大東亜戦争史5、戦争災害総括


 更新日/2022(平成31.5.1日栄和改元/栄和4).6.30日

  【以前の流れは、「大東亜戦争史4、ドイツ降伏後より敗戦終戦まで」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、戦争災害総括をしておく。

 2015.08.21日 れんだいこ拝


【終戦時の皇室財産】
 赤間剛の「昭和天皇の秘密」―地獄でさまよえ天皇裕仁―」 (三一書房)の一節で、終戦時の皇室財産につき次のように記している。 
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4380902137/249-4187780
-1256311

 天皇家の財産が国民の前に明らかにされた時、その莫大さに国民は驚いていた。

土地 135万町歩余 3億6000万円余
木材 5億6000万石余 5億9000万円余
建物 15万坪 2億9000万円余
現金 2400万円余
有価証券 3億1000万円
合計 15億9000万円余

 評価額は戦争直後の標準によったが、その後の評価では660億円以上とされている。昭和36年の物価は最初の評価の500倍以上にあたるから総計は8000億円以上に達すると思われる。現在の価格では数兆円を軽く超えるものと言えよう。最初の評価の基礎は、土地一反が26円余という当時でも時価の十分の一、木材は一石一円で百分の一という不当に安い評価である。この評価は政府や宮内省が行ってGHQや世界の注目をまぬがれようとした小細工である。土地の135万町歩は日本の面積の3%以上に当たる。5億6000万石の木材は日本全林野の8%に当たる。有価証券では配当金だけで年800万円もあった。天皇家は日本最大の地主であった。日本最大の大ブルジョワであった。

【戦争犠牲者数】
 延べ1000万人の兵士が戦争に参加し、失われた兵対数は約200万、非戦闘員まで含めると約300万の人命が失われた。焼失住宅戸数は310万戸、戦費2200億円と云われている。
太平洋戦争における日本側の死者の数字

陸軍戦死者数 約144万人
海軍戦死者数 約42万人
軍属 約9万5千人
一般国民 約69万人
合計 約250万人

 このうち注目するのは、陸軍の死者が戦闘による戦死者より戦病死者数が上回っていたことです。戦病死者の多くはガダルカナル島での戦闘や、インパール作戦に見られる兵站を無視した作戦により、飢餓に陥り伝染病・風土病にかかり死んでいった兵隊達であります。いかに旧日本軍が無謀な作戦を行って無駄に兵隊の命を散らしていたか如実に示す実例であります。これでは既にまともな戦争をやっていたとさえ言えない。

【本土爆撃の実態】
 建設省が57年刊行した「戦災復興史」によると、全国の被災地は215都市計約645平方キロ.メートル、犠牲者は47年1月結成の全国戦災都市連盟が113都市を調べた分だけで51万人、被災人口は964万人に達していた。当初は、飛行機製作所、軍需工場が専ら狙われたが、45.3.10日の東京大空襲以降は、中低空で大量の焼夷弾を投下し市街地を焼き尽くす無差別爆撃が始まった。東京は45.3.10日の東京大空襲で約27万戸を焼き、約8万4000人が死亡した。日本政府は、45.8.10日付けで東京大空襲を始めとする都市爆撃は国際法違反にあたるとして米国政府に抗議している。この問題は未解決となっている。
 <1000人以上の死者を出した都市一覧表>(全国戦災都市連盟調査)
都道府県 空爆数 死者数 概要
北海道
樺太 8月22日、豊原空襲。樺太の戦いにおいて、ソ連軍機が南樺太の豊原市街を爆撃。民間人死者100人以上、焼失家屋400戸以上
北海道 11 2500 7月14-15日、北海道空襲。米機動部隊艦載機約2,000機による空襲。被害は北海道全土(釧路、根室を中心に函館、帯広などの工場群や鉄道や橋梁など交通の要衝を標的に銃爆撃された。青森県に及んだ)。二日間でおよそ2,000人の死者。青函連絡船全12隻も被害に遭い、青函航路が途絶した。
7月15日、室蘭艦砲射撃。室蘭は前日の空襲に加えて大規模な艦砲射撃の標的とされ、街は壊滅した。死者436人。
東北
青森県 1767 7.14日、青森空襲。747。
7月28日、青森大空襲。B29・61機。死傷者1767人。焼失家屋18,045戸(市街地の88%)。新型のM74六角焼夷弾が使用され、東北地方では最大の被害を出した。
8月9日、大湊空襲。死者129名、負傷者300名以上。敷設艦常磐などが大破。
岩手県 1070 7月14日、釜石艦砲射撃。一回目。死者771人。
8月9日、釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人。爆音は秋田市まで響いたという。
8.10日、花巻空襲。
宮城県 10 7月10日、仙台空襲。B29・124機。死者1052人。負傷者385人。焼失家屋23,956戸。詳細は項目記事を参照。
秋田県 103 8月14-15日、秋田市土崎空襲。B29・132機。死者250人超、製油所全滅。
山形県 37
福島県 649 4.12日、福島の郡山。400。
7月26日、平空襲。
関東
茨城県 2214 6月10日、日立空襲。死者1350人。
6月10日、阿見・土浦空襲(土浦海軍航空隊一帯)。死者374人。
7月15-17日、日立艦砲射撃(日立市・ひたちなか市)。死者395人。アメリカの戦艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦9隻とイギリスの戦艦3隻によるもの。
7月19日、日立空襲。B29・127機、死傷者2,199人。
8月1日、水戸空襲。B29・99機。死者242人。負傷者1293人。罹災人口5万605人。
8月1日から翌2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦を上回るように計算されていた。
栃木県 10 7月12日、宇都宮大空襲。B29・133機、焼夷弾12,704発。死者628人、負傷者約1,150人。焼失家屋9,490戸。鹿沼空襲 死者9人。
群馬県 1216 8月5日、前橋・高崎空襲。B29・92機。死傷者1323人。
8月14-15日、熊谷空襲。B29・89機。死傷者687人。
8月14-15日、伊勢崎空襲。 B29・93機。
埼玉県 467
千葉県 56 1425 6月10日、千葉空襲。B29・約100機。死者152人。
7月6-7日、千葉空襲。B29・124機。死傷者1,679人。
7月18日、野島崎(千葉県白浜)艦砲射撃。死者6人。巡洋艦4隻、駆逐艦9隻によるもの。
7月19日、銚子空襲。B29・91機。死傷者1,181人。
東京都 299 107,021 1944.11.14日、東京空襲。
3月10日、東京大空襲。
4月4日、東京都立川空襲 死者144名。陸軍航空工廠と立川飛行場がターゲット。残堀川沿いにあった山中坂の防空壕に焼夷弾が直撃し、42名が死亡した。
8月1日、八王子空襲。B29・169機。死者445人。負傷者2000人以上。焼失家屋14,000戸。罹災人口77,000人。
11.24日、2都県 (東京・神奈川) 4ヵ所 死者数 65人。
神奈川県 21 5824 4.15日、川崎空襲。1000人。負傷者15,000人。罹災人口10万人。全半壊33,361戸。同工場287戸。川崎は7月13日、25日、8月1日、13日にも空襲を受けた。
5.29日、横浜空襲。8000人。
7月16日、平塚大空襲。B29・136機 焼夷弾10,961発、死者343名。海軍火薬廠、日本国際航空工業、第二海軍航空廠平塚分工場、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場がターゲットであったとされ、人的被害は比較的少ないが大規模な爆撃。当時の市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。
8月14-15日、小田原空襲。死者30-50人。伊勢崎と熊谷を空襲したB29が帰路に余った爆弾を投下した
中部
新潟県 1558 8月1日、長岡空襲。B29・125機。死者1488人。焼失家屋11,986戸。
8月13日、長野空襲。長野市、上田市に艦載機62機による空襲。
長野県 11 40
山梨県 1174 7月6-7日、甲府空襲。B29・131機。死者1045人。全焼17,920戸。
岐阜県 1216 7月9日、岐阜空襲。B29・約130機。死者約900人。
6月22日、岐阜県稲葉郡那加町、蘇原町、鵜沼町西部(現各務原市)に対する空襲。各務原空襲(現航空自衛隊岐阜基地付近)B29・44機。死者169人 。
7月29日、大垣空襲。死者50人、負傷者約100人、全半壊家屋約4,900戸、罹災者約30,000人。大垣城、開闡寺などが焼失。
北陸
富山県 2805 8月1-2日、富山大空襲。B29・174機。死者2737人。負傷者7900人。焼失家屋24,914戸(市街地の99.5%)。罹災人口109,592人。広島・長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害。
石川県 27
福井県 1929 7月12日、敦賀空襲。死者109人。負傷者201人。日本海側初の空襲
7月19日、福井空襲。B29・120機。死者1,576人。
東海
静岡県 39 6月18日、浜松空襲。死者3239人。焼失家屋15,400戸。
6月19-20日、静岡大空襲。B29・137機。死者1,952人。罹災人口127,119人。焼失家屋30,045戸。静岡市(現在の葵区・駿河区)は、計26回の空襲を受けたが、それ以外にも数えきれない程の機銃掃射など小規模な爆撃を受けている。
7月7日、清水大空襲。(現在の静岡市清水区)
7月17日、沼津大空襲。B29・130機 焼夷弾9,000発。死者274人。沼津海軍工廠・海軍技術研究所音響研究部が置かれた同市はこの他にも7回の空襲を経験。
7月29日、浜松艦砲射撃。死者177人。周辺の被害も含む。
7月31日、清水艦砲射撃。死者44人。7隻の駆逐艦によるもの。
愛知県 40 6337 6月19-20日、豊橋空襲。B29・136機。死者624人
7月13日、1回目の一宮空襲。午後8時頃、B29約20機の編隊が、愛知県一宮市内北部の葉栗・西成両地区と今伊勢町に油脂焼夷弾を投下、20数名の死者。
7月28日-29日、2回目の一宮空襲。午後10時頃、B29約260機が愛知県一宮市上空に侵入し、油脂焼夷弾の波状攻撃を行った。2回に及ぶ空襲で市街地面積の80%が灰燼に帰し、罹災戸数は全市戸数の83%にあたる10,468戸、罹災者は全市人口の71%にあたる41,027名、内死者727名、負傷者4,187名に達した。
7月19-20日、岡崎空襲。B29・126機。死者203人。
7月23日、犬山空襲。
7月24日、半田空襲。B29・78機。死者269人。中島飛行機半田製作所を標的とした攻撃。
8月7日 豊川空襲。豊川海軍工廠が空襲で壊滅。死者2477人。
三重県 3068 6月18日、四日市空襲。B29・89機。死者736人、負傷者1500名、行方不明63人、被災者47,153名、焼失家屋11,390戸。
7月17日、桑名空襲。桑名は7月24日にも空襲を受けた。664。
7月24日、28日 津大空襲。死者1,239人。旧市街の全域、及び、橋北地区の工場地帯が焼失。
7月29日、津市の国宝建造物である観音寺本堂、大宝院本堂(阿弥陀堂)、西来寺奥殿が戦災で焼失。伊勢神宮の正殿は内宮・外宮とも無事だった
近畿
滋賀県 43
京都府 132
大阪府 55 13,123 7月9-10日、堺空襲。B29・約100機。死者1860人。焼失18,000戸。
大阪10283、豊中575
兵庫県 35 11,107 6月1日、尼崎空襲。死者231人。
6月22日、姫路空襲。川西航空機姫路製作所とその周辺。B29・52機、死者341人、罹災者10220人。
7月3日、姫路大空襲。深夜から4日未明にかけ、B29・106機。死者173人、重軽傷者160人余、罹災者45,182人、全焼家屋約1万300戸。姫路城は焼失を免れる。
7月7日、明石空襲。6回目。B29・124機。油脂焼夷弾・約70,000発(975トン)。死者355人。市街地の63%が焼失。
神戸/6235、明石1464、西宮716、姫路519
奈良県 36 6.1日、奈良市内に初空襲
6月26日、奈良空襲。
7月28日-29日、宇治山田空襲。市街地面積の5割に相当する27,751.35m2、全戸数の3割に相当する4,517戸を焼失、総人口の35%に相当する22,600人が罹災(死者75人、負傷者111人)。
和歌山県 49 1733 7月9日、和歌山大空襲。B29・約100機。死者約1212人。
7月25日、和歌山県串本艦砲射撃。潮岬も含め、周辺は何度となく艦砲射撃を受けている。
中国
鳥取県 106
島根県 33
岡山県 1772 4.8日、玉野空襲。20人以上が死傷した。
4.20日、倉敷空襲。帯江地区が被害を受けた。
6.22日、水島空襲(現倉敷市)。死者11人、重軽傷者46人。
6.29日、岡山空襲。アメリカ軍爆撃機B29・137機が岡山上空に現れ、殺傷能力の高い焼夷弾9万5000発を雨のように降り注いだ。岡山市内の73%が焦土と化し死者1737人、罹災人口12万人、罹災家屋25,000戸。人々は逃げ惑い西川は死体で溢れた。空襲警報が出されずまったくの不意打ちであったため被害が増大した。
広島県 11 260.000 3月19日、呉軍港空襲。アメリカ軍機動部隊、室戸岬沖80キロの近海に来襲。米艦載機350機が呉軍港空襲を敢行。航空母艦3巡洋艦2敷設艦2が大破沈没。これに対しての日本軍の反撃で、九州沖航空戦が生起した。呉市における初の空襲であり、軍人・軍属の死者62名。またその進路下の民間人の罹災者347名(うち死者29名)
5月5日、呉市空襲。広地区海軍工作庁を中心に爆撃。B29延べ130機が爆撃、広工廠・11航空廠は大半焼失。軍属の死者112名(軍人除く)。民間死者32名。被災者1,000人以上
6月22日、呉空襲。工廠への爆撃死者1600人。
6月28日、呉大空襲。
7月1日-2日、呉市空襲。B29・150機。死者3,700人
7月24日、28日、呉軍港空襲。米艦載機950機、B29・110機航空母艦3 巡洋艦5が大破沈没 死者780人。
8月6日、広島原爆。142.430。
8月8日、福山大空襲。 B29・91機。死者354人、負傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%が被災)。同年6月にはグラマンF6F艦上戦闘機によって福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。
山口県 34 2276 5月10日、徳山大空襲。第三海軍燃料廠を狙った空襲。B29・117機。死者500人以上、負傷者約1000人。
7月26日、徳山空襲。B29・約100機。死者482人、負傷者469人。市街地の90%を焼失。5月10日の空襲と合わせて旧徳山市街地は壊滅した。
7月2日、下関空襲。B29・143機。死者324人。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。6月29日に続く2度目の空襲。
8月14日、岩国大空襲。この空襲の帰りに光市の光海軍工廠空襲。死者738人。
四国
徳島県 1472 7月4(1?)日、徳島大空襲。B29・129機 死者約1451人、けが人は約2,000人、被災者約70,000人。徳島市(当時)の62%が焦土と化した。
香川県 1409 7月4(1?)日、高松空襲。B29・116機。死者1359人、罹災人口86,400人、罹災家屋18,913戸。高松市の約80%が焦土と化した。
愛媛県 20 1207 7月26日、松山大空襲。B29・128機による午後11時から2時間10分に及ぶ夜間空襲。死者・行方不明259人、負傷者把握不可の大惨事となった。全戸数の55%である14,300戸を焼失。全人口の53%の62,200人が罹災し、市のシンボルである松山城へも焼夷弾攻撃を受けたが、大天守は焼失を免れる。米軍機の損失はなかった(「アメリカ軍松山爆撃報告書」による)。なお、松山地方裁判所検事正からの7月30日付の報告書には、死者301名、重軽傷者520名、行方不明12名、罹災民約82,000名と記されている。
8月5-6日、今治空襲。B29・約70機。死者551人、重傷者150人、被災者34,200人、市街地の80%が焼失。
高知県 647 7月4日、高知大空襲。B29・125機来襲により死者401人、重傷95人、軽傷194人、不明22人、罹災人口40,737人。罹災面積4,186,446平方m、全焼壊11,804戸、半焼壊108戸。
九州
福岡県 15 4374
1944.6月15日、八幡空襲。中華民国の成都の基地から初めてB29が本土を空襲した。
3月27日、小倉大空襲。
6月19日、福岡大空襲。B29・239機。罹災人口60,599人(うち死者902人)。罹災家屋12,693戸。
8月8日、八幡大空襲。B29・127機。死者2952人、焼失家屋数14,380戸。このときの火災による煙が、翌日の原爆の投下目標を小倉から長崎に変更させる一因となった。
佐賀県 187 8月5日、佐賀空襲。
8月11日、久留米空襲。日中、B-24が市街地を空襲し、久留米駅が全焼。死者約210人。焼失家屋4,506戸。
長崎県 15 74.604 1944.10月25日 大村大空襲 当時東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を狙った空襲。死者約500名。
6月29日、佐世保大空襲。B29・141機。焼夷弾約1200トン。死者約1300人、罹災人口約65,000人。当日は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突き深夜に空襲された。
8月9日、長崎原爆
熊本県 939 1944.11.21日、熊本初空襲。
7月1-2日、熊本大空襲。午後11時以降の深夜から空襲、B29 154機(米軍資料):60機(日本軍部発表)市街地の約20%を焼失。死者数469人、負傷者数552人、罹災家屋総数11,000戸、罹災者数43,000人
8月10日 熊本空襲。
大牟田1291。
大分県 37 1193 7月16-17日、大分空襲。16日夜半頃B29編隊(約30数機)が襲来、市の中心部を約6,000発の焼夷弾爆撃。2,358戸が焼失。
3月18日朝、大分空襲。航空隊施設を狙ったものと見られ、宇佐・大分・佐伯が空襲を受けた。
7月25日、保戸島空襲。大分県津久見市。米軍のF6F艦上戦闘機が投下した3発のうちの1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)を直撃し、児童125人、教師2人が即死し、70数人の児童が重軽傷を負った。
大分はこの他にも4月21日、5月5日、8月10日など本土空襲での米軍の通り道であったため度々空襲を受けた。一連の空襲での死傷者は1,193人。
宮崎県 41 565
鹿児島県 63 4608 3月18日朝、鹿児島初空襲、グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町にある海軍航空隊を急降下爆撃。
4月21日、鹿児島空襲。鹿児島市電上町線の一部区間が被害を受けた。時限爆弾が投下され、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けたため、熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった。
6月17日、鹿児島大空襲。B29・117機、焼夷弾810トン。死者3323人、負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸。
7月27日、2度目の鹿児島空襲。昼12時45分頃、3梯団からなるB29の爆撃を受けた。
8月11日、加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機による2回目の空襲。死者26人。役場をはじめ、諸官庁、学校がほとんど焼失。送電線・電話線も焼け、ラジオも聞けなかった。
8月12日、阿久根空襲。日中、ロッキードP-38爆撃機が阿久根市中心部と市街地を空襲。死者14名、負傷者多数、被災家屋850戸以上。市街地が壊滅状態となり行政機関や阿久根駅も全焼。
沖縄県 371 1944.10月10日、十・十空襲。沖縄県全域に対しての米艦載機による空襲(フィリピン進攻の準備作戦)。那覇市街での被害が大きかったため、那覇空襲とも呼ばれる。
台湾 3月1日、日本統治時代の台湾台南市初空襲 。
5月31日、台北大空襲。B24・117機日本統治時代の台北市、死者約3000人。

【日本各地の空襲被害】
 「日本各地の空襲被害」参照4。
空襲期間 空襲場所 死者数
1944.11.24日 2都県4ヵ所 65人 東京・神奈川
1944年11月25日∼1945年3月19日 22都府県59ヵ所 14万4170人 岩手 宮城 福島 栃木 千葉 東京 群馬 長野 静岡 愛知 三重 京都 大阪 兵庫 和歌山 広島 高知 愛媛 大分 熊本 宮崎 鹿児島
1945年3月20日∼6月16日 30都府県104ヵ所 18万3259人
 全期間 1944年11月24日∼1945年8月15日、≒2000回の本土空襲、死者数45万9564人。
 太平洋戦争中、日本全国の都市が米軍機による空襲を受けた。中には焦土と化した街もあった。ここで、都道府県別、及び主な被災都市別の空襲死者数を確認する。死者は全都道府県に及んでおり、民間人だけで41万人を越えている。都道府県別には、原爆が投下された広島が14万人以上と最も多く、焼夷弾による無差別爆撃を受けた東京が10万人超でこれに次ぎ、第3位は広島に続いて原爆が投下された長崎の7万人超である。これら3都県で空襲死亡者の約75%を占めている。4位以下は大阪、兵庫、愛知(以上1万人以降)、静岡、神奈川、鹿児島、福岡と続いている。他方、空襲死亡者の最も少ない県としては、石川の27人が最も少なく、このほか、山形、長野、滋賀、奈良が100人未満となっている。大都市を抱える地域としては京都が132人と目立って少なくなっている。

 都市別には、基本的には県庁所在都市など人口の多い中心都市の死亡者数が多い傾向にあるが、釜石市(岩手県)、日立市(茨城県)、長岡市(新潟県)、岩国市(山口県)、今治市(愛媛県)などでは、県庁所在都市ではなく県内の主要産業都市がメインの被災地となっており、製造業が特に空襲のターゲットとして狙われたことが分かる。図には軍直属軍事工場における犠牲者は含まれていない。例えば、豊川市(愛知県)では8月7日午前10時過ぎ豊川海軍工廠がB29爆撃機の大編隊による空襲を受け、派遣兵120名・動員学徒452名を含む工廠関係者2,500名以上の犠牲者を出した。その他、工廠周辺にも被害が及び、在宅中の児童21名、入学前の幼児22名を含む市民113名が犠牲となった。工廠関係の犠牲者は、豊川海軍工廠が直属の軍工場のため戦死として扱われ、軍人以外の犠牲者も海軍軍属として扱われたので、500人以上の民間人犠牲者を扱った上図には掲載されていない(資料)。東京大空襲など各地の空襲被害の詳細については、図録5226d参照。広島の原爆被害については図録7702参照。また、日本各地・各都市の戦災の状況については、総務省作成のホームページがある。また、空襲被害の日欧比較は図録5227b参照。

 空襲対象に関する米軍の意図や正当性については、東京新聞大図解「空襲被害」(2015年8月2日)に掲載された山辺昌彦氏(東京大空襲・戦災資料センター主任研究員)による解説文を以下に引用するので参照されたい。
 「米軍など連合国軍による空襲は、日本の軍事施設を破壊するとともに、国民の戦争継続の意欲をくじくことによって日本を降伏させようとの狙いがあった。本土空襲の初期は、飛行機工場が第一目標であり、それができない時は第二目標として産業都市とみなした市街地を空爆した。工場爆撃の巻き添えを含め、民間人に被害が出ており、軍事施設だけでなく民間施設をも狙う無差別爆撃が、すでに始まっていたといえる。これが大きく変わるのは、1945年3月10日の東京下町大空襲からである。米国は一年前から、都市の最も燃えやすい人口密集地域を目標に設定し、木造家屋を効果的に焼く油脂焼夷弾を開発し、大型で航続距離の長いB29爆撃機とともに大量生産していた。 これらがそろった3月に都市を焼き尽くす空襲を始めたのである。単に無差別攻撃というより、民間人を主な標的とした空襲だった。

 当時の国際法では民間人への空爆は禁止されていた。しかし、日本も日中戦争段階で中国の重慶などの都市を空襲し、それを現代の都市は高射砲や航空機で守られているので無防守都市ではなく、無差別攻撃をしてもよい、と正当化していた。米軍も日本の市街地爆撃に際し、そこは小さな軍需工場がある産業都市なので空襲する、などとしていた。そして戦争犯罪裁判では、連合国の空襲はもちろん日本の空襲も裁かれなかった。そのことが世界で今でも、盛んに空爆が行われ、誤爆の名のもとに民間人の被害が続いていくことにもつながっている」。

 太平洋戦中、日本の統治下にあった台湾では、戦後、空襲を受けたときには台湾におらず、抗日戦争勝利の立場の「外省人」の政権が長く続いていたため、空襲被害を受けたという事実は無視されてきたようだ。「90年代に民主化が本格化するまでは国民党が絶大な力を持ち、米軍の空襲が表だって語られることはなかった。当時の情勢はあまり知られていないのが実情だ」(朝日新聞2015年8月14日)。終戦前に中国から台湾に渡った人たちやその子孫は「本省人」と呼ばれるが、彼らにとっては、外省人とは異なり日本に勝ったというより空襲を受けたということの方が重たい事実なのである。

 なお、東京新聞の調べでは遺族に引き取られていない戦災遺骨が全国36カ所に約40万体ある。国は海外で軍人の遺骨は収集しているが、民間人の戦災遺骨については寺院や地域に任せているという。下には、地域別の数値をグラフにした。「空襲の遺骨は東京都が最多で、墨田区の都慰霊堂と弥勒(みろく)寺に計10万8500体を安置。大空襲を受けた大阪、横浜市では市営墓地などに、新潟県長岡市などでは寺院に納められている。神奈川県横須賀市の旧海軍墓地には、茨城県土浦市と愛知県豊川市の海軍施設の空襲死者が埋葬されていた。長崎原爆の遺骨は長崎市の追悼祈念堂(約9千体)、真宗大谷派長崎教務所(1万~2万体)など3カ所に安置されていた。推定数しかない場所も多い。国の唯一の納骨施設は国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)で18万5261体が眠る。沖縄県内ではほかに計5カ所の慰霊塔に約1500体残っていた」(東京新聞2017.12.4)。
 (2015年8月5日収録、図録5226dの名称を引き継いで新規作成、図録5226dはメインのグラフ名そのままの「主な空襲による死亡者数」に変更、8月9日豊川市の事例紹介、8月14日台北市・台湾追加、2017年12月4日引き取られていない遺骨数)

【第二次世界大戦等の戦争犠牲者数】
 「ピンからキリまで」の「第二次世界大戦等の戦争犠牲者数」を参照する。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

 第2次世界大戦における人的被害

国名 兵員の死亡 兵員の負傷 兵員の行方不明 一般市民の死亡 合計
ア メ リ カ
イ ギ リ ス 
フ ラ ン ス
ソ     連
ポ ー ラ ン ド
ユーゴスラビア
オーストリア 
チェコスロバキア
中     国
ド  イ  ツ
イ タ リ ア
日     本
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

【東京大空襲】
 「さてはてメモ帳」の2015-09-15GHQがかき消した東京大空襲 首都圏占領のための皆殺し 原爆に匹敵する残虐さ 長周新聞
 GHQがかき消した東京大空襲 首都圏占領のための皆殺し 原爆に匹敵する残虐さ 長周新聞 2015年9月11日付
 http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/ghqgakakikesitatoukyoudaikuusyuu.html

 原爆展全国キャラバン隊(後援/長周新聞社)が東京都内で街頭「原爆と戦争展」をおこなうなかで、東京都民からは、太平洋戦争の終結を目前にして10万人を超える犠牲者を生んだ東京大空襲の経験が口々に語られている。戦争の真実を語り伝え、「二度とくり返してはならぬ」との激しい思いが脈打っており、それはかつての戦争体験と切り離すことはできない。東京大空襲の真実は、現在、安倍政府の進める安保法制が、日本の「独立」や「防衛」とは縁もゆかりもなく、あの大殺戮から続くアメリカの植民地政策の帰結に他ならないことを如実に物語っている。
 
 戦後は「碑を建てるな」と通達

 太平洋戦争中、アメリカ軍が首都・東京に加えた空襲は130回以上におよんだ。最初の空襲は日米開戦からわずか5カ月後の1942年4月、茨城県沖の空母ホーネットから飛び立った艦載機B25による奇襲攻撃であった。その2カ月後、日本軍は空母ホーネットの基地であるミッドウェー島の攻略作戦で大敗。そして1944年7月以降、米軍はマリアナ諸島のサイパン、グアム、テニアン3島を奪取し、ここを基地にB29による本格的な日本本土空襲を始めた。終戦前の2年間、「東京は毎日のように赤く燃えていた」と語られる。

 そして、1945年の3月9日夜、サイパン・テニアン基地を出撃した352機ものB29は、房総半島から低高度で東京に侵入し、都民が寝静まった10日午前〇時7分から約2時間40分の間に下町地域に油脂焼夷弾を約38万発(1800㌧)投下した。この焼夷弾は水では消えない特殊な油脂を周囲にまき散らして爆発的な火災を起こすもので、木造の日本家屋を効率よく焼き払うために特別に開発されたものだった。

 米軍はこの地域全体を焼き尽くすため、春先の強風が吹く3月を攻撃時期に選び、隅田川を中心にして浅草、本所、日本橋区全域を含む下町地域に照準点を設け、周囲から炎で囲い込んで住民が逃げられないように空爆を開始。まともな反撃もないなかで空爆精度を上げるために平均2000㍍の低高度からレーダーを用いて投下するなど、まさにやりたい放題の民族絶滅作戦を実行した。わずか2時間足らずで10万人超が犠牲になるような空爆は後にも先にもない。下町を中心に東京都の六割の面積が焦土と化し、約29万戸の家屋が焼失し、墨田区では人口が空襲前の4分の1にまで激減した。8月まで続いた東京への空襲では、判明しているだけで死傷者・行方不明者は25万670人(東京都調査資料による)、罹災者は304万4197人に及んだ。

 墨田区菊川町に住む80代の男性は、「当時小学6年で集団疎開していたが、卒業式のために2月末に菊川に戻ってきた。あの日はいつもの空襲と違う胸騒ぎがしていたが、警戒警報が鳴る前に家の周りはすでに火の手が上がっていた。父は地元の消防団だったのですぐに避難するわけにもいかず長姉と一緒に残った。私は母と祖母、姉と妹と一緒に逃げたが、途中で忘れ物を取りに戻った祖母は帰ってこなかった。その後、父と姉、祖母の3人を菊川橋付近で見たという人がいたが、菊川橋は身動きもできないほど避難者が押し寄せて3000人が亡くなった場所。おそらくそこで亡くなったのだと思っている。米軍機は低空飛行で、日本に高射砲などで撃ち返す気力も戦力もないことを知りながら、これでもかというほどの爆弾を落とした。逃げるときに雨が降ってきたかと思ったらガソリンだった。操縦者が下を見てあざ笑うように爆撃しているようだった」と怒りを込めた。その後、「菊川国民学校へ避難して一夜を過ごしたが、朝になると講堂の外には真っ黒焦げの遺体が無数に転がって言葉にできない光景だった。家の方面に向かうと、貯水槽に顔を突っ込んだまま死んでいる人、黒焦げになった馬もいた。菊川橋がかかる大横川も川の水面が見えないほどに遺体がびっしりと浮かんでいた。東京大空襲は戦争ではなく大量殺人だ。周りから焼いて中心に人を集めてそこに大量の焼夷弾を落とした。こんな残酷なことが許されていいわけがない」と強調した。

 空襲で兄を失った江東区深川在住の男性(86歳)は、「3月9日の夜に空襲警報が鳴ったが何事もなく解除になって一安心したとき、まもなくB29の飛行音が聞こえ、急いで防空壕に逃げ込んだと同時に辺りがパッーと明るくなった。照明弾だった。火勢に押されて家のあった三ツ目通りは避難者であふれ返ったが、黒煙が立ちこめるなかでB29は低空で狙いを定めて焼夷弾を落としてきた。総武線亀沢町のガード下の防空壕はどこも満員。炎は近くまで迫り、手足を必死に動かして火を防ぐのを少しでも休めると衣服に引火する。息も苦しい状況だった。近くにいた小学生くらいの男児が突然2、3㍍先へ転がり、防空頭巾に火が燃え移り目の前で火だるまになった」と語った。そして、「母と妹が入っていたガード下の防空壕は焼け落ち、煙が立ち込めているだけだったが、その後、髪は焼け乱れ、顔は真っ黒、もんぺが焼けてぼろぼろになった母に呼び止められた。母は、妹を含め中にいた11人が全員亡くなったことを声にならない声で泣きながら話していた。菊川周辺では遺体が1㍍もの高さに無造作に積まれていた。白骨化した遺体の群や、若い母親が子どもを背中に背負ったまま材木で火をおこし、夫とみられる遺体を顔中涙に咽(むせ)びながら火葬している姿など、まさにこの世の地獄だった。真っ黒焦げになった遺体が転がり、その熱でアスファルトが溶けて人の形をしたまま沈んだ箇所がいくつも残っていた。壁にも人の形が焼け移された場所が残っていた」と話した。

 台東区花川戸で履物屋を営む八七歳の男性は、「広島、長崎の原爆と同じ大虐殺だ。あれが戦争犯罪でなくてなんなのか。配給制度に移行する過程で浅草近辺の店は強制的に廃業させられたため神田の中学校に通っていたが、大空襲の数日後、同級生の安否を尋ねて深川方面へ向かった。道に散乱する炭化した死体をまたぎながら歩いているとき、門前仲町の三菱銀行の前で母親が赤ん坊を抱いたまま死んでいた姿が忘れられない。火にあぶられてピンク色をしていた。当時、東京では軍の指導で防空壕をつくったが、家の畳の下に穴を掘ったり、上に人が乗ったら屋根が落ちるような粗末なもので逃げ込んだ人はみんな蒸し焼きになって死んだ。自分の手で火葬場を掘ったようなものだ。一夜にして下町は焼け野原にされたが、その後も米軍の艦載機は生き残った人をめがけて機銃掃射をしかけ、おもしろ半分で笑いながら撃っている米兵の顔がくっきり見えた。戦後、この絨毯(じゅうたん)爆撃を指揮したルメイ将軍に天皇は勲章をやったが、腹が立って仕方がない。私の知り合いにインパール作戦の体験者がいるが、白骨街道になったビルマではみんな餓死と病死だったという。今安倍首相が“後方支援は安全だ”といっているが、それならなぜアメリカは無抵抗の市民が住む東京を取り囲むように焼き尽くし10万人もの人人を殺したのか。むしろ後方こそ標的にされるのだ」と話した。

 隅田川の両岸から人々が炎に追われて逃げ込んだ言問橋や吾妻橋などでは、戦後も橋の欄干に抱きついたまま焼死した人の油が人型のまま黒く残っていたこと、折り重なるように避難した亀戸のガード下でも壁面に山積みになって焼け死んだ人たちの油が跡になり、何度ペンキを塗っても浮き出てくることなど、体験した人人の凄惨な記憶とともに忘れてはならない傷跡として語られている。

 米占領軍の指導方針 日本人は戦争を忘れろ

 同時に語られるのは、2時間余りで10万人もの犠牲者を出す史上類を見ない大虐殺がおこなわれたにも関わらず、東京都内には70年たった今でも公的な慰霊碑や資料館がないという異常さである。この70年、「東京都史上初の革新都政」といわれた美濃部都政、「ノーといえる日本」といった石原都政でも、東京大空襲を継承する公的施設が建設されたことはない。

 墨田区に住む年配男性は、「戦後すぐに、多くの人が亡くなった菊川橋のたもとに慰霊碑を建てようとしたが、区役所は拒否し建設が許されなかった。戦後、川のほとりを改装するたびに白骨がたくさん出てきたが、それでも区役所は許可をおろさず、東京都も一切関わろうとしなかったので、地元住民で“これ以上放っておくわけにはいかない”と無許可で地蔵を建立して毎年地元で法要をおこなっている」と話した。

 大空襲で壊滅した江東区森下5丁目(旧深川区高橋5丁目)町内会では今年3月、大空襲70周年を記念して町内の空襲犠牲者789人の名前を刻んだ墓誌を建立した。当時の体験者が減少するなかで、「この経験を後世に語り継ぐ」という地元の強い意志から発案され、これまであった慰霊碑の隣に建立された。

 建立に関わった町内会役員の男性によれば、「大空襲で焼き尽くされたこの町では、当時の町会長が戦後すぐに空襲による町内の犠牲者を調べ、焼失を免れた戦時国債購入者名簿を頼りに“戦災死没者過去帳”という約10㍍にもおよぶ巻物がつくられていた。70年にあたり、遺族からも“一家全滅した家族も含め亡くなった人人がこの地域に住んでいた証しと、供養の場所がほしい”という話も出ていたので、その過去帳をもとに昨年1月から準備してきた」という。

 また、「建立の過程では、町内には1晩で1家12人が亡くなった家があることもわかった。東京大空襲は10万人以上もの犠牲者を出したにも関わらず、これまで国は何の慰霊もせず公に供養塔を建てることをしなかった。都内各所にある小さな碑はすべて町内会単位で自主的に建てられたもので、毎年の法要、清掃なども地域住民でおこなわれている。慰霊碑は広島などに比べて本当に少ない」と話し、その根拠として1947(昭和22)年に東京都長官官房渉外部長から通達された行政文書のコピーを示した。

 官房各課長、支所長や局長、区長など都の行政担当者に宛てられた通達文書には、当時、遺族によって計画された隅田公園への戦災慰霊塔の建設に対して、「一、日本国民に戦争を忘れさせたいのである。二、戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない」と米占領軍の指導方針を挙げ、これに「協力するよう求められた」ため、「今後はこの方針を徹底的に守るようにしなさい」と明記されている。

 あれから70年を経た今回の慰霊碑建立にも、区役所からは「区への申請は受け付けていない」と対応されたと語られており、「行政から助成を受けることもできないので、発起人を中心に町内外へ寄付を募ると“地元の者ではないが、私の家族も空襲で犠牲になった”“平和を伝えるために碑を建てて後世に残すことはよいことだ”とあちこちから寄付金が集まった。この町は戦災死没者名簿がつくられていたから墓誌が建立できたが、ほとんどの町では資料が残っておらず公的機関が動かなければ難しい。なぜいまだに占領下と同じなのか。こんな形であの残酷な東京大空襲の記憶が薄れて忘れられてはならない。学校でも、東京大空襲の経験を語る平和学習などはいっさいないので、今のうちにやらなければいけない」と切実な思いが語られた。

 空襲被災地一帯では、11万人ともいわれる犠牲者の亡骸を公園や校庭などで山積みにして火葬し、錦糸公園に1万3951体、猿江公園1万3242体、隅田公園は7530体、菊川公園には4515体など公園や寺などに万から数千単位で埋葬された。これら引き取り手のない個別埋葬者、氏名不詳の合葬者、合計約11万人の遺骨は、1951年に関東大震災の慰霊施設であった震災記念堂を東京都慰霊堂(墨田区横網)と改称して納骨されているが、その仮埋葬地には公的な説明板も慰霊碑も建てられていない場所も多く、公の手による慰霊碑の設置を求める声は強い。

 焼けなかった皇居 一方孤児たちは檻の中

 また、10万人以上の都民が焼き殺される大空襲のなかでも、皇居、国会議事堂、議員官舎のある永田町をはじめ、丸の内の金融街などは攻撃目標から外され、涼しげにたたずんでいたといわれる。

 その一方で、上野や浅草には、空襲で親を失った戦災孤児や浮浪者があふれかえり、餓死寸前の子どもたちが生きるために窃盗や売春をおこなっていたこと、GHQが「治安対策」を名目にして犯罪の有無に関わらず浮浪児を見つけ次第摘発していったことも、戦争が生み出した悲劇として伝えられている。この「狩り込み」を受けた孤児たちは、米軍の要請によって、脱走ができない水上の台場につくられた収容施設に強制的に送致され、檻(おり)に入れられて監視・収容されたという。

 浅草で商売を営む80代の男性は、「皇居と東京駅に挟まれた丸の内近辺は攻撃されず、その中心にあった第一生命ビルには戦後GHQの本部が置かれた。国会議事堂や議員官舎も戦後処理に必要だから残された。マッカーサーが厚木に到着する前に武装解除をさせたが、その後も米兵は常に拳銃や小銃を携行し、自分たちが大空襲をやった相手の都民を相当に恐れていた。だが、都民にとって戦後最大の苦しみは食料がないことだった。米は供出させられ、お金があっても買う物がないし、物々交換するものすらない。田舎につてがなければ乞食同然で、今日、明日の食べるものがなく生きていくことがたたかいだった。配給の大豆を食べて水を飲んで生活し、占領軍のことや空襲犠牲者の慰霊など考えられる状態ではなかった。そのなかで米軍はララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとった。“ギブミー・チョコレート”という言葉が流行ったのもこのころだ。だが、あれほどの人が殺された大空襲の経験を私たちは忘れることはない」と話した。

 別の婦人は、「戦後、マッカーサー司令部と日本の軍司令部がうちあわせして戦犯の検挙が吹き荒れたが、その際、マッカーサーが国民の内乱を押さえ込むために天皇を戦犯にはしなかったといわれている。私の知人は下級兵士だったにもかかわらず戦犯で捕らえられて獄死した。その人は“天皇の責任を背負って死ぬんだ”と怒りを込めて遺書を書き残していた」とのべた。そして「今もすべてアメリカとの取引で、国民無視の政治は変わっていない。今でも中谷防衛大臣がまったく同じ答弁をしていた。安保法制で自衛隊が戦闘に巻き込まれても、また“現場の自主的な判断だ”といって切り捨てるのは目に見えている」と強調した。
 東京大空襲・戦災資料センター」の「東京大空襲とは」は次の通り。
 東京大空襲とその被害

 まず、東京空襲の一般民間人の被害全体についてみると、東京の区部が被害を受けた空襲は60回を越えます。確認された死者の遺体数は約10万5400人になります。負傷者は約15万人で、罹災者は約300万人、罹災住宅戸数は約70万戸です。焼失面積は約140㎢で、区部の市街地の約50%、区部面積の約25%に当たります。三多摩や伊豆諸島・小笠原を含む東京都全体では、空襲は100回を越えています。東京大空襲は、第二次世界大戦の連合国による植民地・占領地も含む日本空襲の一環です。東京への本格的な空襲は1945年3月10日の下町への大空襲を境に区分されます。

 初期の空襲

 アメリカ軍による日本本土への初空襲は1942年4月18日に行われましたが、それは空母から陸上爆撃機B25を発進させた奇襲攻撃で、東京には13機が来襲しました。東京では品川区の工場、荒川区尾久の住宅などが爆撃され、尾久では一家6人が焼死するという被害を受けています。それ以外にも牛込区の早稲田中学や葛飾区の水元国民学校高等科の生徒も銃撃により死亡しました。あわせて東京で41人が亡くなっています。

 それ以降約2年半の間、東京の区部への空襲はありませんでしたが、小笠原には1944年6月15日に空襲があり、民間人にも機銃掃射による被害が出ています。
 B29爆撃機による東京への本格的な空襲は、1944年11月24日に始まりました。1945年3月10日より前の空襲は、飛行機工場と産業都市を重点とする戦略爆撃であり、高高度から、多くは昼間に爆撃しています。東京の場合、航空機工場の中島飛行機武蔵製作所を第一目標とする精密爆撃が行われましたが、その爆撃ができない時には、第二目標とした東京の市街地を無差別に爆撃しています。11月24日からすでに荏原区などの市街地が空襲されました。11月27日には中島飛行機を全然爆撃しないで、渋谷区の原宿などを空襲しています。11月29日から30日にかけては市街地への夜間の集束油脂焼夷弾を使った空襲がすでになされています。1945年1月27日には繁華街の銀座や有楽町が空襲され、530人あまりが亡くなっています。2月19日も中島飛行機は爆撃しないで、119機のB29が市街地を爆撃し、区部で160人以上が死亡しています。2月25日は、マリアナの基地を飛び立つ前に中島飛行機を爆撃できないことがわかり、第一目標を東京下町の市街地に切り替え、爆弾を焼夷弾に積み替えて172機のB29が空襲しました。この日の空襲は、目標地域が3月10日の下町大空襲と同じ最も燃えやすい住宅密集地であり、後期に実施される区部の市街地に対する焼夷弾爆撃の実験的な空襲となり、195人が亡くなっています。3月4日も159機のB29が東京区部の市街地を広範囲に爆撃し、650人あまりが死亡しています。1944年11月から1945年3月4日までの空襲により、区部で2000人以上が亡くなっています。

 1945年3月10日の下町大空襲

 画期になったのは1945年3月10日の下町大空襲です。すでにアメリカ軍は、都市の中で、住宅が密集し人口密度が高い市街地を、焼夷地区1号に指定していました。東京は当時の深川区の北部と本所区・浅草区・日本橋区の大部分などが焼夷地区1号でした。そこをまず焼夷弾で焼き払う絨毯爆撃が、この日から始まりました。焼夷地区1号の目標地域には、軍施設や軍需工場などの明確な軍事目標はほとんどなく、アメリカ軍の目標となった大きな軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標でした。住民を殺戮し、それによって戦争継続の意思をそぐことが、主な目的でした。また、市街地を焼き払うことで、そこにある小さな軍需工場を焼くことも合わせてねらっていました。アメリカ軍は春一番のような大風の吹く3月に焼き払い空襲を開始することを目指して、日本向けの油脂焼夷弾を開発し、B29とともに大量生産をしていきました。
 3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲でした。目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下しました。これにより、大火災を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たしました。
 火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。
 木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、大火災となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって、安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなりました。

 後期の大空襲

 4月、5月の山の手大空襲は、爆撃の規模や焼失面積は3月10日の大空襲を上回るものであり、山の手の大空襲やその他の空襲を含めて後期の東京空襲で約8000人が亡くなりました。規模の割に死者が少ないのは、逃げやすい地形であったこともありますが、3月10日の惨状を見て、人員疎開が進んだこと、消火をしないですぐ逃げるようになったことも影響しています。
 4月13~14日の城北大空襲について、アメリカ軍は王子区の陸軍兵器工場をねらったとしていますが、実際はそれより南の豊島区、滝野川区、荒川区などの住宅地が焼かれました。328機のB29が2038トンの焼夷弾と82トンの爆弾を投下しました。被害は、罹災家屋約17万戸、罹災者約64万人で、死者は警視庁の調べでは2450人、東京都の調べでは1661人になります。
 4月15日の大空襲では蒲田区などの東京南部から川崎にかけての工場地帯と住宅地が空襲されました。東京には、109機のB29が754トンの焼夷弾と15トンの爆弾を投下しました。蒲田区はほとんど全域が焼かれました。この日の東京の被害は、罹災家屋約5万戸、罹災者約21万人で、死者は警視庁の調べでは841人、東京都の調べでは903人になりました。
 5月24日の大空襲では、4月15日の空襲地域の北側の荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などの住宅地が空襲されました。この日の空襲では、520機のB29が3646トンの焼夷弾を投下しており、来襲したB29の機数、焼夷弾の投下トン数とも最大です。被害は罹災家屋約64万戸、罹災者約22万人で、死者は警視庁の調べでは762人、東京都の調べでは530人でした。
 5月25~26日の大空襲では、24日の空襲地域の北側の、政府機関、金融・商業の中枢機関が集中する都心地域と、都心から杉並区にかけての西部住宅地が空襲されました。宮城(現・皇居)内の宮殿も焼失しました。この地域の空襲では、高層のコンクリートの建物もあるため、油脂焼夷弾だけではなく、貫通力の強い焼夷弾も使われました。464機のB29が3258トンの焼夷弾と4トンの爆弾を投下しました。被害は、罹災家屋約16万戸、罹災者約56万人で、死者は警視庁の調べでは3242人、東京都の調べでは3352人です。
 4月1~2、4日、6月10日、8月8、10日など、4月以降8月まで航空機工場などの軍需工場や飛行場に対する爆撃が続き、周辺の住宅地も被害を受けました。5月29日には、昼間の横浜大空襲の余波で、東京の南部でも被害が出ています。原爆の模擬爆弾が、7月20日には東京駅八重洲口近くの堀に、7月29日には多摩の保谷に、それぞれ投下され、被害が出ています。また、人の殺傷を狙った機銃掃射もなされました。

 三多摩地域・島嶼部の空襲

 東京の三多摩地域への空襲は40回ぐらいです。武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所や立川市などの航空機関係の工場や飛行場に対する爆撃が、1944年11月から1945年8月まで続きました。8月2日に八王子の市街地が焼き払われ、8月5日には中央線列車への機銃掃射により大きな被害を受けています。40回の空襲のうち30日間に、約1500人の民間人の死者が出ています。
 伊豆諸島・小笠原では、32回の空襲があり、民間人48人が死亡しています。

 
空襲後

 3月10日以降の空襲では、膨大な数の死者が出て、無数の死体の山ができました。「戦場掃除」と呼ばれる前線での死体処理と同じような乱暴な扱いで、遺体が片付けられました。通常の埋葬ができないので、公園や寺院の境内などに穴を掘って遺体を埋める仮埋葬がなされました。その数は3月~5月にかけての大空襲で、約9万4800人であり、そのうち約8000人のみは名前がわかり個別に埋葬されましたが、それ以外は合葬されました。仮埋葬された遺体は3~5年後に掘り返されて、火葬されました。遺骨は東京都慰霊堂に安置されました。その後も、遺族などに引き取られる遺骨は少なく、今でも、約8万人の遺骨が残されています。別に焼け跡で現場火葬も行われました。
 戦争中は、戦時災害保護法などにより、民間人の傷害者等の被災者と死者の遺族にも救助・給付などの援護措置がなされました。東京都独自の見舞金も支給されました。しかし、戦後、軍人・軍属とともに民間人への特別の措置が廃止されました。講和後、日本人の軍人・軍属への援護や恩給は復活しましたが、民間人や朝鮮人・台湾人への援護は復活されないままです。ただし、日本人の、勤労動員学徒、女子挺身隊員、徴用工、被爆した国民義勇隊員、地上戦の戦闘参加者、防空監視員、警防団員などは準軍属に位置づけられ、最初は、軍人・軍属と格差はありましたが、今は同じような援護を受けています。

【東京大空襲は無差別ではない選別空襲だった】
 首都・東京への空襲は100回を超えている。昭和20年3月10日の「東京大空襲」を機に、米軍は一般市民をターゲットにした無差別爆撃に舵を切った。なぜ米軍は戦術を転換したのか-。欧州戦線などの爆撃で成果を上げ、新しく任命されたカーチス・ルメイ少将(後に空軍大将)は、それまでの軍需工場への精密爆撃をやめ、一般市民を多数巻き込む無差別都市爆撃を計画した。ルメイ氏は戦後、自著で無差別爆撃を「全ての日本国民は航空機や兵器の製造に携わっている」と正当化している。

 1944(昭和19)年11月から翌年8月の終戦までの東京への空襲の被災状況。一番被害が多く約10万人が亡くなった東京大空襲は3.10日深夜、陸軍記念日に日付が変わった途端に開始されている。この時、昭和天皇のいる皇居は攻撃されていない。他にも、海軍関連施設や武器製造所、特に当初、最大の精密爆撃攻撃の目標に挙げていた中島飛行機製造所などが外されている!。三菱財閥の六義園や旧岩崎庭園(東大病院の南東側)や古河財閥の旧古河邸も外されている。天皇一族の経営する日本赤十字病院や、有栖川宮公園の辺りにある皇族の赤ちゃんを産む愛育病院やスイス大使館、モルモン教東京神殿も外されている。精密爆撃していることが明白である。「兵器製造所」を地図上から特定していくと、現在の東京都北区滝野川にある「東京第一陸軍の武器製造所」が狙われておかしくないのに外されている!。江東区はほぼ全域が空爆を受けているにも関わらず帝国倉庫 、三菱倉庫、三井倉庫などがある軍需用の物流拠点の佐賀町だけは多くが焼失しないで残っていた。風向きが南向けに変わり周りの延焼がなかったから焼失しなかったと説明されているが疑問は残る。さらに詳細に調べると、そこら辺りは元は三菱倉庫(現在コカ・コーラ物流拠点)、日立物流センター、三井倉庫だったり、今は医薬品物流拠点のメディセオ(富士フィルムが製造している麻薬のアドレノクロムを販売しており、 731部隊が使った生物化学薬品の物流拠点?)や食料ビルディングやセメント発祥の地で渋沢栄一が支援した浅野セメントがあった! 荻窪のゼロ戦エンジンなどを製造していた中島飛行機製作所も攻撃されずにその周辺が精密爆撃されている。中島飛行機製作所は米軍が設営しエンジン製作のノウハウも提供していた。米軍が空爆しなかった理由ではなかろうか。

【岡山大空襲】
 1945.6.29日、米軍のB29爆撃機138機が岡山市上空に来襲、午前2時40分過ぎから約1時間半にわたり、約9万5千発の焼夷弾を投下した。市街地の約6割が焼失。死者数は岡山市史では1737名。実際には2千名を超すとの指摘もある。米軍は、空襲の約1ヶ月前に高解像度カメラで市街地を上空から撮影し、正確に攻撃する為、目盛りを施した合成写真「リト・モザイク」を作成、全機に爆撃中心を狙うよう指示した上で、岡山市中山下付近を爆撃中心点にして半径1.2キロを焼き尽くすことを目的に攻撃した。







(私論.私見)