインや真珠湾攻撃以降の具体的な戦術があったわけではない。ミッドウェー海戦からガダルカナル島争奪戦などへいたる一連の作戦で指揮をとったのは、山本で、永野は、「深追いや追撃をするな、艦や飛行機を壊すな」といっただけである。世界史をうごかした、真珠湾攻撃にはじまる太平洋戦略の意思決定として、内実があまりにも空疎、お粗末ではあるまいか。

 永野は、御前会議で、天皇に、真珠湾攻撃の曜日をまちがえてつたえている。日曜日を月曜日の早朝、と。その講釈がふるっている。敵さんは、日曜日に遊び疲れてぐったりとしていましょうから。そこでついたあだ名が、ぐったり大将というのだが、ふざけているとしか、いいようがない。

 そもそも、ハーバード大学留学組で、長年の駐米武官を経験して、アメリカに友人や知已が多かった永野が、なぜ、やみくもに、アメリカと戦争をしたがったのであろうか。永野は、海軍兵学校の校長だったときに「ダルトン・プラン」を導入している。ダルトン・プランというのは、自我や個性、自主性を尊重するという、いまのゆとり教育のようなもので、ジョン・デューイという、世界的に有名なアメリカ人哲学者が考えだした教育方法である。永野が、武士道とは水と油の、ジョン・デューイの進歩的思想にふれたのは、ハーバード大学留学中であろう。デューイ本人から直接、薫陶をうけた可能性もある。

 メキシコに亡命したトロツキーの事実上の弁謹人を買ってでたデューイは、ルーズベルトの顧問で、ニューディール政策を立案した一人である。日本に共産主義国家をつくろうとしたGHQのトーマス・ビッソンやカナダ代表部のハーパート・ノーマンも、デューイの影響をうけている。ちなみに、その二人は、アメリカ政府にもぐりこんでいたスパイで、戦後、レツド・パージによって、正体がバレている。ハルノートを工作したハリー・デクスター・ホワイト、蒋介石どルーズベルトをむすびっけて、日米戦争を工作したオーエンラティモアも、スターリンの手先だったとして、戦後、アメリカから追放されている。

 ルーズベルトも"赤狩りのマッカーシー"に疑われており、生きていたら、逮捕されていたかもしれない。ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。

 日本にとって、百害あって一利もなく、アメリカにとって、参戦の切り札になる真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があったとすれば、戦後、アメリカが、永野を生かしておくだろうか。戦後、GHQから、「なぜ、自決しなかったのか」と問われて、「陸軍の真似(阿南の切腹)と思われるのが不本意だったから」とのべた永野が、戦犯で収監中、巣鴨プリズンで風邪を引き、治療のために収容された米陸軍病院で、急死した。

 当時、だれも謀殺の疑いをもたず、たとえ、もったとしても、口にはだせなかったろう。東京裁判で、ルーズベルトとのあいだに密約があったと、永野が証言したら、ルーズベルトが、真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたどころの騒ぎではない。東京裁判で、日本側の被告は全員無罪になり、アメリカの原爆投下、都市空襲の非人道性が、あらためて、問われることになったはずである。

 ジェームス・リチャードソンという大将が、永野の死後、真の武人なりと敬意を表している。アメリカの海軍大将が真珠湾奇襲の責任者だった永野をほめたのは、口が堅かったからだった。

 戦後、だれも、真珠湾攻撃のふしぜんさを口にしない。真珠湾を攻撃しなければ、日本は、日米戦争に勝てた、ということも。それが、永野の怪死によって封じられた、日米戦争最大のタブーだったからである。(P98~P101)

 ●「自殺点」をあたえつづけた不可解さ

 海軍首脳は、ある時期から、いっせいに、対米非戦派から主戦派へ転向している。日米開戦の功労で元帥になった永野修身、山本五十六を連合艦隊司令長官に任命して真珠湾攻撃のプランを練らせた米内光政海相、東条内閣で海相に就任した鳴田繁太郎、真珠湾攻撃の計画が中止なら、辞表を書くと息巻いた山本五十六ら、海軍の英米派が一丸となって真珠湾にむかっていくすがたは、異様である。

 天皇、一人で、日米開戦をくいとめることができるわけもなかった。軍事顧問として天皇のそばについていたのが、広田内閣で海軍大臣に就いて以来、ジリ貧論を唱えてきた永野修身軍令部総長だった。

 ジリ貧論というのは、アメリカの石油・くず鉄禁輸がつづくと、油や資材がなくなって、日本は滅びるというもので、そこから、対米開戦論がひきだされてくる。だが、石油は、南方やペルシャ方面(中東)にあり、永野のジリ貧論→対米開戦は、論理破綻である。

 ところが、岡田啓介、永野修身、米内光政ら海軍の重鎮は、かつて、近衛や東条が、戦略目標がないまま支那へ兵をすすめたように、戦略なき日米開戦にむかって突っ走ってゆく。太平洋における日米の艦隊決戦は、戦略的に誤っているだけではなかった。戦術的にも欠陥だらけだった。

 戦略も戦術も、勝算すら立てない海軍のたたかいぷりがいかに不可解なものだったか、もういちど、ふり返ってみる。海軍には、そもそも、太平洋海域の防衛計画がなかった。防衛計画のないまま攻撃をしかけると、制海権を維持することができない。局地戦で連戦連勝でも、支那大陸をおさえることができないのと同じことで、太平洋で制海権をとれなければ、防衛線を破られて、日本は、輸送船を失ってインドシナや南洋で孤立する。

 しかも、海軍は、高速の補給船をほとんどもっていなかっだ。島で陸兵が孤立して、餓死においやられたのは、海軍が戦術の三大原則をふみはずしたせいである。海戦の三大原則とは、一つは海路防衛、二つ目は輸送機能、三つ目は上陸援護である。海路防衛は、敵の艦隊や潜水艦を近づかせないという安全航路の設営で、緻密な計算の上になりたっている。海路防衛が完全でなければ、輸送船や民間の船舶は、どこをとおっていけばよいかわからず、うろうろしているうち、潜水艦の餌食になる。

 輸送機能は、民間の輸送船や軍の補給船の護衛である。だが、海軍は、護衛船団方式の何たるかを知らなかった。気休めに駆逐艦をつけただけでは、半分が、撃沈される。海上輸送は一戦艦同士が艦砲を撃ち合い、艦上機をとばしあうのと同様、重要な戦闘行為なのだが、海軍には、その認識がなかった。

 三つめが、陸兵の上陸援護である。日本の海軍は、陸軍の上陸作戦を援護するのが、主たる任務と知らず、知っていても、そのセオリーに背いた。陸軍と海軍が、いがみあっていたのにくわえ、両軍を統合する作戦本部がなかったからだった。

 ガダルカナル戦で兵士が飢えているとき、今村大将が海軍に食糧補給をたのむと、草鹿参謀長は「駆逐艦や潜水艦は戦闘に使いたいから」と断わっている。今村は怒って「おれもこれからガダルカナルに行って飢死する」と山本五十六に直訴、ようやく艦隊をださせたというエピソードが残っている。

 日本の海軍は、海路を設営せず、輸送船をまもらず、兵站線の確保を怠って、鎌倉時代のいくさの、武将の一騎打ちのように、艦隊決戦をもとめて、赤道のむこうまででかけていった。快進撃は、真珠湾から、辛勝だった珊瑚海海戦までだった。ミッドウェー海戦以降、海軍は、ぽろぽろに負けつづけ、ついに、本土に空襲の危機が迫った。〈米豪分断〉という不要不急の目的のため、赤道をこえたツケがまわってきたのである。

 グレート.バリア.リーフのコーラル・シーで、米豪の海路を妨害しても、日本の戦略的利益にはならない。おびただしいエネルギーがついやされて、貴重な兵力や艦船、飛行機が消耗されただけだった。

 珊瑚海海戦では、指揮官の井上が大破して傾いたヨークタウンを撃沈せず、ひき返してきている。そのヨークタウンが、突貫工事で修理されて、ミツドウェー海戦で日本艦隊に襲いかかった。ミッドウエー海戦で、日本海軍は、壊滅的な被害をうけるが、南太平洋のたたかいでは、ミッドウェーの三倍の損失をうけ、飛行機や熟練したパイロット、残っていた戦艦や空母、重巡、駆逐艦、輸送船のほとんどを失い、日本の海のまもりは、完全に破綻する。

 海軍が、なぜ、ニューギニアやソロモン、ガダルカナルで、MO作戦やFS作戦などという不急の作戦を強行して、本土防衛をおろそかにしたのか、謎である。真珠湾攻撃やミッドウェー海戦じたい、大東亜戦争の戦略から、大きく外れている。

 ソ連型の敗戦革命は、北進論の放棄と支那戦線の拡大が両輪だった。対ソ戦のみちを封じたうえで、日支を消耗戦にひきこみ、共倒れになったところで、「敗戦から内乱」のセオリーにしたがって、陸軍の一部と革新官僚が、革命軍・ソ連を迎え入れるという筋書きである。

 これを、海軍にあてはめると、西方戦略の放棄が、北進論の放棄にあたり、支那戦線の消耗戦が、真珠湾攻撃から南太平洋海戦にいたる海軍の不可解なたたかいに該当する。ちがうのは、敗れた日本を支配するのが、ソ連ではなく、アメリカということだけである。

 海軍の太平洋戦略が、戦略的にも戦術的にもずさんで、泥縄式だったのは、西方戦略の代替ようげきとして浮上してきたものだったからで、日米開戦の直前まで、日本の対米戦略は「漸減邀撃作戦」だった。

 これは、マリアナ諸島やパラオなど、日本の委任統治領だった赤道以北の島々をまもり、遠路はるばるやってくる米艦隊を、漸次、痛めつけておいて、日本近海で全滅させようというもので、戦略目的は、本土と海路の防衛である。

 世界一の戦艦大和と武蔵、質量とも、アメリカ艦隊を上回る空母艦隊と艦上機は、そのためのもので、背後に航空基地をもつ島喚防衛戦で、日本海軍が、遠方からはるばる航海してくるアメリカ海軍に負けるわけはなかった。

 真珠湾攻撃も南太平洋の艦隊決戦も、日本が、わざわざ、負けにいったたたかいだった。海軍が、そんな戦略をとったのは、陸軍の親ソ派(統制派)が、支那戦線を拡大させてソ連を救ったようなもので、イギリス仕込みの海軍内部に、チャーチルにつうじるルートがあったとしか考えられない。奇想天外だが、想像をこえているからこそ、敗戦革命は、だれにも気づかれることなく潜行して、あとからふり返っても、歴史的必然としか見えないのである。

 日米戦争を指導した海軍の上層部は、すべて英米派で、鬼畜英米より、ヒトラーと手をむすんだ陸軍をはげしく僧んでいた。

 東京裁判で、戦犯として裁かれた海軍の将官は、三人で、刑死者は、いない。裁判途中で急死した永野。終身刑から仮釈放後、赦免となった嶋田繁太郎のほかに、岡敬純がいるが、岡は、三国同盟派だった。ちなみに、海軍大臣になった米内は、親独派の岡を即日、寵免して、海軍次官の後釜に、米内と同様、大のヒトラー嫌いだった井上をすえている。

 米内と井上にとって、ドイツも、ドイツと同盟をむすんだ陸軍も、英米以上の敵だったのである。'介錯を断わって切腹した阿甫惟幾陸軍大臣は、「米内を斬れ」ということばを残した。敗戦の原因がすべて海軍にあったにもかかわらず、米内は、それを棚に上げて、終戦工作をしたからといわれるが、それだけではないだろう。

 阿南は、なにか、嗅ぎとったのである。近衛が、見えない力にあやつられていたような気がするといった、その見えないものが、米内にも宿っていたことを。ヒトラーとむすんだ陸軍が滅び、敗戦をとおして、日本は、アメリカの属国のような国になった。戦時中、英米派として憲兵隊に捕らえられ、戦後、首相になった吉田茂は、それを勝利とよび、憲法改正や国防に、いっさい、関心をしめさなかった。

 強国の庇護の下にはいることが、長期的には、日本のためになるのだという敗戦革命の思想が、ニューマ(空気)として、国際派や海軍に浸透していたのであれば、海戦前夜から真珠湾攻撃、南太平洋における壊滅的敗北までの、日本海軍の不可解なうごきに、一応の説明がつくのである。 (P135~P140)

 
 (私のコメント)
 今週は8月15日の終戦記念日があり、テレビなどでもいろいろと特集番組が放送されるのでしょうが、例によって例のごとくの内容であり、歴史の真実に迫ろうというものはない。文芸春秋という雑誌でも日本海軍の特集をやっていましたが、相変わらず海軍善玉論であり、米内光政こそが日中戦争を拡大させた張本人なのだ。

 真珠湾攻撃を計画させたのも、ルーズベルトー永野修身のラインがさせた可能性が強い。ルーズベルトと永野修身とはハーバード大学で二つ違いの同窓生だった。山本五十六もハーバードの同窓生でありこの三人が共謀すれば真珠湾攻撃は成功間違いなしだ。まさにハーバードは日本にとって疫病神であり、竹中平蔵も榊原英資もハーバード出で、まさに対日スパイ工作員の養成所なのだ。

 「株式日記」では海軍悪玉論を書いてきたのですが、ようやくその認識も広まってきて、阿川弘之などが広めた海軍善玉論は疑問が広まってきている。はたして真珠湾攻撃の必要性はあったのだろうか? どのようにシュミレーションしても失敗する可能性のほうが大きく、それが成功した事の方に疑問を持つべきだろう。 実際にも無線交信が傍受されており、普通ならば失敗していた。

 確かに海軍は三国同盟が結ばれるまでは開戦に反対していましたが、それが主戦論になってからは、御前会議などでも陸軍の思惑とは反対に超楽観的な見通しを述べて戦争へ突き進んだ。しかしシュミレーションでは日本海軍が連戦連勝でも二年もすれば燃料がなくなり軍艦は鉄の棺桶になってしまう。海軍が正直にアメリカと戦争しても勝てないと言ってくれれば開戦は防げた可能性が強い。

 このように海軍の最高幹部が無責任極まりない発言を繰り返した背景には、永野や米内などはアメリカと共謀して「敗戦革命」を企んでいた可能性すら伺えるのだ。もちろん海軍だけではなく、外務省の吉田茂や白洲次郎や尾崎秀美など近衛のブレーンとなっているメンバーは「敗戦革命」を企んでいたのかもしれない。

 確かに日本は大陸にずるずると深みに嵌って抜け出せなくなり、陸軍は陸軍で身動きが出来ない状況になり中国からの撤兵の目処が立たなくなってしまった。内閣はクルクルと総理大臣が変わり、5,15事件や2、26事件などで政府が軍部を統制することも出来なくなってしまっていた。しかし当時の軍人に当時の世界情勢が分かるわけではなく、海外からの謀略に引っ掛けられて戦争に突き進んでしまった。

 このような情勢になれば「敗戦革命」を企むグループが出来てもおかしくないのであり、海軍の中にも米内、永野、山本、井上などのグループが敗戦を承知でルーズベルトと共謀した可能性がある。あるいは知らずに操られたのかもしれない。それほど真珠湾攻撃はアメリカにとっては都合が良かった作戦なのだ。

 戦時中も海軍と陸軍とはばらばらに行動して統制が取れず、これでは勝てる戦争も勝てない状況になった。陸軍が潜水艦を作り海軍が戦車を作るような軍隊が勝てるわけがない。このようになった国をまとめるには天皇陛下しかいなかったのですが、昭和の時代になると天皇を輔弼する重臣達がいなくなっていた。明治時代は重臣達がいて国も上手く行っていたのですが、憲法などの改正もままならず、軍部が統帥権を乱用し始めると誰も止める事が出来なくなってしまった。

 東京裁判では絞首刑になったのは陸軍の軍人ばかりで、海軍で有罪になったのは3人だけだ。さらには米内光政は起訴さえされず不可解だ。単に米英派だったというだけで起訴を免れることが出来るのだろうか? 永野修身も米軍病院で謎の死を遂げているがルーズベルトとの密約をばらされない為の謀殺ではないかという疑いもある。

 日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

 「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」という本に書いてある通りに、海軍の戦略や作戦には不可解な事が多く、このような疑問は最近になって指摘されるようになった。アメリカとの開戦は避けてインド洋に進む戦略をとれば、ドイツとの連携で勝てる見込みもあったと考える。開戦理由が石油の確保というのならばインドネシアはもとより中東の油田地帯の占領も考えるべきだったが、そのような作戦は全く検討されなかった。

 あるいは北進してソ連を挟み撃ちにしていれば形勢はもっとはっきりと逆転できた。しかし日本海軍は何の意味もないガダルカナルにまで進出して消耗戦で敗戦を決めてしまった。ガダルカナルを占領して航空基地を作ったところで、どのように補給するつもりだったのだろう。軍用機も燃料弾薬がなければ動けない。その反面では絶対国防圏のマリアナ諸島が要塞化がされず、硫黄島のような要塞化がされていれば長期戦も可能だったかもしれない。

 いずれにしてもアメリカは原爆を開発していたから、それを使用されたら日本は無条件降伏に追い込まれていただろう。日本でも核爆弾の研究はされてはいたが行き詰っていた。当時の陸軍や海軍で核兵器のことについてどの程度の認識があったのだろうか? それくらい先行きの見通しのできる軍人もおらず、「世界最終戦論」を書いた石原莞爾は軍部の暴走を抑えることができなかった。要するに想像力に欠けた軍人が行き当たりばったりで戦争を始めたから負けたのだ。

【米国の反戦女性議員ジャネット・ランキン考】
 2016年12月27日、東京新聞夕刊「政治生命失っても平和追求 対日戦に唯一反対の米女性議員」転載。

 当時のルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃の日を、日本の行動が後世まで批判されるべき「汚辱の日」とする歴史的演説を行った。議会が宣戦布告を決めたのは演説の直後だ。

 満場一致で可決したかった同僚議員らはランキンに反対しないよう説得したが、ランキンは「女の私は戦争に行けない。誰かを戦場に送ることも拒否する」と反対を貫いた。議場では激しい非難が起こり、外では報道陣が追い回したためランキンは「追い詰められたウサギ」のように議事堂の電話ボックスに隠れたという。

 ランキンは西部モンタナ州選出の共和党下院議員。一七年には約五十人の同僚議員と共に、第一次大戦参戦にも反対した。

 ランキンは「米国に戦争をさせない」との公約で四一年に二期目の就任を果たす。しかし、真珠湾攻撃への米社会の怒りはすさまじく、下院の歴史家、マシュー・ワスニウスキー氏(47)によると、それまで参戦に反対だった多くの議員も一転、賛成に回った。

 ランキンは孤立無援となったが、その後も新聞で「日本との戦争は正当化できない」と批判を続けた。モンタナ大元教授のジェームズ・ロパック氏(74)は「並外れて強い意志の持ち主だった」と指摘する。

 ランキンは「広島と長崎に原爆が落とされた時、悲しみと罪悪感で崩れ落ちんばかりだった」と述懐。五一年、敗戦の傷痕が色濃く残る日本を訪れ「私は惨めだった」と後に語った。

 政界で「のけ者」扱いされたまま任期を終えた後は、再び政治家になることはなかった。しかし平和は追求し続けた。六八年、八十七歳でベトナム反戦の大規模な抗議行動を首都ワシントンで率い、その政治的遺産(レガシー)は現在にも受け継がれる。


 2023.3.27日、「真珠湾攻撃の数日後、和辻哲郎の試験問題に東京帝大生が歓声をあげた意外な理由」。エッセンスを抽出書きする。
 明治維新以来、西洋の学問を「手本」として励んできた学者たちは、英米を中心とする「西洋との戦争」の時代をどう生きたのだろうか。『日本の西洋史学 先駆者たちの肖像』(土肥恒之著、講談社学術文庫)には、そうした歴史学をはじめとする研究者たちが、どのように戦争と向き合い、苦悩したのかが活写されている。
 皇国史観の平泉澄が激怒

 1941年10月、大学生の修業年限の「3ヵ月短縮」が決まった。翌年3月に卒業予定だった学生たちは、この年12月に卒業し、早々と徴兵検査を受けることになった。12月8日の真珠湾攻撃の数日後、東京帝国大学文学部でも「繰り上げ卒業」のための試験が行われた。倫理学教授の和辻哲郎が黒板に書いた出題は「大東亜戦争の世界史的意義について」だった。その瞬間、学生たちのあいだから「ワァーという歓声」があがったという。またサイパン陥落の際には史学科の二人の教授が日本とアメリカのどちらが勝つか賭けをしていたという笑えない話も伝えられている〉(『日本の西洋史学』211頁)  

 この時「繰り上げ卒業」をした学生の一人が、戦後、代表的な進歩的文化人として知られる社会学者・日高六郎(1917-2018)だった。日高は翌年2月に召集されて入隊するが、4ヵ月ほどで除隊となり、1944年秋、海軍技術研究所の嘱託研究員となる。ここは自由な雰囲気の研究所で、1945年春には、時局の現状についての意見があれば「率直かつ自由に」書いて提出してほしいとの連絡があった。若い日高は「遺書」のつもりで、この戦争の本質と世界の大勢を論じた『国策転換に関する所見』をまとめ、提出の前にその要旨を報告する会合に臨んだ。終戦間近の、6月頃のことだった。

 この日高の報告に、激しく反応した出席者が、帝大文学部史学科教授の平泉澄(ひらいずみきよし、1895-1984)だった。代表的な「皇国史観」の提唱者である。
 〈40分ほどの報告後、平泉は次のように反駁した。「日高君の議論には、私はすべて賛成できない。その根本は、議論の進めかたが、皇国精神から出発せず、世界の大勢から説きおこしているところにある。それは皇国思想の否定以外のなにものでもない。君の思想は、日本の国体を危うくするものである」というものであった。日高によると、「教授も民衆の戦意の低下を認め、それを憂えていた。それを克服する道は『国体』の本義に徹する以外にないというのである」。平泉の語調は秋霜烈日の如く厳しいものであったという〉(210-211頁)  

 この報告が原因となったのか、日高は2ヵ月ほど後の8月12日に研究所を解職され、その3日後に安田講堂で玉音放送を聞いた。なお、平泉の著作『物語日本史』(全3巻)は、現在、講談社学術文庫で刊行されている。
 「ドイツ」と「世界史」をどう考えるか?

 世界が戦争におおわれた時代に「世界史」を論じることは、歴史家たちにとって困難で、ときに危険なことだった。なかでも同盟国ドイツについて論じる際は、国家的な要請もつきまとう。1939年から2年間にわたり、全12巻に及ぶ『新独逸国家大系』という訳書シリーズが日本評論社から刊行された。このシリーズの原書は1936年にドイツで出版され、ナチスが公務員などにナチス体制の全体像を周知させるのが目的だった。その日本での翻訳刊行は、ナチズムへの積極的な評価と結びついた半ば国家的な文化事業だった。翻訳には、当時の第一級の社会科学者が総動員された。当時東京商科大学(現・一橋大学)教授の上原専禄(1899-1975)もその一人だった。同シリーズの第12巻で、上原はヴィルリー・ホッペ著「中世ドイツ史要」を訳している。
 〈上原はホッペの著述をナチスという「ドイツ政治」との「幸福なる有機的調和」として肯定的に性格付けたのである。ちなみに本訳書の口絵として、「ヒットラー総統」のスケッチ画が掲載されている。(中略)上原はドイツ中世史研究者としてナチス・ドイツの政治と学問の新しい動向に強い注意を払っていて、時に肯定的に時に留保付きの慎重な発言をしていたのである〉(227頁)  

 「世界史」をめぐっては、1941年11月26日の夜、東京の中央公論社で、ある座談会が開かれた。出席者は「京都学派四天王」といわれる4人で、哲学の高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、そして西洋史学の鈴木成高(すずきしげたか、1907-1988)だった。この座談会は「世界史的立場と日本」というタイトルで中央公論1942年1月号に発表されて大きな反響をよび、その後、同じメンバーによる「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」、「総力戦の哲学」とあわせて1943年3月に『世界史的立場と日本』として刊行される。その内容は、大東亜戦争を「世界史の哲学」の視点から思想的に意味づけるもので、戦後は、「戦争に協力的」だとして、厳しい批判にさらされることになる。この座談会の出席者で、西洋史家の鈴木成高は、従来から哲学に対する理解が深く、西田幾多郎や田辺元のもとに出入りしていた。1939年に上梓した初の著書『ランケと西洋史学』(弘文堂書房)で鈴木は、これまでの「ヨーロッパ主義の世界史がもはや成立し得ない」という「未曽有の段階」にあるといい、19世紀のヨーロッパが「ヨーロッパのすべて」であるかのような「人々の常識」を清算することを訴えている。
 〈本書は単にランケ「の」世界史学を解説したものではなく、それを乗り越える日本人の「世界史像」の構築を提唱するものであった。大東亜戦争という戦時下で本書が何を意味したかは、ここであらためて解説するまでもないだろう〉(243頁)  

 終戦後、鈴木は1947年9月に京都大学を辞し、間もなく京都を去るが、本書についてはもちろん、強い批判を受けた『世界史的立場と日本』についても弁明することはなかった。
 〈鈴木はたいへんな名文家というか、小文や随筆の名手でもある。1947年5月付の「西田先生」、そして翌年8月付の「河上博士とパン」というエッセイがある。(中略)どちらも(西田幾多郎と河上肇の)その人柄と時代を深く写しとった文字通り珠玉のエッセイである。(中略)そうしたエッセイから『ランケと世界史学』の著者を想像するのはある種の違和感を残すのである〉(246頁)

 鈴木成高の論文や随筆の一端は現在、『世界史における現代』(創文社オンデマンド叢書)で読むことができる。
 発禁、しかしすでに完売!

 もちろん、戦時下にあって強い圧迫を受けても、政府の意に沿わない独自の研究を続けた歴史家もいた。
 〈私たちはこの戦時下でイギリスの植民地主義の歴史について真に批判的な検討をくわえた一冊の本を忘れるわけにはいかない。1943年9月に日本評論社から刊行された信夫清三郎の『ラッフルズ―イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』である。著者の信夫は西洋史家ではなく、日本の近代史家である〉(215頁)  

 信夫清三郎(しのぶせいざぶろう、1909-1992)は、戦後の1950年に名古屋大学に迎えられるが、戦前は在野で、ほぼ一貫してマルクス主義の立場から日本近代史の研究を進めた。1938年には治安維持法違反容疑で逮捕され、8ヵ月拘束されている。信夫の最大の関心は日清戦争の解明であり、そのために外交史や経済史についても強い関心をもった。そして、イギリスの植民地政策に対する探究のなかで、イギリスの植民地行政官でシンガポールの建設者であるサー・トマス・スタンフォード・ラッフルズに出会ったのである。信夫はこの『ラッフルズ』を、『資本論』、『国富論』そして大塚久雄の著作を机上に置いて執筆したと記しているが、もう一つ、興味深い回想を語っている。
 〈もう一つは、『ラッフルズ』が「発売一週間で内務省から発売禁止の処分をうけた」という回想である。理由は「敵国のイギリスを『ほめている』というもので」、妻による装幀も「この戦争を『ひややかにみている』という非難をうけた」〉(219頁)

 発禁といえば、出版社は在庫の山を抱えただろうと想像してしまう。しかし――、 〈この場合は違っていた。編集を担当していた藤間生大(戦後の著名な古代史家)の回想によると、〈『ラッフルズ』の刊行から「一週間ばかりたった時、発売禁止の通知がきた。三〇〇〇部の初版は全部売り払って、社には一冊もないので、警察は手ぶらで帰った。社には実害はなかった」。二年後の終戦によってこの通知は完全に空文となったわけである〉(219頁)  
 ※上原専禄の仕事と生涯については、〈忘れられた歴史家・上原専禄が、戦後まもなく構想していた「新しい世界史」とは? 〉もぜひ、お読みください。
 2023.03.18、「忘れられた歴史家・上原専禄が、戦後まもなく構想していた「新しい世界史」とは?モンゴルと十字軍に着目した先進性」。
 なぜ日本人が、ヨーロッパの歴史を学ばなければならないのだろう? 「世界史」の授業に苦しめられた多くの人が抱いた疑問ではないだろうか。明治以来の歴史家たちも同じだった。日本人にとって「西洋史学」はどんな意味を持つのか――。その問いとの格闘の歴史を、黎明期の歴史家たちの生き方と著作からたどったのが、『日本の西洋史学 先駆者たちの肖像』(土肥恒之著、講談社学術文庫)だ。大塚久雄、羽仁五郎、堀米庸三といった大家の名が並ぶこの本の中で、特に大きな存在感を見せるのが、上原専禄(うえはらせんろく)である。いったい、どんな歴史家なのか――。

 〈世界史の起点〉は「13世紀」にあり!

 〈現在の歴史研究者のなかで、上原専禄(1899-1975)の業績を知るものはどれだけいるだろうか。名前を知るものさえ恐らく少数派、あるいはひと握りではないだろうか。上原は1945年の敗戦前はドイツ中世史研究において大きな業績を残したが、戦後間もなく始めた世界史研究は今でもその意味を失っていないように思う〉(『日本の西洋史学 先駆者たちの肖像』p249)

 一橋大学名誉教授の土肥恒之氏がこのように書く通り、上原の名は現在、一般の書店でもほとんど見かけることはなくなっている。しかしその仕事と歴史観は、現在も注目に値するという。
 「特に上原が1960年代に提唱した、13世紀を〈世界史の起点〉とする、という考えは当時にして画期的であり、現在も見直されて良いと思います。13世紀のモンゴルによる世界征服を世界の一体化の始まりとする見方は、現在、かなり知られていますが、上原はモンゴルだけでなく、十字軍など西からの動きにも着目していました」(土肥氏)

 かつては、15・16世紀のいわゆる「大航海時代」が「世界史の始まり」とされていた。しかし、それは「ヨーロッパ中心史観」であるとして、13世紀のチンギス・ハンに始まる「モンゴル時代」を「世界史の誕生」とする歴史観は、1990年代以降、岡田英弘氏や杉山正明氏の著作で、広く知られるようになっている。しかしそれ以前に上原は、東西から起こった動きとして、この時代を「世界史の起点」と見ていた、というのだ。
 モンゴルの世界征服という「東からの動き」に対し、「十字軍戦争」というイスラム教徒に対する「西からの動き」を、上原は「ローマ教皇による世界政策」とも呼んでいる。モンゴルの征服は、日本、朝鮮、ヴェトナムやロシアだけでなく、イスラム世界にとっても「野蛮人の侵入」と思われたかもしれないが、ローマ・カトリックにとっては共同戦線を張ることの可能な「新しい東方の勢力」だとする見方があった。具体的には、2度にわたり十字軍を率い、モンゴルに使者を派遣したフランスのルイ9世(在位1226-70)、そしてモンゴルに宣教師カルピニを派遣して書簡を手渡したローマ教皇インノケンティウス4世(在位1242-54)にとっては、中東から北アフリカまでを支配していたイスラム勢力を挟みこむ東西連立戦線の形成が現実的な外交課題だった。こうしたなかで、三つの世界(ヨーロッパ、アフリカ、アジア)が一つに結び付けられていく可能性が生まれた。そして、東は日本から西はイングランドまで、北はバルト海から南は北アフリカまで、対立と抗争が展開する共通の場としての「ユーラフロアジアの世界」が13世紀に形成された――というのが、上原の見方だった。
 「そして、現代世界の問題は、13世紀まで遡って初めてその起源をつかむことができる、と述べているのですが、これは戦前からドイツ中世史で業績をあげた上原だからこそ出来た仕事だと思います」(土肥氏)

 研究者も瞠目する日本人学者の登場!

 上原専禄は、1899年、京都市西陣の商家に生まれた。8歳の時に愛媛県松山市の伯父の養子となり、松山中学を経て、1915年、東京高等商業学校(のちの東京商科大学、一橋大学)に入学し、歴史学への道を進む。そして1923年9月、関東大震災の混乱の中を出港した船に乗ってウィーン大学に留学するが、ここでドイツ中世経済史の大家、アルフォンス・ドープシュ教授に学んだ史料批判、あくまで原史料にこだわる姿勢が、その後の日本の西洋史学のレベルを大きく引き上げる。
 〈専門家として立つためには一次史料に基づく研究が出来なければならない。(中略)言い換えると、中世の社会と文化をめぐる問題、議論はいかにも魅力的ではあったが、史料を云々出来る段階にはなかったのである。翻訳・翻案の段階を抜けだせない、つまり一次史料を扱うのではなく大家の著作の「糟粕を嘗める」後ろめたさは、戦前はもとより戦後にあっても長く西洋史家に付き纏った〉(『日本の西洋史学』p.134)

 戦前日本のこのような研究状況にあって、1942年、東京商科大学教授となっていた上原が刊行した『独逸中世史研究』は、同学の研究者たちを驚嘆させるものだった。日本人でありながら、ドイツの学界と同じ水準で史料を読みこみ、分析していたのである。
 〈とりわけ「原史料への沈潜」という上原の姿勢に対して驚嘆の言葉が寄せられた。そのことは歴史学の常道である。だが久保正幡の書評が指摘するように、当時の我が国の西洋史学徒にとっては、原史料の研究は「なほきはめて難路であり険路である」。この踏破は「わが西洋史学界に人多しといへども、教授を俟つてはじめてなされ得る業」という外ない〉(『日本の西洋史学』p148)

 ヨーロッパの学者の「追随」や「受け売り」ではない「主体的な学問」が、ようやく日本に現れたのだ。

 戦争の影と世界史教科書

 しかし、そんな歴史家も、世界大戦という時代の激動とは無縁ではいられなかった。1942年に上原が発表した「世界史的考察の新課題」というエッセイ風の論文には、編集部によって「大東亜戦争の世界史的意義」というキャッチコピーが付けられた。この中で上原は、「大東亜共栄圏の確立こそ国民の悲願であり、世界新秩序の樹立こそ国民の念願となつてゐるのである」、「ヨーロッパ中心の世界史的考察の有つ偏狭さは是非ともわれわれ自らの手によつて是正しなければならぬ」と述べている。
 「私は、上原を時代に対して超然とした存在とイメージしていたので、この文章を初めて読んだ時には驚きました。しかし、これは上原ひとりの問題ではなく、歴史家はいつも、その時代の空気の影響下にあるのです。私が上原専禄という歴史家に本格的に関心を持ち、日本の史学史として本書をまとめようと思ったのは、この時からでした」(土肥氏)

 戦後の上原は、東京商科大学の学長を務めた後、新制・一橋大学でも社会学部の初代学部長をつとめるなどリーダーシップを発揮。大学改革や教育問題、日米安保問題にも積極的に発言し、論壇に重きをなした。また、みずから中心となって高校世界史の教科書を編集・執筆し、その成果は『日本国民の世界史』(岩波書店、1960年)として刊行されている。しかし、1960年には定年を待たずに一橋大学を退官し、「名誉教授」の称号も辞退した。その後は「世界史と日本史を統一的にどうつかむか」という課題に取り組んでいたが、1969年に妻を亡くした頃からは、以前より強い関心を抱いていた日蓮に深く傾倒し、長女とともにほとんど隠遁生活を送った。1975年10月、上原は京都でひっそりと病没したが、その死は誰にも知らされず、3年8ヵ月後、朝日新聞にようやく訃報が載った。社会面のトップで「他界していた上原専禄さん」という6段抜き見出しのついた記事にはこう書かれている。
 〈日蓮の研究。夫人の墓参り。心臓の悪かった弘江さんの看病に日を送る。近所との付き合いもせず、父と娘はひっそりと暮らしていた。「文化人がきらいになった」とよくつぶやいていた、という〉(朝日新聞1979年6月16日付)

 【以降の流れは、「大東亜戦争史1、開戦からミッドウェー海戦まで」の項に記す】






(私論.私見)